極東国際軍事裁判所判決文
B部 第七章 太平洋戦争

〈説明〉

 本資料は、極東国際軍事裁判所判決文におけるB部 第七章 太平洋戦争を文字起ししたものである。原典は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている「極東国際軍事裁判所判決.〔第1冊-第13冊〕B部 第七章」である。掲載するにあたり旧漢字を新漢字に直した。
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〈見出し〉

太平洋戦争
一九四〇年の日本の政策
政策実施の措置
大政翼賛会
橋本及び白鳥、戦争政策の支持を民衆に要望
総力戦研究所
三国條約に基く協力
南方進出の準備
タイの要求
仏印とタイをシンガポール攻撃に利用する予定
連絡会議
外交上の討議
シンガポール攻撃の準備
その他の準備
日ソ中立條約
仏印
オランダ領東インドとの関係
三国條約後の準備
合衆国及びイギリスとの関係
会談に対する合衆国の條件
合衆国は交渉に同意――一九四一年五月
準備の積極化
内閣の政策と一九四一年六月及び七月の決定
第三次近衛内閣
南部仏印の占領
アメリカ合衆国とのその後の会談
補給問題
アメリカ合衆国とのその後の会談
一九四一年九月六日の御前会議
戦争準備の続行
アメリカ合衆国との会談の継続
開戦の決定――一九四一年十月十二日
一九四一年十月十八日、東條、総理大臣となる
東條のもとで行われた戦争準備
アメリカ合衆国との交渉の再開
海軍の攻撃命令
一九四一年十一月七日に提出された『甲』案
一九四一年十一月二十日の『乙』案
一九四一年十一月三十日の連絡会議
一九四一年十二月一日の御前会議
アメリカ合衆国との交渉の打切り
真珠湾
コタ・バル
フイリツピン、ウエーク及びグアム
香港
上海
一九四一年十二月七日ワシントンで手交された日本の通牒
正式の宣戦布告
結論


極東国際軍事裁判所
判決
B部
第七章
太平洋戦争
英文八四三―一〇〇〇頁
一九四八年十一月一日

(E-843)
太平洋戦争

  一九三八年のハサン湖における日本の攻撃の失敗によつて、極東におけるソビエツト連邦の意外な軍事力が明らかになつた。一九三九年八月二十三日に、ドイツとソビエツト連邦との間に不可侵條約が締結され、また、ドイツがイギリス及びフランスに対する戦争に没頭していたために、ソビエツト連邦はさしあたりその西部国境に対する不安がなくなつた。それまで、日本の国策を実現する第一歩として企てられていた北方への日本の進出は、ここにおいて、いつそうよい機会が来るまで延期された。
  北方における機会の扉が閉ざされると、南方の扉が開き始め、日本の国策の第二の主要部分を、すなわち南方への進出を実現するために、日本は種々な予備的措置を講じた。フランスとイギリスは、一九三八年九月に、ミユンヘンで深刻な反揆を受けた。それから後、一九三八年十一月三日に、近衛公は東亜新秩序を建設する日本の意図を公けに声明し、その同じ月に、日本は條約体制を無條件に適用することはもはやできないと発表した。(E-844)『門戸解放』及び『機会均等』の原則の適用は、中国における状態の変化に応じなければならないかもしれないと日本はいつた。その同じ一九三八年十一月に、五相会議は、海南島を占領することを決定した。この島は一九三九年二月に、また新南群島は一九三九年三月に攻略された。
一九三九年九月に、ドイツとポーランド、フランス、イギリスとの間に戦争が始まつた。すると直ちに大島大使及び寺内大将が日本は南方に進出するのが得策であると提唱している。一九三九年の九月から以後、中国における日本軍の外国権益に対する態度は、ますます目立つて強硬となり、またそのころに、日本側は雲南鉄道の爆撃を始めた。一九三九年十一月に、日本の外務省は、フランスが雲南鉄道によつて軍需物資を中国に輸送するのを中止すること、及びこのような物資が輸送されないように監視するために、日本の軍事使節団が仏印にはいるのを許すことを要求した。南方に対する日本の侵略性をこれほど公然と示したものはない。なぜならば、フランスはこれらの物資を送る権利があつたのであり、その当時には、まだフランスの軍事力かくじかれるという徴候がなかつたからである。それにもかかわらず、フランスがヨーロツパにおける戦争に専念していることにかんがみ、日本はこのような要求をフランスに提示する力が充分にあると考えた。一九四〇年二月二日に、日本はオランダに対して要求を出したが、もしこれが受入れられたならば、オランダ領東インドの経済に関して、諸国の間で優先的な地位が日本に与えられるのであつた。(E-845)一九四〇年三月に、小磯は議会の決算委員会で、経済的にアメリカ合衆国に依存しなくなるように、日本は太平洋の諸島へ進出しなければならないと述べた。
  一九四〇年五月九日に、ドイツはオランダに侵入した。日本は直ちにアメリカ合衆国、イギリス及びフランスに対して、かれらがオランダ領東インドの現状を維持するという誓約を要求し、それを受取つた。日本もまた同じような誓約を与えた。それにもかかわらず、一九四〇年五月二十二日になるまでに、日本はドイツに対して、ドイツがオランダ領東インドにまつたく関心をもつていないとの声明を出すことを要求し、それを受取つていた。日本では、この声明は、ドイツに関する限り、オランダ領東インドとの関係において、日本に自由行動を許したものと解釈された。これは正しく解釈されたものであるということが後になつてわかつた。
一九四〇年六月十七日に、フランスはドイツに対して休戦を申入れた。一九四〇年六月十九日に、日本は仏印を経由して中国に向けられる物資の輸送を停止すること、及び物資が全然輸送されないことを確実にするために、日本の軍事使節団を入国させることを仏印に対して重ねて要求した。一九三九年に、これらの要求をしたときには、フランスに拒絶されたのであるが、今ではフランスの立場は非常に変つており、この事実を日本は利用したのである。ここに至つて、仏印総督は同意し、日本の軍事使節団は一九四〇年六月二十九日にハノイに到着した。
(E-846)
 当時の拓務大臣小磯は、一九四〇年六月二十四日に、ドイツ大使に、仏印とオランダ領東インドに植民地を獲得したいという日本の熱望について語り、これらの領土において、日本が起そうとしている軍事行動に対して、ドイツの態度はどうかと尋ねた。大使は、すでに一九四〇年五月二十二日に与えられたところの、ドイツはオランダ領東インドに対して無関心であるとの宣言を確認した。さらに、ドイツはおそらく仏印における日本の行動に異議を申立てることなく、フイリツピンとハワイに対する攻撃の威嚇によつて、日本が合衆国を太平洋に率制することを望むと述べた。ヨーロツパ戦争の間太平洋の現状を維持する協定についてのアリメカの申入れを一九四〇年七月一日に日本は拒絶した。この拒絶の理由としては、木戸と外務大臣有田との会談のときに、オランダ領東インドにおける活動をも含めて、このさい日本の活動を制限されることは得策でないからであると述べられた。日本の隣接諸国に対する侵略的意図をこれほど明らかに告白したものはない。一九四〇年七月八日に、来栖と佐藤は、九カ年にわたつて日本が目指してきたのは、條約体制から解放された新しい中国をつくることであつたとリツベント口ツプに語つた。こうして、九カ年の間日本が繰返して行つた公式声明の虚偽を示した。一九四〇年七月十六日に、日本はオランダに対して、オランダ頃東インドの日本に対する物資供給の問題を協議するために、バタヴイアに経済使節団を送ると通告した。(E-847)その同じ日に、米内内閣が辞職したが、これは軍部とその支持者の圧力によるものであつた。かれらは、ヨーロツパにおけるフランス及びオランダの崩壊とイギリスの不安とによつて、今与えられている日本の南方侵略の好機を利用するには、米内内閣はあまりにも安閑としていると考えたのである。一九四〇年七月二十二日に行われた第二次近衛内閣の登場に対して、また、日本のこの南方侵略政策を促進するために、この内閣がとつた種々の措置に対して、障害が除かれた。

一九四〇年の日本の政策

  一九四〇年七月二十二日に就任した第二次近衛内閣の在任中に、一九四一年十二月八日における太平洋戦争の開始に直接貢献した重要な諸決定がなされた。
  一九四〇年九月二十七日に、三国條約を調印するという運びになつたドイツとの交渉に関しては、この判決において、すでに論じておいた。しかし、第二次及び第三次の近衛内閣時代と、その後を継いだ東條内閣の時代とになされた決定と採用された計画とをいつそう明らかに理解するためには、一九四〇年七月から十月までの間に採用された政策と計画を簡単に再検討することが適当である。これらは、一九三六年八月十一日に廣田内閣が言明した政策を再確認したものであり、そして、一九四〇年の後半に存在した情勢に対して、この政策を実際に適用したものである。
(E-848)
 その重要な事項は次の通りである。一九四〇年七月二十六日の閣議決定、一九四〇年九月四日の四相会議と一九四〇年九月十九日の連絡会議の決定、一九四〇年九月二十八日――三国條約調印の翌日――に外務省で作成された日本の外交方針要綱、一九四〇年十月三日の閣議の諸決定、並びに一九四〇年十月四日に外務省で作成された『対南方策試案』である。
これらの結果として、一九四〇年十月の初期までには、日本政府の方針は、ソビエツト連邦及びアメリカ合衆国との戦争を回避することにつとめると同時に、シンガポール、イギリス領マレー及びオランダ領東インドを占領する目的で、南方に進出するということに定められていた。合衆国との戦争は起り得ることと考えられており、その場合には、フイリツピン、グアム、その他のアメリカの領土も、占領すべき地域の中に含まれることになつていた。
 もう少し細かくいえば、この方針は次のことを目標としていた。(E-849)(一)三国條約に依存すること、(二)ソビエツト連邦と不可侵條約を締結すること、(三)中国における戦争を完遂すること、(四)仏印、オランダ領東インド、海峡植民地、イギリス領マレー、タイ、フイリツピン、イギリス領ボルネオ及びビルマを大東亜共栄圏(以後は省略して『共栄圏』と呼ぶ)に編入すること、(五)ヨーロツパ戦争を終結するために仲介を申し出て、その代償に共栄圏に対するイギリスの承認を得ること、(六)合衆国と不侵略條約を結び、それによつて、日本がフイリツピンの独立を尊重する代償として、合衆国が共栄圏を承認すること等である。
 一九四〇年十月四日に、近衛は新聞に発表した声明の中で、もし合衆国が日本、ドイツ及びイタリアの真意を理解することを拒み、その挑戦的態度と行為を続けるならば、合衆国もイギリスも日本と戦争しなければならなくなるであろうといつた。これは日本が両国と戦争することを余儀なくされるという意味であつた。ソビエツト連邦、イギリス及び合衆国に対して、中国援助を中止させようとして、日本は外交的に工作しているとかれは説明した。
 このときまでには、日本の侵略的意図が非常に明らかになつたので、アメリカ合衆国には、これらの侵略的目的を達成するために使用される軍需品の製造原料を、続けて日本に供給する意思はなくなつていた。日本が條約を無視したことに対する抗議として、一九三八年と一九三九年に課した輸出禁止を、西半球とイギリス向けのものを除いて、一切の屑鉄と屑鋼とに及ぼした大統領布告が発せられた。(E-850)一九四〇年一月二十六日に、アメリカ合衆国が日本との通商條約を停止したことに注意を払わなければならない。一九四〇年十二月十日に、輸出禁止が拡張され、許可制のもとに置かれた。一九四一年二月三日に、銅、真鍮、亜鉛、青銅、ニツケル及び炭酸カリが輸出禁止品目表に加えられた。一九四一年五月五日に、屑ゴムが加えられた。一九四一年六月二十日までには、情勢が非常に悪化していたので、イギリスと南アメリカ向けのものを除いて、合衆国からの一切の石油の輸出が禁止された。
 日本の国家経済を強化し、日本、満洲国及び中国を一つの経済ブロツクとして組織することによつて、アメリカの輸出禁止に対抗しようとする措置がとられた。内閣は、ブロツク内の三国が経済競争、二重投資及び企業の重複を避けるために、これらの三国のそれぞれに対して、労働、財政、為替、製造、通信、交通等について、明確に定められた活動範囲を割当てることが必要であると決定した。

政策実施の措置

  一九四〇年十月二十五日の政策研究において、近衛内閣は、汪精衛の指導下にあつた中国の傀儡中央政府を承認すること、その政府と日本政府との関係を調整するために、それと基本條約を交渉することを決定した。この條約は十一月三十日に調印された。(E-851)そして、傀儡政府に対する新しい大使は、長期戦の一手段として内閣は傀儡中央政府を認めたのであるから、この点を念頭に置いて、陸海軍と最大限度まで協力しなければならないと訓令された。
  企画院総裁及び元満洲国の総務庁長として、星野は、日華基本條約の調印の際に、日本、満洲国及び中国によつて発表すべき共同宣言の交渉を積極的に指導していた。木村は一九四〇年十一月七日に、日満共同経済委員会の委員に任命された。日満華共同宣言は、十一月八日に最後的な形式で仮調印され、一九四〇年十一月三十日に、日華條約の調印が発表されたときに公けにされた。この共同宣言は、三国が軍事的と経済的の基礎において協力し、アジアの新秩序建設のために必要なあらゆる措置をとると述べていた。
  星野は、日本経済を新経済ブロツクの線に沿うようにするための再編成について説明した。十一月に、内閣は各産業の会社を産業別の連合会に結合する計画を決定したが、これは内閣から任命され、商工大臣の監督下に置かれた会長を通じて統制するためであると星野はいつた。(E-852)計画を実施するために法令が公布され、その後に計画の修正はほとんどなかつたとかれは述べた。この計画の結果として、一九四〇年に、少くとも二百十二を下らない大会社の合併が行われ、これに伴つた資本金は二十三億円に上つた。一九四一年の上半期には、三十億円を件う百七十二の大会社の合併が行われた。
  三国條約に関する審議の際に、枢密顧問官たちは、この條約の調印の後に起るものとかれらが予想していた戦争に対して、日本の準備を整えておくためにとるべきいくつかの措置を指摘した。枢密院会議の直後に、星野は日本の財政機構を強化する措置をとり始めた。一九四〇年十月十九日に、『銀行等資金融通令』と称する勅令が公布された。その目的は、政府の指令に従つて、すべての金融機関がその投資政策を調整することを要求し、政府の指令の結果として、金融機関が蒙むつた損害を補償することを定めることによつて、財政に対する政府の統制を強化することにあつた。同じ日に、会社経理統制の勅令が公布された。これによつて、国家総動員法の目的を達成するために、金融機関は資金を保有することを要求された。

(E-853)
大政翼賛会

  一九四〇年九月二十六日の会議で、三国條約が審議されたときに、枢密顧問官を憂慮させたことの一つは、いろいろな困苦に対して、日本国民が示すものと予期される反響であつた。かれらは現にそれらの困苦を蒙つており、また合衆国は経済制裁を課するものと予想されるので、條約調印の結果として、それらの困苦は増大することになるのであつた。この問題に対する近衛の答えは、一九四〇年十月十日の大政翼賛会の結成であつた。木戸と近衛は、一九四○年五月、米内内閣が瓦解する前に、大きな総括的な政党を組織することを論議したが、その実施を延期していた。この会の準備委員会に対して、橋本は政治団体の組織に関するかれの長い経験をもつて寄与し、星野は同委員会の委員として援助した。大政翼賛会の條項は、この会が日本全国の各県、各郡、各市及び各家庭にまで広げられねばならないという明らかな意図のもとに、細かにつくられた。この会は、ヨーロツパの全体主義国家に倣つて日本を一国一党国家にかえるために企てられたものであつた。他の政党は廃止することになつていた。総理大臣がこの会の長となり、その一党の統領になることになつていた。この会の目的は、八紘一宇の目的を実現し、日本を光輝ある世界の指導者とするについて、天皇を助けるために、物心一如の国家体制を確立することにあるとして、婉曲に示された。

(E-854)
橋本及び白鳥、戦争政策の支持を民衆に要望

  大政翼賛会には、いくつかの附属団体があつた。橋本はこの会の常任総務の一人であつた。かれは極端な国家主義団体の赤誠会を結成した。結成のための旅行中、一九四〇年十一月七日に、かれは次のように赤誠会に対する命令を発した。『断乎起つべし。時迫る。総ゆる方法、講演会、座談会、ポスター等を以て即時強烈な国民運動を捲き起し、併せて国内親英米分子の大掃蕩戦を展開し、南進の気運を全国的に盛り上らしむる様運動すべし。』京都において一九四一年一月二日に、五千人以上の出席者があつた同会の集会で、かれは演説を行つた。(E-855)『兵に拝む』と題する人気を博した演説の中で行つたと同じように、この演説においても、橋本はイギリスとアメリカの打倒を唱道した。ここにおいても、かれは再び『南進』を主張した。
 この期間中、橋本は著述に従事していた。一九四〇年十二月二十日に、かれは『革新の必然性』を出版し、一九四一年一月三十日に、『世界再建の道』を出版し、『第二の開闢』の第十四版を出した。『革新の必然性』の中で、年末に際して『大警鐘を乱打する』ときがきたということを述べた後に、かれは、イギリスがドイツ及びイタリアと戦争している今こそ、アジアと太平洋における新秩序建設に対するイギリスの反対を排除するために、同国を攻撃すべき好機であり、またイギリスの敗北に続いては、合衆国に対しても攻撃しなければならないといつた。かれの『第二の開闢』は、『橋本欣五郎の宣言』を含んでいた。世界は歴史的転換期に直面しており、『八紘一宇』を国是とする日本は、光輝ある世界の指導者になるために、飛躍的一歩を踏み出し、国民の全能力を挙げて、天皇に絶対的に従うことによつて、本然の性格を直ちに発揮しなければならないというのがこの宣言の趣旨であつた。日本のアジア大陸における発展と南方に対する進出とを妨害しているイギリスと合衆国を打倒することができるように、日本は戦争準備を完成すべきであるとかれはいつた。『世界再建の道』の中では、全体主義的政府に対する支持と独裁者の手段に対する称賛とを誇示し、日本における五・一五事件及び二・二六事件とその他の陰謀に参加したとともに、満洲事変、日本の連盟脱退、ワシントン海軍軍縮條約の廃棄に参加したことを認めた。
(E-856)
  一九四〇年八月二十八日に、外務省外交顧問になるまで、白鳥はイタリア駐在大使の地位を保ち、全体主義的な線に沿つて、政府を改造すること、アングロ・サクソンに同情をもつていると思われていた者を外務省から追放することに協力した。この期間を通じて、提案されていた三国條約を支持するために、かれは広い範囲にわたつて講演と著述を行つた。一九四〇年十一月に、かれは、三国條約を支持するために、頒布の目的で、講演と雑誌論文のいくつかを集めて一冊の本に収めて出版した。一九三九年十一月に出版された『欧洲大戦と日本の態度』の中で、ヨーロツパ戦争は、極東における日本の目的を確立することを助けるように、展開させることができるとかれは述べた。一九三九年十二月の『日独伊同盟の必然性』の中で、ドイツとイタリアの目的は、世界を比較的少数の国家集団に分け、各集団をそれに属する一国に支配させるにあること、アジアの新秩序を建設するために、すなわち、東アジアを支配するために、日本はドイツとイタリアが払つている努力に参加しなければならないことを述べた。一九四〇年六月の『大戦の帰趨』の中では、ヨーロツパ戦争の口火は、まず中日事変によつて切られたのであるから、日本はその戦争に実際には巻きこまれているのであるといつた。ヨーロツパの新秩序の建設に反対しているドイツとイタリアの敵は、また日本の敵でもあるのではないかという意味深長な質問をかれは呈した。一九四〇年六月の『不介入方針を検討す』の中では、日本は満洲事変が起つてから、新秩序建設に主要な役割を果してきたのであるから、民主主義的資本主義を基後とする旧秩序を破壊し、全体主義的な原則に基いて新秩序を確立しようとしている枢軸諸国に速やかに援助を与えるベきであるといつた。(E-857)この援助はアメリカの艦隊を太平洋において牽制するという形をとるべきあると述べ、日本のとり得る代償として、オランダ領東インドと極東及び太平洋におけるイギリスの植民地とがあるといつた。
  三国條約の調印の後においても、白鳥は著述を続けた。一九四〇年九月二十九日の『日独伊同盟成る』の中で、後世の歴史家は、おそらくこの條約を『世界新秩序條約』と呼ぶであろうとかれはいつた。というのは、それはアングロ・サクソン民族対チユートン民族、黄色人種対白色人種という人種的の闘争を象徴するばかりでなく、現状を打破し、新世界を規定した積極的な計画を含んでいるからというのであつた。一九四〇年十二月に出版された『三国條約と明日の世界』の中では、全体主義運動は世界に燎原の火のように拡がつており、明日の世界には、世界と人間に対する他のどのような概念も存在する余地が残されていないとかれは述べた。日本は、日本国民の不変の信念として君主と臣民を有機的な一体とする原理を具現した純粋無雑の全体主義的政府を、その存在の全期間を通じて保持してきたとかれは言つた。また、満洲事変は、民主主義諸国が長い間負わせてきた條件に今まで抑圧されていた国民の健康な本能の爆発であつたとかれはいつた。さらに、八紘一宇の真の精神を再検討することと、その精神に立ち帰ることをかれは求めた。中日戦争は根本的に日本と民主主義諸国との闘争であると指摘し、東洋における戦争と西洋における戦争は、事実において一つの戦争であると述べた。

(E-858)
総力戦研究所

  ある枢密顧問官は、三国同盟に関する審議のときに、戦争の場合における事態に対処するための準備について質問した。国策研究会は、重大な政治問題の解決にあたつて、政府を助ける調査と諮問の機関として、一九三六年以来存在していたが、その主要な価値は、財閥を軍部に結びつける媒介をつとめたことであつた。総力戦研究所は、一九四〇年九月三十日の勅令によつて、公式な政府の機関または委員会として組織された。勅令は、この研究所が内閣総理大臣のもとにあつて、総力戦の遂行のために、官吏とその他の者を教育し、訓練するとともに、国家総力戦に関して、基本的な研究と調査をつかさどるものであると規定していた。星野は十月一日に研究所の所長事務取扱になり、かれのあとを襲つて、陸海軍の高級将官が所長になり、一九四五年の四月まで、研究所の仕事は続けられた。鈴木は研究所の参与の一人であつた。政府の各省がこの研究所に代者を送つていた。政府の多くの部局とともに、台湾総督府、南満洲鉄道、財閥諸会社及び横浜正金銀行も、この研究所に職員として代表者を送つていた。研究生は国内の諸活動の各分野から選ばれた。講義があり、研究または演習が行われた。研究所は、総力戦を計画するために役立つ重要な課題についての調査報告を作成した。
(E-859)
  日本が全東アジアの指導的地位に達するように、今までより多くの人力を準備するために、日本人の出産率の増加を奨励する運動が、一九四一年一月二十二日に、内閣によつて採択された。(E-860)星野がこの計画を提案し、内閣によつて採用され、内務大臣平沼と陸軍大臣東條は、この措置を熱心に支持した。この計画によれば、早期の結婚を奨励するために、新婚者に資金を支給し、結婚年齢を引下げ、産児制限を禁止し、子供の多い家族には物資に関する優先権を与え、出産率を高めるために、特別な機関を設けることになつていた。その目的は、東アジアに対する日本の指導的立場を確保し、東アジアに日本の計画を発展させるについて、労働と兵役に充てる人力を供給するために、人口を増加することであつた。定められた目標は、一九五〇年までに、日本の人口を一億にすることであつた。この計画は適当な法令によつて実施された。

三国條約に基く協力

  この條約に基くドイツ及びイタリアとの活発な協力は、この條約が調印されてから間もなく始まつた。大島は、一九四〇年十月二十七日に掲載された一新聞記事の中で、三国條約が締結され、世界新秩序建設という日本の目標が明示されたということはまことに感激にたえないが、国民は時を移さずこの目標の達成のために、不動の決意をもつて準備しなければならないと書いた。大東亜及び南方地域における新秩序建設の機会を失わないように、ドイツ及びイタリアとの経済的及び軍事的の相互協力が速やかに完成されなければならないとかれは説いた。
  この條約の三締約国は、一九四〇年十二月二十日に、條約によつて規定されていた委員会を結成することを協定した。この協定は、一般委員会と二箇の専門委員会、すなわち軍事及び経済委員会を設置し、これを三国の各首府にそれぞれ独立して組織すべきこととしていた。(E-861)陸軍省軍務局長としての武藤と、海軍省軍務局長になつていた岡とは、東京における軍事専門委員会に委員として任命された。
  この協定が成立した日に、大島はドイツ駐在大使に任命され、ベルリンにおける一般委員会の委員になつた。陸軍と海軍は、大島が三国同盟の強力な支持者として認められており、その任命はドイツ及びイタリアとの協力を促進すると思われたので、大島を大使に任命することを主張した。一月十五日の大島の渡独壮行会におけるあいさつの中で、松岡は、大島はドイツの首脳者間に、絶大な個人的信用を築いているので、かれらとは膝を交えて話すことができるから、かれが大使としてドイツに帰ることは、衷心から喜びとするところであること、三国條約の実際的活用は、大島の手腕にまつところが多いことを述べた。
  大島がドイツに到着した後にドイツを訪問することを、松岡は計画した。かれの目的は、條約に基く協力を促進すること、中日戦争の解決に対するドイツの援助を確保すること、及び南進の行われている間、ソビエツト連邦を中立に立たせるために、三国條約に企図されているように、ソビエツト連邦との不可侵條約を交渉することであつた。追つて取上げるが仏印とタイの間の国境紛争の仲介が松岡のドイツへの出発を遅らせた。一九四一年三月に、かれはベルリンに到着し、リツベントロツプ及びヒツトラーと会談を行つた後、モスコーに向い、そこで、一九四一年四月十三日に、日ソ不可侵條約を締結した。(E-862)この條約の批准は、一九四一年五月二十日に、東京で交換された。われわれが示したように、またわれわれが他の箇所で論じたように、この條約は、日本がソビエツトを犠牲にして自国の拡大をはかるという目的を放棄したことを意味するものではなかつた。(E-863)この條約は、便宜上生れたものであつた。それは時機の選択の問題であつた。中国における戦争が進行中であり、イギリス、オランダ、場合によつてはアメリカとの戦争も考慮されていたので、ソビエツト連邦と直ちに戦争することを避けるために、あらゆる努力をすることが必要であつたのである。

(E-864)
南方進出の準備

  一九四〇年の九月と十月に、内閣が採択した方針のおもな点は、東亜共栄圏の建設を促進するために、日本、満洲国及び中国から成る経済ブロツクの確立であつた。共栄圏の発展の第一段階は、仏印、オランダ領東インド、イギリス領ビルマ及び海峡植民地を含め、さし当りフイリツピンとグアムを除いて、ハワイ以西の全地域へ進出することであると決定された。完全な戦略的計画が立てられた。中国に対する代償として、中国が仏印のトンキン地方と北部ビルマを併合することを許し、それによつて、蒋介石大元帥との間の解決をもたらし、その軍隊を使用することが試みられることになつていた。軍事的と経済的の同盟の名目のもとに、仏印及びタイと保護條約を締結して、シンガポールに向つて前進するために、これらの両国に基地を獲得することが計画された。その代償として、タイは仏印の一部を約束されることになつていた。しかし、日本の侵略に抵抗する準備をタイが行うのを遅らせるために、日本とタイとの関係については、日本の軍事行動を起す用意ができ上るまでは、平穏なものと装うことが計画された。オランダ領東インドの諸島における油田とその他の資源の破壊を防ぐために、オランダ領東インドに対する作戦行動を開始する前に、シンガポールを占領し、シンガポールを攻囲中に、住民に独立を宣言させ、油田を占拠させ、これを日本側に無傷で引渡させるように呼びかけることが決定された。(E-865)これら地域における進出を助けるために、仏印、ビルマ及びマレーにおいて、独立運動が利用されることになつていた。軍事行動は、蒋介石大元帥との間の解決か、ドイツのイギリス侵入か、どちらが先になつたとしても、それと同時に始められることになつており、どちらも起らなかつた場合には、ドイツがなんらかの実質的な軍事的成功を収めたときに、開始することになつていた。行動はドイツの軍事的計画と歩調を合わせることになつていた。
  一九四〇年十一月中に、近衛内閣は、中日戦争の解決のために、蒋介石大元帥に対して接近し始めた。松岡は蒋介石大元師に対するかれの申出を続け、かれがベルリンで行うことになつていた会談の結果として、それが有利に進展することを期待していた。しかし、日本が中国の傀儡中央政府を承認したことは、大元帥との協定に至るすべての可能性を消滅させてしまつた。

タイの要求

  ヨーロツパで戦争が起るとともに、タイは一九〇四年に仏印に奪われた領土の返還の要求を、仏印に提出した。一九四〇年六月十二日に、仏印とタイとの間に不侵略條約が調印された。その條項の一つは、国境紛争問題の解決のために、委員会を任命することを規定していた。一九四〇年六月十七日、フランスがドイツに休戦を求めたときに、タイは一九四〇年六月十二日の不侵略條約を批准する條件として、自己の希望に従つて国境を修正することを要求した。
(E-866)
  一九四〇年八月三十日に、いわゆる松岡・アンリー協定が日本とフランスとの間に締結され、これによつて、フランスは日本軍の北部仏印への進駐に同意した。一九四〇年九月二十八日に、タイから仏印当局に覚書が送付された。この覚書の中で、タイはその要求を繰返し、メコン河をタイと仏印との間の国境にすることを提案した。この覚書には、フランスが仏印に対する主権を放棄しない以上は、また放棄するときまでは、タイはラオスとカンボジアにおける領土の要求を強いるようなことをしないと述べられていた。十月十一日に、フランスはこれらの要求を拒絶した。そこで、タイは国境に沿つて軍隊の集結を開始し、フランスも同じように軍隊を集結してこれに対抗した。敵対行為が間もなく起るかのように見えたが、日本が仏印の占領をその北部に制限したので、日本の支持がなくなつたタイは、その振り上げた手を打ち下すことを差控えた。
  一九四〇年の十月の下旬に、タイと仏印との間の国境紛争に関する近衛内閣の意向を知るために、タイは使節団を日本に派遣した。一九四〇年の九月と十月に立案された日本の計画には、日本とタイの不侵略條約に基いて秘密委員会を設立し、これに日本とタイの軍事同盟の準備をさせ、日本がシンガポールに対する軍事行動を起すとすぐに、この同盟條約に調印することにするという提案が含まれていた。そこで、一九四〇年十一月五日と二十一日の四相会談で、もしタイが日本の要求を容れるならば、タイの仏印に対する交渉を援助し、仏印をしてルアンプラバンとパクセをタイに返還させて、タイの要求を受け容れさせるということが決定された。(E-867)タイの総理大臣ピブンは、日本の要求を受諾した。日本はこのようにして、紛争の係争点をあらかじめ決定しておき、後になつて、その紛争の仲裁者となることを主張したのである。
  一九四〇年十一月二十一日の四相会議の後に、松岡はドイツ大使に対して、もしタイがその領土要求を限定するならば、近衛内閣は喜んでタイと仏印との間の仲介をするであろうということをタイに提案したと通告した。もし必要があるならば、ヴイシーのフランス政府との交渉に、日本はドイツ政府の支持を要請するであろうとかれは同大使に語つた。また、仏印をして日本の要求に同意させるように、仏印に対する示威行動として、巡洋艦一隻をサイゴンに派遣することになつているとも語つた。この巡洋艦は、十二月の中ごろに、サイゴンに到着する予定になつていた。
  紛争のいわゆる『仲介』についての日本の條件に対して、タイの総理大臣が同意したので、タイは仏印に対する軍事行動を再開し、一九四〇年十一月二十八日に、タイとフランスの軍隊の間に交戦が行われた。この交戦に乗じて、松岡はフランス大使に対して、一九〇四年にフランスに割譲した地域を回復しようというタイの要求に関して、仲裁者となろうと通告した。(E-868)大使はその翌日に回答し、ヴイシーのフランス政府は仲裁の申し出をありがたくおもうが、仏印の領土保全が尊重されることを期待するといつた。

仏印とタイをシンガポール攻撃に利用する予定

  一九四一年一月二十三日に、ベルリンの日本大使来栖は、シンガポールへの南進は、仏印とタイの領土を通過してから、マレー半島という陸橋を利用しなくては考えられないとワイゼツカーに説明した。そのためには、日本のタイとの取極めに、イギリスが干渉することを阻止しなければならなかつた。外交顧問白鳥によつて指導されていた一派は、かれらが太平洋地域における要衝と考えていたシンガポールを直ちに攻撃することを要求していた。その結果として、日本軍当局と東京駐在のドイツ陸軍武官とは、一九四一年一月に、そのような攻撃の可能性について研究した。その到達した結論は、サイゴンを占領し、その後にマレー半島に上陸するという順序で、この攻撃は遂行されなけれはならないというのであつた。
  一九四一年一月三十日の連絡会議は、仏印とタイの間の紛争の調停を利用して、両国内における日本の地位を確立し、将来シンガポール攻撃に使用するために、カムラン湾に海軍基地を、サイゴン附近に航空基地を獲得することを決定した。(E-869)この決定を実施するためにとられた処置については、後に取扱うことにする。調停の真の目的は隠しておき、交渉は紛争当事国の間の平和を維持するための試みであると称することに決定された。連絡会議の後に、近衛、参謀総長及び海軍軍令部総長は、会議の決定について、天皇に報告し、その承認証人を得た。この決定を知つていた木戸は、その日記に、御前会議を差しおいての、このような方法は異例であるとしるした。
  ヴイシーのフランス政府が仏印に増援部隊を送ることをドイツは阻止した。そして、仏印は一九四一年一月三十一日にタイとの停戦協定に調印するほかはなかつた。停戦協定の條項によると、両国の軍隊は、一月二十八日に占めていた線から退き、また一切の軍事行動を停止することになつていた。日本は停戦協定が守られるように監視することになつていた。この協定は、恒久的な平和條約が締結されるまで、効力を続けることになつていた。一九四〇年の九月と十月に行われた最初の仏印侵入の期間中、南支那派遣軍に従つて臨時の任務に就いていた佐藤は、この停戦協定の実行を監視する日本代表の一人であつた。(E-870)紛争解決のための協定が日本とヴイシーのフランス政府との間に成立し、フランスが日本のすべての要求に同意した三月まで、佐藤は軍務局の自己の任務にもどらなかつた。
  停戦協定が調印されたので、調停の準備が進められた。一九四一年二月五日と六日に、日本の調停委員が任命されたが、その委員の中には、松岡、武藤及び岡がいた。交渉は二月七日に始まることになつていた。二月六日に、松岡はドイツ大使に対して、かれの内閣は調停を利用して、フランスとタイの両国にどの第三国とも政治的または軍事的な協定を結ばないことに同意させる意向であると報告し、それをドイツ政府に通知するように依頼した。
  タイと仏印との間の紛争において、日本がこのように調停した結果は、一九四一年五月九日に、ヴイシー・フランスとタイとの間に平和條約がついに調印されたときに現われた。この條約には、すべてタイの主張の通りに、フランスはタイに地域を割き、国境はメコン河の中央線に沿つて設定されるものと規定された。一九四〇年十一月の五日と二十一日の日本の四相会議で、この結果が決定されていたことをわれわれはすでに述べておいた。

(E-871)
連絡会議

  一九四一年一月三十日に、総理大臣と参謀総長及び軍令部総長がとつた措置は、太平洋戦争の終りまで、慣例として踏襲された先例をつくつた。重要な決定は、連絡会議でなされ、天皇の承認を得るために、直接にかれに報告された。その後は、御前会議は宣戦の布告のような最も重要な問題に関してだけ開かれた。従つて、その後は、連絡会議は日本帝国の真の政策決定機関になつた。会議の構成員は総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、内務大臣、陸軍参謀総長及び海軍軍令部総長と双方の次長、陸海軍の各軍務局長、企画院総裁、並びに内閣書記官長であつた。第二次近衛内閣においては、東條、平沼、星野、武藤、企画院総裁に任命されてからの鈴木、及び海軍省軍務局長に任命されてからの岡がいつもきまつてこれらの会議に出席し、政府の諸政策の作成と実行に参加した。

外交上の討議

  一九四一年二月に、イギリスの外務大臣アントニー・イーデンは、時局について懇談するために、大使重光を招致した。(E-872)かれは極東における事態が極度に緊張しているという報道に言及し、日本だけが極東の紛争を調停する権利があるという松岡の声明と主張を承認し得ないといつた。かれは当時フランスとタイとの間に行われていた調停の欺瞞的な性質をとがめた。イギリスは極東におけるその領土を防衛する意思があるとかれは言明した。重光は、緊張した事態が存するのを知らないと答えた。しかし、証拠によれば、かれは危機に瀕した事態について知つていたばかりでなく、近衛内閣が採用した諸計画と、それらを実行に移すために、その当時までにとられていた措置とについて、熟知していたことがわかる。かれは、イーデン氏の言葉をもつて、日本とイギリスの関係が危機に瀕しているという前提に基いてイギリスの立場を明白に表明したものと解すると述べた。そして、イギリスとアメリカの協力について不満を述べた後に、本国政府に完全な報告をして、訓令を求めるつもりであると述べた。
  このイーデン氏と重光との会談のうちに、一九四〇年の九月と十月に採用された計画の第五の條項を実行するための機会を松岡は見出した。その條項というのは、適当な時期に、日本はイギリスがドイツと講和するように仲介を試み、その仲介を利用して、東南アジアと太平洋の近接地域を日本が支配することについて、イギリスの承認を得るということであつた。(E-873)その計画によれば、この承認の代償として、日本はオーストラリアとニユージーランドとを含むイギリス帝国の保全を約束し、またイギリスとの一般的な経済的協力を約束することになつていた。松岡はフランスとタイとの間の調停を行つていた。そして、一九四一年二月十日に、かれはシンガポールに対する攻撃を準備中であるとドイツ大使に伝えた。しかし、二月十三日には、重光に対して、極東において危検が切迫しているというイギリス大使の報告は、笑うべき妄想であるとイーデン氏に伝えるように訓電した。
  松岡は重光に対して、イギリス大使の報告は、日本が仏印とタイに軍事基地を獲得し、それから、ドイツがイギリスに侵入するのと相呼応して、南洋方面で、イギリスに対する行動を開始するであろうという仮定に基いているように見受けられると告げた。松岡はこの報告の根拠を内々調べてみたが、それを見出すことができなかつたので、なんの根拠に基いて、東京における大使がこの人を驚かすような報告をしたか了解に苦しむといつた。松岡の否定にもかかわらず、イギリス大使の報告の実質は、松岡が出席した一九四一年一月三十日の連絡会議によつて、実際に決定されたことであつた。日本は軍事行動によつてなんら益するところがないから、日本が今にも軍事行動を開始することを計画しているという新聞報道には、まつたく根拠がないとイーデン氏に伝えるように、松岡は重光に訓令した。
(E-874)
  一九四一年二月十五日に、松岡は東京でイギリス大使と会見し、極東において危機が切迫しているということに関する大使の情報の出所を知ろうと試みた後に、イギリスと合衆国が刺戟的行動をとることを慎んでいる限り、日本はどのような事情においても、これらの諸国に懸念を感じさせるような行動を起さないつもりであると保証した。大使は松岡が南進を阻止するつもりであるかどうかを尋ね、また、フランスとタイとの紛争の調停者としての役割に対して、日本は法外な代償を期待するものかどうかを尋ねた。松岡は最善の努力を尽して南進を阻止するつもりであると答え、大使に対して、紛争の調停にあたつて、日本の目的とするところは、ひとえに仏印とタイとの平和を回復するにあることを保証した。
  一九四一年二月二十日に、マレーにおけるイギリス駐屯軍の増強に関して、松岡はイギリス大使に苦情を申入れた。また、アメリカ大使に対して、イギリスはマレーにおける駐屯軍を増強することによつて、攻勢的な行動をとりつつあるといつて松岡は苦情を述べた。アメリカ大使は、明らかに守勢的な措置を攻勢的なものであると日本が解釈し、そう特徴づけることは、自分には意外に思われると回答した。(E-875)かれはそれから、日本が恵州、海南島、新南群島を相ついで占領したことに言及し、仏印における軍隊の集結と南進の意図を公言したことにも言及した。イギリスも合衆国も、これらの事実をもつて、日本の平和的意図を示しているものと解釈することはほとんどできないとかれはいつた。
  一九四一年二月十七日に、松岡はイーデン氏に対して通牒を送つた。極東において危機が切迫しているという報道をかれは否定した。(E-876)三国條約の第一の目的は、第三国の参戦を阻止することによつて、ヨーロツパ戦争の範囲を局限し、それによつて、戦争の速やかな終結をもたらすことにあるとかれは主張した。これが三国條約の唯一の目的であり、この條約は日本の外交方針の根幹をなしているとかれはイギリス政府に保証した。太平洋と南洋方面における仮想された緊急事態に対して、イギリスとアメリカの政府が準備を企図しているから、自分は心配しないわけにはいかないと述べ、もし合衆国がその活動を西半球内に限定したならば、事態の緩和は実に著しいものがあるであろうと述べた。ついで、かれの最も念願するのは常に世界平和であり、中国とヨーロツパの戦争を速やかに終結させることを衷心から希望するといつた。ヨーロツパの戦争の解決のために、日本が仲介者として起つことをかれは示唆した。
  イギリス政府は、一九四一年二月二十四日の松岡の仲介の申出に回答した。太平洋と南洋におけるイギリスと合衆国の準備は、まつたく防衛的なものであり、両国は日本に対して攻勢的な行為に出る意思はないということを日本政府に保証した後に、イギリス政府は、ヨーロツパ戦争の仲介の申出を拒絶した。イギリス政府は、ヨーロツパにおける敵対行為が開始される前に、それを回避しようとあらゆる努力を払つたが、このような敵対行為にはいることを余儀なくされた以上は、これを勝利によつて終らせる以外には、なにも考えていないと述べた。
(E-877)
  チヤーチル氏は、この回答が日本政府に送られた日に、重光と会談し、戦争の継続に対するイギリスの決意を強調した。かれは、日英同盟の締結当時以来友好的であつたイギリスと日本の関係が、悪化しつつあることについて、遺憾の意を表明した。もし両国間に衝突が起つたならば、悲劇であろうということ、シンガポールの周辺に建造中の防禦施設は、単に保護のためであるということを述べ、ヨーロツパ戦争において勝利をうる確信を表明し、松岡が述べたようなこの戦争の仲介の問題は起らないであろうとかれはいつた。重光は松岡が仲介を示唆したことを否定し、松岡は単に平和を希望する日本の精神を強調しようとしただけであると述べた。日本に抗戦する重慶政府に対して、イギリスが援助を与えていることについて、かれは遺憾の意を表明した。
  一九四一年二月二十七日に、チヤーチル氏にあてた申入の中で、三国條約に基く日本の意図について、松岡は自分の説明を再確認し、日本はイギリスを攻撃する意図がまつたくないことを再び保証した。二月十七日のイーデン氏にあてた通牒が仲介の申出と解釈されたことについて、かれは驚いたと称しながらも、その考えに反対するものではないことをほのめかした。

シンガポール攻撃の準備

  イギリスとアメリカの協力を破り、ヨーロッパ戦争の仲介によつて、東南アジアへの日本の進出をイギリスに容認させようという試みが失敗したために、日本の指導者は、それに代わる計画として、シンガポールを攻撃し、同じ目的を武力を使つて達しようとする計画をとらなくてはならないようになつた。この攻撃のための準備は、急速な歩調で進行した。コタ・バルにおける上陸作戦の資料を集めるために、一九四一年一月には、航空写真撮影が行われた。日本の水路部は、一九四一年七月に、その地域をさらに測図することを完了した。一九四一年十月初旬に、地図は海軍軍令部によつて完成され、印刷された。
  陸軍省は大蔵省と協力して、早くも一九四一年一月に、日本軍が南方進出にあたつて占領することを予期していた地域で使用するために、軍票の準備を開始した。特別の通貨が印刷され、敵の領土の占領につれて陸軍が引出せるように、日本銀行に預けられた。このようにして準備された軍票は、マレー、ボルネオ及びタイで使用するのに適したドル、オランダ領東インドで使用するためのギルダー、フイリツピンのためのペソであつた。従つて、一九四一年一月には、陸軍省も大蔵省も、この通貨が準備されたこれらの地域を日本軍が占領することを企図していたものである。
  総力戦研究所は、一九四一年の初期において、『総力戦的内外状勢判断』、『帝国並に列国の国力に関する総力戦的研究』、『大東亜建設計画案』、『総力戦計画第一期』というような題目に関する調査報告をつくつた。
  大島は、再びドイツ駐在大使としての任務につくために、ベルリンに帰つた。一九四一年二月二十二日に、かれはドイツ外務省のワイツゼツカーに対して、シンガポールは海陸からの攻撃によつて攻略されなければならないと告げ、二月二十七日には、リツベントロツプに対して、シンガポール攻撃の準備は、五月末までに完了するであろうと語り、香港とフイリツピンの占領は、いつでも必要に応ずるように準備ができているとつけ加えた。一九四一年三月二十八日に、リツベントロツプは松岡に対して、シンガポールの占領はぜひとも必要であること、フイリツピンは同時に占領することができることを話した。松岡はリツベントロツプに同意し、もし日本がシンガポールを占領するという冒険をしなかつたら、三等国になつてしまうであろうと思うといつた。

その他の準備

  日本の大本営は、松岡のドイツ訪問の間に、シンガポール攻撃の準備を続けた。参謀総長と軍令部総長は、一九四一年三月下旬に、ドイツ大使に対して、シンガポール攻撃の準備を強力に行つていると知らせた。白鳥はドイツ大使とこの攻撃のための戦略について話し合つた。かれの意見は、海軍による正面攻撃は行うべきでなく、マレー半島に基地を設け、そこから、日本の空軍が、ドイツの急降下爆撃機の援助を受け、半島南下攻撃の準備として、シンガポールを爆撃すべきであるというのであつた。一九四一年三月二十九日、松岡はゲーリング元帥と会談したときに、日本がドイツに供給すべきゴムの量を増加する代償として、ドイツ空軍の援助を受ける手配をした。
  日本においては、戦争のための経済的措置が加速度的に進められつつあつた。重要な問題は石油であつた。というのは、合衆国がその輸出禁止を強化しつつあつたし、またバタヴイアにおけるオランダ領東インドとの交渉が少しも捗つていなかつたからである。(E-880)企画院の星野は、オランダ領東インドの石油を獲得することができるまで、陸海軍は充分な石油を貯蔵していると見ていた。しかし、日本の生産高はわずか三十万トンであり、その年消費高は二百万トンであるから、余裕は乏しいとかれは信じていた。この事実のために、オランダ領東インドの石油資源を無瑕で占領する周到な計画が必要になつた。この周到な計画の必要によつて、一九四一年四月に、大本営は近衛に対して、星野のかわりに、陸海軍が全幅の信頼を置いている軍人の鈴木を任命することを申し出た。近衛はこの問題を木戸と話し合い、四月四日に星野は貴族院議員に任ぜられ、鈴木が企画院総裁兼無任所大臣に任命された。
  日本の指導者は、今では、日本、仏印、タイの間の緊密な関係を強化すること、バタヴイアでオランダと経済交渉を続けること、他の諸国との正常な経済関係を維持すること、しかし、帝国の自存が合衆国、イギリス、オランダの輸出禁止によつて脅威を受けた場合には、日本の重要戦争資材の貯えの消耗を防ぐために、直ちに武力に訴えることを決定した。木村は四月十日に陸軍次官に任命され、九日後に陸軍軍需審議会会長になつた。これらの任命によつて、かれは日満共同経済委員会をやめることが必要になつた。
(E-881)
  世界の諸地方での作戦行動のために、兵要地誌資料が集められていた。オランダ領東インドにおける諜報活動は、だんだん激しく行われていた。シンガポールとともに、ジヤワ、スマトラ、バリ、その他の地点に対する作戦行動が計画されていた。委任統治諸島は要塞化され、南洋方面の作戦計画は完成に近づいていた。ビルマとマレーで使うための資料が集められていた。南方諸地域の占領の際に使うために、軍票を印刷する仕事が続けられた。
  松岡は、一九四一年四月四日にヒツトラーと会談した際に、三国條約に基いて設置された軍事専門委員会を通じて、潜水艦戦に関する最近の技術的改良と発明を含めて、一切の利用し得る情報を日本に与えるようにヒツトラーに要求した。日本の海軍がシンガポール攻撃を決定した場合には、この情報を必要とするであろうとかれは説明した。松岡はつけ加えて、合衆国との戦争は、晩かれ早かれ避けられないものであり、日本はちようどよい瞬間に決定的打撃を与える準備を整えておくことを望んでいると述べた。しかし、秘密が漏れてはならないから、シンガポール攻撃の協定が成立したことは、日本向けの電報の中では決していわないようにと松岡はヒツトラーに注意した。シンガポール攻撃計画の援助に関するベルリンでの松岡の会談に、大使大島は参加した。

日ソ中立條約

  重要な問題は、シンガポール攻撃の時機であつた。ドイツ側はそれを直ちに始めることを主張した。しかし、近衛内閣の政策は、初めから、シンガポールとオランダ領東インドを攻撃している間、日本の後方を守るために、ソビエツト連邦との不可侵條約を考えていた。(E-882)この政策の樹立については、松岡は一九四〇年七月十九日の会議で協力した。ヒツトラーは、大島とその他の者も出席していた一九四一年三月二十七日の松岡との会談の際に、攻撃を開始するために、現在ほどよい時機はまたと来ないと主張した。松岡は、これに答えてこの攻撃をしないならば、日本は千載一遇の好機を失うという感情を日本人はもつているから、攻撃することは、単に時間の問題にすぎないといつた。ソビエツト連邦との不可侵條約の交渉についても、松岡は話をした。その翌日に、リツベントロツプは、日本は直ちにシンガポールを攻撃すべきであり、もしソビエツト連邦が干渉するならば、ドイツは直ちにソビエツト連邦を攻撃すると述べて、松岡にソビエツト連邦との條約締結を思い止らせようとした。その次の日にもリツベントロツプはこの保証を繰返した。松岡はベルリンからの帰途にモスコーを訪問する意図を変えなかつた。そして、一九四一年四月十三日に、ソビエツト連邦と條約を締結した。

仏印

  フランス及びタイとの協定を正式に締結するために、松岡は日本に帰つた。この協定は、かれがベルリンに向つて出発する前に取極め、ベルリン訪問中に、それに対する支持を得ておいたものであつた。
  フランスが降伏して後間もなく、一九四〇年六月に、中国向け物資の輸送禁止が確実に守られるようにするために、仏印に軍事使節団がはいるのを許すようにという日本の要求に、フランスは無理に同意させられた。この軍事使節団は、一九四〇年六月二十九日に、ハノイに着いた。
(E-883)
  日本の内閣は、その外交政策を決定していたので、外務大臣松岡は、一九四〇年八月一日に、この政策を実施する措置をとつた。かれはフランス大使を招き、仏印に関して、フランスにとつてはほとんど最後通牒に与らないものを手交した。また、同盟と日本の仏印侵入に対してドイツの承認を得ることとについて、かれはドイツ大使と話し合つた。
  松岡はフランス大使に自分の意見を告げた際に、日本は軍事使節団の仏印入国許可を感謝しているが、近衛内閣としては、フランスが日本軍の北部仏印進駐を許し、中国国民政府に対する行動のために、同地に航空基地を建設する権利を与えることを望んでいると告げた。フランス大使は、この要求は、日本が中国に対して宣戦布告をしていないのに、フランスにそれをするように要求するに等しいものであると指摘した。松岡は、この要求は必要から生じたものであつて、それが容れられない限り、フランスの中立が侵されることになるかもしれないと答えた。松岡はフランス大使に対して、もしこの要求が容れられるならば、日本はフランスの領土保全を尊重し、できる限り早く、仏印から撤兵すると保証した。
  松岡はフランスに対する自分の要求をドイツ大使に知らせ、もしドイツ政府がこの措置に反対せず、その努力を用いて、フランス政府が要求を容れるようにしてくれるならば、感謝すると述べた。フランス大使は、一九四〇年八月九日に、日本の要求をはつきりさせること、仏印におけるフランスの領土権を保証することを求めた。松岡は、一九四〇年八月十五日に、ヴイシーのフランス政府を動かすことによつて、日本の要求を支持するように、ドイツ政府に対して、重ねて要請した。(E-884)その日に、日本の要求を容れる決定がこれ以上遅れるならば、軍事行動をとるといつて、かれはフランスを威嚇した。八月二十日と二十五日に、松岡とアンリーの間で、さらに交渉があつた後、八月二十五日に、アンリーは日本外務省に対して、フランスは日本の要求に従うことに決定したと通知した。交換文書から成るいわゆる松岡・アンリー協定は、一九四〇年八月三十日に調印された。
  松岡・アンリー協定によれば、仏印の進駐は、もつぱら中国に対する行動のためであると述べられているので、臨時的のものであるはずであつたし、またトンキン州に限られることになつていた。さらに、日本は極東におけるフランスの権益を尊重すること、特に仏印の領土保全と仏印連邦の全地域におけるフランスの主権を尊重することになつていた。
  航空基地の建設と日本軍のトンキン州進駐とに関する取極めは、ハノイにある日本軍事使節団長と仏印総督との間の交渉に任された。仏印総督は、日本軍事使節団長西原の要求になかなか応じなかつた。一九四〇年九月四日に、西原はその使節団をハノイから引揚げ、南支派遣日本軍を仏印国境を越えて進駐させる命令を出すといつて威嚇した。一九四〇年九月四日に、協定が認印されたが、一部の細目は後に解決すべきものとして残された。一九四〇年九月六日に、中国にあつた日本陸軍の一部隊が国境を越えて仏印にはいつた。この行動は間違つて生じたものであるといわれ、交渉が続けられた。
(E-885)
  一九四〇年九月十九日に、アメリカ大使は松岡を訪問した。そして、外務大臣に対して、日本のフランスに対する要求は仏印の現状の重大なる侵害であり、日本の内閣の声明に反するものと合衆国政府は認めると通告した。しかし、すでにドイツ政府と了解が成立しており、三国條約は数日中に調印される予定であつたために、大使の抗議は無視された。
  外務次官は、九月十九日に、フランス大使に対して、九月二十三日までに、西原と仏印総督との間に協定が成立しない限り、日本陸軍はその日に国境を越えて仏印にはいると通告した。日本軍事使節団は、九月二十二日に、予定の侵入の準備として、仏印を引揚げて乗船した。日本陸軍は、その日の午後二時三十分に、仏印進駐を開始した。現実の侵入に直面して、総督は、日本の要求を受諾するほかはなくなり、一九四〇年九月二十四日に、トンキン州の軍事占領、仏印内における航空基地の建設及び軍事施設の供与に関する協定に調印した。トンキン州の占領は急速に進み、航空基地が建設された。

オランダ領東インドとの関係

  日本の政策と行動は、アメリカの制裁と経済的制限を引き起したので、戦争必需品を、特に石油を、日本はオランダ領東インドから手に入れなければならないと決定した。
(E-886)
  一九四〇年一月十二日に、日本はオランダに対して、一九三五年八月の司法的解決、仲裁裁判及び調停に関する條約は、一九四〇年八月で満了すると通告した。この條約によれば、締約国はその間の紛争をすべて平和的方法によつて解決する義務があり、紛争解決のために、すでに常設委員会が設置されていた。
  外務省は一九四〇年三月に、戦争のための日本の経済的準備の研究をした。同省が到達した結論は、中日戦争の当初から、合衆国は九国條約の遵守を主張しているから、もし日本の侵略が続けば、その輸出禁止を日本向けの重要軍需品に拡大するかも知れないということであつた。戦争物資の供給について、日本を合衆国に依存しないようにするための方法手段が審議された。提唱された対策は、他の国に供給源を求めること、日本と満洲国と中国の間の『緊密な関係』を強化すること、東南アジアの諸国を日本の経済的支配の下に置くことであつた。
  ヘーグ駐在の日本公使は、オランダ外務大臣に対して、ある種の要求を行う通牒を二月二日に手交していた。そのとき行われたおもな要求は、オランダとオランダ領東インドから日本への輸出に対する制限と、日本からオランダ領東インドへの輸出に対する制限とを撤廃すること、オランダ領東インドへの入国に関する法律を改正すること、オランダ領東インドにおける日本の投資のための便宜を拡張すること、オランダ領東インドにおけるすべての反日的出版物の検閲を行うことであつた。これらの要求に対する回答がまだ考慮中である間に、ドイツはオランダに侵入した。
(E-887)
  一九四〇年四月十五日に、外務大臣有田は新聞に対して声明を行つた。この中でかれは日本は南洋諸地方就中オランダ領東インドと経済的に有無相通の緊密な関係にあり、もし、欧州戦禍が波及しオランダ領東インドの現状が乱されるようなことになるならば、日本は深い関心をもつものであり、東アジアの平和が乱されるであろうと指摘した。その翌日に、ヘーグ駐在の日本公使は、オランダの外務大臣を訪問して、オランダ領東インドの現状維持に関する、日本の関心について説明した。オランダの外務大臣は、オランダ政府は現在においてオランダ領東インド保護を何国にも依頼しておらず、又これを他国に依頼しようとするものでもなく、何国よりの保護の申入れ若くは干渉があつてもすべて拒否する決意であると回答した。合衆国国務長官ハル氏は、有田の新聞声明に答えて、四月十七日に、オランダ領東インドの国内問題に対する干渉、または、全太平洋地域のどこであつても、平和的手段以外の方法による現状の変更は、平和に対する脅威となるであろうと有田に通告した。
  一九四〇年五月九日に、ドイツはオランダに侵入した。二日後に、オランダ領東インドの現状に関する四月十五日のかれの声明を有田は再確認した。この声明には、かれが東京駐在のオランダ行使に対して、オランダ領東インドに対する干渉を受諾しないというオランダ政府の決意を再確認するように要請したということが含まれていた。(E-888)この声明には、オランダ領東インドの現状維持に関して、日本が引続き関心をもつていることについて、合衆国、イギリス、フランス、ドイツ及びイタリアの各政府に通告がしてあると述べてあつた。
  その翌日に、合衆国国務長官ハル氏は声明を出し、その中で、最近の数週間の間に、合衆国、イギリス及び日本を含めて、多くの国の政府が、公式の言明において、オランダ領東インドの現状を引続いて尊重するという態度を明らかにしたこと、これは一九二二年に文書によつて正式に行われた確固たる公約と一致するものであること、及び、これらの政府はその公約を引続いて守るものと自分は考えていることを述べた。イギリス大使は五月十三日に有田を訪問し、イギリス政府はオランダ領東インドに干渉する意向をもたず、同地にあるオランダ軍は現状を維持するに充分なものと信ずるという趣旨のイギリスの声明を手交した。オランダ公使は五月十五日に有田を訪問し、オランダ政府は、イギリス、合衆国及びフランスがオランダ領東インドに干渉する意思をもたないものと信ずると有田に通告した。フランス大使は五月十六日に有田を訪問し、フランス政府はオランダ領東インドの現状を維持することに賛成であると述べた。
  フランス大使が有田を訪問しフランスの誓約を手交して、これによつてオランダ領東インドの現状を維持することについてのすべての関係連合国と中立国からの誓約が完全に揃つたその翌日に、ワシントンにおいて、日本大使はハル氏を訪問した。(E-889)同大使が西半球におけるあるオランダ領土の地位について質問した後に、ハル氏は言葉をはさんで、オランダ領東インドに関する諸問題と、日本が同地にもつていると考えている特殊な権利とについて、米内内閣がしきりに討議を重ねているということを報道する資料が、東京からの新聞通信を通して来ていることを指摘した。合衆国、イギリス及びフランスは、オランダ領東インドの現状を尊重するという誓約を最近に重ねて行つたが、日本との了解を維持しようと努力したにかかわらず、まだ誓約が行われていないという意味の通報が絶えず東京から来ていると述べた。大使はハル氏に対して、米内内閣は列国の声明後の事態にまつたく満足しており、日本政府はオランダ領東インドに対して行動を起す意思はないと保証した。
  一九四〇年五月十六日に、オランダ公使は、有田に対して、オランダ領東インドは日本に必要な石油、錫、ゴム、その他の原料の輸出にどんな制限も設ける意思はなく、また日本との一般的経済関係を維持することを望んでいると保証した。五月二十日に、東京駐在のオランダ公使に手交した通牒の中で、有田はこの保証に言及し、同公使に対して、日本がオランダ領東インド総督に望むところは、附属表に列挙された品目の量を、将来どのような状況が起つても、それに関係なく、毎年日本に輸出するという明確な保証を与えられるということであると告げた。(E-890)オランダはこの要求を六月六日に拒絶し、両国間の経済関係は、一九三七年四月のいわゆるハート・石澤協定に従うものであるという事実、またさらに、日本が最近にオランダ領東インドの現状尊重の誓約を重ねて行つた事実に注意を促した。
  ベルリンでは、日本大使は有田の訓令によつて、ベルリンのドイツ外務省を訪れ、オランダ領東インドの地位に関して、ドイツの立場を言明することを求めた。リツベントロツプは東京駐在のドイツ大使に対して、ドイツはオランダ領東インドに関心をもつていないこと、オランダ領東インドに関する日本の憂慮を完全に理解していることを有田に保証するように訓令した。さらに、同大使に対して、ドイツは他の諸国の政策と異つて、常に日本との友好政策を続けてきたこと、この政策は東アジアにおける日本の利益に有利なものであると信じていることを、有田との会見で述べるように訓令した。ドイツ大使は、五月二十二日に、訓令通りに、有田に対して、関心をもつていないというこの言明を伝えた。それに対して、有田は感謝の意を表明した。その翌日、日本の新聞はこの言明を大々的に報道し、ドイツの態度を他の諸国の態度と対照し、ドイツの言明は、オランダ領東インドに関して、望むままに行動する自由を日本に与えるものであると主張した。この主張をしてもまつたく差支えがなかつたことは、その後の出来事によつて証明された。(E-891)六月二十四日に、小磯はドイツ大使に対して、日本は仏印とオランダ領東インドに植民地を得たいと熱望していると告げた。
  日本は、一九四〇年五月二十二日に、オランダ領東インドに対して無関心であるというドイツの声明を受取つたので、一九四○年七月十六日に、東京駐在オランダ公使に対して、経済交渉のために、バタヴイアへ代表団を派遣するという日本側の意向を通告した。代表団が日本から出発する前に、米内内閣は辞職した。第二次近衛内閣は七月二十二日に就任した。近衛、陸軍大臣東條、外務大臣松岡及び海軍大臣が就任する前の七月十九日に、これらの人人によつて決定された外交政策の根本原則は、七月二十七日の連絡会議で、正式に採択された。このようにして採択された政策は、他のことと共に、重要資源を獲得するために、オランダ領東インドに対する外交政策を強化することを要求していました。そこで、近衛内閣はバタヴイアへ経済使節団を派遣する手配を進めた。
  オランダに対してなすべき二者択一的な要求の草案が作成されつつあつた間に、経済使節団の団長の人選が論議されていた。海軍には、オランダ領東インドに対して、攻撃をする準備がなかつた。一九四〇年八月十日に、軍令部総長伏見宮が天皇に対してなした言明によつて、このことは確認されている。その言明というのは、海軍は当時オランダとシンガポールに対して武力を行使することを避けたい希望であること、戦争の決定が行われてから準備を完了するために、少くとも八カ月を要するから、戦争になるのは遅れるほどよいということである。オランダ領東インドに対して、どのような攻撃をするにしても、海上輸送によつて遠征しなければならないから、今では、海軍の援助がぜひとも必要であつた。(E-892)オランダ側に提出されるべき二者択一的な要求の草案は、東インドにおける入国、企業及び投資の問題について、内閣は卒直にその見解を表明するに決したと述べ、東亜新秩序建設に専心している日本帝国の要求に対して、オランダ政府が同意するように要請し、日本、満洲国、中国を中心とし、南太平洋にまで及ぶところの、共栄圏の経済的自給力を急速に確立するのが必要であると日本は主張した。第一の提案は、他のことと共に、オランダ領東インドは、共栄圏の一員として、日本に優先的待遇を与え、日本が東インドのある種の天然資源を利用開発するのを許すことを求めた。第二の提案は、オランダ領東インドがヨーロツパとの連絡を断ち、共栄圏の一員としての立場をとり、インドネシア人のある程度の自治を許し、共栄圏を守るために、日本と共同防衛協定を結ぶことを求めた。物資の輸出に対する制限、特に日本向けのものに対する制限は、すべて廃止されなければならなかつた。これらの要求は、どのような独立国でも、強要された場合のほかは、許容するようなものではない。
  代表団が一九四〇年九月にバタヴイアに到着したときに、冷たく迎えられた。団長の小林は、一九四〇年九月十三日に、松岡に対して、東インドの総督は事態の重大さと日本の威圧的態度とを感じていないと報告した。かれは交渉が無駄であると考えたので、それを打切ることを進言した。しかし、一九四〇年九月三日に、松岡は小林の補佐役である総領事斎藤に対して、交渉は政治的問題に局限されるべきでなく、同時に石油鉱区を獲得することに向けられなければならないと訓令した。(E-893)この獲得は、内閣が代表団をバタヴイアヘ派遣した主要な目的の一つであるからというのであつた。九月十八日に、小林は松岡に対して、交渉を石油鉱区獲得の援助として続けることを報告したが、そのときまで東京で行われていたこの問題に関する交渉をバタヴイアへ移すことを進言した。
  三国條約は調印され、トンキン州の占領は、仏印における軍事基地の獲得とともに、一九四〇年九月下旬に保証された。一九四〇年の九月と十月に採択された計画によると、仏印とタイに基地を獲得することによつて、シンガポールに対する攻撃を実施すること、バタヴイアにおける経済交渉の継続によつて、オランダ側に安全感を懐かせると同時に、原住民の間の独立運動をひそかに煽動し、オランダ領東インドに侵入するための軍事的資料を手に入れることが決定された。さらに、シンガポールに対して奇襲を行うこと、その攻撃の進行中に、オランダ領東インドの原住民に呼びかけて、オランダからの独立を宣言し、オランダ領東インドの油井と天然資源を確保し、日本軍がシンガポールからオランダ領東インド占領のために進撃するに従つて、それを無瑕で引渡すようにすることが決定された。東インドの原住民に叛乱を起させる呼びかけは、オランダ領東インドの油井または他の資源が一つでも破壊されたならば、主要なオランダ人官吏は侵入した日本軍によつて殺されるという警告を含むことになつていた。この計画は、オランダ領東インドにおいて、新しい政府を組織するという條項を含んでいた。(E-894)その目的とするところは、軍事同盟の仮装の下に、この政府と保護條約を結び、新しい政府内で、日本人の軍事及び経済顧問を有力な地位に任命することを規定しようということであつた。新しい政府は、日本人が多数を占める日本人と原住民の委員会によつて組織されることになつており、オランダ領東インドは、新しい政府が樹立されるまで、この委員会によつて統治されることになつていた。
  三国條約の調印と仏印への侵入は、バタヴイアのオランダ側代表に重大な不安を起させ、かれらは交渉を続けることを躊躇した。日本の代表団は、この條約はオランダ政府を目標とするものではないこと、オランダ領東インドと日本との間の友好的な政治的と経済的の関係を助長するために、日本は交渉を続けたい希望であることをかれらに保証した。オランダ側代表団は、日本がオランダ領東インドに対してなんら敵意をもたず、指導権を主張しないという了解の上で、交渉を続けることに同意し、日本代表団に対して、議題の表を提出するように要請した。この保証が与えられた当日に、小林は松岡に対して、時を移さず、オランダ領東インドを共栄圏内に収めるべきこと、このことに留意して、この行動の準備として、宣伝と人員養成のための経費を予算に計上すべきことを進言した。この新しい方針は、政策と計画に充分精通した人物が小林と交代することを必要とした。右の保証を与えた二日後に、小林はかれの東京への召還を発表した。
(E-895)
  ベルリン駐在の日本大使は、ドイツ政府に対して、南方と南洋への日本の進出に対するドイツの援助の代償として、極東とオランダ領東インドからの重要戦争資材をドイツ政府に供給するために、日本は購入代理者となる用意があると通告した。ドイツ政府はこの申出を受諾し、一九四〇年十月四日に、オランダ領東インドにおいて獲得すべき錫、ゴム、ヒマシ油及び香料の前払いとして、為替手形を大使に送つた。購入を行うために、完全な実行協定がつくられた。この協定は、オランダ領東インドに対する政策をさらに修正することを必要とした。一九四〇年十月二十五日に、ドイツとの協定に対応するために、内閣はその政策を修正した。日本政府のドイツに対する義務は、枢軸諸国との協力のために、東インドと緊密な経済関係を樹立し、その豊富な天然資源を開発利用することによつて、東インドを直ちに大東亜経済圏の中に入れることを要すると決定された。政策を実施する計画の一切の細目が協定された。これらの細目は、他のことと共に、オランダ領東インドはヨーロツパ及びアメリカとの経済的関係を断絶すること、オランダ領東インドの重要戦争資材の生産と輸出は、日本側の支配の下に置かれること、オランダ領東インドの全経済問題の整理と処理は、日蘭委員会のもとに置かれることであつた。これらの目的が達成されたならば、日本は東インドの経済を支配することになつたであろう。
  この当時に、なんら外交官としての職に就いていなかつた大島は、一九四〇年十月二十七日に、読売新聞のために論文を書き、その中で、枢軸と協力すべき日本の義務に注意を喚起し、三国條約は新しい義務を負わせたものであると指摘した。(E-896)日本人はこの事実を認識すべきであり、ドイツ及びイリタアとの協力のために、日本、仏印、中国、インド、オランダ領東インド、南洋諸島等の間に、相互の融和と繁栄のために、緊密な関係を樹立すべきであるとかれは勧告した。日本がさらに侵略するのを防ごうとして、その当時強化されつつあつたアメリカの重要軍需品輸出禁止に言及し、アメリカは世界の仲裁者ではないといい、もしアメリカがその厖大な天然資源を新秩序の建設を助けるために用いるならば、世界平和に対して、確かに偉大な貢献をすることになると述べた。
  オランダ代表団は、一九四〇年十月七日に、周到な詳細な石油事情に関する覚書を日本側に渡していた。その中で、全般的事態と他の諸国からの要求とを考慮して、日本に供給する用意のある各種石油製品の分量を列挙し、さらに、石油の調査と開発のために、日本に提供することのできるオランダ領東インドの地域を詳細に述べた。日本代表団は、一九四〇年十月二十一日に、オランダ側が供給すると提案した石油の分量では満足でないことを回答し、また提案に対する全般的不満を表明した。同代表団は、私企業のために保留されている油田地帯だけでなく、政府用の保留地域をも調査し、開発する権利を得ることを日本は希望していると述べた。
  総領事斎藤は、一九四〇年十月二十五日に、松岡に提案を説明するにあたつて、企業家の立場からすれば、提案は至極もつともであるが、軍事的立場からは、これについて、さらに考慮を払わなければならないと述べた。石油を試掘する計画はオランダに対する軍事行動の基地としての地域を調査するために利用しなければならず、そのためには、労働者に仮装した兵士とともに、相当数の飛行機をこれらの地域に送りこまなければならないとかれは指摘した。また、軍部によつて戦略上重要であると考えられている地域について、指示を要請した。
(E-897)
  一九四〇年十月二十九日に、日本代表団はオランダの提案を受諾すると称した。しかし、この提案とその受諾は、ボルネオ、セレベス、オランダ領ニユーギニア、アラウ群島及びスホウテン群島におけるある広範な地域を、日本が油田の調査と開発を行い得る範囲として、日本に与えるものと了解すると述べた。かれらはスマトラの諸地域も希望していること、及び日本の企業がオランダの石油会社の投資に参加したいと希望していることをつけ加えた。オランダ側は、この受諾は、オランダの提案をはるかに超えたもので、交渉を断絶させるものであるとの立場をとつた。しかし、近衛内閣は、一九四〇年九月と十月の政策決定を実施する計画を完了していた。オランダに対して、武力を用いる準備はまだ完了していなかつた。交渉に新しい生命を注ぎこむために、かれらは特別使節が任命されようとしていると発表した。この使節は、一九四〇年十一月二十八日に任命された。それは、芳澤であつた。かれは貴族院議員であり、前に犬飼内閣の外務大臣であつた。
  芳澤はバタヴイアに行き、一九四一年一月六日に、一九四〇年十月の政策決定の線に沿つた新しい提案を出した。この提案の前文に、日本とオランダ領東インドとの間には、ある相互依存関係が存在し、オランダ領東インドは天然資源に富み、人口が稀薄で、未開発であり、日本はその天然資源の開発に参加し、オランダ領東インドとの貿易と経済関係を促進することを熱心に希望していると述べてあつた。(E-898)提案の詳細は、入国法の修正、日本人に対する鉱業権と漁業権の附与、日本とオランダ領東インドとの間の航空路の開設、日本の船舶に対する各種の制限の撤廃、輸入と輸出の制限の解除、オランダ領東インドにおける日本国民に対して製造工業権と企業権の附与を要求したものであるこれらの提案は、もし受諾されたならば、オランダ領東インドを日本の経済的支配下に置くものであつた。もし受諾されたならば、戦争をせずに、日本は東南アジアにおける侵略的目的の少くとも相当な部分を達成したであろう。
  芳澤は松岡に対して、ドイツがオランダに侵入した後、オランダ政府がロンドンに移つてから、オランダ領東インドはイギリスと合衆国にますます依存するようになつたために、かれの提案に対する好意的な回答は期待していないと報告した。(E-899)地中海戦域におけるイタリア陸軍の敗北、合衆国の日本に対する強硬な態度、及びオランダ領東インド防衛の強化は、オランダに新しい自信を与えたこと、及びオランダ領東インドを共栄圏に包含するには、断固たる手段が必要であることをかれは述べた。
  オランダ側代表は、一九四一年二月三日に、芳澤の提案に答えて、友好的精神をもつてすべての中立国との経済関係を改善し、貿易を増進することによつて、オランダ領東インドの原住民の福祉と進歩をはかることがオランダの第一に考慮していることであり、オランダ領東インドの利益は、外国との経済関係を厳格な無差別主義の基礎の上に維持することを要求するものであると述べた。また、戦争中は、オランダの敵国が直接または間接の利益を受けないことを確実にするために、貿易とその他の経済活動を制限することが必要であると指摘した。次に、日本とオランダ領東インドとの間に、相互依存関係があるとの主張に対しては、事実の証明するところでないとし、強硬に反対した。
  芳澤の提案に対するオランダ側の回答は、さらに交渉を続ける途をあけていたが、オランダ側は、一九四一年一月二十一日に松岡が議会で行つた演説についても、オランダ領東インドに対する日本の軍事行動の準備を示すものと思われた仏印とタイにおける諸事件についても知つており、従つて、会談を続けることについては、疑惑を懐いていた。(E-900)かれらは、日本の代表団に対して、日本の南部仏印占領は、オランダ領東インドに対して、きわめて重大な軍事的脅威となるものであつて、経済交渉で成立するどのような協定も、これを無効にするであろうと警告した。
  松岡は、一九四一年一月二十一日の演説で、オランダ領東インドと仏印は、地理的理由だけから見ても日本と密接不可分な関係になければならないと述べていた。これまで、この関係を妨げてきた事態を改めなければならないとかれは言明し、バタヴイアにおける交渉は、その目的のために行われていると指摘した。芳澤は、その提案が拒絶されたことを松岡の演説の責に帰し、松岡に苦情を述べて、攻撃準備の期間中、交渉を首尾よく続けなければならないのならば、東京の当局者は、もつとその目的に役立つような態度を保つ必要があると警告した。
  オランダ側は警告を与えられていた。一九四一年二月十三日に、芳澤は、オランダ側は合衆国とイギリスから積極的な援助を予期しており、日本よりも合衆国に依存することを好んでいる旨を松岡に知らせた。バタヴイアにおける交渉の打切りは、単に時期の問題であり、東インド問題を解決するために、日本のとるべき唯一の手段は、武力であるとかれは進言した。一九四一年三月二十八日に、近衛は芳澤に対して、交渉の失敗は日本の威信を傷つけること、ヨーロツパの情勢が急激に変化しているので、オランダ側の態度にかかわらず、日本側はバタヴイアに留まつて事態の発展を待つべきであることを訓令した。(E-991)この訓令は守られ、交渉が続けられた。
  日本代表団は、一九四一年五月十四日に、その提案をオランダ側が拒絶したのに答えて、修正した提案を行つたが、一月十六日の提案の前文で表明された見解は、日本政府の堅持するところであることを明らかにしておきたいと述べた。オランダ側代表団は、仏印とタイとの紛争のその後における発展を知るとともに、日ソ不可侵條約の調印も知つていたので、一九四一年六月六日の修正された提案は、オランダの経済政策の基本的な原則と相容れないものであるとして、これを拒絶した。かれらは、東インドから日本に輸出された原料がドイツに再輸出されないことも要求した。
  その翌日、芳澤は、オランダがかれら代表団の引揚げを要求するおそれがあるので、交渉から手を引く権限を緊急のこととして要求した。オランダ側の回答の條件を『不当』と称して、松岡は交渉の打切りを許した。一九四一年六月十七日に、芳澤はオランダ領東インド総督との会見を求めた。オランダの態度の緩和を得ようとして、最後の無益な試みを行つた後に、交渉の打切りを声明するために発表する共同コミユニケの草案をかれは提出した。国外と国内における日本の『面目』を立てるためにつくられたこのコミユニケは、双方の代表団によつて小さな変更が施された後に、承認された。それには、次のような言明が含まれていた。(E-902)『本交渉の打切りが、オランダ領東インド・日本間の正常関係に何等の変化を与えるものでないことは、附言を要しない』

三国條約後の準備

  枢密院の審査委員会における三国條約に関する討議の際に、東條は、内閣がこの條約の締結の結果として起る合衆国との戦争の可能性を考慮したことを述べ、その場合に対処するために慎重な計画が立てられていることを明らかにした。一九四〇年九月の御前会議と枢密院審査委員会における討議によつて、海軍は日本とアメリカとの戦争が避けられないものと考え、石油の戦時予備貯蔵量の補充に関して、充分な策が講じられていないことのほかは、完全にその準備をしているということが明らかにされた。星野は、企画院では、石油を含む重要戦争資材を蓄積することによつて、合衆国との戦争について、慎重に計画を立てていること、貯蔵量は即戦即決には充分であると考えるということを述べた。さらに、もし戦争が長引けば、その供給はオランダ領東インドとその他の地域から補充することができるとかれは考えた。枢密顧問官は、三国條約を締結すれば、おそらく合衆国との戦争になるであろうということを知つていた。そして、條約に関する報告の際に、それに必要なあらゆる準備が行われるべきことを進言した。
  これに続いて、合衆国、イギリス及びその他の諸国との戦争の広範な準備が行われた。中国の傀儡中央政府が承認され、日満華経済ブロツクが強化された。これらは、アメリカの軍需品輸出禁止に対処して、日本の経済的地位を改善するためであつた。この輪出禁止は、陸軍大臣畑とその他の者が、かれらのいわゆる時代後れな九国條約によつて、日本の作戦行動が阻止されることはないと公けに宣言した後に行われたものであつた。(E-903)星野の指揮する企画院は、重要資材を蓄積するために、再び努力し始めた。すでに述べたように、近衛の大政翼賛会は、日本の指導者が避けられないものと主張した合衆国及びイギリスとの戦争の困苦に対して、国民の忍耐力を強くするために、星野、木戸及び橋本の助力によつて組織された。領土と天然資源とを獲得するために、侵略戦争の遂行を普及させる目的で、著述と講演による宣伝が広く行われた。橋本、白鳥及び大島は、この宣伝工作に大いに貢献した。総力戦研究所という形で、軍事上の企画機関が組織され、星野を初代の所長とし、鈴木を参与の一人として運営された。枢軸諸国が乗り出した冒険を行うについて、これらの諸国間の協力を促進するために、大島がドイツに送られた。

合衆国及びイギリスとの関係

  一九四〇年十月に、近衛は新聞に対して声明を発し、その中で、日本の指導者が考えていた共栄圏を、すなわち、婉曲に表現された日本の東アジア征服を、合衆国とイギリスとソビエツト連邦に認めさせるために、政府は外交的に工作していると述べた。もし合衆国が日本の真意を理解しようとしないならば、イギリスとともに、合衆国は戦争をしなければならないようになるであろうとかれはほのめかした。この声明のために、合衆国政府は、その輪出禁止を屑鉄と屑鋼にまで拡大し、その防衛準備を強化した。(E-904)ワシントンの日本大使館は、輪出禁止の範囲の拡大が単に合衆国の防衛に対する関心だけから行われたということは、日本政府として認めがたいと苦情を述べた。合衆国政府は、九国條約とその他の日本側の義務にもかかわらず、アメリカの通商は、ほとんど満洲と華北から駆逐され、今では日本がアメリカの企業を上海からも追い出そうと企てているようだと答えた。
  合衆国政府は、日本の南方進出と三国條約の締結、それに引続いて行われた近衛の警告について、憂慮していた。合衆国大統領は、議会における演説で、合衆国の安全がこれほど重大な脅威を受けたことは今までにないと断言した。一九四一年一月十五日に、国務長官は、下院の外交委員会に対して、西太平洋の全地域で自己の支配的な地位を確立しようとする広い、野心的な計画によつて、日本が最初から動かされていたことは明白であること、世界の全人口のほとんど二分の一を含む地域の支配者になろうとして、日本の指導者は武力によつてこの地位を獲得し、維持する決意を公然と宣言したことを述べた。少くともハワイの西方から南洋とインドにまで及ぶところの、太平洋の全地域の占領に向つて、日本の軍部の指導者が乗り出そうとしていたことは、合衆国政府に明らかであつた。
  ハワイの真珠湾を基地とする合衆国の太平洋艦隊は、南方に向つて軍事行動を起そうとする近衛内閣の政策の実行に対して、最も大きな障害の一つをなしていた。(E-905)日本の指導者の多くは、シンガポールの増強のために、この艦隊が用いられることをおそれ、これを防ぐために、シンガポールに対して、直ちに攻撃することを主張した。しかし、日本の海軍は、石油とその他の重要物資を蓄積すること、シンガポールの攻撃を行う前に、それらの物資を補充する準備を充分にすることを要求していた。一九四〇年八月に、この準備のためには、少くとも八カ月を要すると海軍は見積つた。三国條約の調印の前に行われた御前会議と枢密院での討議の際に、海軍はその要求を主張した。
  近衛内閣が採用した一般計画は、海軍の要求を考慮に入れて、合衆国政府と不侵略條約の締結を交渉することによつて、合衆国太平洋艦隊の脅威を除こうと試みることを定めていた。このような條約の一部として、日本はフイリツピンとグアムの安全を保証し、アメリカ合衆国は共栄圏を承認するということが提案されていた。もし交渉が失敗したときは、奇襲攻撃を行うことができるように、交渉の継続中に、合衆国軍に対する攻撃の準備が進められることになつていた。
  合衆国と日本が平和状態にあるときに行う奇襲攻撃によつて、真珠湾に碇泊している太平洋艦隊を全滅させる計画がつくられ、研究のために、連合艦隊司令長官のもとに提出された。(E-906)かれはこの計画を承認し、早くも一九四一年一月に、それを大本営に送つた。この計画は、真珠湾にある合衆国太平洋艦隊に対して、空中攻撃を加えるために、機動部隊の編制を必要とした。この機動部隊は、発見されることを避けて奇襲を完全にするために、商船にはほとんど用いられない北方の航路をとることになつていた。空中攻撃と並行して、空襲から逃れようとする艦船を撃滅するために、潜水艦の使用が計画された。浅海魚雷と小型潜航艇を案出し、製造することとともに、距離は長いが、いつそう安全な北方航路による進路が用いられるように海上給油方法を完成することなど、多くのこまかい事項を解決しなければならなかつた。もし真珠湾攻撃が成功し、合衆国艦隊を潰滅させる結果になつたならば、合衆国が反撃を準備し、それを開始する前に、太平洋とインド洋のあらゆる重要地点を占拠することができると日本の指導者は考えた。そのときには、長期化した消耗の激しい戦争に合衆国があきて、それまでに占領した領土における日本の優越権を認めるような和平を交渉するようになるだろうと希望された。
  外務大臣松岡は、一九四一年一月に、交渉を行うために野村を合衆国駐在大使に任命することによつて、内閣の計画を実施する第一歩を踏み出した。野村が日本を出発する直前の一月二十二日に、松岡は野村に訓令を与えた。(E-907)その訓令というのは、日本は共栄圏の建設に対するアメリカとイギリスの妨害によつて、やむを得ず三国條約に調印したこと、この條約は単に防衛的なものではあるが、合衆国が締約国のうちの一国を攻撃した場合には、他の二国が直ちに軍事的援助を与えることが規定してあること、日本にこの同盟を忠実に守るであろうということを、野村が合衆国大統領とその部下に理解させなければならないというのであつた。さらに、合衆国は東アジアにおける日本の目的を妨害することをやめ、共栄圏の建設について日本と協力し、その代償として、この共栄圏の建設から生じる利益にあづかる機会を与えられることの方がよいであろうということを合衆国政府に勧めるように、松岡は野村に訓令した。
  事態の重大なこと、了解に到達するために、迅速な交渉を必要とすることを合衆国政府に認めさせることを目的として、宣伝工作が直ちに始められた。南方に対する攻撃のために、カムラン湾とサイゴンの周辺に基地を獲得することを内閣は決定し、ドイツ政府に対して、仏印におけるフランス軍隊を増強を阻止することを求めた。この計画は、一九四一年一月三十日の連絡会議で承認された。合衆国政府は、一九四一年一月二十八日に、フランスのヴイシーにおけるそのオブザーヴアーから、ドイツ政府がヴイシー政府に対して増援部隊の派遣を禁止したという報告を受けて、この計画を知つた。その結果として、一九四一年二月三日に、アメリカは多くの非鉄金属と炭酸カリを輸出禁止品目表に加えた。イーデン氏が重光に会い、極東において、一、二週間のうちに、危機が到来することが予期されているという趣旨の東京のイギリス大使からの報告について説明を求めたのは、この時であつた。
(E-908)
  合衆国が輸出禁止の範囲を拡大したことは、議会において、松岡をいささか当惑させた。かれはさらに訓令を野村に送つた。野村がワシントンに到着したときに、直ちに、日本は合衆国を攻撃しようと思つたことは全然ないこと、しかし、合衆国政府が日本に対する戦争の準備を行つていることは、日本政府として理解できないこと、日本は中国との戦争で、一部の者の考えていると思われるほどに疲弊はしていないから、もし合衆国がこの準備を続けるならば、その結果は太平洋の平和を危くすること、合衆国が戦争準備を続けることは得策でないことを明らかにするようにと野村に強く要求したのである。太平洋地域における危後を避けるために、両国政府が共栄圏の建設に協力する必要があることを強調するように、かれは再び野村に訓令した。
  合衆国の武器貸与法が実施されるようになつた。それは枢軸に抵抗する諸国に新たな勇気を与えたから、バタヴイアにある日本の経済使節団の要求に対して、オランダの代表団は反抗力を増大するほどであつた。イーデン氏は、極東に危機が迫つているという報告について、かれの質問に対する重光の回答を待つており、東京におけるアメリカ大使は、仏印におけるアメリカの通商に対する日本の妨害の停止を要求していた。松岡は重光に対して、イギリス大使の危機切迫の報告は笑うべき妄想であるとイーデン氏に告げるように訓令した。しかし、それより僅か三日前に、松岡はドイツ大使に対して合衆国政府の行動に対するドイツ政府の態度を知るためにベルリンを訪問する計画であると知らせていた。というのは、かれが説明したように、戦争に加わつた場合に、合衆国の太平洋における基地を奪うために、日本はシンガポールの攻撃を計画していたからである。(E-909)野村がワシントンに到着した当時の事態は、まさにこのようであつた。
  合衆国大統領は、一九四一年二月十四日に、野村を引見した。大統領は、合衆国と日本との関係は、日本の南方進出と三国篠約締結の結果として悪化しつつあるといつた。日米関係の重要な部面を新任大使が合衆国国務長官とともに再検討し、腹蔵なく話し合つてみてはどうかとかれはいつた。野村は大統領に対して慎重な回答をし、松岡に対して報告する際に、合衆国がヨーロツパ戦争に参加した場合に、合衆国を攻撃すべき日本の義務について、さらに明瞭な説明を求めた。三月四日に、松岡は野村に対して、その点は数次にわたつてしばしば明らかにしたところであること、すなわち、合衆国がドイツに宣戦を布告した場合に、日本は参戦するということを回答した。
  シンガポールに対する攻撃の準備は、急速に進んでいた。一九四一年二月二十二日に、ベルリンにおいて、大島はリツベントロツプに対して、準備は五月末までに完了すること、イギリスに対すると同様に、合衆国に対しても、念のために、戦争の準備がやはり行われていることを告げた。(E-910)フイリツピンの占領がこの準備の中に含まれているとかれはいつた。これらの準備にもかかわらず、二月十七日の通牒で、松岡は日本政府の平和的意図をイーデン氏に保証し、日本がヨーロツパ戦争の仲介者となることを提案した。一九四一年二月二十四日に、イギリス政府はこの申入れを拒絶し、イギリスは不本意ながらヨーロツパ戦争に参加したのではあるが、合衆国から受けている援助によつて、すべての敵に対抗することができること、ナチス主義がヨーロツパから完全に抹殺されるまで、戦争を続ける決意であることを述べた。
  合衆国国務長官ハルと大使野村は、一九四一年三月八日に会談した。野村は、日本と合衆国が戦えば、破滅的な影響をもたらすことは避けがたいから、両国が戦うことは考えられないといつた。ハル氏はかれに同意したが、日本政府を支配している日本の軍部は、二、三の国が陸海軍の兵力を組織して世界の残りを全部征服しようとしている際に、合衆国が黙つてそれを見ているものと思つているのかと尋ねた。野村はこのことが自分の政府の意図であることを否認し、これ以上の軍事行動は、合衆国の輸出禁止によつて、日本の政府がやむを得ずそうするのでない限り、行われることはないと信ずると答えた。(E-911)つづいて、ハル氏は三国條約とヒツトラー、松岡、その他のドイツと日本の有力な指導者の公けの宣言に言及した。これらの宣言は、この條約のもとにある諸国は、武力の行使によつて、世界に新秩序を建設する決意であるという趣旨のものであつた。野村は、征服のために武力を用いることが自分の政府の意図であるということを再び否定した。ハル氏はこれに答えて、中国の全土に、またタイや仏印のような南の方にまで、日本の軍隊がいる限り、そうして、これに伴つて、日本の政治家の脅迫的声明が行われている限り、武力による世界征服を阻止することに最も重大な関心をもつている諸国には、憂慮が増大するばかりであると答えた。
  一九四一年三月十四日に、合衆国大統領は再び野村と会談した。ドイツ政府の援助によつて、松岡がフランスとタイの間の国境粉争の解決に関する日本側の条件をヴイシーのフランス政府に無理に受諾させてから、それはわずかに三日後のことであつた。大統領は野村に対して、スエズ運河に接近しつつあるドイツとイタリアの軍隊と、シンガポールに接近しつつある日本の軍隊との連絡をつけるために、三国條約のもとに、歩調を合わせた努力が行われているように思われることが、アメリカ国民を刺激していると苦情を述べた。野村は大統領に対して、日本はこれ以上南方に進出する意思はないと保証した。(E-912)それについて、大統領は、日本政府が日本の意図に対するアメリカ国民の疑惑の原因を取り除くならば、日本と合衆国との武力衝突は避けることができると示唆した。
  フランスとタイの間の紛争解決に関する松岡の條件がフランスによつて受け容れられた後、三国條約に基く共同行動の問題について、ヒツトラーと協議するために、松岡はベルリンに行つた。かれはモスコ―に立ち寄つた。ソビエツト連邦駐在のアメリカ大使は、一九四一年三月二十四日に、かれと会議するために招かれた。松岡はアメリカ大使に対して、どのような場合にも、日本はシンガポールも、アメリカ、イギリスまたはオランダのどの領土も攻撃するようなことはないとの保証を強調し、日本には少しも領土的野心はないと主張した。合衆国とともに、日本はフイリツピン諸島の領土保全と政治的独立の保証を行う用意があるといつた。日本は合衆国と戦争を行わないと断言した。しかし、ベルリンに到着すると、ヒツトラーに対して、政府の攻撃の意図を否定したのは、日本が突然にシンガポールに対して攻撃を加える日まで、イギリス人とアメリカ人を欺くためであつたと松岡は説明した。

(E-913)
会談に対する合衆国の條件

 野村の隨員の岩畔大佐は、合衆国と日本との一部の民間人と協力して、日本と合衆国の協定の基礎として役立つと思われる提案の草案を作成した。この草案は、ハル氏に渡すために、国務省に提出された。一九四一年四月十六日に、ハル氏は野村と会見し、この草案は受取つたが、合衆国政府は同大使の正式に提示する提案しか考慮することができないと通告した。野村は、交渉の基礎として、正式に草案を提示する準備があるといつた。ハル氏は野村に対して、合衆国政府が交渉を開始する前に、日本政府が、その武力征服主義と国策の手段としての武力行使とを放棄することによつて、誠意のあることをアメリカ政府に確信させること、合衆国政府が宣言し、実行しており、国家間のすべての関係が当然に立脚すべき基礎を現わすものと考えているところの諸原則を日本政府が採用することが必要であることを説明した。それから、この原則は次のものであるとハル氏は述べた。(一)各国及びすべての国の領土保全と主権の尊重、(二)他国の国内問題に対する不干渉、(三)通商上の機会均等、(四)平和的手段によるほか、太平洋の現状を乱さないこと。(E-914)ハル氏は、この会談は交渉の開始と考えてはならないこと、自分の述べた原則を受諾しなければ、交渉は始められないことを強調した。野村は、これ以上南方に進出しようとする意図を日本政府はもつていないと確信するが、ハル氏が言明した原則は、政府に伝えて訓令を求めると答えた。
  野村の請訓は、一九四一年四月十八日に、日本外務省がこれを受取り、これに対して与える回答について、近衛は木戸と天皇に相談した。通商上の機会均等の原則は、財閥に好感を与えた。その財閥は、提案草案に基いて交渉を開始するように、内閣に強く要求していた。木戸と近衛は、合衆国と交渉を始めてもよいが、内閣はドイツ及びイタリアとの信義を守るように注意すべきであり、日本の不動の国是である共栄圏建設の計画を放棄すべきではないということに、意見が一致した。
  松岡は東京への帰りに再びモスコーに立ち寄り、そこで交渉した結果、一九四一年四月十三日に、日ソ不可侵條約を調印するに至つた。(E-915)同道していた日本駐在のドイツ大使に、この條約は日本の南方進出を大いに促進するであろうとかれは説明した。
  野村の請訓に対して与える回答について、近衛は木戸や天皇と話し合つた後に、松岡に対して、この問題を考慮するために、直ちに東京に帰るように打電した。一九四一年四月二十二日に、松岡は東京に到着し、合衆国政府に提出すべき提案の草案を野村に送つた。
  合衆国の権益を侵害する行動は、野村に与える回答の審議中にも続いていた。中国におけるアメリカ国民とアメリカ商品の移動に対する日本の妨害は、ますます著しくなつた。中国の昆明のアメリカ領事館は、三度目の爆撃を受け、大きな被害を受けた。日本海軍はエニウエトク環礁を占領し、そこに海軍施設を建設し始めた。一九四一年五月五日に、合衆国政府にこれらの行動に応酬して、輸出禁止品目表に、屑ゴムを含めて、追加品目を加えた。
  リツベントロツプは、日本と合衆国の交渉を開始するについて、合衆国が定めた條件と、交渉を開始するという日本内閣の決定とを知つた。かれは直ちに大使大島に対して、日本がそのような條件を甘受することは理解できないと述べた。(E-916)大島にリツベントロツプに対して、日本政府はハル氏が定めた原則を具体化するような條約を合衆国と締結する意図はもつていないと保証した。リツベントロツプは、シンガポール攻撃計画を放棄したこと、ドイツ政府との信義を破つたことについて、日本の内閣を非難した。日本政府がハル原則に同意することを拒否するか、アメリカ政府が中立を続けるという誓約を与えるとの條件附きでのみ同意するか、いずれかをかれは要求した。(E-917)大島はリツベントロツプに同意し、自分の意見を松岡に伝達し、リツベントロツプの疑惑と非難は充分根拠があると思うと述べた。内閣がリツベントロツプの提案を採用するようにとかれは進言した。
  一九四一年五月八日に、野村は松岡に報告して、合衆国は東亜新秩序も侵略によつて獲得した領土の保持も認めようとせず、ハル氏の言明した四原則の遵守をどこまでも主張していることを指摘した。
  一九四一年五月十二日に、野村はハル氏に対して、日本側の最初の公式の提案を手交した。この草案は、あいまいで陳腐な言葉でつづられていた。その言葉は、実際には、両国政府の間に、だいたい次のような秘密の了解をすることを定めたものであつた。すなわち、合衆国政府は次のことに同意する。(一)一九四〇年十一月三十日の日満華共同宣言に具現されている近衛三原則に従つて、日本が中国に新秩序を建設することを認めること、及び蒋介石大元帥に対して直ちに日本と和平交渉をするように勧告すること、(二)蒋大元師が和平交渉を行わない場合には、中国国民政府に対する援助をやめるという秘密協定を結ぶこと、(三)中国と南方地域を含む共栄圏地域への日本の進出は、平和的な性質のものであるという了解に基いて、日本がこの共栄圏を建設する権利をもつことを認め、日本が必要とする天然資源をこの圏域で生産し、獲得することについて、協力すること、(四)平等と無差別の基礎において、日本国民の入国を許すように、移民法を改正すること、(五)両国間の正常な経済関係を回復すること、(六)日本政府の意見で、ドイツとイタリアに抗戦している連合国に与えられる援助が枢軸に対する攻撃に等しいと考えるときは、三国條約第三條に基いて、日本は合衆国を攻撃する義務があることを了承すること、(七)連合国に援助を与えることを差控えること。(E-918)以上に対して、日本政府は次のことに同意する。(一)合衆国との正常な貿易関係を再開すること、(二)共栄圏内で入手できる物資の供給を合衆国に保証すること、(三)フイリツピン諸島が永久中立国の地位を維持するという條件で、合衆国政府と共同して、フイリツピン諸島の独立を保証すること。
  この提案の草案がハル氏に手交された日の翌日に、バタヴイアの日本代表団は、オランダ代表団に対して、オランダ領東インドと日本の相互依存関係について、日本政府がさきに行つた声明を重ねて述べた修正要求を手交した。東京では、松岡がアメリカ大使に対して、自分も近衛も、日本の南方進出は平和的手段によつて行う決意であると告げたが、『事態がそれを不可能ならしめぬ限り』と意味深長な言葉をかれはつけ加えた。アメリカ大使は、松岡がどのような事態を考えているのかを尋ねた。松岡は、イギリス軍隊のマレー集結を指していると答え、これを挑発的であると述べた。
  リツベントロツプは、野村がアメリカ合衆国に出した提案の草案を知り、直ちに大島を詰問し、ドイツとイタリア政府に相談せずに、合衆国と交渉を始めるという決定を松岡がしたことに対して、不満の意を表明した。(E-919)かれはシンガポール攻撃をこれ以上遅らせずに開始するこ(と)を要求した。大島は松岡に報告して、『南方経略のこの好機とシンガポール攻撃の可能性を日本が失ふが如きは、単に米英のみならず、独伊の軽侮すら招くものにあらざるや』といつた。合衆国との交渉に対するドイツの指導者の不満をかれは松岡に告げ、日米交渉は、日本の外交政策が変り、軍部の計画を破ることを意味すると考えられるから、自分に日本陸海軍当局に勝手に通知したと述べた。これが近衛と松岡との摩擦の始まりであつた。

合衆国は交渉に同意――一九四一年五月

 合衆国政府は、交渉の出発点として、一九四一年五月十二日の日本側提案の草案を受諾し、日本政府との了解ができるかどうかを調べてみることを約束した。一九四一年五月二十八日に、ハル氏と野村は会見した。会談中に、交渉がうまく行われることに対して、二つの大きな障害があることが明らかになつた。(E-920)それは、(一)三国條約に基く日本の義務が現在もあいまいなままであること、(二)中国問題解決に対する條項であつた。第一の問題については、合衆国が自衛の手段としてヨーロツパ戦争に巻きこまれるという、起り得る事態の発生に対して、日本がその態度を明確にすることをハル氏は望んだ。第二の問題については、中国と平和條約を締結した後にも、中国に軍隊を駐屯させておくことを日本が固執しているのは、合衆国と日本との友好関係に悪作用を及ぼす要因であろうとハル氏は指摘した。日本が中国にどのくらいの軍隊を駐屯させておこうとしているのか、その配置される地域がどこであるのか、どちらも野村は言明することができなかつた。
 五月三十一日に、ハル氏は野村に、明確な討議を行うに先だつて、ある適当な時に、提案の草案を極秘に重慶政府と話し合うつもりであると告げた。さらに、五月三十一日に、もう一つの合衆国の草案が野村に手交された。それには、他のことと共に、保護、自衛及び国家保全のために、ヨーロツパ戦争に巻きこまれるに至つた国に対しては、三国條約の條項は適用しないことを日本が言明すべきであるという提案があつた。さらに、中国に提出する條件の大要を日本はアメリカ合衆国に提出すべきであるという提案もあつた。この草案には、ドイツの行動に対する合衆国の態度に関して、詳細な言明が添えられ、また、アメリカ合衆国の見解において、明らかに武力による世界征服を目標とすると思われる運動に抵抗するために、合衆国は自衛の措置をとる決意であるという声明が添えられていた。
(E-921)
  六月四日に、日本の大使館は、アメリカ側の提案に対して、ある種の修正を提案した。その中には、ある国が自衛の手段としてヨーロツパ戦争に巻きこまれるに至つた場合には、三国條約に基く日本の義務は適用しないという條項を、合衆国がその草案から削除するという提案があつた。ハル氏はこれらの日本側の修正を審議し、六月六日に、右の修正は、アメリカ合衆国が当然含まれていると信ずる基本的な諸点から、交渉を逸脱させたものであると野村に告げた。ハル氏の見解では、これらの修正は、日本と枢軸との連繋が強調されていること、日本の中国に対する関係を極東の平和に貢献するような基礎の上に置く意図を明らかに示すものが全然ないこと、平和と無差別待遇との政策に関する明確な誓約から方向を転じていることをあらわしているものであつた。それにもかかわらず、一九四一年六月十五日に、野村はハル氏に対して、すでにハル氏が反対をした提供そのものを盛つた新しい草案を手交した。六月十日には、重慶は百機以上の日本の飛行機によつて爆撃され、アメリカの財産が破壊された。日本政府の代弁者たちの公式声明は、アメリカ合衆国の利益に敵対する意味において、三国條約に基く日本の義務と意図を強調した。バタヴイアにおける交渉は、明らかに失敗しそうになつていた。六月二十日に、イギリスと南アメリカ向けのものを除いて、合衆国政府は一切の石油の輸送を禁ずる命令を出した。
  日本側は、五月十二日の提案に対する回答を督促していた。六月二十一日に、ハル氏は野村と会談した。(E-922)そのさいに、民主主義諸国を援助するという計画によつて、合衆国がヨーロツパ戦争に巻きこまれるに至つたならば、日本はヒツトラーの味方となつて戦うということを予想しているとの了解以外には、合衆国とどのような了解にも到達することを日本軍部は認めないであろうということを示している証拠が全世界から集つているとハル氏は述べた。その中には、日本のいろいろの指導者の公式の声明も含まれている。ついで、一九四一年五月十二日の提案は、アメリカ政府が支持することを誓約した原則を破るものであること、提案中の中国に関する條項について、特にそうであることを述べた。それから、ハル氏は野村に対して、自分の達した結論では、交渉を進める前に、合衆国政府としては、日本政府が平和方針を進めたいと思つていることが今までよりもいつそう明白に表わされるのを待たなければならないと知らせた。日本政府がそのような態度を明らかにすることをかれは希望した。

準備の積極化

  一九四〇年の九月と十月の計画は守られていた。この計画の究極の目標は、日本による東アジアの支配であつた。この目標は、必要ならば、武力の行使によつて到達することになつていた。この計画の実行にあたつてとるべき措置の一部は、二者択一的のものであつた。三国條約が締結されていて、西洋諸国に対する威嚇の手段として、利用され、また、日本が南方に進出する際に、枢軸諸国が日本に協力する保証として利用されていた。日本がこの進出を行うにあたつて、その背面の保証として、ソビエツト連邦と不可侵條約が結ばれていた。この進出を行うにあたつて、日本の軍隊が拘束されないようにし、また中国の軍隊を使用することができるようにするために、蒋介石大元帥と和平交渉を試みたが、それは失敗した。ヨーロツパ戦争の仲介を行い、それによつて、日本の東南アジアに対する進出をイギリスに承認させ、シンガポール攻撃の必要を除こうとする試みも、同じように失敗した。(E-923)合衆国との交渉によつて、合衆国太平洋艦隊がこの攻撃に対して行うかもしれない妨害を除こうとする試みも、また失敗した。油とその他の重要物資を獲得するために、バタヴイアで行つた交渉も、やはり失敗した。この交渉は、一九四〇年六月十七日に打切られていた。日本の軍需品の貯蔵は、使いつくされてしまう危険があつた。一九四一年四月初めになされた大本営の決定は、変更されなかつた。今や最後的準備の時が到来した。
  日本海軍は、一九四一年五月下旬に、真珠湾攻撃の訓練と演習を始めた。真珠湾と地形が似ている日本の鹿児島で、急降下爆撃の訓練が行われた。真珠湾は浅いので、一九四一年の初めに、浅海魚雷をつくり出すことが始まつた。夏の間を通じて、海軍はこの型の魚雷をつくり出し、実験するために相当の時間を費した。真珠湾への進路として、いつそう安全な北方航路を使うことができるようにするために、海上給油が特別訓練事項とされた。

内閣の政策と一九四一年六月及び七月の決定

  大島は、本国政府の指示に従つて、一九四一年六月十日に、リツベントロツプと会談を始めた。この会談の結果として、シンガポールとオランダ領東インドに対する攻撃に使用するために、さらに海軍基地が南部仏印で獲得されることになつた。木戸は近衛から、シンガポールを攻撃するという大本営の決定と、その決定に基く処置について知らされた。(E-924)一九四一年六月二十一日に、松岡はドイツ大使に対して、この決定を知らせ、その際に、事態は耐え得ないものになつたこと、オランダ政府との交渉は再開されないことになつたこと、シンガポールとオランダ領東インドを攻撃するためには、南部仏印にさらに基地が必要であることを告げた。松岡は大島に対して、ドイツ政府によつて、ヴイシー・フランスの同意が得られるかどうかを問合わせるように訓令し、もしこれが得られなければ、かれは直接にヴイシーのフランス政府とこの問題を取上げるであろうと述べた。
  早くも一九四一年六月六日に、大島は近衛に対して、ドイツ政府がソビエツト連邦を攻撃することを決定したと知らせた。この情報は、日本の指導者たちを相当に狼狽させた。南方に対する攻撃を延期して、極東におけるソビエツトの領土を占領し、それによつて、樺太から石油を獲得するために、ヨーロツパ戦争でイタリアが演じた役割に倣い、独ソ戦の適当な機会に、ソビエツト連邦の後方を攻撃する方がよいと考える者があつた。その中には、松岡も含まれていた。他方では、南方進出を遂行するという九月―十月の最初の計画を放棄してはならないと主張するものがあつた。その中には、近衛や木戸が含まれていた。ドイツは六月二十二日にソビエツト連邦を攻撃した。木戸の進言に基いて、天皇は松岡に対して、近衛の意思に従うように指示し、木戸と平沼もこの勧告を繰返した。
  平沼、東條、武藤、岡、その他の者が出席した一九四一年六月二十五日の連絡会議は、日本は仏印とタイに対する措置を促進することを決定した。バタヴイアにおける交渉の失敗に鑑みて、このことは必要であつた。南部仏印に海軍と航空の基地を急速に設置し、もしフランス側が日本の要求に応じない場合には、武力を用いることになつていた。(E-925)フランスとの交渉を始める前に、所要の軍隊を派遣する準備が整えられることになつていた。これらの基地は、シンガポールとオランダ領東インドに対する攻撃のために必要であつた。近衛と参謀総長、軍令部総長は、これらの決定を天皇に報告した。
  連絡会議の決定は、既定の政策が変更されてはならないことについて、平沼、東條、武藤及び岡が近衛に同意したことを示している。一九四一年六月二十八日に、東條は天皇に報告した。その日、後になつて、東條は木戸に対して、陸軍の計画は、さしあたつて、関東軍に『冷静慎重』な態度を取らせ、独ソ戦に対して中立を保つこと、大本営の会合を毎日宮中で開く手はずを整えて、これを強化することであると話した。六月二十三日に、鈴木は大本営を強化する手段を提案していた。木戸はかれに同意したが、元帥府と相談すべきであると勧告した。土肥原は元帥府の一人であり、六月三十日の元帥府の会合に出席した。そのときの会合には、東條がかれの陸軍次官木村とともに出席して、急速に進展しつつある情勢に関して、かれの意見を表明した。このようにして、松岡の計画によつて、陸軍の戦略がくつがえされるのを防止するために、陸軍は全力を集中した。松岡の計画というのは、南進を延期して、直ちにソビエツト連邦を攻撃しようというのであつて、この計画の概要は、一九四一年六月二十二日に、松岡が天皇に説明しておいたものであつた。松岡の態度によつて引き起された紛糾と、かれの辞職の必要とが論議されつつあつた。
  一九四一年六月二十五日の連絡会議に続いて、七月二日に開かれた御前会議は、最終的にこの問題を解決した。東條、鈴木、平沼及び岡が、他の者とともに、この会議に出席した。(E-926)この会議は、情勢の変化にかかわらず、東アジアと東南アジアを征服する計画を日本は堅持し、南方進出の歩を進め、同時に独ソ戦の有利な事態を利用して、ソビエツト連邦を攻撃する準備を整えておくことを決定した。シンガポールと真珠湾に対する最終的準備が完了されつつあり、また、南部仏印とタイで日本軍が攻撃のための配置につきつつある間、必要な外交交渉が続けられることになつていた。日本は独ソ戦に中立を保ちながら、他方では、ソビエツト連邦に対する攻撃を秘密に準備することになつていた。この攻撃は、有効な抵抗をすることができないと思われるほど、ソビエツト連邦が戦争で弱くなつたことがわかつた場合に、開始されることになつていた。東條はこの計画の強硬な唱道者であり、『ソビエツト連邦が熟柿のように地上に落ちるばかりになつた時期に、これを攻撃すれば、日本の威信は大いに揚がるであろう』と述べた。
  参謀本部は、南方地域で逐行されることになつていた軍事行動の最後的な作戦計画を進めるように命令された。後にフイリツピンとマレー半島の上陸作戦を行つた軍隊は、中国の沿岸、海南島及び仏印の沿岸で、上陸作戦の演習を始め、他の部隊は台湾で訓練を受けた。香港を攻撃することになつていた部隊は、中国の広東附近の駐屯地で、夜間演習とトーチカ強襲の猛烈な訓練を受けた。攻撃することになつていた地域の地勢と気候に似通つた場所が演習地域に選ばれた。訓練は夏中を通じて、実際に攻撃が行われるまで続いた。嶋田大将は、この訓練が行われていた間、支那方面艦隊の司令長官であつた。
(E-927)
  仏印に対する作戦のために、日本陸軍の三箇師団が準備された。日本政府が南部仏印を占領し、そこに軍事基地を建設するのをヴイシーのフランス政府が許すように、日本政府は要求することを計画した。この措置はリツベントロツプから大島に提案したものであつて、リツベントロツプはドイツがこの要求をするのは得策でないと考えたのである。日本側の計画は、最後通牒の形で要求を行い、もし要求が容れられないときは、これに続いて侵入することになつていた。この要求は一九四一年七月五日になされることになつていたが、イギリス大使とアメリカ大使からの問合せがあつたことによつて、この計画が外部にもれたことが分つた。木戸はその日記に、右の事実にかんがみ、この最後通牒に対抗するために、イギリスとアメリカが何かの手を打つとすれば、どのような手を打つかを見届けるために、最後通牒の手交を五日間延期することに決定されたと記録している。(E-928)アメリカ大使と、イギリス大使に対しては、南部仏印に侵入する意図がまつたくないといわれた。
  一九四一年七月十二日に、松岡はヴイシー・フランス駐在の日本大使に対して、七月二十日またはそれ以前に、最後通牒を手交して回答を要求するように訓令した。その翌日に、近衛はペタン元帥あての個人的書簡で、もし日本陸軍が仏印を基地とし、その沿岸に海軍基地を建設することを許されるならば、日本は仏印におけるフランスの主権を尊重すると同元帥に対して保証した。どのような策略を用いるかについて、近衛と松岡の意見が一致しなかつたために、最後通牒に対する回答が受取られる前に、第二次近衛内閣は辞職した。

第三次近衛内閣

  一九四一年七月二日の御前会議の後、松岡はその決定に容易に承服せず、それに完全に従つて行動しなかつた。
  武藤と岡は、それぞれ陸海軍の軍務局長として、追加提案をすることによつて、アメリカとの交渉の継続を確保する方策を立てた。松岡がこの武藤・岡案の適用に協力することを條件として、外務大臣として松岡が留任することに近衛は同意した。松岡はこの案には異存がないけれども、同時に一九四一年六月二十一日に野村になされたハル氏の声明を国辱であるとし、これをしりぞけることを固く主張した。この声明というのは、交渉を始める前に、合衆国としては、日本政府が平和方針を進めることを望んでいるということを、今までよりももつと明らかに示すのを待たなければならないとハル氏が述べた声明のことである。(E-929)ハル氏の声明を明確にしりぞけた上で、初めて武藤・岡案を提出すべきである、と松岡は提案した。この措置によつて、合衆国がこれ以上交渉することを拒絶するに至るのを近衛はおそれて、交渉打切りの危険を少くするために、武藤と岡によつて起草された対案を、ハル氏の声明を拒否する訓令とともに、松岡から野村に送るようにと主張した。松岡は近衛の勧告を無視し、かれ自身の意見に従つて、野村に訓令を発し、それによつて、内閣の危機を早めた。木戸はこの危機を知ると、一九四一年七月二日の御前会議の決定を実行に移すために、近衛内閣を存続させることを決意し、もし内閣が総辞職したならば、近衛に再び組閣の命令を下すという計画について、皇族及び天皇と協議した。松岡の辞職を要求することを木戸は進言した。近衛はこの進言をしりぞけた。というのは、松岡の強制的辞職は、アメリカ側の差し金であると暗示することによつて、松岡一派がそれを政治的に利用するのをおそれたからである。そこで、一九四一年七月十六日に、近衛内閣は総辞職し、天皇は木戸に対して、元総理大臣であつたものからなる重臣達を枢密院議長とともに召集し、近衛の後継者を推薦するように命じた。
  一九四一年七月十七日に、木戸は重臣とともに、近衛の辞職の声明について協議した。(E-930)若槻、阿部、岡田、林、米内及び廣田が出席した。近衛なら政界の各方面を軍部支持に統一することができるという意見が述べられ、天皇に近衛を推薦することに会議は全員一致した。天皇は近衛を呼び、新しい内閣を組織するように命じた。第三次近衛内閣は、七月十八日に成立した。豊田が外務大臣となり、東條は陸軍大臣に留任し、平沼は無任所大臣となり、鈴木は企画院総裁と無任所大臣に留任した。木村は陸軍次官に留任した。武藤と岡はその職に留まつた。新しい外務大臣は、内閣更迭の結果として、政策に変更が生ずることは少しもないと言明した。

南部仏印の占領

  一九四一年七月十九日に、大島はリツベントロツプに対して、ヴイシーのフランス政府に対する日本の最後通牒の覚書を手交した。この覚書は、『南方への進撃』の第一歩として、仏印に軍事基地を確保するために、最後通牒が送られたのであると説明した。この『南方への進撃』というのは、シンガポールとオランダ領東インドに対する攻撃を意味していた。かれはドイツ政府に対して、ヴイシー政府が最後通牒を受諾し、日本政府の要求に応ずるように勧告してもらいたいと要請した。豊田は七月二十日に、東京駐在のドイツ大使に、内閣の更迭は七月二日の御前会議の政策決定に影響を与えるものではないと知らせた。ヴイシー・フランスは暴力に服するよりほかに途がなくなつたといつて、最後通牒の條項をドイツに報告した後、日本の最後通牒を受諾し、日本の要求に同意した。(E-931)協定に従つて、南部仏印を占領し、サイゴン附近に八カ所の航空基地とサイゴン及びカムラン湾とに海軍基地を建設するために、四万の兵が七月二十四日に出向した。正式の協定は、七月二十八日に承認され、その翌日に調印された。東條、武藤、鈴木及び岡は、七月二十八日の枢密院会議に列席し、内閣を代表して、この協定を説明した。この協定は、六月二十五日の連絡会議の決定に基いて、七月二日の御前会議できめられた措置の一つであること、内閣と参謀総長及び軍令部総長は一致してをり、内閣の政略に従つて適切な措置をとるために、連絡会議をほとんど毎日宮中で開いていることを東條は述べた。

アメリカ合衆国とのその後の会談

  大使野村は、一九四一年七月三日と七月十九日に、外務大臣あての電報で、南方への進出が始まつたときに、合衆国政府が日本と合衆国との外交関係を断絶するかもしれない危険があると警告した。七月二十三日に、アメリカの国務長官代理ヴエルズ氏は、ヴイシー・フランスに対する要求の意味について、野村に尋ねた。日本は妨害されずに原料の供給を受けること、軍事的包囲に対する保障を設けておくことを必要とすると野村が説明したのに対して、かれはそれに答えて、日本政府とアメリカ政府の間で討議されてきた協定は、仏印の占領よりもはるかに大きな経済的保障を日本に与えるものであると述べた。(E-932)かれはつけ加えて、合衆国政府はこの占領を、日本が『南方地域に対する最大及び征服政策に乗り出す前の最後の処置を講じている』との通告であると見做していること、日本大使との会談をこれ以上続ける根拠を国務長官は見出すことができないと述べるように訓令を受けていると述べた。その翌日に、合衆国の国務省は、新聞に対して声明を発表した。その声明というのは、日本政府が仏印において今までとつてきたところの、また現在とつているところの手段よつて、日本政府は武力またわ武力の威嚇によつて対外進出の目的を遂行するという決意を明らかに示していること、仏印に隣接する地域の征服に用いるために、軍事基地を獲得しようとする要望以外に、仏印を占領することを正当とするような理由はないように見えるということを述べたものであつた。
  合衆国大統領は、一九四一年七月二十四日に、仏印を中立地帯と見做し、日本には日本が求めている食糧とその他の原料を確実に手に入れる充分な機会を与えるということを日本政府に提案した。しかし、この提案は拒絶された。七月二十五日に、大統領は、合衆国における日本及び中国の一切の資産を凍結する指令を出した。仏印に対する日本の行動は、戦争の大きな危険をつくり出しているものと考えられた。そのために、脅威を受けている諸国は、自国の安全がまつたくくつがえされるのを防ぐ措置をとらなければならなかつた。一九四一年七月二十六日に、日本の外務大臣豊田は、仏印に対する日本の行動は、中日事変を完遂するために必要なものであると説明した。また、仏印を包囲しようという企てについて、日本は報告を受けていると称した。その包囲は、中日事変を完遂するためにぜひとも必要なこの地域に対する脅威であるというのであつた。(E-933)このような仏印包囲の企てについて、またはそれに関する報告について、どのような証拠もわれわれに提出されていない。日本の南部仏印への進駐の理由は、オランダ領東インド攻撃の準備として、シンガポール攻撃の基地を手に入れたいということにあつたという証拠は決定的である。これらの基地は、フイリツピンに対しても脅威を与えた。シンガポールが実際に攻撃されたときには、サイゴンからの軍隊と南部仏印の基地からの飛行機とが攻撃に参加した。イギリスとオランダも、それぞれ七月二十六日と二十八日に、同様の凍結令を発した。凍結令が合衆国政府によつて発せられた後、八月八日に、野村はアメリカの国務省に対して、国交調整に到達する方法を討議するために、両政府の責任ある首脳者が会見するということが可能であるかどうかを尋ねた。国務長官は、かれと野村との非公式会談を中絶させるに至つた経過を簡単に繰返して述べた後に、見解の調節を可能にするような方向に向つて、日本の政策を立てる方法を見出すことができるかどうかは、日本政府の決定にまたなければならない問題であると述べた。

補給問題

  一九四一年七月の末に、ドイツのロシアに対する進撃が緩慢になつてきたということを大島は知つた。この情報は、日本の大本営を相当に憂慮させた。なぜならば、蓄えられた日本の手持ちの戦争資材は、ソビエツト連邦、合衆国及びイギリスに対して、同時に戦争を行うのには、不充分であることがわかつていたからである。(E-934)もし日本がアメリカ合衆国を攻撃したならば、ソビエツト連邦は、その領土内で合衆国に軍事基地を提供することによつて、合衆国に援助を与えるのではないかとおそれられた。この可能性については、一九四一年八月の初旬に、日本の外務大臣とソビエツト大使との間で討議された。
  一九四一年七月の末に、合衆国に対する日本の政策について相談するために、天皇は海軍軍令部総長を呼んだ。軍令部総長の永野は天皇に対して、自分は三国同盟に反対しているということ、それが存続している間は、日本とアメリカ合衆国との国交を調整することは不可能であると信ずるということを告げた。もし国交を調整することができず、日本が石油の供給を断たれたならば、アメリカ合衆国との戦争の場合に、日本の石油貯蔵量はわずか一年半しか間に合わないというのであつた。作戦行動で先手を打つほかに、途はないということであつた。天皇は永野に大勝利を得ることができるかどうかと尋ねた。永野は日本が勝てるかどうかさえ覚束ないと答えた。
  絶望的な戦争を行わなければならないということについて、天皇は憂慮していることを木戸に話した。しかし、木戸は、軍令部総長の意見はあまりに単純であるといつて、天皇を安心させた。アメリカ合衆国と日本との友好関係を回復する方法が、日本にないわけではないとかれはいつた。しかし、軍令部総長の提出した問題に慎重な考慮を払うように、総理大臣に要求しようと述べた。木戸と近衛は、一九四一年八月の二日と七日に、これらの問題について考慮した。(E-935)木戸は日記の中で、攻撃を行うことに反対する海軍の議論において、海軍側の挙げた諸点の大要をしるしている。戦争が長引いた場合に、石油の貯蔵量を補充するために、樺太とオランダ領東インドから、石油を手に入れることを海軍は期待していた。ところが、ソビエツト連邦は合衆国と連合する可能性があり、従つて、樺太から石油を獲得することがさまたげられるわけであつた。オランダ領東インドの油田施設を無傷で占領することを当てにしたり、ソビエツト領土を基地とする飛行機によつて哨戒されている可能性もあり、潜水艦の跳梁している海域で、長距離の輸送を行うことを当てにしたりすると、それに伴う危険率は、まつたく大き過ぎるものであつた。陸軍は海軍に同意せず、蓄えられた油の手持ちは、勝利を保証するのに充分であると主張した。近衛と木戸は、事態が重大であり、直ちに陸海軍の意見を一致させることが必要であるということに意見が一致した。

アメリカ合衆国とのその後の会談

  一九四一年七月二十五日のアメリカの凍結令に続いて、七月二十六日に、大使野村は、国交の調整に努力するために、両政府の首脳者が会見してはどうかという提案をしたが、八月七日に、政府の命令に従つて、この提案を再び申入れた。これは合衆国政府によつて歓迎された。そこで、八月十七日に、一方で、日本の陸海軍の首脳者が、合衆国との戦争の場合に、日本の海軍に補給すべき石油の問題を考究していたときに、大統領は野村の提案に回答を与えた。(E-936)ハル氏の述べた原則によつて示された線に沿つて、日本政府が平和的な方針に進みうる立場にあるならば、合衆国政府は喜んで非公式会談を再開し、両政府の首脳者が意見の交換を行うべき適当な時期と場所を取極めるために努力すると大統領はいつた。大統領は会議が中断された事情に言及し、会見の準備を進める前に、日本が現在の態度と計画に関する明確な声明を出すならば、好都合であろうといつた。さらに、大統領は野村に対して、完全に率直な能度で臨まない限り、目的に役立たないであろうと述べた。武力または威嚇による軍事的支配の政策に従つて、日本がこれ以上何かの措置をとるならば、アメリカ合衆国は、合衆国とその国民との権利、利益、安全及び保障を擁護するために、直ちに措置をとるほかはなくなるというのであつた。
  総力戦研究所は、合衆国との交渉の問題を研究していたが、一九四一年八月上旬に、次のような解決法を提案した。『アメリカの申入に対しては、日本の立場に付明瞭なる言質を与えず、外交交渉により遷延策を採り、此の間戦備の充実を期す。』
  一九四一年八月二十七日に、近衛は大統領あてに書簡を送り、その中で、両国間の関係が悪化した原因は、主として両国間に意思の疎通を欠いたことによると信じていること、率直に双方の見解を披歴するために、直接大統領と会見したいと思つていることを述べた。(E-937)協定を正式に交渉する前に、まず会見して、一切の重要問題を大所高所から討議することをかれは提案した。それと同時に、日本政府の言明も大統領に提出された。この言明の中で、日本政府は、意見を交換しようという招請を歓迎し、日本は平和に対し用意があり、太平洋の平和を確保するために犠牲を払うことを誇りとするといつた。日本の仏印における行動は、中日事変の解決を早め、太平洋の平和に対する一切の脅威を除き、日本が必需物資の公平な供給を受けられるようにするためであると述べてあつた。また、日本は他国に脅威を与える意図はもつておらず、中日事変が解決されるか、東アジアに公正な平和が確立されるならば、直ちに軍隊を仏印から撤収する用意があること、仏印における日本の行動は、その近接地域に対する軍事的進出の準備ではないことが述べてあつた。続いて、合衆国政府が従来長い間遵奉してきた基本的原則に適合する提案だけに、日本政府は喜んで討議を限定すると述べた。なぜならば、日本政府が長く抱いていた国是も、その点では、完全に一致しているからであるというのであつた。
  仏印に関して、日本が言明したことは虚偽であつた。一九四一年七月に、南部仏印に軍隊を駐屯させ、基地を占拠した日本の動機は、日本が企てていたマレーとオランダ領東インドに対する攻撃のために、基地と発進地を獲得したいという欲望であつたことを、われわれはもう知つている。(E-938)これはいわゆる『支那事変』となんの関係もなかつた。われわれが今では知つているように、日本の提案していたのは、日本の中国に対する要求が満たされるか、東アジアに『公正なる平和』が確立されるまで、マレーとオランダ領東インドを攻撃するために、この基地を日本が保有するということであつた。しかも、この基地はフイリツピンと海上交通路に対する脅威にもなるものであつた。右の平和の確立というのは、それをきめる基準がほかに全然提案されなかつたのであるから、日本が単独できめることになるのであつた。弁護側は、この言明を基礎として、ハル氏の述べた四原則を実施することについて、それは日本が同意したことにひとしいものであるといつた。この言明から、かりに日本が何か右の趣旨の明瞭な申し出をしたことを読み取ることができるとしても、その当時に、日本の指導者は、このような申し出を守る意思をもつていなかつたということが今では立証されている。
  一九四一年九月三日に、大統領は近衛の書簡と日本政府の言明に対して回答した。近衛が太平洋における平和を希望すると述べたこと、日本政府が長く抱いていた国是は、合衆国政府が長く遵奉してきた原則と一致するものであると日本政府が言明したことを了承して、大統領は満足に思うといつた。しかし、提案された線に沿つて、近衛と大統領との協力が成功を収めるのに対して、障害となり得ると思われる観念を日本のある方面で支持している兆候を認めないわけにはいかないと述べた。従つて、提案された会談の成功を確実にするための用心として、両者が意見の一致を求めようとしている根本的な問題について、予備討議を直ちに始めることが、非常に望ましいと提案した。(E-939)これらの根本問題に関して、日本政府の態度を示すように、大統領に要請した。
 その間、八月から後、日本の参謀本部は交渉の即時中止と敵対行為の開始を主張していた。近衛はこれに反対し、陸海軍両大臣やその他の者と会談を重ねて、この方針に対応しようとつとめた。
  一九四一年九月五日に、近衛は大統領の書簡を受取ると、直ちに閣議を開いた。東條は提案された近衛と大統領との会談に反対した。かれが反対した理由は、すべての本質的な問題に関して、一致を見た上でなければ、大統領が近衛との会見を欲しない旨を表明したからであると本裁判所でかれは証言した。天皇は近衛に、合衆国とイギリスに対する戦争に際してとるべき戦略について、多くの質問をした。これらの質問に答えさせるために、参謀総長と軍令部総長を呼び出すように、近衛は天皇に進言し、木戸はこの進言を支持した。

一九四一年九月六日の御前会議

  一九四一年九月六日に、東條、鈴木、武藤、岡その他が出席して、御前会議が開かれた。この会議は、日本は南方へ進出すること、合衆国及びイギリスと交渉して、日本の要求が容れられるように努力すること、しかし、もしこれらの要求が十月の初めまでに達成されない場合には、開戦の決意をすることを決定した。日本が達成しようと欲した要求も、その会議で次のように決定された。『対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最少限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度。(E-940)第一、対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき要求事項。
一、支那事変に関する事項
米英は帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること
(イ)帝国の日支基本條約及日満支三国共同宣言に準拠し、事変を解決せんとする企図を妨害せざること
(ロ)ビルマ公路を閉鎖し、米英両国が蒋政権に対し軍事的並に経済的援助をなさざること・・・
二、帝国国防上の安全を確保すべき事項
米英は極東に於て帝国の国防を脅威するが如き行動に出でざること
(イ)日仏間の約定に基く日仏間特殊関係を容認すること
(ロ)泰、蘭印、支那及極東ソ領内に軍事的権益を設定せざること
(ハ)極東に於る兵備を現状以上に増強せざること
三、帝国の所要物資獲得に関する事項
(E-941)
米英は帝国の所要物資獲得に協力すること
(イ)帝国との通商を恢復し、且南西太平洋に於ける両国領土より帝国の自存上緊要なる物資を帝国に供給すること
(E-942)
(ロ)帝国と泰及仏印との間の経済提携に付友好的に協力すること
第二、帝国の約諾し得る限度。
第一に示す帝国の要求が応諾せらるるに於ては、
一、帝国は仏印を基地として、支那を除く其の近接地域に武力進出をなさざること
二、帝国は公正なる極東平和確立後、仏領印度支那より撤兵する用意あること
三、帝国は比島の中立を保障する用意あること。』
  この決定には、一つの基本的な欠点がある。日本が中国の傀儡政府との協定によつてすでになしとげていたように、日本自身の目的のために、中国の経済を自由に支配し続けること、長い間日本の侵略の犠牲となつていた中国の正当な政府に対して、アメリカとイギリスは当然に軍事的と経済的の支持を与える権利があつたのに、これをやめることという提案がそれである。もしこれが『対米英交渉に於て達成すべき最少限度の要求』であることを日本が明らかにしていたならば、これらの交渉はそこで行きづまりになつたであろうといつても、いい過ぎではない。この『最少限度の要求』は、ハル氏が述べた四原則と根本的に相容れないものであつた。しかも、その四原則の遵守を、交渉の全期間を通じて、ハル氏は強調していたのであつた。

(E-943)
戦争準備の続行

  この御前会議の直後に、参謀総長はその作戦部長に対して、戦争のためのかれの計画と準備をいつそう強化するように命令した。陸軍省と参謀本部との関係を定める慣行によつて、陸軍大臣東條、陸軍次官木村、陸軍省軍務局長武藤及び海軍省軍務局長岡は、この準備が行われつつあつたことを知つていて、それに協力したに違いない。
  真珠湾攻撃のための訓練とマレー、フイリツピン、オランダ領東インド及びボルネオに対する上陸作戦のために中国の沿岸で行われていた訓練は、終りに近づきつつあつた。支那方面艦隊司令長官の海軍大将嶋田は、九月一日に、東京の近くの横須賀鎮守府の司令長官に転任し、また海軍将官会議の一員に任命された。作戦の詳細な計画を定めるために、一九四一年九月二日から十三日までの間に、東京の海軍大学校で、最後の『図上演習』または海軍参謀会議が行われ、多数の海軍の高級将校が参加した。解決すべき問題は二つあつた。第一には、航空母艦で真珠湾を攻撃する詳細な計画を立てる問題、第二には、マレー、ビルマ、オランダ領東インド、フイリツピン、ソロモン及び中部太平洋諸島を占領する作戦の予定を立てる問題であつた。これらの問題を解決するものとして案出されたものが、後に発せられた機密連合艦隊命令作第一号の基礎となつたのであつた。
  外務大臣豊田は、諜報活動に従事していたかれの部下のハワイ総領事から、ハワイ近海に於けるアメリカ艦隊に関して、秘密の報告を送らせるために、九月二十四日に暗号を作成した。
(E-944)
  攻撃のための国内的準備は、急速な歩調で続けられた。東條は準備に関する調査を行い、九月十一日に、この調査について木戸に報告した。内閣は、軍需品増産のために、鈴木の企画院と厚生省が共同で作成した『労務動員案』を採用した。教育総監は、上陸作戦と連合軍飛行機の識別とに関する訓練用の典範を出した。東條の陸軍省は、シンガポールとハワイに対する作戦地図を作成した。内閣印刷局は、フイリツピン、マレー及びオランダ領東インドで使用するために、ペソ、ドル及びギルダーの占領用の通貨の印刷を続けた。

アメリカ合衆国との会談の継続

  今言及した御前会議の日である九月六日に、近衛はアメリカ大使に対して、会議の決定がまつたく反対の性質のものであつたにかかわらず、自分はハル氏と合衆国大統領が言明した四原則に完全に賛成していると述べた。その翌日に、ワシントンで、大使野村は合衆国政府に対して、日本側の新しい提案の草案を提出した。これは、大統領が九月三日の近衛あての書簡の中で述べた予備交渉を始めるについて、その基礎として意図されたもののように見受けられる。この提案の草案の趣旨は、『何等正当の理由なくして』、日本は南方に対してこれ以上の軍事行動を行わず、三国條約における日本の義務は、他の枢軸国政府の見解を考慮することなく、『防護と自衛の観念に依つて』解釈するというのであつた。合衆国は中国に対して援助を与えることを中止し、日本が日本側の條件によつて中国と和平を交渉することを援助し、南方地域における天然資源の獲得と開発について日本に協力することに同意し、極東と西南太平洋地域における軍事的措置を停止することになてついた。(E-945)日本はかねて軍隊を仏印から撤収することを拒否していた。この提案の草案は、三国條約を遵守しようとする日本の意思を再確認したものである。なぜならば、同條約の條項によつて、合衆国を攻撃するものではないという保証を与ることを日本は拒絶または回避したからである。その後の交渉によつて、中国に対する和平條件は、近衛原則に基礎を置いたものであり、また日本の満洲占領を中国が承認することを規定したものであることがわかつた。近衛原則というのは、中国に駐屯していた日本軍によつて強行されていた中国の経済的支配を日本に与えることになるものであつた。
  合衆国がこの提案を受諾することは、日本政府をして、一九四〇年十月三日に決定した目的を確保させることになるのであつた。これが日本政府の意図であつたことは、豊田によつて明らかにされている。一九四一年九月十三日に、かれは野村に訓令して、日本政府はアメリカ側の四原則を、かれの言葉を用いれば、『鵜呑み』にする用意はないと言つたのである。合衆国政府は、九月三日の提案の草案は不満足なものであり、大統領にあてた一九四一年八月二十八日の近衛の書簡と日本政府の言明に矛盾するものであると考えた。
  一九四一年九月二十五日に、日本政府は東京駐在のアメリカ大使に対して、全然新しい提案の草案を提出し、速やかに回答を与えられたいと要望した。この新しい草案は、根本的な諸点に関して、日本側の態度に少しでも変更があつたことを示すものではない。(E-946)九月二十五日に、太陽大日本に発表された論文の中で、橋本は、合衆国及びイギリスと国交を調整する見込みはないこと、日本政府がとるべき適切な措置は三国條約に明らかに示されていることを言明した。これによつて、ドイツ及びイタリアと共同して、直接行動をとることをかれは意味していた。情報局総裁は、三国同盟條約調印の第一周年記念に際して演説したが、その中で、この條約の真の意味は、その締結の日に出された詔勅に明らかであるといつた。この條約によつて、大東亜新秩序建設における日本の指導的立場は明確に承認され、国際情勢にどのような変化が起ろうとも、また日本がどんな困難に直面しようとも、この條約が日本の外交の基調を構成することには、少しも変りがないとかれは言明した。
  敵対行為の開始について決定する時期として、九月六日の御前会議によつて定められたところの、十月の初旬は急速に迫つてきていた。しかし、陸軍と海軍は、海軍が当時の手持ちの油でその使命を遂行することができるかどうかについて、依然として論争していた。東條はアメリカとの外交交渉にしびれを切らし、攻撃を遅らせてはならないと強く主張した。陸軍の首脳者は、攻撃を十月十五日まで待つが、それ以上は待てないといつた。近衛と木戸は、油の貯蔵量の件に関する陸海軍の不一致の問題について討議した。(E-947)近衛は、この不一致が存する限り、自信がなく、もし陸軍かあくまで十月十五日に戦争を開始するといい張るならば、自分には辞職を考えるほかないと述べた。木戸は切に慎重な考慮を希望し、相談に鈴木を呼び入れた。
  十月二日に、ハル氏は野村に対して、交渉のすべての経緯を述べたものを手交した。それには、結論として、合衆国の努力してきたことは、ハル氏と大統領が言明した諸原則を太平洋全域に一様に適用することを定めるところの、広範な計画を合衆国は考えているということを明らかにすることにあつたが、日本政府は、條件や例外によつて、これらの原則の適用範囲を制限しようとする意図を示したと述べてあつた。その上で、『もしこの印象が正しいとするならば、このような状況のもとに、両政府の責任ある首脳者が会見することによつて、われわれが相互に考慮しているような高遠な目的の増進に寄与するところがあると日本政府は考えることができるか』とハル氏は尋ねた。
  この印象は正しかつた。すでに述べたように、日本の外務大臣であつた豊田は、九月十三日に、野村に対して、日本は四原則を受諾できないと伝えた。一九四一年十月八日に、野村は豊田に対して、アメリカ側は、両国の関係を調整する基礎となるべきものとして、四原則をどこまでも主張していること、もし近衛と大統領の間に会談が行われるものとすれば、これらの原則が太平洋問題に適用されるという確実な了解が必要であるとかれらは常に考えていること、そして、この問題で意見の一致を見ない限り、詳細を討議することは無駄であるとかれらが信じていることを報告した。木戸と近衛は、この報告を受取つた後に、妥結の見込みが容易につかないということに意見が一致した。そして、木戸は、九月六日の決定を再検討し、日本がもつと準備を整えるまで、攻撃を延期する必要があるかもしれないと述べた。かれは中日事変の完遂が第一に考慮されなければならないといつた。それによつて、かれは中国の軍事的敗北を意味していた。

開戦の決定――一九四一年十月十二日

  陸軍大臣東條、参謀総長及びその他の陸軍首腦者は、十月初旬に、ドイツ大使とこの問題を討議したときに、南方に進出して、東南アジアに日本の地盤を確立するために、かれらは三国條約を調印したということ、イギリスを破ることによつて、自分達の目的を達成するためには、アメリカを牽制し、ソビエツト連邦を除外する必要があるということを明らかにした。内閣書記官長は、一九四一年十月七日に、木戸と対米交渉について協議した。東條の指導のもとにある陸軍は、アメリカと交渉を続ける余地はないという意見であるが、海軍はその反対の見解をもつているとかれは報告した。近衛が東條と懇談して、海軍との了解を深めるように努力し、その上で、東條と海軍大臣を近衛及び外務大臣との会談に招き、陸海軍の協力を確保してはどうかとかれは提案した。
  近衛は東條と話し合つたが、東條の方では、アメリカとの交渉には、外交的に成功する望みがないこと、内閣は戦争をするという決心をしなければならないことを主張した。(E-949)近衛は陸軍大臣東條、海軍大臣及川、外務大臣豊田及び企画院総裁鈴木に対して、戦争か平和かの問題について、最後的な協議をするために、一九四一年十月十二日に、その私邸で会合することを求めた。会議の前に、海軍大臣は岡を近衛のところに使いにやり、海軍はアメリカと戦争する用意はないが、すでに九月六日の御前会議で戦争することに賛成したので、やれないということができなくなつていると伝言させた。従つて、来るべき会談では、海軍大臣は問題を近衛に一任するつもりであり、近衛が外交交渉を続けると裁断することを望んでいたのである。
  近衛は、いよいよ閣僚が平和か戦争かを決定しなければならなくなつたといつて、一九四一年十月十二日に会議を開き、外交交渉による成功の可能性を再検討してもらいたいと述べた。東條はこれを反駁し、外交交渉を続けても、成功の望みはないといつた。海軍大臣は、この問題の決定は総理大臣に一任すべきであると提案した。東條は、全閣僚が決定に対して責任があるから、総理大臣だけに一任するわけにはいかないと述べた。交渉を続けることによつて必ず成功すると外務大臣が保証するならば、交渉を打切るという自分の決意を再考してもよいと東條はいつた。外務大臣は、日本とアメリカとの間の妥結に対する障害を指摘し、その主要なものは、中国に日本軍が駐屯していることであると述べた。東條は、この点については、日本は譲ることができないこと、中日戦争で払つた犠牲からして、政府は近衛原則を完全に実現することをどこまでも主張しなければならないと強く言明した。(E-950)結局には、次のように決定された。(一)日本は一九四〇年の九月と十月に採択した計画を放棄してはならないこと、(二)大本営によつて定められた期限内に、合衆国との交渉が成立するかどうかを決定することに、努力を払うべきこと、(三)攻撃準備は、右の問題が肯定的な回答を得ない限り、中止してはならないこと。
  内閣書記官長は、この会議の結果を木戸に報告した。その翌日に、木戸と鈴木は会議について討議して、東條と海軍大臣の間の了解を促進するように、近衛はさらに一段と努力すべきだという結論に達した。その夜に、日米交渉の全経過について報告を聞くために、近衛は豊田を招いた。豊田は、自分の意見としては、合衆国と妥結に達するには、日本はどうしても中国から撤兵するほかないであろうと述べた。その翌朝に、すなわち一九四一年十月十四日に閣議に先だつて、近衛は東條を招き、自分の調査によれば、もし日本が中国における駐兵を固持するならば、合衆国との交渉を通じて日本の目的を達成する望みはないが、もし日本が『名を棄てて実を取る』ならば、まだ成功の見込みがあると告げた。東條が、南方進出の計画を放棄し、中日戦争の解決に日本の努力を集中するように、かれは説得しようとした。日本とその同盟国の明らかな弱点を指摘し、もし日本が合衆国を攻撃するならば、それはほんとうの世界戦争になると警告した。(E-951)東條は、中日戦争における日本の義性が非常に大きいから、中国から日本軍を撤収することには、たとい自分がそのために内閣から退かなければならなくなつても、同意することはできないと答えた。そこで、近衛は東條に、その主張を閣議で繰返してもらいたいといつた。十月十四日の閣議で、東條はその立場を固く守り、閣議は決定を見ないで終つた。
  武藤は岡を通じて海軍大臣に、海軍に戦争をする用意があるかどうかを言明するように説得しようとしたが、武藤は成功しなかつた。一九四一年十月十四日の夜おそく、東條は鈴木を近衛のもとに送り、海軍大臣が問題についてなんの言明もしないので、なんともしようがないということ、内閣が九月六日の御前会議の決定を実行し得ないのであるから、総辞職をするほかはないという趣旨の言附を伝えさせた。かれは近衛に、木戸にも伝えるように依頼した。近衛の方では、鈴木にいいつけて、木戸に伝えさせることにした。その翌朝に、鈴木は木戸にこれを伝えた。その日、あとになつて、近衛は木戸を訪問し、東條と意見が一致しないので、総理大臣としてこれ以上在任するつもりはないと述べた。東條は、自分は怒りを抑えることができそうもないから、近衛とは話し合いをしたくないといつていた。一九四一年十月十六日の朝に、近衛は各大臣の辞表をまとめ、自分のもそれに加えて、その日の午後おそく、木戸の反対を押し切つて、天皇に提出した。
  近衛の辞表は、当時の事情をありありと物語つている。かれは次のように説明した。(E-952)南方進出を遂行するために、第三次近衛内閣を組織したときには、内閣の目的は合衆国政府との交渉によつて貫徹されるという固い信念をもつていた。自分の期待は今日まで実現されていないけれども、『名を棄てて実を取るというところまで譲歩すれば』、それらの目的は交渉によつて貫徹されると未だに信じている。近衛はつづけて次のように言つた。九月六日の御前会議の決定に従つて、十月十五日に合衆国と戦争を開始しなければならないと東條は要求し、その理由として、日本の要求を貫徹するには、事態はほかに方法がないというところまで来ているということを挙げた。さらに、次のように言明した。予断を許さない結果をもたらすような大戦争に国家を投げこむ責任を引受けることは、自分としては不可能である。

一九四一年十月十八日、東條、総理大臣となる

  木戸は東條に対して、合衆国との戦争に突入する前に、陸軍と海軍の間に、目的の一致と協力とがあることを国民は期待する権利があると説明して、閣僚の間の調和を計るように、最後の要望を述べた。十月初旬に戦争を開始するという九月六日の決定は、間違つていたかもしれないし、また完全な同意を得るための努力として、これを再検討してもよくはないかといつた。東條は木戸に同意したが、木戸が次の措置を講じ得る前に、近衛は内閣の辞表を提出した。
  木戸は直ちに天皇に合い、近衛の後継者について討議した。(E-953)東條が海軍大臣が任命されるべきであると木戸は進言した。その翌朝に、重臣が会合し、他の者とともに、若槻、岡田、林、廣田、阿部及び米内が出席した。木戸は東久邇宮または宇垣を近衛の後継者にするという提案に反対し、東條がよかろうといつた。最も重要なことは、九月六日の決定を修正すること、陸海軍の間の不一致を解決することであるとかれはいつた。廣田は、東條を総理大臣とするという木戸の提案に積極的に承認を与えた者の一人であつた。だれ一人として、これに反対しなかつた。木戸は推薦をするにあたつて、天皇に対して、東條と海軍大臣の両者に特別の命令を与えるように進言した。この特別の命令について、東條と海軍大臣が天皇に引見された後に、木戸は控室でかれらと討議した。木戸はかれらに対して、協力に関して、天皇からいま言葉があつたと推察するといつた。かれの了解するところでは、国策を決定するについては、九月六日の決議にとらわれることなく、内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重な考究を加えることを要するというのが天皇の希望であつたというのである。それから、かれは両者のそれぞれに陸海軍の協力を要求し、特に海軍大臣に対しては、その協力をいつそう密にすることを要望した命令を書面にして手交した。
  一九四一年十月十八日に、東條は大将に昇進し、陸軍大臣を兼任できるように、総理大臣として在任中、現役に留まることを許された。かれの内閣の全期間を通じて、かれはこれらの二つの地位を双方とも占めていた。(E-954)かれは軍需大臣、また少しの間文部大臣、内務大臣、外務大臣及び商工大臣をもつとめた。東條内閣の全期間を通じて、嶋田は海軍大臣をつとめた。一九四四年二月に、他の多くの任務に加えて、東條は参謀総長の任務につき嶋田は海軍大臣としての地位に加えて、同時に軍令部総長に就任した。木村は、軍事参議官となつた一九四三年三月十一日まで、陸軍次官として在任した。一九四四年八月三十日に、かれはビルマの日本軍司令官に任命された。武藤は、北部スマトラの近衛師団長に任命された一九四二年四月二十日まで、軍務局長に在任した。佐藤は、陸軍省軍務局に在職し、同局長として武藤のあとを受け継いだ。岡は、東條内閣の全期間を通じて、海軍省軍務局長に在任した。東郷は、一九四二年九月一日まで、外務大臣をつとめた。賀屋は一九四四年二月十九日まで、大蔵大臣をつとめた。鈴木は、東條内閣が辞職するまで、企画院総裁と無任所大臣に在任した。星野は、内閣の全期間を通じて、内閣書記官長であつた。大島は、ドイツ駐在大使として引続き在職した。重光は、一九四一年十二月十六日に中国の傀儡中央政府に対する大使に任命されるまで、イギリス駐在大使であり、一九四三年四月二十日に東條内閣の外務大臣に任命されるまで、中国に在勤した。土肥原は、航空総監兼軍事参議官の職に留まつた。(E-955)のちになつて、一九四三年五月に、かれは日本内地の東部軍司令官に任命され、一九四四年三月にシンガポールの第七方面軍司令官に任命されるまで、その職にあつた。畑、梅津及び板垣は、中国と朝鮮の日本軍の司令官であつた。

(E-956)
東條のもとで行われた戦争準備

  東條は一九四〇年九月と十月に決定された計画を実行に移した。降伏後の訊問で、かれに対して、『貴方は九月六日(一九四一年)の御前会議以降の政策は一方に於て平和の為の交渉をなし、他方に於て戦争の準備をなすものであつたと説明しました。貴方はその政策を続けましたか』と尋ねられた。東條は、『そうです。私は総理大臣としてその仕事を引受けました』と答えた。
  東條内閣が組織された後、特にオランダ領東インド諸島において、これらの諸島の採油施設の占拠の準備として、日本の海外諜報機関が改善され、拡張された。一九三六年から存在していた国策研究会は、日本政府が占領を予期していた南方諸地域の統治計画を立案するために、『統治対策委員会』を任命した。その第一次報告は、一九四一年十月に、総理大臣としての東條に提出された。陸軍と拓務省は、この計画を採用した。侵入用の地図がさらに作成された。陸軍と海軍は、協同作戦のための計画と規則とを出し始め、後にシンガポールに司令部を置くことになつた南方総軍の組織が完了され、その司令官が選ばれた。その最初の司令部はサイゴンに設置された。香港を攻撃するために、広東附近で訓練を受けていた軍団は、この攻撃のために、激しい準備を行つていた。軍団に属していた者の押収された日記によると、その軍団は十二月初旬に訓練を完了するものと予期されていた。
(E-957)
  嶋田と岡は、真珠湾攻撃の計画に関係していた。この計画に関して、海軍大学校で討議が行われた。連合艦隊司令長官山本は、合衆国の太平洋艦隊が真珠湾に停泊しているところを攻撃することを提案した。他の者は待機戦術を主張した。この戦術は、アメリカ艦隊が太平洋の日本領の要塞化された島々の間に前進しようと試みたならば、その場合に、初めて攻撃を行うべきであるというのであつた。山本は辞職をするといつて威かし、かれの計画を採用させた。最後的な計画は、一九四一年十一月一日までに完成された。これらの計画は、真珠湾、シンガポール、その他の各地のアメリカ、イギリス及びオランダの領地に対する攻撃について定めていた。
  組閣して後直ちに、東條は木戸の勧告に基いて行動しはじめた。これは天皇によつて承認されたもので、『内外の情勢を更に広く深く検討』することという勧告であつた。こうして検討されることになつていた題目の表が十月の半ば過ぎにでき上つた。その表は、『国策遂行要領に付再検討すべき要目』という表題がつけられていた。それは次のような題目を含んでいた。『欧州戦局の見透し如何』、『対米英蘭戦争に於ける初期及び数年に亘る作戦的見透し如何』、『今秋南方に対し開戦するものとして、北方に如何なる関連的現象生ずるや』、『対米英蘭開戦に関し、独伊に如何なる協力を約諾せしめ得るや』、『戦争相手を蘭のみ又は英蘭のみに限定し得るや』、『対米交渉を続行して、九月六日御前会議決定の我最少限度要求を至つて短期間に貫徹し得る見込ありや。』
  上記の諸題目は、研究のために各省や各部局に割当てられ、一連の連絡会議において、政府は大本営とそれらに関して協議した。これらの連絡会議は、東郷がワシントンの野村に説明したように、『国策の根本方針を審議する為』に、ほとんど毎日開かれた。これらの会議には、東條、東郷、嶋田、賀屋、鈴木、星野、武藤及び岡が常例的に出席した。前に満洲国傀儡政府の総務長官として東條と協力したことがあり、また日本の企画院の総裁であつた星野は、経済企画についての長い経験のために、東條によつて内閣書記官長に選ばれ、東條が企画院総裁に選んだ鈴木と協力して、このような活動にその主力を注ぐように東條から委任された。星野はこれらの会議の幹事もつとめた。鈴木は会議と内大臣木戸との間の連絡係をつとめた。武藤は陸軍省軍務局長として、岡は海軍省軍務局長として、それぞれ本省と参謀本部及び軍令部との連絡係をつとめた。

アメリカ合衆国との交渉の再開

  東條が東郷を外務大臣に選んだのは、主として合衆国との交渉を行わせるためであつた。(E-959)大使野村は心苦しさを感じ、職を解かれることを希望した。十月二十三日の東郷に対する通信の中で、かれは次のように述べた。『小生は前内閣の退場に殉ずべきものと確信す。元来国務長官は小生の誠実を認めつつ東京に対してはインフルエンスなきものと認定しあり、既に死馬の骨となりたる此の身、本省に於ても何等御異存なきことと拝察す。此の上自分を欺き他人を欺く如きごまかし的存在たるは心苦し。』十一月二日に、東郷は野村に対して、次のように訓令した。『日米国交調整に関する根本方策を慎重審議中なりしが、右は来る五日御前会議に於て決定を見る予定にして其結果は直に貴大使に訓電すべき処、政府は右を以て国交調整の最後的試みを行ふ次第にして、交渉開始の上は諸般の情勢上極めて急速に妥結を要する儀なるに付き、右厳に貴大使限り御含み置きあり度し。』
  十一月四日に、東郷は再び野村に訓電した。熟議に熟議を重ねた結果、ついに内閣と軍部の一致の意見に基いて、日米交渉を再開するための対案を提出することができるようになつたとかれはいつた。しかし、つけ加えて、これが交渉の最後の努力であること、この骰子の一擲に国土の運命を賭することが決定されたこと、もし急速に妥結に至らないときは、会談は決裂し、両国の関係は混沌の縁に臨むであろういつた。日本は最後のできる限りの譲歩をしているのであるとかれは述べた。(E-960)訓令には野村が取捨選択する余地はないから、交渉を行うにあたつては、それを文字通り守らなければならないと野村に訓令した。それから、野村は重要な地位にあり、内閣は野村が『我が国運進展のため何事か有効なることをなし』得るであろうと大きな希望をかけているといつて、かれは野村にその使命の重大なことを強調した。この点で、かれは野村に対して、篤と諒承し、沈着をもつてその任務を継続する決意をするように促した。
  東郷は、十一月四日に野村にあてた一連の電報によつて、決定されていた対案を伝えた。この提案は、翌朝に開催される予定の御前会議で、なお承認されなければならないが、その確認がえられたならば、直ちに野村に通知するから、野村がその通知を受取つたら、すぐに対案を提出することを希望すると東郷はいつた。この提案は『甲案』と呼ばれ、九月二十五日の日本政府の提案の修正案という形をとり、東郷から野村にあてた電報の中で『最後案』と呼ばれていた。この提案は、日本軍がだんだんに撤退することを定めていた。最初の撤退は仏印からであり、中華民国政府との講和條約が調印されたならば、そのときに行われることになつていた。講和條約の調印とともに、條約に明示される指定地域を除いて、中国から撤兵し、これらの指定地域からの撤兵は、適当期間の後に行われることになつていた。これらの地域における軍隊の駐屯の期間に関して、東郷は、『「適当期間」に付米国当局より質問ありたる場合は、概ね二十五年を目途とするものなる旨を以て漠然と応酬するものとす』と野村に告げた。(E-961)三国條約に関しては、この條約に定められているように、日本は合衆国を攻撃しないという保証を与えないというのが日本政府の決意であつて、この決意をこの提案は繰返して述べた。しかし、日本政府は、條約上の日本政府の義務に関しては、他の枢軸国から独立して、独自の解釈をするというのであつた。通商無差別問題については、全世界に適用されるという條件附で、日本はこの原則の適用に同意するというのであつた。他の事項については、アメリカと了解に達することができるかもしれないが、中国に軍隊を駐屯させるという要求に関しては、日本は譲歩することができないということを東郷は明らかにした。日本が中国で四年以上にわたつて払つた犠牲と国内情勢とは、この点に関して、譲歩を許さないというのであつた。いいかえれば、日本はアメリカに対して、中国への侵入を容認すること、中国を日本に隷属させたままにしておくことを要求したのである。『甲案』に関して合意に達することができなかつたならば、その代りに提出すべきものとして、『乙案』も野村にあてて送られた。これについては、追つて取り上げることにする。
  東郷は十一月四日の電報で、交渉の重大性にかんがみ、また野村からの任を解いてもらいたいという要請にかんがみて、交渉にあたつてかれを援助するために、大使来栖を特使として派遣するが、かれは新しい訓令を携えていないと通告した。二三日の後に、東郷はドイツ大使に対して、来栖には日本政府の断固たる態度について訓令してあり、かれには越えてはならない明確な期限が与えてあるともらした。来栖が到着した上は、直ちに合衆国大統領に会見することができるように、手配することを野村は訓令された。
(E-968)
  交渉の継続中に、日本の戦争準備と戦略的諸活動を暴露するおそれのある新聞報道や言論に対して、内閣はさらに新しい検閲規則を課した。
  東郷が野村に通告したように、一九四一年十一月五日に、御前会議が開かれた。東條、東郷、嶋田、賀屋、鈴木、武藤、岡及び星野が出席した。合衆国、イギリス及びオランダに対してとるべき方針が決定された。日米交渉を再開して、『甲』及び『乙』と呼ばれた二つの択一的な提案を合衆国に提出することが決定された。これらはその前日に野村にあてて送られた提案であつた。さらに、十一月二十五日またはそれ以前に、合衆国によつて、これらの提案のどちらも受諾されなかつたならば、日本政府は、合衆国とイギリスに対して、開戦する意向であることをドイツとイタリアの政府に通報し、これらの政府に参戦と単独不講和を要請することが決定された。この決定は、アメリカ政府が日本の提案のうちのどちらかに同意したならば、イギリスとの協定を得るために、アメリカ政府を利用することを予期していた。
(E-963)
  十一月五日の会議の直後に、東郷は野村に対して、これらの提案が会議で承認されたこと、野村の前日の訓令の中で述べられた趣旨を体して、折衝を開始すべきことを訓電した。どの協定にせよ、その調印のための取極めは十一月二十五日までに完了しなければならなかつたが、他方において、野村に対しては、日本側が協定に達するために期限をつけているとか、提案が最後通牒の性質のものであるとかという印象を与えることを避けるように、訓令が与えられていた。
  御前会議では、さらに、タイと交渉して、日本軍隊にタイの領土を通過させるようにすることが決定された。日本はタイの主権と領土保全との尊重を確約することになつていた。ビルマまたはマレーの一部を日本はタイに与えることを考慮するという好餌を示すことになつていた。オランダ領東インドに関しては、日本の企図を隠すために、日本にとつてなくてはならない物資を獲得するという問題について、交渉が開始されることになつていた。フイリツピンは占領後独立させること、オランダ領東インドの一部も同様に独立させ、残部は日本が確保することになつていた。
  会議の直後に東條は木戸を訪問し、右に述べた諸決定と南方軍の編成と野村を援けるために来栖をワシントンに派遣するという決定とを知らせた。一九四一年十一月五日に、東郷はさらに野村に対して、十一月二十五日をアメリカとの協定の調印の最後の日と確定するという電報を送つた。

(E-964)
海軍の攻撃命令

 日本の連合艦隊司令長官山本に、十一月三日に、東京において海軍軍令部総長永野を訪問し、数カ月間にわたつて準備されていた連合艦隊作戦命令の最終案に対して、かれの承認を与えた。この命令は、十月四日に初めて計画された方法で、シンガポールを攻撃することと、オランダ領東インドに対する包囲態勢を完了することによつて、南方への進出を実行することを定めていた。また、数カ月前に、大島がリツベントロツプに対して、準備中であると語つたフイリツピン諸島に対する攻撃も定めていた。これらの攻撃は、合衆国太平洋艦隊を全滅させるための真珠湾攻撃によつて、掩護されることになつていた。イギリスとアメリカは、香港と上海に対する攻撃によつて、中国から駆逐されることになつており、またその他の附隨的な作戦も含まれていた。この命令には、『帝国が米国、英国及び蘭国に対し開戦を予期し諸般の作戦準備を完成するに決したる場合は、開戦(sic)概定期日(Y日)と共に「第一開戦準備」を下す』と書いてあつた。続いて、この命令は、Y日の下令とともに、各艦隊部隊は特令なくして編整戦備を整え、各艦隊部隊指揮官の所定によつて、待機地点に進出し、攻撃の準備の下に待機するように命令してあつた。(E-965)さらに、『開戦時機(X日)は大命によつてこれを示す。これは数日前に発令す。X日〇〇、〇〇時以後開戦状態に入り、各部隊は予定に基き作戦を開始す』と定めてあつた。十一月五日の御前会議を終えた後に、海軍軍令部総長はこの命令を発するように山本に命じた。(E-966)そして、それはその日に発令された。

一九四一年十一月七日に提出された『甲』案

  大使野村は、十一月七日に、『甲案』をハル氏に提出した。十一月十日に、かれは合衆国大統領に対して、この提案を説明する覚書を読み上げたが、覚書はあいまいであり、また不明確であつた。野村がこの覚書を読み上げていた日に、真珠湾に対する攻撃で空母機動部隊を指揮することになつていた南雲海軍中将は、その機動部隊に対して、単冠湾(千島択捉島ヒトカツプ湾)の待機地点に向うように命令を出した。嶋田の述べたところによれば、この命令は、機動部隊の全艦船に対して、十一月二十日までに戦闘準備を完了し、厳重な機密保持の規定に従つて、待機地点に向うように命じたものであつた。十一月十日の連合艦隊命令作第三号は、十二月八日を『X日』と定めた。この日こそ、〇〇、〇〇時以後は交戦状態に入るという日であつた。
  十一月十二日に、ハル氏は野村に対して、日本の提案を研究中であり、十五日に回答したいと希望していると述べた。
  合衆国政府は、交渉を行つている間、イギリス、オランダ及び中国の各政府と密接な連絡を保つていた。ハル氏と大統領が言明した四つの基本原則に対して、もし日本政府が同意したならば、極東と太平洋地域における個々の問題に関して協定に到達する前に、これらの政府は相談を受けるという了解があつた。総理大臣ウインストン・チヤーチルは、十一月十日にロンドンで行つた演説中で、『太平洋において平和を維持しようとする合衆国の努力が成功するかどうかは、われわれにはわからない。しかし、もしそれが失敗すれば、私はこの機会にいつておく――そして、いつておくのが私の義務である――もし合衆国が日本との戦争に巻きこまれたならば、英国の宣戦布告は一時間以内に発せられるであろう』と言明した。(E-967)その翌日に、イギリス大使は、かれの本国政府の立場を説明するために、東郷を訪れた。この会談中に、東郷は大使に対して、交渉はその最終段階にはいつたこと、日本は最後的な提案を行つたこと、もし合衆国がそれを拒否したならば、これ以上会談を続ける理由はなくなることを告げた。
  連絡会議は、攻撃に関する諸問題を決定するために、ほとんど毎日続けられた。十一月十一日の会議は、極東におけるアメリカ、イギリス及びオランダの基地を速やかに打ち破り、日本の自給自足を確立し、同時に重慶政権の降伏を早める方針を決定した。この計画は、まずイギリスを敗り、次にアメリカの戦争を続ける意思を失わせるために、枢軸国と協力して、イギリスに力を集中するというのであつた。日本の軍隊は配置につきつつあつた。航空部隊は、シンガポールの攻撃のために、サイゴンに集結しつつあつた。真珠湾攻撃のための機動部隊を構成する艦船は、日本の港から単冠湾の待機地点に進航しつつあつた
  十一月七日に野村が提出した『最後案』すなわち『甲案』に対する回答として、ハル氏が十一月十五日に野村に覚書を渡したときに、合衆国政府は右の案をそれとなく拒否した。日本軍隊の撤退に関する提案は、この撤退の期限も、どの地域から撤退するかも明示していないから、不明確であり、あいまいであるとハル氏は指摘した。また、合衆国として、他の諸国も通商無差別主義の全般的適用をするということを約束することはできないといつた。この覚書に対しては、なんの回答もなかつた。(E-968)その前日に、野村は東郷に対して、南方にせよ北方にせよ、日本の軍事行動がこれ以上進むのを阻止するために、合衆国政府は、戦争とまでは行かない範囲で、できるだけの手段を尽す決意であること、ミユンヘンのような間違いを再び犯すつもりは毛頭ないから、この点について譲歩するくらいならば、むしろ戦争を躊躇しないであろうということを知らせた。
  ハル氏から覚書を受取つた後に、東郷は攻撃の最後的準備を始めた。かれはホノルルの日本総領事に打電して、事態は非常な危機にあるから、秘密保持にいつそうの注意をすること、しかし、停泊中の船舶に関する報告を少くとも週に二回行うことを訓令した。野村は期日の延期を求めたが、それに対して、十六日に、『交渉妥結の期日を定めたのであつて、変更は行われない』と東郷は回答した。『甲』案と『乙』案を基礎として妥結を迫り、最善の努力を尽して、急速に妥結をもたらすように、かれは野村に訓令した。それから、東郷は、戦争の原因にかかわりなく、日本が合衆国との戦争に巻きこまれた場合に、単独講和を結ばないという協定をドイツ政府と交渉することに、かれの注意を向けた。この協定は、十一月二十一日に結ばれた。

一九四一年十一月二十日の『乙』案

  一九四一年十一月十五日に、特使来栖はワシントンに到着したが、十一月二十日に、かれと野村が代案であつた『乙案』をハル氏に提出するまで、新しい提案をかれは何も出さなかつた。この案は、東郷が十一月四日に野村に送つた代案であり、十一月五日の御前会議で承認されたものであつた。東郷は野村に対して、『甲案』によつて了解に達することができないことが明らかとなるまでは、『乙案』を提出してはならないと訓令していた。この『乙案』はまつたく新しい提案の草案であつて、前の提案の修正というつもりのものではなかつた。(E-969)それは三国同盟、中国からの軍隊の撤退、または通商無差別の原則については、まつたく触れていなかつた。この提案が受諾された場合には、日本は南部仏印から軍隊を引揚げること、蒋介石大元帥と講和條約の交渉が行われ、または太平洋における公正な平和が結ばれたときは、北部仏印から軍隊を引揚げることを申し入れた。これらのいわゆる譲歩の代償として、合衆国は蒋介石大元帥との講和條約の交渉に介入しないこと、日本に石油を供給することを求められた。この提案は、また、オランダ領東インドの天然資源の獲得と開発に協力し、相互に通商関係を凍結令発令前に存在した状態に復帰することに協力する協定のことを定めていた。
  アメリカ政府は、アメリカの情報機関が傍受し、解読した日本側の通信の中にあつた情報にかんがみて、また、南部仏印から引揚げられる軍隊は、一日か二日で再び送り返すことのできる北部仏印と海南島に維持されることになつていたという事実にかんがみて、乙案は誠意のないものという結論に達した。南部仏印に対して獲得した地位を、すなわち、南方の諸国を脅威し、通商路を脅威する地位を、日本は維持しようと申出たのである。この提案を受諾することは、日本がすでに行つた侵略を容認し、将来日本による制限のない征服を承認するとともに、アメリカ合衆国の原則を放棄し、中国を裏切るのにひとしいとアメリカ政府は考えた。
  十一月二十二日の朝に、ハル氏はイギリス、オーストラリア及びオランダの大公使の会議を招集し、日本の提案に関するかれらの意見を求めた。(E-970)この会議で意見が一致したことは、もし日本が誠意をもつて平和を希望し、平和的政策に従う固い意思を有するならば、かれらはそれを歓迎し、日本との正常な通商関係を再開することに協力するものであるが、ワシントンにおける日本の両大使の提案と言明は、東京における日本の指導者と報道機関の言明と相反するように思われるということであつた。イギリスとオランダの代表は、本国政府と相談し、その意見をハル氏に伝えることに同意した。
  一九四一年十一月二十二日の午後に、ハル氏は、野村と来栖に会見した。かれは両人に対して、その日の午前に開かれた会合について知らせ、また、次の月曜日の十一月二十六日の会議で決定が行われると期待しているということを知らせた。野村と来栖は、イギリスとオランダの意向はとにかく、アメリカの態度を示すように迫つた。ハル氏はこれに対して、関係諸国はすべて南太平洋における緊急な問題が解決されることを熱望していること、しかし、その点から見て、最近の提案では不充分であるということを答えた。十一月二十二日に、東郷は野村に対して、協定の締結の最終期日は十一月二十九日であるとし、それは『その後は、情勢が自動的に進展する』からであると打電した。
  十一月二十六日に、野村と来栖は再びハル氏と会つた。ハル氏は両大使に対して、『乙案』はかれが交渉の初期に言明し、アメリカ合衆国が誓約している四つの基本的原則に違反するものであることを指摘した後に、これらの提案の採用は、太平洋における究極の平和に貢献するものでないというのがアメリカ政府の意見であると知らせた。これらの四つの基本的原則を実際に適用するについて了解に到達するために、いつそうの努力をしてはどうかとハル氏は提案した。この目的を念頭に置いて、かれは新しい提案の草案を出した。(E-971)その要点は、極東において四つの基本原則の実施を定めたこと、日本軍隊の中国撤退と中国の領土保全の維持とのために、アメリカ合衆国、イギリス、中国、日本、オランダ、タイ及びソビエツト連邦の間に多辺的協定を結ぼうとすることであつた。
  この提案された協定は、日本とアメリカ合衆国は太平洋における恒久的平和の確立を目的として、次のことを宣言することを定めていた。(一)両国は他国の領土に対するどのような企図もないこと、(二)両国は侵略的に武力を用いないこと、(三)両国は他国の内政に干渉しないこと、(四)両国は国際紛争を平和的な手段によつて解決すること。これらのことは、ハル氏がすでに一九四一年四月十六日に述べた四つの一般的原則であり、また、原則として同意され、実際に適用されなければならないと合衆国政府が終始主張してきたものであつた。これらの原則は、一九三〇年以前には、日本が繰返して賛成を表明していたものであるけれども、その年から後は、実際上しばしば違反したものであつた。
  国際通商の面では、次のことが提案された。(一)いろいろな国の国民の間に、どのような差別も設けないこと、(二)国際貿易の流通に対する極端な制限を廃止すること、(三)すべての国家の国民に対して、差別なく原料入手の途を開くこと、(四)国家間の通商協定は、消費のために物資を輸入しなければならない国の住民の利益の保護を保証すること。これらの原則は、国際貿易に依存し、かつ消費物資の大きな輸入国としての日本にとつて、ほとんど異存のあるはずがなく、実際のところ、さきになされた交渉の間に、その実質については、すでに意見が一致していたのである。しかし、右に述べた原則のすべてを実際に適用するということは、また別の問題であつた。(E-972)日本は多年中国に対して戦争を行つていたのであり、その過程において、満洲を領有し、中国のその他の広大な部分を占領し、中国の経済の大部分を支配し、これを自己の用途に流用していた。今では、南方の隣接諸国に対する一連の新しい掠奪的攻撃のために、日本は必要な基地を仏印において獲得し、一切の準備を終り、開始するばかりの態勢にあつた。これらの攻撃によつて、日本はその過去の侵略によつて得たものを確保し、東アジアと西太平洋及び南太平洋において支配的な地位を得るために必要とする、より以上の領土と物資を確保しようと希望した。右に述べた諸原則を実際に適用することは、日本が過去の侵略で得た成果を放棄することと、南方に対して侵略を続ける計画を断念することを意味するものであつた。
  交渉のはじめから、アメリカ合衆国は、その示した原則の承認を終始主張し、これらの原則を実行に移す方法を考え出す必要について、ハルは繰返して注意を喚起した。交渉の初期に、日本はこれらの原則に同意するという明確な宣言をすることを避けた。一九四一年の八月ごろ、非常な困難の後に、近衛は、日本は四原則を受諾するということをアメリカ合衆国に通告することについて、軍部の同意を得ることに成功した。われわれが知つているように、これは誠意のない見せかけにすぎなかつた。これらの原則を適用する意思はなかつた。日本の指導者は、これらの原則を実際に適用し、それによつて過去に得たものを放棄し、将来に得られるものを断念する気には決してならなかつた。これらの原則を実際に適用することは、どのような協定にも、絶対に欠くことができないということを、前からアメリカ合衆国によつて警告されていたにもかかわらず、かれらは右のような考えで交渉を行つた。かれらのうちのある者は、軍事的威嚇と外交的工作によつて、少くとも日本が満洲と中国で獲得した支配的地位を保持させる程度に、その原則の適用をアメリカ合衆国に緩和させようと希望したようである。(E-973)かれらは、アメリカ合衆国及び西洋諸国との戦争において、日本は勝利を得ることができるかどうか確信がなかつたのであり、もしこれらの諸国に、日本が満洲と中国のその他の部分で獲得した地位を黙認させることができたならば、計画された南方進出をかれらは一時断念するつもりであつた。かれらのうちの他の者は、諸国をそのように欺くことができるとは信じていなかつた。これらの人人は、比較的楽観しているものにも、この欺瞞は不可能であることがわかるまで――これは国民の統一にも資することになるわけであるが――また日本の戦争準備が完了するまで、交渉の遷延を単に黙認していたにすぎなかつた。
  ハルは、十一月二十六日の通牒で、もしこれらの原則が承認され、かつ実施されるとするならば、ある種の措置が必要であるとして、その詳細を述べた。(一)東アジアに利害をもつすべての国の間に、不侵略條約を結ぶこと、(二)すべてこれらの諸国は、仏印との経済関係において、優先的待遇を受けないこと、(三)日本は軍隊を中国と仏印から撤退すること、(四)日本は中国の傀儡政権に対する一切の支持を撤回すること。
  これらの原則を実際に適用するというこの提案は、日本の指導者を現実に直面させた。かれらはこれらの原則を実際に適用する気は決してなかつたのであり、このときにも、適用するつもりはなかつた。かれらの戦争準備は、今や完了していた。(E-974)真珠湾を襲うことになつていた艦隊は、この日の早朝に出航していた。かれらが全員一致で決定したことは、戦争をすること、交渉の打切りによつて、警告がアメリカ合衆国とイギリスに届く前に、選択された地点において、両国の軍隊を日本の軍隊が攻撃できるように、外交上の応酬を操ることであつた。
  野村と来栖は東郷に対して、かれらは完全に失敗し、完全に面目を失つたと打電した。十一月二十七日に、日本の外務省は来梱に対して、交渉を打切らないように訓令した。十一月二十八日に、東郷は野村と来栖に打電した。『両大使段々の御努力にも拘らす米側か今次の如き理不尽なる対案(十一月二十六日のハル氏の提案)を提示せるは頗る意外且遺憾とする所にして我方としては到底右を交渉の基礎とする能はす従つて今次交渉は右米案に対する帝国政府見解(両三日中に追電すへし)申入を以て実質的には打切とする他なき情勢なるか先方に対しては交渉決裂の印象を与ふることを避くることと致度に付貴方に於ては目下猶請訓中なりと述べられ度し』とかれはいつた。一九四一年十一月二十九日に、日本の外務省は来栖と野村に対して、合衆国国務省にある申入をすること、但し交渉の決裂と思われるようなことはいわないように注意することを訓令した。十一月三十日に、外務省は、ワシントンの両日本大使に対するこの警告を繰返した。
(E-975)
  十一月十九日に、木戸は事態について天皇と話し合つた。かれは次のことを天皇に進言した。単に交渉の期限が切れたからという理由で、戦争が始められたならば、天皇に対して不当な非難がなされるかもしれないこと、従つて、天皇が戦争の開始を承認する前に、重臣を参加させた御前会議をもう一度召集するように総理大臣に命令すること。その後に行われた十一月二十六日の木戸と天皇の会談で、現状に鑑みて、戦争に関する御前会議をいま一度開催することに二人は決定した。その結果として、十一月二十九日の朝に、その日の後刻行われることになつていた天皇との会合の準備として、重臣会議が召集された。この午前中の会議には、東條、鈴木、嶋田、東郷及び木村が出席した。東條は合衆国との戦争が避けがたいことを説明した。休憩の後に、重臣と東條とは天皇に会い、天皇は順々に各人の意見を聴いた。東條は政府の見解を述べた。この討議は、東條が述べたように、戦争は避けられないという説に基いて行われた。広田と近衛とを除いて、平沼とその他の重臣は、この仮定に基いて進言することだけで満足していた。

一九四一年十一月三十日の連絡会議

  十一月三十日に開かれた連絡会議は、連合国に対する攻撃の最後的な詳細について、意見の一致を見た会議であつた。(E-976)東條、嶋田、東郷、賀屋、鈴木、武藤、岡及び星野が出席した。真珠湾攻撃計画が忌憚なく論議された。合衆国政府への通牒の形式と内容について、意見の一致を見た。この通牒は、二十六日のハル氏の提案の草案をしりぞけ、またワシントンにおける交渉の決裂を意味するものであつた。宣戦布告は不必要ということに一致した。通牒手交の時刻が討議された。交渉決裂の意味を含んだ通牒の手交と実際の真珠湾攻撃との間に、経過すべき時間については、いろいろの説が立てられていると東條はいつた。ある者は一時間半の時間の余裕をおくべきであると考え、その他一時間、三十分などという時間が提案されているといつた。通牒手交の時刻によつて、その攻撃における奇襲の要素がだめにされてはならないということについては、全員が一致した。最後に、通牒の手交と攻撃の開始との間の時間の余裕を決定することは、海軍軍令部に一任することに決し、海軍軍令部は、その作戦行動の行われる時機を予測した上で、合衆国に通告してもよい時刻を連絡会議に知らせることになつていたと武藤はいつた。

一九四一年十二月一日の御前会議

  十一月三十日の連絡会議で行われた諸決定を承認するための御前会議は、十二月一日に開かれた。東條、東郷、嶋田、賀屋、鈴木、星野、武藤及び岡が他の者とともに出席した。東條が議長となり、会議の目的を説明し、その後に、各大臣及び参謀総長、軍令部総長がそれぞれその責任上の立場から問題を討議した。(E-977)問題は合衆国、イギリス及びオランダと戦争をするか平和を保つかということであつた。決定は戦争ということになつた。その決定の記録は、『十一月五日決定の帝国国策遂行要領に基く対米交渉遂に成立するに至らず。帝国は米英蘭に対し開戦す』となつている。木戸はその日記に、『二時御前会議開催せられ、遂に対米開戦の御決定ありたり。四時半首相来室宣戦詔書につき協議す』としるしている。その翌日、すなわち十二月二日に、大本営は十二月八日をX日と指定する命令を発したが、われわれが知つているように、一九四一年十一月十日の連合艦隊命令作第三号によつて、この日はすでに確定されていたのである。
  一九四一年十一月二十二日に、山本海軍大将は、広島湾におけるその旗艦から、当時単冠湾に集合中の機動部隊に命令を発した。この命令は、機動部隊が十一月二十六日単冠湾を出発し、北緯四十度西経百七十度の地点に向つて、十二月三日に到着するように隠密に進めという趣旨のものであつた。燃料の補給は、その地点で、できるだけ速やかに行うこととなつていた。十一月二十六日の朝に、機動部隊は単冠湾を出港し、燃料補給の地点へ向つた。この機動部隊は、戦艦、駆逐艦、その他の艦船とともに、日本の六隻の大型航空母艦によつて編制されていた。(E-978)南雲海軍中将は、『真珠湾を攻撃せよ』という簡単な命令を発した。それ以上のものは不必要であつた。というのは、すでに十一月二十三日に、かれは攻撃について詳細な命令を発していたからである。

アメリカ合衆国との交渉の打切り

  ワシントンでは、平和交渉が続けられていた。大統領ローズヴエルト、国務長官ハルと野村、来栖の両大使は、一九四一年十一月二十七日の午後二時三十分から、およそ一時間にわたつて会談した。この会見の後に、来栖は東京の外務省の一員と電話で話をしようとした。この話の中で、来栖は会話の暗号については何も知らないようで、しかも太平洋方面における連合国の属領に対する攻撃を偽装するために、ワシントンにおける交渉を利用するという東條内閣の計画については、驚くほど知つていたことを示している。攻撃が差し迫つていること、どんな犠牲を払つても、かれが交渉を続けるように期待されていること、つまり、『・・・・期日を経過し』たにもかかわらず、交渉継続の外見を保つべきことを注意された。合衆国に『不必要に疑惑を増さ』せないようにすることになつていた。
  一九四一年十二月七日午前十時(ワシントン時間十二月六日午後八時)ごろに、野村と来栖にあてて、合衆国政府に手交されるベき覚書を伝える東郷の電報がワシントンに着きはじめた。それは十一月二十六日の合衆国提案の草案に答えるもので、交渉決裂の意味を含んだものであつた。それはいくつかに分けられて打電された。(E-979)その一部で、東郷は野村に対して、『右覚書を米側に提示する時期に付て、追て別に電報すべきも、右別電接到の上は、訓令次第何時にても米側に手交し得る様万端の手配を了し置かれ度し』と知らせた。
  大統領ローズヴエルトは、日本政府と平和的解決に到達しようとする最後の努力として、日本の天皇に親電を送つた。この親電は、天皇にこれを手交せよという訓令とともに、東京のアメリカ大使グルー氏に送られた。この親電は正午に東京に着いた。その内容は、午後のうちに、日本の当局者に知られていたにもかかわらず、グルー氏には、その晩の九時になるまで伝達されなかつた。親電を解読すると、直ちにグルー氏は一九四一年十二月八日の午前零時十五分に外務大臣東郷を訪問し、その親電を手交するために、天皇に面会したいと要請した。しかし、東郷はグルー氏に対して、自分がその親電を天皇に手交すると告げた。グルー氏は午前零時三十分(ワシントン時間一九四一年十二月七日午前十時三十分)に辞去した。この時には、両国はすでに戦争していた。というのは、前に言及した海軍の作戦命令は、十二月八日〇〇、〇〇時(東京時間)を『開戦状態に入る』時機と定めていたからである。コタ・バル攻撃は午前一時二十五分に、真珠湾攻撃は午前三時二十分(双方とも東京時間)に始まつた。天皇にあてた大統領の親電をグルー氏に伝達することが遅れたことについては、本裁判所に対して、満足すべき説明は全然与えられなかつた。この親電は、何かの効果があつたかもしれないが、かりにあつたとしても理由のわからないこの遅延のために、その効果をもたらすことができなかつた。

(E-980)
真珠湾

  日本の機動部隊は、その作戦命令を予定通りに遂行するために、行動を起していた。グルー氏が東郷に別れてから一時間の後に、すなわち、一九四一年十二月八日午前一時三十分(真珠湾時間十二月七日午前六時)(ワシントン時間十二月七日午前十一時三十分)に、真珠湾に第一次の攻撃を加えることになつていた飛行機は、真珠湾から北約二百三十マイルの地点で、航空母艦の甲板から飛び立つた。ワシントンの大使野村は、国務長官ハルに、一九四一年十二月八日午前三時(ワシントン時間十二月七日午後一時)に面会したいと申込んでいたが、後程電話をして、面会を一九四一年十二月八日午前三時四十五分(ワシントン時間十二月七日午後一時四十五分)に延ばすことを求めた。野村がハルを訪問する前、一九四一年十二月八日午前三時二十分(真珠湾時間十二月七日午前七時五十分)(ワシントン時間十二月七日午後一時二十分)に、真珠湾に対する最初の襲撃が行われた。野村と来栖の両大使は、一九四一年十二月八日午前四時五分(ワシントン時間十二月七日午後二時五分)に、国務長官ハルの事務所に到着した。これは真珠湾に第一次攻撃が実際に加えられてから四十五分の後であつた。そして、両大使がハル氏に引見されたのは、攻撃が始つてからすでに一時間を経過した後のことであつた。日本の大使は、一九四一年十二月八日午前三時(ワシントン時間十二月七日午後一時)に、この通牒を手交するように訓令を受けていたのであるが、解読と浄書に困難があつたために遅れたことは申訳ないと述べた。(E-981)国務長官は、なぜワシントン時間の午後一時という特定の時間に通牒を手交するように命ぜられたのかと尋ねた。大使は理由は知らないが、そう訓令されたのであると答えた。一九四一年十二月八日(ワシントン時間十二月七日)に、東郷が野村に次のような訓令を打電したことは事実である。『貴地時間七日午後一時を期し合衆国政府に貴使より当回答を提出相成度し。』(E-982)真珠湾に対する第二次攻撃は、午前四時十分から午前四時四十五分(真珠湾時間午前八時四十分から午前九時十五分)まで、水平爆撃機によつて加えられ、第三次攻撃は、午前四時四十五分から午前五時十五分(真珠湾時間午前九時十五分から午前九時四十五分)まで、急降下爆撃機によつて加えられた。

コタ・バル

  東京において、グルー氏が東郷と別れてから四十五分の後に、すなわち、一九四一年十二月八日の午前一時二十五分(コタ・バル時間十二月七日午後十一時四十五分)(ワシントン時間十二月七日午前十一時二十五分)に、イギリス領マレーの東岸にあるバダンとサバツク海岸の防衛部隊は、沖合に艦船が停泊していると報告した。このバダン海岸とサバツク海岸との接続点であるクアラ・パーマツトは、コタ・バル飛行場の北東約一マイル半のところに位置している。東條は、これらの艦船は仏印のサイゴンから出港したものであるといつた。一九四一年十二月八日の午前一時四十分(コタ・バル時間十二月七日午前零時)(ワシントン時間十二月七日午前十一時四十分)に、これらの艦船は海岸の砲撃を開始した。これは来栖と野村が日本の通牒を持つてハル氏を訪問するように、最初から予定されていた時間よりも一時間二十分早く、また両者がハル長官の事務所に実際に到着したときよりも二時間二十五分早かつた。一九四一年十二月八日の午前二時五分(コタ・バル時間十二月八日午前零時二十五分)ごろに、日本軍の第一攻撃部隊は、バダン海岸とサバツクの海岸の接続地点に上陸した。海岸防備の第一線を確保して、日本軍は、イギリス領マレー半島に対する上陸作戦の第二段階を開始した。この第二段階は、シンゴラとバタニにおける上陸作戦であつて、これらの町は、イギリス領マレーとタイとの国境のすぐ北にあり、従つてタイの領土内にあつた。(E-983)この第二の上陸は、一九四一年十二月八日の午前三時五分(コタ・バル時間十二月八日午前一時二十五分)(ワシントン時間十二月七日午後一時五分)に始まつた。日本の艦船は軍隊をシンゴラとバタニで下船させていること、シンゴラの飛行場は日本の上陸部隊によつて占拠されていることが空中偵察によつてわかつた。コタ・バルに対して側面攻撃を行うために、日本軍はその後に、ペダン・ブサールとクローでマレーとタイの国境を越えた。
  日本の飛行機は、一九四一年十二月八日の午前六時十分(シンガポール時間十二月八日午前四時三十分)(ワシントン時間十二月七日午後四時十分)にイギリス領マレーのシンガポール市に対して空襲を行つた。これらの攻撃機は、東條によれば、仏印の基地から、また沖合の航空母艦から来たものであつた。爆弾がセレタールとテンガとの飛行場にも、シンガポール市にも投下された。

フイリツピン、ウエーク及びグアム

  グアム島に対する最初の攻撃は、一九四一年十二月八日の午前八時五分(ワシントン時間十二月七日午後六時五分)に行われた。そのときに、日本の爆撃機八機が雲の中から現われて、海底電信局とパン・アメリカン航空会社の敷地との附近に爆弾を投下した。
(E-984)
  一九四一年十二月八日(ウエーク及びワシントン時間十二月七日)の未明に、ウエーク島に対する攻撃が日本の飛行機の爆撃によつて開始された。
 フイリツピンも一九四一年十二月八日(ワシントン時間十二月七日)の朝に最初の攻撃を受けた。ミンダナオ島のダヴアオ市とルソン島のクラーク飛行場とに対して、日本軍の猛爆撃が行われた。

香港

  香港は最初の攻撃を一九四一年十二月八日の午前九時(香港時間十二月八日午前八時)(ワシントン時間十二月七日午後七時)に受けた。イギリスに対してまだ宣戦は布告されていなかつたが、一九四一年十二月八日の午前八時四十五分ごろに、香港の当局者によつて、東京放送局からの暗号の放送が聴き取られた。この放送は、イギリスと合衆国に対する戦争が差迫つていることを日本国民に警告するものであつた。この警告は、香港の防衛当事者に、予期される攻撃に対してある程度の準備をする余裕を与えた。

上海

  上海に対する三度目の侵入は、十二月八日(ワシントン時間十二月七日)の未明に、日本の巡察隊が蘇州河のガーデン・ブリツジを渡り、軍用電話線を架設しながら進んで行くのが認められたときから始まつた。かれらはなんの抵抗にも会わずに、バンドを容易に接収することができた。一九四一年十二月八日の午前四時(上海時間十二月八日午前三時)(ワシントン時間十二月七日午後二時)までに、かれらはそれを完全に占拠していた。

一九四一年十二月七日ワシントンで手交された日本の通牒

 開戦に関する一九〇七年のへーグ第三條約は、その第一條に、『締約国ハ理由ヲ附シタル開戦宣言ノ形式又ハ條件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告ナクシテ其ノ相互間ニ戦争ヲ開始スヘカラサルコトヲ承認ス』と規定している。この條約は、この裁判事件に関連のある全期間にわたつて、日本を拘束していた。本裁判所條例によれば、国際法、條約、協定または誓約に違反する戦争の計画、準備、開始または遂行は犯罪であると定められている。起訴状の起訴事実の多くは、全面的または部分的に、次の見解に基いている。すわわち、イギリスと合衆国に対する攻撃は、理由をつけた開戦宣言の形式または條件附開戦宣言を含む最後通牒の形式において、明瞭な事前の通告をすることなしに行われたという見解である。他の箇所で述べた理由によつて、われわれはこれらの起訴事実を取扱う必要はないと決定した。(E-986)起訴状の訴因で、侵略戦争及び国際法、條約、協定または誓約に違反する戦争を遂行する共同謀議を訴追しているものに関しては、われわれは次の結論に到達した。すなわち、侵略戦争を遂行する共同謀議という起訴事実は立証されたこと、これらの行為はすでに最高度において犯罪的であること、違反されたものとして起訴状が挙げているところの一連の條約、協定及び誓約――ヘーグ第三條約を含めて――に関しても、起訴事実が立証されたかどうかということは、考慮する必要がないことである。侵略戦争または国際法、條約、協定及び誓約に違反する戦争を遂行したと主張している訴因に関しても、われわれは同様の結論に到達した。一九○七年のヘーグ第三條約またはその他の條約に違反して戦争を行つたということ関にして、殺人を訴追している起訴状の訴因については、これらの殺害が起つた戦争はすべて侵略戦争であるとわれわれは決定した。このような戦争を行うことは、いい尽せない殺害、苦痛及び艱苦を伴うのであるから、重大な犯罪である。どの被告にせよ、この重大犯罪について有罪とし、さらに名目上の『殺人罪』についても有罪とすることは、なんの役にも立たないであろう。従つて、一九〇七年のヘーグ第三條約が負わせている義務の正確な範囲について、われわれが結論的意見を述べることは必要でない。(E-987)この條約は、敵対行為を開始する前に、明瞭な事前の通告を与える義務を負わせていることは疑いもないが、この通告を与えてから、敵対行為を開始するまでの間に、どれだけの時間の余裕を置かなければならないかを明確にしていない。これは條約の起草者が当面した問題であつて、この條約が成立してから、国際法学者の間でつねに論争の対象になつていた。通告と敵対行為との間の時間の長さというこの問題は、もちろん重大である。もしその時間が短かくて、遠く離れた地にある軍隊に警告を伝え、その軍隊に防衛態勢をとらせるだけの余裕のないものであつたならば、これらの軍隊は自己を守る機会を与えられないで、うち倒されてしまうかもしれない。條約が負わせている義務の正確な範囲に関して、このような論争があつたということから、東郷は一九四一年十一月三十日の連絡会議に対して、義務的である通告の期間については、いろいろな意見があり、ある者はその期間が一時間半、ある者は一時間、ある者は三十分でなければならないと考えていると知らせることができたのである。連絡会議は、ワシントンで通告を手交する時機は、奇襲攻撃の成功を妨げてはならないという條件をつけて、その時機の決定を東郷と陸海軍の両総長に任かせた。要するに、かれらは、攻撃地点のイギリスと合衆国の軍隊が、交渉が決裂したという警告を受けることができないことを確実にするために、敵対行為の開始の前に、わずかな間をおいて、交渉を打切るという通告をすることに決定したのである。(E-988)この任務を与えられた東郷と陸海軍の当事者は、通牒が一九四一年十二月七日の午後一時にワシントンで手交されるように手はずをきめた。真珠湾に対する最初の攻撃は午後一時二十分に行われた。一切のことが順調にいつたならば、真珠湾の軍隊に警告するために、ワシントンに二十分の余裕を与えたであろう。しかし、攻撃が奇襲になることを確実にしたいと切望するあまり、かれらは思いがけない事故に備えて余裕をおくということを全然しなかつた。こうして、日本大使館で通牒を解読し、浄書する時間が予定よりも長くかかつたために、実際には、攻撃が行われてから四十五分もたつてから、日本の両大使は通牒を持つてワシントンの国務長官ハルの事務所に到着したのである。コタ・バルにおけるイギリスに対しての攻撃については、ワシントンで通牒を手交するように定められていた時刻(午後一時)とは、全然関係がなかつた。この事実は証拠中に充分に説明されていない。この攻撃はワシントン時間の午前十一時四十分に行われた。これは、東京から受けた訓令通りに、ワシントンの日本大使館が実行することができたとしても、通牒を手交しているはずの時間よりも、一時間二十分も前のことであつた。
  われわれは右のように事実の認定を下すのが正当であると考えた。これらの事項が多量の証拠と議論の対象となつていたからでもあるが、主としては、この條約の現在の構造の欠陷に対して、鋭い注意を喚起するためである。それは狭く解釈することが可能であり、節操のない者に対して、他方でかれらの攻撃が奇襲として行われることを確実にしながら、右のように狭く解釈された義務には従うように工夫する気を起させるものである。(E-989)奇襲という目的のために、時期の余裕をこのように少くすれば、通告の伝達を通らせる結果となる間違いや手違いや怠慢に対して、余裕をおいておくことができなくなる。そうして、この條約が義務的であるとしている事前の通告は、実際には与えられないことになるという可能性が大きい。日本の内閣は、時間の余裕を少くすればするほど、手違いの可能性が大きくなることを認めていたので、このことを念頭に置いていたと東條は述べた。

正式の宣戦布告

 日本の枢密院の審査委員会は、十二月八日の午前七時三十分(東京時間)に、合衆国、イギリス及びオランダに対して、正式の宣戦布告を行う問題のために、宮中で会議を開いたときになつて、初めてこの問題を考慮し始めた。嶋田は真珠湾とコタ・バルに対して攻撃が行われたと発表した。そして、その前夜に星野の住居で起草された合衆国とイギリスに対する宣戦の諮詢案が提出された。同案の審議中に出た質問に答えて、東條は、ワシントンにおける平和交渉に言及して、『作戦上の関係よりこれを継続せしめたるに過ぎざりし』ものといつた。東條は、さらに、同じ審議中に、オランダに対しては、将来の作戦上の便宜を考えて、宣戦布告をしないこと、日本とタイとの間には、『同盟條約』を締結する交渉が進行中であるから、タイに対しては宣戦布告をしないことを言明した。(E-990)その案は承認され、枢密院本会議に提出されることに決定された。枢密院は一九四一年十二月八日の午前十時五十分に会合し、この案を可決した。合衆国とイギリスに対する宣戦の詔書は、一九四一年十二月八日の午前十一時四十分と十二時の間(ワシントン時間十二月七日午後十時四十分と午後十一時の間)(ロンドン時間十二月八日午前二時四十分と午前三時の間)に発布された。攻撃を受けたので、アメリカ合衆国とグレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国は、一九四一年十二月九日(ロンドン及びワシントン時間十二月八日)に、日本に対して宣戦を布告した。同じ日に、オランダ、オランダ領東インド、オーストラリア、ニユージーランド、南アフリカ、自由フランス、カナダ及び中国も、日本に対して宣戦を布告した。その翌日、武藤は、参謀本部の作戦部長と話し合つたときに、大使来栖を合衆国に派遣したことは、戦争開始に導くまでの一つのカモフラージユの手段にすぎなかつたといつた。

結論

  日本のフランスに対する侵略行為、オランダに対する攻撃、イキリスとアメリカ合衆国に対する攻撃は、正当な自衛の措置であつたという、被告のために申立てられた主張を検討することが残つている。(E-991)これらの諸国が日本の経済を制限する措置をとつたために、戦争をする以外に、日本はその国民の福利と繁栄を守る道がなかつたと主張されている。
  これらの諸国が日本の貿易を制限する措置を講じたのは、日本が久しい以前に着手し、かつその継続を決意していた侵略の道から、日本を離れさせようとして講じられたもので、まつたく正当な試みであつた。このようにして、一九三九年七月二十六日に、アメリカ合衆国は日本との通商航海條約を廃棄すると通告した。それは日本がすでに満洲と中国のその他の広大な部分とを占拠した後のことであり、また、この條約が存在していても、中国にある合衆国国民の権益を日本に尊重させることがすでに長い間できなくなつていたときのことであつた。これらの権益を日本に尊重させるように、何か他の手段を試みてみるために、それは行われたのである。その後に、日本向け物資の輸出に対して、次々に輸出禁止が課せられたが、これは日本が諸国の領土と権益を攻撃する決意をしていることがだんだん明白になつたからである。つまり、日本が決意していた侵略的政策から日本を離れさせようとする試みとして課せられたのであり、また、諸国が自国に対する戦争を遂行するための物資をこれ以上日本に供給しないようにするためであつた。ある場合に、たとえば、アメリカ合衆国から日本へ油の輸出を禁止した場合に、これらの措置がとられたのは、侵略者に抵抗している諸国の必要とする資材を蓄積するためでもあつた。(E-992)さきに挙げた被告のための主張は、実に、日本が侵略戦争の準備をしていた当時に発表した日本の宣伝を単に操返しているにすぎない。隣接諸国の犠牲において、北方、西方及び南方に進出しようとする日本の決定は、日本を目標にして、なんらかの経済的措置がとられたときよりも、ずつと以前に行われていたのであり、日本はその決定からかつて離れたことがないということを証明する文書を今日では、詳細にわたつて手に入れることができる。その今日において、日本の宣伝がまた長たらしく繰返されるのをじつと辛抱しているということは、容易なことではない。弁護側の主張とは反対に、フランスに対する侵略行為、イギリス、アメリカ合衆国及びオランダに対する攻撃の動機は、日本の侵略に対して闘争している中国に与えられる援助をすべて奪い去り、南方における日本の隣接諸国の領土を日本の手に入れようとする欲望であつたことは、証拠が明らかに立証するところである。
  本裁判所の意見では、一九四〇年と一九四一年の当時における日本の指導者は、仏印でフランスに対する侵略戦争を行うことを計画した。フランスが仏印内で日本に駐兵権と航空基地及び海軍基地に対する権利とを譲与するように要求することを、かれらは決定していた。また、要求が容れられない場合には、フランスに対して武力を行使する準備をしていた。もし必要になつたならば、要求を貫徹するために、武力を行使するという威嚇のもとに、かれらは実際にフランスに対してこのような要求を行つたのである。(E-993)フランスは、当時の自国の状態からして、武力の威嚇に屈しないわけにいかず、この要求を容れた。
  本裁判所はまたフランス共和国に対して侵略戦争が行われたものと認定する。日本軍による仏印の各地の占領は、日本がフランスに強制して受諾させたものであつたが、いつまでも平和の状態のままでは続かなかつた。戦況、特にフイリツピンにおける戦況が日本に不利になつてくるにつれて日本の最高戦争指導会議は、一九四五年二月に、次のような要求を仏印総督に提出することを決定した。(一)すべてのフランス軍と武装警察を日本の指揮下におくこと、(二)軍事行動に必要なすべての通信運輸機関を日本の管理の下におくこと。これらの要求は、一九四五年三月九日に、軍事行動の威嚇を伴つた最後通牒の形で、仏印総督に提出された。拒絶するか受諾するかのために、かれは二時間を与えられた。かれは拒絶した。そこで、日本側は軍事行動によつて要求を強行する措置をとつた。フランス軍と武装警察は、かれらを武装解除しようとする企図に反抗した。ハノイ、サイゴン、プノンペン、ナトラン及び北部国境方面で、戦闘が行われた。ここに、日本側の公式記録を引用する。『北部国境地域では、日本軍は少からざる損害を蒙つた。日本軍は進んで僻遠の地のフランス軍分遣隊と山間に避退せるフランス軍の小部隊を制圧した。一カ月にして僻遠の地を除き、治安は回復した。』(E-994)日本の最高戦争指導会議は、日本の要求が拒絶され、これを強行するために、軍事行動がとられた場合でも、『両国は戦争状態にあるとは看做されざるべし』と決定していた。本裁判所は、当時の日本の行動は、フランス共和国に対する侵略戦争の遂行を構成するものであつたと認定する。
  さらに、本裁判所の意見では、日本が一九四一年十二月七日に開始したイギリス、アメリカ合衆国及びオランダに対する攻撃は、侵略戦争であつた。これらは挑発を受けない攻撃であり、その動機はこれらの諸国の領土を占拠しようとする欲望であつた。『侵略戦争』の完全な定義を述べることがいかにむずかしいものであるにせよ、右の動機で行われた攻撃は、侵略戦争と名づけないわけにはいかない。
  オランダが先に日本に対して戦争を宣言したのであるから、それに続いて起つた戦争は、日本による侵略戦争と呼ぶことはできないと、被告のために主張された。実際は、交渉によつて、交渉が失敗したときは、武力によつて、オランダ領東インドの経済における支配的地位を日本が自分のものにしようと長い間計画していたのである。一九四一年の半ばになると、オランダが日本の要求に屈しないことが明らかになつた。そこで、日本の指導者は、オランダ領東インドに侵入し、これを占拠する計画を立て、そのすべての準備を完了した。(E-995)この侵入のために、日本陸軍に対して発せられた命令は、発見されていないが、一九四一年十一月五日に、日本海軍に対して発せられた命令が、証拠として提出されている。これはすでに言及した連合艦隊命令作第一号である。予想される敵国は、合衆国、イギリス及びオランダであると述べている。この命令は、戦争が起る日は大本営命令によつて指示されること、その日の〇〇、〇〇時以後は交戦状態に入り、日本軍は計画に従つて作戦を開始することを述べている。大本営命令は十一月十日に発せられ、十二月八日(東京時間)、すなわち十二月七日(ワシントン時間)をもつて、交戦状態に入り、計画に従つて作戦が開始される日と定めた。このようにして開始される作戦の第一段において、南方部隊はフイリツピン、イギリス領マレー、オランダ領東インド地域の敵艦隊を撃滅すると述べてある。以上の諸点について、右にあげた命令が撤回または変更されたという証拠はない。これらの事情から見て、われわれは、事実において、戦争状態の存在を宣言し、オランダに対する日本の侵略戦争の遂行を命ずる命令は、一九四一年十二月七日の朝早くから有効であつたと認定する。オランダは、攻撃が差迫つていることを充分に知つていて、自衛のために、十二月八日に、日本に対して宣戦を布告し、このようにして、すでに日本によつて始められていた戦争状態が存在することを、公式に認めるに至つたのであるが、この事実によつて、この戦争を日本の側からする侵略戦争でなくし、何かそれと違つたものにするということはできない。事実として、日本はオランダに対して、軍隊がオランダ領東インドに上陸した一九四二年一月十一日まで、戦争を宣言しなかつた。(E-996)一九四一年十二月一日の御前会議は、『帝国は米英蘭に対し開戦す』と決定した。オランダに対して敵対行為を開始するというこの決定にもかかわらず、また、オランダに対する敵対行為遂行の命令がすでに効力を発生していたにもかかわらず、十二月八日(東京時間)の枢密院会議で、アメリカ合衆国とイギリスに対する正式の宣戦の諮詢案を可決したときに、東條は、将来の戦略上の便宜を考えて、オランダに対しては宣戦しないと言明した。これに対する理由は、証拠の中では、充分に説明されなかつた。本裁判所は、オランダ側に油井を破壊する時間をできるだけ少くするために、一九四〇年十月に決定された方針に従つたものであるという見解をとりたい。しかし、日本がオランダに対して侵略戦争を行つたという事実には、それはなんの影響も与えるものではない。
  タイの立場は特別である。日本軍のタイへの進入に関する証拠は、非常に薄弱である。一九三九年と一九四〇年に、仏印とタイとの間の国境に関する紛争において、日本はフランスに対して、無理に調停者となつたが、そのころに、日本の指導者とタイの指導者との間に共謀のあつたことは明らかである。このときにできた日本とタイとの間の共謀と内通の状態が、一九四一年十二月前に変つていたという証拠はまつたくない。日本の指導者が、タイとの協定によつて、日本軍がタイを平和的に通過してマレーに出られるようにしようと計画したことが証明されている。(E-997)この攻撃が迫つているという情報が漏れないように、マレーをまさに攻撃しようとする時機まで、そのような協定を結ぶために、かれらはタイと交渉することを望まなかつた。日本軍は一九四一年十二月七日(ワシントン時間)に、抵抗を受けずに、タイの領土を通過した。(E-998)この進軍の事情について、検察側が提出した唯一の証拠は、次の通りである。
(一)一九四一年十二月八日の午前十時と十一時(東京時間)の間に、日本の枢密院に対して、軍隊通過に関する協定が交渉されているという言明がなされたこと、(二)十二月八日の午後(東京時間)(ワシントン時間十二月七日)に、日本軍がタイに平和的進駐を開始したということと、タイが午後零時三十分に協定を締結し、この通過を容易にしたということとを日本の放送が発表したこと、(三)やはり検察側が提出したものであるが、以上のことと矛盾する言明、すなわち、十二月八日の朝三時五分(東京時間)に、日本軍はタイのシンゴラとバタニに上陸したということ。一九四一年十二月二十一日に、タイは日本と同盟條約を締結した。タイのための証人で、日本の行動を侵略行為として非難した者はなかつた。これらの事情から見て、日本側のタイへの進駐がタイ政府の希望に反したものであつたということについて、われわれは合理的な確実性をもつていない。被告がタイ王国に対して侵略戦争を開始し、遂行したという起訴事実は、証明されるに至つていない。
  訴因第三十一は、イギリス連邦に対して、侵略戦争が遂行されたと訴追している。一九四一年十二月八日正午(東京時間)ごろに発布された詔書には、『朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス』と述べてある。(E-999)イギリスの領土に対する攻撃のために作成された多数の計画を通じて、言葉の用い方に正確性を欠くところが非常に多い。このようなわけで『ブリテン』、『グレート・ブリテン』及び『イングランド』のような言葉が差別なしに用いられ、同じものを意味するために用いられているようである。この場合に、『ブリテイツシユ・エンパイア』という言葉で示されているものの実体については、少しの疑問もない。この実体の正確な名称は、『イギリス連邦』である。日本が『ブリテイツシユ・エンパイア』という言葉を用いることによつて、いつそう正確にいえば、『イギリス連邦』と呼ばれる実体を指していたことは、すでに述べた連合艦隊命令作第一号の用語を考えれば、明らかなことである。この命令には、一九四一年十二月八日(東京時間)であるX日の〇〇、〇〇時以後は戦争状態が存在すること、日本軍はそれから作戦を開始することを定めている。第一段作戦で、『南洋部隊』はオーストラリア方面の敵艦隊に備えなければならないと定めている。そのあとに、『作戦情況の許す限り速に占領又は破壊せんとする地域左の如し――(イ)ニユーギ二ア東部、ニユー・ブリテン』と定められていた。これらの地域は、国際連盟からの委任に基いて、オーストラリア連邦によつて統治されていた。破壊または占領されることになつていた地域には、『濠洲方面要地』を含むということも述べられている。さらに、『濠洲各要地』には、機雷が敷設されることになつていた。ところで、機密連合艦隊命令作第一号には、『グレート・ブリテン』という言葉が用いられているか、オーストラリア連邦をその一部であるとするのは正確でない。また、詔書には、『ブリテイツシユ・エンパイア』という言葉が用いられているが、オーストラリア連邦をその一部であるとすることも正確ではない。オーストラリア連邦は『イギリス連邦』の一部とするのが正当である。従つて、敵対行為の相手方となることになつており、宣戦布告の相手方であつた実体は、あきらかに、『イギリス連邦』であつた。(E-1000)そこで、訴因第三十一がイギリス連邦に対して侵略戦争が遂行されたと訴追しているのは、充分に根拠のあることである。
  起訴状の訴因第三十においては、フイリツピン共和国に対して、侵略戦争が遂行されたと訴追されている。フイリツピン諸島は、戦争の期間中は、完全な主権国ではなかつた。国際関係に関する限り、それはアメリカ合衆国の一部であつた。フイリツピン諸島の人民に対して、侵略戦争が逐行されたことは、疑問の余地のないところである。理論的正確を期するために、われわれは、フイリツピン諸島の人民に対する侵略を、アメリカ合衆国に対する侵略戦争の一部であると考えることにする。