極東国際軍事裁判所判決文
C部 第九章 起訴状の訴因についての認定

〈説明〉

本資料は、極東国際軍事裁判所判決文におけるC部 第十章 判定を文字起ししたものである。原典は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている「Judgement, International Military Tribunal for the Far East, Part C Chapter 10, Verdicts」である。掲載するにあたり旧漢字を新漢字に直した他は原典を忠実に再現している。なお、見出しの後に記載されているページ数は、原典のページ数に対応している。


〈見出し〉

判定
荒木貞夫
土肥原賢二
橋本欣五郎
畑俊六
 戦争犯罪
平沼騏一郎
廣田弘毅
星野直樹
板垣征四郎
 戦争犯罪
賀屋興宣
木戸幸一
木村兵太郎
小磯国昭
 戦争犯罪
松井石根
南次郎
武藤章
 戦争犯罪
岡敬純
 戦争犯罪
大島浩
佐藤賢了
 戦争犯罪
嶋田繁太郎
 戦争犯罪
重光葵
 戦争犯罪
白鳥敏夫
鈴木貞一
東郷茂德
 戦争犯罪
東條英機
 戦争犯罪
梅津美治郎
 戦争犯罪


〈表紙〉

極東国際軍事裁判所
判決
C部
第十章

判定

英文一一四五―一二一一頁
一九四八年十一月一日

〈本文〉

C部
第十章
判定

  本裁判所は、これから、個々の件について、判定を下すことにする。
  裁判所条例第十七条は、判決にはその基礎となつている理由を附すべきことを要求している。これらの理由は、いま朗読を終つた事実の叙述と認定の記述との中に述べられている。その中で、本裁判所は、係争事項に関して、関係各被告の活動を詳細に検討した。従つて、本裁判所は、これから朗読する判定の中で、これらの判定の基礎となつている多数の個個の認定を繰返そうとするものではない。本裁判所は、各被告に関する認定については、その理由を一般的に説明することにする。これらの一般的な理由は、すでに挙げた叙述の中における個々の記述と認定とに基いているものである。

荒木貞夫

  被告荒木貞夫は、訴因第一で、侵略戦争と国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争とを遂行する共同謀議について訴追されている。かれは、また、このような戦争の遂行について、訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、及び第三十六でも訴追されている。訴因第五十四と第五十五では、中国において犯された戦争犯罪の責任について訴追されている。すべての重要な期間において、かれは高級の陸軍将校であつた。一九二七年に中将、一九三三年に大将になつた。全期間を通じて、かれは陸軍の階級組織の下で、顕著な人物であつた。
  かれは、国内では政治的支配、国外では軍事的侵略という陸軍の政策の熱心な提唱者であつた。実際において、かれは陸軍のこの運動の顕著な指導者の一人であり、またそう認められていた。いろいろな内閣の閣僚として、日本の青年の好戦的精神を鼓舞したり、戦争に備えて日本の物的資源を動員したり、演説や新聞統制を通じて、日本の国民を戦争へと煽動し、準備したりすることによつて、侵略戦争の準備をする陸軍の政策を促進した。政治的な地位に就いているときも、就いていないときも、隣国を犠牲にして、日本を豊かにしようとする軍部派の政策の立案を助け、その強力な唱道者であつた。満州と熱河を中国から政治的に分離させ、日本の支配する政府を樹立し、その経済を日本の支配下に置こうとして、日本の陸軍が右の地域でとつた政策をかれは承認し、積極的に支持した。本裁判所は、かれが訴因第一に述べられている共同謀議の指導者の一人であつたと認定し、同訴因について、かれを有罪と判定する。
  荒木は、満州で中華民国に対する侵略戦争が開始された後、一九三一年十二月に、陸軍大臣に就任した。一九三四年一月まで、かれは引続き陸軍大臣であつた。その期間を通じて、満州と熱河でとられた軍事的と政治的の諸政策の進展と実行について、かれは顕著な役割を演じた。中国の領土のその部分を占領するために、相ついでとられた軍事的措置に対して、かれはできる限りの支持を与えた。一九三八年五月から一九三九年八月まで、荒木は文部大臣であり、その資格において、中国の他の部分における軍事作戦を承認し、それに協力した。中国における戦争は、一九三一年以後、侵略戦争であつたものとわれわれは認定した。そして、この被告はその戦争の遂行に参加したものと認定する。従つて、われわれは、訴因第二十七について、かれを有罪と判定する。
  訴因第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五及び第三十六に挙げられている戦争に、かれが積極的に参加したという証拠はない。われわれは、これらのすべての訴因について、かれを無罪と判定する。戦争犯罪については、かれにこのような犯罪に対して責任があるという証拠はない。従つて、われわれは、訴因第五十四と第五十五について、かれを無罪と判定する。

土肥原賢二

 被告土肥原賢二は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
ここで取扱つている期間の初めに、土肥原は日本陸軍の大佐であり、一九四一年四月には将官の階級に達していた。満州事変の前に、約十八年間中国にいたことがあり、陸軍部内で中国に関する專門家と見做されるようになつていた。かれは、満州で遂行された中国に対する侵略戦争の開始及び進展と、その後における、日本に支配された満洲国の建設とに、密接に関係していた。中国の他の地域でも、日本の軍部派の侵略政策がとられるにつれて、土肥原は、政治的の謀略と、武力による威嚇と、武力の行使とによつて、それを進展させることに顕著な役割を演じた。
 土肥原は、東アジアと東南アジアを日本の支配下に置こうとして、軍部派の他の指導者がその計画を立案、準備及び遂行するにあたつて、かれらと密接に連絡して行動した。
 中国についてのかれの特別な知識と、中国において謀略を行うかれの能力とがもう必要でなくなつたときに、現地の将官として用いられ、自分が参画していた共同謀議の目的の達成に当つた。かれは、中国に対してばかりでなく、ソビエツト連邦に対しても、また、一九四一年から一九四五年まで日本が侵略戦争を行つた諸国のうち、フランス共和国を除いて、その他の諸国に対しても、侵略戦争の遂行に参加した。一九三八年と一九三九年に、ソビエツト連邦に対して遂行された戦争については、土肥原は参謀本部付の中将であり、この参謀本部はハサン湖の戦闘について最高の指揮権をもつていたものであつた。ノモンハンでは、かれの指揮下にあつた陸軍の諸部隊が戦闘に参加した。
 フランス共和国に対する戦争の遂行(訴因第三十三)については、この戦争の遂行の決定は、一九四五年二月に、最高戦争指導会議によつて行われた。被告はこの決定に参加していなかつたのであり、かれがこの戦争の遂行に参加したことを証拠は立証していない。
 われわれは、訴因第一における侵略戦争遂行の共同謀議と、訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五及び第三十六で訴追されている侵略戦争の遂行とについて、かれを有罪と判定する。訴因第三十三については、かれは無罪である。
 土肥原は、一九四四年四月から一九四五年四月まで、第七方面軍の指揮官であつた。この指揮権には、マレー、スマトラ、ジヤワ及び一時はボルネオが含まれていた。かれの指揮する地区内の捕虜を、殺害と拷問から保護することに対するかれの責任の範囲については、証拠が矛盾している。少くともかれらに食物と医薬品を供給することについて、かれは責任があつた。これらの供給に関して、かれらがはなはだしく虐待されたということは、証拠によつて明かである。捕虜は食物を充分に与えられず、栄養不良と食餌の不足による病気とに基く死亡が驚くべき率で発生した。これらの状態は、捕虜にだけあてはまつたことであり、かれらを捕えた者の間には起らかつた。弁護のために、これらの地区における日本の戦局が悪くなり、交通が絶えたので、捕虜に対するいつそうよい補給を維持することができなくなつたということが主張された。証拠の示すところでは、食物と医薬品とは手に入れることができたのであり、それを捕虜の恐るべき状態を緩和するために用いることができたはずである。これらの補給は、土肥原がその責任を負うべき方針に基いて差止められた。これらの事実の認定に基いて、土肥原の犯罪は、訴因第五十五よりも、むしろ訴因第五十四に該当する。従つて、訴因第五十四について、かれを有罪と判定し、訴因第五十五については、われわれはなんらの判定も下さない。

橋本欣五郎

 橋本は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 かれは陸軍将校であつて、早くから共同謀議に参加した。それ以来、かれのできる限りの手段を尽して、その目的の達成を助長した。共同謀議者のうちで、かれぼど極端な見解をもつていた者はない。これらの見解を述べるにあたつて、かれほど露骨であつた者はない。初めには、かれは、武力で満州を占拠することによる日本の対外進出を唱えた。時がたつにつれて、共同謀議者の目的を達成するために、日本のすべての隣国に対する武力の使用を唱えた。
 かれは、軍の独裁制による政治の熱烈な称賛者であつた。かれは政党をひどくきらつていた。政党は日本の政治においてある程度の役割を演じ、共同謀議者が実行しようと決意していた征服の計画に反対していたのである。共同謀議者がついに日本における民主主義的分子の反対を弾圧し、政府の支配を■るに至つた諸活動において、かれは多くの場合に、首謀者の一人あつた。この支配がなければ、かれらの侵略的な計画は達成することができなかったであろう。このようにして、たとえば、かれは一九三一年の三月と十月の陰謀の首謀者の一人であつた。これらの陰謀は、そのときの内閣をくつがえし、それに代つて共同謀議者を支持する内閣をつくろうとしたものであつた。かれは一九三二年五月の陰謀にも参加した。その陰謀の目的と結果は、民主主義を擁護し、共同謀議者の政策に反対したところの、総理大臣犬養の暗殺であつた。かれの著作と、かれが創立または後援した団体の活動とが主として目標としたのは、民主主義を破壊することと、日本の対外進出の達成を目的として、戦争に訴えるのに、いつそう都合のよい政治体制を確立することとであつた。
  奉天事件の発生を計画し、それによつて、満州を占拠する口実を陸軍に与えるようにするについても、かれはある程度の役割を演じた。満州の占拠と日本の国際連盟脱退とについて、ある程度の力があつたと、かれはみずから主張した。
  共同謀議の初期の数年が過ぎてから、それを遂行する上において、かれが目立つていたのは、主として宣伝者としてであつた。かれは多作の政治評論家であつた。日本の隣国の領土を手に入れたいという日本国民の欲望を刺激したり、これらの領土を獲得するために、戦争を行うように、日本の世論を煽つたり、同じような対外進出計画に専念していたドイツ及びイタリアとの同盟を唱道したり、共同謀議の目的であつた領土拡大の計画を行わないことを、諸条約によつて日本が約束していたのに、その条約を非難したり、日本が武力によつて、または武力を用いるという威嚇によつて、これらの目的を達成するとができるように、日本の軍備の大拡張を要求する煽動を熱烈に支持したりすることによつて、かれは共同謀議の成功に貢献した。
 かれは共同謀議の成立について首謀者であり、その遂行に大いに貢献した。
  訴因第二十七については、かれは最初に武力による満州の占拠を画策した後、満州占拠の口実となるように、奉天事件を計画するについて、ある程度の役割を演じた。このように、中国に対する戦争が侵略戦争であることを充分に知つており、またこの戦争をもたらそうと共同謀議した者の一人であつたから、その成功をもたらすために、かれは自分の力でできる限りのことを行つた。しばらくの間、かれは実際に現地の軍隊の指揮官であつた。それによつて、訴因第二十七で訴追されている中国に対する侵略戦争をかれは遂行した。
  訴因第二十九、第三十一、第三十二、第五十四または第五十五で訴追されている犯罪のどれにも、橋本を直接に結びつける証拠はない。本裁判所は、これらの訴因については、かれを無罪と判定する。
 本裁判所は、訴因第一と第二十七について、橋本を有罪と判定する。

畑俊六

 畑は、訴因第一、業二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 一九三九年八月、阿部内閣が成立したときに、畑は陸軍大臣に就任し、一九四〇年七月に、米内内閣が瓦解するときまで、引続いてその職にあつた。閣僚の地位にあつたのは、一年足らずであつたが、侵略的諸計画の立案と実行に実質的な貢献をした。かれは陸軍大臣として、政府の政策に相当な影響を及ぼした。中国における戦争は、勢いを新たにして遂行され、汪精衛政府が南京に樹立され、仏印を支配する計画が進められ、オランダ領東インドに関する事項について、オランダとの交渉が行われた。
 畑は、東アジアと南方諸地域を日本が支配することに賛成した。この目的を達成するために、たとえば、政党を廃止し、これに代えて、大政翼賛会を設けることに賛成し、また他の高級の軍当局者と協力し、これらと協議した上で、米内内閣の瓦解を急に早め、それによつて、ドイツとの完全な同盟と、日本において事実上の全体主義国家を確立することとのために道を開いた。
 その後、一九四一年三月から、中国における派遣軍の総司令官として、一九四四年十一月まで、同国で引続き戦争を遂行した。
 かれは、日本陸軍部内における現役軍人の最高地位の一つであつた教育総監として、中国と西洋諸国に対して、引続き戦争を遂行した。
  ハサン湖の敵対行為が起つたときには、畑は華中にいた。ノモンハン事件のときには、侍従武官長であり、この事件が終る一週間と少し前に、陸軍大臣になつた。本裁判所は、このいずれの戦争の遂行にも、畑は参加しなかつたという意見である。

戦争犯罪

 一九三八年に、また一九四一年から一九四四年まで、畑が中国における派遣軍を指揮していたときに、かれの指揮下の軍隊によつて、残虐行為が大規模に、しかも長時間にわたつて行われた。畑は、これらのことを知つていながら、その発生を防止するために、なんらの措置もとらなかつたか、それとも、無関心であつて、捕虜と一般人を人道的に取扱う命令が守られているかどうかを知るために、なんらの方法も講じなかつたかである。どちらの場合にしても、訴因第五十五で訴追されているように、かれは自己の義務に違反したのである。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二及び第五十五について、畑を有罪と判定する。訴因第三十五、第三十六及び第五十四については、かれは無罪である。

平沼騏一郎

 平沼は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で起訴されている。かれが共同謀議の一員となつたのは、その当初においてでないとしても、その後間もなくであつた。かれは枢密顧問官であり、一九三六年から、一九三九年に総理大臣になるまで、枢密院議長であつた。その後、第二次と第三次の近衛内閣で、相ついで無任所大臣と内務大臣をつとめた。
 枢密顧問官であつた間、軍閥の侵略的計画を実施することに関連して、同院に提出された種々の方策をかれは支持した。総理大臣として、また大臣として、かれはこれらの計画を引続いて支持した。
 一九四一年十月十七日から一九四五年四月十九日まで、被告は重臣の一人であつた。西洋諸国と平和か戦争かという問題について、天皇に進言するために、一九四一年十一月二十九日に開かれた重臣会議で、被告は、戦争は避けられないという意見を容認し、長期戦の可能性に対して、世論を強化することを勧告した。
 一九四五年四月五日に開かれた重臣会議で、被告は、講和のためのどのような申入をすることにも強く反対し、日本は最後まで戦わなければならないと主張した。
 起訴状に挙げられた全期間において、平沼は、必要とあれば、武力によつても日本が東アジアと南方を支配するという政策の支持者であつたばかりではなく、共同謀議の指導者の一人であり、その政策を推進することについて、積極的な参加者であつた。この政策を実行するについて、かれは中国、アメリカ合衆国、イギリス連邦諸国、オランダ、及び一九三九年にはソビエツト連邦に対して戦争を遂行した。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二及び第三十六について、被告平沼を有罪と判定する。
  訴因第三十三、第三十五、第五十四及び第五十五で訴追されている犯罪に、かれを直接に結びつける証拠はない。従つて、われわれは、これらの訴因について、かれを無罪と判定する。

廣田弘毅

 廣田は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第五十四及び第五十五で起訴されている。
 廣田は、一九三三年から、一九三六年三月に総理大臣になるまで、外務大臣であつた。一九三七年二月に、かれの内閣が倒れてから四カ月の間、公職に就いていなかつた。一九三八年五月まで、第一次近衛内閣において、再び外務大臣であつた。それ以後は、かれと公務との関係は、ときどき重臣会議に出席し、総理大臣の任命とその他同会議に提出された重要な問題について勧告することに限られていた。
 一九三三年から一九三八年まで、廣田がこれらの高い職務に就いていたときに、満州で日本が獲得したものは、その基礎を固められ、日本のために利用されつつあつた。また、華北の政治経済生活は、中国の政治経済生活を日本が支配する準備として、華北を中国の他の地域から分離するために、『指導』されつつあつた。一九三六年に、かれの内閣は、東アジアと南方地域における進出の国策を立案し、採用した。広範な影響のあるこの政策は、ついには一九四一年の日本と西洋諸国との間の戦争をもたらすことになつた。やはり一九三六年に、ソビエツト連邦に関する日本の侵略的政策が繰返され、促進されて、その結果が防共協定となつた。
 中国における戦争が再び始められた一九三七年七月七日から、廣田の在任期間を通じて、中国における軍事作戦は、内閣の全面的支持を受けた。一九三八年の初めにも、中国に対する真の政策が明らかにされ、中国を征服して、中国国民政府を廃止し、その代りに、日本が支配する政府を樹立するために、あらゆる努力が払われた。
  一九三八年の初めに、人的資源、産業資源、潜在的資源及び天然資源を動員する計画と法令が可決された。この計画は、要点ではほとんど変更されないで、その後の数年間を通じて、中日戦争を継続し、さらにいつそうの侵略戦争を遂行する準備の基礎となつた。廣田はこれらの計画と活動をすべて充分に知つており、そしてこれを支持した。
  廣田は、非常に有能な人物であり、また強力な指導者であつたらしく、このように、在任期間を通じて、軍部といろいろの内閣とによつて採用され、実行された侵略的計画について、ある時には立案者であり、またある時には支持者であつた。
  弁護側は、最終弁論において、廣田のために、かれが平和と、紛争問題の平和的すなわち外交的交渉とを終始主張したことを裁判所が考慮するように要望した。廣田は外交官としての訓練に忠実であつて、紛争をまず外交機関を通じて解決するようにつとめることを終始主張したことは事実である。しかし、そうするにあたつて、日本の近隣諸国の犠牲において、すでに得られたか、得られると期待されるところの、利得または期待利得のどれをも、犠牲にすることを絶対に喜ばなかつたこと、もし外交交渉で日本の要求が満たされるに至らないときには、武力を行使することに終始賛成していたことは、十二分に明らかである。従つて、本裁判所は、この点について申立てられた弁護を、この被告に罪を免れさせるものとして、受理することはできない。
  従つて、本裁判所は、少くとも一九三三年から、廣田は侵略戦争を遂行する共通の計画または共同謀議に参加したと認定する。外務大臣として、かれは中国に対する戦争の遂行にも参加した。
  訴因第二十九、第三十一及び第三十二についていえば、重臣の一人として一九四一年における廣田の態度と進言は、かれが西洋諸国に対する敵対行為の開始に反対していたことと、よく首尾一貫している。かれは一九三八年以後は公職に就かず、これらの訴因で述べられている戦争の指導については、どのような役割も演じなかつた。提出された証拠は、これらの訴因について、かれの有罪を立証しないと本裁判所は認定する。
  訴因第三十三と第三十五については、ハサン湖における、または一九四五年の仏印における軍事作戦に、廣田が参加し、またはこれを支持したという証拠はない。
  戦争犯罪については、訴因五十四に主張されているような犯罪の遂行を、廣田が命令し、授権し、または許可したという証拠はない。
  訴因第五十五については、かれをそのような犯罪に結びつける唯一の証拠は、一九三七年十二月と一九三八年一月及び二月の南京における残虐行為に関するものである。かれは外務大臣として、日本軍の南京入城直後に、これらの残虐行為に関する報告を受け取つた。弁護側の証拠によれば、これらの報告は信用され、この問題は陸軍省に照会されたということである。陸軍省から、残虐行為を中止させるという保証が受取られた。この保証が与えられた後も、残虐行為の報告は、少くとも一カ月の間、引続いてはいつてきた。本裁判所の意見では、残虐行為をやめさせるために、直ちに措置を講ずることを閣議で主張せず、また同じ結果をもたらすために、かれがとることができた他のどのような措置もとらなかつたということで、廣田は自己の義務に怠慢であつた。何百という殺人、婦人に対する暴行、その他の残虐行為が、毎日行われていたのに、右の保証が実行されていなかつたことを知つていた。しかも、かれはその保証にたよるだけで満足していた。かれの不作為は、犯罪的な過失に達するのであつた。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七及び第五十五について、廣田を有罪と判定する。訴因第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五及び第五十四については、かれは無罪である。

星野直樹

 星野は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第五十四及び第五十五で訴追されている。
被告星野は、一九三二年に満州へ行くまで、日本の大蔵省に勤務していた。かれは満州国財政部と満州国総務庁の高級官吏になるために、日本の政府によつて満州へ派遣された。一九三六年までに、かれは満州国財政部次長と満州国国務院総務庁長になつていた。これらの地位において、かれは満州国の経済に深く勢力を及ぼすことができたし、満州国の商工業の発展を日本が支配するように、この勢力をに実際に用いた。かれは、満州国の事実上の支配者であつた関東軍司令官と、緊密に協力して活動した。名目上はともあれ、実際には、かれは、満州国の資源を日本の軍事上の目的に役立たせることを目標とする経済政策をとつていた関東軍の職員であつた。
名目上は満州国政府の官吏であり、八年間そうであつたが、一九四〇年に無任所大臣と企画院総裁になるために、日本へ呼びもどされた。この地位において、当時中国において遂行されつつあつた侵略戦争の継続と、東アジアに属地をもつ他の諸国を目標として当時企てられていた侵略戦争とに対して、日本の用意を整えるために、当時とられていた特別な借置について、かれは指導者であつた。
かれが内閣を去つた一九四一年四月から、戦争準備に関連するかれの公けの任務は減つたが、全然なくなつたわけでなかつた。
  被告東條が一九四一年十月に総理大臣として就任すると、星野は内閣書記官長になり、やがて企画院参与になつた。このときから、かれは、一九四一年十二月に日本が攻撃した諸国に対して、すでに決定され、今や間もなく遂行されることになつていた侵略戦争のためのすべての準備に、密接な関係があつた。
  一九三二年から一九四一年までの全期間を通じて、かれは起訴状の訴因第一に挙げられている共同謀議で活躍した一員であり、従つて、この訴因について、有罪と判定される。かれは侵略戦争遂行の共同謀議をしたばかりでなく、かれの次々に占めた公的地位において、訴因第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二に述べられている侵略戦争の遂行に直接参加した。これらの訴因全部についても、かれは有罪と判定される。
  かれは訴因第三十三と第三十五で訴追されている戦争に参加したということは立証されていないので、これらについては、無罪と判定される。
  かれを訴因第五十四と第五十五で訴追されている犯罪に結びつける証拠はないので、これらについても、かれは無罪と判定される。

板垣征四郎

 被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 一九三一年になると、当時大佐で関東軍参謀部にいた板垣は、日本が武力によつて満州を占拠するということを、その当時は直接の目的としていた共同謀議に参加していた。かれはこの目的を支持する煽動を行い、軍事行動の口実として、いわゆる『満州事変』を引き起すことに協力し、この軍事行動を防止しようとするいくつかの企てを抑圧し、この軍事行動を承認し、指導した。
 次に、虚偽の満州独立運動を助長し、その結果として傀儡満州国が樹立されるに至つた陰謀において、かれは主要な役割を演じた。
 かれは一九三四年十二月に関東軍参謀副長となり、それから後は、内蒙古と華北で傀儡政権を樹立することに活躍した。かれは、ソビエツト連邦の領土に対する脅威となるように、日本の軍事占領を外蒙古にまで拡大したいと思つていた。かれは、日本の華北侵略の口実とするために、『反共』という言葉をつくり出した者の一人であつた。
 一九三七年七月に、盧溝橋で戦闘が起つたときに、かれは日本から中国に派遣され、師団長として戦闘に参加した。かれは中国で侵略地域が拡がることに賛成した。
  一九三八年五月に、かれは近衛内閣の陸軍大臣となつた。かれのもとで、中国に対する攻撃は激しくなり、拡大した。中国の国民政府を打倒し、その代りに、傀儡政権を樹立しようと試みることを決定した重要な閣議にかれは参加した。ついで、汪精衛の傀儡政権の樹立をもたらした準備工作について、かれは大いに責任があつた。日本のために、中国の占領地域を開発する取極めにかれは参加した。
 平沼内閣の陸軍大臣として、かれは再び中国に対する戦争の遂行と日本の軍備拡張とについて責任があつた。閣内では、かれは日本、ドイツ、イタリア間の無制限軍事同盟の協力な主唱者であつた。
 陸軍大臣として、かれは、ハサン湖におけるソビエツト連邦に対する武力の行使について、策略によつて天皇の同意を得ようとした。その後、五相会議で、かれはこのような武力行使の承認を得た。ノモンハンにおける戦闘中も、かれはまだ陸軍大臣であつた。
 かれは、東アジアと南方における日本のいわゆる『新秩序』の声明の強力な支持者であつた。新秩序を建設しようとする企ては、これらの地域のそれぞれの属地を防衛しようとするソビエツト連邦、フランス及びイギリスとの戦争を引き起す結果となるに違いないということを、かれは認識していた。
 一九三九年九月から一九四一年七月まで、支那派遣軍の参謀長として、かれは中国に対する戦争を遂行した。
 一九四一年七月から一九四五年四月まで、かれは朝鮮軍の司令官であつた。
  一九四五年四月から降伏の日まで、かれはシンガポールに司令部のあつた第七方面軍を指揮した。かれの指揮する軍隊は、ジヤワ、スマトラ、マレー、アンダマン及びニコバル諸島、ボルネオを防衛した。
  かれは、中国、アメリカ合衆国、イギリス連邦、オランダ及びソビエツト連邦に対して侵略戦争を遂行する共同謀議を行い、これらの戦争が侵略戦争であることを知りながら、その遂行に積極的で重要な役割を演じた。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五及び第三十六について、板垣を有罪と判定する。訴因第三十三については、かれは無罪である。

戦争犯罪

 一九四五年四月から降伏まで、板垣が指揮していた地域は、ジヤワ、スマトラ、マレー、アンダマン及び二コバル諸島、ボルネオを包含していた。右の期間中、何千という捕虜と抑留者がこれらの地域の収容所に收容されていた。
 かれが提出した証言によれば、これらの収容所は、シンガポールにあるものを除いて、かれの直接の指揮下にはなかつたが、かれはこれらの収容所に食料、医薬品及び医療設備を供給する責任をもつていた。
 この期間中、これらの収容所における状態は、言葉で言えないほど悪かつた。食糧、医薬品及び医療設備の供給は、はなはだしく不充分であつた。栄養不足による病気がはびこり、その結果として、毎日多くの者が死亡した。降伏の日まで生き残つた者は、哀れな状態にあつた。降伏後に、收容所が視察されたときは監視員の間には、そのような状態は見られなかつた。
 捕虜と抑留者とのこの残虐な取扱いに対する板垣の弁解は、日本の船舶に対する連合国の攻撃によつて、これらの地域への補給物資の輸送がはなはだ困難になつたこと、手もとにあつた補給物資で、かれはできるだけのことをしたということである。しかし、降伏後には、食糧と医薬品の補給は、板垣の軍隊によつてシンガボール、ボルネオ、ジヤワ及びスマトラの収容所の使用に当てることができた。板垣のための証拠及び弁論として申立てられた説明では、日本側は長期戦を予想し、補給品を使わないで保存していたというのである。このことは、板垣が捕虜と抑留者をはなはだしく非人道的に取扱つたのは、当時の一般的な事情からすれば、正当な理由があつたと主張するに等しい。本裁判所は、躊躇なく、この弁護を却下する。板垣は、何千という捕虜と抑留者への補給について責任があつたのであるから、その補給が将来維持できないとわかつたならば、戦争法規に基くかれの義務としては、手もとにある補給品を分配し、その間に上官に対して、将来捕虜と抑留者を扶養するために、必要とあれば、連合国に連絡して、手配をしなければならないと通告することであつた。かれのとつた方針によつて、かれは、自分が適当に扶養すべき義務のあつた何千という人人の死亡または苦痛に対して責任がある。
  本裁判所は、訴因第五十四について、板垣を有罪と判定する。土肥原の場合と同じく、本裁判所は、訴因第五十五については、判定を行わない。

賀屋興宣

  被告賀屋は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  賀屋は文官であつた。
  一九三六年に、かれは対満事務局参与に任命され、一九三七年二月に、大蔵次官になつた。一九三七年六月に、第一次近衛内閣の大蔵大臣に任命され、一九三八年五月まで、この地位を占めていた。一九三八年七月に、大蔵省顧問になつた。一九三九年七月に、興亜委員会の委員に、またその年の八月に、北支那は開発会社の総裁に任命され、一九四一年十月に東條内閣の大蔵大臣になるまで、その地位に留まつていた。一九四四年二月に、大蔵大臣を辞職したが、再び大蔵省顧問になつた。
  これらの地位において、かれは、日本の侵略的な諸政策の樹立と、それらの政策の遂行のための日本の財政上、経済上、産業上の準備とに参加した。
  この期間を通じて、特に第一次近衛内閣と東條内閣との大蔵大臣として、また北支那開会社総裁として、かれは、中国における侵略戦争と西洋諸国に対する侵略戦争との準備と逐行とに積極的に従事した。かれは、訴因第一に主張されている共同謀議の積極的な一員であり、この訴因について、有罪と判定される。
  賀屋は、かれが占めたいろいろの地位において、起訴状の訴因第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二に主張されている侵略戦争の遂行に、主要な役割を果した。従つて、これらの訴因について、かれは有罪と判定される。
  戦争犯罪に対して、賀屋に責任があることを、証拠は示していない。従つて、訴因第五十四及び第五十五については、かれは無罪と判定される。

木戸幸一

 被告木戸幸一は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四、及び第五十五で訴追されている。
 一九三〇年から一九三六年まで、木戸は内大臣の秘書官長として、宮中の職員であつた。この期間中、かれは満州における軍事上と政治上の企ての真の性質を知つていた。しかし、このときには、軍部とその支持者によつて始められた共同謀議には、かれ関係がなかつた。
 一九三七年に、木戸は文部大臣として第一次近衛内閣に加わり、また一時厚生大臣であつた。一九三九年に、平沼が総理大臣になると、木戸は内務大臣に任命され、一九三九年八月まで、引続いて閣僚であつた。一九三七年から一九三九年までのこの期間に、木戸は共同謀議者の見解を採用し、かれらの政策のために、一意専心努力した。中国における戦争は、その第二の段階にはいつていた。木戸はこの戦争の遂行に熱意をもち、中国と妥協することによつて、戦争を早く終らせようとする参謀本部の努力に対して、反抗さえしたほどであつた。かれは中国の完全な軍事的と政治的の支配に懸命であつた。
 このようにして、木戸は、中国における共同謀議者の計画を支持したばかりではなく、文部大臣として、日本における強い好戦的精神の発展に力を尽くした。一九三九年八月から、一九四〇年六月に内大臣になるまで、木戸は近衛とともに、近衛を総裁とし、木戸を副総裁とする単一政党によつて、既成政党に代える計画を進めることに活動した。この一党制度は、日本に全体主義的な制度を与え、それによつて、共同謀議者の計画に対する政治的な抵抗を除くものと期待された。
  内大臣として木戸は、共同謀議を進めるのに、特に有利な地位にあつた。かれのおもな任務は、天皇に進言することであつた。かれは政治上の出来事に密接な接触を保つており、これに最も関係の深い人々と政治的にも個人的にも、親密な間柄にあつた。かれの地位は、非常に勢力のあるものであつた。かれはこの勢力を天皇に対して用いたばかりでなく、政治的策略によつて共同謀議の目的を促進するようにも用いた。中国及び全東アジアとともに、南方の諸地域の支配を含むところの、これらの目的にかれも共鳴していた。
  西洋諸国に対する戦争開始のときが近づくにつれて、完全な成功については、海軍部内で疑念が抱かれていたために、木戸はある程度の躊躇を示した。このように気おくれしている状態でも、木戸は中国に対する侵略戦争の遂行を決意していたし、もう確信が薄らいでいたにもかかわらず、イギリスとオランダに対して、また必要となれば、アメリカ合衆国に対して企てられていた戦争に、力を尽くした。海軍の疑念が除かれると、木戸の疑念も除かれたようである。かれは再び共同謀議の全目的の達成をはかり始めた。そのときまで、西洋諸国と直ちに戦争することをあくまで主張していた東條を、総理大臣の地位に就かせることに、かれは主として力あつた。その他の方法でも、かれはその地位を利用して、このよう戦争を支持し、またはそれを阻止するおそれのある行動を故意に避けた。最後のときにも、またもつと有効であつたはずの初期においても、かれは天皇に対して、戦争に反対の態度をとるように進言することをしなかつた。
 検察側は、訴因第三十三、第三十五と第三十六で述べられている戦争に対して、木戸の有罪を示す証拠を提出していない。
 戦争犯罪に関しては、南京において残虐行為が行われた際に、木戸は閣僚であつた。それを防止しなかつたことに対する責任をかれに負わせるには、証拠が充分でない。一九四一年の西洋諸国に対する戦争中とその後には、木戸の地位は、犯された残虐行為に対して、かれに責任があるとすることのできなようなものであつた。
 訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二における起訴事実について、木戸は有罪と判定され、訴因第三十三、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五については、無罪と反対される。

木村兵太郎

 木村は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で起訴されている。
 陸軍将校である木村は、審理の対象となつている期間の大部分を通じて、陸軍省で行政的な事務に携わつていたが、最後には、一九四一年四月に陸軍次官になつた。その後、企画院参与と総力戦研究所顧問に任命された。一九四三年三月に、陸軍次官の任を解かれ、一九四四年八月に、ビルマ方面軍司令官になり、一九四五年に日本が降伏するまで、この任にあった。
 陸軍次官として勤務していた間、かれはほとんど毎日陸軍大臣とその他の大臣、次官及び局長と接触して、合衆国との重大な交渉の間における政府の決定と措置のすべてを知る地位にあり、実際にいつも充分に知らされていた。太平洋戦争と中国における敵対行為との計画と準備とについて、かれは完全な知識をもつていた。全期間を通じて、かれは侵略的な計画に全幅の支持を与え、かれの広い経験に基いて時々進言を行つて、陸軍大臣及び他の省と提携し、協力した。
 指導者ではなかつたが、かれは、かれ自身によつて発意されたか、参謀本部または他の機関によつて提案され、かれによつて承認され、支持された政策の樹立と進展に参加した。このようにして、侵略戦争を遂行する共同謀議において、かれは重責な協力者または共犯者であつた。
  共同謀議者の一人としてのかれの活動と相伴つて、一九三九年と一九四〇年には師団長として、次には関東軍参謀長として、後には陸軍次官として、かれは中国における戦争と太平洋戦争との遂行に目立つた役割を果たした。太平洋戦争の不法性について、完全な知識をもつていながら、一九四四年八月に、かれはビルマ方面軍の司令官となり、降伏の時まで、引続いてその地位にあつた。
  かれは多くの場合に捕虜を作業に使用することを承認したが、その作業は、戦争法規によつて禁止されている作業と、何千という捕虜の最大の艱難と死亡をもたらした状態における作業とであつて、この点で、かれは戦争法規の違反に積極的な形で参加した一人である。後者の場合の一例は、泰緬鉄道の建設における捕虜の使用であつて、これに対する命令は、木村によつて承認され、伝達されたものである。
  されに、すべての戦争地域で、日本軍がどんな程度の残虐行為を行つたかを知つていながら、一九四四年八月に、木村はビルマ方面軍の指揮を引継いだ。かれがラングーンの司令部に到着した日から、後に司令部がモールメインに移されたときまで、残虐行為は少しも衰えることのない程度で、引続いて行われた。かれの指揮の下にある軍隊が残虐行為を行うのを防ぐために、かれは懲戒措置または他の手段を全然とらなかつた。
  木村の弁護として、かれがビルマに到着したときに、かれはその部隊に対して、正しい軍人らしい行動をとり、捕虜を虐待することを慎しむように命令したということが主張された。多くの場合に、かれの司令部から数マイル以内のところで、大規模に行われた捕虜虐待の性質と範囲にかんがみて、本裁判所は木村が戦争法規を実施すべきかれの義務に怠慢であつたと判定する。このような事情のもとにおける軍の司令官の義務は、たとい型通りの命令が実際出されたとしても、そのような命令を出すだけで果されるものではない。かれの義務は、その後戦争犯罪が行われるのを防ぐような措置をとり、そのような命令を発すること、その命令が実行されていることをみずから確かめることである。これをかれは怠つた。このようにして、戦争法規の違反を防ぐために、充分な措置をとるべき法律上の義務を、かれは故意に無視したのである。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五について、木村を有罪と判定する。

小磯国昭

 小磯は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 かれは一九三一年に共同謀議に参加した。それは、かれが三月事件に指導者の一人として参加したからである。この事件の目的上、浜口内閣を倒し、満州の占領に都合のよい内閣を就任させることであつた。その後、一九三二年八月に、関東軍参謀長に任命されてから、かれは日本の対外進出計画の進展に指導的な役割を演じた。
 一九三二年八月から一九三四年三月まで、関東軍参謀長として、日本政府によつて採用された共同謀議者の方針による満州国の政治的と経済的の組織のために陸軍省を通じて政府に提出された提案と計画をかれは作成し、またはこれに同意した。かれの弁護として、提案と計画を東京に送付するについては、単に参謀長としてそうしたのであつて、このような措置は、かれ一個人の同意を意味したものではないということが主張された。日本の侵略的計画をかれが知つていたことにかんがみて、本裁判所は、この抗弁を容認することができない。これらの計画を促進するために、政治的と経済的の事項について進言したことによつて、かれは一参謀長としての通常の職務の範囲を越えたのである。侵入と満州における新しい戦闘が起つた。
  その後、平沼内閣と米内内閣の拓務大臣として、小磯は、中国における戦争の指導と、仏印占領の開始と、オランダ領東インドから譲歩を得るための、ついにはこれを経済的に支配するための交渉とを支持し、これに参加した。
  同じ期間に、かれは日本が『すべての方向』に進出するという計画を唱道した。
  一九四四年七月に、小磯は朝鮮総督の任を解かれて、総理大臣になつた。この資格において、かれは西洋諸国に対する戦争の遂行を主張し、また指導した。日本が戦争に敗北したことが明らかになつた一九四五年四月に、かれは総理大臣を辞して、鈴木内閣成立の途を開いた。
  ノモンハンにおける戦闘を組織するとか、指導するとかによつて、かれがこの戦闘になんらかの役割を演じたという証拠はない。

戦争犯罪

 小磯が一九四四年に総理大臣になつたときには、各戦争地域で日本軍が犯しつつあつた残虐行為とその他の戦争犯罪はよく知れ渡つていたのであるから、これらの悪評が広まつていたことによつてか、各省間の通信からして、小磯のような地位にいた者が充分に知つていなかつたということは、ありそうもないことである。この事柄は、一九四四年十月に、小磯が出席した最高戦争指導会議の会合で、外務大臣取扱いは『大いに改善の余地がある』と報ぜられていると報告した事実によつて、疑いの余地のないものとなつている。外務大臣は、さらに、日本の国際的な評判と将来の国交という観点から、これは重要な事項であると述べた。かれは、これらの事項が充分に協議されるように、主管当局者に指令を発することを要求した。その後、小磯は、総理大臣として六カ月間在任したが、その間に、日本の捕虜と抑留者の取扱いには、なんらの改善も見られなかつた。これは、かれがその義務を故意に無視したことに相当する。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二及び第五十五について、小磯を有罪と判定する。訴因第三十六及び第五十四については、かれは無罪である。

松井石根

 被告松井は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 松井は日本陸軍の高級将校であり、一九三三年に大将の階級に進んだ。かれは陸軍において広い経験をもつており、そのうちには、関東軍と参謀本部における勤務が含まれていた。共同謀議を考え出して、それを実行した者と緊密に連絡していたことからして、共同謀議者の目的と政策について、知つていたはずであるとも考えられるが、裁判所に提出された証拠は、かれが共同謀議者であつたという認定を正当化するものではない。
 一九三七年と一九三八年の中国におけるかれの軍務は、それ自体としては、侵略戦争の遂行と見倣すことはできない。訴因第二十七について有罪と判定することを正当化するためには、検察側の義務として、松井がその戦争の犯罪的性質を知つていたという推論を正当化する証拠を提出しなければならなかつた。このことは行われなかった。
 一九三五年に、松井は退役したが、一九三七年に、上海派遣軍を指揮するために、現役に復帰した。ついで、上海派遣軍と第十軍とを含む中支那方面軍司令官に任命された。これらの軍隊を率いて、かれは一九三七年十二月十三日に南京市を攻略した。
 南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であつた。それに続いて起つたのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であつた。日本軍人によつて、大量の虐殺、個人に対する殺害、強姦、掠奪及び放火が行われた。残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によつて否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の初めまでやまなかつた。この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあつたときに、すなわち十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日の間滞在した。自分自身の観察と幕僚の報告とによつて、かれはどのようなことが起つていたかを知つていたはずである。憲兵隊と領事館員から、自分の軍隊の非行がある程度あつたと聞いたことをかれは認めている。南京における日本の外交代表者に対して、これらの残虐行為に関する日々の報告が提出され、かれらはこれを東京に報告した。本裁判所は、何が起つていたかを松井が知つていたという充分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかつたか、何かしたにしても、効果のあることは何もしなかつた。同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、行動を厳正にせよという命令を確かに出し、その後さらに同じ趣旨の命令を出した。現在わかつているように、またかれが知つていたはずであるように、これらの命令はなんの効果もなかつた。かれのために、当時かれは病気であつたということが申し立てられた。かれの病気は、かれの指揮下の作戦行動を指導できないというほどのものでもなく、またこれらの残虐行為が起つている間に、何日も同市を訪問できないというほどのものでもなかつた。これらの出来事に対して責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。これらの出来事をかれは知つていた。かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもつていたとともに、その権限をももつていた。この義務の履行を怠つたことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。
  本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六及び第五十四について無罪と判定する。

南次郎

 南は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 一九三一年には、南は陸軍大将であり、四月から十二月まで陸軍大臣であつた。すでに奉天事件以前に、軍国主義と、日本の対外進出と、満州を『日本の生命線』とすることを唱道する共同謀議者と、かれは関係をもつていた。事件が起りそうであるということを、かれは前もつて知らされていた。それを防止するように、かれは命令された。かれはそれを防止する充分な手段をとらなかつた。事件が起つたときに、かれは陸軍の行動を『正当な自衛』と称した。内閣は直ちに事件を拡大してはならないと決定し、南は内閣の政策を実行することに同意したが、作戦地域は日一日と拡大し、南は陸軍を抑制する充分な手段をとらなかつた。閣議で、かれは陸軍のとつた手段を支持した。日本が中国でとつた行動に、国際連盟が反対するならば、日本に連盟から脱退すべきだとかれは早くから唱えた。内閣は満州を占領したり、軍政をしいたりすべきではないと決定した。陸軍がこれらの措置を両方とも実行する手段をとりつつあることを南は知つていたが、それをやめさせるために、なにもしなかつた。陸軍を統制する手段をとつて、総理大臣と外務大臣を支持することをかれがしなかつたので、内閣は瓦解するに至つた。その後、日本は満州と蒙古の防衛を引受けるべきであるとかれは唱えた。満州に新しい国家が建設されなければならないと、かれはすでに唱えていた。
  一九三四年十二月から一九三六年三月まで、かれは関東軍司令官であり、満州の征服を完了し、日本のために中国のこの部分を開発利用することを助けた。軍事行動の威嚇のもとに、華北と内蒙古に傀儡政権を樹立することに対して、かれは責任があつた。
  ソビエツト連邦に対する攻撃の基地として、満州を開発したことについても、このような攻撃の計画についても、かれは一部分責任があつた。
  一九三六年に、かれは朝鮮総督となり、一九三八年には、かれが『聖戦』と呼んだ中国に対する戦争の遂行と、中国国民政府の打倒とを支持した。
  本裁判所は、訴因第一と第二十七について、南を有罪と判定する。訴因第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五に含まれている起訴事実については、かれは無罪である。

武藤章

 被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十六、第五十四及び第五十五で起訴されている。
 かれは軍人であつて、陸軍省軍務局長の重要な職に就くまでは、高等政策の立案に関係のある職務にはつていなかつた。その上に、軍務局長になる前の時期において、単独または他の者とともに、かれが高等政策の立案に影響を与えようと試みたという証拠はない。
 軍務局長になつたときに、かれは共同謀議に加わつた。この職とともに、一九三九年九月から一九四二年四月まで、かれはほかの多数の職を兼ねていた。この期間において、共同謀議者による侵略戦争の計画、準備及び遂行は、その絶頂に達した。これらの一切の活動において、かれは首謀者の役割を演じた。
 かれが軍務局長になつたときに、ノモンハンの戦闘は終つていた。この戦争の遂行には、かれは関係がなかつた。
 一九四五年三月に、日本が仏印でフランスを攻撃したときに、かれはフイリツピンにおける参謀長であつた。この戦争をすることには、かれは関係がなかつた。
 本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、武藤を有罪と判定する。訴因第三十三及び第三十六については、かれは無罪である。

戦争犯罪

 武藤は、一九三七年十一月から一九三八年七月まで、松井の参謀将校であつた。南京とその周辺で、驚くべき残虐行為が松井の軍隊によつて犯されたのは、この期間においてであつた。多くの週間にわたつて、これらの残虐行為が行われたことを、松井が知つていたと同じように、武藤も知つていたことについて、われわれはなんら疑問ももつていない。かれの上官は、これらの行為をやめさせる充分な手段をとらなかつた。われわれの意見では、武藤は、下僚の地位にいたので、それをやめさせる手段をとることができなかつたのである。この恐ろしい事件については、武藤は責任がない。
 一九四二年四月から一九四四年十月まで、武藤は北部スマトラで近衛第二師団を指揮した。この期間において、かれの軍隊が占領していた地域で、残虐行為が広く行われた。これについては、武藤は責任者の一人である。捕虜と一般人抑留者は食物を充分に与えられず放置され、拷問され、殺害され、一般住民は虐殺された。
 一九四四年十月に、フイリツピンにおいて、武藤は山下の参謀長になつた。降伏まで、かれはその職に就いていた。このときには、かれの地位は、いわゆる『南京暴虐事件』のときに、かれが占めていた地位とは、まつたく異なつていた。このときには、かれは方針を左右する地位にあつた。この参謀長の職に就いていた期間において、日本軍は連続的に虐殺、拷問、その他の残虐行為を一般住民に対して行つた。捕虜と一般人抑留者は、食物を充分に与えられず、拷問され、殺害された。戦争法規に対するこれらのはなはだしい違反について、武藤は責任者の一人である。われわれは、これらの出来事について、まつたく知らなかつたというかれの弁護を却下する。これはまつたく信じられないことである。本裁判所は、訴因第五十四と第五十五について、武藤を有罪と判定する。

岡敬純

 岡は、起訴状の訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 岡は日本海軍の将校であつた。一九四〇年十月に、海軍少将に進級し、海軍省軍務局長になつた。
 一九四〇年十月から一九四四年七月まで、軍務局長としての職にあつた間、岡は共同謀議の積極的な一員であつた。この職において、かれは、日本の政策の大部分を決定した連絡会議の有力な一員であつた。中国と西洋諸国に対する侵略戦争を遂行する政策の樹立と実行に、かれは参加した。

戦争犯罪

 岡のいた海軍省は、捕虜の福祉に関係していたので海軍の兵員が捕虜に対して戦争犯罪を犯しつつあつたことを、かれは知つていたか、知つているベきであつたということを示すような、いくらかの証拠はある。しかし、刑事事件において、有罪と判定することを正当化する証拠の標準には、それは達していない。
 本裁判所は、訴因第五十四と第五十五について、岡を無罪と判定し、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、有罪と判定する。

大島浩

 大島は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で起訴されている。
 大島は陸軍の将校であつたが、ここで取扱つている期間中、外交の分野で勤務していた。最初はベルリンの日本大使館附陸軍武官であり、後には大使の地位に進んだ。一九三九年から約一年間は、外交官としての地位をもたなかつたが、その後大使としてベルリンに帰り、日本の降伏まで、そこに留まつた。
  大島は、ヒツトラー政権の成功を信じていた者であつて、最初にベルリン在勤を命ぜられたときから、日本の軍部の計画を促進するために、全力を尽した。日本をドイツとの全面的軍事同盟に引き入れようとつとめて、ときには大使を差しおいて、フォン・リツペントロツプと直接に折衝した。大使に任命されると、西洋諸国に対抗して、日本をドイツ及びイタリア側に立たせ、こうして廣田政策を実行に移す途を開くところの条約を、むりやりに日本に受諾させようとする努力を続けた。軍部派の侵略政策を促進するために、いく度も、かれの外務大臣の政策に反対し、またこれを無視する政策をとつた。
 独・ソ中立条約は、一時かれの企てを阻止した。
 そこで、かれは東京に帰り、新聞や雑誌の論説によつて、またドイツの大使と緊密に協力することによつて、戦争を主唱する者を支援した。
 大島は主要な共同謀議者の一人であり、終始一貫して、おもな共同謀議の目的を支持し、助長した。中国における戦争または太平洋戦争の指導には、かれに参加しなかつたし、捕虜に関する任務または責任を伴うような地位には、一度も就いたことがなかつた。
 大島の特別な弁護は、かれのドイツにおける行動については、かれが外交官の特権によつて保護されており、訴追を免除されるというのである。 外交官の特催は、法律上の責任の免除を意味するものではなく、単に大使の駐在する国の裁判所による裁判の免除を意味するだけである。いずれにしても、この特権は、管轄権をもつ裁判所に対して、国際法に違反する犯罪として訴追されたものには、まつたく関係がない。本裁判所は、この特別な弁護を却下する。
 本裁判所は、訴因第一について、大島を有罪と判定する。訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五については、かれは無罪である。

佐藤賢了

 被告佐藤賢了は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 一九三七年に当時軍務局の局員であつた佐藤は、陸軍中佐の階級に昇進した。その年に、かれは企画庁の調査官に任命された。その後は、軍務局における任務に加えて、ほかの任務ももつていた。すなわち、一時事務官として勤務し企画庁ばかりでなく、中国における日本の戦争と他の諸国に対して日本が企画していた戦争とに、多かれ少かれ関係のある他の機関においても、任務をもつていたのである。
 近衛内閣は、一九三八年二月に総動員法を議会に提出した。佐藤は『説明員』として用いられ、この法案を支持する演説を議会で行つた。
 一九四一年二月に、佐藤は軍務局軍務課長に任命された。一九四一年十月に、陸軍少将に進級した。一九四二年四月に、日本陸軍において、はなはだ重要な地位である軍務局長になつた。一九四四年まで、かれはこの地位に留まつた。同時に、主として政府の他の省と関係をもつていたいろいろの職を兼ね、これらの省の業務と陸軍省の業務との連絡の任にあたつていた。
 このようにして、一九四一年になつて初めて、佐藤は、その地位自体からして、政策の樹立を左右し得るような地位に就いたのであつて、それ以前に、政策の立案に影響を与えようとする策謀にふけつたという証拠は提出されていない。決定的な問題は、そのときまでに、日本の企図が犯罪的であつたということをかれが知るようになつていたかどうかということである。なぜなら、その後は、自分のできる限り、かれはこれらの企図を進展と遂行を促進したからである。
  このことは、一九三八年八月に佐藤が行つた演説によつて、合理的な疑問の余地のないものとなつている。かれは中国における戦争について陸軍の見解を述べている。日本が中国に対する戦争の解決の基礎とする用意のあつた詳細な条件、しかも中国には決して示されなかつたものを、かれはよく知つていたことを現わしている。これらの条件が一見して明らかに含んでいたものは、中国の正当な政府を廃止すること、このころまでには、その資源の大部分が日本の利益になるように開発されていた満州国という傀儡国家を承認すること、日本の利益になるように中国経済を組織統制すること、これらの不法な利得が失われないことを保証するために、日本軍隊を中国に駐屯させることである。華北は完全に日本の支配下に置かれることになつており、その資源は国防のために、開発されることになつているとかれは述べている。日本はソビエツト連邦と戦争を行うであろうと予言したが、日本はその軍備と生産が拡充されたときに、時機を選ぶであろうといつている。
 弁護側では、中国における日本の行動は、中国における日本の正当な権益を確実に保護したいという希望に基いたものであるとわれわれに信じさせようとしているが、この演説によると、佐藤はそうは信じていなかつたことがわかる。それどころか、中国に対する日本の攻撃の動機は、隣国の富を手に收めることであるということを知つていた。われわれの意見では、そのように犯罪であることを知つていた佐藤は、一九四一年から後は、明らかに共同謀議の一員であつたのである。
 その後、政府における重要な職において、また軍の指揮官として、かれは訴因第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二で訴追されている侵略戦争を遂行した。

戦争犯罪

 日本の軍隊の行動に対する多くの抗議について、佐藤か知つていたことは、疑いがない。なぜなら、これらの抗議は、かれの局に送られ、陸軍省の局長の二週間ごとの会合で論議されたからである。これらの会合を主宰した者は東條であつて、かれこそ、これらの抗議に関して、措置をとるかとらないかを決定したのであり、かれの部下であつた佐藤は、自分の上官の決定に反対して、みずから進んで予防的措置をとることはできなかつた。
 本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、佐藤を有罪と判定する。訴因第五十四及び第五十五については、かれは無菲である。

嶋田繁太郎

 被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 一九四一年十月まで、嶋田は、自己の任務をそのままに遂行する海軍将校の役割を行つていたにすぎなかつたのであり、そのときまでに、共同謀議に参加していなかつた。
 一九四一年十月には、海軍大臣に選ばれる資格のある高級海軍将校であつた。東條内閣でかれは海軍大臣になり、一九四四年八月までその職にあつた。また、一九四四年二月から八月までの六カ月の間、海軍軍令部総長であつた。
 東條内閣の成立から、一九四一年十二月七日に日本が西洋諸国を攻撃するまで、この攻撃を計画し開始するについて、かれは共同謀議者によつてなされたすべての決定に参加した。この行動をとつた理由として、凍結令が日本の首を絞めつつあり、日本の戦闘能力を除々に弱めることになるものであつたこと、日本に対する経済的と軍事的の『包囲』があつたこと、アメリカ合衆国が交渉において非同情的で非妥協的であつたこと、連合国によつて中国に与えられた援助が日本で悪感情を引き起していたことをかれは挙げた。この弁護が勘定に入れていないことは、かれが戦いによつて持ち続けようと決意していた利得は、かれの知つていた通り、日本が多年の侵略戦争で手に入れた利得であつたという事実である。本裁判所は、この弁護をすでに充分に検討し、これを却下した。
 宣戦が布告された後、この戦争の遂行にあたつて、かれは主要な役割を演じた。
 本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、嶋田を有罪と判定する。

戦争犯罪

 最も恥ずべき捕虜の虐殺と殺害のうちには、日本海軍の人員によつて、太平洋諸島において、また雷撃された艦船の生存者に対して行われたものがある。直接に責任のあつた者には、将官もいたし、それ以下の階級にもわたつていた。
しかし、嶋田がこれらの事項に対して責任があるということ、かれが戦争犯罪の遂行を命令し、授権し、または許可したということ、または、これらの犯罪が行われていたことを知りながら、将来においてその遂行を防止するに充分な手段をとらなかつたということを認定するのが正当であるとするには、証拠が不充分である。
本裁判所は、訴因第五十四と第五十五について、嶋田を無罪と判定する。

重光葵

 被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 訴因第一については、かれが一九三一年と一九三二年に中国駐在公使であつたとき、対満事務局参与であつたとき、一九三六年から一九三八年までソビエツト連邦駐在大使であつたとき、一九三八年から一九四一年までイギリス駐在大使であつたとき、並びに一九四二年と一九四三年に中国駐在大使であつたときの、かれの行動が訴追されている。対満事務局参与として、政策の樹立に、かれがなにかの役割を演じたという証拠はない。そのほかについては、公使及び大使として、重光はこれらの官職の正当な任務を越えたことは一度もなかつたと、われわれは認定する。上に述べた年の間、かれは共同謀議者の一人ではなかつた。実際において、かれは、外務省に対して共同謀議者の政策に反対する進言をくり返し与えていたのである。
 かれが外務大臣になつた一九四三年までには、一定の侵略戦争を遂行するという共同謀議者の政策はすでに定つており、かつ実行されつつあつた。その後は、この政策がそれ以上に樹立されたことも、発展させられたこともなかつた。
本裁判所は、訴因第一について、重光を無罪と判定する。
  一九四三年に、日本は太平洋における戦争を行つていた。日本に関する限り、この戦争が侵略戦争であることを、かれは充分に知つていた。なぜなら、かれはこの戦争を引き起した共同謀議者の政策を知つており、実にしばしばこの政策を実行に移すべきではないと進言していたからである。それにもかかわらず、今や、一九四五年四月十三日に辞職するまで、かれはこの戦争の遂行の主要な役割を演じたのである。
  本裁判所は、訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二及び第三十三について、重光を有罪と判定する。訴因第三十五については、かれは無罪である。

戦争犯罪

 重光が外務大臣であつた一九四三年四月から一九四五年四月までの期間を通じて、利益保護国は日本の外務省に対して、連合国から受取つた抗議を次々に伝達した。これらは、責任ある国家機関によつて利益保護国に送られた重大な抗議であつて、多くの場合に、きわめて詳細な具体的事実が添えてあつた。抗議の内容となつている問題は、次の通りであつた。
 (一)捕虜の非人道的な取扱い、(二)利益保護国に対して、少数の例外を除いては、すべての捕虜収容所の観察を許可することを拒絶したこと、(三)利益保護国の代表者に対して、日本人立会人の臨席なしには、捕虜と面会するのを許可することを拒絶したこと、(四)捕虜の氏名と抑留地に関する情報の提供を怠つたこと。これらの抗議は、まず外務省で処理された。必要な場合には、他の省に送られ、外務大臣がこれに回答することのできるような資料が求められた。
  日本の外務省と利益保護国との間の長い期間にわたる往復文書を読んで、だれしも疑わないでおられないことは、日本の軍部がこれらの抗議に対する満足な回答を外務省に提供しなかつたのには、悪質の理由があつたのではないかということ、また少くとも、問題にされているような行動をした軍部ではなく、その他の機関によつて、独立の調査を行うべきであつたのではないかということである。抗議に次ぐ抗議は、未回答のままであつたか、遅延の理由を説明しないで、何カ月も遅れてようやく回答されたかであつた。利益保護国による次々の督促も、顧みられなかつた。回答された抗議は、例外なしに、苦情をいうべきことは何もないと否定された。
 ところで、責任のある人々によつて行われ、そのときの事情と具体的事実とを添えられた苦情が、ことごとく不当なものであるということは、ほとんどあり得ないことであつた。その上に、収容所の視察の許可を軍部が拒絶したこと、利益保護国の代表者に対して、日本人立会人の臨席なしには、捕虜と面会するのを許可することを軍部が拒絶したこと、自己の手中にある捕虜について、詳細な事項を知らせるのを怠つたことは、軍部が何か隠すべきことをもつていたという疑いを起させるものであつた。
 重光は、かれの承知していたこれらの事情からして、捕虜の取扱いが正当に行われていないという疑いを起したものとわれわれが認定しても、かれに対して不当なことにはならない。実際のところ、ある証人は、かれのために、この趣旨の証言をしたのである。ところが、閣僚として、捕虜の福祉について、かれは全般的な責任を負つていたにかかわらず、問題を調査させる充分な措置をとらなかつた。かれは責任が果されていないのではないかと疑つていたのであるから、この責任を解除されるために、問題を強く押し進め、必要ならば、辞職するというところまで行くべきであつた。
 重光が戦争犯罪または人道に対する罪の遂行を命令し、授権し、または許可したという証拠はない。裁判所は、訴因第五十四については、重光を無罪と判定する。
 裁判所は、訴因第五十五について、重光を有罪と判定する。
 刑の軽減として、われわれは次のことを考慮に入れる。重光は、共同謀議の成立には、少しも関係していなかつたこと、一九四三年四月に外務大臣になるまで、かれは侵略戦争を遂行しなかつたのであつて、この時期には、すでに日本がその将来に致命的な影響を及ぼす戦争に深く巻きこまれていたこと、戦争犯罪の問題については、かれが外務大臣であつたときには、軍部が完全に日本を支配していたので、軍部を非難するには、どのような日本人にとつても、大きな決意が必要であつたであろうということである。

白鳥敏夫

 被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二で起訴されている。
 一九一四年に、かれは日本の外交官になつた。かれが最初に名を現わしたのは、外務省の情報部長としてであつて、一九三○年十月から一九三三年六月まで、その職にあつた。この地位にあつて、かれは世界の報道機関に対して、日本の満州占領を弁護した。かれがそうするように命令されたことは疑いもないが、その当時でも、その後でも、被告の活動の特徴は、そのときの任務が何であるにせよ、かれはそれを果すだけでは満足しなかつたということである。こうして、早くから、かれは政策問題に関する意見を発表していた。その意見は、上層部で考慮を受けていた。かれは早くから日本は国際連盟から脱退すべきであると唱えた。かれは満州に傀儡政権を樹立することを支持した。共同謀議の目的に対するかれの支持は、この時期から始まつている。この支持は、長年にわたつて、またかれのできる限りの手段によつて、かれが引続いて与えたものである。
 一九三三年六月から一九三七年四月まで、かれはスエーデン駐在公使であつた。かれの手紙のあるものは、この当時のかれの見解を示している。かれの意見によれば、ロシアの勢力は、必要ならば武力によつて、またロシアが強くなつて攻撃ができなくなる前に、極東から駆逐しなければならないというのであつた。さらに、日本の利益に害があると思われるような外国の勢力は、中国から除かねばならぬということ、日本の外交官は、軍国主義者の政策を支持すべきであるということがかれの意見であつた。かれはみずから侵略戦争を衷心から可とする者であることを示した。
 日本に帰つて、かれは日本が全体主義的政府をつくるべきこと、日本、ドイツ及びイタリアは対外進出政策をとるべきことを唱える論説を発表した。
 日本、ドイツ及びイタリア間の同盟の交渉が開始されてから、一九三八年九月に、かれはローマ駐在大使に任命された。この交渉において、右の諸国間の一般的軍事同盟を固執した共同謀議者を支持して、かれは当時ベルリン駐在大使であつた被告大島と協力した。いつそう制限された条約だけを希望した外務大臣の訓令に従うことを、かれは拒絶することまでした。かれと大島は、共同謀議者の希望が容れられなければ、辞職すると威嚇した。
  日本があまり長く時間を延ばして、ドイツがソビエツト連邦と不可侵条約を結んだときに、日本の世論は一般にこれを防共協定の違反と見做したために、この交渉は行きつまつた。白鳥に日本に帰つて、宣伝を行つた。その宣伝の意図は、ドイツの行動の申訳を行い、ドイツ及びイタリアとの一般的軍事同盟をもたらす準備をすることであり、この同盟をかれは依然として日本の対外進主義的な目標を支えるために必要であると考えていた。かれはいろいろな機会に、その宣伝で、共同謀議者の目的のすべてを唱道した。すなわち、日本は中国を攻撃すべきこと、日本はロシアを攻撃すべきこと、日本はドイツ及びイタリアと同盟すべきこと、日本は西洋諸国に対して断固たる行動をとるべきこと、日本は『新秩序』を建設すべきこと、日本はヨーロツパ戦争によつて与えられた南方進出の機会をとらえるべきこと、日本はシンガポールを攻掌すべきこと、その他である。この宣伝は、かれが外務省の顧問であつた一九四〇年八月から一九四一年七月まで続けられた。
  一九四一年四月に、かれは病気になり、その年の七月に、外務省顧問の職を辞した。その後は、いろいろの出来事で重要な役割を演じなかつた。本裁判は、訴因第一について白鳥を有罪と判定する。
  かれが侵略戦争を遂行したと認定することを正当化するような地位を、かれは占めたことがない。本裁判所は、訴因第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、白鳥を無罪と判定する。

鈴木貞一

 鈴木貞一は、起訴状の訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 鈴木は軍人であつた。一九三二年に、陸軍中佐及び陸軍軍務局の職員として、かれは共同謀議の積極的な一員であつた。一九三二年五月における総理大臣犬養の暗殺の後、かれは、新しい内閣が政党の指導のもとに組織されたならば、同じような暴力行為が起るであろうといい、連立内閣を組織することに賛成した。かれの目的は、中国に対する共同謀議者の企てを支持すると思われる内閣を立てることであつた。
軍務局に勤務中、ソビエツト連邦が日本の絶対の敵であると主張し、この国に対して侵略戦争を遂行するために当時行わいていた準備に協力した。
 ハサン湖におけるソビエツト連邦に対する戦争の遂行に、鈴木が参加したという証拠はなく、ノモンハンにおけるソビエツト連邦または蒙古人民共和国に対する戦争の遂行に、かれが参加したという証拠もない。
 一九三七年十一月に、鈴木は陸軍少将になつた。かれは興亜院の組織者の一人であり、その政治及び行政部門の長であつた。この地位で、かれは日本によつて占領された中国の諸地域の開発利用を積極的に促進した。
 軍部による日本の支配を完全にし、南方への進出を実行するために、第二次近衛内閣が組織されたときに、鈴木は無任所大臣になり、総力戦研究所の参与の一人になつた。星野の代りに、鈴木を近衛は企画院の総裁とした。一九四四年七月十九日に東條内閣が瓦解するまで、鈴木はこの地位に留まつた。
 企画院総裁及び無任所大臣として、鈴木は、実際上日本の政策をつくり出す機関であつた連絡会議に常例的に出席した。連合国に対する侵略戦争の開始と遂行を引き起した重要な会議の大部分に、鈴木は出席した。これらの会議で、かれは積極的に共同謀議を支持した。
被告が残虐行為の犯行に責任があつたという証拠はない。
 われわれは、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二で訴追されているように、鈴木を有罪と判定し、訴因第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五については、無罪と判定する。

東郷茂德

 被告東郷は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十六、第五十四及び第五十五で起訴されている。
 東郷に対して訴追されている犯罪とかれとのおもな関係は、一九四一年十月から、一九四二年九月にかれが辞職するまで、東條内閣の外務大臣として、その後再び、一九四五年の鈴木内閣の外務大臣としてである。かれが辞職してから再び任命されるまでの中間には、かれは公生活になんらの役割を演じなかつた。
 かれの第一回の任命の日から、太平洋戦争の勃発まで、かれはその戦争の計画と準備に参加した。かれは閣議や会議に出席し、採用された一切の決定に同意した。
 外務大臣として、戦争勃発直前の合衆国との交渉において、かれは指導的な役割を演じ、戦争を主張した者の計画に力を尽した。この交渉で用いられた欺瞞については、すでに論じた。
 太平洋戦争の勃発後、その指導について、また中国における戦争の遂行について、かれは他の閣僚と協力した。
 日本は包囲され、経済的に首を絞められていたという、被告のすべてに共通な弁護については、すでに他の箇所で論じたが、それに加えて、東郷が特に主張したことは、合衆国との交渉を成立させるためにあらゆる努力を払うであろうという保証のもとに、東條内閣に加わつたということである。さらに、就任した日から陸軍に反対し、かれが交渉を継続するに必要な譲歩を陸軍からかち得たとかれは述べている。しかし、交渉が失敗に終り、戦争が避けられなくなつたときに、かれは反対して辞職しようとはせず、むしろ、そのまま職に留まつて、その戦争を支持した。それ以外のことをすることは卑怯であつたとかれはいつた。しかし、かれのその後の行動は、この抗弁をまつたく無効にするものである。一九四二年九月に、占領諸国の取扱いについて起つた閣内の紛争のために、かれは辞職した。われわれは、かれの行動と誠意とを判断するにあたつて、一つの場合についても、他の場合についても、同じ考慮に従うつもりである。
  訴因第三十六で主張されている犯罪的行為のどれかが東郷にあつたという証拠はない。この訴因に関係のあるかれの唯一の役割は、満州と外蒙古との国境を確定したところの、ソビエツト連邦と日本との戦後協定を調印したことであつた。

戦争犯罪

 一九四二年に辞職するまで、東郷は戦争法規が遵守されることにつとめたように見える。かれは自分のところにきた抗議を調査のために回付し、数個の場合には、改善の措置がとられた。かれが辞職したときには、日本軍によつて犯された残虐行為は、かれがそれを知つていたという推論を許すほどに、知れ渡つてはいなかつた。
 一九四五年の春、かれが再び外務大臣になつたときは、抗議が山積していたが、かれはそれを関係当局に回付した。本裁判所の意見では、戦争犯罪に関して、東郷が義務を怠つたということついて、充分な証拠はない。
本裁判所は、第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、東郷を有罪と判定する。訴因三十六、第五十四及び第五十五については、かれは無罪である。

東條英機

 被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 東條は一九三七年六月に関東軍参謀長となり、それ以降は、共同謀議者の活動のほとんどすべてにおいて、首謀者の一人として、かれらと結託していた。
 かれはソビエツト連邦に対する攻撃を計画し、準備した。ソビエツト連邦に対して企てられた攻撃において、日本陸軍をその背後の不安から解放するために、中国に対してさらに攻撃を加えることをかれは勧めた。この攻撃のための基地として、満州を組織することをかれは助けた。それ以後、どの時期においても、もし好機が訪れたならば、そのような攻撃を開始するという意図を、かれは一度も捨てたことがなかつた。
 一九三八年五月に、かれは陸軍次官になるために、現地から呼びもどされた。この職務のほかに、かれは多数の任務をもち、これによつて、戦争に対する日本の国民と経済の動員の、ほとんどすべての部面において、重要な役割を演じた。このときに、かれは中国との妥協による和平の提案に反対した。
 一九四〇年七月に、かれに陸軍大臣になつた。それ以後におけるかれの経歴の大部分は、日本の近隣諸国に対する侵略戦争を計画し、遂行するために、共同謀議者が相次いでとつた手段の歴史である。というのは、これらの計画を立てたり、これらの戦争を行つたりするにあたつて、かれは首謀者の一人だつたからである。かれは巧みに、断固として、ねばり強く、共同謀議の目的を唱道し、促進した。
 一九四一年十月に、かれは総理大臣になり、一九四四年七月まで、その職に就いていた。
 陸軍大臣及び総理大臣として、中国国民政府を征服L、日本のために中国の資源を開発し、中国に対する戦争の成果を日本に確保するために、中国に日本軍を駐屯させるという政策を、終始一貫して支持した。
  一九四一年十二月七日の攻撃に先だつ交渉において、かれが断固としてとつた態度は、中国に対する侵略の成果を日本に保持させ、日本による東アジアと南方地域の支配を確立するのに役立つような条件を、日本は確保しなければならないというのであつた。かれの大きな勢力は、ことごとくこの政策の支持に注ぎこまれた。この政策を支持するために、戦争を行うという決定を成立させるにあたつて、かれが演じた指導的役割の重要さは、どのように大きく評価しても、大き過ぎるということはない。日本の近隣諸国に対する犯罪的攻撃に対して、かれは主要な責任を負つている。
 この裁判において、かれはこれらの攻撃が正当な自衛の措置であつたと主張し、厚かましくそのすべてを弁護した。この抗弁については、わわわれはすでに充分に論じつくした。それはまつたく根拠のないものである。
 訴因第三十六については、訴因第三十六で訴追されている一九三九年の戦争に対して、東條に責任を負わせるような公職を、かれが占めていたという証拠はない。
 本裁判所は、訴因一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二及び第三十三について、東條を有罪と判定し、訴因第三十六について、無罪と反対する。

戦争犯罪

 東條は、戦争地域内における捕虜及び一般人抑留者の保護と、かれらに対する宿舍、食物、医薬品及び医療設備の提供とを担当していた陸軍省の最高首脳者であつた。また、日本国内における一般人抑留者に対して、同じような義務を担当していた内務省の最高首脳者であつた。さらに何よりも、捕虜及び一般人抑留者の保護に対して、継続的責任を負つていた政府の最高首脳者であつた。
 捕虜及び抑留者の野蛮な取扱いは、東條によくわかつていた。かれは、違反者を処罰し、将来同じような犯罪が犯されるのを防止する充分な手段をとらなかつた。バターン死の行進に対するかれの態度は、これらの捕虜に対するかれの行為を明らかにするかぎを与えるものである。一九四二年には、かれはこの行進の状態についていくらか知つており、これらの状態の結果として、多数の捕虜が死亡したことを知つていた。この事件について、かれは報告を求めなかつた。一九四三年に、フイリツピンにいたとき、かれはこの行進について形式的な調査をしたが、なんの措置もとらなかつた。處罰された者は一人もなかつた。かれの説明では、現地の日本軍の指揮官は、与えられた任務の遂行について、東京から一々具体的な命令を受ける必要はないというのである。このようにして、日本政府の最高首脳者は、日本政府に課せられていたところの、戦争法規の遵守を励行するという義務の履行を意識的に故意に拒んだのである。
 もう一つの著しい例を挙げるならば、戦略目的のために企てられた泰緬鉄道の敷設に捕虜を使用すべきであるとかれは勧告した。捕虜に宿舎と食物を与えるために、またに、この苦しい気候の中で病気になつた者を手当するたに、かれは適当を手配をしなかつた。かれはこの工事に使われている捕虜の悪い状態を知つて、調査のために将校を送った。この鉄道の沿線の多くの収容所において、その調査官が発見したに違いない恐るべき状態をわれわれは知つている。この調査の結果としてとられた唯一の措置は、捕虜の虐待に対して、一中隊長を裁判することだけであつた。状態を改善するためには、何もなされなかつた。栄養不足による病気と飢餓によつて、この工事が終わるまで、捕虜は引続いて死んでいつた。
 捕虜収容所における栄養不良とその他の原因による高い死亡率に関する統計は、東條の主催する会議で討議された。東條内閣が倒れた一九四四年における捕虜の恐るべき状態と、食糧及び医薬品の欠乏のため死亡した捕虜の膨大な数とは、東條が捕虜の保護のために適当な措置をとらなかつたことに対して、決定的な証拠である。
 われわれは、中国人捕虜に対する日本陸軍の態度について、すでに述べた。日本政府は、この『事変』を戦争とは認めていなかつたから、戦争法規はこの戦いには適用されないこと、捕えられた中国人は、捕虜の身分と権利を与えられる資格がないと主張された。東條はこの恐るべき態度を知つており、しかもそれに反対しなかつた。
 働かざる捕虜は食うべからずという指令について、かれは責任がある。病人や負傷者がむりやりに働かされたり、その結果として、苦痛と死亡を生じたりするようになつたのは、大部分において、東條がこの指令の実行をくり返し主張したためであるということを、われわれはすこしも疑わない。
 捕虜の虐待が外国に知られるのを防ぐためにとられた措置については、われわれはすでに充分に述べた。これらの措置に対して、東條は責任がある。
 本裁判所は、訴因第五十四について、東條を有罪と判定する。われわれは、訴因第五十五については、いかなる判定も下さない。

梅津美治郎

 被告梅津は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
 梅津は陸軍の将校であつた。一九三四年から一九三六年まで、かれが華北における日本軍の指揮をとつていた間、中国の北部諸省に対して日本の侵略を続け、親日地方政権を立てまた武力を用いるという威嚇のもとに、一九三五年六月の何應欽=梅津協定を結ぶよように中国側を強制した。これはしばらくの間中国の正当政府の権力に制限を加えるものであつた。
 一九三六年三月から一九三八年五月まで、梅津は陸軍次官であつた。この期間に、一九三六年の国策の諸計画と一九三七年の重要産業についての計画が決定された。これらは陸軍の計画であり、太平洋戦争の主要な原因の一つであつた。
 一九三七年一月に、新しい内閣を組織せよという天皇の命令が陸軍大将宇垣に与えられたときに、陸軍が宇垣を広田の後継者として承諾するのを拒絶したことについて、梅津は重要な役割を演じた。この反対のために、宇垣は内閣を組織することができなかつた。
 一九三七年七月に、蘆溝橋において、中国における戦闘が再び起つたときに、この被告は、戦争を続けるという共同謀議者の計画を知つており、またそれを是認した。梅津は、内閣企画庁の一員であるとともに、共同謀議者の侵略的な計画の立案と、これらの計画の実行に必要な準備とに大いに寄与したところの、その他の多数の部局や委員会の一員でもあつた。
 一九三七年十二月に、関東軍参謀長として東條は、梅津にあてて、ソビエツト連邦に対する攻撃の準備の諸計画を、またその後に、関東軍を増強する諸計画と内蒙古における施設についての諸計画を送つた。これらの計画は、ソビエツト連邦に対する戦争の準備についても、中国に対する戦争に関しても、欠くことのできない重要なものであると東條は述べていた。
 一九三九年から一九四四年まで、梅津が関東軍司令官であつた間、かれは引続いて満州の経済を日本の役に立つように指導した。その期間に、ソビエツトの領土の占領計画がつくられ、占領されることになつていたソビエツト地域の軍政に関する計画も立てられ、さらに、南方の占領地域における軍政を研究するために将校が同地域に送られた。この研究の目的は、こうして手に入れた資料をソビエツト領土で利用するためであつた。
 被告が共同謀議の一員であつたという証拠は、圧倒的に有力である。
 訴因第三十六についていえば、ノモンハンにおける戦闘は、かれが関東軍の指揮をとる前に始まつていた。戦闘の終るわずか数日前に、かれは司令官になつた。
 一九四四年七月から降伏まで、梅津は参謀総長であつた。これによつて、かれは中国と西洋諸国に対する戦争の遂行に主要な役割を演じた。

戦争犯罪

 梅津が残虐行為の遂行に対して責任があつたということの、充分な証拠はない。
 本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、梅津を有罪と判定する。訴因第三十六、第五十四及び第五十五については、かれは無罪である。