極東国際軍事裁判所判決文
B部 第六章 ソビエツト連邦に対する日本の侵略

〈説明〉

 本資料は、極東国際軍事裁判所判決文におけるB部 第六章 ソビエツト連邦に対する日本の侵略を文字起ししたものである。原典は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている「極東国際軍事裁判所判決. 〔第1冊-第13冊〕 B部 第五-六章」である。掲載するにあたり旧漢字を新漢字に直した。
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〈見出し〉

ソビエツト連邦に対する日本の政策
日本の『生命線』満洲
『国防』
外交上の応酬
ソビエツト連邦に対する計画の継続
二・二六事件
一九三六年の国策の決定
ソビエツト連邦との戦争の予期と唱道
防共協定
三国同盟
満洲国境における日本の攻撃
日ソ中立条約
一九四一年六月のソビエツト連邦に対するドイツの攻撃
日本、ソビエツト連邦に対する攻撃を延期
大東亜共栄圏はシベリアの一部を合む
ソビエト連邦に対する戦争の計画と準備
ソビエツト連邦に対する基地としての満洲
陸軍省と参謀本部との間の申し合せ
モスコー駐在の陸軍武官、攻撃を主張
ソビエツト連邦に対する戦争計画
ソビエツト連邦に対する積極的戦争準備
ソビエツト占領地域の管理計画
ドイツのソビエツト連邦攻撃後における積極的戦争準備
謀略と妨害行為
中立条約
ソビエツト連邦に対するドイツの攻撃
ドイツに対する日本の一般的軍事援助
日本、ソビエツト連邦に関する軍事的情報をドイツに提供
ソビエツトの船舶に対する日本の妨害
一九三八年―三九年におけるソビエツト連邦に対する日本の攻撃作戦
ハサン湖地区における敵対行為
ノモンハン(ハルヒン・ゴール)の作戦行動
宥恕の防禦
蒙古が独立していなかつたとの防禦


極東国際軍事裁判所
判決
B部
第六章
ソビエツト連邦に対する日本の侵略
英文七七六―八四二頁
一九四八年十一月一日

(E-776)
ソビエツト連邦に対する日本の政策
日本の『生命線』満洲

  裁判所に提出された証拠に関係のある期間を通じて、ソビエツト連邦に対して戦争をしようという意思が、日本の軍事的政策の根本的要素の一つであつたことが示されている。アジア大陸の他の地域と同様に、軍閥はソビエツト連邦の極東の領土を日本に占領させることを決意していた。満洲(中国の東三省)の占領は、その天然資源のために、進出と植民に対する関心を引いたけれども、ソビエツト連邦に対する企図された戦争の発進地としても望ましかつた。満洲は日本の『生命線』と呼ばれるようになつたが、それは防禦の線というよりも、むしろ前進の線を意味していたことは明かである。
  ソビエツト連邦の極東の領土に侵入して、これを領有するという目的は、日本の軍事的野心を絶えず駆りたてる刺戟となつていたように思われる。日本の対外侵出の強い主張者であつた大川は、すでに一九二四年に、シベリアの攻略を指して日本の目標の一つであると呼んでいた。大川と意見がよく一致していた軍部も、これと同じ態度をとつていた。陸軍将校は、満洲は日本の『生命線』であり、ソビエツト連邦に対する一つの『防禦』として発展させなければならないという考えを提唱し始めた。(E-777)一九三〇年、関東軍の一参謀将校であつたときに、板垣は満洲に新しい国家を建設するために武力を用いることを主張した。大川に倣つて、かれはこれが『王道』の発展であり、アジア諸民族の解放をもたらすものであると主張した。一九三一年、モスコーの大使であつたときに、廣田は参謀本部に対する情報として、いつでも必要なときに、ソビエツト連邦と戦争する覚悟をもつて対ソ強硬政策をとる必要がある。しかし、目的は共産主義に対する防衛というよりも、むしろ極東シベリアの占領にあると提言した。
  一九三二年五月、齋藤内閣の成立とともに、満洲の冒険に関して、内閣の軍人閣僚と文官閣僚との間に起つていた軋轢について、ある程度の妥協が成立した。その結果として、内閣は満洲における陸軍の政策を受け容れ、日本の支配下にある地域を開発することに決定した。今や閣内の反対を受けなくなつた陸軍は、北方におけるソビエツト連邦との戦争を唱道し、それとともに、この戦争の準備にとりかかつた。一九三二年七月には、モスコー駐在の日本陸軍武官河邊は、ソビエツト連邦との戦争に対する準備の重要性を説き、この戦争は避けられないものであるといつた。かれは中国及びソビエツト連邦との戦争を当然の帰結であると見た。(E-778)一九三二年に、被告南は日本海を湖水化することを提唱したが、これによつて、かれは明らかに日本海に臨むソビエツト領極東の占領を意味したのである。一九三三年四月に、当時陸軍省軍務局にいた鈴木は、ソビエツト連邦のことを日本の絶対の敵であるといつた。かれの言葉によると、ソビエツト連邦は日本の国体を破壊することを目的としているからというのであつた。

『国防』

  ここで、荒木の『国防』という言葉に関する論議を述べることは、興味のあることである。荒木の指摘するところによれば、この言葉は、日本の具体的な防禦だけに限られず、皇道すなわち天皇の道の防禦をも含んでいる。これは、武力によつて隣接諸国を占領することは、『国防』として正当化することができるということを、別な言葉でいつたものにすぎない。このころに、すなわち一九三三年に、当時陸軍大臣であつた荒木は、『国防』について婉曲な言い廻しを捨てて、地方長官会議で、少くともソビエツト連邦に関しては、かれの意味したところを正確に語つた。『日本はソビエツト連邦との衝突を避けることはできない。従つて日本にとつて沿海州、ザバイカル、シベリアの領土を軍事的手段によつて確保する必要がある』とかれは述べたのである。荒木の『国防』の定義は、齋藤内閣によつて、満洲における政策の基本として採用された。すでに示されたように、日本の指導者は、かれらの侵略的な軍事的冒険を、それが防禦のためであるという主張によつて正当化しようと常に努めてきた。満洲が日本の『生命線』として開発されたのは、この意味においてであつた。

(E-779)
外交上の応酬

 ソビエツト連邦に対する日本の政策が攻勢的または侵略的なものであつて、守勢的でなかつたということは、一九三一年から一九三三年に至る期間の、外交上の応酬によつて示されている。この期間に、ソビエツト政府は日本政府に対して、不侵略中立条約を締結することを二回にわたつて正式に提案した。一九三一年に、日本の外務大臣芳澤と廣田大使に対してなされたソビエツト側の文書の中で、不侵略条約の締結は、『政府の平和を愛好する政策と意図との表現であり、また日ソ関係の将来が西ヨーロツパとアメリカとにおいて思惑の対象となつている現在、それは特に今が好時機であろう。条約の署名は此の思惑に終止符を打つことになる』と指摘された。日本政府は、この提案に対して、一年の間回答を与えなかつた。一九三二年九月十三日になつて初めて、駐日ソビエツト大使は、日本の外務大臣内田から、『・・・・この場合両国政府の間において本件に関し交渉を正式に開始することは時機にあらず』という理由で、この提案を拒絶した回答を受け取つた。
(E-780)
 一九三三年一月四日に、ソビエツト政府は、前回の提案は『一時的考慮によつて行われたものではない。その平和政策に由来するものであるから、将来にわたつても効力がある』ということを強調して、条約の締結に関する提案を繰返した。一九三三年五月に、日本政府は再びソビエツト連邦の提案を拒絶した。その当時に、日本政府は、それが極東におけるソビエツト連邦の平和政策の誠意のある表明であるという保証を受けていたにもかかわらず、日本がこの提案を拒絶したということを注意しておかなければならない。一九三三年四月に、外務省欧米局長であつた被告東郷によつて書かれた秘密の覚書の中で、『ソビエツト連邦が日本との不侵略条約を望む動機は、日本が満洲に進出して以来、その極東の領土に対して次第に脅威を感じ、この領土の安全を保障したいという希望にある』とかれは述べた。一九三三年十二月になると、関東軍は、日本が満洲をソビエツト連邦に対する攻撃の基地として用いる日のために、計画と準備を行つていた。

ソビエツト連邦に対する計画の継続

  廣田は日本の意図が侵略的であつたということを否定したのであるが、一九三四年に就任した岡田内閣は、一九三五年に、満洲における陸軍の経済計画に支持を与えた。一九三五年十一月に、当時スカンデイナヴイア諸国の公使であつた白鳥は、ベルギーの大使有田に書簡を送つて、次のように指摘した。(E-781)『蘇露現下の実力は、単に数字上より之を観れば頗る偉大なるが如くなるも、革命尚ほ日浅く、国内不平分子は所在に充満し、器材物資人的要素に於て未だ欠如する所多く、一度大国と兵火相見えんか、忽ち内部崩壊を来すべきは、略々明瞭なり。実情を熟知するものの意見一致する所にして、今日の蘇露に取り最も望ましきは、対外関係の無事平穏ならん事に在り。随つて、蘇露と境を接する諸国にして早晩清算を要すべき案件を要する者は、今日の時季を空過すべきに非ず』と。かれの提言したことは、ソビエツトに対して、『断固として』、また譲歩させる『最小限』のこととして、『ウラジオストツクの軍備を撤廃すること』、その他、『バイカル湖地方に一兵も駐めざる・・・・』ことを要求しなければならないということである。ソビエツト連邦との間の日本の問題の根本的な解決策として、『・・・・ロシアの脅威を永久に除去するがためには、彼をして無力な資本主義共和国ならしめ、その天然富源を著しく制限するを要す・・・・今日ならば未だその見込十分なり』と白鳥は提言した。

二・二六事件

  一九三六年二月二十六日に、東京で陸軍の叛乱によつて引き起された岡田内閣の瓦壊について、われわれはすでに論じた。陸軍の非難は、この内閣の態度が充分に強硬でないということにあつた。(E-782)二月二十七日に、すなわちこの事件の翌日に、厦門の日本の領事館は、この叛乱の目的は、当時の内閣を軍部内閣に置き換えることであり、軍部の青年将校は、日本がアジアの唯一の強国となるために中国の全土を占領し、ソビエツト連邦に対して即座に戦争するための準備をさせる意思であると説明した。

一九三六年の国策の決定

  一九三六年八月に、今や総理大臣となつた廣田は、外務、陸軍、海軍、大蔵の各大臣とともに、日本の国策について、一つの決定を行つた。これは重要な、意義の深い文書であつて、他のこととともに、『外交国防相俟つて東亜大陸に於ける帝国(日本)の地歩を確保すると共に南方海洋に進出発展する』ことを目的としたものであつた。『国防』という言葉が持ち出されたことは、意義の深いことである。実際上の措置の一つとして、日本は『満洲国の健全な発展と日満国防の安固を期し、北方ソ国の脅威を除去することに努むるもの』とされていた。この決定は、軍事力の程度は、『ソ国の極東に使用し得る兵力に対抗する』ために必要な程度のものとすることを定めた。日本が『ソ国の兵力に対し開戦初頭一撃を加え』ることができるように、朝鮮と満洲における軍事力の充実に特別の注意が払われることになつていた。(E-783)この政策の決定から必要となる広汎な戦争準備を行うにあたつて、軍備の拡充は、ソビエツト連邦がその東部国境に沿つて展開することのできる最も強い兵力に対して、殲滅的な打撃を与えるに充分な強さの戦闘力をつくり上げるまで行かなければならないと決定された。当時の状況に照して、日本の国策のこの決定を検討すれば、ソビエツト連邦の領土の一部に対して、占領の目的で攻撃する意思があつたことがわかる。そればかりでなく、この目的は、防禦的であるという口実に隠れて、その準備を行い、実行されることになつていた。
  一九三六年八月の国策決定の結果として、陸軍によつてつくられた一九三七年の諸計画は、明らかにソビエツト連邦との戦争を予期することによつて必要になつたものである。一九三七年五月に出された重要産業に対する計画は、『東亜指導の実力を確立すべき飛躍的発展』をかち得るためであつた。同じ目的で、一九三七年六月に出された計画は、『万難を排して達成され』ることになつていた日本の運命の『飛躍的発展に備ふるため』に、一九四一年までに自給自足の体制が達成されなければならないということを定めた。戦争資材に関する計画は、同じ目的に向けられたもので、日本の経済は『軍政により事務の処理を統合帰一することによつて合理的に発展させる』と定めた。平時体制から戦時体制に、急速に移行するための準備に注意が払われることになつていた。
(E-784)
  陸軍によるこの計画は、中国における戦争が蘆溝橋で継続されるすぐ前になされたものであるけれども、この戦争だけを目標としたものではなかつた。岡田は、本裁判所に対して、これらの計画はソビエツトの五カ年計画に対応するものであり、ソビエツト連邦に対する日本の国力を維持する目的をもつていたと陳述した。重要産業と、戦争資材の生産に比較的に直接の関係のある産業とに対する諸計画を検討すれば、一見して、それらの計画が、『国防力』を確保するためであつたことがわかる。さきに述べたように、『国防』とは、日本の軍国主義者にとつて、武力によるアジア大陸への進出を意味した。ここでいま論じている諸計画は、この進出を達成しようとする陸軍の意図を啓示した。
  これらの計画が攻勢的な計画であつて、防衛的なものではなく、ソビエツト連邦を目標としていたことは明らかである。一九三二年のモスコー駐在陸軍武官の所見と、一九三三年に同様な趣旨を述べた鈴木の所見とに、われわれはすでに言及した。華北における政治的な工作は、『反共』という標語に基いていた。一九三六年八月の国策の決定は、日本の軍事力の拡充の尺度として、ソビエツト連邦の軍事力を明確に指摘していた。そして、一九三七年の陸軍の諸計画が出されたちようどそのときに、中国の事態とソビエツト連邦に対する軍備の状態とを考慮すれば、ソビエツト連邦に対して行動を起す前に、関東軍の背後に対する脅威を除くために、中国を攻撃することが望ましいという東條の意見具申があつた。(E-785)ある新聞記事の中で、日本の軍備の主柱としてばかりでなく、ソビエツト連邦に対して使用するためにも、空軍を拡充すべきことを橋本が説いたのも、このときであつた。すなわち、一九三七年七月である。

ソビエツト連邦との戦争の予期と唱道

  すでにわれわれが述べたように、一九三八年において、日本の報道機関が陸軍によつて有效に統制されていたときに、当時の文部大臣荒木は、大阪の経済研究会の会合で、『中国及びソ連と最後迄戦ふといふ日本の決心は十年以上もそれを継続するのに十分である』と述べたと新聞に報道された。
  一九三八年に、関東軍司令官植田大将も、華北の事態を論じて、『緊迫せる対ソ戦』に言及した。最後に、一般的に陸軍が、特に参謀本部が、急いで中国における戦争を終らせようとしたのは、疑いもなく、陸軍がソビエツト連邦に対して意図していた戦争が切迫していたので、ぜひともそれが必要だつたからである。

防共協定

  一九三〇年代の中頃から、ヨーロツパのおもな侵略的な勢力として現われてきたドイツとの関係は、ソビエツト連邦に対する戦争を企てるという日本の目的にかんがみて、日本にとつて特に重要なものであつた。
(E-786)
  被告大島は、早くも一九三四年三月、陸軍武官としてドイツに派遣されていたときに、参謀本部から独ソ関係を注視し、ソビエツト連邦との戦争の場合には、ドイツがどんな行動に出るであろうかを見きわめるように命令されていた。
  一九三五年の春に、大島とリツベントロツプとは、日独同盟のための討議を始めた。一九三五年十二月初旬から、日本の参謀本部からその目的のために特に派遣された若松中佐が、この討議に加わつた。
  計画されていた協定は、一般的な政治的目的を有し、その調印は陸軍の管轄外のことであつたから、この問題は政府にその考慮を求めるために提出された。そして、一九三六年から、日本大使武者小路が交渉の任にあたつた。
  一九三六年十一月二十五日に、いわゆる『防共協定』が日本とドイツによつて調印された。この協定は、条約の本文と一つの秘密協定から成り立つていた。条約の本文だけが世間に発表された。それには、締約国は共産インターナシヨナルの活動について相互に通報すること、必要な防衛措置について協議すること、緊密な協力によつて右の措置をとること、第三国に対して、この協定に従つて防衛措置をとるか、この協定に参加することを共同に勧誘することが述べてあつた。
  秘密協定は、協定自体の中で規定しているように、秘密にしておくことになつていた。実際において、それは侵略国によつて発表されたことはまつたくなく、押収された秘密文書によつて初めて連合国に知られるようになつた。(E-787)新聞に発表された声明書の中で、日本の外務省は、この協定に附属する秘密条項の存在を否定し、この協定は、共産インターナシヨナルそのものに対する闘争において、二国の間で特殊な協力を行うことを表示すること、日本政府は、国際ブロツクの形成を考慮していないこと、『この協定はソビエツト連邦またはいずれの他の特定国をも目標としたものではない』ことを宣言した。
  協定の目的は、日本とドイツの間に、ソビエツト連邦を対象とした制限的な軍事上と政治上の同盟を成立させることであつた。元合衆国国務長官コーデル・ハルは、『この協定は、表面上は共産主義に対する自己防衛であつたが、実際はその後の匪賊国家による武力的対外進出の手段のための準備工作であつた』と指摘した。独自の立場から到達されたところの、われわれの見解もこれと同じである。
  この協定は、主としてソビエツト連邦を対象としたものであつた。秘密協定は、ソビエツト連邦に対して、ドイツと日本の間に、制限的な軍事上と政治上の同盟を成立させた。両当事国は、相互の同意なしに、この協定の精神に反するような政治的協定をソビエツト連邦との間に締結しないことを約束した。
  一年の後、一九三七年十一月六日に、イタリアが防共協定に参加した。
  この取極めは、形式的には、ドイツと日本のどちらかに対して、ソビエツト連邦が挑発されない攻撃を加えた場合にだけ、両国の間に相互的な義務の生ずることを規定し、その義務を、このような場合に、ソビエツト連邦に対して援助を与えないということだけに限つた。(E-788)事実において、このときに、ドイツまたは日本に対して、ソビエツト連邦が侵略的意図を持つていたという証拠はまつたくない。従つて、ソビエツト連邦によつて挑発なしに攻撃を受けるという万一の場合に備えて、この協定を締結したことは、まつたく正当な理由がなかつたと認められるであろう。この協定が真に防禦的でなかつたことは、秘密協定による当事国の約束が広く解釈されたことによつて示される。このような解釈は、すでに最初から、ドイツと日本によつて、これらの約束に与えられていた。このようにして、一九三六年十月に、リツベントロツプの了解と同意のもとに、ドイツ駐在の日本大使武者小路が送つた電報の中で、外務大臣有田に対して、『上述の秘密協定の精神のみがソビエツト連邦に対するドイツの将来の政策に決定的なものとなるという確信』をもつていたということを武者小路は報告した。外務大臣有田は、平沼を議長として防共協定を可決した一九三六年十一月二十五日の枢密院会議で、同様の趣旨を述べた。この協定のおもな趣旨は、『今後においては、ソ国は日独双方を敵とせざるべからざることを考』えなければならない点にあることを有田は強調した。ソビエツト連邦に対するドイツと日本との同盟の性質が防禦的でなかつたということは、一九三九年八月二十三日にドイツがロシアと不侵略条約を締結したことを、日本の指導者が防共協定に基く約束を明らかにドイツが破つたものと見做したという事実によつても示されている。(E-789)ドイツ外務大臣に伝達されるように、ベルリンの日本大使にあてた一九三九年八月二十六日附の書簡の中で、『日本政府は、ドイツ政府とソビエツト社会主義共和国政府との間に最近締結された不可侵並に協議条約を、国際共産党に反対する協定の附加的秘密協定に矛盾するものと見做している』ということが指摘された。
  防共協定のおもな目的は、ソビエツト連邦の包囲であつた。このことは、この協定の起草者の一人であつたリツベントロツプが次のように述べたときに、かれが部分的に容認したところである。『勿論ロシアに対する政治的意義もあるにはあつた。それは多少協定の背景をなしていた。』
  防共協定は最初に五カ年間効力があると規定されていたが、その防共協定が一九四一年十一月二十五日に満了し、かつ延長されたときに、秘密協定は更新されなかつた。今やその必要はなかつたのである。秘密協定の約束は、この延長に先だつて締結された三国同盟の中に包含されていた。
  その後の数年間、防共協定は、ソビエツト連邦に対する日本の政策の基本として用いられた。ドイツとのこの軍事同盟は、ソビエツト連邦に対する日本の政策と準備との上に、重要な役割を演じた。一九三九年五月四日附でヒツトラーに送つた声明書の中で、総理大臣平沼は、『・・・・我々両国間に確立している防共協定が、両国に課せられたる使命の遂行に当り如何に有利であるかを確認する事は私にとり喜びであります』と明確に指摘した。

(E-790)
三国同盟

  大陸において利慾的な諸計画を実現しようとする日本の希望は、ドイツと一層密接な連繋を得ようという政策を促進した。
  一九四〇年九月二十七日の三国同盟の成立をめぐる経緯は、すでに本判決の初めの部分で、充分に論じておいた。われわれは、ここでは簡単にそれに言及することに止めようと思う。この同盟の適用は、ソビエツト連邦だけに限られるものではなかつたけれども、日本が特に交渉の初期において関心を持つていたのは、ソビエツト連邦であつた。これらの交渉は、一九三八年の中ごろには、すでに始められていた。ドイツはヨーロツパで広汎な侵略計画に没頭し、すべての仮想敵国に対する軍事同盟を求めていたので、その交渉は一年半以上も実を結ばなかつた。他方で、日本の方では、三国同盟は、ソビエツト連邦だけではないにしても、主としてこれを対象とした防共協定の発展したものであるように望んだ。この期間の初めの頃の彼の手記の中で近衛公爵は次のように云つている『此時の同盟の対象はソ連であつて、当時巳に存在せる三国防共協定を軍事同盟に変えるものとして計画せられたものである。』
  この交渉に参加した者のうちで、最も積極的な一人であつた被告大島は、一九三八年六月に、かれが日本の参謀本部の主任課から受取つた訓令には、ソビエツト連邦を対象とするドイツと日本の協力を促進することを定めてあつたと証言した。
一九三九年四月に、リツベントロツプは、東京のドイツ大使あての電報の中で、日本は『本条約が署名され、公表された後に、イギリス、フランス及びアメリカの各大使に対して、概略次のような内容の宣言をすることができるように、われわれのはつきりした賛意を要求した。すなわち、本条約は防共協定から発展したこと、同盟国はロシアを敵と見ていること、イギリス、フランス及びアメリカは、かれらが本条約の対象であると思う必要はないことである。』
(E-791)
 その三国同盟自体には、ソビエツト連邦を目標としたということは、特に挙げられてはいないけれども、このことは、一九四〇年九月にこの同盟が調印されたときに、疑いもなく、日本陸軍の念頭にあつた。第五条の『本同盟ノ前記諸条項ガ締約国ノ各々ト「ソビエツト」連邦トノ間ニ現存スル政治的状態ニ何等ノ影響ヲモ及ボサザルモノ』という留保は、真意を示したものではない。ベルリンの日本大使来栖は、一九四〇年九月二十六日の東京あての電報の中で、『ドイツ政府は、ドイツ新聞を指導して、本条約はロシアとの戦争を予期しているという趣旨ではないことを特に強調させる意向であるが、他方ドイツは、ロシアを牽制するために東部地域に軍隊を集結している』と述べた。
(E-792)
  外務大臣松岡もまた、一九四〇年九月二十六日の枢密院審査委員会で、この協定の第五条に言及して、『不可侵条約ありとも、独ソ戦ふ時は、日本はドイツを援助し、日ソ戦ふ時はドイツは日本を援助す。現存とは、ソの現状は変更出来ぬかと云ふと、然らずして、此の条約では変へないとの意なり・・・・』と述べた。この同盟について、右と同じ解釈が、その発案者であるリツベンドロツプによつて与えられた。『・・・・これは一石二鳥の手である。ロシアに対してとアメリカに対して』とかれはいつたのである。
  一九四一年六月二十二日に、すなわち三国同盟が締結されてから一年足らずのうちに、ドイツはソビエツト連邦に侵入した。追つて論ずることにするが、ソビエツト連邦との中立条約にもかかわらず、日本はドイツに援助を与えた。もつとも、ソビエツト連邦に対する公然たる戦争は差控えた。

満洲国境における日本の攻撃

  一九三八年および一九三九年に日本が満洲の国境を越えて、東はハサン湖、西はノモンハンで攻勢作戦を開始した。これらのことは、追つて一層詳しく論ずることにする。

日ソ中立条約

  一九四一年四月十三日に、ソビエツト連邦と日本は中立条約を締結した。この問題は、後に論じた方がもつと便利であろう。しかし、これから言及しようとする事項について、日本がこの条約を無視したから、右の時期にこの条約が締結されたということをここに述べておくのである。

(E-793)
一九四一年六月のソビエツト連邦に対するドイツの攻撃

 一九四一年六月に、ドイツがソビエツト連邦を攻撃した後、極東におけるソビエツト領土を占拠せよという主張が根強く続けられた。ドイツによるこの攻撃は、ソビエツト連邦に対する日本の利慾的な政策を、確かに刺戟した。日本の為政者は、ソビエツト連邦に対するドイツの勝利を必然であり、かつ目前にさし迫つていると見做し、日本がソヒエツト連邦に対する侵略的な計画を実行に移すために、これを好機であると考えた。
ソ連に対するドイツの攻撃が最初は成功したので、日本の軍国主義者の間に、初めのうちは、ソビエツト連邦に対する攻撃を早めようとする傾向があつた。ドイツ大使オツトは、一九四一年六月二十二日、すなわちドイツがソビエツト連邦を攻撃した日の電報で、松岡との会談について報告し、その中で、『かれ(松岡)は、従来と同じく、日本は結局この衝突に中立を保ち得ないという意見である。・・・・会談の終りごろ、松岡は大島からいま一つの電報を受取つた。それによれば、ドイツ外務大臣は、ロシアが極東から撤兵したとの説に対して注意を喚起していた。松岡は、直ちに適当な対策を提案しようとみずから進んで言明した』と指摘した。
(E-794)
  日本には、攻撃の軍事的準備が遅れるのではないかという心配さえあつた。このような考えは、外務大臣豊田からワシントンの日本大使に送られた一九四一年七月三十一日附の電報(第四三三号)に現われていた。いわく、『もとより独ソ戦争は、わが方に北方問題解決の絶好の機会を与え、またわが方としては、この機に乗ずる準備を進めていることは事実である・・・・もし独ソ戦争の進み方があまりに速いと、帝国としては必然的に、何等の有効な一致の行動をとる余裕がなくなるであろう』と。
  一九四一年七月二日の軍部と政治指導者との秘密御前会議は、『独ソ戦に対しては、三国枢軸の精神を基調とするも、暫くこれに介入することなく、密かに対ソ武力的準備を整え、自主的に対処す。この間、周密なる用意をもつて外交交渉を行う。独ソ戦争の推移帝国のため有利に進展せば、武力を行使して北方問題を解決し、北辺の安定を確保す』と決定した。
  この決定は、ソビエツト連邦との中立条約にもかかわらず、日本がソ連に対する共同謀議に参加しなければならないと考えたか、または自己に有利な好機を窺つていたかのいずれかを示唆するものである。いずれにして、日本はそのソビエツト連邦に対する攻撃の時機を、ソビエツトとドイツとの戦争における最も都合のよい瞬間とするつもりであつた。
(E-795)
  この会議の決定の後に、準備が強化されたことは、ドイツ大使オツトが東京からベルリンにあてたところの、一九四一年七月三日の電報によつて示されている。独ソ戦争の発生とともに、駐日ソビエツト連邦大使スメタニンは松岡と会見し、この戦争に対する日本の態度に関する根本的な問題について尋ねた。スメタニンは、松岡に向つて、一九四一年四月十三日のソビエツト連邦と日本との間の中立条約に従つて、ソビエツト連邦と同様に、日本が中立を維持するか否かを尋ねた。松岡はこの質問に対する卒直な回答を避け、この問題に対するかれの態度は、ヨーロッパから帰朝した際にかれがなした声明の中で、(同年四月二十二日に)すでに表明されていると述べた。それと同時に、三国同盟が日本の対外政策の基礎であり、もしこんどの戦争と中立条約とが、この基礎及び三国同盟と矛盾するようなことがあるならば、中立条約は『効力を失うであろう』とかれは強詞した。オツトはこの会談のことを知つて、これについて七月三日の電報で、次のように報告した。『松岡は、ソビエツト大使に対する日本の言明の用語は、軍備がまだ不完全であるので、ロシア側を欺くか、または少くともロシア側に確実なことをわからせないでおくことが必要であつたからである、と言つた。現在、スメタニンは、われわれに伝達された政府の決定が暗示するように、ソビエツト連邦に対する準備が迅速になされていることに感づいていない』と。
(E-796)
  このときに、日本ができるだけ早くソビエツト連邦を攻撃するように、ドイツは力説していた。東京のドイツ大使にあてた一九四一年七月十日の電報で、リツベントロツプは、『なお、貴官は、松岡あての予の伝言に基き、貴官の手中にある一切の手段を用いて、日本ができる限り速やかにロシアに対して参戦するように努められたい。何となれば、この参戦の実現は早いほどよいからである。従来と同じく、ドイツと日本とが、冬になる前にシベリア鉄道上で相会するようにすることが当然の目標でなければならない。ロシアの崩壊と同時に、世界における三国同盟国の地位は絶大なものとなるであろうから、イギリスの崩壊の問題、すなわちブリテン諸島の完全な滅亡は、ただ時の問題にすぎなくなるであろう』と述べた。
  少くとも日本の外務省は、日本のソビエツト連邦に対する戦争の計画の実行が間近に迫つていると考えたので、戦争を挑発する適当な手段を見つけることを話し合うほどであつた。一九四一年八月一日のかれの電報で、オツトは次のように報告した。外務次官事務取扱であつた書記官山本との会談の中で、『ソビエツト政府に要求を提出することによつて、日本は積極的な進出を開始するつもりであるかと、これを予想しているように尋ねたときに、外務次官は、その方法は、中立協定にもかかわらず、口シアの日本攻撃に対する防衛の口実を見出す最上の方法であるといつた。かれ個人としては、ソビエツト政府がとうてい受諾できないほど峻厳な要求を考えているが、これによつて、かれは領土の割譲を念頭に置いているように思われた』。
(E-797)
  ドイツのソビエツト連邦に対する当初の作戦が失敗したことは、日本に自身の攻勢的計画を遅延させた。ソビエツトとドイツとの闘いの状況は警戒を要した。八月の初めに、ドイツ陸軍の進撃の速度が遅くなつたときに、大島はリツベントロツプにその理由を尋ねた。リツベントロツプはカイテルに尋ねるようにといつた。カイテルは、ドイツ陸軍の前進が遅れたのは、兵站線があまりにも長くなつたので、後方部隊が次第に遅れているためであること、その結果として、前進が計画より約三週間遅れていることを説明した。
  ソビエツトとドイツとの戦争の成り行きは、日本の当面の政策には、引き続いて影響を与えたが、その長期政策には、影響を与えなかつた。オツトは、一九四一年九月四日に、ベルリンあての電報で、『ロシア軍がドイツ軍のような軍隊に対してなしている抵抗にかんがみ、日本参謀本部は、冬が来るまでにロシアに対して決定的な成功を収め得る自信がない。さらに、おそらく参謀本部は、まだ生々しいノモンハンの記憶、特に関東軍の記憶に支配されているのであらう。』これにかんがみて、『・・・・大本営は、最近ソビエツト連邦に対する行動を延期する決定に到達した。』
  オツトは、一九四一年十月四日の電報で、リツベントロツプに対して、『依然として戦闘態勢にあると考えられている極東軍に対して、日本が戦争を行うことは、来春までは実現できない・・・・。(E-798)ソビエツト連邦がドイツに対して示した頑強さは、日本による攻撃が八月か九月に行われたとしても、本年はシベリア経由の路を開くことはできそうもないことを示している』と報告した。
  日本はソビエツト連邦に対する即時攻撃を延期したが、この攻撃を依然としてその政策のおもな目的の一つと見做し、攻撃のための決意もゆるめなければ、準備もゆるめなかつた。日本の外務大臣は、一九四一年八月十五日に、イタリア及びドイツの大使と秘密の会談を行い、日ソ中立条約と、日本は戦争に参加しないであろうというロシアの推定とに言及して、『今日帝国が進めつつある軍事的な対外進出にかんがみ、現在の状況においては、ソビエツトに関して、ドイツ政府とともに企てられる将来の計画を遂行するための第一歩として、前述のソビエツトとの取極めが最良の措置であると私は考える』といい、また『これは単に一時的の取決め、言いかえれば、準備が完成するまでソビエツトを牽制する性質を帯びるものである』といつた。
  多分日本の外務大臣から日本大使にあてられたところの、一九四一年十一月三十日の東京からベルリンあての傍受された電報において、日本大使はヒツトラーとリツベントロツプに会見するように訓令された。(E-799)この電報は、『現在のわが方の南方への行動は、ソビエツトに対するわれわれの圧迫を緩和することを意味せず・・・・しかしながら現在、われわれは南方を圧迫することが有利であり、当分は北方に直接行動を起すことをむしろ避けたいと伝えられたい』と訓令したのであつた。
  しかし、日本の指導者は、その欲望と企図とを捨てなかつた。一九四一年八月に、荒木は大政翼賛会の事務総長に対して、『次にシベリア出兵だが・・・・今日、日本の大陸支配の抱負はシベリア出兵の際に萌していたと言い得るのである』と述べたと新聞に報ぜられた。これと同じ思想は、東條が総理大臣になつた後、一九四二年に、かれによつて敷衍された。かれがドイツ大使オツトと会談した際に、日本はロシアの不具戴天の敵であること、ウラジオストツクは日本にとつて絶えず側面からの脅威となつていること、この戦争(すなわちドイツとソビエツト連邦との間の戦争)の間に、この危険を除くための機会があることを述べた。最も精鋭な軍隊を有する立派な関東軍があるから、これを行うことは困難でないとかれは自慢した。

日本、ソビエツト連邦に対する攻撃を延期

  リツベントロツプは、一九四二年五月十五日に、東京あての電報で、日本が『できるだけ早くウラジオストツクを攻撃する決定に達する』ようにという希望を表明した。(E-800)かれは続けて、『これはすべて日本がこの種の作戦ができるほどに強大であり、イギリスとアメリカに対する立場、たとえばビルマにおける立場を弱めることになるように、他の兵力を割く必要がなかろうという前提の上に立つての話である。もし日本がかような作戦を企てて成功するに必要な兵力を欠いているならば、そのときは、当然日本はソビエツト・ロシアと中立関係を維持する方がよい。どんな場合にも、日本とロシアの衝突を予期して、ロシアは東部シベリアに兵力を維持しなければならないから、これもまたわれわれの負担を軽くすることになる』と述べた。
  一九四二年の末期に、ソビエツトとドイツとの戦況にかんがみ、日本がソビエツト連邦に対して戦争に入るようにとのドイツの希望は一層強くなつた。一九四三年三月六日のリツベント口ツプとの会談において、大島は次のように述べた。『ロシアを攻撃するというドイツ政府の提議は、日本の政府と大本営との連絡会議で問題になつた。この会議で、この問題は詳細に協議され、極めて徹底的に検討された。その結果は次の通りであつた。』
  『日本政府はロシアから迫つて来る危険を充分に認めており、また日本もロシアに対して参戦するようにという盟邦ドイツの希望を完全に了解している。しかし、日本の現在の戦局にかんがみ、日本政府は参戦することはできない。むしろロシアに対して今開戦しない方が双方の利益であると確信する。他方日本政府は、ロシア問題を決して等閑に付することはないであろう。』(E-801)
  この決定を説明するにあたつて、大島は次のようにいつた。自分は『長い間、日本がロシアに敵対する意図をもつていたことを知つている。しかし、明らかに、目下日本はそれができるほど強力ではないと感じている。全兵力を北方に移動するために、南方戦線を後退させ、若干の島を敵に渡したならば、これはできるかもしれない。これは、しかしながら、南方における重大な敗北を意味することになる。南方への前進と同時に、北方への前進をするということは、日本にとつては不可能なことである。』

大東亜共栄圏はシベリアの一部を合む

  東亜における日本の覇権ということの婉曲な言葉として、大東亜共栄圏という考えがつくり出されたときに、シベリアと極東ソビエツト領がこれに含まれることになつたのは、避けがたいことであつた。これは前からの目的と計画の当然の結果であつた。
  一九四一年の終りから一九四二年の初めにかけて、すなわちアメリカ合衆国とイギリスに対する戦争が勃発してから間もなく、日本の陸軍省と拓務省によつて作成された『大東亜共栄圏における土地処分案』において、極東ソビエツト領の領土の占領は既定のことであると考えられ、問題はただどの部分を占領するかということだけであつた。(E-802)この案の中の『ソビエツト領の将来』という見出しの一項に、『本件は日独協定によりこれが解決をなすべきをもつて、今決定しがたしといえども』、いずれにしても、『沿海州は帝国領土に加え、満洲帝国の接壌地方はその勢力圏内に収め、シベリア鉄道は日独両国の完全なる管理となし、その分界点をオムスクとなす』と指示してあつた。
  被告橋本は、『大東亜皇化圏』と題する一九四一年一月五日の論説で、大東亜皇化圏に含まれるべき各国を挙げた際に、中国、仏印、ビルマ、マレー、オランダ領インド、インドなどとともに、極東ソビエツト領を挙げている。かれは続けて、『これらの地域を一挙に皇化圏に編入すべきやは、今のところ決定し得ざるも、少くとも国防的に、これら諸邦をわが勢力圏内に包含せしむるの処置は絶対に必要とする』といつた。
(E-803)
  著名な日本の政治家と軍部指導者(東郷、賀屋、武藤及び佐藤を含めて)が会員であり、政府の政策の立案にではないにしても、少くともその促進に重要な役割を演じたと推定される『国策研究会』は、一九四三年五月に公表した『大東亜共栄圏建設対策案』において、『・・・・大東亜共栄圏の合理的範園』は、他の構成地域とともに、『バイカル湖を含む東方ソ連一帯・・・・及び外蒙の全部を含む』と予想した。同様な日本の熱望は、一九四〇年十月一日の勅令によつて設立され、総理大臣に対して直接責任を負つていた総力戦研究所の研究の中に見受けられる。このようにして、一九四二年一月に同研究所によつて立案された大東亜共栄圏設立原案は、日本によつて連結される各国の『中核圏』は、満洲と華北のほかに、ソビエツト連邦の沿海州をも含むこと、またいわゆる『小共栄圏』は、中国の残部と仏印とのほかに、東部シベリアをも合むことになつていた。
  本裁判所は、ソビエツト連邦に対する侵略戦争は、本裁判所が審理している全期間を通じて企図され、計画されていたこと、この侵略戦争は日本の国策の主要な要素の一つであつたこと、その目的は極東におけるソビエツト連邦領土を占領することであつたという見解をもつものである。

(E-804)
ソビエト連邦に対する戦争の計画と準備
ソビエツト連邦に対する基地としての満洲

 日本のソビエツト連邦に対する好戦的政策は、日本の戦争計画に示されていた。ここで考察している期間の初めから、日本の参謀本部の戦争計画は、その第一歩として満洲の占領を企図していた。日本の戦争計画では、満洲の占領は中国の征服の一段階としてだけでなく、ソビエツト連邦に対する攻勢的軍事行動の基地を確保する手段として考えられていた。
 当時参謀本部の将校であつた河邊虎四郎の証言によれば、一九三〇年に、被告畑が参謀本部の第一部長であつたとき、ソビエツト連邦に対する戦争計画が立案されたが、それはソ満国境でソビエツト連邦に対する軍事行動を起すことを企図していた。これは日本が満洲を占領する前のことであつた。
 被告南と松井も、本裁判所で、ソビエツト連邦との戦争の場合には、満洲は日本にとつて軍事基地として必要であると考えられていたということを確認した。
 一九三一年三月十六日に、ソビエツト連邦に対する『乙』作戦、中国に対する『丙』作戦に基く作戦の目的で、畑は鈴木という一大佐に対して、北満と北鮮の方面の視察旅行を命じた。(E-805)旅行の結果について、この将校が提出した機密報告の中には、ソビエツト沿海州の占領を目標としていた『乙』作戦に関する詳しい情報が述べてあつた。
 一九三一年の満洲の占領は、極東ソビエツト領の全部を占領する目的で、広大な戦線にわたつて、ソビエツト連邦に攻撃を加えるための基地を与えた。ソビエツト連邦駐在の日本陸軍武官笠原幸雄は、一九三一年の春に、参謀本部に機密報告を提出して、ソビエツト連邦との戦争を主張し、その目標を定めているが、その中で次のように述べた。『少くともバイカル湖までは進出を要すべく・・・・バイカル湖の線に停止する場合は、帝国は、占領せる極東州は帝国の領土と見做す覚悟と準備とを要すべし』と。笠原証人は、その反対訊問に際して、この文書の信憑性を認め、かれは参謀本部に対して、ソビエツト連邦に対する戦争の速やかな開始と、いつでも戦争準備ができているように、軍備の増強を提案したと証言した。一九三二年の春に、笠原は参謀本部に転任を命じられ、そこで第二部口シア班長の職に就いた。笠原は、一九三二年七月十五日に、すなわち右の任命の間もなく、神田中佐を通じて、当時モスコー駐在の陸軍武官であつた河邊虎四郎に、次のような参謀本部の重要な決定について通報した。『・・・・(陸海軍の)準備完成せり。満洲を固めるために、日本は対露戦争を必要とす』と。(E-806)笠原証人は、反対訊問で、参謀本部では、『一九三四年までに戦争の準備をなすことについて、課班長の間の申し合せがあつた』と説明した。
  右の決定が行われたときに、被告梅津は参謀本部の総務部長であり、東條と大島はそれぞれ参謀本部の課長であり、また武藤は第二部の部員であつた。

陸軍省と参謀本部との間の申し合せ

  一九三二年の夏に、陸軍省の課長は参謀本部の課長と、これらの準備について申し合せをした。これは明らかに陸軍省の上官の許可と承認がなくてはできないはずであつた。被告荒木は当時陸軍大臣、被告小磯は陸軍次官、被告鈴木は陸軍省軍務局員であつた。すでに指摘したように、荒木と鈴木は、一九三三年に、沿海州、ザバイカル、シベリアの諸地方を武力をもつて占領する意図を公然と表明した。

モスコー駐在の陸軍武官、攻撃を主張

  一九三二年七月十四日に、河邊はモスコー駐在陸軍武官として参謀本部に報告を送り、その中で、『将来における日ソ戦争は不可避なり』、この理由からして、『戦備充実の重点は、ソ連邦に指向するを要す』と述べた。(E-807)さらに、『ソ連邦より提議しある不侵略条約の締結に対しては、不即不離の関係に置き、もつて帝国の行動に自由を保留するを要す』ということもかれは力説した。これは、疑いもなく、すでに述べた中立条約に関する口シアの提議に言及したものである。

ソビエツト連邦に対する戦争計画

  一九三一年における満洲の占領と同様に、一九三七年における中国の他の地域に対する侵略においても、いつかはソビエツト連邦と戦争することになるということが、常に念頭に置かれていた。戦略はソビエツト連邦に対する攻撃の準備に向けられていた。このことは、一九三七年六月に、当時関東軍参謀長であつた被告東條によつて指摘された。すなわち、中国に対する攻撃を開始する直前に、陸軍次官梅津と参謀本部とに宛てた電報の中で、かれは次のように述べたのである。『現下支那の情勢を対ソ作戦準備の見地より観察せば、我が武力之を許さば、先づ南京政権に対し一撃を加へ、我が背後の脅威を除去すべきものと信ず』と。同様に、一九三一年の満洲占領の際にも、また一九三七年の中国の他の地域に対する侵略の際にも、中国とソビエツト連邦とに対する日本の戦争計画は、参謀本部、日本陸軍省及び関東軍司令部によつて統合されてた。
(E-808)
  被告武藤は、本裁判所で、かれが参謀本部の第一課長であつたときに、一九三八年度の計画の研究をしたことを認めた。日本の参謀本部の一九三九年度と一九四一年度の戦争計画は、ソビエツト領土の占領を目標としていた。一九三九年度の戦争計画は、攻勢に出るために、日本の主力を東部満洲に集結することを基礎としていた。関東軍はウオ口シロフ、ウラジオストツク、イマン、それからハバロフスク、ブラゴエシチエンスク、クイブイシエフカのソビエツトの都市を占領することになつていた。ドイツがソビエツト連邦を攻撃する前の、一九四一年度の計画は、同様な目的をもつていた。戦争の第一段階においては、ウオロシロフ、ウラジオストツク、ブラゴエシチエンスク、イマン、クイブイシエフカを、その次の段階においては北樺太、カムチヤツカのペトロパブロフスク港、黒龍江のニコラエフスク、コムソモルスク、ソヴガヴアンを占領する意図であつた。
  これらの計画と手段の攻撃的性質は、連合艦隊司令長官山本大将の一九四一年十一月一日附の機密作戦命令に示されている。その中で、『・・・・帝国よりソ連を攻撃せざる場合は、ソ連は敢へて開戦せざるものと信ぜらる』と指摘されている。一九四一年十二月八日の枢密院審査委員会の会合で、同じ意見を東條が述べた。『・・・・ソ国は対独戦遂行中なる関係上、帝国の南方進出に乗ずることなかるべし』と。
(E-809)
  これらの計画は、『慣例』であるとか、『戦略的防衛』のためのものであるとか、その外いろいろといわれたが、攻撃的なものであつて、防衛的なものでなかつたことは明らかである。ある場合には、防衛戦略が攻撃的作戦を正当化し、またおそらくそれを必要とするということがあるかもしれない。これらの計画の性質とソビエツト連邦に対する日本の軍事的政策とを考察すれば、これらの計画は侵略的であつて、『戦略的防衛』のためではなかつたという結論に到達するほかはない。それは、日本側が『王道』を弁護したような、すなわちアジア大陸の隣国を犠牲にして日本が対外的に進出することを弁護したような、すでに論じたところの、あの歪められた意味においてのみ、『防衛的』であつたのである。

ソビエツト連邦に対する積極的戦争準備

  満洲占領の直後に、日本はその軍隊の主力をそこに駐屯し始めた。軍隊の訓練の目的は、おもにソビエツト連邦と中国に対する軍事行動の準備に置かれていた。さきに陸軍省兵務課長、後に兵務局長であつた田中は、満洲で訓練された日本の兵隊は二百五十万と推定した。
(E-810)
  一九三八年に、東條は、関東軍参謀長として、チヤハル気象観測網配置計画の中で、その目的は『日本及び満洲に於ける天気予報業務を一層適確ならしめ、特に対ソ作戦準備の為、航空気象網を増強す』ることであると述べた。
  元関東軍司令官被告南は、反対訊問中に、満洲における鉄道の建設は、ソビエツト国境に向けられていたことを認め、さらに、『これらは主として北満開発のためでありました』と主張したが、戦略的な価値もあり得るということを認めた。
  一九三八年一月に、関東軍司令部は、東條のもとで、『新興支那建設方策大綱』を立案した。陸軍大臣に送られたこの文書は、『緊迫せる対ソ戦準備に資せしむる』ように、現地住民を納得させる仕事に関して述べている。東條は蒙彊地方を『対外蒙侵略基地として』使用することを企図していた。
  当時の関東軍参謀長東條は、一九三八年五月に陸軍省に送つた極秘電報の中で、南満洲鉄道会社を『・・・・軍は満洲国の政策遂行乃至は対ソ作戦準備等に協力せしむる如く指導しあり』と指摘した。
  陸軍当局は、一九四一年四月に調印された中立条約があるからといつて、ソビエツト連邦との戦争に対する準備をゆるめることはしなかつた。(E-811)このようにして、関東軍参謀長は、一九四一年四月に、兵団長の会合で行つた演説の中で、日ソ中立条約を論じて、次のように述べた。『本次条約は三国同盟強化の見地よりする外交上の一措置とし、帝国の現況に即し暫く日ソ国交の平静を企図せられたるものにして、之か実効を収むるは一に今後に於ける両国の態度如何に存し、今日の状態を以て直に友好関係に入るものと思惟する能はず、従て今後に於ける之か条約の実効を収むる為には、軍として作戦準備の弛緩は絶対に許されす、益々之を強化拡充することにより之を促進し得へく、軍従来の方針に何等変更を加へらるることなし。
  『日満両国を通し、巷間往々にして中立条約の締結を以て我か対ソ戦備の軽減を云々するものなきにしもあらざる所、我対ソ戦備は前述の如く些も既往の方針に何等の変化なきのみならす、特に此の機会に於ける思想、防諜其の他各種謀略対策等に関しては周密巍然たる態度を以て望むの必要特に大なるを以て、隷下一般に対し之か趣旨を速かに徹底し遺憾なからしむるを要す。』(E-812)この本文は押収された『軍極秘』の文書から得たものである。この報告は、当時の関東軍司令官梅津が出席していたことは示していない。かれは出席していたかもしれない。しかし、このような重要な演説は、しかも記録がつくられ、保管された演説は、少くともかれの承認を得ていたに違いない。
  一九四一年十二月五日の同様な会合において、関東軍参謀長は兵団長に対して、ソビエツトに対する作戦準備を全うし、機を逸せずに戦局の転換点を利用するために、極東ソビエツト領と蒙古における軍情の変化を独ソ戦争の推移に関連して注視するように訓示した。この演説は、梅津がまだ関東軍司令官のときに行われたのである。

ソビエツト占領地域の管理計画

  日本の指導者は、ソビエツト領土の占領は実際に行うことができると考えたので、参謀本部と関東軍司令部とで、これらの領土の経営のために、特定の計画が立案された。一九四一年七月から九月まで、参謀本部の将校の特別の一団は、日本軍が占領することになつていたソビエツト領土の占領地統治制度の研究を行つた。
(E-813)
  一九四一年九月には、梅津の部下の池田少将を課長として、関東軍司令部に第五課が組織された。かれもやはりソビエツト領土の占領地統治制度に関する問題の研究に従事していた。満洲国の総務庁の専門家がこの仕事に使われた。
  少くとも公式には、国策研究会は私的な団体であると主張された。しかし、その起案や研究のために、この国体は陸軍省、拓務省、その他の政府機関から極秘書類を受取つた。その一例は、一九四一年十二月に、陸軍省と拓務省によつて作製された極秘の『大東亜共栄圏に於ける土地処分案』である。この案によれば、ソビエツト連邦の沿海州が、バイカル湖までの他のソビエツト領土とともに、日本か満洲国のどちらかに併合されることになつていた。右の研究会は、その一九四二年二月十八日附の『大東亜共栄圏の範囲及び其の構成に関する試案』で、『欧露を追はれるスラブ民族のシベリア集中』を阻止する対策をあらかじめ計画した。
  戦争準備の強化に伴つて、これに使用される人の数はますます増大した。特殊な団体が設立された。(E-814)その中には、内閣のもとに置かれた総力戦研究所と国策研究会があつた。総力戦研究所の元所長であつた村上啓作中将は、総理大臣東條から、日本軍が占領することになつていた大東亜地域における占領地の行政制度の計画を立てるように、研究所が指示されたと証言した。研究所が行つたすべての研究において、ソビエツト連邦への侵入という問題は既定のものであると見做されていた。一九四二年度の研究所の綜合研究記事の中に戴せられている『シベリア(含外蒙)統治方策』には、日本側占領当局のための規則が含まれていた。その中に、次のようなものがあつた。
  『旧来の法令の全面的無效を宣言し、素朴且つ強力なる軍令を以て之に臨み、皇国の強力なる指導下原住民は原則として政治に関与せしめず。要すれば低度の自治を附与す。
  『国防上経済上、要すれば内鮮満人移民の送出を行ふものとす。
  『必要に応じ、原住民の強制移住を断行するものとす。
  『我威力を滲透せしむるを旨とし、峻厳なる実力を以て臨み、所謂温情主義に堕せざるものとす。』
  『国策研究会』の事業は、総力戦研究所と同じ線に沿つて進められた。
(E-815)
  一九四二年の春までに、関東軍司令部は、日本が占領することになつていたソビエツト地域の軍政に関する計画を作成していた。この計画は、梅津の承認を得て、参謀本部に送られた。この計画には、『行政、治安の維持、産業の組織、金融、通信及び輸送』の各部が含まれていた。
  一九四二年に、東條と梅津は、池田少将その他の将校を派遣して、南方地域のために立てられた占領地統治制度を研究させた。それは、ソビエツト連邦の領土に対する占領地統治制度の立案をさらに進めるために、右の研究を利用するためであつた。

ドイツのソビエツト連邦攻撃後における積極的戦争準備

  ドイツがソビエツト連邦を攻撃した後に、日本はソビエツト連邦に対する戦争の全面的準備を増強した。その当時に、日本はすでに中国と長期戦を行つていたが、ソビエツト連邦に対する企図を達成するために、ヨーロツパの戦争を利用することを希望した。これは関東軍の秘密の動員と兵力の増強とを必要とした。一九四一年の夏に、計画に従つて秘密の動員が行われ、三十万の兵力、すなわち新しい二箇師団と種々の特科部隊とが関東軍に加えられた。一九四二年一月までに、関東軍の兵力は百万に増加されていた。(E-816)関東軍は多量の新しい装備を受取つた。戦車の数は一九三七年の二倍になり、飛行機の数は三倍になつた。部隊の大集団が満洲でソビエツト連邦の国境に沿つて展開された。関東軍のほかに、朝鮮軍、内蒙の日本軍、日本内地の部隊が、企図されていたソビエツト連邦に対する攻撃に使用されることになつていた。兵員と物資に加えて、大量の糧秣が関東軍のために準備された。

謀略と妨害行為

  直接の軍事的準備と同様に、平時と戦時の両方に処するためのソビエツト連邦に対する謀略的活動の綿密な計画も、あるいは考慮中であり、あるいは進行中であつた。このことは、参謀本部と関東軍司令部に対して、早くも一九二八年に、神田正種が提出した報告によつて示されている。この神田は日本の情報将校であり、後に参謀本部第二部ロシア班長の職にあつた人である。この報告の中には、ソビエツト連邦に対する謀略的活動の大綱と施策が記述されていた。特に謀略的と挑発的の行動は、北満における交通線、主として東支鉄道において計画され、実施されていた。この報告は、『対露謀略の包含する業務は多岐にして、其行動は全世界に亘るべき』ものと述べている。この報告の起草者である元陸軍中将神田は、本裁判所で訊問されたときに、この文書を確認した。
(E-817)
  一九二九年四月に、ベルリンにおいて、当時の参謀本部第二部長であつた彼吉松井によつて招集された数カ国の日本陸軍武官の会議は、当時すでに計画されていたソビエツト連邦との戦争の間に、ヨーロッパ諸国から行うべき妨害行為の方法を審議した。この会議は、外国における白系ロシア人避難民を使うことを考慮した。また、ソビエツト連邦外にいる日本の陸軍武官によつて行われるところの、ソビエツト連邦に対する諜報の問題も審議した。当時トルコ駐在の陸軍武官であり、この会議に出席し、発言した被告橋本は、本裁判所で訊問されたときに、会議の他の参加者の名を挙げた。その中にはイギリス、ドイツ、フランス、ポーランド、オーストリア、イタリア及び口シア駐在の陸軍武官がいた。そして、ソビエツト連邦に対する謀略的活動は、この会議で、松井その他の者によって論議されたということをかれは認めた。この会議の後、一九二九年十一月に、日本の参謀本部に対して、橋本は『コーカサス事情及之れが謀略的利用』に関する報告を提出し、その中で、『コーカサス地方は・・・・対ソ謀略上重要なる一点たる』ことを強調した。かれは『コーカサスに於ける各種人種を相反目せしめ、コーカサスに混乱状態を現出せしむること』という意見を具申した。
(E-818)
  被告大島は、ベルリンに駐在している間、ソビエツト連邦とその指導者に対する謀略をひそかに行い、これに関して、ヒムラーと協議した。
  一九四二年に、日本の参謀本部と関東軍司令部は一九四三年までそのまま有効であつたソビエツト連邦に対する新たな攻勢的を戦争計画を立てた。これらの計画によれば、ソビエツト連邦に対する戦争は、満洲に約三十箇師団が集中された後に、不意に開始されることになつていた。それ以前の計画と同じように、これらの、後の計画も、実行に移されなかつた。このころに、ドイツ、イタリア、日本の枢軸国の軍事上の見透しが悪化し始めた。その後、これらの国はますます守勢的を立場に置かれ、日本の企図したソビエツト連邦に対する攻撃のような冒険は、ますます可能性が少くなり、ついに一九四五年の枢軸側の決定的な敗戦となつた。いずれにしても、本裁判所は、一九四三年まで、日本はソビエツト連邦に対して侵略戦争の遂行を計画しただけではなく、このような戦争のために積極的準備を継続していたものと判定する。

中立条約
ソビエツト連邦に対するドイツの攻撃

 前に述べたように、一九三一年と一九三三年に、日本はソビエツト連邦から中立条約の締結を求められたが、それを拒絶した。一九四一年までには、ドイツとイタリアを除いて、日本はほとんどすべての国との友好関係を失つていた。(E-819)国際情勢が非常に変化していたので、日本は十年前に拒絶したことを今度は喜んで行う気になつた。しかし、この気乗りは、何もソビエツト連邦に対する日本の態度の変化を示すものではなく、この国に対する日本の領土獲得の企図が減じたことを示すものでもない。
 一九四一年四月十三日に、すなわちドイツのソビエツト連邦に対する攻撃の少し前、日本はソビエツト連邦との中立条約に調印した。この条約は、次のことを規定した。
『第一条』
『両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ、且相互ニ他方締約国ノ領土保全及不可侵ヲ尊重スべキコトヲ約ス。』
『第二条』
『締約国ノ一方ガ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象トナル場合ニハ、他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルベシ。』
 日本政府は、その当時に、防共協定と三国同盟とによつて、ドイツに対する約束があつたので、この条約に調印するにあたつては、その立場が曖昧なものであつた。日本政府が中立条約に調印した行為は、さらに一層曖昧なものであつた。この政府が調印したときに、それはソビエツト連邦に対するドイツの攻撃が切迫していたことを予期するあらゆる理由をもつていたからである。
(E-820)
 すでに一九四一年二月二十三日に、リツベントロツプは大島に対して、ヒツトラーは冬の間にいくつかの新しい部隊を編制したこと、その結果として、第一流の攻撃師団百八十六箇を含めて、ドイツは二百四十箇師団をもつことになろうと告げた。リツベントロツプは、さらに『独ソ戦』の見透しについて詳しく述べ、これは『結局ドイツの偉大なる成功に終り、ソビエツト政権の終焉を意味するであろう』といつた。
 ソビエツト連邦に対するドイツの来るべき攻撃は、一九四一年三月に、ドイツの指導者――ヒツトラーとリツベントロツプ――と日本の外大臣松岡との会談において、さらに一層具体的に論ぜられた。
 一九四一年三月二十七日の松岡との会談で、リツベントロツプは松岡に対して、『東部のドイツ軍はいつでも使用することができる。万一ロシアがいつかドイツに対して脅迫と解釈される態度をとるならば、総統はロシアを紛碎するであろう。口シアとのこのような戦いは、ドイツ軍の完全な勝利と、ロシアの軍隊とロシアの国家との絶対的破壊で終るであろう、とドイツでは誰でも確信している。総統は、ソビエツト連邦に対して進撃した場合には、数カ月後には、ロシアは大国としてはもはや存在しなくなるであろうと確信している』と述べた。
  同じ日に、ヒツトラーは松岡に同じ趣旨のことを話した。すなわち、大島、オツト、リツベントロツプの列席している所で、ドイツはソビエツト連邦とある条約を締結したが、それよりも一層重要なことは、ソビエツト連邦に対して、自己の防衛のために、ドイツは百六十箇ないし百八十箇の師団を使用し得るという事実であるとヒツトラーは述べた。(E-821)リツベントロツプは、一九四一年三月二十九日の松岡との会談で、ドイツ軍の大部分はドイツ国の東部国境に集結されていると述べ、ひとたびソビエツト連邦との戦争が発生すれば、この国は三、四カ月以内に席捲されてしまうという確信を再び表明した。その会談において、リツベントロツプは、また次のように述べた。『・・・・ロシアとの紛争は、どうしても起り得ることである。いずれにしても、松岡は帰国の上、日本の天皇に対して、ロシアとドイツとの間の紛争は起り得ないと報告することはできないであろう。それどころか、事態は、このような紛争が起りそうだとまではいかないにしても、起ることがあり得ると考えなければならないものである』と。
 これに答えて、松岡はかれに、『日本は常に忠実な同盟国であつて、共同の努力に対して、単によい加減のやり方ではなく、すべてを捧げるであろう』と保証した。
 モスコーで中立条約に調印した後、帰国して間もなく、松岡は東京駐在ドイツ大使オツトに対して、『ドイツとロシアとの衝突の場合には、日本の総理大臣や外務大臣は、だれであつても、日本を中立にしておくことはとうていできないであろう。この場合に、日本は必然的にドイツ側に立つて、ロシアを攻撃しないわけには行かなくなるであろう。中立条約があつたところで、これは変えられない』と述べた。
  大島は、一九四一年五月二十日の松岡あての電報で、ワイツゼツカーがかれに対して、『松岡外相が、もし独ソ開戦せば、日本はソ連邦を攻撃すべきことをオツトに述べられたることは、ドイツ政府はこれを重要視しあり』といつたと報告した。
(E-822)
  中立条約を調印する際に、日本政府がとつた不誠実な政策は、この条約の調印のための交渉と同時に、ドイツとの間に、一九四一年十一月二十六日に満了することになつていた防共協定を延長するための交渉が行われていたという事実によつて確認される。防共協定は、ドイツとソビエツト連邦との間の戦争が起つてから、一九四一年十一月二十六日に、さらに五カ年間延長された。
  ソビエツト連邦と中立条約とに対する日本の政策は、一九四一年六月二十五日、ドイツがロシアを攻撃してから三日後に、スメタニンが松岡と行つた会談によつて示されている。日本駐箚のソビエツト大使スメタニンによつて、日本は一九四一年四月十三日のソビエツト連邦と日本との間の中立条約に従つて中立を維持するかどうかと聞かれたときに、松岡は卒直な回答を避けた。しかし、三国同盟は日本の対外政策の基礎であり、もし今次の戦争と中立条約がこの基礎及び三国同盟と矛盾するならば、中立条約は『効力を失うであろう』ということを力説した。スメタニンとの会談について、松岡が悪質な批評を行つたことに関するドイツ大使の報告については、すでに前に述べた。(E-823)一九四一年六月、ソビエツト連邦に対するドイツの攻撃の少し前に、梅津はウーラツハ公爵との会談において、『日ソ中立条約を目下のところ歓迎している。しかし、三国同盟は日本の外交政策の不変の基本をなしているから、中立条約に対する日本の態度も、従来の独ソの関係が変更を受けるようになれば、直ちに変更しなければらない』と述べた。
  日本はソビエツト連邦と中立条約を締結することに誠意をもつていなかつたが、ドイツとの協定がいつそう有利であると考えたから、ソビエツト連邦に対する攻撃の計画を容易にするために、中立条約に調印したように見受けられる。ソビエツト連邦に対する日本政府の態度についてのこの見解は、一九四一年七月十五日に、東京のドイツ大使がベルリンあての電報の中で報告した見解と合致する。ドイツとソビエツト連邦の戦争における日本の『中立』は、ソビエツト連邦に対して日本自身が攻撃を行うまでの間、ドイツに与え得る援助に対する煙幕として、実際に役に立つたのであり、またその役に立つために企図されたようであつた。本裁判所に提出された証拠は、日本がソビエツト連邦との条約に従つて中立であつたどころか、その反対に、ドイツに対して実質的な援助を与えたということを示している。

ドイツに対する日本の一般的軍事援助

 日本は満洲で大規模な軍事的準備を行い、また同地に大軍を集結し、それによつて東方のソビエツト陸軍の相当な兵力を牽制した。この事がなかつたならば、この兵力は西方でドイツに対して用いることができたであろう。(E-824)これらの軍事的準備は、ドイツと日本の政府によつて、右のような意味のものと見做されていた。駐日ドイツ大使は、一九四一年七月三日に、ベルリンあての電報で、『なかんずく、右の目的の実現を目途とするとともに、ドイツとの戦いにおいて、ソビエツト・ロシアを極東において牽制する目的をもつて軍備を増強することは、日本政府が終始念頭に置いているところである』と報告した。
  同様に、リツベントロツプは、一九四二年五月十五日に、東京あての電報で、ソビエツト連邦に対する奇襲攻撃の成功は、三国同盟諸国に有利に戦争を進ませるのに非常に重要であろうということを指摘したが、同時に、前に述べておいたように、『ロシアは、どんな場合でも、日本とロシアとの衝突を予期して、東部シベリアに兵力を維持しなければならないから』、ソビエツトに対する戦争におけるドイツへの積極的援助として、日本の『中立』の重要性を強調した。

日本、ソビエツト連邦に関する軍事的情報をドイツに提供

  日本がソビエツト連邦に関する軍事的情報をドイツに提供した証拠は、リツベントロツプから東京のドイツ大使にあてた一九四一年七月十日の電報に含まれている。(E-825)この中で、リツベントロツプは、『モスコ―の日本大使の電報を回送したことに対して、この機会に、日本の外務大臣に礼を述べられたい。われわれがこの方法で定期的にロシアからの報告を受けることができれば、仕合わせである』と書いた。
  日本の軍事機関と外交機関から得たソビエツト連邦に関する経済上、政治上、軍事上の情報を、日本がドイツに提供していたことを証明する証拠が提出された。一九四一年十月から一九四三年八月まで、参謀本部のロシア課長をしていた松村少将は、参謀本部の命令に従つて、参謀本部の第十六(ドイツ)課に対して、東京のドイツ陸軍武官クレツチマー大佐のために、極東におけるソビエツト軍、ソビエツト連邦の戦争能力、ソビエツト部隊の東方から西方への移動、ソビエツト部隊の国内における移動に関する情報を、組織的に提供したと証言した。
  前に東京のドイツ大使館附陸軍武官補佐官であつたフオン・ペテルスドルフは、日本の参謀本部から、ソビエツト陸軍、特に極東軍に関する秘密情報―軍隊の配置、その兵力、予備軍について、ヨーロツパ戦線に対するソビエツト軍隊の移動について、ソビエツト連邦の軍需産業などについての詳細な情報―を組織的に入手したと証言した。フオン・ペテルスドルフは、かれが日本の参謀本部から受取つた情報は、その範囲と性質において、陸軍武官が普通の経路を通じて通常受取る情報とは異つていたと述べた。

(E-826)
ソビエツトの船舶に対する日本の妨害

  日本に中立の義務があるにもかかわらず、極東におけるソビエツト船舶の航行に対する日本の妨害によつて、ソビエツトの戦争努力は大きな障害を受けたということを検察側は主張し、そのことを示す証拠を提出した。わけても、一九四一年に、香港で、ソビエツト船舶として明白な標識をつけたところの、碇泊中の数隻の船舶が砲撃され、一隻が撃沈されたこと、同じ月に、ソビエツト船舶が日本の飛行機からの爆弾によつて撃沈されたこと、多数のソビエツト船舶が日本海軍艦船によつて不法に停船させられ、日本の港湾に護送され、ときには、長期間そこに抑留されたことの証拠があつた。最後に、日本は津軽海峡を閉鎖し、ソビエツトの船舶がソビエツト極東沿岸に行くのに、もつと不便な、もつと危険な他の航路をとらなければならないようにしたと非難された。これらの行為は、すべて中立条約に基く義務を無視して、また日本がソビエツト連邦に対して行おうと企てていた戦争の間接的な準備として、ソビエツト連邦をドイツとの戦争で妨害するために行われたのであると主張された。
  中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエツト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至つた。

(E-827)
一九三八年―三九年におけるソビエツト連邦に対する日本の攻撃作戦

  さきにソビエツト連邦に対する日本の態度を論じた際には、起訴状の訴因第二十五、二十六、三十五及び三十六に挙げられた二つの事項については、われわれは詳細にわたつて考察することを差控えた。前の論議のときに、これらの事項が意義がなかつたというのではないが、起訴状がそれらの事項を直接に取上げているから、これに対する詳細な考察をここまで保留しておく方が都合がよいと考えたのである。
  一九三六年十一月の防共協定に基く日本とドイツの同盟と、一九三七年の蘆溝橋事件の後の華北及び華中における日本の軍事的成功とに続いて、日本陸軍は、一九三八年と一九三九年に、ソビエツト連邦に対して、まず満洲東部で、次いでその西部で、敵対行為に訴えた。一九三八年七月に、敵対行為が行われた場所は、満洲、朝鮮及びソビエツト連邦沿海州の国境の接合点に近接したハサン湖地区内であつた。それから、一九三九年五月には、満洲国と外蒙古との、すなわち蒙古人民共和国と満洲との、領土の境界線上のノモンハン地区内で、敵対行為が起つた。日本側では、これらの作戦行動はどちらも単なる国境事件で、境界線が不明確であつたために起り、その結果として、相対峙する両国の国境警備隊の衝突となつたものであると主張した。

(E-828)
ハサン湖地区における敵対行為

  一九三八年七月の初めに、野戦部隊をハサン湖のすぐ西の圖們江の東岸に集結することによつて、ハサン湖西方地区の日本の国境警備隊の兵力は増強された。右の河と湖の間には、その河と湖の双方を見下す丘陵が続いており、ソビエツト連邦の主張によれば、それらの丘の稜線に沿つて、境界線が走つていた。これに反して、日本側では、その境界線はもつと東に寄つたハサン湖の西岸に沿つていたと主張した。
  この高地は、圖們江、南北に走る鉄道、並びにソビエツト沿海州及びウラジオストツク市に通ずる道路を西に見下しているために、戦略上相当な重要性をもつている。日本側から見て、この高地の重要性は、北と東に向う交通線をなしている鉄道と道路に対する観測と攻撃を防ぐことができるということに価値があつた。日本側はその軍事上の重要性を認識し、早くも一九三三年において、関東軍はこの地区の地形に関する研究を充分に行つていた。この研究は、一九三三年十二月に関東軍参謀長から陸軍次官に提出した報告に述べてあるように、『対ソ作戦の場合』を顧慮して行われたものである。
  ソビエツト国境警備隊前哨の当時の報告とその他の証拠は、一九三八年七月中に、日本の部隊集結はますます大規模に行われていたことを示している。(E-829)七月の末以前に、朝鮮軍の約一箇師団が長さ三キロメートルを超えない小さい地区に集結された。田中隆吉少将は、弁護側のために述べた証言の中で、かれが七月三十一日に同地区に到着したとき、日本側は相当の兵力をもつて攻撃をしていたと言つている。序でながら、それより前に行われた準備に関するかれの証言は、興味深いものがある。かれは七月十五日にすでに同地区を訪れていた。そして、そのときに、ソビエツトの軍隊は、西側斜面に、すなわち張鼓峯――ソビエツトの解釈によれば、その稜線に沿つて境界線が走つているとされた――の満洲側に、壕を堀つており、また鉄条網を張つていたとかれは述べた。それらの防禦的措置は、ソビエツト連邦軍の意図を示している点に意義がある。しかし乍らソビエツト人の証人達はかような措置がとられたということを否定している。もしわれわれが田中証言を全部そのまま受け容れたとするならば、これはソビエツト軍が満洲領に侵入したということを暗示するかもしれない。しかし、これらの防禦措置に関して、日本側はなんの抗議もしなかつた。あとでわかるように、日本側の苦情は、ハサン湖の西側にはどこにもソビエツトの部隊を配置すべきではないということにあつた。衝突の起る前には、ソビエツト国境警備隊は兵力が少数であり、今問題としている地区では、百人を超えていなかつた。
  日本の部隊がハサン湖地区に集結していた七月の初めごろに、日本政府はソビエツト政府と外交交渉を開始した。(E-830)その目的は、ハサン湖東岸まで、ソビエツト国境警備兵を撤退させようというのであつた。七月十五日に、モスコーの日本代理大使西は、日本政府の訓令に基いて、ソビエツト外務人民委員に対して、ハサン湖西部地方は全部満州に属すると述べ、同湖西岸からソビエツト軍が撤退することを要求した。同じころに、西ヨーロツパで任務に就いていた重光は、日本の要求貫徹を確実にするための訓令を帯びて、モスコーに派遣された。それから会談が行われ、ソビエツト代表は、境界線はハサン湖の西の高地に沿つて走つているのであつて、ハサン湖の岸に沿つているのではないと繰返して述べた。この事実は一八八六年の琿春議定書によつて裏づけられており、それによつて境界線は確定されていると述べた。重光は断固たる態度をとり、琿春議定書に関して、『私の気持としては、この危急の際に、何かの地図のことなどを話すのは不合理だと思ひます。それはただ事情を複雑にするばかりです』と言つた。七月二十日に、重光はソビエツト軍の撤退を正式に要求し、さらに『日本は満洲国に対し、不法にも占領された満領からソビエツト軍を撤退させるために、実力を行使する権利と義務を持つてゐます。』とつけ加えた。
  右の境界線の位置の問題に関して、多くの地図が本裁判所に提出され、一枚の地図と他の多数の証拠書類が出された。すでに言及した琿春議定書は、一八八六年に清国とロシアの代表によつて調印され、それに境界線を示す地図がついていた。(E-831)この議定書の中国語の正文にも、ロシア語の正文にも、その地図に言及している。そして、どちらにも、次のような重要な箇所がある。『・・・・地図上の赤線は境界線の印である。それは分水嶺に沿つており、西に向つて流れて圖們江に注ぐ水は清国に属し、東に向つて流れて海に注ぐ水はロシアに属する。』
境界線を詳細に説明した部分には、双方の正文にわずかな食い違いがある。境界線の正確な位置について、当時いくらか疑問があつたかもしれないということは、これを無視することができない。しかし、現存の国際法の状態では、そのような疑問は、たといあつたとしても、そのために武力に訴えてもよいというようなものではなかつた。
  一九三八年七月二十一日に、陸軍大臣板垣は、参謀総長とともに天皇の引見を受け、日本の要求を押し通すために、ハサン湖における武力の行使を天皇が裁可するように要請した。(E-832)陸軍大臣と陸軍がいかに熱心に軍事作戦行動に訴えることを望んでいたかは、板垣が天皇に対して、ソビエツト連邦に対する武力の行使は、海軍大臣及び外務大臣とも協議ずみであり、両大臣とも完全に陸軍に同意しているという虚偽の言葉を述べたことによつて明らかである。しかし、その翌日に、板垣が列席した五相会議で、ハサン湖での敵対行為の開始の問題が討議され、そこで採択された決議の中には、『(我方は)万一に備ふる為準備を行ひたり。準備したる兵力の行使は関係当事者間協義の後大命に依り発動するものとす』と述べられていた。このようにして、ハサン湖における武力行使の許可が得られた。残る唯一の未解決の問題は、敵対行為を開始する日取りであつた。この問題は一週間の後に、すなわち、その高地の丘の一つであるベジミアンナヤ高地の附近で、日本軍が偵察という形で最初の攻撃を開始した一九三八年七月二十九日に解決された。この攻撃は、おそらく一箇中隊を超えないと思われる小部隊によつて行われた。この部隊は、この丘に配置されていたソビエツトの小国境警備隊を圧倒することに成功した。その日の後刻、ソビエツト国境警備増援隊が派遣され、日本軍をその占拠した地点から駆逐した。
  七月三十日から三十一日にかけての夜間に、一箇師団を主力として、こんどはザオゼルナヤ高地として知られていた高地の中の丘の一つに対して、日本側はまた攻撃に出た。(E-833)証人田中隆吉が弁護側のためにした証言はすでに引用したが、かれが七月三十一日その地区へ帰つたときに、日本軍が大きな兵力で攻撃中であつたという事実をかれは確認した。日本軍は満洲領にいたとかれがつけ加えたことは事実であるが、この陳述は、満洲領がハサン湖の西岸にまで及んでいたという日本側の主張に基礎を置いているのであろう。どちらにしても、裁判所は、日本側の攻撃を正当化する唯一の理由となるところの、ソビエツト軍が口火を切つたということの証拠を少しも見出すことができない。
  この地区の戦闘は、一九三八年の七月三十一日から八月十一日まで続いた。そのときまでには、敵対行為の開始後に派遣されたソビエツト側の援護部隊の助けによつて、この作戦に使用された日本軍は打ち破られ、ほとんど全滅した。そこで、日本政府は敵対行為をやめ、境界線はソビエツト側の主張の通りに、山脈の稜線に沿う線に戻されなければならないということに同意した。
  すべての証拠から見て、本裁判所は、ハサン湖における日本軍の攻撃は、参謀本部と陸軍大臣としての板垣とによつて故意に計画され、また少くとも一九三八年七月二十二日の会議に参加した五大臣の許可は受けていたという結論に到達した。その目的は、同地区のソビエツト側の勢力を打診してみるか、ウラジオストツクと沿海州への交通線を見下す高台の戦略上重要な地点を奪うかの、どちらかであつたのであろう。この攻撃は相当の兵力をもとにして計画され、実行されたものであるから、これを国境警備隊間の単なる衝突と見做すことはできない。(E-834)日本側が先に敵対行為を開始したということもまた、本裁判所が満足するところまで立証されている。使用された兵力はさして大きくなかつたが、上に述べた目的と、万一攻撃が成功した場合の結果とは、本裁判所の見解では、この敵対行為を戦争と呼ぶことを充分正当化するものである。その上に、当時存在していた国際法の状態と、予備的外交交渉で日本側代表がとつた態度とを考慮すれば、日本軍の作戦行動は、本裁判所の見解では、明白に侵略的なものであつた。

ノモンハン(ハルヒン・ゴール)の作戦行動

  一九三九年の五月から九月まで続いたノモンハン地方の敵対行為は、ハサン湖における敵対行為よりも、はるかに大規模なものであつた。これは黒龍江省に接する外蒙古の東部国境で起つた。そのすぐ南は、一九三九年において日本の支配下にあつたチヤハル省である。
  ソビエツト連邦に対する日本の軍事計画に関連して、外蒙古の重要性は大きかつた。外蒙古は、満洲からバイカル湖の西の一地点に至るソビエツト領土と境を接しているために、非友好国によつて軍事的に支配されるときは、一般にソビエツト領土に対して、わけても、ソビエツト領土の西部と東部を結びつけ、外蒙の北部国境とぼぼ並行し、それからあまり離れずに長い距離を走つているシベリア鉄道に対して、脅威を与えることになるのである。(E-835)外蒙古の戦略上の重要性は、ソビエツト連邦も日本も、ともに認めていた。すでに一九三三年に、『昭和日本の使命』と題する論文で、荒木は外蒙古の占領を唱え、『日本は日本の勢力圏に接触して蒙古の如き曖昧なる地域の存在することを欲しない。蒙古は飽く迄も東洋の蒙古でなければならぬ』と附言した。数年後の一九三六年に、当時関東軍参謀長であつた板垣は、有田大使との会談で、次のように指摘した。『外蒙は今日の日満勢力に対し極東ソ領と欧ソとの連絡線たるシベリア鉄道の側面掩護の地帶としては、極めて重要性を有す。従つてもし外蒙古にして、我日満側に合体せんか、極東ソ領の安全性は殆ど根底より覆さるべく、また戦はずしてソ連勢力を極東より後退せしむることを得るに至るやも知るべからず。従つて軍は凡有手段に依り日満勢力の外蒙古に対する拡充を企図しあり・・・・』
  ソビエツト連邦は、日本または他の国が行動を起すことがあり得ることを予測して、一九三六年に蒙古人民共和国と相互援助条約を締結し、これに基いて、ソビエツト軍は蒙古のいくつかの町に駐屯していた。(E-836)こうして、ノモンハンで敵対行為が発生する少し前に、いくらかのソビエツト軍が外蒙古の東部に派遣されていた。
  敵対行為は、一九三九年五月十一日に、数百名に及ぶ日本軍偵察隊が蒙古側国境警備隊を攻撃したことで開始された。この日から、その月の二十七日までの間、少数の日本軍がさらに攻撃を加えたが、すべて撃退された。この間に、両軍とも増援部隊を派遺していた。五月二十八日に、飛行機、砲、戦車の支援のもとに、戦闘が再び大規模に開始された。それから後、戦闘はますます大規模に展開され、日本側が敗北を認めた九月になつて、ようやく終つた。
  使用された兵力の大きさを正確に述べることはむずかしいが、それが大きなものであつたことは、死傷者総数に関するいろいろな推定数と作戦行動の行われた地域とからして判断することができる。戦死、負傷、捕虜による日本側の損害は五万人を超え、蒙古とソビエツト側の損害は、九千人以上であつた。作戦行動は、正面五十ないし六十キロメートル、深さ二十ないし二十五キロメートルにわたつていた。
  この事件についての弁護は、ハサン湖事件の場合と大体同じである。すなわち、この事件は、外蒙と満洲との国境の正確な位置に関する紛争について、国境で起つた衝突にすぎないというのである。日本側の主張は、戦闘が起つた地域では、国境はハルハ河であり、この河はこの地点で西北の方向に流れているというのであつた。(E-837)これに対して、蒙古側の主張は、国境はハルハ河の東方約二十キ口メートルの所であるというのであつた。国境の位置について、多数の地図が提出され、多くの証拠が挙げられた。その上に、この衝突の前暫くの間、蒙古側国境警備隊に勤務していた者によつて、かれらが国境であると主張する線に沿つて、国境線は国境標識ではつきり示されていたという証言がなされた。ここで、国境の位置を決定することは必要ではない。それについては、その後に協定がなされた。本裁判所で決定すべき問題は、発生した戦闘の正当性についてである。
  この作戦行動の性格と規模に関する最も有力な証拠は、一九三九年九月五日附の、第六軍司令官布告である。これは押収された日本側文書の中にある。それには、次のように書いてある。
『第六軍の再編成を行う様に指令は前に発せられたにもかかわらず、その指令が遂行されなかつたために、西北地域の防備の大きな使命実現が失敗に帰した事を残念ながら茲に認めなければならない。我軍は満洲及蒙古国境の変則な戦の渦中に投ぜられた。斯る行動は前線において十日以上の間続き今日に至つている。小松原中将の率いる諸部隊の勇敢にして断乎たる措置により交戦中の混乱は減少した。現在我軍は新攻撃のためにジンジン・スメ地方に準備をしつつある。
(E-838)
  関東軍司令官は、この秋に満洲に駐屯する最精鋭部隊を送つて我々を援助する事を決し、彼はそれら軍隊を将来の戦場となるべき所に移動せしめ、我等を我が指揮下において、争を解決せしむるため、緊急な方策を計画している。今や問題が既に単なる国境紛争の域を超えている事態にあることは明らかである。我々は今や中国において聖戦を遂行して居り、複雑な内外状勢の諸条件下に於て此の紛争における如何なる変化を極めて大なる国家的重要性を持つことになる。我軍の諸行動が遂行せらるべき道は唯一つしかない。それは即ち我軍を一致団結せしめ、速に敵に殲滅的打撃を加えて以て増長して行く其の傲慢不遜を絶滅する事にある。現在の所、軍の準備は着々運びつつある。我軍はこの秋が来ると共に、一撃のもとにこの鼠退治を終了して、世界に対し誇らかに精鋭皇軍の威力を示すであろう。将兵も現在の状態の重要性を充分理解している。(E-839)全軍は、一兵から幹部に至るまで断乎たる攻撃精神に充ちて居り、勝利を確信している。軍は常に我が大元帥陸下への深い忠誠をもつて、喜んで到るところ敵を粉砕撃滅するものである。』
  蒙古またはソビエツトの軍隊が先に戦闘を始めたということの立証を、弁護側が本気に試みたことは一度もなく、弁論の際にも、そうであると主張されたこともない。これに対して、検察側では、この作戦行動に参加した証人を出廷させた。この証人は、敵対行為は日満側軍隊によつて始められたといつている。本裁判所は、この点については、検察側の証拠を受け容れるものである。この紛争のための準備が関東軍の手によつて行われていたことは疑いがないが、参謀本部または政府がこの敵対行為の開始を認めていたかどうかをわれわれに判断させ得る証拠は、一つも提出されなかつた。本裁判所が言い得ることは、せいぜいのところ、少くとも日本の参謀本部と陸軍省があらかじめ知つていないで、このように広汎な規模で作戦行動が行われたということは、ありそうもないということだけである。この事件が発生してから間もなく、当時総理大臣であつた平沼は、陸軍大臣板垣から、この事件の発生を知らされた。本審理前の訊問の際に、かれは板垣に対して敵対行為を中止するように要求したが、『何等の指令も出すことはできなかつた』し、また『軍部は違つた見解をもつていた』といつている。従つて、この紛争のごく初期の段階において、平沼も板垣も事態を充分に承知していたことは明白である。(E-840)しかも、両人の中のどちらかが、この紛争の継続を阻止するために、何かしたという証拠は少しもない。
  ハサン湖事件の場合と同じように、日本軍は完全に敗退した。もし日本軍が勝つたとした場合、その後どんなことが起つたであろうかということは、まつたくの想像に属する。しかし、日本軍が敗れたという単なる事実によつて、この作戦行動の性格がきまるものではない。これらの作戦行動は、四カ月以上の期間にわたる大規模なものであつた。第六軍司令官の布告から見てわかるように、明らかに日本軍が慎重な準備の後に企てたものであり、その意図は、日本軍に対抗する敵の軍隊を殲滅することであつた。従つて、この事件が対立する国境警備隊間の単なる衝突であつたという主張は、成り立たない。これらの状況のもとにおいて、本裁判所は、この作戦行動は日本側によつて行われた侵略戦争というべきものであると認定する。

宥恕の防禦

  ハサン湖とノモンハンの両戦闘に関する弁護側の補助的主張は、どの戦闘も、日本とソビエツト連邦の両政府の間の協定で解決されたということである。一九三八年八月十日に、重光とモロトフによつて署名された協定で、ハサン湖における戦闘は終つた。双方とも敵対行為が開始される前にそれぞれが占めていた位置に後退し、その後は平静が回復されたのである。
(E-841)
  ノモンハンで戦闘が終つてから長い間経つて調印された一九四〇年六月九日の東郷・モロトフ協定で、日本とソビエツト連邦は、外蒙古と満洲との間の境界線について協定した。これらの協定に続いて、一九四一年四月に、日本とソビエツト連邦との間の中立条約によつて、一般的解決が行われた。
  これらの三つの協定に基いて、弁護人は、二種類の協定――一つは特殊的、一つは一般的――が結ばれた以上は、これらの問題を今になつて再び取り上げることはできないと述べ、それによつてこの点に関する弁論を結んでいる。弁護側の弁論の基礎になつているこの三協定の中のどれにも、まつたく免除の特権が与えられておらず、刑事上またはその他の責任の問題も取扱われていなかつた。従つて、本裁判所は、これらの協定は、この国際裁判所で刑事訴訟を行うことに対して、少しも妨げになるものではないという見解をもつものである。国内的のものにせよ、国際的のものにせよ、刑事責任の問題については、どのような裁判所であつても、明示的にせよ、黙示的にせよ、犯罪の宥恕を黙認することは、公の利益に反することになるであろう。

(E-842)
蒙古が独立していなかつたとの防禦

  被告東郷の弁護人は、大体に訴因第二十六に対する弁論の中で、『いわゆる蒙古人民共和国』が一九四五年までは中華民国の不可分な部分であつて、主権国家ではなかつたということを理由にして、この訴因は証明されていないと主張した。本裁判所は、外蒙古の地位に関心ももつていないし、それについて決定する必要があるとも考えない。われわれは意図が最高の重要性をもつ刑事問題を取扱つているのであつて、蒙古人民共和国の地位を正式に承認した日本政府の文書による約束を今になつて弁護側が否認することを許すことはできない。被告東郷が日本の名において署名したソビエツト連邦と日本の政府との間の一九四〇年六月九日の協定で、満洲と外蒙古との間の境界線を確定するための規定が設けられた。すなわち、締約国は、それぞれ蒙古人民共和国と満洲国のために、その協定に同意するということを述べたのである。
  このように明白に外蒙古の主権国としての地位を承認した以上、またこれに反する証拠がない以上、今になつて被告がこの点は証明されていないと申し立てても、それは聞き入れられるものではなく、外蒙古が一九四五年までは中華民国の不可分な部分であつた事実を、裁判所が裁判上顕著な事実として認めるように申し立てても、これも聞き入れられるものではない。