極東国際軍事裁判所判決文
B部 第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為)
〈説明〉
本資料は、極東国際軍事裁判所判決文における第八章 通例の戦争犯罪を文字起ししたものである。原典は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている「極東国際軍事裁判所判決. 〔第1冊-第13冊〕 B部 第八章-九章(書誌ID 000000841479)」である。掲載するにあたり旧漢字を新漢字に直した他は原典を忠実に再現している。なお、小見出しの後に記載されているページ数は、原典のページ数に対応している。
〈本文〉
すべての証拠を慎重に検討し、考量した後、われわれは、提出された多量の口頭と書面による証拠を、このような判決の中で詳細に述べることは、実際的でないと認定する。残虐行為の規模と性質の完全な記述については、裁判記録を参照しなければならない。
本裁判所に提出された残虐行為及びその他の通例の戦争犯罪に関する証拠は、中国における戦争開始から一九四五年八月の日本の降伏まで、拷問、殺人、強姦及びその他の最も非人道的な野蛮な性質の残忍行為が、日本の陸海軍によつて思うままに行われたことを立証している。数カ月の期間にわたつて、本裁判所は証人から口頭や宣誓口供書による証言を聴いた。これらの証人は、すべての戦争地域で行われた残虐行為について詳細に証言した。それは非常に大きな規模で行われたが、すべての戦争地域でまつたく共通の方法が行われたから、結論はただ一つしかあり得ない。すなわち、残虐行為は、日本政府またはその個々の官吏及び軍隊の指導者によつて秘密に命令されたか、故意に許されたかということである。
残虐行為に対する責任の問題に関して、被告の情状と行為を論ずる前に、訴追されている事柄を検討することが必要である。この検討をするにあたつて、被告と論議されている出来事との間に関係があつたならば、場合によつて、われわれは便宜上この関係に言及することにする。他の場合には、そして一般的には、差支えない限り、責任問題に関連性のある事情は、後に取扱うことにする。
一九四一年十二月の太平洋戦争開始当時、日本政府が、戦時捕虜と一般人抑留者を取扱う制度と組織を設けたことは事実である。表面的には、この制度は適切なものと見受けられるかもしれない。しかし、非人道的行為を阻止することを目的とした慣習上と条約上の戦時法規は、初めから終りまで、甚だしく無視された。
捕虜を冷酷に射殺したり、斬首したり、溺死させたり、またその他の方法で殺したりしたこと、病人を混えた捕虜が、健康体の兵でさえ耐えられない状態のもとで、長距離の行軍を強いられ、落伍した者の多くが監視兵によつて射殺されたり、銃剣で刺されたりした死の行進、熱帯の暑気の中で日除けの設備のない強制労働、宿舎や医療品が全然なかつたために、多くの場合に数千の者が病死したこと、情報や自白を引出すために、または軽罪のために、殴打したり、あらゆる種類の拷問を加えたこと、逃亡の後に再び捕えられた捕虜と逃亡を企てた捕虜とを裁判しないで殺害したこと、捕虜となつた飛行士を裁判しないで殺害したこと、そして人肉までも食べたこと、これらのことは本裁判所で立証された残虐行為のうちの一部である。
残虐行為の程度と食糧及び医療品の不足の結果とは、ヨーロッパ戦場における捕虜の死亡数と、太平洋戦場における死亡数との比較によつて例証される。合衆国と連合王国の軍隊のうちで、二十三万五千四百七十三名がドイツ軍とイタリア軍によつて捕虜とされた。そのうちで、九千三百四十八人、すなわち四分が収容中に死亡した。太平洋戦場では、合衆国と連合王国だけから、十三万二千百三十四名が日本によつて捕虜とされ、そのうちで、三万五千七百五十六人、すなわち二割七分が収容中に死亡したのである。
戦争法規は中国における戦争の遂行には適用されないという主張 p.3
奉天事件の勃発から戦争の終りまで、日本の歴代内閣は、中国における敵対行為が戦争であるということを認めるのを拒んだ。かれらは執拗にこれを「事変」と呼んだ。それを口実として、戦争法規はこの敵対行為の遂行には適用されないと軍当局は主張した。
この戦争は膺懲戦であり、中国の人民が日本民族の優越性と指導的地位を認めること、日本と協力することを拒否したから、これを懲らしめるために戦われているものであると日本の軍首脳者は考えた。この戦争から起るすべての結果を甚だしく残酷で野蛮なものにして、中国の人民の抵抗の志を挫こうと、これらの軍指導者は意図したのである。
蒋介石大元帥に対する援助を遮断するために、南方の軍事行動が進んでいたとき、中支那派遣軍参謀長は、一九三九年七月二十四日に、陸軍大臣板垣に送つた情勢判断の中で、「陸軍航空部隊は奥地要地に攻撃を敢行し、敵軍及び民衆を震駭し、厭戦和平の機運を醞醸す。奥地進攻作戦の効果に期待するところのものは、直接敵軍隊又は軍事施設に与ふる物資的損害よりも、敵軍隊又一般民衆に対する精神的脅威なりとす。彼等が恐怖の余り遂に神経衰弱となり、狂乱的に反蒋和平運動を激発せしむるに至るべきを待望するものなり」と述べている。
政府と軍の代弁者は、同じように、戦争の目的は中国人にその行いの誤りを「猛省」させるにあるとときどき主張した。これは結局において日本の支配を受け入れることを意味したものである。
一九三八年二月に、広田は貴族院における演説で、「日本は武力に依つて中国側国民政府の誤つた思想を膺懲して行く外、一面に於ては、出来ることならば反省をさせたいと云うことに努力して参つたのであります」と述べた。「彼等は非常な頑強な排日思想を持つて日本に当つているから、是はどうしても膺懲せなければならぬと云う方針を決めました」とかれは同じ演説の中で述べた。
平沼は、一九三九年一月二十一日に議会における演説によつて、かれのいわゆる「国民精神の昂揚」を始めたが、その中で、「現下我国朝野を挙げて対処しつつあります支那事変に対しましては、曩に畏くも聖断を仰ぎ奉り、確固不動の方針が定められて居ります。現内閣に於きましても、固より此の方針を行つているのであります。支那側に於きましても此の帝国の大精神を諒解し、之に協力することを要望するものであります。飽くまでも之を理解することなきものに対しては、之を潰滅することあるのみであります」と述べた。
日本の軍隊によつて犯された残虐行為の性質と程度を論ずる前に、このような行為を取締ることになつていた制度をきわめて簡単に述べておきたい。
軍の方針を樹立する権限をもつていた者は、陸海軍両大臣、参謀総長、軍令部長、教育総監、元帥府及び軍事参議院であつて、陸海軍大臣は行政を担当し、教育総監は訓練を監督し、参謀総長と軍令部長は軍の作戦を指導した。元帥府と軍事参議院の両者は諮問機関であつた。陸軍は特権を与えられていた。その一つは、陸軍大臣の後継者を指名する独占的な権利である。陸軍はこの権能を行使することによつて、その昌道する政策を絶えず固守させることができた。
陸軍省では、政策の発案機関は軍務局であつた。この局は、参謀本部、陸軍省の他の局及び他の各省と協議した上、陸軍大臣の署名のもとに発せられた法規の形式で、日本軍部の方針を公表した。一般に戦争の指導に関して、特に一般人抑留者及び捕虜の待遇に関して方針を立て、これに関する規則を発したのは、この軍務局であつた。中国における戦争の間の捕虜の管理は、この局によつて行われた。一般人抑留者と捕虜の管理は、太平洋戦争の敵対行為が始まつて、特別な部がその任に当るために創設されるまで、同局によつて行われていた。被告三のうちの名が、この強力な軍務局に局長として在職した。それは小磯、武藤及び佐藤である。小磯は中国における戦争の初期、一九三〇年一月八日から一九三二年二月二十九日までの間在職した。武藤は太平洋戦争の開始の前から後にかけて在職した。かれは一九三九年九月三十日に同局の局長となり、一九四二年四月二十日まで在任したのである。佐藤は一九三八年七月十五日に任命されて、太平洋戦争の開始の前に軍務局に勤務し、武藤がスマトラの軍隊を指揮するために転任したときに、同局の局長となり、一九四二年四月二十日から一九四四年十二月十四日まで、局長として勤務していた。
海軍省で右の局に相当するのは、海軍軍務局であつた。海軍軍務局は、海軍のために法規を制定し、公布し、海上、占領した島及びその他の海軍の管轄下にあつた領土における海軍の戦争遂行の方針を規定し、その権内にはいつた捕虜と一般人抑留者を管理した。被告岡は、太平洋戦争の前とこの戦争中の一九四〇年十月十五日から一九四四年七月三十一日までの間、右の局の局長として勤務した。
陸軍省では、陸軍次官が省内の事務を統轄し、陸軍省のもとにあつた各局や他の機関を統合する責任をもつていた。陸軍次官は戦場における指揮官から報告や申出を受け、陸軍省の管理に属する事務について陸軍大臣に進言し、しばしば命令や指令を発した。被告のうちで、三名が太平洋戦争の前に陸軍次官として勤務した。小磯は一九三二年二月二十九日から一九三二年八月八日まで在職した。梅津は一九三六年三月二十三日から一九三八年五月三十日までの間、この地位を占めていた。東條は一九三八年五月三十日に陸軍次官となり、一九三八年十二月十日まで在職した。木村は太平洋戦争の前から後にかけて陸軍次官であつた。かれは一九四一年四月十日に任命され、一九四三年三月十一日まで在職したのである。
最後に、もちろんのことであるが、戦場における司令官は、その指揮下の軍隊が軍紀を維持し、戦争に関する法規と慣例を遵守することに対して、責任を負つていた。
国際連盟は一九三一年十二月十日の決議でリツトン委員会を設け、事実上の停戦を命じたが、この決議を受諾するにあたつて、ジユネーブの日本代表は、日本軍が満州で「匪賊」に対して必要な行動をとることを、この決議は妨げるものでないという了解のもとに、これを受諾すると言明した。決議に対するこの留保のもとに、満州の中国軍に対して、日本の軍部は敵対行為を続けたのである。日本と中国の間には戦争状態が存在しないこと、紛議は単なる「事変」であつて、これには戦争法規が適用されないこと、日本軍に抵抗していた中国軍隊は、合法的な戦闘員ではなくて、単なる匪賊であることを日本の軍部は主張した。満州における匪賊を根絶させるために、冷酷な作戦が始められた。
中国軍の主要部隊は、一九三一年の末に長城内に撤退したが、日本軍に対する抵抗は、広く分散した中国義勇軍の部隊によつて絶えず続けられた。関東軍の特務部は、一九三二年に義勇軍の小区分として編制されたところの、いわゆる中国の路軍の名を多数挙げていた。これらの義勇軍は、奉天、海城及び営口附近の地帯で活躍した。一九三二年八月に、奉天のすぐ近くで戦闘が起つた。この奉天の戦闘が最高潮にあつた一九三二年八月八日に、陸軍次官小磯が関東軍参謀長兼関東軍特務部長に任命された。かれは一九三四年五月五日までこの職にあつた。一九三二年九月十六日に、敗退中の中国義勇軍部隊を追撃していた日本軍は、撫順近在の平頂山、千金堡及李家溝に達した。これらの村落の住民は、義勇兵を、すなわち日本側のいわゆる「匪賊」をかくまつたととがめられた。日本軍は各村落で村民を溝渠に沿つて集合させ、強制的にひざまずかせ、それから非戦闘員であるこれらの男女子供を機関銃で射殺した。機関銃掃射から生きのびた者は、直ちに銃剣によつて刺殺された。この虐殺で非戦闘員二千七百人が命を失つた。日本の関東軍は、その匪賊絶滅計画によつて、これを正当なものであると主張した。それから間もなく、小磯は陸軍次官に対して「満州国指導要綱」を送り、その中で、「日支両国間の民族闘争は亦之を予期せざるべからず。之が為其の止むなきに方りては武力の発動固より之を辞せず」と述べた。中国軍に実際に援助を与えたり、または与えたと想像されると、その報復として、右の趣旨で、都市や村落の住民を虐殺する慣行、すなわち、日本側のいわゆる「膺懲」する慣行が用いられた。この慣行は、中日戦争を通じて続けられた。その最も悪どい例は、一九三七年十二月における南京の住民の虐殺である。
日本政府が中日戦争を公式には「事変」と名づけ、満州における中国兵を「匪賊」と見做したから、戦闘で捕虜となつたものに、捕虜としての資格と権利を与えることを陸軍は拒否した。中国における戦争を依然として「事変」と呼ぶこと、それを理由として、戦争法規をこの紛争に適用することを依然として拒否することは、一九三八年に正式に決定されたと武藤はいつている。東條もわれわれに同じことを申し立てた。
捕えられた中国人の多数は拷問され、虐殺され、日本軍のために働く労働隊に編入され、または日本によつて中国の征服地域に樹立された傀儡政府のために働く軍隊に編成された。これらの軍隊に勤めることを拒んだ捕虜のある者は、日本の軍需産業の労働力不足を緩和するために、日本に送られた。本州の西北海岸にある秋田の収容所では、このようにして輸送された中国人の一団九百八十一名のうち、四百十八名が飢餓、拷問または注意の不行届のために死亡した。
国際連盟と九国条約調印国のブラッセルにおける会議とは、ともに、一九三七年に蘆溝橋で敵対行為が起つてから、中国に対して日本の行つていたこの「膺懲」戦を阻止することができなかつた。中日戦争を「事変」として取扱う日本のこの方針は、そのまま変らずに続けられた。大本営が設置された後でさえも、中国における敵対行為の遂行に戦争法規を励行するために、いかなる努力も払われなかつた。その大本営は、一九三七年十一月十九日に開かれた閣議で陸軍大臣がいい出したように、宣戦布告を必要とするほどの規模の「事変」の場合に、初めてこれを設置することが適当であると考えられていたものである。政府と陸海軍は完全な戦時態勢を整えていたが、中日戦争は依然として「事変」として取扱われ、従つて戦争の法規は無視された。
一九三七年十二月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。中国軍は、この市を防衛するために、約五万の兵を残して撤退した。一九三七年十二月十二日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至つて、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので、一九三七年十二月十三日の朝、日本軍が市にはいつたときには、抵抗は一切なくなつていた。日本兵は市内に群がつてさまざまな虐殺行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒し汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであつた。目撃者達によつて、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかつたこと、戦いに勝つた日本軍は、その獲物に飛びかかつて、際限のない暴行を犯したことが語られた。兵隊は個々に、または二、三人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人、強姦、掠奪、放火を行つた。そこには、なんの規律もなかつた。多くの兵隊は酔つていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、遂には所によつて大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであつた。他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。これらの無差別の殺人によつて、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少なくとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。
多くの強姦事件があつた。犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しでも反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまつた。幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あつた。多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の最初の一カ月の間に、約二万の強姦事件が市内に発生した。
日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪つた。兵が道路で武器をもたない一般人を呼び止め、体を調べ、価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資はトラツクで運び去られた。日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあつた。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一画一画と相ついで焼き払われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払つた。このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従つているように思われ、六週間も続いた。こうして、全市の約三分の一が破壊された。
男子の一般人に対する組織立つた大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによつて行われた。中国の一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によつて、そこで集団ごとに殺害された。兵役年齢にあつた中国人男子二万人は、こうして死んだことがわかつている。
ドイツ政府は、その代表者から、「個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行為」について報告を受けた。この報告の後の方で、「日本軍」のことを「畜生のような集団」と形容している。
城外の人々は、城内のものよりややましであつた。南京から二百中国里(約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあつた。住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。南京から避難していた一般人のうちで、五万七千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遭つて、遂には多数の者が死亡した。生残つた者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。
中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によつて、かれらは集団的に射殺された。
このようにして、右のような捕虜三万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかつた。
後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であつたことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によつて証明されている。これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によつて死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。
日本の大使館員は、陸軍の先頭部隊とともに、南京へ入城した。十二月十四日に、一大使館員は、「陸軍は南京を手痛く攻撃する決心をなし居れるが、大使館員は其の行動を緩和せしめんとしつつあり」と南京国際安全地帯委員会に通告した。大使館員はまた委員に対して、同市を占領した当時、市内の秩序を維持するために、陸軍の指揮官によつて配置された憲兵の数は、十七名にすぎなかつたことを知らせた。軍当局への抗議が少しも効果のないことがわかつたときに、これらの大使館員は、外国の宣教師たちに対して、宣教師たちの方で日本内地に実情を知れわたらせるように試み、それによつて、日本政府が世論によつて陸軍を抑制しないわけには行かなくなるようにしてはどうかといつた。
ベーツ博士の証言によると、同市の陥落後、二週間半から三週間にわたつて恐怖はきわめて激しく、六週間から七週間にわたつては深刻であつた。
国際安全地帯委員会幹事スマイス氏は、最初の六週間は毎日二通の抗議を提出した。
松井は十二月十七日まで後方地区にいたが、この日に入城式を行い、十二月十八日に戦没者の慰霊祭を催し、その後に声明を発し、その中で次のように述べた。「自分は戦争に禍せられた幾百万の江浙地方無辜の民衆の損害に対し、一層の同情の念に堪へぬ。今や旭旗南京城内に翻り、皇道江南の地に輝き、東亜復興の曙光将に来らんとす。この際特に支那四億万蒼生に対し反省を期待するものである」と。松井は約一週間市内に滞在した。
当時大佐であつた武藤は、一九三七年十一月十日に、松井の幕僚に加わり、南京進撃の期間中松井とともにおり、この市の入城式と占領に参加した。南京の陥落後、後方地区の司令部にあつたときに、南京で行われている残虐行為を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかつた。松井が南京にいたとき、十二月十九日に市の商業区域は燃え上つていたという証拠が、一人の目撃者によつて、本法廷に提出された。この証人は、その日に、主要商業街だけで、十四件の火事を目撃した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかつた。
南京における外交団の人々、新聞記者及び日本大使館員は、南京とその附近で行われていた残虐行為の詳細を報告した。中国へ派遣された日本の無任所公使伊藤述史は、一九三七年九月から一九三八年二月まで上海にいた。日本軍の行為について、かれは南京の日本大使館、外交団の人々及び新聞記者から報告を受け、日本の外務大臣広田に、その報告の大要を送つた。南京で犯されていた残虐行為に関して情報を提供するところの、これらの報告やその他の多くの報告は、中国にいた日本の外交官から送られ、広田はそれらを陸軍省に送つた。その陸軍省では梅津が次官であつた。これらは連絡会議で討議された。その会議には、総理大臣、陸海軍大臣、外務大臣広田、大蔵大臣賀屋、参謀総長及び軍令部総長が出席するのが通例であつた。
残虐行為についての新聞報道は各地にひろまつた。当時朝鮮総督して勤務していた南は、このような報道を新聞紙上で読んだことを認めている。このような不利な報道や、全世界の諸国で巻き起された世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約八十名を召還したが、かれらを処罰する措置は何もとらなかつた。一九三八年三月五日に日本に帰つてから、松井は内閣参議に任命され、一九四〇年四月二十九日に、日本政府から中日戦争における「功労」によつて叙勲された。松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が残虐行為を犯したためでなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隠退したいと思つたからであると述べている。かれは遂に処罰されなかつた。
日本陸軍の野蛮な振舞いは、頑強に守られた陣地が遂に陥落したので、一時手に負えなくなつた軍隊の行為であるとして免責することはできない。強姦、放火及び殺人は、南京が攻略されてから少なくとも六週間、そして松井と武藤が入城してから少くとも四週間にわたつて、引続き大規模に行われたのである。
一九三八年二月五日に、新任の守備隊司令官天谷少将は、南京の日本大使館で外国の外交団に対して、南京における日本人の残虐について報告を諸外国に送つていた外国人の態度をとがめ、またこれらの外国人が中国人に反日感情を扇動していると非難する声明を行つた。この天谷の声明は、中国の人民に対して何物にも拘束されない膺懲戦を行うという日本の方針に敵意をもつていたところの、中国在住の外国人に対する日本軍部の態度を反映したものである。
一九三七年十一月十二日に上海が陥落し、松井が南京への前進を始めたときに、蒋介石大元帥のもとにあつた国民政府は、その首都を放棄して重慶に移り、中間司令部を漢口に設置して抵抗を続けた。一九三七年十二月十三日に南京を攻略した後に、日本政府は北平に傀儡政府を樹立した。
この占領地区の住民を「宣撫」し、かれらを「皇軍に頼らしむべく」、また中国国民政府を「反省」させようという計画は、上海と南京で採用され、南京で松井によつて布告されたものであるが、それは規定方針を示すものであつた。一九三七年十二月に、京漢線の邢台県に駐在した日本の一准尉の指揮する憲兵隊は、中国遊撃隊の容疑者として、七名の一般人を逮捕し、三日の間これを拷問し、また食物を与えず、それから樹木に縛りつけ、銃剣で刺殺した。この軍隊からの兵たちは、これより前の一九三七年十月に河北省の東王家村落に現われ、殺人、強姦及び放火を行い、住民二十四名を殺害し、同村の家屋の約三分の二を焼き払つた。王家坨という同省のもう一つの村落も、一九三八年一月に、日本軍の一部隊におそわれ、一般人である住民四十名以上が殺された。
上海周辺地区の住民の多くは、南京とその他の華北の地方の者と同様な憂目を見た。上海で戦闘が終つた後に、上海郊外の農家の焼跡で、農民とその家族たちの死体がうしろ手に縛られて、背に銃剣の傷跡のあるのを発見した目撃者がある。松井の部隊は、南京への進軍中に、村落をあとからあとからと占領して、住民の者を掠奪し、かれらを殺害し、恐怖させた。蘇州は一九三七年十一月に占領され、進撃中の軍隊から逃げなかつた多数の住民が殺された。
畑の部隊は、一九三八年十月二十五日に漢口に入り、この市を占領した。翌朝捕虜の大量虐殺が行われた。日本兵は税関埠頭に数百名の捕虜を集めた。それから、一度に、三、四名づつを小さい組にして選び出し、河の深いところに突き出ている桟橋の末端まで行進させ、そこで河の中に突き落し、さらに射殺した。漢口前面の江上に碇泊していたアメリカの砲艦から目撃されていることを知つたときに、日本人はそれをやめ、違つた方法をとつた。かれらはいままで通り少数の組にして選び出し、小艇に乗せて岸からずつと離れた方へ連れて行き、そこでかれらを水中に投げこみ、そして射殺した。
中国の海南島の博文市で虐殺事件が起つたのは、第三次近衛内閣のときであつた。一九四一年八月の討伐作戦中に、日本海軍の一部隊が抵抗を受けずに博文を通過した。その翌日、部隊の分遣隊が博文に引返したときに、死後数日間経過したと思われる日本海軍の一水兵の死体を発見した。その分遣隊は、この水兵が博文の住民によつて殺害されたものと想像して、住民の家屋と町の教会を焼き払つた。かれらはフランス人宣教師と土民二十四人を殺し、その死体を焼き払つた。この事件は重要である。なぜなら、この虐殺の報道は広く知れわたつたので、閣僚やその下僚は、日本の軍隊いつも用いていた交戦の方法について知つたはずだからである。海南島における日本占領軍の参謀長は、陸軍次官木村にあてて、一九四一年十月十四日、この事件の詳細な報告をした。木村は、参考のために、直ちにその報告を陸軍省の関係各局に回覧し、それからこれを外務省に送つた。これは陸軍の内外で広く回覧された。
日本陸軍の戦争遂行の残忍な方法が依然として続けられたという一例は、満州国にあつた梅津の軍隊の一分遣隊の行為に現われている。それは皇帝溥儀のもとにある傀儡政権に対するあらゆる抵抗を鎮圧するための作戦中のことであつた。一九四一年の八月のある夜に、この分遣隊は熱河省の西土地を襲つた。かれらは同村を占領し、三百以上の家の家族を殺し、全村を焼き払つた。
広東と漢口の占領のずつと後でさえも、作戦をさらに奥地に進めている間に、日本側は同方面で大規模な残虐行為を犯した。一九四一年の末ごろに、日本軍は広東省恵陽に入城した。かれらはほしいままに中国の一般人の虐殺にふけり、老若男女の差別なく、銃剣で突き殺した。銃剣で腹部に傷を受けながら生きのびた一人の目撃者は、日本軍が六百余名の中国人を殺戮したことについて証言した。一九四四年七月に、日本軍は広東省の台山県に到着した。かれらは放火、強姦、殺戮、その他の数々の残虐行為を犯した。その結果として、五百五十九軒の店が焼かれ、七百名以上の中国の一般人が殺された。
漢口から南方へ長沙に向つて、日本軍は戦闘を進めて行つた。一九四一年九月に第六師団の日本軍隊は、中国人捕虜二百余人を強制的に使つて、かれらに大量の米、麦、その他の物資を掠奪させた。日本軍は反転するときに、これらの犯罪を蔽い隠すために、かれらを砲撃によつて虐殺した。日本軍は長沙を占領した後に、同地方の到るところで、殺人、強姦、放火及びその他数々の残虐行為をほしいままに行つた。それから、広西省の桂林と柳州へむけて、さらに南下した。桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。一九四五年七月に、桂林から撤退する前に、日本軍隊は放火班を編成し、桂林の全商業区域の建築物に放火した。
漢口の占領の後、中国から帰つた日本の兵隊たちは、中国における陸軍の非行の話を語り、かれらが奪つてきた掠奪品を自慢して見せた。日本に帰つた兵隊のとつたこの行為は、甚だ一般的なものとなつたとみえて、板垣のもとにあつた陸軍省は、国内と外国における芳しくない批判を避けることに努め、帰還将兵には、日本に到着したときに守るべき妥当な行動について訓示を与えるように、現地の指揮官に特別な命令を発した。これらの特別命令は陸軍省兵務局兵務課でつくられ、「極秘」とされ、一九三九年二月に、板垣のもとにある陸軍次官によつて発せられた。これらの命令は、参謀次長によつて、中国における日本の陸軍諸指揮官に通達された。これらの秘密命令は、是正すべき帰還兵の好ましくない行動を詳しく述べていた。兵隊たちが中国の兵士や一般人に対して行つた残虐行為の話をするので困ると述べてあつた。一般人に話されたこれらの話のあるものは、次のようなものだと引用されていた。「或る中隊長は非公式に次のような強姦に関する訓示を与えた。「余り問題が起らぬように金をやるか、用を済ました後は分らぬ様に殺して置く様にしろ」」。「戦争に参加した軍人を一々調べたら皆殺人、強盗、強姦の犯人許りだろう」。「戦闘間一番嬉しいものは掠奪で、上官も第一線では見ても知らぬ振をするから思ふ存分掠奪するものもあつた」。「〇〇で親子四人を捕え、娘は女郎同様に弄んでいたが、親が余り娘を返せと言ふので、親は殺し、残る娘は部隊出発まで相変らず弄んで出発間際に殺して了つた」。「約半歳に亘る戦闘中に覚えたのは強姦と強盗位のものだ」。「戦地に於ける我軍の掠奪は想像以上である」。「支那軍の捕虜は一列に整列せしめ、機関銃の性能試験のため、全部射殺しあり」。帰還兵によつて日本に持ち帰られた掠奪品については、兵隊に掠奪品を日本に輸送することを許すところの、部隊長の印のある許可証を、ある指揮官が部下の間に配布したということが認められた。これらの命令には、次のように述べてあつた。「帰還将兵の不穏当なる言辞は、流言飛語の因となるのみならず、皇軍に対する国民の信頼を傷け、或は銃後団結に間隙を生ぜしむる、等。愈々其の指導取締を的確厳正ならしめ、一は以て赫々たる武勲に有終の美を済さしめ、一は以て皇軍威武の昂揚、聖戦目的の貫徹に遺憾なきを期せられ度重ねて依命通牒す」。
日本の指導者は、日本の諸都市に対して航空戦が行われる可能性をおそれた。一九二九年のジユネーヴの俘虜の取扱に関する條約の批准に反対するにあたつて、日本の軍部によつて挙げられた理由の一つは、次の通りであつた。この條約の批准によつて、搭乗員はその使命を完了してから、日本領土上に着陸することができ、かつ捕虜として取扱われるであろうということを知つていて安心できるので、日本を空襲する敵の飛行機の航続距離が、二倍になるであろうということであつた。
日本が空襲されるであろうという恐怖は、一九四二年四月十八日にドウーリツトル大佐の指揮するアメリカの飛行機が、東京とその他の日本の都市を爆撃したときに現実となつた。これが日本が空爆を受けた最初であり、東條の言葉によれば、日本人にとつて一つの「衝動」であつた。日本の参謀総長杉山は、日本を爆撃したすべての飛行士に対して、死刑を要求した。この空襲以前には、死刑を科することのできる日本政府の法律または規則が存在していなかつたけれども、ドウーリツトル飛行士に死刑を科することができるように、空襲の当時まで遡つて効力をもつ規則を発布するように、総理大臣東條は命令した。将来の空襲を阻止する手段として、東條はこの処置をとつたことを後に認めた。
一九四二年八月十三日附のこれらの規則は、日本、満州国または日本の作戦区域を「空襲し、支那派遣軍の権内に入りたる敵航空機搭乗員」に適用された。このようにして、これらの規則は直接的に、かつ遡及的に、中国においてすでに日本側の手中にあつた合衆国の航空機搭乗員を目標としたのであつた。
犯罪となる空襲は、次のようなものであつた。
(一)普通人民に対するもの。
(二)軍事的性質を有しない私有財産に対するもの。
(三)軍事的目標以外に対するもの。
(四)「戦時国際法の違反。」
規定された刑罰は、死刑または十年もしくはそれ以上の禁錮であつた。
右の犯罪の一、二及び三に定められた行為は、日本人自身が中国で普通に行つていたようなものであつた。一九三九年七月に、中支那派遣軍参謀長は、陸軍大臣板垣に対して、中国人を恐怖させるために、無差別爆撃の方針を採用していると報告したことが思い出されるであろう。第四の戦時国際法の違反は、このような規則を必要とするものではなかつた。その違背は、どんな場合でも、罰することができた。しかし、もちろん、それは妥当な裁判を行つた後のことであり、国際法によつて許された刑罰の範囲内でのことであつた。
中国に不時着したドウーリツトル飛行隊のうちの二機の搭乗員は、畑の指揮する日本の占領軍によつて、捕虜にされた。その搭乗員であつた八人の飛行士は、普通の犯罪者として取扱われ、手錠をはめられ、また縛られた。一機の搭乗員は、上海に連れて行かれ、他の一機の搭乗員は、南京に連れて行かれ、それぞれその場所で拷問にかけられながら訊問された。一九四二年四月二十五日に、これらの搭乗員は東京に連れて行かれ、東京の憲兵隊本部の中にはいるまで目隠しされ、手錠をはめられたままであつた。それから、かれらは独房に入れられた。そして、そこから連れ出されて、十八日の間、再び拷問にかけられながら訊問された。この期間の終りには、飛行士たちはそれ以上の拷問を避けるために、自分ではその内容のわからない日本語で書かれた陳述書に署名した。
飛行士たちは一九四二年六月十七日に上海に帰されたが、そこで投獄され、食物を与えられず、またほかの方法で虐待された。一九四二年七月二十八日に、陸軍次官木村は、当時中国における全日本軍の最高指揮官であつた畑に対して、東條の命令を伝達した。東條の命令は、飛行士たちを新しい規則に基いて罰しなければならないという趣旨のものであつた。参謀総長の命令に従つて、畑はこれらの飛行士を裁判に付することを命じた。この「裁判」では、飛行士の一部は健康を害したために審理に参加することができず、訴追事項は翻訳されず、かれらは自分自身を弁護する機会を与えられなかつた。裁判は単なる真似事にすぎなかつた。この裁判は一九四二年八月二十日に行われ、飛行士のすべては死刑の宣告を受けた。東京における再審において、また東條の勧告に基いて、宣告のうちの五つは終身禁錮に減じられ、残りの三つの死刑宣告は承認された。一九四二年十月十日に畑は刑の執行を命じ、かれの処置を参謀総長に報告した。死刑の宣告は命令通り実行された。
このようにして、日本側の手に入つた連合国飛行士を殺害する方針が始められた。これは日本内地ばかりでなく、太平洋戦争のそれ以後を通じて、占領地域でも行われた。普通のやり方は、捕虜飛行士を殺す前に食物を与えず、また拷問することであつた。形ばかりの裁判でさえも、しばしば省かれた。かれらが殺される前に軍法会議が行われた場合でも、その軍法会議は、単なる形式であつたようである。
一つの例証として、一九四五年七月十八日に、大阪において、この規則に違反したものとして訴追された二名のアメリカのB29の飛行士の事件を、われわれは挙げておく。裁判に先だつて、かれらの事件は一将校よつて調査された。この将校は、この任務を遂行するために任命されたものである。かれは死刑を勘告した。この勧告は、中部軍管区司令官と当時広島の第二総軍司令官であつた畑とによつて承認された。陸軍の諸指揮官の承認を得て、調査官の勧告は最後の裁決を得るために陸軍省に送られた。そして、その裁決が得られた。裁判にあたつては、調査官の報告及び勧告と、畑大将及びその他の承認とは、検事によつて軍法会議で読み上げられ、検事はこれらの文書に基いて死刑を求刑した。被告には二、三の型通りの質問がなされ、死刑が宣告された。かれらはその日に処刑された。
一九四五年五月以前に、東海軍管区では、十一人の連合国の飛行士が裁判を受けた。かれらの利益は保護されず、死刑の宣告を受け、処刑された。しかし、この手続は、捕えられた連合国飛行士を殺すとを不必要に遅らせることになると憲兵司令官は考えた。その結果として、一九四五年六月に、かれは日本の各軍管区の憲兵隊司令官に書簡を送つて、捕えられた連合国飛行士の処分の遅延について不服を述べ、かれらを即刻処断することは、軍法会議では不可能であることを述べ、軍管区における憲兵隊は、軍管区司令官の承認を経て、軍法会議を省くようにすることを勧告した。この書簡が届いてから、東海軍管区で、二十七名の連合国飛行士が裁判を受けないで殺された。畑が軍政権を行使していた中部軍管区では、軍法会議その他によつて裁判されることなしに、四十三名の連合国飛行士が殺された。福岡では、一九四五年六月二十日に、裁判を受けないで、八人の連合国飛行士が殺され、一九四五年八月十二日には、さらに八人が同じ方法で殺され、それから三日後の一九四五年八月十五日には、八人から成る三番目の一団か殺された。これによって、福岡では、この手続を勧告した前述の書簡が、憲兵司令官によつて東京から発送された後に、合計二十四人の連合国飛行士が裁判を受けないで殺されたことになる。
日本の東海、中部及び西部軍管区における連合国飛行士の殺害は、射撃隊によつて行われた。東京を含む東部軍管区では、いつそう非人道的な方法が用いられた。この地区で捕えられた連合国飛行士は、かれらが規則を破つたかどうかを決定するためのいわゆる調査が終るまで、憲兵隊司令部の留置場に拘禁された。この調査というのは、拷問を伴う訊問のことであつた。それは儀牲者を強制して、かれらが規則によつて死刑に処せられることになるような事実を自白させようとして行れたものである。拷問、飢餓及び医療の不足の結果として、少くとも十七名の飛行士がこの留置場で死亡した。この拷問から生き残つた者は、さらに恐ろしい死の犠牲になつた。東京陸軍刑務所は、代々木陸軍練兵場の一端にあつた。この刑務所は、軍律違反者を收容するための兵舎であつて、刑に服している日本兵が監禁されていた。刑務所の敷地は小さく、およそ高さ十二フイートの煉瓦塀によつて囲まれていた。刑務所の建物は木造で、必要な通路と中庭を除いて、煉瓦塀内の敷地の全部を占めるほどに密集して建てられていた。一棟の監房は、高さ七フイートの板塀によつて隔離さていた。一九四五年四月二十五日に、五人の連合国飛行士がこの監房に入れられた。五月九日に、さらに二十九人が加わつた。五月十日には、他の二十八人がそこに拘禁された。一九四五年五月二十五日の夜に、東京は激しい爆撃を受けた。その晩には、六十二人の連合国飛行士がこの監房に監禁されていた。刑務所内の他の建物には、四百六十四人の日本陸軍の囚徒が監禁されていた。刑務所の木造の建物とその周囲の非常に燃えやすい住宅に、焼夷弾が命中し、火事になつた。刑務所は完全に焼失した。そして、火事の後に、六十二人の連合国飛行士がすべて死んでいたことが判明した。四百六十四人の日本人または監視のうちのだれ一人として、同様な運命に陥つた者がないということは、意味深長なことである。連合国飛行士の運命が故意に計画されたものであるということは、証拠が示している。
占領地区では、捕えられた飛行士を殺害する方法の一つは、刀で斬首することであつて、これは日本の将校の手で行われた。捕えられた飛行士は、このような方法で、次の場所で殺された。マレーのシンガポール(一九四五年六月―七月)、ボルネオのサマリンダ(一九四五年一月)、スマトラのバレンバン(一九四二年三月)、ジヤワのバタヴイア(一九四二年四月)、セレベスのメナド(一九四五年六月)、セレベスのトモホン(一九四四年九月)、セレベスのトリトリ(一九四四年十月)、セレベスのケンダリ(一九四四年十一月)(一九四五年一月)(一九四五年二月)、タラウド諸島のベオ(一九四五年三月)、タウラド諸島のライニス(一九四五年一月)、セレベスのシンカン(一九四五年七月)、アンボン島のカララ(一九四四年八月)、ニユーギニア(一九四四年十月)、ニユーブリテンのトタビル(一九四四年十一月)、ボートン島(一九四三年十二月)、クエゼリン島(一九四二年十月)及フイリツピンのセブ市(一九四五年三月)。
連合国飛行士を殺害する他の一つの方法は、一九四四年十二月に、中国の漢口で用いられた。その少し前に不時着して捕えられた三人のアメリカ飛行士は、町を行進させられ、民衆から嘲弄と殴打と拷問を受けた。かれらが殴打と拷問によつて弱つたときに、ガソリンをふりかけられ、生きながら燒き殺された。この残虐行為に対する許可は、日本の第三十四軍司令官によつて与えられた。
日本人の残酷さは、ニューブリテン島のラバウルで捕えられた一人の連合軍飛行士の取扱い方によつて、さらに例証されている。動けば釣針が肉の中に食いこむように、釣針のついた縄でかれは縛られた。かれは遂に栄養不良と赤痢で死んだ。
捕虜、一般人抑留者、病人と負傷者、病院の患者と医務職員、一般住民の虐殺は、太平洋戦争中珍らしくなかつた。捕虜と一般人抑留者は、ある場合には、捕えられてから間もなく虐殺された。
ボルネオのバリツクパパンにおける虐殺は、次のような状況のもとで起つた。一九四二年一月二十日に、日本側によつて、二人のオランダの捕虜将校がバリツクパパンに行き、最後通牒をオランダの指揮官に手交することを命じられた。この最後通牒は、バリツクパパンを現状のままで明け渡すことを要求したものである。命令に従わなかつた場合には、すべてのヨーロッパ人は殺されることになつていた。最後通牒は、日本の一少将と他の五人の日本将校の面前で、これをバリツクパパンの司令官に手交することになつていたオランダ将校に対して読み上げられた。回答はバリツクパパンの指揮官から日本側に送られた。バリツクパパンの指揮官は、オランダ当局者から破壊に関して必要な命令を受けているので、破壊を実行しなければならないという趣旨のものであつた。
日本軍がバリツクパパンに近づくと、油田に火がつけられた。八十人から百人のバリツクパパンの白人住民の虐殺の有様が、目撃者の宣誓口供書によつて本裁判所に対して述べられた。これらの住民は、一九四二年二月二十四日に、残酷な方法で死刑に処せられた。後に述べてあるように、ある者が刀で腕や足を斬りとられて殺されてから、かれらは海の中に追いこまれ、それから射殺されたのである。
これに関連して、本裁判において、一九四〇年十月四日附の「対南方策試案」を含む「極秘」と記された外務省の文書が提出されたことに留意するのは興味のあることである。この案の中には、オランダ領東ンドに関して次のように述べられている。
「重要資源を破壊したる場合は、資源関係者全員反政府当路者十名を責任者として厳罰に処す。」
オランダ領東インドの油田を原状のままで手に入れることは、日本にとつて、死活に関する重大事であつた。石油問題は、南方に進出するにあたつての決定的な要素であり、日本政府は、戦争の場合に、油田に火がつけられはしないかと非常に憂慮していた。一九四一年三月二十九日に、松岡はこの憂慮をフオン・リツペントロップに対して表明し、次のように述べた。
「若し何とかして避け得るならばオランダ領東インドには手を出したくない。何となれば日本軍が該地を攻撃する時は、油田地帯は放火せられるであらうから。その場合、一ケ年乃至二ケ年後になつて、やつと操業を再開することが出来るであらう」と。
このことにかんがみ、また日本政府がすべての有害な文書の破棄を公式に命令した事実を念頭に置けば、この外務省の草案は特別な意義をもつものである。前に外務省の高官であつた山本は、この案はある下級事務官によつてつくられたものにすぎないといつたが、それにもかかわらず、「試案」の中で計画されていたことの大部分が、なにゆえ実際に起つたかという理由をきかれたときに、かれは冷然として、「これらの事務官は非常によい研究家であつた」と答えた。
これらの事実をすべて総合してみると、その結果として、一九四〇年十月四日の草案の中で提案された計画は、政府の政策として受け入れられたという推論を正当とする。さらにブ口ラでも男子の虐殺が起こつたが、それはジヤワのチエツブーにおける油田の破壊に関連していたようであるから、なおさらそうである。この地の女子は殺されなかつたが、すべて指揮官の面前で何回となく強姦された。
このような虐殺の例は、次の場所で起つた。中国の香港(一九四一年十二月)、マレーのイボー(一九四一年十二月)、マレーのパリツトスロングとマウルの間(一九四二年一月)、マレーのパリツトスロング(一九四二年一月)、マレーのカトンガ(一九四二年一月)、マレーのアレキサンダー病院(一九四二年一月)、マレーのシンガポール(一九四二年二月―三月)、マレーのパンジヤン(一九四二年二月)、マレーのマウル(一九四二年二月)、タイのジヤンボン・ジヨブ(一九四一年十二月)、ボルネオのロンナワ(一九四二年八月)、ボルネオのタラカン(一九四二年一月)、オランダ領東インドのバンカ島(一九四二年二月)、スマトラのコタラジヤ(一九四二年三月)、ジヤワのレンバン(REMBANG)(一九四二年三月)、ジヤワのレンバン(LEMBANG)(一九四二年三月)、ジヤワのスバン(一九四二年三月)、ジヤワのチヤタール・バス(一九四二年三月)、ジヤワのバンドン(一九四二年三月)、モルツカ諸島アンボン島のラハ(一九四二年二月)、オランダ領チモールのオカペチ(一九四二年二月)、オランダ領チモールのウサバ・ベサール(一九四二年四月)、ポルトガル領チモールのタツ・メタ(一九四二年二月)、イギリス領ニユーギニアのミルン湾(一九四二年八月)、イギリス領ニユーギニアのブナ(一九四二年八月)、ニユーブリテンのトル(一九四二年二月)、タラワ島(一九四二年十月)、フイリツピンのオドネル兵営(一九四二年四月)、及びフイリツピン、マニラのサンタ・クルス(一九四二年四月)。仏印においても、自由フランスの諸組織に対する敵対行為の際に、同様な方法で、虐殺が行われた。捕虜と抑留された一般人は、次のような場所で虐殺された。ランソン(一九四五年三月)、ダン・ラツプ(一九四五年三月)、タケツク(一九四五年三月)、トン(一九四五年三月)、タン・キ(一九四五年三月)、ラウス(一九四五年三月)、ドン・ダン(一九四五年三月)、ハギヤン(一九四五年三月)、トンキン(一九四五年三月)。
ソビエツト連邦の市民は、一九四五年八月九日に、満州のハイラルで虐殺された。これは関東軍司令官の要求によつて行われた。殺人を行つた者は少しも犯罪に問われなかつた。しかも、殺人の理由として挙げられたのは、日本軍に対して、諜報または妨害行為を行うかもしれないというのであつた。
日本軍が領土を占領し、戦闘が終つたときに、一般住民を恐怖させ、かれらを日本の支配に服させるための一手段として、虐殺がほしいままに行われた。この種の虐殺は、次に挙げる場所の一般住民に対して行われた。ビルマのシヤニワ(一九四五年)、ビルマのタラワヂ(一九四五年五月)、ビルマのオングン(一九四五年五月)、ビルマのエバイン(一九四五年六月)、ビルマのカラゴン(一九四五年七月)、マンタナニ島(一九四四年二月)、スルツグ島(一九四三年十月)、ウダール島(一九四四年の初期)、デイナワン島(一九四四年七月)、ボルネオのポンテイアナツク(一九四三年十月―一九四四年六月)、ボルネオのシンカ・ワン(一九四四年八月)、ジヤワのブイテンツオルグ(一九四三年)、ジヤワ(「コー」事件)(一九四三年七月―一九四四年三月)、ポルトガル領チモールのラウテム(一九四三年一月)、モア島(一九四四年九月)、セマタ島(一九四四年九月)、ポルトガル領チモールのアイレウ(一九四二年九月)、ナウル島(一九四三年三月)、フイリツピンのホープヴエイル(一九四三年十二月)、フイリツピンのアラミノス(一九四四年三月)、フイリツピンのサンカルロス(一九四三年二月)、フイリツピンのバリオ・アンガツド(一九四四年十一月)、フイリツピンのバロ・ビーチ(一九四三年七月)、フイリツピンのテイグブアン(一九四三年八月)、フイリツピンのカルパヨグ(一九四三年七月)、フイリツピンのラナオービラヤン(一九四四年六月)、フイリツピンのボゴ(一九四四年十月)、フイリツピンのバリオ・ウマゴス(一九四四年十月)、フイリツピンのリバ飛行場(一九四四年)、フイリツピンのサンタ・カタリナ(一九四四年八月)、フイリツピンのビラールのシテイオ・カヌグカイ(一九四四年十二月)。捕虜と一般人抑留者または占領中に徴発された労働者の虐殺は、かれらが飢餓に陥るか、病気になるか、またはその他の原因で身体がきかなくなつて、もう役に立たなくなつたために、または、ほかの理由で日本占領軍の重荷になつたために行われた。このような虐殺は、次の場所で行われた。シヤムのチヤイモガ作業所(一九四四年二月)、ビルマのシボー(一九四五年一月)、アンダマン諸島のポート・ブレアー(一九四五年八月)、スマトラのコタ・チヤネ(一九四三年五月)、スマトラのシボルガ(一九四二年四月)、ジヤワのジヨンバン(一九四二年四月)、アンボン島のアンボイナ(一九四三年七月)、イギリス領ニユーギニアのウイワク(一九四四年五月)、ニユーギニアのアイタペ(一九四三年十月)、ニユーギニアのブツト(一九四四年六月)、ニユーブリテンのラバウル(一九四三年一月)、ブーゲンヴイル(一九四四年八月)、ウエーキ島(一九四三年十月)、泰緬鉄道建設工事の現場に沿つた各作業所(一九四三年―一九四四年)。ある場合には、規則に対する一般的な違反をやめさせるために行われた虐殺もあつた。たとえば、密売買を防ぐために、海南島の作業所で行われたもの(一九四三年五月)、ラジオの非合法的な使用を防ぐために、仏印のサイゴンで行われたもの(一九四三年十二月)、一般人が食物を与えたために、そして捕虜がこれを受取つたために、アンボン島のアンボイナで一般人と捕虜が殺されたもの(一九四三年七月)。すでに述べたもののほかにも、虐殺や殺人が行われた。たとえば、アメリカ人の捕虜が斬首された新田丸船上の事件(一九四一年十二月)、二人のアメリカ人捕虜の殺害を含むニユーギニアの事件(一九四四年十月)。この後の場合には、責任者の日本将校は、「私は一名のアメリカ人の捕虜をもらつて、これを殺すことができるかどうか尋ねた」といつた。日本の第三十六師団長は、直ちにこの要請を許し、殺すために二名の捕虜を引渡した。かれらは目隠しされ、縛られ、銃剣で背部を刺され、それからシヤベルで首を斬られた。
日本軍の撤退または連合軍の攻撃を予期して行われた虐殺もあつた。このような状況のもとで、多数の捕虜が虐殺されたのは、連合軍によつて解放されないようにするためであつたらしいけれども、それは捕虜だけに限られていなかつた。一般人抑留者と一般住民もこのような状況のもとで虐殺された。この種の虐殺は次の場所で起つた。中国のハイラル(一九四五年八月)、ニコバル諸島のマラツカ(一九四五年七月)、イギリス領ボルネオのサンダカン(一九四五年六月―七月)、イギリス領ボルネオのラナウ(一九四五年八月)、イギリス領ボルネオのクワラ・ベラツト(一九四五年六月)、イギリス領ボルネオのミリ(一九四五年六月)、イギリス領ボルネオのラブアン(一九四五年六月)、ポルトガル領チモールのラエルツタ(一九四五年九月)、バラー島(一九四三年一月)、オセアン島(一九四三年九月)、フイリツピンのプエルト・プリンセツサ(一九四四年十二月)、フイリツピンのイリサン地区(一九四五年四月)、フイリツピンのカランビヤ(一九四五年二月)、フイリツピンのパングフロ(一九四五年二月)、フリツピンのタベル(一九四五年七月)、フイリツピンのバリオ・デインウイデイ(一九四五年八月)。この種の虐殺は、フイリツピンのバタンガス州で非常に数が多かつた。わけても、次の場所で行われた。バリオ・サン・インドレス(一九四五年一月)、バウアン(一九四五年二月)、サント・トマス(一九四五年二月)、リツパ(一九四五年二月と三月)、タール(一九四五年二月)、タナウアン(一九四五年二月)、ロサリオ(一九四五年三月)。マニラが開放されるであろうということが明らかになると、この種の虐殺は、強姦と放火とともに、全市で行われた。
海上における捕虜の虐殺については、われわれはまだ触れていない。これについては、後に論ずることになつている。また、「死の行進」中に起つた虐殺にも、まだ触れていない。これらについても、やはり後に述べることにする。すでに述べた虐殺は別として、多くの個人的な殺人が行われた。それらの多くのものは、恐ろしいやり方で行われた。多くのものは、強姦、掠奪及び放火のようなほかの犯罪と関連して行われ、さらに他のものは、一見したところ、犯行者の残酷な本能を満たすよりほかに何の目的もなく行われた。
虐殺のあるものについては、さらに叙述することが必要である。ジユネーヴ條約の標識を明らかにつけ、この條約と一般戦争法規とのもとに保護される資格をもつた軍病院の患者と医務職員の虐殺については、特にそうである。香港における虐殺の際には、日本軍はセント・ステイーヴンス・カレツヂにあつた軍病院に入り、病人や負傷者を寝台の中で銃剣で刺し、勤務中の看護婦を強姦し、殺害した。マレーの西北ジヨホールの戦い(一九四二年一月)の際には、病人と負傷者を選んでいる患者輸送車隊が日本兵によつて捕えられた。その人員と負傷者は患者輸送車から降され、射撃されたり、銃剣で刺されたり、油をかけられて生きながら燒かれたりして殺された。マレーのカトンガでは(一九四二年一月)、患者輸送車隊が日本の機銃手に射たれた。隊員と負傷者は輸送隊から引出され、珠数繋ぎにされ、背部から射たれた。マレーのシンガポールにあるアレキサンドラ病院は、一九四二年二月十三日に日本軍に占領された。日本軍は病院の一階を通り過ぎ、その階にいた者を一人残らず銃剣で刺した。手術室では、一人の兵士がクロロホルムをかけられて、手術を受けている最中であつたが、日本軍はそこにはいつて、患者、外科医及び麻酔剤係りを銃剣で刺した。それら、かれらは二階と建物の他の部分に行き、患者と医務職員を連れ出して、これを虐殺した。一九四二年三月に、日本軍かジヤワのスバンにはいつたときに、かれらは一人の看護婦とその受持患者を軍病院から連れ出し、一般住民の婦人、子供と一緒に虐殺した。これらの虐殺は、軍病院、その職員及び患者に与えられるべき取扱いに関する戦争法規を無視したもので、戦争法規に対する日本の兵士と将校の態度を例証するものである。
これらの虐殺の大部分には、方法の類似しているところがある。犠牲者はまず縛られ、ついで銃撃されるか、銃剣で刺されるか、刀で首を斬られた。大概の場合には、犠牲者は銃撃され、ついで日本兵によつて銃剣で刺された。これらの日本兵は、負傷者の間を廻つて、生き残つた者を殺して歩いたのである。水の方に背を向けて、海岸か断崖の端に集められ、そこで殺された例も若干あつた。
ある場所では、さらに恐ろしい方法が用いられた。マニラ・ドイツ・クラブとフオート・サンチヤゴでは、犠牲者は一つの建物の中に集められた。その建物に火がつけられ、逃れようと試みた者が火炎の中から現われると、銃撃されるか銃剣で刺された。
一九四五年二月にマニラのドイツ・クラブで行われた残虐行為に関する証拠で、そのとき行われていた爆撃と砲撃から避難した者がクラブの中に待避していたことが明らかにされた。日本兵は可燃物の障害物でクラブを囲み、この障害物の上にガソリンをかけて点火した。そこで、燃え上る障害物を突き抜けて、避難者は逃げようと試みるほかなかつた。かれらの大部分は、待ちかまえていた日本の兵隊によつて、銃剣で刺され、銃撃された。婦人のある者は強姦され、その幼児は腕に抱かれたまま銃剣で刺された。婦人を強姦した後に、日本軍はかれらの髪にガンリンをかけ、これに火をつけた。婦人のうちのある者は、日本の兵隊によつて、乳首を斬りとられた。
マニラのセント・ポール・カレツヂでは、次のようなやり方で虐殺が行われた。約二百五十人の人々が建物の中に入れられ、扉と窓は堅く閉められ、閂をかけられた。このようにして、押しこめられている間に、吊り下げられた三つのシヤンデリアは灯火管制用の紙浜で包まれ、紐または針金がこれらの包の中から建物の外に引いてあるのが目についた。後になつて、日本人はビスケツトや飴や酒の類を持ちこみ、それらを部屋の中央に置き、そこに捕えられている者に対して、かれらのいる場所におれば安全であるといい、持ちこをれた飲食物は食べてもよいと告げた。そこで、かれらは置いてある食物の所へ行つた。すると、たちまち三つの爆発が起つた。蔽われたシヤンデリアは、爆薬を仕かけられていた。多くの者は床に投げ出され、そこに恐慌が起つた。建物の外側にいた日本人は、建物の中に機関銃を射ちこみ始め、手榴弾を投げた。爆発は窓と一部の壁を吹き飛ばした。逃げられる者は、そこから逃げようと努めた。かれらのうちの多くは、逃げようとしているときに殺された。
フイリツピンのパラワン島のプエルト・プリンモサ湾の北方にある捕虜収容所において、アメリカ人捕虜の、特にに残酷な、あらかじめ計画された虐殺か起つた。この収容所には、およそ百五十名の捕虜がいた。かれらを捕えた者から、日本が戦争に勝つたならば、アメリカに帰されるであろうが、もし日本が敗けたならば、殺されるであろうとかれらは聞かされていた。虐殺の前に、アメリカの航空機によつて、その島はある程度に空襲されていた。収容所の中には、浅い、軽い掩蓋をもつた防空壕がいくつか掘つてあつた。一九四四年十二月十四日の午後二時ごろに、捕虜たちはこれらの壕にいるように命令された。小銃との機関銃で武装した日本の兵士が收容所の周囲に配置された。捕虜が全部壕にはいると、ガンリンがかれらの上にバケツでふりかけられ、次いで火のついた松明(タイマツ)が投げこまれた。やがて爆発が起つた。あまりひどく火傷を負わなかつた捕虜は、逃げようとしてもがいた。これらの者は、その目的で配置された小銃や機関銃の射撃によつて殺された。ある場合には、かれらは銃剣で刺されて殺された。百五十人のうちで、わずか五名がこの恐ろしい経験から生き残つた。生き残つた者は、泳いで湾の中に出て、日暮れとともに、そこから密林の中に逃げこみ、遂にフイリツピンの遊撃隊に加わつた。
集団的に溺死させる手段は、アンダマン島のポート・ブレアー(一九四五年八月)で用いられた。そのときは、一般人抑留者は船に乗せられ、海に連れ出された上で、水の中に突き落された。漢口で用いられたのと同様な、溺死と射殺とを合わせた方法がコタ・ラヂヤ(一九四二年三月)で用いられた。そのときには、オランダの捕虜が帆船に分乗させられ、海上に曳航され、射殺され、そして海中に投げこまれた。ボルネオのタラカン(一九四二年一月)では、オランダの捕虜が日本の軽巡洋艦に乗せられ、これらの捕虜によつて日本のある駆逐艦が射撃を受けた場所に連れて行かれ、首を斬られ、そして海に投げこまれた。
証拠によれば、これらの虐殺の大部分は、将校によつて命令され、ある場合には高級将官によつて命ぜられ、多くの場合には、将校が実際にその遂行の際に監視、指揮または実際の殺害を行つたことが示されている。フイリピン人を殺害するように指示を与えた日本側の命令書が押収された。一九四四年十二月と一九四五年二月との間に、マニラ海軍防衛隊によつて発せられた命令の綴込みが押収された。それには、次の命令がはいつていた。「敵侵入せば、爆破焼却の機を誤らさるごとく注意せよ。比島人を殺すには極力一箇所に纏め、爆薬と労力を省くごとく処分せよ。」 日本兵の日記が押収されたが、それらは、日記の所有者たちが虐殺せよという命令を受け、その命令に従つて、その通りにしたことを示している。押収された陸軍部隊の戦闘報告と憲兵の警察事務報告との中には、行われた虐殺に関して、使用した爆薬の数や殺害された犠牲者の数も記入して、上官にあてた報告がはいつていた。日本国内と占領地域の多数の収容所にいた捕虜は、日本人、台湾人、朝鮮人の守衛からして、もし連合軍がその土地に侵入したり、日本が戦いに敗れたりした場合には殺されると聞かされたと証言している。これらの脅迫が実行に移された例については、すでに言及した。少くとも一つの収容所では、捕虜を殺すようにとの上司からの命令の証拠文書が発見された。台湾の一收容所で押収された日誌には、捕虜に対する「非常手段」に関して、基隆要塞地区司令部の第十一憲兵部隊参謀長が照会したのに対して、回答が送られたことを示す記事がはいつていた。この「非常手段」を実行するに際してとるべき方法は、次のように、詳細に述べてあつた。「各個撃破式によるか集団式によるか、何れにせよ大兵爆破、毒煙、毒物、溺殺、斬首等当時の状況に依り処断す。何れの場合にありても一兵も脱逸せしめず殲滅し、痕跡を留めさるを本旨とす。」 この全員虐殺は、他のことと共に、「所内を脱逸し、敵戦力となる」すべての場合に行うように命ぜられていた。
全般的な命令は、一九四五年三月十一日に、陸軍次官柴山によつて発せられた。その命令は、次のように述べてあつた。「時局愈々逼迫し、戦禍皇土満州等に波及せる際に於る俘虜の取扱は別紙要領に拠り違算なきを期せられ度。」ここにのべられた別紙要領は、次の言葉で始まつていた。「方針。俘虜は極力敵手に委するを防止するものとす。之がため予め所要の俘虜に付、収容位置の移動を行ふ。」 このころに始まつたボルネオのサンダカンとラナウの間の、ラナウ死の行進については、間もなく言及するが、これは右に引用した命令に指示された方針に従つている。
日本軍は、一地点から他の地点へ捕虜を移動するにあたつて、戦争法規を守らなかつた。捕虜は充分な食糧や水を与えられることもなく、また休息もなしに長途の行進を強制された。病人も負傷者も、健康な者と同様に行進させられた。このような行進から落伍した捕虜は、殴打され、虐待され、そして殺害された。多くのこのような行進について、証拠がわれわれに提出されている。
バターンの行進は顕著な一例である。一九四二年四月九日、バターンでキング少将がその部隊を率いて降伏したときに、かれはかれの麾下の将兵が人道的な取扱いを受けるであろうと、本間中将の参謀長から保証された。キング少将は、バターンから捕虜収容所へかれの部下を移動させるのに十分なトラツクを破壊しないでおいた。バターンにおけるアメリカとフイリツピンの兵隊は、食糧の割当が定量以下であつたので、病人や負傷者の数が多かつた。しかし、キング少将がトラツクを使用することを申出たときに、それは拒否された。捕虜は暑熱の中を百二十キロメートル、すなわち七十五マイルもあるバンバンガのサン・フエルナンドへ通ずる街道を行進させられた。病人も負傷者も強制的に行進させられた。路傍に倒れて歩行できなくなつた者は射たれ、または銃剣で刺された。他の者は列から引き出されて殴打され、虐待され、そして殺された。行進は九日の間続き、日本の監視兵は、アメリカのトラツクで運ばれてきた新規の監視兵と五キロメートルごとに交代した。最初の五日の間は、捕虜はほとんど食糧や水を与えられなかつた。その後は、手にはいる水はたまにあつた掘抜井戸か、水牛用の水溜りの水だけであつた。捕虜が水を飲もうとして井戸の周りに集まると、日本兵はそれに発砲した。捕虜を射つたり、銃剣で刺したりすることは普通のことであつた。死骸は路傍に散乱していた。本間中将の文官顧問として、陸軍大臣東條によつて一九四二年二月にフイリツピンへ派遣された村田は、この街道を自動車で走り、街道に非常に多くの死体を見たので、この有様について本間中将に尋ねてみる気になつた。「私はそれを見たのでただ質問したのでありまして、それを私はコムブレインしたのではありません」と村田は証言している。オドンネル収容所へ輸送されるために、捕虜はサン・フエルナンドで鉄道貨車に詰めこまれた。貨車の中は、ゆとりがなかつたので立つていなければならなかつた。疲労のためと換気が悪いためとで、多数の者が貨車の中で死んだ。バターンからオドンネル収容所へのこの移動において、何人死亡したかは明らかではない。証拠によれば、アメリカ人とフイリツピン人の捕虜の死亡数は、およそ八千人であつたことが示されている。オドンネル収容所では、一九四二年四月から十二月までに、二万七千五百人以上のアメリカ人とフイリツピン人が死亡したことが証拠によつて示されている。
東條はこの行進のことについて、一九四二年に多くの異つた筋から聞いたことを認めた。かれが受けた情報は、捕虜が暑熱のもとで長途の行進を強いられ、また多数の死亡者が出たということであつたとかれは述べた。また、捕虜の不法な取扱いに対する合衆国政府の抗議が受取られ、死の行進があつてから間もなく、陸軍省の各局長の隔週の会合で論議されたが、かれが問題を各局長の裁量に任せておいたことも、東條は認めた。フイリツピンにおける日本軍は、この事件について報告することを要求されなかつたし、また一九四三年の初めに本間中将が日本に来たときには、この事件について話し合いもしなかつたと東條は述べた。かれが一九四三年五月にフイリツピンを訪問したときに、初めてこの事件について尋ね、そのとき本間中将の参謀長と話し合つたが、参謀長は事件の詳細を報告したと東條は述べた。同様の残虐事件の再発を防止するために、かれが処置を講じなかつたことについて、東條は次のように弁明した。「日本の建前では、現地派遣軍司令官は其の与へられた任務の遂行に当つては、一々東京からの命令を仰ぐことなく、相当な独断権を以て之を遂行することになつて居ます」と。このことは、日本の交戦方法では、このような残虐行為が起ることは予期され、または少くとも許されていること、それらを防止することについて、政府は無関心であつたことを意味するものにほかならない。
このような残虐行為は、太平洋戦を通じて繰返されたのであるが、それはバターンにおける本間中将の行為をとがめなかつたことの結果であると解するのが適当である。
一九四二年二月に、オランダ領チモールで、港からクバン俘虜収容所への行進中に、負傷、飢餓、マラリア及び赤痢で苦しんでいた捕虜は、うしろ手に縛られて五日間歩かされ、家畜の群のように、日本人と朝鮮人の監視員によつて駆り立てられ、打ちなぐられた。一九四三年と一九四四年に、イギリス領ニユーギニアのウエワク、ブツト及びアイタペの間で、インド人の捕虜たちがこれと同じような行進をさせられた。これらの行進中に、病気になり、主力から落伍した捕虜は射殺された。他のこれと同様な出来事についても証拠がある。以上述べたものは、ある場所から他の場所へ捕虜を移動するときに、苛酷な状態のもとで行い、落伍した者はこれを殴打し、殺害することによつて強行するという、日本の陸軍とその捕虜管理機関が用いたところの、当然と認められた普通のやり方を示すものである。
ラナウ行進は、異つた種類に属する。これらの行進は、一九四五年の初期に始められた。そのころに、連合軍がクチンへ上陸する準備をしているということを、日本軍はおそれていた。これらの行進の目的は、捕虜が解放されることを防ぐために、かれらを移動することであつた。ラナウ村はボルネオのサンダカンの西方百マイル余の密林の中で、キナバル山の東斜面にある。サンダカンからラナウへの小道は深い密林の中を通つており、狭くて車輛を通すことができない。最初の三十マイルは沼沢地で、ひどいぬかるみである。次の四十マイルは高地で、小さな険しい丘の上を通つており、その次の二十マイルは一つの山の上を通つている。最後の二十六マイルは全部登り道の山道である。オーストラリ人の捕虜は、この密林の細道に沿つて、次々と行進を続けて移動された。捕虜はサンダカンの収容所から出される前に、すでにマラリア、赤痢、脚気及び栄養不良で苦しんでいた。捕虜が行進に堪えられるかどうかを決定する試験は、殴打し、拷問にかけて立ち上らせることであつた。もし立ち上れば、かれは行進に堪えるものと見做された。捕虜は、自分のわずかばかりの食糧とともに、監視兵の食糧と弾薬をも携帯することを強制された。四十名からなる捕虜のある一団は、この行進中、三日間に六本の胡瓜をかれらの間で分け合つて命を繋がなければならなかつた。行進の列から落伍した者は射殺され、または銃剣で刺し殺された。行進は一九四五年四月の上旬まで続いた。その小道には、途中で死んだ者の死骸が散乱していた。サンダカンからこれらの行進を始めた捕虜の中で、ラナウに到着したのは、総数の三分の一以下であつた。ラナウにようやく到達した者は、飢餓と拷問で死亡し、また病死し、または殺害された。サンダカンで捕虜であつた二千余人の中で、生き残つたことがわかつているものは、わずか六人だけである。これらのものは、ラナウのキヤンプから逃げたので、生き残つたのである。病気が重くて、サンダカンから行進を始めることのできなかつた者は病死し、または監視兵によつて殺害された。
一地域での長期間にわたる残虐行為の隠れもない実例は、泰緬鉄道敷設のために使われた捕虜と原地住民労働者の取扱いに見られる。工事の前とその期間中に、ほとんど筆舌に尽せない困難のもとで、この地域に向う二百マイルの強行軍から始まつて、捕虜は絶えず虐待、拷問及びあらゆる種類の欠乏に遇わされた。その結果として、十八カ月の中に、四万六千人の捕虜のうちで、一万六千人が死亡した。
日本の大本営は、ビルマとインドにおける作戦計画を促進するために、一九四二年の初め、交通機関の問題を検討した。当時最も短距離で便利な交通線は、タイ国を通るものであつた。ビルマのモルメインからの鉄道に、シヤムのバンコツクから走つている鉄道を結びつけることが決定された。連絡を要する距離は、二百五十マイル(四百キロ)であつた。こうして、ビルマにある日本軍との連絡を容易にすることになつていた。
この目的のために、東條の勧めに基いて、捕虜を使用することに決定し、当時マレーに駐屯していた南方軍に、一九四三年十一月を完成の時期として、できる限り速やかに工事を進めるように命令が発せられた。これらの命令に従つて、一九四二月八月以来、二団の捕虜がシンガポール地域から送られた。「A」隊と呼ばれた一団は海路によつて、「F」隊と「H」隊とからなる二番目の一団は鉄道によつて、バンボンに送られた。バンボンからは、予定された建設線に沿う各収容所に行軍させられた。
「F」隊と「H」隊がシンガポールを出発する前に、捕虜の管理を担当していた日本陸軍の将官は、捕虜に対して、シンガポールの各収容所における食糧の不足と、非衛生的な状態とによつて、非常に多くの捕虜が病気になり、栄養不良に苦しんでいるから、食糧事情のもつとよい山の中の、休養のための収容所に送られると告げた。それであるから、労働のための収容所へ送られる者の中に、病人も加えるように、右の将官は固執した。捕虜は鉄道貨車の中に詰めこまれ、横になるだけの余地がなく、あぐらをかいて坐つていた。調理用具は代りが支給されるから、捕虜はその調理用具を携帯する必要はないと聞かされていた。しかし、代りの品は支給されなかつた。その上に、捕虜に与えられた唯一の食物は、うすい野菜汁だけであり、鉄道旅行の最後の二十四時間は、全然食物も水も手にはいらなかつた。
四日四晩の後に、捕虜は列車から降ろされ、かれらの荷物も、かれらがどうにかして持つてきた僅かばかりの料理道具も、薬品と医療器具も引渡すように要求された。それから、かれらは徒歩で二週間半の間に二百マイルの行軍をしなければならなかつた。この行軍は、健康な兵士にも無理であつたであろう。というのは、この道程は、山岳地方の密林の中の荒れた道を通つていたからである。この行軍は、雨季の雨と泥濘の中を、十五回の夜間行程でなし遂げられた。捕虜の衰弱した健康状態と、その上に病気のために歩けない約二千人の者を運ばなければならない必要とは、この行軍をほとんど人間として耐えることのできないものにした。病気になつたり、あまり弱つて歩けない者のうちのある者は、監視兵に殴打され、むりやりに歩かせられた。
計画された鉄道線に沿つて設けられた収容所は、人跡未踏の密林の中にあつたが、屋根が全然なかつた。衛生施設はほとんどなく、医療と薬品は与えられず、衣類は支給されず、食糧の割当はまつたく不充分であつた。他方で、捕虜に対する絶え間ない酷使と毎日の殴打は、増加するばかりであつた死者と病疾者の数をさらにふやした。逃走しようとした者は殺された。「F」隊と「H」隊に続いて、シンガポールから他の捕虜部隊が送られ、同じ待遇を受けた。
この建設工事に使われた捕虜の劣悪な状態について、東條は報告を受け、一九四三年五月に、俘虜情報局長官を調査のために派遣したと、東條は本裁判所で証言した。この調査の結果として、かれがとつた処置は、捕虜を不公平に取扱つたある中隊長を軍法会議にかけたことと、鉄道建設の司令官をその任から退かせたことだけであるとかれは認めている。しかし、他の証拠から、この指揮官は捕虜虐待のために退けられたのでないとわれわれは認定する。この計画を担当していた鉄道建設の最初の司令官は、連合軍の空襲で死んだ。この計画を担当した二度目の指揮官は、病弱のために任務を遂行することができず、また工事が大本営から見て充分な速さで捗つていなかつたから、転任させられたのである。二度目の司令官の更迭を進言した視察官は、東條がいつたように、俘虜情報局長官でになく、参謀本部の交通通信を主管していた第三部長の若松であつた。かれは参謀総長に対して、工事は充分な捗り方をしていないと報告し、マレーの鉄道部隊の司令官を建設工事の主任とすること、鉄道完成の予定期日を二カ月延長することをかれに許すべきことを進言した。
この計画において、捕虜を管理していた者が戦争法規を一般的に無視したこと、かれらが捕虜を非人道的に取扱つていたことから見ると、一中隊長を軍法会議にかけたということは、矯正手段としてあまりに無意義な、不充分なものであつて、かれらの行為をとがめないのに等しいものであつた。一九四三年において、政府と日本の大本営の主要な関心事の一つは、ビルマで進捗していた連合軍の前進を阻止するために使うのに間に合うように、この鉄道を完成しなければならないということであつた。日本人と朝鮮人の監視員の手による不断の酷使、殴打、拷問及び殺害によつて引き起された連合軍捕虜の病気、負傷及び死亡という犠牲に対して、捕虜が生活し、労働しなければならなかつた不衛生な状態に対して、最小限度の生活必需品と医療すら、日本政府が与えなかつたことに対して、なんらの関心も払われなかつたようである。
適当な住居がなく、病人の手当も行届かず、鉄道建設に関係して仕事をしていた捕虜に対する非人道的な取扱いは、日本の捕虜取扱いの典型であつて、一九四三年十一月までこの建設工事に從事させられた証人ワイルド大佐によつて、よく描写されている。ワイルド大佐は、日本語の知識があるという理由で、捕虜と日本軍将校との間の連絡官を勤め、捕虜が入れられていた収容所の多くを訪問し、捕虜の受けた取扱については、直接の知識をもつていた。次にあげるかれの証言からの抜粋は、実情をありありと説明している。
「問 実質的におきまして、これらの捕虜収容所の間のその生活状態並びに捕虜の待遇はどうでしたか。その比較はいかがでしたでしようか。大体実質的に似ておりましたでしようか。
「答 全然同じでありました。」
「問 例としてその一つを説明してください。
「答 私は一九四三年八月三日、最初ソンクライ収容所に入所しましたときに、まずそこにある一番大きな小屋にまいりました。そこは七百人収容されておつたバラツクでありました。そのバラツクは通常の形式につくられておりました。すなわち、真ん中に土間がありまして、その両側に、竹を割つてつくつた広さ十二フイートの寝る棚がありました。屋根は非常に不完全なものでありまして、椰子の葉でできており、椰子の葉もあまりたくさんはなく、到る処雨が漏りました。壁は全然なく、真ん中の土間の所には、常に水がちよろちよろ流れておりました。バラツクの骨組は蔦で縛られた竹でできておりました。
「そのバラツクの中には、七百名の病兵がおりました。小屋の両側の割竹の棚の上に、縦に二人づつ寝ておりました。小屋の端から端まで、身体はお互いに接し合つておりました。非常に痩せており、ほとんど裸でありました。バラツクの真ん中には、約百五十名の熱帯潰瘍患者がおりました。この潰瘍という病気に冒されますと、膝から足首まで肉がほんど取れてしまうのであります。腐つた肉の堪らない臭いがいたしました。手に入れることのできた繃帯は、巻脚絆で巻かれたバナナの葉だけでありました。そうして唯一の薬は熱湯でありました。もう少し丘の上の方には、もう一つ同じようなバラツクがありました。そこには健康であると称せられる兵隊が収容されておつたのであります。そうして屋根は完全であり、そのつくりも完全であるバラツクがもう一つあり、これは日本人の衛兵並びに将校が住んでおりました。
「問 寝具は供給されましたか。
「答 全然ありませんでした。
「問 では、雨除けとして、かれらは何を使つたのでありますか。
「答 われわれが最初この収容所に来ましたときには、バラツクは一つとして屋根のあるものはあませんでした。この状態が二、三週間続きました。すでに雨季にはいつておりました。ここに収容されておつたものは、雨を凌ぐために、バナナの葉しかなかつたのであります。もしそれだけの体力があれば、捕虜たちは一人が二、三枚のバナナの葉を切つて、それで身体を覆つたのであります。
「問 屋根の資材は入手できましたですか。
「答 私自身がその捕虜の指揮官となつておりました収容所、すなわち下二キ収容所におきましては、最も重い病人が寝ていた小屋の屋根を半分ばかり覆うに足りる椰子の葉をトラツクに一台ほど手に入れることができました。ニキ収容所では、椰子の葉を全然受取りませんでしたが、腐つた漏るカンパスが手に入りました。残り四つの収容所におきましては、二、三週間たちまして、椰子の葉が手にはいりまして、バラツクに屋根を葺くことができましたが、これは必要量の半分しかなかつたのであります。もちろんこれは日本守衛並びに朝鮮守衛にはあてはまらないことであります。かれらは常に充分なる屋根の資材を持つておつたのであります。
「問 あなたがシンガポールを立たれてから十週間の後、すなわち一九四三年七月の中旬ごろにおきましては、「F」部隊の状況はいかがでしたか。
「答 それまでに死者が千七百名、またもともとおつた七千名のうち、毎日働きに出かけた人員は七百名でありました。しかし、われわれ英軍将校の考えるところによりますと、この七百名のうち、三百五十名は病室に寝かせておかなければならないような状態にあつたのであります」。
この鉄道建設の説明は、それに使われた原地の徴用労働者の取扱いに言及しなくては、不完全であろう。
この工事に使われた捕虜を補うために、ビルマ人、タミール人、ジヤワ人、マレー人及び中国人の原地労働者が、ある場合は種々の約束によつて、ある場合には強制によつて、労働のめに占領地域で徴募された。全部で約十五万人のこれらの労働者が鉄道工事に使われた。かれらに与えられた取扱いと、かれらが生存していた状態とは、すでに説明したものよりも、むしろ悪いくらいであつた。十三万人のうちで、少くとも六万人は建設期間中に死亡した。
捕虜の虐待に対して連合国の行つた抗議について、われわれは後に相当詳しく取扱い、残虐行為について参議本部と政府が知つていたことにも言及することにする。しかし、ここで言及しておいた方が適切なことがある。鉄道建設の計画が着手される前に、工事が恐しい状態のもとに行われることを陸軍は知らされていたこと、政府は犠牲者のことをを知つておりながら、これらの状態を改めなかつたことを立証する証拠のことである。
一九四二年に工事が始まる前に、前方総軍司令部は捕虜が各種の熱帯病にかかる危険について知らされていたし、またときどき死亡率が報告されていた。捕虜の健康に対する危険と、食糧、住居及び医療品の不足がわかつていたことは、南方軍総参謀長から俘虜情報局長官にあてた一九四四年十月六日附の報告の中で確認される。その一部には、「本作業は作戦上最も急を要し、而も該鉄道建設予定線に沿ふ地域は人跡なき密林地帯にして、宿営、給養、及衛生施設不充分にして、俘虜の平常状態と著しく異なり」と書いてある。
一九四三年七月には、すでに数千人の捕虜が死亡したり、病気のために働けなくなつたりしていたのであるが、そのときに、外務大臣重光は抗議に回答して、捕虜は公平に取扱われており、病人はすべて医療手当を受けているといつた。それにもかかわらず、重光の回答が送られてから一カ月たたないうちに、タイで死亡した捕虜だけで、日本側の数字によつてさえも、合計二千九百九人であつた。同じ資料によれば、死亡率は一九二四年十一月の五十四人から、一九四三年八月の八百人へと、月ごとに甚だしく増加した。
一九四三年の夏に、前に述べたこの地方の視察から東京に帰ると、若松はみずから総参謀長杉山に対して、多数の脚気と赤痢患者を見たこと、食事の質は必要基準のものでなかつたことを報告した。
死亡の多くは、連合軍が食糧と薬品の規則的な補給を妨げたために起つたと主張されている。しかし、海運に対するこの妨害という理由のために、一九四三年二月には、かえつて工事完了の期間を四カ月短縮するようにとの命令が与えられた。この命令以来、指揮官たちはむちやになつた。捕虜は次のように聞かされた。人間は少しも大切ではない、鉄道はどんな苦痛や死亡があつても建設しなければならない、すなわち、「鉄道の建設は、作戦目的のために要求されて居るので、遅滞無く進行されねばならぬ。而してイギリス人及びオーストラリア人の俘虜の生命の損失を顧みず、有ゆる犠牲を払つても一定の期間内に完成されなければならぬ」と。
最後に、俘虜情報局がタイ俘虜収容所長から受領した月報のうちの一つに、すなわち一九四三年九月三日附の月報に、われわれは言及する。これには、合計四万三百十四人の捕虜のうちで、一万五千六十四人は病気であると書いてある。脚気や赤痢の患者をそのまま働くように強制する慣行から見ると、これらのものも含められたならば、病人の数はるかに大きなものであつたに違いない。
捕虜と一般人抑留者を拷問するやり方は、占領地域と日本内地とを通じて、日本軍の駐屯していたほとんどすべての場所で行われた。太平洋戦争の全期間を通じて、日本側はこのやり方をほしいままに行つた。拷問の方法は、全地域にわたつて同じように行われていたから、その訓練と実施に、一つの方針があつたことを示している。これらの拷問のうちには、水責め、火責め、電気の衝撃、膝を拡げること、吊り下げ、鋭い道具に坐らせること及びむちで打つことがあつた。
日本の憲兵隊が最も盛んにこれらの拷問を行つた。しかし、他の陸海軍部隊も、憲兵隊と同じ方法を用いた。収容所の警備員もまた同様な方法を使つた。占領地域で、憲兵隊によつて組織された現地の警察も、同じ拷問の方法を用いた。
各收容所長が赴任前に東京でどのような訓令を受けたかをわれわれは示すことにする。これらの収容所長は、陸軍省軍務局の俘虜管理部から行政上の支配と監督を受けており、この管理部に月報を提出していたことも示すことにする。憲兵隊は陸軍省の管轄のもとにあつた。憲兵練習所が日本で陸軍省によつて維持され、運営されていた。憲兵隊と收容所警備員との行為が陸軍省の方針を反映していたということは、妥当な推論である。
拷問が広く行われていたこと、用いられた方法が一様であつたことを示すために、われわれはそれらの方法の簡単な要約を述べておく。
いわゆる「水責め」は普通に用いられた。犠牲者は縛られるか、その他の方法で、仰向けに寝かされ、意識を失うまで、その口と鼻から、肺と胃の中の水を無理に流しこまれた。それから、水を押し出すために、圧力が加えられた。ときには、犠牲者の腹の上に飛び乗つて、圧力を加えることもあつた。一旦犠牲者を蘇生させた後に、引続いて幾度もこの方法を繰返すのが通例のやり方であつた。この拷問は次の各地で行われたという証拠があつた。中国では上海、北平、南京、仏印ではハノイ、サイゴン、マレーではシンガポール、ビルマではキヤイクトー、タイではチユンボールン、アンダマン諸島ではポート・ブレー、ボルネオではジエツセルトン、スマトラではメダン、タジヨン・カラン、バレンバン、ジヤワではバタヴイア、バンドン、スラパヤ、バイテンゾルグ、セレベスではマカツサル、ポルトガル領チモールではオツス、デイリ、フイリツピンではマニラ、ニコルス・フイールド、パロ・ビーチ、ドマゲテ、台湾では屏東収容所、そして日本では東京である。
火責めの拷問は広く実行された。この拷問は、一般には犠牲者の身体を火のついたタバコで焼くことによつて行われた。しかし、ときには、火のついたローソク、熱した鉄、熱した油、沸騰した湯も用いられた。多くの場合に、熱は体のうちの神経の鋭敏な箇所に、たとえば、鼻腔、耳、腹部、性器に、また女子の場合には乳房に加えられた。われわれは、次の場所で、この種の拷問が用いられた明確な事例の証拠をもつている。中国では漢口、北平、上海、ノモンハン、仏印ではハイフオン、ハノイ、ヴイン、サイゴン、マレーではシンガポール、ヴイクトリア・ポイント、イボー、クアラ・ルンプール、ビルマでは、キヤイクトー、タイではチユンボールン、アンダマン諸島ではポート・ブレア、ニコバル諸島ではカカナ、ボルネオではジエツセルトン、スマトラではバレンバン、バカン・バルー、ジヤワではバタヴイア、バンドン、スマラン、モルツカ諸島ではアンボイナ、ポルトガル領チモールではオツス、ソロモン諸島ではブイン、フイリツピン諸島ではマニラ、イロイロ市、バロ、バターン、ドマゲテ、日本で川崎である。
電気衝撃法もまた普通のことであつた。衝撃を与えるように、犠牲者の身体の一部に電流が通じられた。接触箇所は通常神経の鋭敏な部分、たとえば、鼻、耳、性器または乳房であつた。次の場所で、この拷問方法が用いられた明確な事例を証拠は示している。中国では北平、上海、仏印ではハノイ、ミトー、マレーではシンガボール、タイではチユンボールン、シヤワではバンドン、バイテンゾルグ、スマラン、フイリツピン諸島ではダヴアオである。
いわゆる膝広げは、しばしば用いられた拷問法であつた。犠牲者はうしろ手に縛られ、ときには直径三インチもある丸棒を両膝の関節のうしろに挟んで坐らせられ、腿に圧力が加えられたときに、膝の関節が引き拡げられるのである。ときには、犠牲者の腿の上に飛び乗つてすることもあつた。この拷問の結果として、膝の関節がはずれ、それによつて、激烈な苦痛が起きるのであつた。証拠によれば、次の場所で、この拷問が用いられた明確な事例を証拠は示している。中国では上海、南京、ビルマではタヴオイ、アンダマン諸島ではボポート・ブレア、ボルネオではサンダカン、スマトラではバカン・バルー、モルツカ諸島ではハルマヘラ島、ポルトガル領チモールではデイリ、フイリツピン諸島ではマニラ、ニルコス・フイールド、バサイ収容所、日本では東京である。
吊下げもまた普通に用いられた拷問の方法であつた。犠牲者の体は手首、腕、足、または首で吊り下げられ、ときには犠牲者ののどを絞めて窒息させるか、関節を脱臼させるような方法で行われた。この方法は、ときには、吊り下げている間にむちで打つことと併せて行われた。この拷問方法を使用した明確な事例は、次の場所で起つた。中国では上海、南京、仏印ではハノイ、マレーではシンガポートル、ヴイクトリア・ポイント、イボー、クアラ・ルンプール、タイではチユンボールン、ビルマではキヤイクトー、ボルネオではサンダカン、スマトラでプラスターギ、ジヤワではバドン、スラバヤ、ヴアイテンゾルグ、モルツカ諸島ではアンボイナ、ポルトガル領チモールではデイリ、フイリツピン諸島ではマニラ、ニコルス・フイールド、バロ、イロイロ市、ドマゲテ、日本では東京と四日市である。
鋭い道具に坐らせることも、もう一つの拷問方式であつた。多くの場合に、正方形の木塊の角が鋭い道具として用いられた。犠牲者は休むことなしに幾時間もこれらの鋭い角の上にひざまずかされ、動けばむちで打たれた。次の場所で、この方法を用いた明確な事例が起つたことがわれわれに示されている。仏印ではハノイ、マレーではシンガポール、アンダマン諸島ではポート・ブレア、モルツカ諸島ではハルマヘラ島、フイリツピン諸島ではダヴアオ、日本では福岡と大牟田である。
手の爪や足の爪をはがすことも行われた。この拷問方式の実例は、次の場所で見出される。中国では上海、セレベスではメナド、フイリツピンではマニラ、イロイロ市、日本ではヤマ二である。
地下の土牢が次の場所で拷問部屋として用いられた。仏印ではハノイ、マレーではシンガポール、ジヤワではバンドンである。
むち打ちが日本人の残忍行為のうちの最も普通に行われたものであつた。これはすべての捕虜収容所と一般人抑留者の収容所、刑務所、憲兵隊本部で、またすべての作業分所と作業現場で、さらに捕虜輸送船の上でも、普通に用いられた。収容所長やその他の将校の承認の上で、またはしばしばその指令に基いて、警備員が自由に思うままに行つた。収容所におけるむち打ちのために用いられる特別な道具が支給された。このうちのあるものは、野球のバツトほどの大きさの棒切れであつた。ときには、警備員の監督のもとに、捕虜は仲間の捕虜を殴ることを強制された。これらの殴打によつて、捕虜は内部的負傷、骨折及び裂傷を受けた。多くの場合に、かれらは意識を失うまで叩かれた。そして、蘇生させられては、また叩かれた。蘇生させられるのは、さらに叩くためにほかならなかつた。ある場合には、捕虜が死ぬまで殴打されたことを証拠は示している。
精神的拷問は普通一般に用いられた。この拷問方式の実例は、ドウーリツトル飛行隊員が受けた取扱いに見出すことができる。いろいろな種類の拷問にかけられてから、かれらは一人ずつつれ出され、目隠しをされて、相当の距離を歩かせられた。犠牲者は人声と行進する足音とを聞かされ、それから、あたかも銃殺隊として整列しているかのように、分隊が停止して銃を下す音を聞かされた。それから、日本将校が犠牲者の前に来て、「われわれは旭日章をもつた武士道の騎士である。われわれは日沒時に死刑を行わない。日の出にやる」といつた。それから、犠牲者はその獄房につれ帰され、もし日の出までに自白しなければ、処刑されると聞かされたのである。
一九四四年十二月五日に、東京のスイス公使館は、イギリス政府の抗議文を外務大臣重光に伝達した。この抗議文で、一九四三年八月六日に、ビルマにおける日本の林師団によつて発行された「俘虜訊問要領」と題する小冊子が押収されたことを重光は知らされた。この抗議文は、その小冊子からの直接引用を重光に示した。それは次のようであつた。「非難暴言又は拷問を用ふる場合は嘘偽の申立て及び愚弄を招く結果となるべきを以て注意を要す。普通採るべき方法次の如し。(イ)足蹴、殴打、及び肉体的苦痛に関連あるもの凡てを含む拷問。本方法は最も拙劣なるものるを以て他の方法に効果なき場合に限り用ふべきものとす。」(この部分は、押収された冊子では、特に印しがつけてあつた。)「暴行拷問を用ふる時は訊問係将校を替ふべし。しかして交替せる将校が同情的に訊問せば好結果を得べし。(口)威嚇。(一)来るべき肉体的不快、例へば拷問、殺害、、飢餓、単独幽閉、睡眠妨害を暗示すること、(二)来るべき精神的不快を暗示すること、例へば手紙を送ることを許されざること、他の俘虜と同様の取扱を与へられさること、俘虜交換の場合最後迄残置せらるること等」である。抗議文はさらに続けて、「連合王国政府は前述の件につき日本政府の注意を喚起せられ度旨要請越せり。同政府は、日本帝国官憲が拷問を用ひ居ることを日本政府が最近強く否定せることを想起するものなり。一九四四年七月一日附重光大臣発スイス公使宛書翰参照相成度」と述べた。連合国捕虜を拷問するこの慣行を阻止するために、なんらかの措置がとられたことを示す証拠をわれわれはもたない。しかし、他方で、この慣行は日本の降伏のときまで続き、降伏のときには、その犯人を助けてその罪に対する正しい処罰を免れさせる命令が発せられた。罪を立証するような証拠文書をすべて破棄せよと命令した上に、一九四五年八月二十日に、次のような命令が軍務局俘虜管理部の俘虜収容所長によつて発せられた。「俘虜及軍の抑留者を虐待し或は甚だしく俘虜より悪感情を懐かれある職員は此の際速かに他に転属或は行衛一切を晦す如く処理するを可とす。」 この命令は、台湾、朝鮮、満州、華北、香港、ボルネオ、タイ、マレー及びジヤワにおけるものを含めて、各収容所に送られた。
生体解剖は、日本の軍医によつて、その手中にある捕虜に対して行われた。また、軍医でない日本人によつて、捕虜の手足を切断するという事例もあつた。これから述べる事例のほかに、手足を切断された別の捕虜の死体が、死亡前に切断の行われたことを示すような状態で発見された。
カンドクで、「健康な負傷していない」と称される捕虜が、次のような取扱いを受けた証拠があつた。
「この男は光機関事務所の外にある木に縛りつけられた。一人の日本軍医と四人の日本見習軍医がかれの周りに立つていた。かれらはまず最初に指の爪をはぎ取り、それから胸を切り開いて心臓を取去つた。これに対して、軍医は実験をして見せた。」
多分将校と思われる日本人の押収された日記に、ガダルカナルにおける一つの事件が記してある。
「九月二十六日――昨夜ジヤングル内に逃げ込んだ二人の俘虜を発見、逮補し、警備中隊をして警備せしめた。かれらが再び逃亡するのを防ぐために、かれらの足に拳銃数発発射したが、命中させるのはむづかしかつた。二人の捕虜は、ヤマジ軍医よつてまだ生きてゐるうちに解剖され、かれらの肝臓が取出された。そして初めて私は人間の内臓を見た。これは非常に参考になつた。」
生存中の捕虜の身体切断の事件がフイリツピンのカナンガイで証言されている。しかも、この場合には、軍医でなく、日本の兵科将校によつて行われたのである。「・・・・二十四歳ぐらいの一人の若い婦人(・・・・)が叢に隠れているところを捕らえられた。この巡察隊全部を指揮していた将校は、彼の女の衣服をはぎ取り、その間二人の兵が彼の女を抑えていた。それからその将校は彼の女を小さな壁のない草葺の小屋へ連れて行き・・・・そしてそこでその将校は佩刀を用いて彼の女の乳房や子宮を切つた。兵隊たちはその将校がこんなことをしている間、彼の女を抑えていた。最初その女は悲鳴を挙げていたが、遂に静かになり、沈黙して横たわつた。それから日本兵は、その草葺小屋に火を放つた・・・・」
マニラでは、一人の目撃者が、自分の召使いが柱に縛られたいきさつを説明した。縛つてから、日本兵はかれの生殖器を切り取り、断ち切つた陰茎をかれの口中に押しこんだ。
日本兵の手中にあつた捕虜の身体切断に関する他の事例は、ボルネオのバリツクパパンで起つた。この事件は、目撃者によつて、次のように語られた。
「私は制服を着た内務監督官と制服の警視を見ました。日本の士官がその内務監督官と会話を始めました・・・・。私は、その士官が会話中、手でもつて内務監督官の顔を殴打し、またさらに剣鞘でかれの身体を殴打して虐待するのを見ました・・・・最初に(オランダ人)内務監督官と会話を始めた士官が、その剣を抜いて内務監督官の両腕を両肘の少し上部から切り落し、その後また両脚を膝の高さの所から切り落しました。さらに内務監督官は椰子の木へ連れて行かれ、それにしかと縛りつけられて、さらに銃剣をもつて刺し殺されました・・・・この後に、同じ士官は制服を着た警視の方へ行きました・・・・かれは蹴られ、手と剣鞘で殴打されました。そのあとで、その(日本人)士官は警視の腕を肘の下部の所で切り落し、その脚を膝の所で切り落としました。私は警視がいま一度「女王陛下万歳」と叫ぶのを聞きました。銃剣で刺され、かつ蹴られて、警視はなほも立ち上らせられました。而してその脚の切り残りで立つて、警視は銃剣で刺し殺されました。」
太平洋争の末期になつて、日本の陸海軍は人間の肉を食べるほどまでに落ちこみ、不法に殺害した連合国捕虜の体の一部を食べた。日本陸軍は慣行に気がついていなかつたのでもなく、またそれをいないとさえいわなかつた。訊問に際して、ある日本人捕身は、「一九四四年十二月十日、第十八軍司令部から、部隊は連合軍の屍肉を食ふことは許可するも、友軍の屍肉は食つてはならぬとの命令が出た」と語つた。この陳述は、一少将が所持しているのを押収した軍規に関する備忘録によつて確認された。この備忘録には、次のような一節がある。「尚刑法には規定なきも、人肉(敵を除く)たることを知りつつ、之を食したる者は、人道上の最重犯として、死刑と定む」
ときには、この敵の肉を食することは、将校宿舍における祝宴のようなものとして行われた。陸軍の将官や海軍の少将の階級をもつ将校でさえも、これに加わつた。殺害された捕虜の肉またはそれによつてつくられたスープが、日本の下士官兵の食事に出された。証拠によれば、この人肉嗜食はほかに食物がある際に行われたことが示されている。すなわち、このような場合には、必要に迫られてではなく、みずから好んで、この恐しい慣行にふけつたのである。
捕虜の海上輸送にあたつて、日本の行つた慣行は、同様に不法で非人道的な陸上輸送の方法と一致するものであつた。捕虜は、衛生設備の不完全で、換気の不充分な船艙や石炭庫に詰めこまれ、医療手当は全然施されなかつた。長い航海中、かれらは強制的に甲板の下の船艙に留められ、わずかな配給量の食物と水によつて、命を繁ぐよりほかはなかつた。これらの捕虜輸送船は標識を揚げていなかつたので、連合軍の攻撃を受け、数千人の捕虜が死んだ。
場所を節約するためにとられた方法は、一般に次の通りであつた。すなわち、空いている石炭庫または船艙に、木製の台が、すなわち間に合せの寝棚がつくられたが、その上下の距離は三フイートであつた。これらの寝棚の上で、捕虜に与えられた広さは、十五人につい六フイート平方であつた。全航海の間、かれらはあぐらをかいて坐つているよりほかに仕方がなかつた。また、適当な衛生設備を除くことによつても、場所の節約が行われた。用意された衛生設備は、網の先にとりつけられたバケツまたは箱であつて、それが船艙または石炭庫内に上から下ろされ、それから同じようにして引上げられ、中の排泄物が船外へ棄てられた。これらの容器から滴れ落ちてくるものによつて、あらゆる点で非衛生的な状態は、いつそう非衛生的になつた。多数の捕虜は、乗船の当時に赤痢にかかつていたが、かれらの排泄物は、木製の寝棚の隙間を通して、そのまま下の寝棚の捕虜の上に落ちた。食物の調理に必要な場所を節約するために、料理してない食物や、出帆前に料理されたものが捕虜に与えられた。同じ理由によつて、積みこまれた飲料水も不充分であつた。この恐ろしい状態に置かれていた上に、捕虜は甲板に出ることを許されなかつた。捕虜の海上輸送に関するこの方法は、太平洋戦争の全期間を通じて、一般に用いられた。日本の船腹の不足のために、このような方法は、やむを得なかつたものとして弁護されている。これは有効な弁護ではない。というのは、もし戦争法規によつて規定された状態で捕虜を移動することができなければ、日本政府は捕虜を移動する権利がなかつたからである。
この輸送方法は、一九四二年八月に、イギリス人捕虜の最初の一団を泰緬鉄道で労働させるために、シンガポールからモールメンに移動したときに用いられた。また、一九四二年一月に、一千二百三十五人のアメリカ人捕虜と一般人抑留者を横浜と上海へ移すために、「新田丸」がウエーキ島に寄港したときにも、再びこの方法が用いられた。他の場合と同様に、この場合にも、捕虜と抑留者は乗船の際に日本兵の列の間を通らされ、殴られたり蹴られたりしなければならなかつた。この航海には関連して、当時捕虜輸送船の上で実施されていた「俘虜規定」に、初めてわれわれは注意を引かれた。この規定は、他のことと共に、次のことを規定していた。「左に揚ぐる命令に従わざる俘虜は、即時死刑に処すものとす。(a)命令及び指示に服せざる者、(b)敵意ある挙動及び反抗の兆候ある者、・・・・(d)許可なくして談話し、大声を発する者、(e)命令なくして歩行移動する者、・・・・(i)命令なくして梯子を登る者、・・・・大日本帝国海軍は諸子の全部を死刑に処せんとするのに非ず。日本海軍の一切の規則を遵守し、日本の「大東亜新秩序」の建設に協力する者は優遇せらるべし」と。ある航海では、捕虜は寝棚の設備のない石炭庫に詰めこまれ、立つ余地のある限り、無理に石炭のまわりに並ばせられた。他の航海では、非常に燃えやすい積荷が、捕虜と一緒に船艙一ぱいに詰めこまれた。捕虜輸送船に乗せられるだけ詰めこむという、この方法は、いろいろの明白な不快や健康上の危険を捕虜にもたらした上に、沈没のときには、脱出をほとんど不可能にした。
連合軍は日本の捕虜輸送船と他の船舶との区別をつけることができなかつたので、捕虜輸送船は、他の日本船と同様に、しばしば連合軍によつて攻撃された。その結果として、多数の船が沈没し、数千の連合国の捕虜が死んだ。これらの攻撃が行われたとき、ある場合には、捕虜の脱走を防ぐために昇降口を密閉し、もしこの昇降口を押し開けて、沈没する船から逃れようとする捕虜があるときは、これを射殺せよという命令を与えて、小銃と機銃をもつた日本兵を配置するということが慣行であつた。このことは「リスボン丸」で起つた。この船は、イギリスの捕虜を乗せて香港を出発し、その航海中、一九四二年十月に撃沈されたのである。その他の場合には、船が沈没した後、捕虜が水中にいる間に、射殺されたり、他の方法で殺害されたりした。これは「鴨緑丸」の場合に行われた。この船はアメリカの捕虜を乗せ、マニラからの航海中、一九四四年十二月に撃沈された。一九四四年六月に、マラツカ海峡で、「ヴアン・ワリツク号」が沈没したときに、同じことが起つた。一九四四年九月に、多数のアンボン人捕虜と徴用されたインドネシア人労働者を乗せた「順洋丸」が、スマトラ東海岸沖で沈没したときにも、このことが再び起つた。
これらの航海で、多数の捕虜が窒息、疾病及び飢餓のために死んだ。生き残つた者も、航海中の艱苦のために非常に衰弱していたので、目的地に着いてから、労働することができなかつた。このようにして、捕虜の労働能力が損われたために、陸軍省は一九四二年十二月十日附の「陸亜密電第一五〇四号」を出すようになつた。この通牒には、次のようなことが述べてあつた。「最近日本内地に俘虜を輸送するにあたり、途中の取扱い適当ならざるものあり、為に患者死亡者多発し、直ちに労役に使用し得ざるもの少からざる状況なり。」 それについで、必ず捕虜が労働できる状態で目的地に着くようにするために、訓令が与えられた。しかし、この通牒が出て、海上輸送中の捕虜の状態は、実質的には改善されなかつたので、一九四四年三月三日に、東條のもとにおける陸軍次官富永は、「関係部隊」に通牒を発したが、その中で他のことと共に、かれは次のように述べた。「俘虜管理に関しては、従来労務利用を重視し来れり。右は戦力増強に直接寄与する所ありたるも、一般俘虜の衛生状態は良好とは謂い難く、高度の死亡率については注意を要す。輓近敵宜伝戦の激化に鑑み、現状を以て放置せんか、世界の与論亦不側の展開を示すことなきを保し難し斯くては我道義戦遂行に支障を生ずるのみならず、我戦力増強労務に対する俘虜の徹底的利用に方りても先づ衛生状態を良好ならしむること絶対必要なり。追て俘虜の海上輸送に方りては船腹の利用に努むるは勿論なるも、此の際に於ける俘虜の取扱に就いては昭和十七年陸亜密電第一五〇四号趣旨を更に徹底せしめられ度申添ふ。」閣僚と多数の政府当局者は、以上のような方法が捕虜に及ぼす影響を知つていた。かれらがとつたような是正手段は、まつたく不充分なものであり、しかも、その目指するところは、捕虜輸送に関する戦争法規の実行を保証することではなく、戦争遂行に使うために、捕虜の労働する能力を保存することであつた。
一九四三年と一九四四年に、日本海軍によつて、非人道的で非合法的な海上戦闘が行われた。雷撃を受けた船の乗客と乗組員のうちの生存者は殺害された。
大島大使は、戦争遂行に関して、ドイツの外務大臣と協議する権能を東條内閣から与えられていた。専門的問題は合同委員会の委員によつて直接協議されることになつていたが、方針の問題については、もつぱら大島とドイツ外務大臣リツペントロツプとの間で協議することが、最も重要であるという意見を大島は明白に述べた。一九四二年一月三日に、大島はヒツトラーと会談した。ヒツトラーは、当時連合国の船舶に対して行いつつあつたかれの潜水艦戦の方針を説明し、かつ、合衆国はきわめて急速に艦船を建造するかもしれないが、海上勤務に適する要員の訓練は長時日を要するから、合衆国のおもな問題は要員の不足であると述べた。大多数の海員が魚雷攻撃によつて失われたという話が広く流布されて、乗組員を新規に補充するのに合衆国が苦しむようにするために、ドイツの潜水艦に対して、魚雷を発射した後、水面に浮び上つて、救命艇を掃射せよという命令を出した、とヒツトラーは説明した。ヒツトラーに答えて、かれの説明した方針に大島は賛成であり、日本もこの潜水艦戦遂行方法に従うであろうと述べた。一九四三年三月二十日に、トラツクの第一潜水部隊の指揮官の発した命令には、次の命令が含まれていた。「敵船団に対しては、各潜水艦連繋し攻撃を集中して之を殲滅す。敵船舶及載貨の撃沈に止らず、敵船舶要員の徹底的撃滅を併せ実施すると共に、情況の許す限り船員の一部を捕捉し、敵情獲得に努む」と。
この非人道的な海上戦闘を行えという命令は、日本海軍の潜水艦長によつて実行された。一九四三年十二月十三日から一九四四年十月二十九日までの間に、日本の潜水艦は、イギリス、アメリカ及びオランダの商船八隻をインド洋で、アメリカ船一隻を太平洋で撃沈したときには、魚雷を発射した後に、水面に浮び上り、船長を艦内に連れて行こうと試み、または実際に連れて行き、それから救命艇の破壊と生存者の殺害を行つた。
連合国政府によつて繰返し抗議が行われた。これらの抗議には、正確な撃沈の日附及び位置と、雷撃された船舶の乗客及び乗組員に加えられた残虐行為の詳細が述べられていた。これらの抗議に対して、なんら満足な回答がなされなかつた。そして、船舶の撃沈は続けられ、その生存者の取扱いは改められなかつた。
一九四四年三月九日に、イギリス商船「ベハール号」が砲撃によつて撃沈されたときに、日本海軍がとつた行動は、これを例証するものである。百十五人の生存者は、巡洋艦「利根」によつて收容された。その日、後になつて、「利根」はこの撃沈と捕獲を旗艦「青葉」に報告した。「青葉」からは直ちに「利根」に対して、生存者を殺害せよという命令が信号された。二人の婦人と一人の中国人を含めて、十五人を一般人収容所に入れ、残りの百人を殺害することが、後になつて決定された。「利根」の艦長の命令によつて、これら百人の生存者は「利根」艦上で殺害された。
アメリカ船「ジーン・ニコレツト号」の生存者の虐殺は、日本海軍の用いた方法のもう一つの例である。この船は、一九四四年七月に、オーストラリアからセーロンへ向けての航行中に陸地から六百マイルばかりのところで、夜間に日本の潜水艦の雷撃を受けた。この船の乗組員は約百人であつたが、そのうちの約九十人が潜水艦に収容された。この船は撃沈され、その救命艇も砲火によつて粉砕されたが、全部は沈没しなかつた。生存者はいずれもうしろ手に縛られた。幾人かの高級船員は艦内に連れこまれたが、かれらがどうなつたかは、本裁判所にはわかつていない。その他の者は、潜水艦が生存者を捜しながら航行している間、前甲板に坐らせられていた。その間に、ある者は波にさらわれ、他の者は木か金属の棍棒で殴打され、時計や指輪のような私有物を強奪された。それから、かれらは日本兵の列の間を一人ずつ艦尾の方へ歩かせられ、日本兵は、捕虜が列の間を通るときに、これを殴打した。こうして、かれらは水中に投げこまれて溺死した。捕虜がこの列の間を通らされるのが全部すまないうちに、潜水艦は潜水してしまい、甲板上に残つていたこれらの生存者は、死を待つよりほかなかつた。しかし、中には泳いで助かつた者もいた。これらの者とこれらの者の助けによつて浮び続けた同僚とは、翌日飛行機によつて発見された。この飛行機は救助船をかれらの源流地点に導いた。こうして、二十二名の者がこの恐ろしい経験から生き残つた。そのうちのある者から、本裁判所は、日本海軍の非人道的な行為に関する証言を聞いた。
陸軍省軍務局の俘虜管理部長上村中将は、連合国との間に、捕虜と一般人抑留者に対して、ジユネーヴ條約の規定を適用することが協定さめてから、わずか数週間後、一九四二年四月二日に、台湾軍参謀長に通告して、「俘虜を生産事業に利用企図のもとに計画を進められつつあり」と述べ、台湾でこの目的のために利用できる人数を至急通報するように要請した。
一九四二月五月六日に、陸軍次官は捕虜の使役に関する方針を台湾軍参謀長に通告した。かれは次のように決定されたといつた。「俘虜は之を我生産拡充並に軍事上の労務に利用するを得。白人俘虜は逐次朝鮮、台湾及び満州に収容す。台湾に収容する俘虜は優秀技術者及び上級将校(大佐以上)を含ましむ。我生産拡充に於て使用に適せざるものは、現地に於て、速に開設さるべき俘虜収容所に収容さるべし」と。一九四二年六月五日に、上村中将は台湾軍参謀長に次のように指令した。「俘虜たる将校及び准士官の労役に関しては、一九〇三年の規則に禁ぜられある所なるも、一人と雖も無為徒食を許さざる我が国現下の実情に鑑み、労務に就かしめたき中央の方針なるに付、然るべく指導相成度」と。これらの訓令はすべての他の陸軍の関係部隊にも送られた。この指令のもとは内閣にあつた。というのは、一九四二年五月三十日に、総理大臣東條は、捕虜収容所を管轄下にもつ師団長に訓示を与え、その中で、「我国現下の情勢は、一人として無為徒食するものあるを許さないのであります。俘虜も亦此の趣旨に鑑み大に之を活用せらるる様注意を望みます」といつたからである。一九四二年六月二十五日に、東條は新任の捕虜収容所長に訓示を与えた。いわく、「抑我が国は俘虜に対する観念上、其の取扱に於ても欧米各国と自ら相異るものあり、諸官は俘虜の処理に方りては、固より諸條規に遵由し、之が適正を期せざるべからずと雖も・・・・彼等をして一日と雖も無為徒食せしむることなく、其の労力特技を我が生産拡充に活用する等、総力を挙げて大東亜戦争遂行に資せんことを努むべし」と。傷病捕虜や栄養不良になつていた者に、病気や栄養不良や疲労で死ぬまで、軍事的な作業に無理に働かせるために、絶えず酷使したり、殴打したり、突いたりしたのは、少くともある程度まで、これらの訓示の適用に由来している。一九四二年六月二十六日にも、東條はこれらの訓示を新任の捕虜収容所長の一団に対して与え、さらに一九四二年七月七日にも、同様な他の一団に対して与えた。
戦争遂行に役立たせるために、捕虜を使役する東條の計画を内閣が支持したことは、内務省警保局外事課発行の「外事月報」一九四二年九月号によつて示されている。日本における労務不足のために、企画院では、陸軍省軍務局俘虜管理部の同意を得て、一九四二年八月十五日に会議を開いたが、この会議で、捕虜を日本に移し、国家総動員計画の産業における労務の不足を緩和するために、かれらを使役することに決定したことをこの月報は示していた。この月報によると、捕虜を鋼業、荷役及び国防土木建築作業に使役することが決定されていた。厚生省及び陸軍と協力して、地方長官が捕虜とその使役との監督の任にあたるものとすることについて、完全な計画が協定されていた。閣僚とともに、星野と鈴木がこの決定に加わつた。星野は、経済企画に長い経験があるというので、東條によつて内閣書記官長に選ばれ、鈴木と協力して、このような仕事に主として努力する任務を与えられた。鈴木は東條によつて企画庁の総裁として選任されていた。星野は一九四一年十月十八日に内閣書記官長となり、一九四四年七月十九日に東條内閣が瓦解するまで在任した。鈴木は一九三九年五月三十日に企画院参与となり、星野が一九四一年四月四日に企画院総裁及び国務大臣を免ぜられたときに、その後任となり、第三次近衛内閣と東條内閣との国務大臣及び企画院総裁として、一九四四年七月十九日に東條内閣が総辞職するまで、引続いて在任した。
一九四二年の初めに、捕虜と一般人抑留者に対する食糧と衣料の支給に関しては、捕虜の国民的風習と民族的習慣を考慮に入れると日本政府は約束した。これは全然実行されなかつた。この約束をした当時に、実施されていた諸規則によると、収容所長が捕虜や抑留者に糧食や被服を支給するにあたつては、陸軍の給与に関する基本給与一覧表に従わければならなかつた。これらの所長は、収容者に対する給与量を定める権限が与えられていたが、この決定は、一覧表に規定されている範囲内で行うように指令されていた。食事に関する限り、これらの規則は、他の食糧が収容所の近くにあつた場合にでも、捕虜と抑留者に充分な食物を与えることを禁じていると解釈されていた。この規定は、収容者が栄養不良で多数死亡しつつあつたときでさえも守られた。食事に関する違つた国民的風習や習慣のために、捕虜や抑留者が給与食では生存できないということが、管理当事者に間なくわかつてきたにかかわらず、給与一覧表によつて規定された食糧の量と種類は、戦争中に規定量が減らされたほかは、実質的には変更されなかつた。一九四二年十月二十九日には、「内地重工業労働者の米麦消費量等を較量し」、将校または文官であつた捕虜と抑留者に対する配給は、一日四百二十グラムを超えないように減らせという命令が全收容所長に発せられた。一九四四年一月には、米の配給量がさらに最高一日三百九十グラムに減らされた。収容者が栄養不良になり始めると、かれらは病気にかかりやすくなり、また強制された重労働ですぐに疲労した。それにかかわらず、収容所長は、働かざる者は食うべからずという東條の訓示を励行し、配給量をさらに減らした。そして、ある場合には、病気や負傷のために働けなくなつた者には、これをまつたく与えなかつた。
規則によれば、捕虜と一般人抑留者は、かれらが前に着ていたものを、すなわち、かれらが捕虜となつたり、抑留されたりしたときに着ていたものを着ることに定められていた。この規則が収容所長によつて励行された結果として、多くの収容所では、収容者が戦争の終らないうちにぼろをまとつていた。捕虜と抑留者が前に着ていた衣服が使用に堪えなくなつた場合には、収容所長はある種類の被服を貸与することが規則で許されていたことは事実であるが、これはまれな場合にしか行われなかつたようである。
日本陸海軍は、その規則によつて、一年間の使用に充分な薬品と医療器具の補給量を持ち合わせ、また貯蔵していなければならなかつた。多くの場合、これは赤十字の薬品と医療品を没収することによつて行われたが、この医療品は、大部分が日本の軍隊や収容所の監視員のためのものとして貯蔵され、または使用された。捕虜と一般人抑留者は、これらの倉庫からの薬品や医療品をまれにしか供給されなかつた。降伏のときに、これらの医療品が捕虜収容所や一般人抑留所の内部やその附近で、多量に貯蔵されているのが発見されたが、そこでは、医療品の不足のために、捕虜や抑留者が恐ろしい率で死んでいたのであつた。
土肥原やその他の司令官のもとで、本州の東部軍管区の参謀として勤務した鈴木薫二は、本裁判所で証言した。管下の收容所長や抑留所の監視員に対して、捕虜に渡すために送られた赤十字の救恤品小包を没収することを、許可したことを鈴木は認めた。このようなことは、日本内地とその海外領地や占領地にあつた収容所と抑留所において、普通の慣行であつたことが証拠によつて示されている。部下の監視員が捕虜を殴つたり、他の方法で虐待していたことを知つていたことも、鈴木は附随的に認めた。
捕虜と一般人抑留者に対して、医療品を充分に支給しなかつたか、まつたく支給しなかつたことは、すべての戦争地域に共通のことであり、数千の捕虜と抑留者を死に至らせた一つの原因であつた。
規則には、陸軍の建物、寺院及びその他の現に存在する建物を捕虜や抑留者の収容所として使用することが規定されていた。規則には、また、戦時生産に捕虜と一般人抑留者を使用する雇雇者は、かれらの必要とする宿舎を供与することが規定されていた。それにもかかわらず、供与された宿舍は、多くの場合に、雨露を凌ぐ設備として不充分であるか、非衛生的であるか、またはその両者であつた。タイのカンブリ収容所の日本軍副官は、二十ばかりの一群の空小屋で、病気の捕虜のために病院を開いたが、それは少し前に引払つたばかりの日本の騎兵連隊が馬小屋として使つていたものであつた。太平洋諸島と泰緬鉄道沿線の收容所の大部分では、使うことのできる家といえば、アタツプの葉ぶきで、土間の小屋だけであつた。これらの収容所は、そこに住むことになつていた捕虜の労働によつて建てられ、小屋ができ上るまで、捕虜は雨ざらしの野天生活をさせられるのが普通の慣行であつた。しかし、ある場合には、伝染病の発生で空家になつていたアタツプの葉ぶきの小屋に移され、それによつて建築の労働を免れた。これは泰緬鉄道建設工事の六十キロ・キヤンプで起つたこである。そこでは、少し前まで、コレラで病死したビルマ人労働者がはいつていた小屋に、オーストラリア人約八百人が宿泊させられたのである。一九四四年八月に、モルツカ諸島のラハツトでは、以前にジヤワ人作業隊の宿舎であつたものが、捕虜の収容所に改造された。オランダ人とイギリス人の捕虜が収容所に到着してみると、そこにはジヤワ人の死体でいつぱいになつていた。イギリス人捕虜一千人とアメリカ人捕虜一千人を、朝鮮の三つの神学校に収容することを板垣が計画していると通告されたときに、木村は陸軍次官として、収容予定の建物は、捕虜にとつては、よすぎるのではないかと尋ねた。
日本政府の方針は、捕虜と一般人抑留者を作戦に直接関係のある仕事に使うことであつた。作戦地域で、かれらは軍用飛行場、道路、鉄道、船渠及び其の他の軍用工作物の建設に使われ、また、軍用物資を積んだり、卸したりする荷役人夫として使われた。日本の海外領地と内地とで、右の作業のほかに、鉱山、軍需及び航空機の工場、その他作戦に直接関係をもつた作業につくことを強制された。捕虜と一般人抑留者が留置されていた収容所は、通例かれらの安全を無視して、作業場の近くに置かれていた。その結果として、作業をしているときも、していないときも、かれらは空襲の危険に不必要にさらされていた。ある場合には、関係軍用施設または工場に対する連合軍の空爆を妨げるために、故意に収容所をそのような場所に置いたという証拠がある。
戦争遂行に直接役立つ仕事に、捕虜と一般人收容者を使用するという方針を決定し、この方針を実行に移す制度を確立した上で、日本側はさらに一歩を進め、占領地の原住民から労働者を徴用することによつて、右の人的資源を補充した。この労働者の徴用は、虚偽の約束や暴力によつて達成された。徴用されると、労働者は收容所に送られ、そこに監禁された。これらの徴用された労働者と、捕虜及び一般人抑留者との間に、ほとんど、またはまつたく区別が設けられなかつたようである。かれらは、すべて、体力の続く限り使われることになつている奴隷労働者と見做されていた。この理由で、本章において「一般人抑留者」という言葉を使用するときは、われわれはいつでもこれらの徴用された労働者をも含めたのである。これらの徴用された労働者は、このように異常な、密集した生活状態に適用される衛生の原則について一般に無知であり、かれらを捕えた日本人によつて強制された監禁と労役との非衛生的な状態から来る疾病に、いつそう容易に倒れた。このような事実によつて、かれらの運命はいつそう悪いものにされていた。
捕虜と一般人抑留者に対して、必要な監視員の数を減らすために、一九四三年の初期に、戦争法規に反する規則が陸軍省から出された。これには、「俘虜を収容シタルトキハ速ニ逃走セサル旨ヲ宣誓セシムへシ。前項ノ宣誓ニ応セサル者ハ逃走ノ意思アルモノト見做シ、之ヲ厳重ニ取締ルモノトス」と規定されていた。この「厳重ニ取締ル」ことは、実際には、要求されている宣誓を行うまでは、給養を減らされて独房に入れられるか、拷問されるという意味であつた。一九四二年八月に、シンガポールでは、要求された宣誓を拒否した一万六千人の捕虜は、無理に宣誓させるために、営舎の中庭に迫いこまれ、そこに四日の間食物も便所設備もなく放つて置かれた。その結果として生じた状態は、あまりに不快極まるもので、説明にたえない。宣誓の署名を拒否した香港の捕虜のある者は、食物なしに監獄に収容され、一日中ひざまずかされた。かれらは動くと殴打された。サンダカンの収容所で、部下とともに署名を拒否した先任の捕虜は、直ちに取押えられ、殴打された。銃殺隊が整列した。部下が署名することを承諾したので、やつとかれは死を免れた。バタヴイアとジヤワの収容所の捕虜は、宣誓に署名するまで殴打され、食物を与えられなかつた。四国の善通寺収容所では、四十一人の捕虜が宣誓を拒否したために、一九四二年六月十四日から一九四二年九月二十三日まで閉じこめられ、最後には、どこまでも拒むならば、殺してしまうと威嚇された。すでに述べたように、捕虜に関する規則は、われわれが引用した他の規則によつて、一般人抑留者にも適用された。この強制によつて得た宣誓を励行させるために、右の規則は、さらに、「宣誓解放ヲ受ケタルモノ其ノ宣誓ニ背キタルトキハ、死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処ス。前項ノ者兵器ヲ執リ抗敵シタルトキハ死刑ニ処ス」と規定していた。規則には、さらに、「其ノ他ノ宣誓ニ背キタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」と規定されていた。この後の規定は、この規則の別の條項によつて説明されている。それは次の通りである。「俘虜収容所長俘虜ヲ派遣(すなわち、捕虜を収容所から使役または作業所に送ること)スルニ方リテハ、其ノ有スル技能ノ外特ニ其ノ性質、思想、経歴等ニ就キ周密ナル調査、観察ヲ為シ、逃走及不慮ノ災害等ノ予防ニ努メ、且派遣ニ先テ所要事項ニ関シ厳粛ナル宣誓ヲ為サシムルモノトス」と。板垣は朝鮮軍司令官として、一九四二年九月四日附の報告で、陸軍大臣東條に、自分の管轄内にある将校と准士官を含めて、一切の捕虜を努働につかせる考えであると知らせた。かれの言葉によれば、「俘虜は一人と雖も無為徒食せしむべからず」というのであつた。かれの定めた規則の一つは、次のようであるとかれは述べた。「俘虜による破壊を警戒すること緊要なり、之が為要すれば宣誓をなさしめ厳重なる罰則を設くるを可とす」と。一九四二年九月一日に、台湾軍司令官から、東條は次の報告を受けた。「富集団より移管せる俘虜パーシバル中将以下三三九名、陸軍少将または海軍少将六、准将二七、陸軍大佐または海軍大佐二五、陸軍または海軍中佐以下将校一三〇、下士官二一〇、文官六は、一九四二年八月三十一日台湾俘虜収容所に收容せり。当初パーシバル中将以下宣誓を拒否したるが、結局三名(准将一、海軍大佐一、海軍機関中尉一)を除く他の全員署名す」と。
捕虜と一般人抑留者に、逃走しないこと、その他の日本政府の規則や命令に違反しないことを強制的に宣誓させるために、日本政府が定め、かつ実施したこの一連の規則は、一般の戦争法規に違反したものである。この規則は、戦争法規を無視し、違反した日本政府の方針の一部として考え出され、制定され、維持された。
捕虜收容所と一殺人抑留所の所長に対する訓示の中で、東條は部下の統制を強化し、捕虜の監督を厳重にせよと述べ、「厳格なる紀律に服せしむるを要す」といつた。一九四二年五月三十日に、善通寺の師団長に対する訓示の中で、この命令を繰返して、かれは次のようにいつた。「俘虜は人道に反しない限り厳重に取締り、苟も誤れる人道主義に陥り、又は収容久しきに亘る結果情実に陥るが如きことない様注意を要します」と。
一九二九年のジユネーヴ俘虜條約は、捕虜が捕虜である間に犯した違反行為に対する処罰に関して、次のように規定している。「一切ノ体刑、日光ニ依リ照明セラレザル場所ニ於ケル一切ノ監禁及ビ一般ニ一切ノ残酷ナル罰ヲ禁ズ」。また、「同様ニ個人ノ行為ニ付団体的ノ罰ヲ課スルコトヲ禁止ス」。捕虜に加えられる処罰に対する他の重要な制限も含まれている。それらはすべて捕虜に対する人道的な取扱いを保障するためにつくられたものである。これらの制限の一つは、この條約の規定で、逃走とその企てを取扱つているものに含まれている。この規定は、次の通りである。「逃走シタル俘虜ニシテ其ノ軍ニ達スル前又ハ之ヲ捕へタル軍ノ占領シタル地域ヲ離ルルニ先チ再ビ捕ヘラレタル者ハ懲罰ノミニ付セラルベシ。逃走ノ企又ハ其ノ成就後ニ於テ逃走ニ協同セル逃走者ノ同僚ハ其ノ理由ニ依リ懲罰ノミニ付セラルベシ。拘留ハ俘虜ニ課セラルベキ最重キ即決罰トス。同一罰ノ期間ハ三十日ヲ超過スルコトヲ得ズ。」この場合に、懲罰と即決罰とは同義語として用いられた。さらに、次のことも規定されている。「逃走ノ企ハ再犯ノ場合ト雖モ俘虜ガ該企中人又ハ財物ニ対シテ犯セル重罪又ハ軽罪ニ付裁判所ニ訴ヘラレタル場合ニ於テ刑ノ加重情状トシテ考慮セラレザルベシ。」
日本がこの條約を確実に了解していたことは、一九三四年に、その批准に対してなされた反対によつて示されている。この條約のもとでは、「俘虜に対しては、日本兵に対する如き厳罰を科することを得ず、従つて日本軍人を同様に取扱ふには、日本陸海軍の懲罰令の修正を必要とし、斯る修正は軍紀の見地より望ましからず」と日本はいつた。條約の批准に対する反対は、実のところは、捕虜を虐待する軍部の方針を妨げるような明確な誓約を避けたいと、軍部が希望していたということである。
太平洋戦争の初期に、そして、日本政府が條約の規定を、連合軍捕虜と一般人抑留者とに適用するという約束を与えた後に、その約束に反する法令や規則が設けられた。一九四三年に、次の規則が公布された。「俘虜不従順ノ行為アルトキハ監禁、制縛其ノ他懲戒上必要ナル処分ヲ之ニ加フルコトヲ得」。この規則に基いて、拷問及び集団的処罰とともに、体刑が行われた。最も軽微な違反のために、またはまつたく違反がないのに、体刑を科するということは、捕虜と一般人抑留者の収容所が存在したすべての地域で、共通な慣行であつた。この罰の最も軽い形式は、犠牲者を殴打することと蹴ることであつた。意識を失つた者は、冷水または他の方法で回復させられ、回復すれば、またこのやり方が繰返された。この処罰の結果として、数千名が死亡した。ある場合には、飢餓と病気による衰弱によつて、死が早められた。しばしば用いられた他の残酷な処罰の方法は、次のものであつた。長時間にわたつて、帽子も他の日除けもなしに、熱帯の炎熱下に犠牲者をさらしたままにしておくこと、ときには腕が関節からはずれることもあるような方法で、犠牲者を吊すこと、害虫に襲われるようなところに、犠牲者を縛りつけておくこと、何日間も食物なしに、犠牲者を狭い拘禁所の中に閉じこめておくこと、何週間も食物も明りも新鮮な空気もない地下の独房に、犠牲者を閉じこめておくこと、長い間鋭い角のある物の上に、犠牲者を無理に窮屈な姿勢でひざまずかせること。
戦争の條規を直接に無視して、個人の行為に対する処罰として、特に日本側が違反者を発見することができないときに、集団的処罰が普通に用いられた。集団的処罰の通常の方法は、関係していた一団のすべての者に、掌を上向きにして手を膝の上に置いて正坐するとか、ひざまずくとかいうような窮屈な姿勢をとらせ、何日間も、日の出から日没まで、その姿勢のままいることを強制することであつた。他の方法の集団的処罰も用いられた。たとえば、マレーのハヴエロツク・ロード収容所で用いられたようなもので、ここでは、銃床で殴打する日本兵に追い立てられながら、捕虜がガラスのかけらの上を素足で円形に駆けさせられた。一九四三年三月九日に、数々の違反行為に対して、死刑または終身刑もしくは十年以上の禁錮刑を規定した法律が出された。この法律の目新しい特徴は、各違反行為の場合に、明示された違反行為を犯す結果となつた集団行動のいわゆる「首魁」には、死刑または他の厳罰を科し、関係していたかもしれない他のすべての者には、同一の罰またはそれより少し軽い罰を科することを規定していたことである。この法律に基いて、どんな点から見ても、個人の行為にすぎなかつたのに、捕虜または一般人抑留者の集団に対して、しばしば集団的処罰が加えられた。この法律は、さらに、「俘虜ヲ監督シ、看守シ又ハ護送ス者ノ命令ニ反抗シ又ハ服従セザル者」は死刑に処することを規定した。
また、「俘虜を監督シ、看守シ又は護送スル者ヲ其ノ面前ニ於テ又ハ公然ノ方法ヲ以テ侮辱シタル者」は五年の懲役または禁錮に処することを規定していた。これは、捕虜に関する法律を変更することによつて、日本政府がジユネーヴ條約に関するその約束に違反した例であり、このような例は多数にある。
太平洋戦争中に、すでに述べた約束に反して、日本の捕虜に関する規則は、逃走した捕虜を日本陸軍の脱走者と同じように処罰することができるように修正された。一九四三年三月九日の法律は、次の規定を含んでいた。「党与シテ逃亡シタル者ハ首魁ハ死刑又ハ無期若ハ十年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ死刑又ハ無期又一年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」。捕虜に強制されたところの、逃走しないという宣誓に関する規則とともに、右の規定は、すべての収容所で実施されていた逃走に関する規則であつた。これらの規則は、国際法に直接違反するものであり、またわれわれがすぐ前に指摘したように、日本が適用すると約束した條約に反するものであつた。逃走を企てたり、逃走して再び捕えられたりしたすべての捕虜に対しては、これらの規則に基いて、ほとんど例外なしに、死刑が科せられた。また、これらの規則によつて、捕虜の逃走を助けた仲間も処罰され、しかもしばしば死刑に処せられた。ある収容所では、捕虜はいくつかの集団にわけられ、もし一人が逃走を企てたり、逃走に成功したりした場合には、その集団に属するすべての者を殺すという慣行があつた。多くの場合には、形ばかりの裁判さえも省かれた。次の収容所では、逃走を企てたために死刑が科せられたことが立証されている。中国遼寧省の奉天(一九四三年七月)、中国の香港(一九四三年七月)、マレーのシンガポール(一九四二年三月)、ビルマのメルグイ(一九四二年)、ボルネオのタラカン(一九四二年及び一九四五年)、ボルネオのポンチアナツク(一九四二年六月)、ボルネオのバンジエルマシン(一九四二年七月)、ボルネオのサマリンダ(一九四五年一月)、スマトラのパレンバン(一九四二年三月)、ジヤワのバタビア(一九四二年四月)、ジヤワのジヤテイ・ナンゴール(一九四二年三月)、ジヤワのバンドン(一九四二年四月)、ジヤワのスカブミ(一九四二年五月)、ジヤワのジヨグジヤカルタ(一九四二年五月)、ジヤワのジマヒ(一九四二年五月)、セレベスのマカツサル(一九四二年九月)、モルツカ諸島のアンボイナ(一九四二年十一月)(一九四五年四月)、オランダ領チモールのウサバ・ベサール(一九四二年二月)、フイリツピンのカバナツアン(一九四二年六月)、日本の本山(一九四二年十一月)、日本の福岡(一九四四年五月)、ウエーキ島(一九四三年十月)、ボルネオのラナウ(一九四五年八月)。
日本民族の優越性をアジアの他の民族に感じさせるために、連合軍の捕虜に対して、暴行、侮辱及び公然の恥辱を加える方針を日本はとつていた。
一九四二年三月四日に、陸軍次官木村は、板垣が司令官であつた朝鮮軍の参謀長から、次のような電報を受取つた。「半島人の米英崇拝観念を一掃して必勝の信念を確立せしむる為頗る有効にして、総督府及軍共に熱望しあるに付、英米俘虜各一千名を朝鮮に収容せられ度特に配慮を乞ふ」と。当時の朝鮮総督は南であつた。一九四二年三月五日に、木村は白人捕虜約一千名が朝鮮釜山に送られることになつていると回答した。一九四二年三月二十三日に、板垣は陸軍大臣東條に対して、捕虜を思想宣伝方面の目的に使用する計画について報告し、次のように述べた。「米英人俘虜を鮮内に収容し、朝鮮人に対し帝国の実力を現実に認識せしむると共に、依然朝鮮人大部の内心抱懐せる欧米崇拝観念を払拭するための思想宣伝工作の資に供せんとするに在り」と。板垣はさらに続けて、第一収容所は朝鮮京城の元岩村製糸倉庫に置くことになつているといつた。かれの初めの計画は、釜山の神学校に捕虜を収容することであつたが、その建物は捕虜にはよすぎると木村が反対したので、その計画が放棄されたからである。計画の主要な点として、板垣は次のことを挙げた。報告の冒頭で述べた目的を達成するめに、朝鮮の主要都市で、特に民衆の心理状態がよくないところで、捕虜を種々な作業に使用すること、収容所の施設を最小限度に切り下げること、捕虜の収容、監督及び警戒に関しては、捕虜を朝鮮に送る目的に照らして、遺憾のないようにしなければならないこと。
一九四二年四月二日に、台湾軍参謀長は、捕虜を軍需生産増強のための労働としてだけではなく、「訓育指導上の資料として」使用する計画であるということを、俘虜情報局に報告した。
このように、戦争法規に違反して、日本に都合のよい宣伝のために捕虜を利用する計画が実施された。一九四二年五月六日に、陸軍次官は台湾軍参謀長に対して、「白人俘虜は逐次朝鮮、台湾、満州等に収容するという通牒を出した。かれはつけ加えて、「警戒取締の為朝鮮人及台湾人を以て編成する特殊部隊の充当を予定す」といつた。連合軍捕虜に対して侮辱を加え、公衆の好奇心にさらす計画に、朝鮮人と台湾人を参加させることによつて、思想的効果を挙げることになつていた。
一九四二年五月十六日に、陸軍次官木村は、シンガポールに司令部を置いていた南方軍の司令官に対して、シンガポールの白人捕虜は、五月と八月の間に、台湾軍と朝鮮軍に引渡すようにと通告した。
白人捕虜は引渡され、朝鮮に送られた。マレーの戦闘で捕えられた約千人の捕虜は朝鮮に到着し、京城、釜山及び仁川の市街を行進させられ、十二万の朝鮮人と五万七千の日本人の前を列をつくつて歩かされた。これらの捕虜は、それまでに栄養不良になり、虐待され、放置されていたので、かれらの健康状態は、かれらを見た者に軽蔑の念を起させるようになつていた。板垣の参謀長は、この日本の優越性の示威に関して、自分が大成功であつたと考えていることを木村に報告するにあたつて、次の朝鮮人見物人の言葉を引用した。「あの力のないひよろひよろした様子を見れば、日本軍に敗れるのは無理もない。」ほかの朝鮮人見物人の次の言葉も引用した。「半島青年が皇軍の一員として捕虜の監視をしているのを見たとき、涙が出るほど嬉しかつた。」板垣の参謀長は、「一般に米英崇拝思想の一掃と、時局認識の透徹を期する上に於て多大の効果を収めたるが如く」という意見を述べて、報告を結んだ。
ビルマのモールメンのような遠く離れたところでも、捕虜を列をつくつて歩かせるというこの慣行が行われた。一九四四年二月に、二十五人の連合軍捕虜が同市の市街を列をつくつて歩かせられた。かれは衰弱した状態にあつた。そして、最近にアラカン戦線で捕えられたという偽りの、ビルマ語の掲示を持たされた。行進に同行した日本人将校によつて、かれらは嘲笑され、軽蔑の的にされた。
戦争法規の実施と、捕虜及び一般人抑留者の管理とについて、太平洋戦争が起つてから、日本はある変更を加えたが、それは名目的なものにすぎず、戦争法規の実施を確実にするものではなかつた。戦争法規の実施について、中日戦争の遂行にあたつて、日本政府が示した態度は、太平洋戦争が始まつても、実際には変らなかつた。政府内の組織と手続の方法とに、ある変更が加えられはしたが、戦争法規の実施を確実にするための真の努力は、少しも払われなかつた。実際において、逃走の企図に関する規則に示されているように、加えられた変更は、戦争法の重大な違反を行うことを命ずるものであつた。中日戦争の間、捕虜と一般人抑留者の管理のために、日本政府は特別な機関を一つも創設したことがなく、ヘーグ條約とジユネーヴ條約によつて必要とされている捕虜情報局を全然設けていなかつた。武藤は次のように述べた。「中国人で捕へられた者を俘虜として取扱うか否かは全く問題でありました。そして一九三八年に遂に、中国の戦争は、実は戦争でありますが、公には「事変」として知られていますので、中国人で捕へられた者は俘虜として取扱はれないといふことが決定されました」と。東條は、それが事実であること、また、太平洋戦争で敵対行為が始まつてから、日本はヘーグ條約とジユネーヴ條約を遵守しなければならないと考え、この理由によつて、俘虜情報局を創設させたことを陳述した。このように太平洋戦争を逐行するにあたつて、日本はヘーグ條約とジユネーヴ條約を違守しなければならないと考えたと、東條が陳述したことは、一九四三月八月十八日の枢密院審査委員会の会議で、かれが述べたことと照し合わせて、解釈しなければならない。このときに、「国際法の解釈は戦争遂行の視点より独自の見解を以てすべく」とかれは述べた。捕虜と一般人抑留者の取扱いに関する日本政府の方針は、この考えを基礎としてつくり上げられたものである。
一九四一年十二月十八日に、合衆国の国務長官は、スイスのアメリカ公使館に対して、次のことを日本政府に通告するように、スイス政府に要請することを指令した。すなわち、合衆国政府は、一九二九年七月二十七日に調印されたジユネーヴ俘虜條約とジユネーヴ赤十字條約との両方を遵守する意向であること、さらに、ジユネーヴ俘虜條約の規定を、同政府が抑留する一般敵国人に対しても拡張して適用する意向であること、日本政府がこれらの條約の規定を右に示したように相互的に適用することを希望すること、合衆国政府は右の点について日本政府に意思表示をしてもらいたいこと。この照会は、一九四一年十二月二十七日に、スイス公使によつて、日本の外務大臣東郷に伝達された。
イギリス政府とカナダ、オーストラリア、ニユージーランドの各自治領の政府も、一九四二年一月三日に、東京駐在のアルゼンチン大使を通じて照会をした。この照会の中で、これらの政府は、一九二九年のジユネーヴ俘虜條約の條項を日本に対して遵守すると述べ、日本政府が同様な声明を行う用意があるかどうかを尋ねた。
一九四二年一月五日に、アルゼンチン大使は、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニユージーランドに代つて、さらに覚書をした。それは、捕虜に食物と衣服を支給することに関する同條約の第十一條と第十二條の適用について、両当事国が捕虜の国民的と民族的の慣習を考慮することを申入れたものである。
これらの照会を受取ると、東郷は陸軍省、内務省、拓務省の意見を求めた。その当時、東條は総理大臣兼陸軍大臣、武藤は陸軍省軍務局長であり、佐藤は軍務局にあつて武藤の補佐をしており、木村は陸軍次官、嶋田は海軍大臣、岡は海軍省軍務局長であり、星野は内閣書記官長であつた。
連合国で生活している日本人の安全について、東郷は心配していた。この理由から、右の照会に対して好意的な返事をしたいと望み、そのように條約局に指示した。そのときに、数十万に上る敵国在住日本人の運命は、日本の権力内にはいる捕虜と一般人抑留者に対する日本の取扱いによつて、影響を受けるであろうとかれは指摘した。陸軍省は東郷に同意した。一九四二年一月二十三日に、木村は東郷に対して、次のように告げた。「ジユネーヴ俘虜條約は御批准あらせられざりしものなるに鑑み、右條約の遵守を声明し得ざるも、俘虜待遇上之に準じて措置することには異存なき旨通告に止むるを適当とすべし。俘虜の食料及衣類の補給に関しては、俘虜の国民的民族的習慣を適宜考慮することに異存なし」と。
アメリカとイギリスの照会に対して、東郷は一九四二年一月二十九日に回答をした。合衆国政府へのかれの通牒は、次の通りである。「日本帝国政府は一九二九年七月二十七日のジユネーヴ赤十字條約の締約国として同條約を厳重に遵守し居れり。日本帝国政府は俘虜の待遇に関する一九二九年七月二十七日の国際條約を批准せず、従つて何等同條約の拘束を受けざる次第なるも、日本の権内にあるアメリカ人たる俘虜に対しては、同條約の規定を準用すべし。」同じ日附で、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニユージーランドの各政府に宛てられた通牒は、次の通りである。「帝国政府は一九二九年七月二十七日附の俘虜の待遇に関する條約は批准し居らざるを以て何等之に拘束せらるる所無きも、帝国の権力下にあるイギリス、カナダ、オーストラリア及びニユージーランドの俘虜に対しては右條約の規定を準用すべく、俘虜に対する食料及衣料の支給に当りては、相互的條件の下に俘虜の国民的及民族的習慣を考慮すべし」と。同じ誓約は、その他の運合国にも与えられた。
これらの規定を一般人抑留者に拡張することには、陸軍省が同意しなかつたので、抑留非戦闘員に対する俘虜條約の適用に関して、一九四二年一月二十七日に、東郷はかれの次官を通じて、陸軍省に問合わせた。会議の後に、陸軍省は、連合国にいる日本国民を保護しようとする東郷の計画をさらに認め、一九四二年二月六日に、木村が東郷に次のように知らせた。「一九二九年のジユネーヴ俘虜條約は、日本に対し何等拘束力を有せざるも、同條約の原則を、準用し得る範囲に於て、抑留非戦闘員にも準用することに異存なし、但本人の自由意思に反し、労役に服せしめざるを條件とす」と。
一九四二年二月十三日に、合衆国政府に対して、東郷は次のように通告した。「帝国政府は、本戦争中、敵国人たる抑留非戦闘員に対し、一九二九年七月二十七日の俘虜條約の規定を相互條件の下に於て能ふ限り準用すべし。但し交戦国が本人の自由意思に反し、労役に服せしめざることを條件とす」
一九四二年一月二十九日に、イギリス連邦諸国にあてて、東郷が日本は捕虜に衣服と食糧を与えるにあたつて、捕虜の国民的と民族的の習慣を考慮するという誓約をしたことを認めて、合衆国はこの問題について別の照会を出した。この照会は、一九四二年二月二十日附であつて、合衆国政府はジユネーヴ條約第十一條と第十二條に従い、捕虜についても、一般人抑留者についても、同じ規定に拘束されるものであり、従つて、日本政府も、同じように、捕虜と一般人抑留者の取扱いについて、右の規定に従うことを期待すると述べてあつた。東郷は、この照会に対して、一九四二年三月二日に、次のように回答した。「帝国政府に於ても帝国の権内に於ける米国人俘虜及び抑留非戦闘員の待遇に関し、食糧及び衣服を支給する上に於て、人種的、国民的風習を考慮に入るる意向に有之候」と。
この誓約の交換によつて、日本政府とその他の交戦国政府を拘束する厳粛な合意が成り立つた。その合意というのは、一九二九年七月二十七日のジユネーヴ俘虜條約の規定を、捕虜にも一般人抑留者にも同じように適用すること、この條約によつて要求されているように、食糧と衣服をかれらに支給する際には、かれらの国民的と民族的の習慣を考慮すること、抑留者を強制的に働かせないことであつた。この合意は、相互主義の精神において、すなわち、それぞれ他方がしたことに対応して同じことをするというように、双方によつて同等に、右の條約を適用すべきことを定めたものである。この合意によつて定められた右の規則に対する唯一の例外は、「準用」という留保に基いて、正当化することができるようなものだけであつた。日本の国内法と抵触するという理由で例外を設けることは、この合意が許さなかつた。そのことは、解釈上で明白であり、また次のような東郷の証言によつて示されている。「本件に関する米英両政府よりの照会は、事務上の手続に従つて、外務省の主管局たる條約局より本件に関し決定をなす権限ある省として陸軍省に取次がれた。これに対し外務省の受領した回答は、日本はジユネーヴ條約を準用するということであり、右は両政府に取次がれた。
「検察側は右の回答により、日本は同條約を批准したと同じ程度にこれに拘束されるものとなすものの如くであるが、余は日本は本條約を事情の許す限り適用する義務を負うものであると解した。(余は今猶斯く解するものである)余は準用とは、重大なる支障なき限り條約を適用する意味であると解した。更に余は(此は余自身の考えであるが)條約の要件が国内法に抵触する場合には條約が優先するものであると解した。」連合国の照会に対する回答に関して、他の省との会議を司会していた條約局長が、右のことをさらに確認した。
この合意ができたときには、東條内閣の閣僚は、われわれの解釈したように、連合国に了解させようと考えていたにもかかわらず、かれらはこの合意を守らなかつた。それどころか、この合意は、日本人が連合国の手によつて捕虜となるか、抑留されるかした場合に、かれらが必ずよい取扱いを受けるようにする手段として使われた。連合国の照会に対してなすべき回答について、東郷が陸軍次官木村の意見を求めたときに、木村はこれに答えて、日本は俘虜條約を遵守すると「通告するを適当とすべし」と述べたが、この言葉の前に、天皇がこの條約を批准していない事実にかんがみ、これを遵守する意思を声明することはできないと述べた。その後の日本の政府は、この條約を実行しなかつた。というのは、国務大臣たちは、連合国に対するこれらの誓約を、捕虜と抑留者の利益のために、新たな追加的義務を果す約束であると考えたにもかかわらず、捕虜と抑留者を担当している部下に対して、この新しい約束を実行に移すように、新たな命令や指示を全然出しておらず、この約束の実行を確実にする組織をまつたく設けなかつたからである。かれらはこの合意を履行する努力をしないで、その犯罪的な不履行をつとめて連合国側にさとらせまいとした。そのために、捕虜と抑留者の収容所を視察することを拒否したり、捕虜または抑留者が出そうとする手紙の長さ、内容、数を制限したり、これらの捕虜と抑留者に関する一切の報道を押えたり、捕虜や抑留者の取扱いに関して、自分たちにあてられた抗議や照会に回答を怠り、または虚偽の回答をしたりした。
捕虜と一般人抑留者の取扱いに関する各種の條約の効果と、その点についての交戦国の義務とについては、この判決の初めの部分で、すでに言及しておいた。ジユネーヴ俘虜條約を「準用」的に遵守するという日本政府の誓約または約束については、それをどう考えようとも、すべての文明国が承認した戦争に関する慣習法規によれば、捕虜と一般人抑留者には、すべて人道的な取扱いを与えなければならないということは、動かすことのできない事実である。本判決のこの部分で挙げられている日本軍の甚だしく非人道的な取扱いこそは、特に非難すべきものであり、犯罪的なものである。このように非人道的行為な罪を犯した者は、自己または自己の政府がある特定の條約の拘束を受けていないという口実によつて、罰を免れることはできない。法の一般原則は、上記の諸條約には関係なく存在している。條約は単に既存の法を再確認し、それを適用するための詳細な規定を定めるものにすぎない。
條約を「準用」的に遵守するという日本政府の約束の効力について、弁護人は、他のことと共に、立証された多くの場合における食糧と医療品の不足は、連合国の攻勢によつて生じた輸送手段の混乱と欠如に基くものであつたと申立てた。この議論は、これを狭く適用した場合には、何かの価値があるかもしれない。しかし、捕虜と抑留者に配布するために、連合国が必要品を送ろうと日本政府に申入れたのに、この申入れを日本政府が拒絶したという証拠がある以上は、右の議論は効果を失うものである。
「準用」という條件の正確な定義を述べる必要はない。なぜならば、弁護段階のいずれにおいても、この言葉によつて、日本軍の残虐行為とその他の甚だしい非人道的行為が正営化されるというようなことは、少しも言われたことがなく、暗示されたことさえもなかつたからである。また、これらの言葉によつて、すでに明白に立証されている掠奪、強奪、放火が正当化できると主張されたこともなかつたからである。これらの点については、証言を行つた被告も、大部分は、供述された諸事件についてまつたく知らなかつたと申立てたにすぎなかつた。
この條件に何らかの解釈を加えて、残虐行為を正当化しようとすることは、「準用」という言葉を挿入することによつて、基本原則として人道的な取扱いを定めている條約に従うような風を装い、この仮面のもとに、甚だしい野蛮行為をしても、日本軍は罰を受けずにすむであろうと主張するのと、少しも異らないであろう。このような主張は、もとより容認することができない。
日本政府は、陸戦の法規慣例に関する一九〇七年のヘーグ第四條約に調印し、これを批准した。これは捕虜の人道的取扱いを規定し、戦争の背信的な非人道的な遂行を不法とするものであつた。一九二九年にジユネーヴで調印したジユネーヴ俘虜條約を日本政府が批准もせず、実施もしなかつた理由は、日本の軍人の基本的訓練の中に見出すことができる。起訴状に含まれている期間の初めより遙かに前から、日本の青年は、「大君の辺にこそ死なめ」と教えられていた。これは荒木が演説や宣伝映画の中で繰返している教訓である。さらに、もう一つの教訓は、敵に降伏するのは恥辱であるという言葉であつた。
これらの二つの教訓の結合した效果は、降伏した連合国軍人に対する軽侮の精神を日本の軍人に教えこんだことであつた。この精神は、戦争の條規を無視して、かれらが捕虜を虐待したことに現われている。この精神から、やむを得ず降伏するときまで堂々と勇敢に戦つた軍人と、戦わないで降伏した軍人との間に、かれらは少しも区別をしなかつた。どんな状況であろうとも、降伏した敵の軍人はすべて汚名を着せられ、それを捕えた者の情によるほかは、生きる権利がないと見做されることになつていた。
一九二九年のジユネーヴ條約を批准し、実施することは、右の軍部の見解を放棄することになると考えられた。この條約は、一九二九年にジユネーヴで日本の全権によつて調印されていた。しかし、一九三四年にこの條約の批准が問題になつたときに、日本の陸軍も海軍も批准反対の要請をした。その当時には、すでにかれらは充分に批准を阻止し得る政治力をもつていた。批准を拒否する理由の一部として、この條約によつて課せられる義務は一方的であること、この條約は日本に新しい追加的な負担を課すること、しかも、日本軍人は一人として絶対に敵に降伏する者はないのであるから、日本はこれを批准しても、何も得るところがないことをかれらは挙げた。
これに関連して、東條が捕虜収容所長に訓令を与え、次のように言つたことは、興味がある。「抑々我国は俘虜に対する観念上其の取扱に於ても欧米各国と自ら相異るものあり」と。
俘虜情報局を設置するという決定は、一九四一年十二月十二日に外務省から陸軍省に伝達されたジユネーヴの国際赤十字社からの照会によつて、促されたものであつた。国際赤十字社は日本外務省に電報をうち、その中で、戦争が太平洋に拡大した事実にかんがみ、国際赤十字社の委員会は、交戦国に俘虜中央情報局の機能を自由に利用できるようにしたことを告げ、日本政府は、ジユネーヴの中央局を通じて、捕虜に関する情報の表を、また、できる限り、一般人抑留者に関する情報の表を交換する意向があるかどうかを尋ねた。陸軍省の関係官によつて会議が重ねられ、一九四一年十二月二十八日に、陸軍次官木村は外務大臣東郷に対して、陸軍省は情報交換の用意があるが、「一九二九年の俘虜條約に含まるる規定を、「事実上適用するの用意あることを宜言する」に非ずして、「情報伝達の便宜上利用する」趣旨とすること」を通告した。一九四二年一月十二日までに、国際赤十字社は、日本と合衆国から、情報伝達を行う用意があることを言明した回答を受取つた。
俘虜情報局は、一九四一年十二月二十七日に、勅令によつて設置された。この局は次の問題の調査をつかさどつた。すなわち、捕虜の留置、移動、宣誓解放、交換、逃走、入院及び死亡である。さらに、各捕虜の銘々票の作成補修、捕虜に関する通信の処理、捕虜に関する情報収集の任務も与えられた。この勅令は、右の局に長官一人、事務官四人を置くことを定めた。この俘虜情報局は、陸軍大臣の監督と支配のもとに置かれ、陸軍省軍務局に属する一部局として組織され、時期は異なるが、武藤と佐藤の軍務局における支配と監督のもとにはいつた。俘虜情報局の職員は、すべて陸軍大臣の推薦によつて任命された。東條は上村中将をこの局の初代の長官に任命した。
一九四二年三月三十一日に、「俘虜取扱に開する規定」が発せられ、これによつて、陸軍大臣としての東條の監督と支配のもとに、陸軍省の軍務局内に、「俘虜管理部」と呼ばれたものが設置された。軍務局長としての武藤を通じて、東條はこの支配と監督を行つた。この規定は、右の部には、陸軍大臣の推薦に基いて任命される部長一名と、その他の職員を置くと定めた。東條は初代の部長として上村中将を任命し、これによつて、俘虜情報局と俘虜管理部の運営を一人に兼ねさせた。俘虜情報局は、木村がいつたように、情報と記録の役所にすぎないもので、一九二九年の俘虜條約の規定を、情報入手の目的で利用するためにつくられた。それは捕虜と一般人抑留者に対する支配や監督の権能をもつていなかつた。これに反して、俘虜管理部は、「俘虜及戦地ニ於ケル抑留者ノ取扱ニ関スル一切ノ事務ヲ行フ」権限を与えられていた。
武藤のもとに、後には佐籐のもとにあつた陸軍省の軍務局は、太平洋戦争の間、戦争法規の実施のために設けられた組織の支配権を保持していた。俘虜情報局を設置する勅令は、「長官ハ其ノ所管事務ニ付陸海軍ノ関係部隊ニ通報ヲ求ムルコトヲ得」と定めたが、上村中将とその後の長官は、すべての照会とその他の通信を、軍務局長の手を通じて送らなければならなかつた。軍務局長の承認がなければ、かれらはどんな行動をとる権能もなかつた。
東條によれば、捕虜と一般人抑留者に関する一切の命令と指示は、陸軍大臣によつて発せられた。また、これらの命令や指示は、軍務局長が参謀本部やその他の関係政府機関と協議した後、軍務局が起草したとかれはいつている。
後に間もなく論ずるように、陸軍省内では、局長会議が二週間ごとに開かれ、これには陸軍大臣と陸軍次官が出席した。東條と木村は、この会議には、たいてい出席した。木村は一九四一年四月十日から一九四三年三月十一日まで陸軍次官であつた。捕虜と一般人抑留者に関する事項は、この会議で討議され、東條と木村も時々出席していた。命令や規則が立案され、捕虜と一般人抑留者との取扱に関係した一切の政府機関に送られた。
捕虜収容所は、一九四一年十二月二十三日に、勅令と陸軍省が出した規則によつて承認された。この規則は、捕虜収容所は軍司令官または衛戍司令官が管理し、陸軍大臣がこれを全般的に統轄すると定めた。しかし、すでに述べたように、これらの収容所がすべて軍司令官のもとに置かれていたわけではなかつた。海軍の管轄下の地域では、右に相当する階級と権限をもつ海軍将校によつて、収容所は管理された。
一般人抑留者の収容所は、一九四三年十一月七日に、陸軍省が出した規程によつて承認された。この規程は次のように定めた。「軍司令官――軍司令官ニ準ズル者ヲ含ム、以下同ジ――戦地ニ於テ敵国人又ハ第三国人ヲ抑留シタルトキハ成ルベク速ニ軍抑留所ヲ設置スルモノトス。軍抑留所ハ之ヲ設置シタル軍司令官之ヲ管理ス。」
一般人抑留者の管理について定めた一般規程が出されたが、それは捕虜の管理を定めた規程と実質的に異なるものではなかつた。一般人抑留者だけに適用される特殊規程が出されている場合を除いて、捕虜に適用される規程は、すべて一般人抑留者にも適用されることになつていた。この規程は、「軍抑留所ハ之ヲ設置シタル軍司令官之ヲ管理ス」ということも定めた。
以下の被告は、太平洋戦争中に、軍隊指揮官として抑留所を管理した。土肥原は日本で東部軍管区司令官として、またシンガポールで第七方面軍司令官として、畑は中国で全日本派遣軍司令官として、また日本の本州中部と西部で軍管区司令官として、板垣は朝鮮軍司令官として、またシンガポールで第七方面軍令官として、木村はビルマで軍司令官として、武藤は北部スマトラで日本軍司令官として、佐藤は仏印で軍司令官として、梅津は満州で関東軍司官として。
この規程は、次のように定めた。「軍司令官又ハ衛戌司令官ハ必要アルトキハ部下ヲ派遣シ俘虜又ハ一般抑留者収容所ノ事務ヲ補助セシムルコトヲ得。前項ノ規定ニ依リ派遣セラルタル者ハ所長の指揮監督ヲ承クルモノトス。」捕虜と一般人抑留者の収容所を管理するために、特別の監督者または所長が選ばれて、東京で訓練を受けた。かれらは慎重で詳細な指示を受けた。この指示は、総理大臣東條みずからの訓示によつて完了した。それが終つてから、これらの收容所長は、捕虜と一般人の抑留者収容所の設けられているところの、あらゆる場所に日本から派遣され、陸軍と海軍の指揮官の指揮のもとに、これらの収容所を管理し、運営した。これらの收容所長は、規則によつて、陸軍省軍務局の中の俘虜管理部に、月報を出さなければならなかつた。これらの報告は、陸軍省の二週間ごとの局長会議で討議された。この会議には、陸軍大臣と陸軍次官が出席するのが通例であつた。これらの報告の中には、栄養不良とその他の原因に基いて、収容所内における高い死亡率に関する統計がはいつていた。この点は特に自分の注意を引いたと東條は述べた。収容所長からの月報の要約は、俘虜管理部と同じ長官のもとにある俘虜情報局の事務所に保管された。
海軍は、その捕えた捕虜と抑留した一般人抑留者とを、すべて陸軍に引渡し、これに抑留と管理をさせるようになつていたが、多くの場合には、このことが行われず、または長い間遅れた。また、ある地域では、海軍が占領地域の行政管轄権を行使した。たとえば、ボルネオ島、セレベス諸島、モルツカ諸島、チモール島、バリ島を通る線より東にある他の諸島などの島々を海軍は占領した。ウエーキ島のような地域では、海軍大臣が捕虜と一般人抑留者を管理し、これらの地域における戦争法規の実施は、嶋田の指揮のもとに、海軍の責任となつた。
日本国内に抑留された捕虜は、その他の地域の捕虜と同じように、陸軍省のもとにあつた。しかし、内務省が日本国内の警察を担当しており、従つて同省が日本内地の一般人抑留者に関する一切の事項を管理するのが正当であると考えられたといわれている。一九四一年十月十八日から一九四二年二月十七日まで、及び一九四二年十一月二十五日から一九四三年一月六日まで、東條が内務大臣をつとめたことをここに記しておこう。東條は、「内務省の下に非戦闘員を扱う別個の機関がありました。その名前を何と言つたか承知しておりません」と述べた。
国防と軍事行政上の目的で、日本は八つの軍管区にわかれていた。各軍管区は一つの軍が受持つていた。この軍の司令官は、その軍管区の軍事行政官でもあり、その軍管区内のすべての捕虜収容所の管理もしていた。東部地区は京浜地区を含み、第十二方面軍が受持つていた。土肥原は一九四三年五月一日から一九四四年三月二十二日まで、また再び一九四五年八月二十五日から一九四五年九月二日の降伏の時まで、この軍を指揮し、この地区を管理した。中国軍管区は広島地区と本州の西端までを含み、第二総軍が守備していた。一九四五年四月七日から一九四五年九月二日の降伏まで、畑はこの軍団を指揮した。
台湾、朝鮮、樺太のような、作戦行動地域にはいつていない日本の海外領土では、一般人抑留者は拓務省の管理のもとにあつた。しかし、これらの領土内の捕虜は、他の地域の捕虜と同じように、陸軍省の管理のもとに置かれていた。拓務省は一九二九年六月十日の勅令で設置された。この勅令は、同省が朝鮮総督府、台湾総督府、関東州庁及び南洋庁に関するあらゆる事項を管理することを定めた。日本政府の重要戦時再編成を行うために、同省は一九四三年に廃止され、その職務は内務省と大東亜省とに分割移管された。一九四一年十月十八日から一九四一年十二月二日まで、東郷は拓務大臣であつた。
大東亜省は一九四二年十一月一日に勅令によつて創設された。この勅令は、次のように定めている。「大東亜大臣ハ大東亜地域(内地、朝鮮、台湾及ビ樺太ヲ除ク)ニ関スル諸般ノ政務ノ施行(純外交ヲ除ク)ヲ管理ス。大東亜大臣ハ関東局及ビ南洋庁ニ関スル事務ヲ統理ス。大東亜省ニ左ノ四局ヲ置ク。総務局、満州事務局、支那事務局、南方事務局。」この省は、朝鮮、台湾及び樺太以外の日本の武力下に陥り、または陥るかもしれないすべての地域を統轄するために組織されたのであつた。勅令はさらに「大東亜省ニ於テ陸海軍ニ策応協力スル為大東亜地域内占領地行政ニ関連スル事務ヲ行フモノトス」と定めた。最初の大臣は青木で、重光がそのあとを継いだ。重光は一九四四年七月二十日に同省の大臣となり、一九四五年四月七日に東郷とかわるまで在任した。東郷は一九四五年八月十六日まで在任した。
梅津は一九三九年九月七日に関東軍司令官となり、一九四四年七月十八日まで在任した。かれは満州国の事実上の統治者であつたし、満州における捕虜と一般人抑留者の待遇について、直接に責任を負つていた。畑は一九四一年三月一日から一九四四年十一月二十二日まで日本の支那派遣軍の総司令官であつた。一九四三年三月十一日に、木村は陸軍次官を辞任した。かれは一九四四年八月三十日に日本のビルマ方面軍司令官に任命され、降伏の時まで在任した。ビルマにおける在任中に、かれは陸軍次官として在任中に立案に助力した諸方針を実行に移した。かれはまずラングーンにその司令部を設置した。そのときに、同方面のシーボウ、モクソクウイン保安林、ヘンザダ、オングン基地、サラワデイ及びラングーンの憲兵隊刑務所で残虐行為が行われた。一九四五年四月の末に、木村は司令部をモールメインに移した。その後に、モールメインやその附近で残虐行為が行われた。木村の司令部から十マイル離れた一村落カラゴンの全住民は、一九四五年七月七日に、かれの指揮下にある現地将校の命令によつて虐殺された。木村が到着してから後に、モールメインで虐殺が行われ、憲兵隊はビルマ人に対していつそう非人道的となり、タボイの収容所にいた抑留者は、食物を与えられなかつたり、殴打されたりした。
武藤は一九四二年三月二十日から一九四二年四月十二日まで南方地域の視察旅行を行い、台湾、サイゴン、バンコツク、ラングーン、シンガポール、バレンバン、ジヤワ、マニラ、その他の地を訪れた。かれは東京に帰り、一九四二年四月二十日に近衛師団長に任命され、北部スマトラに駐屯した。一九四四年十月十二日に、フイリツピンに転任するまで、かれは司令部をメダンに置き、北部スマトラの日本軍の司令官をしていた。かれは右の司令官として在任中、かつて東京で陸軍省軍務局長として提唱した政策を実行に移した。かれの軍隊が占拠していた北部スマトラでは、この戦争で、最も不名誉な残虐行為が犯された。捕虜と一般人抑留者は食物を与えられず、放置され、拷問され、殺され、またその他の方法で、虐待された。また、一般住民が虐殺された。戦争法規は無視された。武藤は一九四四年十月十二日に転任して、山下大将の指揮するフイリツピンの第十四方面軍の参謀長になつてからも、戦争法規を無視していることを示した。山下大将の参謀長としての任務に就くために、武藤は一九四四年十月二十日の夜、フイリツピンのフオート・マツキンレーに到着した。一九四五年九月の日本の降伏まで、かれはその任にあつた。その参謀長時代に、山下と武藤の指揮下にある軍隊によつて、バタンガスにおける虐殺やマニラにおける虐殺とその他の残虐行為を含めて、フイリツピンの一般住民に対する虐殺、拷問その他の残虐行為が連続的に行われた。これらの行為は、同じ特徴をもち、八年前に、武藤が松井の部下であつたときに、南京で行われたやり方に従つたものであつた。この期間に、捕虜と一般人抑留者は、食物を与えられなかつたり、拷問されたり、殺害されたりした。
土肥原は、一九四四年三月二十二日から、シンガポールの第七方面軍を指揮し、一九四五年四月七日に、板垣にあとを譲つて教育総監となるまで在任した。かれの指揮していた間、捕虜は普通の犯罪人のように取扱われ、食物を与えられなかつたり、拷問されたり、またその他の方法で虐待されたりした。板垣がシンガポールの第七方面軍の指揮をとるに至つた後も、同軍の管轄下にあつた捕虜の状態は少しも改善されなかつた。かれが指揮をとるに至つた後も、同軍の管轄下にあつた捕虜の状態は少しも改善されなかつた。かれが指揮にあたつていた一九四五年の六月と七月に、連合軍航空機搭乗員が二十六名も、アウトラム・ロード刑務所から連れ出されて殺害された。
太平洋戦争中に、戦争法規の違反に対して、連合国と利益保護国のなした公式非公式の抗議と警告は、無視されたか、そうでなければ、その回答の際に、違反行為の行われたことが否定されるか、虚偽の説明がなされるかであつた。
東京でとられた手続は、われわれに次のように説明された。連合国と利益保護国からの正式な抗議は、規則的に外務省に渡された。それから、外務省はこれらの抗議の写しを日本政府の関係各省と部局に回付した。陸軍省と俘虜情報局の所管事項に関するすべての抗議は、まず陸軍省の大臣官房に届けられた。官房は抗議を軍務局の軍務課に回送した。一九三九年九月三十日から一九四二年四月二十日まで、武藤はこの局の局長であつた。佐藤は一九三八年七月十五日から軍務課の課長であり、一九四二年に武藤にかわつて軍務局長になつた。一九四四年十二月十四日まで、かれは軍務局長を勤めた。軍務課は、俘虜管理部または俘虜情報局のような軍務局の関係各部局と、その抗議について協議した。それから、抗議は二週間ごとの陸軍省の局長会議で取上げられて討議されたが、その会議には、通常陸軍大臣と陸軍次官が出席した。これらの会議で、抗議に対して回答をするかどうか、どのような性質の回答をするかが決定された。俘虜情報局長官を兼ねていた俘虜管部長は、これらの討議に出席し、重要問題に関する命令は、陸軍大臣と次官から直接に受けた。抗議の写しとそれに対してなされる回答の写しを、綴込みに入れるために、かれは俘虜情報局に提供した。抗議の写しが陸軍大臣または俘虜情報局にあてられていた場合でも、そうするのが慣行であつた。
公式の抗議に加えて、ラジオ放送が連合国放送局から定期的に行われていた。それは日本の軍隊によつて犯されている残虐行為とその他の戦争法規の違反を詳細に挙げ、これらの違反行為の責任を負わされるようになることを日本政府に警告したものであつた。これらの放送は日本外務省によつて受信され、関係各省、部局及び職員に配付された。内大臣木戸は、一九四二年三月十九日の日記に、「宮相来室イーデンの議会に於ける皇軍香港に於て暴行云々の演説につき話あり懇談す」と記入している。
提出された正式の抗議はあまりに多かつたので、ここで詳細に述べることはできない。概して、これらの抗議は、われわれがすでに言及した戦争法違の違反にも、また他の多くのことにも関係したものであつたといつて差支えない。どの場合にも、完全な調査のできるような、明確で詳細な事実が挙げられていた。ラジオを通じて行われた抗議と警告についても、同じようにいつて差支えない。
われわれはここで、単に例証として、これらの抗議と警告のあるものについて、言及することにする。早くも一九四二年二月十四日に、スイス政府を通じて、合衆国政府は次のような覚書を提出した。フイリツピンの占領地域における日本官憲は、虐待と侮辱を伴う極端に厳格苛酷な規律に、アメリカの一般人を服従させているという報告を合衆国政府が受取つていること、事態を改善するために、また、合衆国領土内において日本の国民に与えられているのと同様な寛大な待遇を、フイリツピンにおけるアメリカ人にも与えるために、迅速な措置がすでにとられたという保証をアメリカ政府は希望するというのであつた。一九四二年二月二十四日に、外務大臣東郷は回答して、「フイリツピンにおけるアメリカ市民に対して日本国官憲が適用している諸條件は、一九二九年のジユネーブ條約の予期するところよりも良好である」と述べた。この言明は虚偽であつた。かれはアメリカ市民がよくない待遇を受けていることを否定し、「アメリカ政府の懸念は出所不明の報道に基いており、また正確な事実を挙げていないのであるから、何の根拠もない」と述べた。
一九四二年十二月十二日に、合衆国政府はもう一つの正式抗議を提出した。それには、一九二九年のジユネーヴ俘虜條約の條項をアメリカ人捕虜に適用し、また一般人抑留者には適用できる限り適用するという日本政府の約束に違反して、甚だしい虐待がアメリカの一般人と捕虜に加えられていることを合衆国政府は知つているというのであつた。日本がその約束を果さなかつたこと、日本の官憲が積極的に虐待するばかりでなく、生活必需品をこれらのアメリカ市民に供給しないことによつて、同條約の原則に違反したことは明らかであることを合衆国は述べた。それについで、合衆国は強硬な抗議を提出し、アメリカの捕虜と一般人抑留者に対するこの非人道的で非文明的な取扱いが、直ちに調査されるべき事項として取上げられること、その責任者が直ちに処罰されること、また捕虜と一般人抑留者の虐待をやめるという誓約が与えられることを期待すると述べた。この抗議を裏書きするために、日附とその他の事実を示して、明確な事例が挙げてあつた。この抗議に対して、一九四三年五月二十八日になるまで、回答が与えられなかつた。この日になつて、外務大臣重光は、目下調査が行われており、「やがて」調査の結果が判明したら通知すると同答した。
この間に、一九四三年四月五日、合衆国政府は、ドウリツトル飛行隊員の虐待に対して、もう一つの抗議を提出した。合衆国政府は次のように警告した。「アメリカ政府はまた日本政府に対して、アメリカ人捕虜に関する保証にさらに違反する場合、または、文明諸国によつて容認され、実行されている戦争法規に違反して、アメリカ人捕虜に対してさらに犯罪的野蛮行為が加えられた場合は、そのいずれに対しても、現在進んでいる作戦が、動かすことのできない、しかも避けられない結末に達したときに、このような非文明的で非人道的な行為に責任のある日本政府の職員に対して、アメリカ政府は、かれらにしかるべき処罰を加えることを厳粛に警告する」と。
一九四二年十二月十二日の合衆国からの抗議に対して、一九四四年四月二十四日に、外務大臣重光が遂に回答するまでの間に、合衆国によつて多数の明確な抗議がかれに提出された。右の回答で、かれが指摘したのは、一九四三年五月二十八日の覚書でかれの言及した調査が完了したこと、それについての報告があることであつた。かれは合衆国が「事実を歪曲誇張」していると非難して、抗議を受け入れず、このいわゆる調査によつて明らかになつた事実と称するものを長々と列挙した。合衆国は、一九四五年三月一日に、次のような覚書で、この非難に答えた。「米国政府はその真実性を非難する日本国政府の陳述を承認することを得ず。日本及日本占領地域における米国民に対し日本官憲によりて与えられたる待遇に関する本国政府の抗議は、日本政府によりて斯くの如く専断的方法に依りて否認しえざる記録的証拠に基くものなり。一九四四年四月二十四日附日本政府の回答に含まれ居る陳述は、米国政府の承知する事実より遠ざかり居ること甚しく、日本政府は敢て其の現地出先官憲の捏造せる報告により誤まられ、一九四二年十二月十二日附米国政府通牒中に於て抗議し居る事実に付き、独自の調査をなさざりしものなりと結論せざるをえず。依て、米国政府は本件回答を不満足なものと認め、日本政府が貴任を免るゝものにあらざることを飽迄主張すべし。」
イギリスの抗議も、合衆国政府からの抗議と同じように取扱われた。一つの例として、ラングーン刑務所における捕虜の取扱いに関する抗議と回答がある。一九四二年七月八日に、イギリス政府は外務大臣東郷あての抗議を提出させた。その中には、東京で発行されている新聞、ジヤパン・タイムス・アンド・アドヴアタイザーに、公衆が面白がつて見ているところで、ラングーンの街路を掃除しているイギリス人の捕虜の写真が掲載されたと述べてあつた。この抗議は、一九四二年八月一日に、再び提出された。一九四二年九月十五日に、イギリス政府はさらに、ラングーン刑務所における捕虜は不充分な給食を受けていること、刑務所の床の上に敷物なしで寝かされていること、及びかれらの靴が沒收されたことを抗議した。東條は一九四二年九月一日から一九四二年九月十七日まで外務大臣を兼任し、この職に就いている間に、前述の抗議にかれの注意を喚起する覚書を受取つた。一九四三年二月九日、東條にかわつて外務大臣になつていた外務大臣谷は、「軍官憲に於て詳細取調べたる処貫翰に述べられたるが如き事例は無之」と回答した。
ビルマとタイにおけるイギリスの捕虜の取扱いに関するイギリス政府の抗議も、同様に取扱われた。イギリス政府は、重光に提出した一九四四年七月四日附の覚書で、日本官憲の印刷した葉書によつて、約二万のイギリスの捕虜がモールメイン附近に通告なしに移されたことが判明したと述べた。その覚書は、捕虜が受けている不良な状態や虐待に対しても抗議した。重光は、一九四四年八月二十六日に、「一九四四年七月四日に、ビルマに在つたイギリス及び連合国俘虜の大多数は、タイ及びマレー俘虜収容所所属のものであつて、ビルマに臨時に移動させられていたものである」と答えた。ビルマ及びシヤムで労働している捕虜の健康に関するイギリス政府からの他の抗議に対して、重光は一九四四年十月三日に回答した。その回答で、「帝国政府は俘虜の保健及び衛生に関し深甚なる注意を払い居り各地に於ける俘虜收容所にては毎月健康診断を行ひ疾病の早期治療を為す等の措置を講じ居れり。」とかれは述べた。それについで、泰緬鉄道における捕虜に与えられていたとかれが主張するところの医療について、詳細に述べた。かれの述べた事実は全然偽りであつた。というのは、捕虜は医療を受けていなかつたし、脚気、コレラ、マラリア、その他の熱帯病で、何千人となく死んでいたからである。一九四四年九月十二日に洛陽丸が南支那海で雷撃されて沈んだときに、真相が判明した。千三百人の捕虜が標識をつけてない日本の捕虜輸送船に乗つていた。日本側は、日本人の生存者は救い上げたけれども、捕虜はその運命のままに故意に放任した。約百人のオーストラリアと連合王国の生存者が後に救助され、オーストラリアとイギリスに連れて行かれた。これらの捕虜からわかつたことであるが、シンガポールとジヤワにいた捕虜で使える者は、ことごとく、一九四二年の初期に、泰緬鉄道工事に働くために、ビルマとタイに移送されたのであつた。かれらの輸送された際の状況と、また鉄道建設工事中の恐るべき状況とについて、われわれはすでに叙述した。イギリスの抗議をさらに繰返した一九四四年十二月四日附のイギリス政府からの覚書によつて、救助されたこれらの捕虜から判明した事実について、重光は知らされた。重光にかわつて外務大臣となつた東郷は、遂に回答をしないわけにはいかなくなつて、一九四五年五月十五日に、これらの抗護に対する時期遅れの回答をした。「消化器病等の猖獗甚しく日本軍衛生機関の主力を集中して努力せるも之を充分に防止し得さりし」状態であつたことは遺憾であるとかれは述べた。ビルマで日本の軍隊が残虐行為を行つたことをかれは否定し、すでにわれわれが述べたように、イギリスの捕虜をモールメインで列をつくつて歩かせたことに対する抗議についは、かかる事実の「発生したることなし」という日本のきまり文句の回答をした。
これらの公式の抗議を無視する態度に加えて、ラジオを通じてなされた多数の抗議や警告も、日本外務省によつて規則的に記録され、各省に配付されていたにもかかわらず、まつたく顧みられなかった。バターンの行進の詳細と結果を述べた合衆国政府の報告は、一九四四年一月二十四日に、イギリス放送協会の放送網を通じて放送され、日本の外務省で記録された。一九四四年一月二十九日にも、カリフオルニヤ州サンフランシスコのKWID放送局は、白聖館秘書官ステイーフン・アーリー氏の、日本側は合衆国とフイリツピンの捕虜に対して、食糧や物品を合衆国政府が送ることを、どうしても許可しないという発表を放送した。アーリーは、「日本の手中にあるわれわれの捕虜には、もはや救恤品を送れる見込がなくなつた。よつて慎重に調査され、また確証のある事実に関して、報告を発表するときが来た」と述べた。この放送は、日本の外務省で記録された。KWID局は、また一九四四年一月二十九日に、合衆国国務長官コーデル・ハルとイギリス外務大臣アントニー・イーデンの声明を放送した。ハル氏は、日本の手中にある捕虜の取扱いに言及し、「残忍非道の行為に関する報告によれば、アメリカ人及びフイリツピン人に対して、かような思いも及ばない残虐行為を加えたこれらの者どもの行為を叙述するためには、世にありとあらゆる悪鬼の代表的な者どもを集め、その凶暴な性質にさらにあらゆる血なまぐさい行為をつけ加えることが必要であらう」と述べた。このような烈しい言葉は、本裁判所に提出された証拠によつて充分に正当化されている。イーデン氏は下院において、イギリスの抗議が日本側から得た結果は不満足である。日本人は単に国際法ばかりでなく、あらゆる人間らしい、見苦しくない、文明人の行為に違反していると述べた。この戦争で、日本軍の犯した残虐行為の記録は、将来忘れられるものではないと、かれは日本政府に警告した。ハル氏は、合衆国政府は、捕虜に対する日本側の取扱いに関して、集められる限りの事実はすべて集めつつあり、日本当局の責任者の充分な処罰を求めるつもりであるといつて、その声明を結んだ。マツカーサー大将の総司令部は、太平洋地域の大部分とともに、フイリツピン諸島をも管轄していたところの、シンガポールの第七方面軍の総司令官に対して、一九四四年十月二十二日に警告を発した。マツカーサー大将は、捕虜と一般人抑留者に対して、正当な待遇を与えなかつたら、そのいずれの場合についても、敵軍の指揮者に直接の責任を負わせると警告した。戦争法規に基いて、捕虜としての品位、名誉及び保証を要求する権利があるものとみずから信じていたにもかかわらず、フイリツピンで降伏したアメリカ人とフイリツピン人は、軍人の名誉という最も神聖な掟に背いて名誉を毀損され、残忍行為さえ受けたということについて、否定することのできない証拠が手にはいつている、とかれは述べた。これらの放送は、すべて日本の外務省で記録され、日本の各省の間に広く配付された。
日本政府は捕虜と一般人抑留者の虐待に関して、罪のある者を処罰しなかつたり、処罰を怠つたり、または違反に対してとるに足らない不充分な刑罰を科することによつて、捕虜と一般人抑留者の虐待を黙認した。日本政府はまた次のようにして、捕虜と一般人抑留者の虐待と殺害を覆い隠そうとした。すなわち、利益保護国の代表が収容所を訪問することを禁じたこと、このような訪問で許されたものに制限を加えたこと、捕えた捕虜と抑留した一般人の完全な名簿を利益保護国に送ることを拒否したこと、捕虜と一般人抑留者に関する報道を検閲したこと、並びに日本の降伏の際に、罪があることを示す一切の文書の焼却を命令したことである。
次に述べるのは、捕虜虐待に関して科せられた不充分な刑の宣告の実例である。むち打ちに対して科した罰は、譴責、数日間の謹慎、または数日間の任務の加重であつた。捕虜拷問の罪のあつた一監視員は、譴責された。しばしば捕虜に私的制裁を加えた罪のあつた一監視員は、譴責を受けた。数名の監視員は、捕虜に私的制裁を加えたことで有罪と判定されたが、加えられた最も厳重な処罰は免職であつた。東京の陸軍刑務所に対する空襲の際に、六十二人の連合軍飛行機搭乗員を、生きながら焼いたことについて責任のあつた将校に対して、加えられた刑罰は譴責であつた。これらの例は、捕虜の虐待が行われているということを陸軍省が知つていた証拠である。加えられた処罰がとるに足りない性質のものであつたのは、黙認を意味する。
日本政府は、連合国に指名された利益保護国の代表の訪問を拒否することによつて、積極的に、捕虜と一般人抑留者が加えられていた虐待を隠した。東京駐箚スイス公使は、早くも一九四二年二月十二日に、外務大臣東郷に書簡を送つて、その中で、次のことを述べた。「合衆国政府は、一時的に抑留、収容または宣誓の上解放されている日本国臣民を訪問することについて利益保護国代表よりの要請があれば、それに便宜を与える用意があることを本使は閣下に通報するの光栄を有する。収容者の訪問に関する限り、本公使館の任務を閣下がある程度まで容易にせられるならば、本使は閣下に深く感謝する。」と。一九四二年二月十七日に、かれはさらに外務大臣東郷に書簡を送り、その中で、次のように述べた。「米国政府は、米国に於ける日本利益代表スペイン国大使館に対し、俘虜及抑留者収容所を訪問し得る旨を通報致候、米国政府はジユネーヴ俘虜條約に基き、帝国及日本軍隊の占領地域に於てスイス国代表の俘虜及抑留者収容所訪問許可方要請致居候」と。これらの要請を繰返したほかの書簡を、一九四二年三月及び六月に、かれは東郷に送つた。一九四二年六月に、同公使は、イギリスとその自治領の国民で、捕虜または抑留者として抑留されている者を訪問する同様の許可を養成した。これらの要請に対して、やつと一九四二年七月三十日に、東郷は書簡で次のように回答した。「帝国政府はフイリツピン諸島、香港、マレー及蘭領東印度諸島を含む占領地に於ける利益代表を認めざる建前なるを以て、前記地方に於ける閣下の代表者に依る米人俘虜及抑留者の訪問は考慮する能はざるも、支那占拠地に於ては、関係当局は上海に限り是を許可することを考慮し得る旨御回答申上候。」合衆国とイギリスの政府は直ちに抗議し、あらためてその要請を出した。スイス公使と東郷の後任になつた外務大臣谷との間の往復文書は、占領地域と日本の海外領地とに抑留されている捕虜と抑留者の訪問許可を拒否する、この方針が続けられていたことを反映している。しかし、スイス公使は依然として強硬に許可を求めた。すでに外務大臣になつていた重光は、一九四三年四月二十二日に、スイス公使に口上書を送り、その中で次のように述べた。「外務大臣が一九四二年七月三十日附をもつてスイス公使宛て申進し置きたる通帝国政府は占領地に於ける俘虜及抑留者収容所の訪問は考慮し難し」と。スイス公使は外務大臣東郷から、利益保護国の代表者は上海の収容所を訪問することを許されるという通告を受けていたが、東郷がスイス公使に対して述べたいわゆる「関係当局」が訪問許可を与えることを拒否し、また東京の東條内閣から許可が来なかつたので、訪問は行われなかつた。スイス公使の一九四三年五月十二日附の書簡によつて、重光はこのことを承知していた。捕虜と一般人抑留者を訪問する許可を得るための、スイス政府のこれらの執拗な、反復的な要請に応じて、日本内地で、少数の選ばれた収容所が訪問のために用意された上で、訪問を許可された。スイス公使は、一九四三年六月二日に、日本におけるその他の収容所と占領地の収容所との訪問の許可を重光に要請し、かつ日本ですでに訪問された収容所の二回目の訪問がいつできるかと尋ねた。外務大臣重光は、一九四三年七月二十三日に回答し、次のように述べた。「占領地域に存在する俘虜収容所の訪問に付ては、許可し得べき時機到来せば、之を通報可致候。又日本本土に存在する俘虜収容所にして未だ訪問せられざる分は、時機を見て逐次許可せらるべく候。而して既に訪問せられたる分の再応の訪問を週期的に予め許可することは許容し難きも、更に之が訪問を希望せらるる場合は其都度の願出を俟つて詮議致すべく候。」しかし、これらの願出には、考慮が払われなかつた。そして、一九四四年二月十二日に、スイス公使は重光に、一九四三年八月から一九四四年二月までの間に申し入れた収容所訪問に関する要請に対して、回答がないことを抗議した。この抗議は、一九四四年三月三十日の重光あての書簡で繰返された。その中で、スイス公使は次のように述べた。「本使が日本における外国利益代表としての本使の活動に満足していないことは、貴大臣も御承知の通りである。努力に相応した結果を得ていないのである。本使はこれを、本使の活動と、当方に利益を委託した諸政府の要請によつて本使の本国政府が提出した要請との統計の示すところによつて、具体的に知ることができる。本使は差し当り俘虜収容所を訪問したいという本使の要請だけについて申し延べたい。二ケ年以上にわたる本使の要請を回顧すると、本使は一九四二年二月一日から一九四四年三月十五日までに文書で百三十四回の申入れを行つたことがわかるのである。これらの百三十四通の書簡は、外務省から正に二十四通の回答を得た。これらの回答の大部分は、否定的であるか、または関係当局の決定を本使に送付するのもであつた。本使が九ケ月の間に受取つた回答は三通である。」やつと一九四四年十一月十三日になつて、占領地における捕虜と一般人抑留者を訪問する許可を与えられる時機が来たということを、かれは重光の下にある外務省から通告された。それでも、その訪問は、マニラ、昭南及びバンコツクに限られていた。一九四四年十一月十七日に、東京のスイス公使にあてた書簡の中で、重光は同公使に対して、占領地域における捕虜収容所の訪問は、相互的條件で、軍事行動を妨げない限り許されると通告した。スイス公使は、一九四五年一月十三日附の書簡で、これらの訪問はいつ始めてよいかと重光に尋ねた。重光の後任として外務大臣となつた東郷は、占領地の収容所の訪問に関する多数の緊急な要請に対して、一九四五年四月七日になつて初めて回答した。この回答で、日本は「遅滞なく」タイ国における訪問の準備を行うと東郷は述べた。戦争の全期間を通じて、何かと口実を用いて、訪問は決して自由に許されなかつた。
利益保護国の代表者が収容所を訪問することを許された少数の場合には、収容所は訪問のために用意され、また訪問は厳重に監督された。太平洋戦争の初期に、東條内閣によつて出された規則は、次のことを規定していた。すなわち、捕虜との面会が許可された場合には、面会の時間及び場所と会談内容の範囲とに制限を加えること、面会中は監視員が立会うことであつた。これらの規則は、利益保護国の抗議が繰返されたにもかかわらず、実施された。一九四三年四月二十二日附のスイス公使あての書簡で、重光は、「利益保護国代表と俘虜との面会に方り監視者を立会はしらざることは帝国に於て実施し難し」といつた。スイス公使はこれに抗議し、重光は一九四三年六月二十四日に回答して、次のようにいつた。「本邦俘虜取扱細則第十三條は、捕虜の面会に際しては監視員を立会わせるものとすると規定しており、同條による我方の捕虜取扱はこれを変更することができないことを取りあへず通告する。」一九四三年の春に、日本の本山の捕虜收容所が訪問を受けた後、捕虜に課せられていた労働條件について、あえて苦情を述べたこの収容所の先任捕虜は拷問された。日本人監視員の前で、かれは五時間もひざまずかせた。この収容所が再び訪問を受けた際には、この先任捕虜は監禁され、代表者がかれとの面会を要求したにもかかわらず、この代表者と話すことを許されなかつた。
抑留されている捕虜と一般人抑留者の名簿を利益保護国に送ることを拒否することによつて、捕虜と一般人抑留者の運命はさらに隠された。このような名簿を提供することを拒否した一例は、ウエーキ島の占領後に抑留された捕虜と一般人抑留者の場合である。スイス公使は、一九四二年五月二十七日に、ウエーキ島で捕えられた捕虜及び一般人抑留者の氏名と、その現在の居所とを知らせるように、東郷に要請した。一九四二年十月六日に、スイス公使は、外務大臣――そのときは谷であつた――に対して、ウエーキ島の占領の当時に、そこにいた約四百名のアメリカの一般人に関して、合衆国政府はいまだに報告を受けていないと通告した。一九四三年四月八日に、スイス公使は、未だ名簿が提供されていなかつたので、外務大臣谷に対して、合衆国政府は残りの四百人の氏名と居所を知らされることを強く要求していると通告した。外務大臣谷は、一九四三年四月十九日に、提供できるすべての情報はすでに与えてあると回答した。一九四三年八月二十一日に、スイス公使は、新外務大臣重光に対して、ウエーキ島が日本軍に占領されたときに、そこにいたはずであるが、日本が赤十字国際委員会に送付した名簿に氏名が載つていなかつた四百三十二人のアメリカの一般人の名簿を提出し、これらの一般人に関する情報を要請した。一九四五年五月十五日に、スイス公使は、外務大臣――このときは東郷であつた――に対して、ウエーキ島の残りの四百三十二人の一般人に関する情報を求める要請について、何の回答も受けていないと通告した。その情報は、日本の降伏後まで得られなかつた。実際のことは、これらの不幸な人々は、ことごとく、一九四三年十月に、日本の海軍によつて殺害されたのであつた。
新聞報道と郵便物は、特に検閲されていた。疑いもなく、これは捕虜が受けていた虐待が漏れることを防ぐためであつた。東條が陸軍大臣であつたときに、陸軍省報道部によつて、一九四三年十二月二十日に出された検閲に関する規則は、他のことと共に、次のことを規定した。「我が公正なる態度を歪曲報道して敵の悪宣伝に好餌を与へ累を抑留同胞に及ぼさざる如く留意す、之が為左に該当する報道――写真、絵画等を含む――は禁止す、俘虜優遇又は虐待の印象を与ふるもの、収容所内等に於ける設備、給与、衛生其他生活状態等に関する具体的事項、俘虜の所在に関し左記以外を明示するもの。」そのあとには、東京、朝鮮、ボルネオ等十二の一般的な地名が挙げられていた。捕虜が出すことを許されていた手紙は、ほとんど禁止といつてよいほど制限されていた。ある収容所の捕虜は、たとえばシンガポールにいた捕虜などは、監視員から、収容所の状態が良好であると報告しなければ、かれらの葉書は送り出されないといい聞かされた。これが通例であつたようである。
日本が降伏しなければならないことが明らかになつたときに、指慶と一般人抑留者の虐待に関する一切の書類とその他の証拠を焼却するか、その他の方法で破棄するために、組織的な努力が払われた。日本の陸軍大臣は、一九四五年八月十四日に、すべての軍司令部に対して、機密書類を直ちに焼却せよという命令を発した。同じ日に、憲兵司令官は、各憲兵隊本部に対して、多量の文書を能率よく焼却する方法を詳細に述べた指令を出した。陸軍省軍務局捕虜管理部のもとにあつた捕虜収容所長は、一九四五年八月二十日に、台湾軍参謀長に同文電報を発し、その中で、「敵に任するを不利とする書類も、秘密書類同様、用済の後は必ず廃棄のこと」といつた。この電報は朝鮮軍、関東軍、北支方面軍、香港、奉天、ボルネオ、タイ、マレー及びジヤワに送られた。この電報で捕虜收容所長は次のようにいつた。「俘虜及軍の抑留者を虐待し、或は甚だしく俘虜より悪感情を懐かれある職員は、此際速かに他に転属或は行衛を一斉に晦す如く処理するを可とす。」