極東国際軍事裁判所判決文
B部 第五章 日本の中国に対する侵略

〈説明〉

 本資料は、極東国際軍事裁判所判決文における B部 第五章 日本の中国に対する侵略 を文字起ししたものである。原典は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている「極東国際軍事裁判所判決 〔第1冊-第13冊〕 B部 第四章 第二卷」(本巻後部に第五章第一節・第二節が収録)および「極東国際軍事裁判所判決. 〔第1冊-第13冊〕 B部 第五-六章」である。掲載するにあたり旧漢字を新漢字に直した他は原典を忠実に再現している。
 なお、文中にある「 (E-***) 」は原典の各ページ上部にある記述で、英文判決書のページ数に対応する。本ページに記載する際は、文章の前もしくは後に入れる為、原典の位置とは若干ずれる場合があるがご容赦願いたい。


〈見出し〉

第五章 日本の中国に対する侵略
第一節 満洲への侵入と占領

中日戦争とその諸段階
中日戦争の開始の際の満洲における日本の足場
田中内閣とその『積極政策』
『積極政策』を支持する煽動
済南事件
張作霖元帥の殺害
通称ヤング・マーシヤル、張学良元帥
日華関係の緊張化
田中内閣の辞職
『友好政策』の復活
橋本と桜会
日本の『生命線』としての満洲
総理大臣濱口の暗殺
三月事件
若槻内閣は『友好政策』を継続した
万寶山事件
中村事件
陸軍の態度の硬化
土肥原の調査
外務大臣幣原の調査
参謀本部に対する土肥原の報告
外務大臣幣原は仲裁の努力を続けた
関東軍の夜間演習
張学良元帥の調査委員の奉天帰還
南の特使は本務を果さなかつた
奉天事件
板垣は交渉を拒絶した
奉天事件は計画的なものであつた
本庄中将が奉天で指揮をとる
関東軍の行動を、南は認めた
奉天に帰還した土肥原大佐
奉天市長としての土肥原大佐
自治指導部
抗議と誓約
十月事件
溥儀を即位させる決定
土肥原大佐、薄儀の満洲復帰に乗り出す
溥儀の即位延期
錦州進撃
連盟の調査委員会任命
若視内閣は解職のやむなきに至つた
犬養内閣
本圧と板垣は本庄の計画を遂行するために動いた
錦州陥落の後に満洲は完全に占領された
板垣は使命を完了して奉天に帰つた
独立運動が強くなつた
日本による追加的誓約
橋本はこの條約に反対した
土肥原が馬占山将軍と交渉した
南の講演
第一次の上海侵入
中国は再び連盟に提訴した
馬将軍は土肥原と交渉した
最高行政委員会
独立宣言
新国家の組織
日本内閣は既成事実を承認した
リツトン委員会の東京到着
荒木は増援軍を上海に派遣した
国際連盟の行動
満洲国が傀儡として建設され、運営された
協和会と『王道』
リツトン委員会の満洲訪問
犬養首相の暗殺
日本の満洲国承認
熱河占領の準備
リツトン委員会の報告提出
山海関事件
日本は十九人委員会の一切の努力を拒否した
国際連盟の日本非難
日本の国際連盟脱退
熱河侵入
塘沽停戦協定
立役者、荒木一

第二節 満洲の統一と開発
満洲国改造
『二者合一』制
対満事務局
満洲における世論の統制
星野は満洲国経済の指導者となつた
満洲経済の奪取
関東軍の満洲指導のための経済計画
満洲国経済建設綱要
日満経済共同委員会
円ブロツクの組織
治外法権の撤廃
満洲国興業銀行
第二期建設計画
産業統制
満洲重工業開発株式会社
日本の工場としての満洲国
阿片と麻薬

第三節
中国にさらに進出する計画
河北事件
北チヤハル事件
内蒙古自治政府
北支自治政府を樹立する企図
日本陸軍の華北進出計画
廣田の三原則
二・二六事件
廣田内閣の成立
廣田内閣の外交政策
板垣の蒙古政策
蒙古における建国会議
華北に対する日本の政策――一九三六―一九三七年
豊台事件
張と川越の会談
廣田内閣の倒壊
宇垣は組閣に失敗した
林内閣とその華北政策
第一次近衛内閣とその後の華北に対する計画

第四節
蘆溝橋事件(一九三七年七月七日)から一九三八年一月十六日の近衛声明まで
その後の作戦と停戦交渉
日本政府の態度
アメリカ合衆国の斡旋申出
廊坊事件
日本の最後通牒は拒否された
ドイツにおける反響
北平の占領
大山事件
上海戦以前の他の諸事件
上海戦
華北における軍事行動の継続
中国、国際連盟に提訴
日本側の和平條件
イギリスの斡旋申出
ブラツセル会議
大本営
南京攻撃
ドイツの仲裁
一九三八年一月十一日の御前会議
一九三八年一月十六日の近衛声明

第五節
華北の臨時政府
華中の維新政府
畑の麾下の日本部隊が侵入した他の諸都市
国家総動員法
板垣陸軍大臣となる
中国に対する政策と五相会議――一九三八年
土肥原機関
傀儡政権の『連合委員会』
広東と漢口の占領
日本は国際連盟との一切の関係を絶つた
東亜新秩序
興亜院
汪精衛が重慶を去つた
近衛の三原則
平沼の組閣
汪精衛上海へ
汪精衛の日本訪問
一九三九年六月の五相会議の決定
日本内閣の更迭と中国における軍事行動の継続
傀儡中央政府の成立

第六節
大東亜共栄圏
第二次近衛内閣
中国に対する日本のその後の軍事行動
日本、汪精衛政府との條約に調印
日華基本條約
和平交渉の断続と軍事行動の継続
中国に関するハル・野村会談
第三次近衛内閣
東條内閣の成立
日米会談の継続
中国における軍事行動の継続

第七節
満洲と中国の他の地域とに対する日本の経済的支配
一般的経済問題
各種の産業
運輸と通信
天然資源
公共事業
金融
合衆国の抗議
中国にける麻薬
内蒙古
華北
華中


極東国際軍事裁判所
判決
B部
第五章
日本の中国に対する侵略
第一節及び第二節

第一巻 英文五二一―六四七頁
一九四八年十一月一日

(E-521)
B部
第五章 日本の中国に対する侵略
第一節 満洲への侵入と占領

中日戦争とその諸段階

  日本が中国に対して遂行し、日本の指導者たちが『支那事変』あるいは『支那事件』という偽瞞的な呼び方をした戦争は、一九三一年九月十八日の夜に始まり、一九四五年九月二日に東京湾上における日本の降伏によつて終つた。この戦争の第一段階は、満洲として知られている中国のその部分及び熱河省に対する日本の侵入、占領及び統一を内容としたものである。この戦争の第二段階は、『蘆溝橋事件』に続いて、一九三七年七月七日に日本軍が北平附近の宛平城を攻撃したときに始まり、継続的な数々の進攻から成り立つていた。これらの進攻は、一つの進攻が終るごとに、さらに深く中国の領土に進攻するために、しばらくの間、準備の地固めをしては行われたものである。被告の中で、ある者はこの戦争の最初から活躍し、ある者はこの戦争が進むにつれて参加した。一九四〇年六月の雑誌ダイヤモンドに発表された講演『大戦の帰趨』の中で、白鳥は『ヨーロツパ戦争の口火は、まず支那事変によつて切られたと言うも過言ではないのである』と述べた。

中日戦争の開始の際の満洲における日本の足場

 一九三一年九月十八日当時の満洲における日本の立場は、リツトン委員会によつて、次のように述べられているが、裁判所はこれに全然同意するものである。(E-522)すなわち、『此等の諸條約及其の他の諸協定は、満洲に於ける重要にして且特殊なる地位を日本に与へたり。即ち日本は租借地を事実上完全なる主権を以て統治し、南満洲鉄道会社を通じて鉄道附属地の施政に当れるが、右鉄道附属地は数箇の都市並に奉天及長春の如き人口大なる都会の広大なる部分を含み、此等の地域に於ては日本は警察、徴税、教育及公共事業を管理したり。又日本は満洲の多数地方に武装隊を存置したり。即ち租借地に於ける関東軍、鉄道附属地に於ける鉄道守備隊及各地方に亘る領事館警察之なり。満洲に於て日本の有する多数の権利の上記概説に依り、満洲に於て同国及中国間に作られたる政治的、経済的及法律的関係の特殊性は明瞭にして、恐らく世界の何処にも右事態の正確なる類例なかるべく、隣邦の領土内に斯の如き広汎なる経済的及行政的特権を有する国は他に其の例を見ざるべし。若し此の種の事態にして双方に依り自由に希望せられ若は受諾せられたるものなりとせば、又経済的及政治的範囲に於ける緊密なる協力に関する熟考せられたる政策の表現及具体化なりとせば、不斷の紛糾及論争を醸すことなく之を持続し得べきも、此等の條件を欠くに於ては右は軋轢及衝突を惹起するのみなり。』
この事態は、『双方により自由に希望され、かつ受諾』されたものではなかつたので、必然的に摩擦を生じた。武力を使用して、あるいは武力を使用するという威嚇によつて、日本は、中国の国力が弱かつた時代に、中国から種々の利権を獲得した。(E-523)腐敗した清帝国が避けることのできなかつたこれらの喪失は、再び盛り上つてきた中国の民族主義にとつて、忿懣の的となつた。いつそう強力な要因、しかも究極的には摩擦を生み出す決定的な要因となつたものは、すでに獲得した権益に満足できなくなつた日本が、最後には満洲の征服を引き起すほどの規模で、その権益の拡大を計ろうとしたときになつて、現われ始めた。中国における権益を拡大しようとする日本のこの政策は、田中内閣の時代に、初めて公式に発表された。

田中内閣とその『積極政策』

  中国に対するいわゆる『積極政策』を提唱して、一九二七年に政権を握つた田中内閣が成立する前に、日本の政治的情勢は緊張していた。軍部は、かれらがその当時の日本の弱体と称したものは、幣原外相の提唱する『友好政策』に示されたような、政府の自由主義的傾向に基くものであるとした。このようにして、『友好政策』は破棄されたのであるが、それはすでに一九二二年のワシントン会議から実行されていたものであつた。田中首相の提唱した『積極政策』は、満洲の官憲との、特に東北辺防軍総司令で熱河及び満洲の政権の長官であつた張作霖との協力によつて、日本が満洲で取得したと主張する特殊権益を拡張し、発展させることであつた。(E-524)田中首相は、また、日本は満洲に対する中国の主権を尊重し、中国において『門戸開放主義』を励行するために、できる限りのことはするけれども、この地の平安を乱し、もしくは日本の重大な権益を害するような事態が絶対に発生しないようにするという覚悟を充分にもつものであると声明した。田中内閣は、満洲を中国の他の部分とは全く別なものと見なす必要を強調し、もし動乱が中国の他の部分から満洲及び蒙古に波及する場合には、日本は武力をもつて同地方における権益を擁護するであろうと声明した。このようにして、この政策は、外国においてさらに権益を獲得しようとする公然の意図と、その外国の国内的治安を維持する権利があるという暗黙の主張とを含んでいた。

『積極政策』を支持する煽動

  黒龍会及び国本社のような諸団体と大川博士(元被告)のような著述家たちとは、必要があれば武力によつてでも、中国にある日本の特殊権益を励行せよ日本国内で強力に煽動した。
  黒龍会は、国家主義と反ロシア及び反韓国感情とを助長するために、一九〇一年二月三日に日本の神田で設立された。これは韓国の併合を提唱し、また一般的に日本の領土拡張の野望を支持していた。
  国本社は、国家主義の精神を助長し、宣伝を行うために、一九二〇年十二月二十日に設立された。国本社は軍部と密接な関係を保ち、その思想を大衆に示すために雑誌を発行した。平沼はその総裁であり、小磯と荒木は会員であつた。(E-525)
  大川博士は南満洲鉄道会社の信頼された社員であり、満洲の経済状態研究のために同鉄道会社によつて設立された東亜研究所の理事長であつた。田中内閣の成立前に、かれは数冊の書物を著わしていた。一九二四年にかれが著した『佐藤信淵の理想国家』には、佐藤によれば、日本は大地の最初に成れる国であつて、世界万国の根本であり、従つて万国に指令する天意の使命を持つと述べられている。この書物は、ロシアの南進を阻止するためにシベリア占領と、イギリスの北進を阻止するために南方諸島の占領とを唱道した。かれは一九二五年に『アジア・欧洲・日本』という書物を著わした。この書物の中で、かれは国際連盟は永久に現状を維持し、アングロ・サクソンによる世界支配の継続のためにつくられたものであると主張した。かれは東洋と西洋の戦いは不可避であると予言した。天は日本をアジアの戦史として選ぼうとしているとかれは主張した。日本は強い物質主義的精神を伸長させて、この崇高な使命の達成に努めなければならないとかれは勧告した。大川博士は多くの会の組織者であり、その中には、有色民族の解放と世界の統一を綱領の一とする行地社もはいつていた。大川博士の政治哲学は、軍部の一部の共鳴するところとなつた。かれらは博士を民間におけるかれらの代弁者として用い、またしばしば参謀本部の会合に招いて講演をさせた。大川博士は被告小磯、板垣、土肥原及びその他の陸軍の指導者たちと親密な間柄になつた。

(E-526)
済南事件

 張作霖元帥は、ワシントン会議の当時に、満洲は中国の中央政府から独立していると声明し、みずから満洲の支配者となつたが、その権力をさらに中国の本土に拡張しようと決意して、かれの司令部を北平に移した。田中内閣の政策は、同元帥と協力するという計画を基礎とするものであつたから、その成否は、元帥が満洲で指導権を維持できるかどうかにかかつていた。田中首相は元帥に対して満洲以外に権力を拡張しようとする野心を捨てるように繰り返して勧告したが、元帥はこの勧告を不快とし、これを拒絶した。そうしている間に、張作霖と中国国民政府との間の内乱が起つた。一九二八年の春、張作霖軍を駆逐し、これを満洲に撃退するために、蒋介石大元帥の国民党軍が北平と天津に向つて進軍していたときに、田中首相は、日本は満洲の治安を維持し、満洲における日本の権益を危うくするような事態の発生を防止する用意があるという趣旨の声明を発表した。次いで、田中首相は、中国の将領に対して、日本は満州に対する一切の侵入に反対するものであるという趣旨の書簡を送つた。その中には、日本軍は敗退軍またはその追撃軍が満洲に入ることを防止するという明確な言葉があつた。満洲へ内乱が拡大する以前に於てさえも、日本軍は天津及び山東省に送られた。済南事変として知られている擾乱が続いて発生し、これは満洲にある日本の権益を擁護すべきであるという世論を捲き起した、黒龍会は、中国の行動に対する国民的憤激を戦争気分にまで煽り立てようとして日本全国にわたつて大衆的会合を催した。

(E-527)
張作霖元帥の殺害

  張作霖元帥はその権力を万里の長城の南に拡大しようとして、田中首相の勧告を無視したばかりでなく、各種の條約と協定に基いて取得した特権によつて、日本が中国を搾取するのを許すことについて、次第に喜ばなくなつてきたことを示した。元帥のこの態度によつて、関東軍の一団の将校は、満洲における日本の権益を伸張するために、武力を行使せねばならないと主張し、また元帥と交渉しても役に立たないという意見をもつようになつた。しかし、田中首相としては、その目的を達成するためには、武力を実際に行使するよりも、むしろこれを行使するという威嚇にたよつて、元帥との協力を続けた。元帥に対する関東軍の一部将校の右の憤激がはげしくなつたので、関東軍高級参謀の河本大佐は、元帥の殺害を計画するに至つた。この殺害の目的は、日本によつて支配される新国家を満洲に樹立することについて、その障害となつていた元帥を除き、その子である張学良を名目上の首班とすることにあつた。
一九二八年四月の後半に、元帥は蒋介石大元帥の国民党軍によつて破られた。田中首相は、元帥に対して、手遅れとならないうちに、日本軍の線の背後の満洲に引上げるように勧告した。この勧告に対して、元帥は憤慨したが、これに従うほかはなかつた。日本は敗退軍が満洲に入ることを防止するという田中の声明に従つて、関東軍は北平から奉天に向つて退却する中国軍の武装解除を行つた。元帥は護衛とともに、奉天行の列車に乗つた。朝鮮から奉天に到着していた日本の第二十工兵連隊は、鉄道にダイナマイトの地雷を埋設し、日本軍の一大尉は、その地雷の周囲に兵を配置した。(E-528)一九二八年六月四日、京奉鉄道が南満洲鉄道の下を通る点に埋設された地雷に元帥の列車が近づいたとき、爆発が起つた。元帥の列車は破壊され、日本軍兵士は元帥の護衛に向つて発砲した。元帥は計画通り殺害された。全関東軍に対する警急集合命令を発令させ、この事件を利用して、その最初の目的を達成しようと企てられた。しかし、この努力は、この命令の発令を望む者たちの真の目的を理解していなかつたと思われる一参謀将校によつて妨げられ、失敗に終つた。
  田中内閣は不意打ちをくい、その計画が元帥の殺害によつて危険に陥し入れられたのを見て、非常に困惑した。田中首相は天皇に詳細な報告をし、責任者を軍法会議に付する勅許を得た。かれは宮中から退出した後、陸軍大臣とその他の閣僚を招致し、陸軍の軍紀を粛正する決意であると述べた。その席にあつた者はこれに同意したが、陸軍大臣が陸軍省でこの問題を討議したときには、同大臣は参謀本部側の強力な反対に力を添えてはどうかと言つた。その後、陸軍大臣は首相に報告して、参謀本部の反対は、責任者を軍法会議にかければ、陸軍はその軍機事項の一部を公表しなければならなくなるだろうとの見解に基くものであると述べた。元海軍大臣岡田の証言によれば、陸軍が政府の政策の樹立に乗り出してきたのはこれが初めであつた。
  土肥原が後に重要な役割を演ずるように約束づけられていたところの舞台に登場したのは、このときであつた。(E-529)各種の中国人指導者の顧問を勤めていた坂西(バンザイ)中将の副官として、張作霖の殺害事件の前に、すでに約十八年間をかれは中国で過していた。一九三八年三月十七日に、張作霖元帥の顧問であつた松井七夫(ナナヲ)の副官として任命されるように、土肥原は天皇に奉請し、その許可を得た。土肥原はこの任命に基いて赴任し、張作霖元帥が殺害されたときは満州にいた。

通称ヤング・マーシヤル、張学良元帥

  ヤング・マーシヤルといわれた張学良が父の後を襲つたが、かれは関東軍にとつて失望の種であることがわかつた。かれは一九二八年十二月に国民党と合体した。排日運動は組織的な規模で促進されるようになり、非常に激しくなつた。中国の国権回復運動が盛んになつた。南満洲鉄道を回復し、また一般的に満洲における日本の勢力を制限せよという要求があつた。
  張作霖元帥が殺害されてから間もない一九二八年七月に、ヤング・マーシヤル張学良と交渉するために、田中首相は個人的代表を派遣した。この代表は、張学良に対して、日本は満洲をその前哨と見なすこと、また日本政府は『陰で』かれと協力するつもりであり、中国国民党軍による満洲侵入を防止するために、田中内閣の『積極政策』に従つて、どんな犠牲でも惜まない用意があることを通告するように訓令されていた。これに対する張学良の回答は、前に述べた通り、国民党に合体することであつた。

(E-530)
日華関係の緊張化

  満洲における日華関係は極度に悪化した。日本側は中国との『通商條約』の違反がいくつかあつたと主張した。南満洲鉄道に対する中国の並行線敷設の案、在満日本人に対して不法課税があるとの主張、朝鮮人に対する圧迫があるとの主張、及び満洲における日本臣民の借地権の否認などは、日本の煽動者の言葉によれば、すべて『満洲問題』であつた。軍部は日本の満洲占領を唱道した。軍部は外交交渉は無益であり、中国人を満洲から駆逐し、日本の支配のもとに新政糖を樹立するために、武力を行使しなければならないと主張した。一九二九年五月に関東軍参謀に任命されていた板垣は、武力行使の提唱者の一人であつた。さきに張学良元帥を訪問し、南満洲鉄道を代表して元帥と交渉することを企てたことがあつた大川博士は、日本に帰つて、一九二九年四月に五十以上の行政区画を巡遊し、講演と映画の旅行を行つた。南を参謀次長とする参謀本部は、大川博士と協力し始め、国民を使嗾して中国に対する行動を起させようとするかれの宣伝計画について、大川に援助を与え始めた。参謀本部はまた満洲における軍事行動のための計画の研究に着手し、満洲は日本の『生命線』であると唱え始めた。

田中内閣の辞職

 張作霖元帥の殺害の責任者を処罰しようとする田中内閣の努力は、軍部を離反させてしまつた。(E-531)文民の間に同内閣に対する反対をつくり出すために、軍部は大川博士と結託した。かれらは内閣を窮地に陥れる好機として、ケロツグ・ブリアン條約(附属書B―一五)の調印を捕え、それが日本憲法の違反であると主張し、また、内閣が承認した済南事件の解決條件を捕え、これを国辱であると主張した。この圧力がきわめて強くなつたために、一九二九年七月一日に田中内閣は辞職した。
  田中内閣の辞職は、軍部とその民間代弁者である大川博士との顕著な勝利であつた。この時から後、政府の政策に対するこの分子の影響力はだんだん強くなつた。そして、日本は武力によつて満洲を占領し、ここに傀儡政府を樹立せねばならないというかれらの主張は、実を結ぶことになつた。大川博士は政治的指導者として認められるようになり、南満洲鉄道会社の役員は、かれらにとつての大川の価値を認識し、一九二九年七月に東亜研究所を同会社から分離して一つの法人をつくり、それによつて、陸軍の満洲占領計画を支持するために、大川が行う調査と世論形成の事業を援助することにした。

『友好政策』の復活

  田中内閣のあとを継いだ濱口内閣は、一九二九年七月二日に組閣され、中国に対する『友好政策』をたえず唱道していた幣原男爵が、濱口首相によつて外務大臣に選ばれた。『友好政策』は、武力を使用するという威嚇に基く田中内閣の『積極政策』と異り、善意と友誼を基礎とするものであつた。『友好政策』の結果、中国側の日貨排斥は次第に下火になつたのであつて、軍部側の激越な煽動がなかつたならば、正常な平和的関係が全面的に行われたかもしれない。

(E-532)
橋本と桜会

  橋本は、その著書『世界再建の道』の中で、大使館附陸軍武官としてイスタンブールに三カ年間勤務していたことを述べているところで、他の国の政治的情勢について論じ、次のようにいつている。『日本だけは世界移動の渦中にありながら、依然として自由主義の圏内に立ち停まつていることが実に歴々として感ぜられる。もし日本が今日の状態で続けていくならば、国際社会の列から落伍してしまいはせぬかと考えた。このとき、幸いに帰朝命令に接した。航行三十余日の間に、私は日本をいかに改革すべきかということを、潜思熟考した。その結果多少の成案を得るに至つたのである。(E-533)そして古巣の参謀本部に帰り、直ちに右の意見を実行するために、諸種の方法を講じた。』橋本は一九三〇年一月三十日に参謀本部附となつた。
  一九三〇年九月一日ないし十日の間に、当時陸軍大学校を卒業したばかりの十数名の陸軍大尉が、橋本中佐の主催のもとに、東京の偕行社に会合して、満蒙問題と国内改革を研究するために研究会を組織することを決定した。この研究会の究極の目的は、いわゆる『満洲問題』とその他の懸案を解決するために、必要があれば、武力をもつて国内の改造を行うことであると後になつて発表された。研究会には『桜会』という名称が与えられ、その会員は、国家改造に関心を有する中佐以下の現役陸軍将校に限られていた。

日本の『生命線』としての満洲

 橋本が参謀本部に帰任したとき、大川博士は東亜研究所と参謀本部の将校たちとの援助によつて、宜伝活動に大童となつていた。満洲は日本の『生命線』であるという思想、これに関してさらに強硬な政策をとらなければならないという思想を確立するために、新聞とその他の機関を通して、宜伝が広く行われてた。軍部の指導者は、すべての論説記者、極端な国家主義的講演者、その他に対して、満州でいつそう侵略的な行動に出ることを支持する世論をつくるために、固結しなければならないという指示を与えた。(E-534)満洲は日本の『生命線』であり、日本は満洲に進出し、これを経済と産業方面から開発し、ロシアに対する防衛としておし立て、既存の篠約に基く権利に従つて、そこにある日本と日本国民の権益を保護しなければならないと軍部は主張した。日露戦争において、満洲で日本人の血が流され、この犠牲からして、日本は満洲を支配する権利があるといつて、感情に訴えた。満洲における鉄道問題は、依然として盛んに論じられていた争点であつた。大川博士は、『王道』に基く国家を建設するために満洲を南京から分離し、日本の支配下に置かなければならないと主張した。
橋本は、『革新の必然性』という著書の中で、『王道』という言葉の意味をよく説明している。『政治、経済、文化、国防凡てが天皇に帰一し、総力が一点に集中発揮せられるものたるを要する。殊に従来、自由主義乃至は社会主義によつて指導編成せられし政治、経済、文化方面を、皇道一体主義によつて再編成することである。この体制は、最も強力にして雄渾なるものである。世界国多しと雖も、天皇を中心に帰一一体となれる国民の血脈的団結に比すべきものは断じてあり得ないのである』とかれは述べている。
  日本と満洲の不可分的な関係のもとに、独立の満洲が『王道』に基いて建設された後には、日本はアジア民族の盟主になることができるというのが大川の思想であつた。(E-535)
  一九三〇年四月一日、参謀本部内に一般調査班が設けられた。関東軍調査班は満洲の資源、民情及びその他の類似した調査問題を調べるのに、不充分であると考えられたからである。
  旅順の関東軍司令部あたりでは、当時参謀将校の間の話題の中心は『満洲問題』であつた。その参謀将校の一人であつた板垣は、この問題を解決するについて、ある程度のはつきりした考えを持つており、一九三〇年五月にそれをある友人に話した。中国と日本との間には、多数の未解決の問題が存在しているが、これらの問題は非常に重大であるから、外交的手段によつては解決が不可能であり、武力を用いるほかないとかれはいつた。新国家を『王道』の理想に基いて建設するために、張学良元帥を満洲から駆逐しなければならないという意見をかれは表明した。

総理大臣濱口の暗殺

 一九三〇年十一月四日に、総理大臣濱口が東京駅のプラツトホーム上にいたとき、外務大臣幣原の言葉を用いれば、かれは『思慮なき一青年に射たれた。』総理大臣は即死はしなかつたが、その負傷は、一九三一年四月十三日に濱口内閣が辞職するまで、外務大臣幣原が総理大臣代理を勤めなければならないほど重かつた。その傷がもとで、総理大臣は一九三一年八月二十六日に死亡した。総理大臣代理幣原は調査を命じたが、それによつて、総理大臣濱口の暗殺はかれの海軍軍縮政策に対する不満から起つたものであるということが確定された。(E-536)
  ロンドン海軍軍備制限條約は、一九三〇年四月二十二日に調印された。この條約は、総理大臣の『友好政策』に伴う経済と軍備縮小の政策の線に沿つていた。陸軍を二十一箇師団から十七箇師団に縮減したことも、右の政策に副つていた。ロンドン條約の調印は、海軍の青年将校を憤慨させた。国龍会はこれに対する抗議として、民衆大会を開催し始めた。平沼が副議長であつた枢密院は、條約に対して極力反対し、同條約に調印することによつて、内閣は軍の権限と特権を侵害したという態度をとつた。暗殺事件が起つたのは、この激烈な政治的論争が行われている真最中であつた。

三月事件

  一九三一年三月二十日を期して、軍事的クーデターを起す計画が立てられた。この事件は、後に『三月事件』として知られるようになつたものである。参謀本部による絶え間ない煽動と宣伝の流布とは、その効果を挙げた。当事軍事参議官であつた岡田男爵が証言したように陸軍が満洲の占領を開始することは、単に時の問題であるというのが一般の人の考えであつた。陸軍が満洲に進出する前に、このような行動に対して好意を有する政府に政権を握らせることが必要であると考えられた。当時は濱口内閣が政権を握つていた。そして、総理大臣の暗殺未遂事件のために、『友好政策』の主唱者、すなわち外務大臣幣原が総理大臣代理をしていた。橋本の計画は、参謀次長であつた二宮と参謀本部第二部長であつた建川とを含めて、参謀本部の上官の承認を得たものであるが、それは議会に対する不満の意を表わす示威運動を始めることであつた。(E-537)この示威運動の中に、警察と衝突が起り、それが拡大して、陸軍が戒厳令を布き、議会を解散し、政府を乗つとることを正当化するような混乱状態にまで達せさせることができようと期待されていた。小磯、二宮、建川及びその他の者は、陸軍大臣宇垣を官邸に訪問し、この計画について宇垣と討議し、かれらの策謀のためには、宇垣はいつでも利用できる道具であるという印象をもつて辞去した。大川博士は、大衆示威運動に着手するよう指示された。小磯がその際使用するために確保しておいた三百個の演習用爆弾を、橋本は大川に届けた。これらの爆弾は群衆の間に驚愕と混乱を捲を起し、暴動のような外見を強くするために使用することになつていた。ところが、大川博士は熱心さのあまりに、陸軍大臣宇垣に宛てて書簡を送り、その中で、宇垣大臣が大使命を負うことになる時期が目前に差迫つたと述べた。陸相はいまや陰謀の全貌を見てとつた。かれは直ちに小磯と橋本を呼び、政府に対するこの革命を実行するために、陸軍を使用する今後のすべての計画を中止するように命令した。計画されていたクーデターは未然に阻止された。当時の内大臣秘書官長であつた木戸は、このことを宮中に知らせておくべきだと告げた友人によつて、この陰謀のことを前もつて充分に知らされていた。

(E-538)
若槻内閣は『友好政策』を継続した

 『三月事件』は濱口内閣の倒壊を早め、この内閣に続いて一九三三年四月十四日に若槻内閣が組織されたが、幣原男爵が抱懐していた『友好政策』を取り除くことには成功しなかつた。かれが総理大臣若槻のもとに外務大臣として留任したからである。朝鮮軍司令官を免ぜられ、軍事参議官になつていた南大将が陸軍大臣として選ばれた。陸軍の縮減を敢行し、また『三月事件』に参加することを拒んだために、陸軍の支持を失つた宇垣大将に代つて、南は陸軍大臣の地位に就いた。宇垣は陸軍を辞めて隠退した。

万寶山事件

  『友好政策』は、日本の世論に広汎な影響を及ぼした二つの『事件』によつて、さらに試練を受ける運命に遇つた。これらの『事件』の最初のものは、満洲の長春の北方約十八マイルにある小村落万寶山で起つた。この村落は伊通河に沿う低い湿地にある。朝鮮人の一団は、万寶山の附近に広大な一画の土地を借り、伊通河から数マイルにわたる水溝を掘ることによつて、土地を灌漑する準備をした。この水溝は、朝鮮人の借地契約に含まれていない中国人の農民に属する土地を横断することになつていた。灌漑水溝がすでに相当の距離にわたつて構築されてから、中国人農民は一団となつて立ち上り、万寶山当局に抗議した。その結果として、万寶山当局は警察官を派遣し、朝鮮人に対して直ちに工事を中止し、中国人に属する土地から退去することを命じた。長春の日本領事もまた朝鮮人保護のために警察官を派遣した。(E-539)交渉をしても何の効果もなかつたので、一九三一年七月一日に、中国人農民は、問題を自分等の手によつて解決しようとし、朝鮮人をその土地から追い出し、水溝を埋め立ててしまつた。こうしている間に、日本の領事館警察官は、中国農民に対して発砲し、これを追い払つた。その間に、朝鮮人はそこに帰り、日本の警察の保護のもとに、灌漑工事を完成した。この『事件』のために、死傷者は生じなかつたが、日本と朝鮮の新聞に記載された煽動的な報道の結果として、朝鮮に反中国の暴動が続発し、それによつて、中国人が虐殺され、その財産が破壊された。それがまた中国で日貨排斥を再燃させる原因となつた。
  このころに、『満洲問題』について懇談するために、陸軍省は南満洲鉄道株式会社の社員を招いた。この懇談の際に、南は陸軍を代表して出席し、自分は朝鮮の師団数を増加する必要を長い間認めていたと述べた。

中村事件

  一九三一年六月二十七日に、中村震太郎という日本の陸軍大尉が満洲の中国屯墾軍第三団長關玉衡の指揮下にある兵士によつて殺害された。この殺害は一九三一年七月十七日ごろまで日本側には知られるに至らなかつたが、これが第二の『事件』を引き起した。中村大尉は正規の日本陸軍将校であつて、日本軍の命令による任務に従事していた。中国側によれば、同大尉は武器を携帯し、売薬を所持していたが、その売薬中には薬用でない麻薬があつた。(E-540)かれは三名の通訳と助手を伴い、『農業技師』と自称していた。トウ(サンズイに"兆")南に近い一地点に着いたとき、かれと助手たちは逮捕されて射殺された。その死体は、右の行為の証跡湮滅のために焼き棄てられた。この『事件』は、『友好政策』に対する日本軍部の忿懣をますます刺激した。日本の新聞は、『満洲問題は武力を行使する以外に解決の途がない』ということを繰返して論じた。

陸軍の態度の硬化

  陸軍は軍備縮小と大蔵省の緊縮計画に関して態度を硬化し、天皇に訴えると脅かした。いわゆる、『幣原軟弱外交』のために、新聞紙上で、また極端な国家主義者や軍部によつて、外相は痛烈に非難された。桜会は武力を行使せよという煽動を引続き行つた。国龍会は民衆大会を開いた。大川博士はその宣伝に拍車をかけた。満洲を占領するという運動を支持する感情をつくり上げるために、かれは公開演説や出版物による運動を行つていた。かれは海軍兵学校でこの趣旨の演説をした。陸軍はまつたくその統制を失つてしまい、抑制することができなかつた。参謀長たちは会議を開き、張学良元帥がどんなことをするか判断がつかないから、これを断乎として仮借なく討ちのめさなければならないと決定した。大川博士は、一友人に対して、自分と板垣大佐及び他のある陸軍将校は、『満洲問題』を全面的に解決する『事件』をやがて奉天で起すつもりだと打明けた。(E-541)満洲における陸軍将校の、このような目的のための陰謀につて、早くも一九三一年六月二十三日に、木戸は原田から話を聞いたことを認めている。
  一九三一年八月四日に、南は師団長会議で訓示を行い、次のように述べた。『近接諸邦の事情を研究せざる観察者たちは、軽率に軍備縮小を唱え、国家並に軍にとり不利なる宣伝をなしている。満蒙は我が国防並に政治、経済的見地から、我が国とは密接なる関係にある。支那の此の方面の最近の情勢は遺憾ながら我が帝国にとり不利なる状況に傾きつつある。斯かる状勢に鑑み、私は諸君に、軍の教育、訓練の義務を陛下の御目的に完全に沿い得る如く、熱心且つ誠実に遂行せられん事を望む。』
  軍縮国民同盟はこの演説について南に反対し、かれにあてた書簡で、陸軍刑法に反して軍のうちに宣伝を行つているものであると非難した。
  橋本中佐と、同じく桜会の会員であつた重藤中佐とは、一九三一年八月に、東京で友人藤田の自宅で会食した。食事中に、『満洲問題』が話題にのぼり、両中佐は満洲で積極的行動に出なければならないということに意見が一致した。数日の後に、重藤中佐は藤田の自宅に現われ、多額の金の保管を托した。それから数日の間に、重藤はこの資金の中から、いろいろな金額の金を持ち出した。『奉天事件』の後に、藤田は重藤の自宅を訪れ、『貴方は貴方が満洲で考えていたことを成し遂げましたね』と叫んだ。重藤は『うん』と答えてほほ笑んだ。(E-542)それから、つけ加えて、『われわれは張学良を満洲から追い出し、溥儀を満洲に連れてきて、東三省の統治者に立てる』といつた。藤田は橋本に質問したところが、『うん、来るべきことが来た』という答を受けた。

(E-543)
土肥原の調査

  一九二九年三月に中国から帰国して以来、参謀本部附であつた土肥原大佐は、参謀総長から、中村大尉の死亡を調査するために派遣された。かれの使命は、表向きは中村大尉の死亡を調査することであつたが、ほんとうの使命は、中国軍の兵力、訓練及び内部の状態、並びに通信組織の能力を判定することにあつたようである。土肥原は東京を一九三一年七月に出発し、上海、漢口、北平、天津を経由して奉天に到着した。中村事件の調査は、かれが中国で果さなければならなかつた使命のうちの単に一つであつたことを、かれは認めている。関東軍司令部は旅順にあつたが、その特務機関の本部は奉天にあつた。土肥原は奉天に一九三一年八月十八日に到着し、特務機関の指揮をとつた。

外務大臣幣原の調査

 外務大臣幣原は、満洲でかれの『友好政策』を実行し、陸軍に対して『中村事件』を利用する機会を与えないことを切望した。そして、この事件を調査し、解決する訓令を与えて、一九三一年八月十七日に東京から林総領事を派道した。林総領事は遼寧省主席を訪問した。同主席は、『事件』を調査し、報告するために、調査委員会を任命した。この委員会は一九三一年九月三日に報告をしたが、その報告は、中国当局にとつて、不満足なるものであつた。(E-544)九月四日に、林総領事は、中国参謀長榮臻将軍から、委員の報告は不明確であり、また不満足であるから、再度詞査の必要があるという通告を受けた。病気ために、北平で入院していた張学良元帥は、この事態について報告を受け、直ちに新たな調査団を任命し、中村大尉の死亡を調査する訓令を出すように命令した。それと同時に、かれは柴山少佐を東京に派遣して、外務大臣幣原と懇談させ、本件を友好的に解決するかれの希望を明らかにさせた。その間に、張元帥はある高官を東京に派遣し、幣原男と会談して、当時懸案となつていた中国と日本との種々の問題を解決するために、なにか共通点を見出すことができないかということを確めさせた。

参謀本部に対する土肥原の報告

  土肥原大佐は、参謀本部に報告するために、九月初旬に東京に帰つた。かれが東京に着いてから、満洲のすべての懸案は、かれの進言に基いて、武力をもつて解決することに決定されたということを新聞は盛んに書き立てた。また、陸軍省と参謀本部との間に、土肥原大佐に与える明確な訓令をきめるために、会議が行われているということも報道した。これらの記事は、事実を正確に報道したものであるかどうかはわからない。(E-545)いずれにしても、それは当局によつて否定はされなかつた。これらの記事は、中国に対して武力を用いた方がよいという日本の世論をいよいよ煽り立てた。土肥原大佐は、中村事件の解決に関して、林総領事と意見を異にし、事件の満足な解決に到達するために努力していた中国側の誠意に対して、依然として疑いを懐いていたということが立証されている。陸軍大臣南は、その後に、ある友人に対して、当時かれは陸軍の意見に従つて、『満洲問題』の決定的解決を主張したと打明けた。木戸は、内大臣秘書官長として、一九三一年九月十日の日記に、満洲に関して、将来の進展によつては、『自衛権』の発動を避けられなくなるであろうといい説に大体賛成であると記している。

外務大臣幣原は仲裁の努力を続けた

  陸軍が奉天で『事件』を企てているという風説が東京で拡まり、これらの風説が外務大臣幣原の耳にはいつた。実際において、幣原は次のように述べた。『満洲事変直前、外相として、関東軍が軍隊の集結を行い、或る軍事目的の為に弾薬物資を持ち出して居る旨の機密報告及び情報を受け、又或る種の行動が軍閥に依つて目論まれて居ると云う事も、其のような報告から分りました。』(E-546)
  本裁判所に提出された証拠によれば――これらの事実は、当時幣原の知るところではなかつたが――独立歩兵守備隊第二大隊に属する中隊の指揮官として、撫順に駐屯していた川上中尉あるいは大尉は、かれとその中隊が撫順を離れることについて関東軍司令官の命令を受けていたようである。右の大隊の残りの各中隊は、奉天に駐屯しておつて、九月十八日に奉天の中国側の兵営に対する攻撃に参加した。川上が司令官から受けた命令の全内容は立証されていない。しかし、右の命令は、ある非常事態が起つたときは、川上とその中隊は列車に乗つて撫順を出発せよという趣旨のものであつた。そこで、川上は撫順の日本人警察官、在郷軍人及び民間人を集め、かれらに対して、もし一九三一年九月十八日に奉天で事件が起り、かれとその中隊が撫順を離れなければならないようになつた場合にはどうするかと聞いた。かれとその中隊が撫順を去つた場合の同市の防備について、川上は心配していたと言われている。かれはさらに撫順の満鉄社員を集めた。かれらに対して、九月十七日以後に、ある緊急事態が発生するかもしれないから、撫順で列車の手配をしておかなければならないと言つた。そのときまでは、撫順では、非常事態の場合、部隊を移動するための夜行列車の準備が、何もできていなかつたように思われる。川上はこのような準備をするようにと希望した。
  この最も意味深い事柄に関して、弁護側の主張は、次の通りである。特に九月十八日という日に関連した命令を、川上は何も受けていなかつたということ、かれに対する命令は、万一非常事態が起つた場合には、ある行動に出るようにとの一般的なものであつたということ、情勢を観察した上で、川上は非常事態が九月十八日ごろ発生するかもしれないと推測したということ、そうして、かれが撫順の人々に話したときに、その日附を述べたのは、単にかれ自身の臆測に基くものであるということである。(E-547)弁護側によれば、このようにして、奉天の日本軍に対して、中国側が奇襲を行うことになつていた正確な日時を、川上は推測したことになる。九月十八日の事件に関連するすべての事実を考慮した上、裁判所はこの説明を躊躇なく棄却し、川上は九月十八日の夜間に起ることになつていた非常事態に際して、一定の行動に出る命令を受けていたのであり、撫順で夜間使用できる列車の準備がなかつたので憂慮していたものと認定する。
  幣原は林の報告を受けると、直ちに陸軍大臣南を訪問し、この報告に対して、強硬に抗議した。その間に重光は中華民国の財政部長であつた宋子文氏と会談していた。そして、かれらは一九三一年九月二十日に奉天で落ち合うこと、日本と張学良元帥との間のすべての懸案を解決するために、張元帥及び南満洲鉄道会社総裁の内田伯と懇談することについて同意した。

関東軍の夜間演習

  一九三一年九月十四日に、中国第七旅団の兵営の附近で、関東軍は夜間演習を始めていた。これらの兵営は、奉天のわずか北方の南満洲鉄道線路の近くにあつた。(E-548)この演習では、猛烈な小銃と機関銃の射撃が行われた。日本軍との衝突を避けるために、張学良元帥の命令によつて、第七旅だ団の将兵一万が兵営内に足留めされていた。これらの演習は、一九三一年九月十八日の夜に入るまで続けられた。
  中村事件を解決しようとして、林とともに努力していた領事館員森島氏は、重要な炭坑地区である撫順駐屯の関東軍部隊が、一九三一年九月十八日夜十一時三十分ごろに撫順を出発して、奉天の占領を想定した演習を実施する計画になつていたことを知つた。

張学良元帥の調査委員の奉天帰還

  中村事件を調査していた張学良元帥の調査委員は、一九三一年九月十六日の朝、奉天に帰還した。一九三一年九月十八日の午後、日本領事は中国軍の参謀長榮臻将軍を訪問した。その際に、同将軍は、關玉衡団長が中村大尉殺害の責任を問われ、一九三一年九月十六日に奉天に召喚され、直ちに軍法会議に付されることになつていると述べた。事件は解決されるもののように見受けられた。しかし、領事と榮将軍の会談は、午後八時ごろに打切られた。問題が軍人に関連しているので、中国側官憲に対してさらに何か申入れをするには、その前に関東軍の適当な代表者と協議することが必要であると思われたからである。
  領事館の森島氏は、その夜遅くさらに開かれることになつていた会議に、適当な陸軍の代表者が出席するように取計らうことを言いつけられていた。(E-549)かれは土肥原大佐や花谷少佐と連絡をとろうと試みた。かれらのホテル、事務所、宿舎及びその他かれらの頻繁に出入りする場所を探したけれども、かれはこの両名のどちらも見つけることができず、特務機関の他のいかなる将校を見つけることができなかつた。かれはこの旨を領事館に報告し、自分の宿舎に帰つた。

南の特使は本務を果さなかつた

  参謀本部の建川少将は、一九三一年九月十八日の午後一時に、安奉線経由で、奉天に到着した。かれは参謀本部のために現地視察を行うように満洲に派遣されたのであつた。陸軍が十八日に奉天で『事件』を計画しているという風説に対する外務大臣幣原の抗議に基いて、南は建川にこの策謀を阻止するように指示したのである。南は建川にこのような命令を出したことを否認したが、これについては、その後の南の陳述と建川の他の陳述とによつて、反証が挙げられている。関東軍司令官本庄は、ちようど部隊や施設の検閲を終つて、遼陽の第二師団に訓示を与えていたときに、旅順にいたかれの参謀長三宅から電報を受取つた。この電報は、建川が満洲に来たことを通知し、かつ、板垣参謀か石原参謀に、建川を出迎えさせ、その視察旅行に随行させてもらいたいといつてきたものである。
  板垣大佐はこの任務を受け、遼陽から奉天に向つた。そして、奉天に到着すると、すぐ瀋陽館に入つた。土肥原の補佐官であつた奉天特務機関の花谷少佐は、建川少将を出迎え、板垣大佐の旅館に案内し、その夜そこで板垣大佐と建川少将は夕食をともにした。(E-550)板垣によると、建川少将は旅行中休息することができなかつたとこぼし、その場で仕事の話をする気にはならなかつたが、青年将校の軽挙妄動について上官が憂慮していると述べたということである。これに対して、板垣はそれについては心配は無用であると答え、いずれ明日ゆつくり話を聞こうといつた。夕食の後に、板垣は建川少将と別れて特務関関に向い、午後九時ごろそとこに着いた。建川少将は、その後、友人に対して、計画された『事件』に干渉する意志は毛頭なく、また旅館に連れこまれたのも承知の上であり、遠い砲声を聞きながら、芸者にもてなされ、その後自分の部屋に帰つて、朝起されるまで熟睡していたと語つた。

奉天事件

  一九三一年九月十八日の夜九時、第七旅団の兵営で、劉という一将校は、普通の形の機関車をつけていない三、四輛の客車からなる列車が兵営の前の南満洲鉄道の線路に停車していると報告した。午後十時に爆発の大音響があり、すぐ続いて、銃声が起つた。日本側の説明によれば、関東軍の河本中尉が兵卒六名を率いて巡察任務についており、爆発の起つた鉄道線路の附近で警備演習を行つていた。中尉は爆発の音を聞いた。巡察隊は方向を転じ、約二百ヤード駈け戻り、軌道の片側の一部分が爆破されているのを発見した。その爆破地点にいたとき、巡察隊は線路の東側の畠地から射撃された。河本中尉は増援を求めた。ちようどその時に、午後十時三十分奉天着の南行定期列車が接近しつつあるのが聞えた。(E-551)この列車は破損した軌條の上を無事に通過し、定刻に奉天に到着した。以上のように日本側は説明している。川島大尉とその中隊は、十時五十分に現場へ到着した。独立歩兵守備隊第二大隊の大隊長長島本中佐は、さらに二箇中隊に対して現場に向うことを命じた。それは真夜中ごろに到着した。一時間半の距離にある撫順にあつた他の一箇中隊も、現場に向うように命ぜられた。この中隊こそ、自分と自分の中隊は、十八日の夜に撫順を出発しなければなちないと、ずつと前に言明した川上の中隊である。中国第七旅団の兵営に電燈が煌々とついていたが、日本軍は小銃や機関銃とともに大砲を用いて、午後十一時三十分に、躊躇することなく、この兵営を攻撃した。中国兵の大部分は兵営から逃がれ、東北方の二台子に退却した。しかし日本側は中国兵三百二十名を埋葬し、負傷者二十名を捕えたと称している。日本側の損害は、死者が兵二名、負傷者が二十二名であつた。第二十九連隊の連隊長平田大佐は、午後十時四十分に、島本中佐から、鉄道線の爆破と右の兵営の攻撃に関する計画とを知らせる電話を受けた。かれは直ちに奉天城の攻撃を決意した。その攻撃は午後十一時三十分に始つた。なんの抵抗もなく、交戦のあつたのは警察との間だけで、巡警の間に約七十五名の死者を生じた。第二師団と第十六連隊の一部とは、十九日の午前三時三十分に遼陽を出発し、午前五時に奉天に到着した。兵工廠と飛行場は、午前七時三十分に占領された。後になつて、板垣大佐は、十日に日本の歩兵部隊の兵衛内に秘密に据えつけられた重砲が、戦闘のはじまつた後に、飛行場の砲撃に役立つたということを認めた。板垣は建川と別れてから、特務機関の事務所に行つた。板垣によると、かれはそこで島本大佐から中国第七旅団の兵営を攻撃する決意を、また平田大佐から奉天城を攻撃する決意を聞いた。(E-552)板垣はこれらの者の決意を是認し、旅順における軍司令官に報告する処置をとつたと述べている。

板垣は交渉を拒絶した

  この間に、一九三一年九月十八日の夜十時三十分日本領事館の森島氏は、奉天の陸軍特務機関から電話を受け、南満洲鉄道の爆発があつたことと、奉天の特務機関本部に出頭するようにということを知らされた。かれは十時四十五分に本部に着き、そこで板垣、花谷少佐及びその他のいく人かの者に会つた。板垣は、中国軍が鉄道を爆破したこと、日本は適当な武力的処置をとらなければならないこと、この趣旨の命令がすでに発せられたことを語つた。森島氏は、事件の調整のためには、平和的交渉によらなければならないということを板垣に説得しようと試みた。すると、板垣はかれを叱責し、総領事館は軍指揮権に干渉するつもりか知りたいといつた。森島氏は、この事件は正常の交渉によつて円満に解決することができることを確信していると主張した。すると花谷少佐は立腹した態度で軍刀を抜き、もし森島が自説を固執するならば、ひどい目に遭わされる覚悟をせよといつた。花谷は、また、余計な口を出すものは、だれでも殺してしまうと言つた。それによつて、この会談は打切られた。
  日本領事館は、その夜の間、張学良元帥の最高顧問から、総領事館が、日本軍を説得して攻撃を止めさせるようにと懇願する要請をいくたびも受けた。このような申入れは、すべて軍に通達されたが、なんの甲斐もなく、戦闘は依然として続いた。(E-553)九月十八日の夜から十九日の朝にかけて、総領事は幾度も電話を板垣にかけ、戦闘を中止するように説得しようとしたが、板垣大佐は傍若無人の態度をかえず、その都度、総領事に対して、軍指揮権に干渉することを止めろと言つた。林総顔事は一九三一年九月十九日の朝、外務大臣幣原に電報を打ち、『中国側より数回事件円満処理申出の次第もあり、本官より板垣参謀に電話を以て日支両国は未だ正式に交戦状態に入りたる訳にあらさるのみならず、支那側は全然無抵抗主義に出づる旨声明し居るを以て、此際不必要に『事件』を拡大せさる様努力する事肝要にして外交機関を通じ事件を処理する様せられたしと電話したるが、同参謀は国家及び軍の威信に関するを以て、徹底的にやるべしとの軍の方針なりと答へたり』と述べたのである。

奉天事件は計画的なものであつた

  『奉天事件』が参謀本部附の将校、関東軍の将校、桜会の会員及びその他のものによつて、あらかじめ綿密に計画されたものであつたことについては、証拠が豊富にあり、その証拠は確信するにたりるものである。橋本を含めて、その計画の参画者のうちの数名は、いろいろ機会に、この計画における自分の役割を認め、『事件』の目的は、関東軍による満洲占領の口実を設けるためであり、また日本の意のままになる『王道』新国家の建設であつたと語つている。(E-554)日本内地では、参謀本部の建川少将がその指導者であつた。これは、幣原の抗議に基いて、南が陰謀を阻止するために奉天に遣つた建川と同じ建川であり、また計画された事件に干渉する意思は毛頭なかつた建川と同じ建川であつた。満洲では、板垣が主要人物であつた。九月十八日の夜の日本軍の行動に関する一般の弁護として、また、板垣のように、その夜活動した人物のための特定の弁護として、弁護側が本裁判所に提示した申立ては、次の通りである。その夜より前に、満洲の中国軍の兵力が増加されたために、合計一万足らずであつた満洲の日本軍は、兵力約二十万の、しかも日本軍より装備の優れたところの、敵意のある軍隊と対時することになつたということ、事件の少し前から、中国軍の配置が変更されたので、鉄道沿線にばらつと小部隊に分散配置されていた日本軍は、中国軍の集結と対峙し、全滅される脅威を受けていたということ、日本軍に対する中国軍の態度は挑発的であり、侮辱的であつたということ、あらゆる徴候から見て、中国軍は挑発されないのに日本軍を攻撃する傾きを示し、その際に、日本軍としては、直ちに決定的な反撃を加えない限り、圧倒されてしまうことになるということである。従つて、もし中国側が攻撃した場合には、関東軍は主力を奉天附近に集結し、奉天附近の中国軍の中枢に深刻な打撃を与え、こうして敵の死命を制することによつて、問題を短期間に解決しようという計画を立てていたと言うのである。奉天独立守備隊の兵営内に重砲二門を秘密に据えつけたということは、この計画の一部であつた。以上が板垣の証言である。(E-555)板垣のいうところによれば、右のような次第であるから、九月十八日の夜、鉄道の爆破と中国側の兵営の外の戦闘のことをかれが聞いたときに、これは日本軍に対する中国正規軍の計画的挑戦であることが明瞭であつた。そこで、絶対に必要でもあるし、万一に処する際のために作成されていた軍の作戦計画にも一致していたから、かれは中国の兵営と奉天城を攻撃する決定を承認したと言つている。
  このように着色して事件を説明すると、中国軍が圧倒的な多数の兵力で奉天附近の約一千五百名の日本軍に計画的な攻撃を加えたこと、予期されていなかつたことから起つた奇襲であつたこと、優勢な部隊の中枢に対して日本軍が迅速に反撃を加え、それによつて中国軍が敗走したということになる。しかし、この説明は、ただ一点を除いて、すなわち、奉天が占領され、中国軍が駆逐されたという一点を除いて、虚偽である。
  中国軍は日本軍を攻撃する計画を全然もつていなかつた。かれらは不意討ちをされた。数千名の中国兵がいた兵舎を攻撃するにあたつて、日本軍は暗やみから燈火の明るい兵営に向つて射撃し、主として退路を遮断された若干の中国兵から、わずかばかりの抵抗を受けただけであつた。奉天市を占領するにあたつても日本軍は若千の警官の、ほとんど問題になほどの抵抗を受けたにすぎなかつた。
  その夜の出来事によつて、日本側が驚いたなどということはあり得ない。一九三一年九月十八日の相当以前から、陸軍が奉天で『事件』を計画しているという風説が日本で拡がつていた。撫順の川上中尉は、一九三一年九月十八日に奉天で『出来事』が起るかもしれないということを洩らしている。林総領事は、外務大臣にあてて、撫順の一中隊長が一週間以内にい大きな『事件』が起ると言つたという報道を打電している。(E-556)奉天の日本領事館員の森島は、撫順駐屯の関東軍の部隊が、一九三一年九月十八日の夜の十一時三十分に撫順を出発して、奉天占領を想定した演習を実施することを知つていた。外務大臣は、自分の入手した情報を充分信用していたので、陸軍大臣に向つて、このようなことは困るといつて抗議し、これを説得して、『陰謀阻止』のために建川少将を満洲に派遣させた。この少将というのは、計画された『事件』に干渉するつもりは毛頭なかつたので。その使命を果さなかつた。しかも、日本側が主張するように、一中尉と兵六名からなる巡察斥候が、一九三一年九月十八日の暗夜に射撃を受けると、満洲にある日本軍の全部隊は、長春から旅順まで、約四百マイルに及ぶ南満洲鉄道の沿線の全地域にわたつて、その夜ほとんど同時に行動を起した。安東、営口、遼陽、その他の小さい町の中国部隊は圧服され、無抵抗で武装を解除された。日本の鉄道警備隊と憲兵は、これらの地点に留まり、第二師団の各部隊は、さらに重要な作戦に参加するために、直ちに奉天に集結した。板垣は奉天の特務機関にあつて、日本軍の最初の攻撃に承認を与え、林総領事が中国側は無抵抗主義に出ると声明したことを知らせたにもかかわらず、かれを説得して戦闘を停止させようとする日本総領事林と日本領事森島とのあらゆる努力を斥けた。日本人の間でさえ、この『事件』は日本側によつて計画されたのであると信じていたものがあつた。事件が起つてから一年の後、天皇が『事件』は風説通り日本の計画の結果であつたかと質問している事実さえ現われている。裁判所は日本側の主張を却下し、一九三一年九月十八日のいわゆる『事件』は、日本人によつて計画され、また実行されたものであると認定する。(E-557)
  中国において戦争を行うための準備は、関東軍に限られてはいなかつた。日本内地では、これから起る出来事をいかにも予期していたかのように、一九三一年八月一日に、異常な人事の異動があつた。大島、小磯、武藤、梅津、畑及び荒木のように、信頼されていた将校がこの人事の異動に含まれていた。大島は参謀本部の課長、陸軍技術会議議員、及び軍令部との連絡将校に任命され、小磯は中将に任ぜられ、武藤は陸軍大学校兵学教官を免ぜられて、参謀本部員となり、梅津は参謀本部総務部長となり、畑は中将に進級し、砲兵監に、また第十四師団長に補せられ、荒木は教育総監部本部長に任ぜられた。

本庄中将が奉天で指揮をとる

  板垣大佐は、現地の先任参謀として、奉天で『事件』中実際の指揮にあたつていたが、本庄中将が一九三一年九月十九日の正午に奉天に到着するに及んで、これによつて代られた。本庄中将は『奉天事件』を『満洲事変』として知られるに至つたものにまで急速に拡大した。
  本庄は、奉天を攻撃した第二師団に調示を与えた後、一九三一年九月十八日午後九時ごろ旅順に帰着した。本庄は奉天の戦闘の第一報を午後十一時ごろ一通信社から受取つた。かれは直ちに旅順の関東軍司令部に赴き、そこですでに立てられた作戦計画に従つて行動するように命令を発した。証拠によれば、九月十八日の夜半を数分過ぎたとき、奉天の特務機関からの第二電が関東軍司令部に到着し、戦闘がさらに拡大したことと、中国軍が増援部隊を送つていることが報告された。たといこのような意味の電報が接受されたとしても、中国軍が増援部隊を送りつつあつたという話は、事実無根であつた。中国軍は、日本軍の攻撃によつて、総退却をしていたのである。本庄の幕僚は、『日本の全武力を動員して、できるだけ速やかに敵の死命を制しなければならない』と進言した。本庄は『よろしい、そうしよう。』と答えた。満洲の全日本軍を出動させる命令が直ちに発せられ、朝鮮の日本軍は既定計画に従つて増援部隊を送るように依頼され、かつ第二艦隊が営口に向けて出航するよう要請された。これらの命令によつて、満洲の全に歩軍と朝鮮にあつた日本軍の一部とは、一九三一年九月十八日の夜に、長春から旅順に至る南満洲鉄道の沿線全地域にわたつて、ほとんど同時に行動を起した。
  奉天に到着すると同時に、本庄中将は停車場に司令部を置き、中外に膺懲の戦を行う旨を宣明した。

関東軍の行動を、南は認めた

 陸軍大臣南は関東軍の行動を承認し、政府の效果的な干渉を阻止するために、関東軍と内閣との間の緩衝の役割をつとめた。一九三一年九月十九日午前三時ごろ、奉天の特務機関からの電報によつて、かれは同地の情況に関する情報を受取つた。(E-559)総理大臣若槻は、一九三一年九月十九日の朝、六時から七時の間に、南からの電話によつて、初めてこの戦闘のことを聞いた。総理大臣は閣議を午前十時に開くことにした。南は陸軍省軍務局長小磯中将を参謀本部と内閣との連絡将校として出席させた。閣議で、南は中国軍が奉天で日本軍に発砲し、日本軍はこれに応戦したと報告した。南は日本の行動を『正当な自衛権の発動である』と称した。内閣はこの事件を即刻終結させたいという希望を表明した。南は調査の上で閣議に報告すると述べた。そこで、内閣は『事件』の不拡大方針を決定した。同日の午後一時三十分に、総理大臣は天皇のもとに赴き、状況と内閣の決定を報告した。天皇は、陸軍が事態をこれ以上拡大せず、軍が優勢になり次第行動を打切るということに同意した。『事件』の拡大を防止するという政府の決定を関東軍司令官に伝達するためであると言つて、南は橋本中佐と参謀本部附の将校二名を奏天に派遣した。
  陸軍を抑制することはできなかつた。総理大臣は、『事件』の不拡大方針実施を励行するについて、援助を求めるために必死になつて奔走したが、成功しなかつた。陸軍を抑制する方法を見出そうとして、一九三一年九月十九日の夜八時三十分に、総理大臣は宮内大臣の官邸で会合を開いた。それには、元老西園寺公の秘書原田男、内大臣秘書官長木戸、侍従長、侍従次長及び侍従武官長その他が出席した。(E-560)この際の唯一の提案は木戸が出したものであり、かれは毎日閣議を開いてはどうかといつた。この提案は、後になつて、何の効果もないことがわかつた。というのは、閣議のたびに、陸軍大臣南は、『戦略上と戦術上』の理由から、さらに一定の距離まで日本軍は中国軍を中国領土内に追撃する必要があつたこと、このような行動は単に『保護的』な手段であつて、どのような意味でも拡大されることはなかろうと報告したからである。しかし、ちようどこのときに、中国側は宋子文外交部長を通じて、紛争がさらに拡大するのを防ぐために、日本人と中国人の双方からなる協力な委員会を組織することを提案した。重光はこの提案を外務大臣幣原に報告するにあたつて、他の理由はとにかく、『事件』に関する日本の立場を強めるだけのためにも、この提案を受け入れた方がよいと進言した。その当時の規則では、朝鮮軍が朝鮮以外の地域で作戦を始めるには、天皇の裁可が必要であつたが、それにもかかわらず、天皇の裁可なしに、朝鮮国境の新義州に集結していた兵力四千と砲兵かちなる第二十師団の第三十九混成旅団は、一九三一年九月二十一日に、鴨緑江を渡つて満洲に入り、その日の夜半ごろ奉天に到着した。それにもかかわらず、一九三一年九月二十二日に、内閣はこの行動のために要した経費を支出することを決定し、後になつて、この出動に対する天皇の裁可を得た。(E-561)この出動について、南は内閣に報告していなかつた。一九三一年九月二十二日の閣議で、陸軍の侵略の続行を許したことについて、南はさらに言訳をした。総理大臣若槻が言つたように、『拡大は日を逐うて続けられ、自分は陸軍大臣南と幾度か会議しました。自分は毎日地図を示されました。そして南は、軍が今後越えないはずの境界線を示すのでありました。そして殆んど日毎にこの境界線は無視され、さらに拡大されたことが報ぜられました。しかしいつもこれが最後の行動であるとの保証がついて』いたのであつた。(E-562)
  天皇は内閣の不拡大方針を承認したけれども、天皇がその側近者に動かされて、このような意見をもつようになつたことに対して、陸軍は憤慨しているという話が原田男邸の会合で出た、と木戸はその日記に記している。この会合に出席した人々は、内閣の方針に関して、天皇はこれ以上何を言わない方がよかろうということ、また、元老西園寺公は、かれに対する軍部の反感がさらに激しくなるのを避けるために、東京にいない方がよかろうということにきめた。このようにして、南の連絡官小磯による南と参謀本部との有効な協力によつて、政府は『奉天事件』がさらに拡大することを阻止しようとする決定を励行することができなくなつた。この点は、関東軍のとつた行動を是認していたということを、日本の降伏後に、南がみずから認めたことによつて確認されている。

奉天に帰還した土肥原大佐

  満洲で『事件』が起つたときには、土肥原大佐はすでに、参謀本部に対する報告を終え、懸案中のすべての『満洲問題』を、できるだけ早く、武力によつて解決しなければならないと進言した上、満洲に『王道』を基礎とした新国家を組織するのに主要な役割を演ずるために、奉天の特務機関に帰任する途中であつた。中国とその国民についての土肥原の広汎な知識は、次々に現われた中国の軍指導者の軍事顧問として、約十八年間にわたつて、現地の政治に実際に参加して得られたものであつて、これによつて、かれは他のいずれの日本陸軍将校にまさつて、『奉天事件』を計画し、実行し、利用するについて、全般的な助言者と調整者としての役を果すのに適任者となつたのである。(E-563)これが土肥原によつて演じられた役割であつたことは、疑うことができない。かれが中国を視察旅行し、参謀本部に報告する前に奉天にしばらく滞在したこと、『事件』が発生する直前に奉天に帰還したことは、その後のかれの行動と併せて考えてみるならば、われわれはどうしても右の結論に達するほかない。

奉天市長としての土肥原大佐

  遼寧省の臨時政府を組織することは、奉天が遼寧省の中心であり、また戦闘中有力な中国人がほとんど全部錦州に遁れ、そこで省の行政を続けていたために、困難なことであつた。同省の省長であり、奉天に留つていた中国の将軍臧式毅は、新し臨時政府の樹立について、日本と協力することを拒絶した。このために、かれは直ちに逮捕され、投獄された。このように、中国人側が協力しないことによつて、その意図を妨げられた日本軍は、一九三一年九月二十一日に、土肥原大佐を奉天市長に任ずる布告を発した。かれは、主として日本人からなるところの、いわゆる『非常時委員会』を使つて、同市の施政を始めた。一九三一年九月二十三日までには、土肥原は同市の完全を支配者となつており、奉天に来た新聞記者によつて、かれは日本軍司令部にいて、陸軍の政治的代表者かつ代弁者としての役をつとめていることを発見された。このときから、東三省の臨時政府を組織することは着々と進行した。一九三一年九月二十三日に、熙洽中将は吉林省の臨時政府を組織することを要請され、その翌日、衰金凱氏を『治安維持委員会』の主席とする遼寧省の臨時政府が組織されたことが発表された。(E-564)日本の新聞は、これを分離運動の第一歩として賞賛した。

(E-565)
自治指導部

  自治指導部は、奉天の日本陸軍によつて、一九三一年九月の後半に組織された。指導部の目的は、独立運動を起し、満洲全土にこれを拡めることであつた。板垣大佐は参謀部の中の、指導部を監督する課を担当していた。土肥原大佐は、特務機関長として、中国人に関する一切の必要な秘密情報を指導部に提供した。指導部の部長は中国人であつたけれども、指導部に使用されていた職員の約九割は満洲に住んでいた日本人であつた。
  熙洽将軍は日本側の招請を受諾し、政府機関と日本人願問の会合を招集し、九月三十日に日本陸軍の保護のもとに吉林省の臨時政府を樹立する宣言を発した。
  特別区行政長官張景惠将軍も、一九三一年九月二十七日に、『特別区非常時委員会』の組織を討議するために、ハルピンのかれの事務所で会議を開いた。
  本庄中将は、吉林省の間島という町で起つた些細な出来事を口実にして、日本はもはや張学良元帥の政府を認めず、張の勢力が完全に破壊されるまで、軍事行動を停止しないという発表をした。

抗議と誓約

  中国は国際連盟に満洲における日本の行動に対する抗議を申し入れた。この抗護は一九三一年九月二十三日に提出された。連盟理事会は、日本政府から、日本は鉄道附属地帯にその軍隊の撤収を開始し、かつこれを続行するものであるという誓約を与えられた。(E-566)この誓約によつて、一九三一年十月十四日に再開されるまで、理事会は休会した。
  アメリカ合衆国もまた満洲における戦闘に対して抗議し、一九三一年九月二十四日に、既存條約の規定に対して、日本と中国双方の注意を喚起した。その日の閣議の後に、ワシントンの日本大使はアメリカの国務長官に通牒を手交した。この通牒の中には他のいろいろのことと共に、次のようなことが述べられていた。『日本政府が満州でなんらの領土的意図を抱くものでないことは、あえて繰返す必要がないであろう。』

(E-567)
十月事件

  国際連盟と合衆国に与えたこれらの誓約は、内閣と陸軍との間には、満州における共通の政策について、意見の一致がなかつたということを示した。この意見の相違がいわゆる『十月事件』を引き起した。これは政府を顛覆するクーデターを組織し、政党制度を破壊し、陸軍による満洲の占領と開発の計画を支持するような新政府を立てようとする参謀本部のある将校たちとその共鳴者との企てであつた。この陰謀は桜会を中心としていた。その計画は、政府首脳者を暗殺することによつて、『思想的と政治的の雰囲気を廓清』することにあつた。橋本がこの一団の指導者であり、陰謀を実行するために、必要な命令を与えた。橋本は、荒木を首班とする政府を立てるために、一九三一年十月の初旬に、自分がこの陰謀を最初に考え出したということを認めた。木戸はこの叛乱計画のことをよく知つていた。かれの唯一の心配は、広汎な損害や犠牲を防止するために、混乱を局限する方法を見出すことにあつたようである。しかし、根本という中佐は、警察にこの陰謀を通報し、陸軍大臣がその指導者の検挙を命じたので、この陰謀は挫かれた。南がこの叛乱に反対したという理由で、白島はかれを非難し、満洲に新政権を立てるために、迅速な行動をとることが必要であり、もし南がこの計画に暗黙の承認を与えたならば、『満洲問題』の解決を促進したであろうと断言した。(E-568)
  全満州を占領し、そこに傀儡国家を建設しようとする関東軍の計画を実行するについて、もし東京の中央当局がこれを支持しなかつたならば、関東軍は日本から独立すると宣言して、その計画を進めるであろうという意味の風説が、『十月事件』の失敗後に伝えられた。この脅迫は、政府とその態度に、変化をもたらすのに効果があつたようである。
  陸軍省は報道の検閲を開始した。また、陸軍将校は、陸軍省にとつて不満足なことを書いたり、出版したりした著述家や編輯者を訪れて、このような記事は陸軍省にとつて面白くないものであると忠告した。編輯者や著述家が陸軍省の意見に反するような意見を表すると、暴力団がこれを脅迫した。

溥儀を即位させる決定

 日本政府の態度のこの変化の後に、板垣大佐と土肥原大佐は、清国の廃帝ヘンリー・溥儀を満洲に帰し、その皇帝として即位させることに決定した。これは、ヤング・マーシヤル張学良と蒋介石大元帥との結合によつて、次第に強力になりつつあつた張学良元帥の勢力に対して、対抗するための非常手段であつた。日本陸軍の保護のもとに動いていた新しい臨時政権は、徴税機関と金融機関を接收することに成功し、改組によつてその地位をさらに強化したが、張元帥が依然として人気があつたので、相当な困難を感じていた。(E-569)関東軍参謀部は、その樹立した臨時政府が張元帥と共謀することをおそれるようになつた。そこで、板垣と土肥原の両大佐は、清国廃帝ヘンリー・溥儀の名目上の指導のもとに、黒龍江、吉林、遼寧の東三省を統合することによつて、独立国家を組織することに直ちに着手することを決定した。

土肥原大佐、薄儀の満洲復帰に乗り出す

 溥儀を満洲に復帰させるために、土肥原は板垣によつて天津に派遣された。板垣は必要なすべての手配をして、土肥原に明確な指示を与えた。その計画は、満洲の一般民衆の要望に応えて、溥儀は再び皇位につくために帰つてくるのであつて、かれが満洲に帰つてくることに、日本は何の関係もないが、一般民衆の要望に反するようなことは、何もしないというように見せかけることになつていた。この計画を実行するには、営口の港が結氷する前に、溥儀をそこに上陸させることが必要であつた。そこで、一九三一年十一月十六日以前に、かれがそこに到着することが絶対に必要であつた。
  外務大臣幣原は、溥儀を満洲に帰らせる企てを知つて、天津総領事にこの計画に反対するように訓令した。一九三一年十一月一日の午後に、同総領事は訓令された通りに土肥原に連絡し、かれに計画を放棄するように説得するために、自分でできる限りの、あらゆる手段を試みた。しかし、土肥原はすでに決意を固めていたので、もし皇帝が自身の声明を賭しても満洲に帰ることを厭わないならば、この企てはすべて中国側にそそのかされたもののように見せかけることは容易であると述べた。(E-570)さらに、かれは皇帝と懇談すること、もし皇帝が厭わないならば、計画を断行すること、しかし、もし皇帝が厭うならば、そのときは、皇帝にとつて将来このような機械はないであろうという拾台詞を残して別れ、奉天の軍当局に対して、この計画は成功の見込がないから、自分は他の方法を考えるという趣旨の電報を打つということを述べた。
  一九三一年十一月二日の夕方に、土肥原は溥儀を訪問して、次のことを伝えた。溥儀の即位にとつて情勢は有利であつて、この機会を逸してはならないこと。溥儀はぜひとも一九三一年十一月十六日以前に満洲にあらわれなければならないこと。もしかれがそうしたならば、日本はかれを独立国の皇帝として承認し、その新国家と秘密攻守同盟を結ぶこと。もし中国の国民党軍が新国家を攻撃するならば、日本軍はそれを撃破するであろうこと。これに対して、溥儀は日本の皇室がかれの復帰に賛成していると聞かされると、土肥原の勧告に喜んで従いそうに見えた。
  総領事は土肥原を思い止まらせるように努力を続けたが、效果はなかつた。土肥原は、ある場合に、政府が溥儀の復帰を阻止するような態度に出るならば、それは不届千万であつて、万一そういうことになつたら、関東軍は政府から離れて、どんな行動に出るかわからないと嚇かしたこともあつた。
  溥儀の満洲復帰の條件を取極めるにあたつて、土肥原は多少の因難に直面した。(E-571)上海の一中国新聞は一九三一年十一月二日附の天津発の記事で、計画の全貌を発表し、溥儀は土肥原の申し出を拒絶したと称した。溥儀の決意を早めるために、土肥原はあらゆる陰謀術策を用いた。溥儀は果物籠にかくされた爆弾を受取つた。『鉄血団本部』やその他の方面からの脅迫状も受取つた。最後に、土肥原は一九三一年十一月八日天津に暴動を起させた。これは、かれが板垣から提供された武器を与えたところの、ある下層階級の徒輩、秘密結社及び同市の無頼漢を使つて起させたものである。日本の総領事は、幣原の命令を実行する新たな試みとして、中国側の警察に対して、暴動が差迫つていることを警告した。あらかじめ警告を受けていたので、中国側警察は暴動が完全に成功するのを阻止することができた。しかし、暴動は天津を混乱に陥れるに至つた。
  この混乱が続いて、一九三一年十一月十日の夜、暴動の最中に、機関銃の装備を持つた護衛附きの自動車で、秘密のうちに、土肥原は溥儀をその住居から埠頭に移し、そこで数名の私服護衛と四、五名の日本兵とともに、日本の小型軍用ランチに乗り込み、塘沽に向つて河を下つた。塘沽で一行は営口に向う淡路丸に乗つた。溥儀は一九三一年十一月十三日に営口に到着し、その日湯崗子に連れて行かれ、そこで日本の陸軍によつて対翠閣という宿屋に保護監禁された。脅迫状や天津の暴動の結果、溥儀は生命の危険を避けるために脱出したように見せかける試みがなされた。疑いもなく、これらのことが、土肥原の出した條件に溥儀が承諾するのを促進するようになつた。

(E-572)
溥儀の即位延期

  国際連盟における日本の立場がさらに悪化するのを防ぎ、また討議中の理事会における日本全権を有利な立場に置くために、関東軍に対して、南は溥儀の即位を遅らせるように勧告した。一九三一年十一月十五日に、かれは本庄中将に電報を送つて、次のように述べた。『特ニ連盟ノ空気改善ニ努力ノ結果、最近漸ク好転ノ曙光ヲ認メ来レル時期ニ於テ敢テ此種速急ナル行動ニ出ツルハ策ヲ得タルモノニアラス仍テ茲暫ク溥儀ヲツテ主動タルト受動タルトヲ問ハス政治問題ニ全然関係セシメサル如ク一般ヲ指導セラレ度シ元来新政権樹立ニ関シテハ帝国ノ態度宣敷ヲ失スルニ於テハ九ケ国條約ニ立脚スル米国ノ干渉又ハ列国会議ノ開催ヲ見ルコトトナルヲ予期セサルヘカラス而モ満洲現下ノ状況ニ於テは新政権の樹立ハ帝国軍ノ了解支持ナクシテハ成立セサルモノタルハ中外ノ等シク認識スル所ナルヲ以テ、突然溥儀カ新政権樹立ノ渦中ニ入ルトキハ、仮令形式的ニ満蒙民意ノ名ヲ以テスルモ、世界ノ疑惑ヲ惹起スルノ虞アリ、如何ナル場合ニ於テモ帝国カ少クモ列国ヲ相手ニ法理的闘争ヲナシ得ル如ク内外形勢ヲ誘フコト肝要ナリ、此ノ点諒承シ置カレ度』と。
(E-573)
 一九三一年十一月二十日に、陸軍は溥儀を旅順に移し、大和ホテルに宿泊させた。その説明として、湯崗子でかれがあまりに多くの好ましくない訪問者に面接していたからであるとした。土肥原と板垣は、皇后が旅順で皇帝と落合うように内密に取計らつた。

錦州進撃

 嫩江橋に向つて最隊を派遣したことは、一九三一年十一月の初旬に、黒竜江省督軍馬占山将軍を破り、かれを東北方の海倫方面に追い払うことに成功した。その結果として、チチハルを占領し、かつ、錦州城周辺の遼寧省東南部の小部分を除いて、張学良元師の努力を全満洲から一掃することになつた。錦州を占領しさえすれば、満洲の征服が完成されることになる。
 奉天から逃れた中国側の省政府は、奉天事件の後間をなく、錦州に置かれ、また、一九三一年十月の初めに、張学良元帥がその司令部を北平から錦州に移した。その結果として、同市は日本の占領に対する抗戦の中心地となつた。日本の偵察機は、同市の上空にしきりに飛来し、一九三一年十月八日には、偵察機六機と爆撃機五機が同市の上空に飛来して、爆弾約八十箇を投下した。
 土肥原大佐がつくり上げた騒動や暴動は、関東軍参謀に対して、天津の日本駐屯軍を増援し、同地の日本租界を保護するために、天津に軍隊を送るについての口実を与えた。(E-574)これらの暴動の最初のものは、すでに前に述べたように、一九三一年十一月八日に起つたのであるが、一九三一年十一月二十六日には、新しい一連の騒擾が始まつた。土肥原大佐は中国人の無頼漢と私服の日本人を使つて、天津の中国人に騒動を起させるために、日本租界内でこれらの者を行動隊に組織した。二十六日の夜、猛烈な爆撃音が聞え、すぐそれに続いて、大砲、機関銃、小銃の射撃があつた。日本租界の電燈は消され、租界から私服を着た者が現われ、附近の警察署に向つて発砲した。
  増援部隊を海外から天津に移動させるにあたつて、最も便利な経路は、海路によるものであつた。しかし、陸路は錦州城を通つていたから、この方に明らかな戦略的利点があつた。そして、錦州を経由する出動は、同市に攻撃を加え、そこに集結していた張学良元帥の軍隊を一掃するための口実を与えることになるのであつた。
  中立的な観察者は、錦州への進出を予期していた。一九三一年十一月二十三日に、この問題に関する会談で、外務大臣の幣原は、東京のアメリカ大使に対して、自分と総理大臣、陸軍大臣南、参謀総長との間に、錦州に対しては戦闘行為を行わないことに意見が一致したと言明した。しかし、二十六日の夜の土肥風による暴動は、一九三一年十一月二十七日の朝に、このような進出を促進した。表面上は、天津で包囲されているといわれる日本駐屯軍を救援するという目的で、しかし、実際には、錦州から張学良元帥を駆逐するという意図をもつて、軍隊輸送の一列車と飛行機数機が遼河を渡つた。(E-575)日本軍がさらに進出するためのあらゆるロ実を除くために、張学良元帥がすでにその軍隊を長城の南に撤退し始めていたので、日本軍はほとんど抵抗を受けなかつた。それにもかかわらず、進撃は続けられ、日本の飛行機は繰返し錦州を爆撃した。アメリカの国務長官は、最近アメリカ大使に与えられたばかりの、錦州に対しては戦闘行為を行わないという誓約の違反に対して、抗議を申込んだ。一九三一年十一月二十九日になつて、参謀総長から、本庄に対して、その軍隊を新民の附近の地点に呼び返せという命令を出し、これによつて、右の誓約がおそまきながら不承々々に尊重された。

(E-576)
連盟の調査委員会任命

  国際連盟理事会は、すでに約四週間にわたつて会合を開き、日華紛争を審議していたが、一九三一年十二月十日に、日本代表の提案を受け入れ、現地で事態を調査するために、満洲に調査委員会を送ることを決議した。理事会の決議は、委員会が五名の中立国委員からなり、この委員会を助けるために、中国と日本は各一名の参与員を任命する権利を与えると規定した。
  決議の第二項は、次の通りであつた。『(二)十月二十四日の理事会以来、事態更に重大化したるに顧み、両当事国が此の上事態の悪化するを避くるに必要なる一切の措置を執るべきこと反び此の上戦闘若は人命の喪失を惹起することあるべき一切の主動的行為を差控ふべきことを約することを了承す』。
  日本はこの決議を受諾するにあたつて、決議第二項に関して留保をつけ、『本項は満洲各地に於て猖獗を極むる匪賊及不逞分子の活動に対し日本臣民の生命及財産の保護に直接備ふるに必要なるべき行動を日本軍が執ることを妨ぐるの趣旨に非ずとの了解の下に』本項を受諾すると述べた。
  中国は、満洲における中国の主権が侵害されないということを留保として、この決議を受諾した。
  右に引用した第二項に含まれた約定と指令に関して、中国は次のように声明した。『本決議が終熄せしむることを真に目的と為したる事態より生じたる無法律状態存在の口実の下に右の指令を破るべからざることは、之を明白に指摘せさるべからず。(E-577)現に満洲に在る無法律状態の多くは、日本軍の侵入に依りて生じたる平常生活の中絶に因るものなることを述べさるべからず。通常の平和的生活を回復する唯一の確実なる方法は、日本軍隊の撤収を迅速ならしめ、且つ中国官憲をして治安の維持の資任を負わしむることに在り。中国は如何なる外国の軍隊に依る其の領域の侵入及び占領をも許容することを得ず。況や右軍隊が中国官憲の警察職権を冒すことを寛容することに於てをや』。
  日本の留保に対する中国の反対留保にもかかわらず、日本側は、自国のなした留保は、日本に対して、満洲に軍隊を維持する権利を与え、また匪賊行為を弾圧する責任を負わせたものであると主張した。匪賊行為を弾圧するという口実のもとに、日本は満洲占領を完成するための歩を進めた。リツトン委員会の言葉をかりていえば、『日本がジユネーヴに於て留保をなしたる上、引続き其の計画に依り、満洲の事態を処理したる事実が存す』るのである。
  一九三二年一月十四日に至るまでは、この委員会はその委員の全員が揃つていなかつた。リツトン卿(イギリス)が委員長に選ばれ、この委員会はリツトン委員会と呼ばれるようになつた。

若視内閣は解職のやむなきに至つた

 総理大臣若槻とその外務大臣幣原が、『友好政策』と『不拡大方針』を実行しようとして続けた努力は、軍部とその共鳴者の間に甚だしい反対を捲き起したので、同内閣は一九三一年十二月十二日に辞職するほかはなくなつた。総理大臣若槻は次のように証言した。『「満洲事変」を拡大しないようにと内閣が決定していたに拘らず、それが拡大して行つたということは事実であります。(E-578)色々な方法が試みられましたが、その中の一つは、私の希望では関東軍の行動を抑制出来るような聯合内閣を作ることでした。しかし、色々な故障のために、それは実現せず、そのため内閣が辞職したわけであります。』

犬養内閣

  犬養内閣は、荒木を陸軍大臣として、一九三一年十二月十三日に組閣された。日本憲法によつて、後任の陸軍大臣を詮衡する任務を持つていた陸軍三長官、すなわち辞任した陸軍大臣南、参謀総長及び教育総監は、阿倍を陸軍大臣に選んだ。しかし、荒木が陸軍の急進分子の間に人気があつたので、かれらは、犬養のもとに行つて、かれの任命を要求した。荒木大将は陸軍大臣に任命された。総理大臣犬養は、元老西園寺に、日本の政治は陸軍だけによつて支配されてはならないという天皇の希望を実行するつもりであると話し、かつ、満洲における関東軍の侵略政策を終らせる政策を採用したけれども、陸軍大臣荒木はこの政策と同詞しなかつた。以前に張学良の治下にあつた東四省を占領平定すべきであるという本庄司令官の計画に、荒木は賛成したのである。降伏の後、巣鴨拘置所における訊問中に、かれはこれが事実であつたことを認めに。かれの最初の行動は、内閣と枢密院において、この計画を実行するための予算の承認を得ることであつた。

(E-579)
本圧と板垣は本庄の計画を遂行するために動いた

  東四省の占領と平定の計画に同意していた荒木を陸軍大臣として犬養内閣が成立したことは、関東軍にとつては、この計画遂行の合図であつた。臨時遼寧省政府を強化するために、板垣は素速く行動した。奏天の西方に部隊の集結が開始された。この部隊は、錦州と天津へ進出するために、待期しているのであつた。この計画を実行するために、詳細な手配を行うについて、板垣は荒木を援けるために上京の準備をした。
  日本の侵入軍との協力を拒否したという理由で、一九三一年九月二十一日以来監禁されていた臧式毅将軍に、食物を与えられないので遂に屈服し、余儀なく臨時遼寧省政府主席の任命を受諾することを承知した。一九三一年十二月十三日の夜、かれは監禁をとかれ、板垣と会見してから、一九三一年十二月十五日に、正式に省長として就任した。監禁中絶食させられた結果として、かれは非常に神経質になり、衰弱した状態にあつたので、就任式中、かれの写真を撮影するにあたつて、撮影者が閃光電球を割つたときに気絶した。臧式毅将軍の就任は、全満省長会議の下準備であつた。そして、関東軍はこの会議の準備を急いでいた。
  錦州に進出するための部隊の集結は、一九三一年十二月十日に始まり、十五日までに完了していた。しかし、この進出は、陸軍大臣荒木の承認が得られ、経費が支給されるまでは、開始することができなかつた。(E-580)
  すべての準備が完了したので、本庄司令官は、満洲は中国から独立させなければならないという意見を政府に伝えるために板垣を東京に派遣した。陸軍大臣荒木は直ちに本庄の計画を支持し、完全な独立こそ『満洲事変』解決の唯一の途であると言つた。しかし、この計画に対して、相当な反対のあることがわかり、かれがこの計画の承認を受けることは、なかなか困難であつた。この問題は、ついに一九三一年十二月二十七日の御前会議で天皇に提示され、荒木は次のように述べた。『我々は直に奉天省に軍隊を派遣することを決定しました。主要なる計画は総司令部に対する陸軍省の命令で作成されました。そして総司令部は作戦に要する軍隊派遣の手続を執りました。』少くとも板垣の使命の一部は、ここに達成されたのである。
  錦州に進出するこの決定がなされた日に、外務次官は、東京のアメリカ大使に、日本は連盟規約、ケロツグ・ブリアン條約、その他の條約に悖らない決意であり、満洲の事態に関して、連盟理事会が採択した二つの決議に従うと述べた覚書を手交した。

錦州陥落の後に満洲は完全に占領された

  すでに述べたように、関東軍はジユネーヴでなされた留保を楯にとつて、依然として計画通りに満洲を処置していつた。(E-581)中国外交部長は、錦州攻撃が目前に迫つていることを知つて、残つた中国部隊の全部を万里の長城の南へ撤退させることを申入れ、それによつて、さらに戦闘の続けられるのを防ぐために、最後の懇請を行つた。しかし、この懇請は無効に終つた。そして、一九三一年十二月二十三日に、関東軍はその行動を実際に開始した。中国は、その陣地を放棄するほかなくなつた。その日から、前進は整然として行われ、中国軍司令官が総退却の命令を発していたので、ほとんどなんらの抵抗も受けなかつた。錦州は一九三二年一月三日の朝占領され、関東軍は一気に山海関まで前進を続け、万里の長城の線に達した。

板垣は使命を完了して奉天に帰つた

  木戸は一九三二年一月十一日の日記に、板垣が満洲に傀儡国家を樹立する計画の承認を得ていたことを記している。その日の記事には、次のような部分がある。『今朝十時半、宮城内講書の間に接する溜りの間において余は陛下の側近者と共に、板垣大佐から満洲及び蒙古における情勢について聞いた。板垣大佐はまづ満洲及び蒙古における兵匪討伐の進捗情況と満洲における新国家建設の進捗情況について説明した。板垣大佐は、満洲は新しい統治者の下に置かれるだろうということ及び日本軍は新満洲国の国防を担当するであろうという事について暗示を与えた。板垣大佐は更に日本人は新国家の運営に政府の高官として参加するということを説明した。』板垣は中国兵のすべてを『兵匪』と呼ぶのをいつもの慣例にしていたが、ここでもそれに従つていたことがわかるであろう。ジユネーヴでなされた留保を援用する口実が再び用いられた。
  奉天へ帰る途中で、板垣大佐は、かれと木戸との会談の中に挙げられた新しい統治者を訪れた。旅順で溥儀を訪問している間に、溥儀に対して、板垣は次のようにいつた。『中国軍閥を追い払い、東三省の人民の社会的な福祉をはかるために、われわれは喜んで満洲に新しい政権を樹立する用意がある。』板垣は溥儀がこの新政権の首班となることを提案したが、満洲政権が樹立されると同時に、日本人を顧問及び官吏として雇傭することを要求した。

(E-583)
独立運動が強くなつた

  錦州か陥落した後、特に土肥原がハルピン特務機関長として勤務していた北満州で、独立運動が進展した。一九三一年十一月十九日に、日本軍がチチハルを占領し、馬将算の兵力を海倫方面に走らせた後、黒龍江省に例の型の自治会が設立され、一九三二年一月一日に、張景恵将軍が省長に就任した。張景恵将軍は、張学良元帥が完全に敗北し、錦州から放逐されたのを知つて、奉天の自治指導部の要請を入れ、黒龍江省の独立を宣言した。この宣言は一九三二年一月七日に発表された。その同じ日に、自治指導部は布告を発した。これは一月一日にすでに準備されていたものであるが、発表の適当な時期がくるまで、保留されていたものである。この布告は、人民に対して、張学良元帥を倒し自治会に参加するように訴えた。布告は『東北の諸組織よ、図結せよ!』という言葉で終つている。この布告は五万枚撤布された。自治指導部部長干冲漢氏と遼寧省長臧式毅氏は、二月に樹立されることになつている新国家のための計画を立てていた。中国から独立するというこの考えは、一九三一年九月十八日の『奉天事件』以前は、満洲では大衆の支持を受けていなかつた。この考えは、板垣と土肥原の両大佐を指導者とする日本の文官と軍人の一団によつて構想され、組織され、遂行されたことは明らかである。(E-584)日本軍かその権力を行使するために駐屯していたこと、南満洲鉄道が諸鉄道を支配していたこと、すべての重要な中心的都会に日本領事が駐在していたこと、並びに日本側が管理していた自治指導部が統合の效果をあげたことは、この一団の人々に対して、右のいわゆる独立を引き起し、後には新しい傀儡国家を支配するための、不可抗的な圧力を行使する手段を与えた。独立運動と中国人の協力者とは、ただ日本の武力だけを後楯としていた。

日本による追加的誓約

 一九三二年一月七日、張景恵将軍が黒龍江省の独立を布告した日に、アメリカの国務長官は、東京のアメリカ大使に対して、日本政府に通牒を手交することを訓令した。この通牒の中で、国務長官は、中国における合衆国またはその市民の條約上の権利を害したり、中国における『門戸開放』の伝統政策に違反したり、パリー條約(附属書B―一五)の義務を侵害したりするような、いかなる事実的事態の合法性を認めないし、締結されたいかなる條約や協定も承認しないことが合衆国の意思であるとし、このことを日本と中国に通告することが合衆国政府の義務であると考えると述べた。
 この通牒に対する同答は、一九三二年一月十六日までなされなかつた。日本の通牒は、ワシントン條約及びケロツグ・ブリアン條約(附属書B―一五)の全面的な、完全な遂行を確保しようとする日本の努力を支持するために、合衆国が全力を尽してくれることを日本はよく承知していると述べた。(E-585)この日本側の通牒は、さらにつづけて、中国における『門戸開放』主義は、日本がこれを確保することのできる限り、常に維持されるであろうと述べた。われわれが右に述べた満洲における日本の軍事行動に鑑みれば、この日本の通牒は、偽善の傑作であつた。

橋本はこの條約に反対した

  その翌日に、條約を守り、中国における『門戸開放』を維持するというこの政策に対して、明らかに異議を唱えた論説を、橋本は雑誌太陽大日本に発表した。その論説の表題は『議会制度の改革』というのであつた。この論説の中で、橋本は次のように述べた。『責任政治政党内閣は全く憲法背反である。それは建国以来昭呼として定まれる而して又欽定憲法上儼乎として動かし得ざる・・・・「天皇」政治を無視する民主政治である。我々は彼等の恐るべき反国体的政治思想とその債悪的罪業を思ふとき、明朗なる新与日本建設の為めに、彼等既成政党を先づ血祭りに挙げて、その撲滅を図ることが何よりも急務なりと信ずる。』

土肥原が馬占山将軍と交渉した

  馬将軍が日本軍によつてチチハルから放逐され、黒龍江省を統治するために、海倫にその首都を設立した後、土肥原大佐はハルピンにおけるかれの特務機関事務室を本拠として馬将軍との交渉を始めた。馬将軍の態度は、いくぶん曖昧であつた。かれは土肥原との交渉を続けたけれども、依然として丁超将軍を支持していた。丁超将軍は、熙洽将軍を名目上の首班とし、関東軍によつて吉林省に樹立された傀儡政権を絶対に認めず、熙洽将軍に対抗する軍隊を組織した。馬将軍は丁超将軍を支持したばかりでなく、これらの両将軍は、かれらに援助を与えてくれた張学良元帥及び蒋介石大元帥と、ある連絡を保つていた。
  土肥原大佐は、馬将軍を強いて協調させるために、熙洽将軍に対して、ハルピンに前進し、海倫方面に進撃することを要求した。一九三二年一月の初旬に、ハルピンを占領する目的で、熙洽将軍は北方への遠征の準備をした。丁超将軍は熙洽将算のいた場所とハルピンの中間にいた。熙洽層群は一月二十五日に雙城へ前進した。しかし、張学良元帥は馬と丁超の両将軍にそれ以上交渉を続けないように命令した。そして、戦いは二十六日の朝開始された。土肥原は馬と丁超の両将軍を脅迫する企てに失敗し、その上困つたことには、かれの盟友熙洽将軍が丁超将軍の攻撃を受けて重大な敗北を蒙りつつあつた。そこで、熙洽将軍を援けるために、土肥原は関東軍に依頼することを余儀なくされた。このことを正当化するために、土肥原大佐はハルピンでかれの『事件』をもう一つつくり上げた。これは裏面工作による暴動であつて、その間に日本人一名と日本の臣民である朝鮮人三名が夜害されたと言われている。日本軍の大部分は、錦州への前進に使用されるために、北満から撤収されていた。しかし、第二師団は休息のため奉天に還つていた。第二師団は熙洽将軍を救援せよとの命を受け、一月二十八日に列車に乗つたが、運輸上の支障で、いくらかの遅滞を来した。(E-587)そのために、丁超将軍はチチハル市政府を抑え、黒龍江省の傀儡省長を勤めていた張景恵将軍を逮捕する時間を得た。

南の講演

  熙洽将軍を援助するために、増援隊が列車に乗せられていたとき、東京では、軍事参議官の南が天皇の前で講演した。かれの講演題目は、『満洲の近情』であつた。木戸は陪聴して、それを記録した。南が結論として天皇に披瀝したものは、次の通りである。(一)日本は満洲に樹立される新国家の国防を担当し、吉会鉄道を完成し、日本海を湖水化して北満洲への進出を容易にし、これによつて、日本の国防計画を一新すること。(二)日本とこの新国家とによる同地域の経済の共同経営は、日本を世界において永久に自給自足できるものとすること。(三)この新国家に屯田兵制を設けるならば、右の措置によつて、人口問題が解決されること。木戸はさらに記録して、新国家が成立したときは、満洲に三つないし四つもある日本の期間は、一つに統一されなければならないと考えるとしている。この考えは、後に実行されことになつた。

第一次の上海侵入

  一九三二年一月二十八日の午後、南の講演が終つた後に、中国の新しい場所で戦闘が起つた。午後十一時に、第一次の上海侵入の戦闘が始まつた。この『事変』の発端は典型的なものであつた。『万寶山事件』に続いて、朝鮮で起つた中国人排斥暴動は、上海における中国人の日貨ボイコツトを引き起こした。(E-588)このボイコツトは『奉天事件』の後に激化し、『事件』が『満洲事変』に発展するにつれて、その激しさを加えていつた。緊迫感は募り、日華両国民の間に重大な衝突が起つた。上海の日本在留民は、かれらの保護のために、日本軍の派遣を要請した。日本総領事は、中国の上海市長に対して、五つの要求を提出した。上海の日本海軍司令官は、右の市長の回答が満足でなければ、行動に訴えると声明した。一九三二年一月二十四日に、日本海軍の増援隊が到着した。中国側は上海の中国人区域である閘北の守備隊を増強した。一月二十八日に、共同祖界の工部局は会合を開き、その日の午後四時をもつて緊態状態を布告した。この時間に、日本総領事は、領事団に対して、中国人市長から満足な回答を受けたので行動をとらないと告げた。同日の午後十一時に、日本海軍司令官は、日本海軍が多数の日本国民の存在する閘北の事態について憂慮し、同方面に派兵して淞滬線停車場を占領することに決定したこと、中国軍が速やかに同鉄道以西に撤退することを希望することを声明した。閘北区域に派遣されたこれらの日本軍は、中国軍と接触するに至つた。右の中国軍は、撤退しようと欲したとしても、その時間があり得なかつたのである。これが上海戦の始まりである。

(E-589)
中国は再び連盟に提訴した

  翌朝の一九三二年一月二十九日に危急を告げた事態は、中国をして、連盟規約第十、十一及び十五條に基いて、連盟にさらに提訴させることになつた。上海で戦いが始まつたときに、連盟理事会は開催中であつた。その翌日に、中国からの提訴を受けた。

馬将軍は土肥原と交渉した

  満洲において、新国家建設のために、土肥原大佐は馬将軍の支援を得ようと努め、交渉を続けていた。板垣大佐は馬将軍を『兵力を有つている価値ある人物』と認めて、チチハルの戦いの後、かれと休戦の取極めをしようと試みた。一九三二年二月五日に、熙洽将軍と日本軍との連合部隊によつて丁超将軍が打ち破られたときまで、馬将軍は丁将軍との協力を続けた。丁超将軍が敗北した後、馬将軍は再び土肥原大佐と交渉を始めた。その間に、馬将軍の軍隊は、ロシア領を通過して、中国に逃れた。自己の軍隊が無事に中国の本土に入つた後、馬将軍は土肥原より贈られた金百万ドルを受取つたといわれている。いずれにしても、一九三二年二月十四日に、かれは黒龍江省の省長となること、日本側と協力することに同意するに至つた。

(E-590)
最高行政委員会

  荒木によれば、各省の省長に『最高行政委員会』を組織させて、満洲における新しい国家の組織のために、勧告させようということを本庄中将は思いついた。本庄はかれの案を荒木に送り、ヘンリー・溥儀を主班として、満洲を統治させるために、新しい国家をつくることを許してもらいたいと要請した。ほかにいい提案もなく、本庄の案は『満洲問題』を解決するであろうと考えたので、かれの案に賛成したということを荒木は巣鴨拘置所における訊問中に認めた。本庄案を実行するにあたつて、自治指導部を援助させるために、荒木はさらにいく人かの專門家を満洲に派遣した。
  馬将軍と土肥原との間に意見が一致したので、自治指導部は、新国家建設の『基礎を築く』ためであると発表して、一九三二年二月十六日に、奉天で東三省の各省長と特別区長官との会議を招集した。この会議には、黒竜江省馬占山、特別区長官張景恵、吉林省長熙洽及び遼寧省長臧式毅が出席したが、熱河省長湯玉麟は出席しなかつた。この会議の法律顧問は、土肥原に代つて奉天市長となつた東京大学出身の趙欣伯博士であつた。
  この五名は、新国家を樹立すること、一時東三省と特別区に対する最高権力を行使する東北行政委員会を組織すること、この最高委員会は遅滞なく新国家建設のために必要な一切の準備をすることを決議した。(E-591)
  会議の第二日には、最高行政委員会が適当に組織され、七名の委員によつて、すなわち黒龍江、吉林、遼寧、熱河の各省長、特別区長官、並びに会義の第二日の朝これに参加した二名の蒙古王族によつて構成されることになつた。この新しい最高委員会は、直ちに会議に移り、次の諸決定をした。(一)国家には共和制を採用すること、(二)新国家を構成する各省の自治を尊重すること、(三)行政長官に『執政』の称号を与えること、(四)独立宣言を発すること。その夜、『新国家の諸首脳』のために、本庄中将は公式晩餐会を催した。これらの首脳者に対して、本庄はその成功を祝うとともに、必要の際には、援助を与えると確言した。

独立宣言

  本庄中将の晩餐会の翌朝に、すなわち一九三二年二月十八日に、最高行政委員会によつて、独立の宣言が公布された。大川博士は、一九三九年に発行されたかれの著書『日本二千六百年史』のうちで、この宣言を論評するにあたつて、『張学良政権は日本軍の神速果敢なる行動によつて一挙満洲から掃蕩された』と述べている。(E-592)本裁判所は、証拠に基いて、満洲では独立国家を樹立しようとする民衆運動は存在しなかつたものと認める。この運動は、関東軍と、関東軍によつてつくられたところの、日本人を顧問とする自治指導部とによつて、発起され、推進さたものである。

新国家の組織

  独立宣言が発布されたので、馬省長と熙洽省長はそれぞれその省の首都に帰還した。しかし、新国家建設計画の細目を定めるために、かれらは代表を任命し、臧式毅省長、張景恵長官及び趙欣伯輜重と会合させた。一九三二年二月十九日に、この一団の人々は、新政府の形態は権力分立主義に基いて制定された憲法を有する共和国とすることに決定した。次いで、この一団の人々は、新国家の首都を長春とすることに同意し、国旗の図案を確定し、また薄儀に新国家の『執政』の任についてもらうように頼むことに同意した。
  自治指導部は直ちに各省で民衆大会や示威選動を行うことを始めた。その際に、満洲人に日本の力を感銘させるために、関東軍は分列行進を行つて威力を示し、祝砲を射つた。これらの示威運動によつて、適当な基礎が築かれてから、自治指導部は全満大会の招集を主唱した。この大会は二月二十九日に奉天で開かれた。(E-593)この大会では、いろいろな演説が行われ、張学良将軍の旧政権を非難する決議が満場一致で採択され、溥儀を新国家の執政とする新国家を歓迎する決議も可決された。
  最高行政委員会は直ちに緊急会議を開いて、六名の代表者を選び、これを旅順に派遣して、新政府の首班になるようにという招請を溥儀に伝えた。溥儀は最高行政委員会からの最初の招請に応じなかつた。そこで、一九三二年三月四日に、溥儀を受諾させるために、第二回の代表団が任命された。板垣大佐の勧告によつて、溥儀は第二回の招請を受諾した。三月五日に代表団と会見してから、溥儀は六日に旅順を出発して湯崗子に向い、二日後に、すなわち八日に、『満洲国執政』としての礼を受け始めた。就任式は三月九日に新首都の長春で行われた。溥儀は、新国家の政策は道義と仁と愛を基礎とするものであると宜言した。その翌日に、日本側の提出した名簿によつて、かれは政府の高官を任命した。
  溥儀の到着に先だつて、趙欣伯博士が相当期間準備していた法律や規則は、その採択と公布をまつばかりになつていた。これらの法規は、三月九日に、満洲国政府組織法さ同時に施行された。新満洲国の成立の公の通告は、一九三二年三月十二日に、親国家の承認を列国に要請した電報の中で行われた。大川博士は、満洲国は日本政府の承認を得た韓国軍の計画の成果であつて、新国家の建設はあらかじめ計画され、準備されていたから、非常に順調に行つたと述べた。(E-594)溥儀は、満洲国は最初からまつたく日本の支配のもとにあつたと述べている。

日本内閣は既成事実を承認した

  本庄案が閣議で承認されたと荒木がいつたのは正しい。しかし、これは一九三二年三月十二日になつてからのことであつて、そのときは、この案がすでに実施され、満洲国という新国家がすでに出現した後であつた。閣議が開かれて、『満洲新国家成立に伴ふ対外関係処理要綱』が決定されたのは、一九三二年三月十二日であつた。この日は、満洲国の成立を通告する電報が外国に発せられた日である。新国家に対しては、国際公法上の承認に至らない範囲で、『各般の援助』を与えるとともに、将来列強が同国を独立国として承認するように、『漸次独立国家たるの実質的要件を具備する様誘導』することが決定された。九国條約(附属書B―一〇)調印国からの干渉を避けるためには、その條約が保証している『門戸開放』の政策と両立し、機会均等の原則と調和和する政策を満洲国に宣言させるのが一番よいと考えられた。内閣はまた税関と塩税徴収機関とを接収することを決定したが、接收にあたつては、『対外関係上の支障を生ぜざる様』にすることを決定した。接收をするための一つの方法として、意見の一致を見たのは、税関吏を買収して、かれらを日系官吏とかえることであつた。ジユネーブでなされたて留保に従つて、匪賊を討伐するという名目のもとに、満洲国における軍事力を把握することが計画された。これを要するに、日本が満洲を占領したことと満洲に独立国家を樹立したことは、既存の條約義務の直接の違反であることを内閣は充分に知つていた。そして、表面上義務を守るように見せて、実際の違反を隠すことができるような計画を考え出そうとしていたのである。

リツトン委員会の東京到着

  全満大会が奉天で開かれていた日に、すなわち一九三二年二月二十九日に、リツトン委員合は東京に到着した。かれらは東京で天皇に謁見し、日本の総理大臣犬養、陸軍大臣荒木及びその他の人々を含めて、政府と連日の階段を始めた。この連日の会議は八日間にわたつて続けられたけれども、これらの官吏のうちのだれ一人として、日本が満洲で新国家を建設しようとしていたことを委員会に知らせたものはなかつた。委員会が東京を立ち、中国に赴く途中、京都に着いたときに、委員会は初めてこのことを聞いた。
  委員会が東京に到着した日に、荒木は小磯を陸軍省軍務局長から陸軍次官の顕職に昇進させた。

荒木は増援軍を上海に派遣した

  一九三二年一月二十八日に上海で起つた戦闘の規模が大きくなつたから、海軍大臣は荒木に増援部隊の派遣を依頼しなければならなくなつた。中国の第十九路軍は、その戦闘力を充分に発揮していた。(E-596)多数の日本駆逐艦が黄浦江に碇泊しており、日本の飛行機は閘北を爆撃していた。日本の陸戦隊は、虹口にあつたその常駐兵営を作戦根拠地としていた。そして、この兵営と虹口との間に築かれたバリケードが、両軍の間の第一線となつていた。日本の駆逐艦は零距離射撃で呉淞砲台を砲撃した。この砲台は、日本駆逐艦の備砲に応戦することのできる砲をもつていなかつたから、応戦しなかつた。日本の陸戦隊は共同租界に隣接する諸地域に侵入し、警察の武装を解除し、市の機能を全部麻痺させた。海軍大臣がこれらの増援部隊の派遣を求めたときには、まつたく恐怖時代の真最中であつた。荒木は、かれが閣議に諮り、速やかに俺護部隊を派遣することが決定されたと述べている。その翌日、一万の将兵が高速の駆逐艦で派遣された。これらの増援部隊は、戦車と砲の充分な装備をもつて、共同祖界に上陸した。海軍は大型艦を並べ、市内の砲撃を始めた。しかし、一九三二年二月二十日に始つたこの攻撃は、数日間も続いていたにもかかわらず、何も著しい成果をあげなかつた。この攻撃の後に、荒木は、植田中将が大きな損害を蒙つたから、さらに増援部隊を派遣する必要があると主張して、上海を防衛していた中国軍に対抗させるために、第十一、第十四の両帥団を派遣した。

(E-597)
国際連盟の行動

  国際連盟は立ち上つて行動をとり始めた。中国と日本以外の理事国は、一九三二年二月十九日に、日本政府に宛てて、規約第十條(附属書B―六)に注意を喚起する切実な要請を送つた。そして会議が招集され、一九三二年三月三日に開かれた。
  アメリカの国務長官は、上海のアメリカ総領事に対して、同長官がボラー上院議員に送つたところの、中国の事態に関する書簡が新聞に発表されるであろうと通知した。国務長官は、この書簡で、九国條約(附属書B―一〇)は『門戸開放主義』の法律的根拠をなすものであると述べた。かれはこの條約の長い歴史を述べた。この條約は、すべての締約国に対して、中国におけるかれらの権利を保証し、また、中国人に対して、かれらの独立と主権を発展させる充分な機会を保証することを目的とするところの、慎重に考慮された国際政策の現われであるとかれは説明した。イギリスの首席全権バルフオーア卿が、條約の調印に列席した代表者の中に、勢力範囲が弁護されたとか、許容されるであろうとか考えたものは、一人もいないものと了解すると述べたことをかれは指摘した。パリー條約(附属書B―一五)は、九国條約を強化することを趣旨としていた。これらの二つの條約は、相互に依存するものであり、一切の紛議を恣意的な暴力によらないで、平和的な手段で解決することを含めて、国際法による秩序ある発展の体制を支持するように、世界の良心と世論を一致させることを趣旨としたものであるとかれは述べた。(E-598)従来、合衆国は、その政策の基礎を、中国の将来に対する不変の信頼と、中国との交渉にあたつては公正な態度、忍耐及び双方の好意を原則とすることによつて、究極の成功を収めるということとに置いていたと述べた。
  イギリスの提督サー・ハワード・ケリーは、友好諸国の斡旋によつて、上海の戦闘行為の停止を確保しようとする多くの試みの一つとして、一九三二年二月二十八日に、その旗艦で会議を開いた。双方の同時撤退を基礎とした協定が提案された。しかし、当事国の意見の相違のために、会議は成功しなかつた。この干渉を憤慨したかのように、日本軍は中国軍の撤退した江湾西部を占領し、呉淞砲台と揚子江沿岸の諸堡塁とは再び空からの爆撃と海からの砲撃を受け、爆撃機は虹橋飛行場と京滬線を含む全戦線にわたつて活動した。
  連盟が会議を開くことができる前に、上海の戦闘行為を停止させるための現地取極めをするように、二月二十九日に円卓会議を開くことを理掌会は提案した。両当事国はこの会議を受諾した。しかし、日本側が強要した條件のために、会議は成功しなかつた。
  二月二十九日に、日本軍の最高指揮官に任命された白川大将が増援部隊とともに到着した。かれの下した最初の命令は、約百マイル隔つた杭州飛行場に対する爆撃であつた。海軍の猛烈な砲撃の結果として、白川大将は徐々に前進し、三月一日における側面攻撃の後、戦闘行為停止の條件として、日本が最初に要求した二十キ口メートルの線の外に、中国軍を駆逐することができた。(E-599)
  この『面目の立つた』成功によつて、日本は一九三二年三月四日の、連盟総会の要請を受諾することができるようになつた。この要請は、両国政府に対して、戦闘行為を停止することを求め、また戦闘行為を終結させ、日本軍を撤退させるための交渉を勧告したものであつた。双方の司令官が適当な命令を出し、戦闘は終つた。交渉は一九三二年三月十日に始まつた。
  総会は紛争の調査を続け、一九三二年三月十一日に連盟規約(附属書B―六)の規定がこの紛争に適用されるということ、殊に條約は厳重に尊重されなければならないこと、締約国は外部の侵略に対して、一切の連盟国の領土保全と政治的独立を尊重しなければならないこと、連盟国はその間の一切の紛争を平和的解決方法に付する義務があるという諸規定がこの紛争に適用されるという決議を採択した。総会は、この紛争が武力的圧迫のもとに解決されるようなことがあつては、規約の精神に反することを確認し、一九三一年九月三十日及び同年十二月十日の理事会の決議と一九三二年三月四日の総会自身の決議とを誰認し、上海の紛争を解決するために『十九人委員合』を設立することにした。
  その義務に違反して、日本側は停戦を利用して増援部隊を送つた。これらの部隊は、一九三二年三月七日と十七日に上毎に上陸した。一九三一年五月五日になつて、ようやく完全な協定が調印を待つ運びになつた。重光が日本側を代表して調印した。上海の戦闘の特徴は、日本側の極度な残忍性にあつた。(E-600)必要のない閘北の爆撃、仮借のない艦砲射撃、無力な中国農民が虐殺され、その死体が後になつて後ろ手に縛られたまま発見されたことは、上海で行われた戦争方法の実例である。(E-601)
  この事変も、目的のためには、どんな口実でも設けて、中国人に対して武力を行使し、日本の威力を中国人の肝に銘じさせようという日本の決意の一例を示すものである。この場合における武力行使の表面の理由は、上海の日本居留民のうちの一部の者から出た保護の要請であつた。本裁判所は、行使された武力は、日本国民と財産に対して当時存在した危険にくらべて、まつたく均衡を失したものであるという結論に躊躇なく到達する。
  当時感情がたかぶつていたこと、少くとも一部分は満洲における日本の行動によつて誘致された中国人の日貨排斥の影響が感じられていたことは、疑いのないところである。一切の事実に照してみて、日本の攻撃の真の目的は、もし中国人の対日態度が変らなかつたら、その結果がどうなるかということを示すことによつて、中国人を恐れさせ、それによつて、将来の工作に対する反抗を挫こうとすることにあつたというのが本裁判所の見解である。この事変は、一般計画の一部分であつた。

満洲国が傀儡として建設され、運営された

  満洲国は、その執政に与えられた権限からいつて、確かに全体主義国家であつた。そして、執政を支配したものが国家を支配した。一九三一年三月九日に公布された勅令第一号は、満洲国の組織法を規定した。正式の言い方をすれば、次のような構成になつていた。政府の権力は行政、立法、司法及び監察の四部にわかれていた。執政は行政長官として国家の首班であり、すべての行政権と立法院に対する拒否権とが与えられていた。(E-602)行政部の任務は、執政の統監のもとに、総理と各部総長によつて遂行され、総理とこれらの総長は国務院を、すなわち内閣を組織していた。総理は強力な総務庁を通じて各部の事務を監督し、総務庁は各部の機密事項、人事、会計及び用度を直裁した。国務院に従属して、立法院のような、諸種の局があつた。しかし、日本の憲法にならつて、立法院が開かれていないときに、参議府の助言に基いて、執政は勅令を発布する権力をもつていた。監察院は官吏の業績を監察し、会計を検査した。立法院は遂に組織されず、従つて法令は執政の勅令によつて制定された。
  形式とは著しく相違して、実際上は総務庁、法制局及び資政局が国務総理の官房を形成していた。建国の後に、自治指導部は廃止され、その人員は資政局に移された。この資政局は、かねて各省と県に設立されていた自治委員会を通じて、自治指導部の仕事を継続した。総務庁は、他の何物にもまして、満洲国の政治と経済の各分野を有効に実際に統御し、支配するための日本人の機関であつた。
  各部総長は一般に中国人であつたが、各総長には日本人の次長がついていた。満洲政府の中には、憲法に規定されていない『火曜会』と呼ばれる委員会があつた。火曜日ごとに、日本人の総務庁長を議長とし、関東軍参謀部の一課長も出席して、日本人次長の会合が行われた。(E-603)これらの会合で、すべての政策が採用され、すべての勅語、勅令及びその他の法令が承認された。『火曜会』の決定は、それから総務庁に移され、そこで正式に採用され、満洲国政府の法令として公布された。このようにして、満洲国は関東軍によつて完全に支配されたのであつた。一九三二年四月三日に、本庄中将から陸軍大臣荒木に送られた電報の中で、本庄は次のように述べた。『満洲国全領域に亘る施策は満洲国との交渉に関するる限り、主として関東軍に於て統一して連繁実施すへきは御異存なきことと信する所なるが、昨今在満各官庁其他諸派遣機関の行動より見るときは、此際之を徹底せしめずんば、不統制に陥ることなしとせず。』これに対して、荒木は『対満洲国施策統制に関する貴見に趣旨に於て同意す』と答えた。
  最初は、日本人の『顧問』は、満洲国のすべての重要な官吏に助言を与えるために任命された。しかし、建国の後間もなく、これらの『顧問』は、中国人と同一の立場で、完全な官吏になつた。建国の後一カ月を経た一九三二年四月には、軍政部と軍隊にいるものを除いて、中央政府だけで、二百人以上の日本人が職に就いていた。大多致の局科には、日本人の顧問、理事官及び事務官がいた。監察局の一切の重要な職は、日本人によつて占められていた。最後に、執政の最も重要な官吏の大部分は、宮務局長と執政護衛隊指揮官も含めて、日本人であつた。執政でさえも、関東軍によつてそのために任命された吉岡中将によつて、『監察』されていた。(E-604)これを要するに、政府と公共事務に関しては、たとい名儀上の長官は中国人であつたといえ、おもな政治的と行政的の権力は顧問、参議、監察官、事務官、次席の官吏としての日本人官吏によつて握られていた。
  日本の内閣は、一九三二年四月十一日の閣議で、満洲国を『指導する』ための方法を審議し、以上に略述した方法を是認した。荒木は当時に陸軍大臣として閣僚の一人であつた。その決定は次のようであつた。『新国家をして我方より権威ある顧問を傭聘せしめ、財政経済問題及一般政治問題に関し、之が最高指導者たらしむること。新国家の参議府、中央銀行其他の機関の指導的地位に本邦人を任命せしむること』。次いで、内閣は日本人を任命することになつている満洲国政府の官職を列挙したが、それらは総務庁長、総務庁各局科長、参議府参議及び秘書長並びに収税、警察、銀行、運輸、司法、関税その他の部門における官職を含んでいた。この措置は、新国家をして『政治、経済、国防、交通、通信等諸般の関係において帝国存立の重要要素たる性能』を発揮させるために、そして『日満両者を合せる自給自足の一経済単位を実現せしむる』ために必要であると認められたのである。

(E-605)
協和会と『王道』

  協和会は一九三二年四月に奉天で板垣その他の者から成る委員会によつて組織された。関東軍司令官は、職務上当然に同会の最高顧問にされた。協和会の特別の使命は、国家の精神と理念を、すなわち王道を弘め、アングロ・サクソン世界とコミンテルンとに対する日本の争闘において、日本の役に立つことができるように、満洲国を強化することであつた。満洲国政府の方針は、一九三二年二月十八日と一九三二年三月一日に発表された布告の中に述べられた。その方針というのは、王道の根本原則に従つて統治することであつた。このようにして、日本の満洲占領が思想宣伝の分野で地歩を固められた。満洲では協和会以外の政党は一切許されなかつた。同会の名儀上の会長は満洲国国務総理であつたが、実際上の指導者は、関東軍参謀部の一員であつた。

リツトン委員会の満洲訪問

  リツトン委員会は、一九三一年四月に満洲に到着し、関東軍と満洲国の日本人官吏が住民を脅迫したり、同委員会の努力を妨げたりして、事態の上に投げかけた秘密の蔽いを透視し、実際の事実を見抜くという委員会の仕事を開始した。この委員会の委員と証人となりそうな人物とに『保護』を与えるという口実のもとに、陸軍と憲兵隊はかれらの活動と動静を『監視』した。溥儀は、『われわれは皆日本陸軍将校の監視下にありました。そしてリツトン卿は、どこへ行つても、日本憲兵の監視のもとにありました。(E-606)私がリツトン卿と会見したときには、多くの関東軍の将校が私の側で監視していました。もし私が彼に真実を告げたならば、委員会が満洲を去つた後私は殺されたでありましよう』と証言している。板垣によつて準備された声明書を溥儀はリツトン卿に手交したが、現在になつて、それは眞の事実を現わしたものではないと溥儀が言つている。委員会の満洲滞在の間、ロシア語や英語を話す人々は注意深く監視された。その中には、逮捕された者もあつた。
  一九三一年六月四日に、陸軍省に宛てて送つた電報の中で、関東軍参謀長は、リツトン委員会の訪問中に税関を接收することによつて、委員会を日本が軽視していることを示してはどうかと申し出た。『連盟調査委員会の滞在中、これを敢行し満洲の独立性を発揮し、かつ「満洲事変」に対する日本及び満洲国の断乎たる決意を示すを有利なりとす』とかれは述べた。

犬養首相の暗殺

  独立国家としての満洲国の樹立に反対したために、総理大臣犬養はその命を落すこととなたつた。総理大臣は、日本が満洲国を承認することは中国の主権の侵害になると主張し、終始一貫してこのような承認に反対していた。
  総理大臣の職に就いて後、数日を出ないうちに、和平條件を取極めるために、犬養は萱野という密使を蒋介石大元帥の許に派遣した。蒋大元帥は萱野の申入れに大いに満足し、交渉は円満に進行していた。そのときに、総理大臣犬養あての萱野の電報の一つが、陸軍省によつて捕捉された。内閣書記官長は、犬養の子息に、『君の親父は蒋大元帥と交渉をしている。(E-607)これについて陸軍省は非常に憤慨している』と知らせた。交渉は断念されたが、総理大臣と陸軍大臣荒木との間に、軋轢が続いた。
  総理大臣犬養と当時荒木を指導者とした『皇道』派との争いは、一九三二年五月八日に、犬養が横浜で反軍部的な、民主主義賛成の演説を行つた日に、爆発点に達した。一九三二年五月十五日、総理大臣が病気で一時的に独りで官邸にいたときに、数人の海軍士官が闖入して、かれを暗殺した。大川博士はこの暗殺のために拳銃を提供した。橋本は、その著書『世界再建の道』の中で、かれがこの暗殺事件に関係があつたことを認めた。
  その当時に陸軍省軍務局員であつた鈴木中佐は、もし新内閣が政党指導者のもとに組織されるようなことがあつたら、第二、第三の暗殺が起るだろうと警告した。鈴木は、この暗殺の二日後に、原田男爵邸で、木戸、小磯及びかれが同席して食事をとつていたときに、その警告をしたのである。対外進出政策に対する反対は、主として日本の諸政党の代表者から出ていた。

日本の満洲国承認

  荒木と小磯は、それぞれ陸軍大臣と陸軍次官として、新内閣に留任した。かれらの指導のもとに、満洲国は独立国家として日本政府の承認を受けた。関東軍参謀長からの電報に対する一九三二年六月四日附の回答の中で、承認問題について、陸軍大臣は次のように述べた。(E-608)『内外諸般の方面に亘り、極めて機微の関係にあるを以て、目下何時にても承認を実行するの決意の下に機を窺いつつあり』。かれはまた関東軍を通じて、満洲国を支配する計画を明らかにした。かれは次のように述べたのである。『在満機関の統一に就ては、迅速なる満洲国の確立安定及国防上の要求に則応する満洲産業開発等を目標として軍を中心とする統一機関の確立を企図しあり。万一にも如斯底意が内外殊に外国に漏洩するが如きことあらんか、満洲国の指導上頗る不利なるものあるべきにより内部的研究と雖も特に憧重ならんことを望む』。一九三二年六月の半ばごろ、軍事参議官会議の席上で、満洲国建国前の満洲に関する国際連盟の諸決議と日本の行つた諸声明とは、もはや日本を拘束するものとは考えられないと荒木は述べた。
 一九三二年六月に、いわゆる『協和使節』を東京に派遣することによつて、関東軍は政府を強要して満州国を承認させることについて荒木を援助した。この使節団の目的は、新国家の即時承認を慫慂することであつた。との使節団は、黒龍会と協力して活動し、黒龍会は、この『使節団』を援助するために、日比谷の東洋軒で種々の懇談会を開いた。
  内閣の更迭に鑑み、リツトン委員会は一九三二年七月四日に東京に帰り、満洲の事態に関する内閣の見解を知ろうとして、新政府の当局者と会議を重ねた。荒木はこれらの会議に出席した。(E-609)
  同委員合が北京に帰つてから、すなわち一九三二年八月八日かそのころに、荒木が関東軍参謀長あての電報で述べた『軍を中心とする統一機関』は計画通り設立された。この新制度のもとにおいて、『四位一体』制が『三位一体』側に変つた。この新制度によつて、関東軍司令官は、関東州租借地の長官となり、同時に満洲国駐箚大使を兼任することになつた。この新制度は、一九三二年八月二十日に実施された。この制度を実施するために、人事移動が行われた。武藤信義が本庄にかわつて関東軍司令官になつた。板垣は関東軍参謀部に留まり、陸軍少将に昇進した。陸軍次官小磯は、関東軍参謀長兼関東軍特務機関の長、すなわち諜報機関の長として、満洲に派遣された。
  降伏後に、荒木は次のように述べた。『三巨頭会議(外務、海軍、陵軍各大臣)の席上、満洲国を独立国家として承認することを討談したとき、私は、満洲国が独立国家である以上、大使の交換をしてはどうかと言つた。この問題は、一九三二年八月の閣議にかけられた。討議は満洲国が承認を受ける時期に関して、すなわち即時かまたは後日にかについてであつた。関東軍はわれわれが即時承認するように申入れて来た。私は一九三二年九月十五日を、満洲国正式承認の日と定めた。この閣議でわれわれは、満洲国との間に締結される條約の内容を討議した。可決された内容を私は承認した。
  『日満議定書詞印』問題を協議するために、枢密院副議長として、平沼は一九三二年九月十三日に枢密院会議を召集した。(E-610)枢密院審査委員合の委員にも任命されていた平沼は、枢密院の本会議で、同委員会の報告を朗読した。この報告には、他のことと共に、次のように述べてあつた。『帝国政府においては、遅滞なく同国を承認することが望ましいと確信したが、慎重を期するため、半歳にわたつて満洲国の事態の発展と、国際連盟及び各国の動静を注親したのであつて、同国に対する帝国の承認が、世界に対し一時相当の衝動を与えるであろうということは、想像するに難くはないが、しかもこれによつて国際的危機を将来するであろうと思われない状況にある。我が国は共存共栄の目的をもつて、本議定書及び往復文書による取極を締結し、それによつて満洲国を承認する措置を執ろうとするものである。
  平沼は次の四つの往復文書に言及していたのであつた。(一)第一の文書は、一つの書簡とそれに対する回答からなつていた。この書簡は、一九三二年三月十日の、すなわち溥儀の就任の翌日の日附で、溥儀から本庄にあてたものであつた。この書簡の中で、満洲国建国に際して日本の払つた努力と犠牲を感謝するが、満洲国の発展は日本の援助指導にまつほかはないと溥儀は述べた。さらに、他のいろいろなことと共に、次のことに日本が同意するように要請した。(イ)関東軍の必要とする一切の軍事施設を満洲国が供与するという了解で、経費は満洲国負担として、日本は新国家の国防と国内秩維持に任ずること。(E-611)(ロ)日本は一切の既設の鉄道及び他の敷設施設の管理、並びに望ましいと考えられる新施設の敷設に任ずること。(ハ)日本人が満洲国政府の全部門に官吏として勤務すること。但し、これは関東軍司令官が任意に任用、解職、更迭するものとすること。この書簡に対する本庄の回答は、単に日本は溥儀の申出に反対しないというにすぎなかつた。(二)第二の文書は、一九三二年八月七日附の満洲国国務総理と本庄の間の協定で、運輸施設の管理に関するものであり、日本による管理をさらに絶対的のものとするものであつた。(三)第三の文書は、一九三二年八月七日附満洲国国務総理と本庄の間の他の協定であつた。これ日本航空株式会社の設立に関するものであつた。この会社は、一九三二年八月十二日の閣議の決定によつて、軍事通信という名目で関東軍の手ですでに満洲に敷設されていた航空路を護り受けることを許された。(四)第四の文書は、一九三二年九月九日附の満洲における鉱業利権に関する武藤司令官と満洲国国務総理の間の協定であつた。
 平沼の朗読した報告によれば、これらの文書は、その署名の日附に遡つて效力を発生することになつており、また国家間の協定と認められるが、厳密に附せられることとなつていた。
 議定書は公表されることになつていたもので、次のことが規定されていた。(E-612)日本は満洲国を承認したこと、満洲国はその建国の当時に、満洲で日本の国と臣民が有していた一切の権益を確認すること、並びに、一方の国に対する脅威を両国に対る脅威であると認め、満洲国内に軍隊を駐屯する権利を日本に与えることによつて、両国はその国家的安全の維持のために協力することを約束することである。調査委員会は右の議定書と往復文書の承認を勧告した。
  調査委員会の報告を朗読した後の討議によつて、提案された議定書と往復文書が、九国條約(附属書B―一〇)とその他の條約上の義務に違反するものであることを、枢密顧問官は充分に承知していたことが示される。枢密顧問官の岡田がこの問題を提出した。これより前に、外務大臣は議会に対して、満洲国は独立国となつているから、日本は満洲国を承認しても九国條約の違反にならないし、日本は中国国民の独立を防止するという約束もしてはいないと説明していた。しかし、合衆国とその他の国は、この説明では満足しないであろうという意見を岡田は述べた。かれの説明したところによれば、『米国人は言はむ、満洲国の独立も満洲人の自主に由るものならば不可なからむも、日本が其の独立を援助し且つ之を維持せむとするは、中国の主権を無視せるものにして、條約違反に非ずや』というのである。(E-613)これに対して、外務大臣は、『固より此の点については、米国を始めとして、各方面に種々の意見あるも、夫は先方の見解なり』と答えた。荒木は『満洲国の国防は同時に我が国の国防たり』と説明した。石井顧問官は、『「満洲問題」の国際連盟に対する関係に付ては、帝国の主張は甚だ心許なし』といい、さらに、『満洲国に於ける我行動が不戦條約(附属B―一五)及び九国條約違反なりとは、米国等に於ける多数人の殆ど定説なりき』と述べた。しかし、石井顧問官は、『今や日本が満洲国と国防上同盟締結したる以上、日本軍の満洲駐在に対し何者と雖も異議を挟むの余地なく、従前の連盟の決議は死文たるに到るべしと考ふ』と附言し、次いで『満蒙民族が今日迄読立運動を起ささりしことは寧ろ不可思議なりき』と述べたのである。
  採決が行われ、議定書と往復文書は全員一致の賛成を受け、天皇は退席した。武藤大使は、『之が議定書である、之に署名を願いたい』という言葉とともに、議定書を満洲国国務総理に提示した。溥儀は、議定書が署名のために提示された日まで、それが存在することを知らなかつたと証言したが、かれは一九三二年九月十五日にこれに署名したのである。

熱河占領の準備

 熱河省の省長であつた湯玉麟将軍を説得して、中国からの熱河省の独立を宣言させ、これを満洲国の管轄下に入れようとする努力は、何の効果もなかつた。(E-614)そこで、東三省の占領と統一が完了するとともに、日本陸軍は熱河の占領のための準備を開始した。降伏後に、荒木は次のように述べて、熱河への侵入の決定を説明しようとした。かれは満洲征服のための経費の支出が一九三一年十二月十七日の枢密院会議で決定されたといつているが、その会議について語りながら、『張学良の領土を包含する三省は平定を要するものであることが決議されました。然しながら張の、彼の管轄権は四省に拡張せられたと云う意味の声明は、行動の舞台を熱河に迄拡大しました。』と述べたのである。
  一九三二年二月十七日に各省の傀儡省長によつて最高行政委員会が組織されたとき、熱河も同委員会に代表を送ることに定められた。しかし、同省内の諸同盟の蒙古人は、新国家との協力をはかり、満洲国によつて国民とされたけれども、湯玉麟省長は右の招請を無視し、同省の支配を続けた。
  日本側はすでにジユネーヴで留保をしていたので、熱河を満洲国に併合する計画を進めるためには、単に一つの口実を発見しさえすればよかつた。最初のロ実は、関東軍附の石本という官吏が一九三二年七月十七日に北票と錦州の間を旅行していたとき、『行方不明になる』という芝居を演じたときに、見つけられた。日本側は直ちにかれが中国義勇軍によつて拉致されたと主張し、石本を救い出すという口実で、関東軍の一部隊を熱河省内に派遣した。この部隊は砲をもつていたが、同省の省境の一村落を占領した後に、撃退され、その目的を達しなかつた。この戦闘中に、日本軍の飛行機は朝陽の町に爆弾を投下した。(E-615)また、一九三二年八月中、日本軍の飛行機は、熱河省のこの地方の上空で、示成飛行を続けた。一九三二年八月十九日に、表面上は石本氏の釈放を交渉するために、関東軍の一参謀が北票と熱河省境の間にある小村落南嶺に派遣された。かれは歩兵部隊を従えていた。帰りの途中で射撃され、自衛上応戦したとかれは主張した。あたかもあらかじめ手筈を定めていたかのように、他の歩兵部隊が到着して、南嶺は直ちに占領された。
  南嶺の交戦の後間もなく、熱河省は満洲国の領土であるという趣旨の声明が発せられた。このようにして、関東軍の行動によつて、これを併合するための基礎が築かれた。次々に口実が設けられ、主として錦州・北票線に沿つて、軍事行動が続けられた。この線は、鉄道によつて満洲から熱河に至る唯一の道である京奉鉄道の支線である。当時では、中国の本土と満洲に残留する中国軍との間の主要連絡線は、熱河省を通つていたのであるから、以上のことは、当然に予期されたところであつた。熱河への侵入が切迫していたことは、ちよつと見た人にも明白であつたし、日本の新聞も、遠慮なくこの事実を認めた。一九三二年九月に、第十四混成旅団が満洲に到着した。その表向きの使命は、満洲と朝鮮の間を流れる鴨緑江の北岸地域である東邊道内の匪賊を『掃蕩』するというのであつた。しかし、この旅団の真の使命は、熱河への侵入の準備をすることであつた。

リツトン委員会の報告提出

  ジユネーヴでは、一九三二年十月一日に受取つたリツトン委員会の報告を審議するために、一九三二年十一月二十一日に、連盟理事会が開かれた。この討議の際に、日本代表の松岡は、『われわれはこれ以上の領土を欲せず』と言明した。(E-616)しかし、どのような紛争解決のための基礎に対しても、松岡が同意することを拒んだために、一九三二年十一月二十八日に、理事会はリツトン委員会の報告を総会に移し、その処置を求めるほかはなくなつた。
  リツトン委員会は、その報告書の中で、次のように述べた。『開戦の宣言なくして、疑いもなく中国の領土たりし広大なる地域が日本軍隊に依り強力を以て押収且占領せられ、而して右行動の結果として、中国の他の部分より分離せられ、且つ独立と宣言せられたるは事実なり。日本は之を成就せしめたる措置を以て、此の種の行動の防止を目的とする国際聯盟規約(附属書B―六)、ケロツグ條約(附属書B―一五)及びワシントン九国條約(附属書B―一〇)の義務に合致するものなりと主張す。此の場合に於て、一切の軍事行動は合法なる自衛行為たりしものにして正当とせられたり』。しかし、この委員会は、一九三一年九月十八日の夜の奉天の出来事を論ずるにあたつて、さらに次のように述べた。『同夜に於ける叙上日本軍の軍事行動は、合法なる自衛の措置と認むることを得ず。』
  聯盟総会は一九三二年十二月六日に会合し、一般的討議の後に、さきに一九三二年三月十一日に総会が任命した十九人委員会に対して、上海における敵対行為の終結をもたらし、リツトン報告書を検討し、紛争解決のための提案を起草し、これらの提案をなるべく速やかに総会に提出することを要求する決議を採択した。
  十九人委員会は、この委員会がその努力を継続することができるための基礎であると考えるところを、概括的に示した二つの決議案と一つの理由書を起草した。一九三二年十二月十五日に、これらの二つの決議案と理由書が当事国に提示された。中国と日本の代表は修正を申入れた。(E-617)委員会は、両国の代表と連盟事務総長と委員会議長との間で、その修正案を討議することができるように、一九三二年十二月二十日に休会した。

山海関事件

  右の商議があまり進行しないうちに、一九三三年一月一日、重大な『山海関事件』が起つた。北平と奉天との中間で、万里の長城の終端にある同市は大きな戦略的重要性をもつものと常に認められていた。同市は、満洲から入つて、現在の河北省に進入しようと欲する侵入者の辿る通路の上にある。その上に、河北から熱河に入るには、最も容易な通路である。
  錦州が占領されてから、日本軍は山海関まで――長城の線まで――進出し、奉天・山海関の鉄道を手に入れていた。この鉄道は、山海関から、張学良元帥がその司令部を置いていた北平まで続いている。山海関の停車場は長城のちようど南側にあるが、奉天からの日本側の列車は、この停車場まで通つていた。従つて、列車を護衛するという口実のもとに、日本側はこの停車場に軍隊を駐屯させていた。北平からの中国側の列車も、この停車場まで通つていたので、中国側はそこに軍隊を駐屯させていた。中国側の司令官は、右の『事件』が起るまでは、異常がないという報告をしていた。
  十九人委員会が提出した二つの決議案に対する修正案の討議中に、この『事件』が発生したということは、中国と日本の間の解決の基礎に到達するための、同委員会の一切の努力を斥けようとする日本政府の行動を正常化するために、この事件が計画されたのであるということを強く示唆するものである。(E-618)
  一九三三年一月一日の午後に、若干の中国人が手榴弾を投げたと日本側は主張した。これが山海関を直ちに襲撃するための口実であつた。附近の小さな町々は機関銃で射撃され、アメリカの宣教師の財産は爆撃を受け、戦闘は発展して旧式の塹壕戦となり、そのために、北平と長城の間の華北平野は、幾百マイルもの塹壕網を張り廻らされるに至つた。数千の平和的市民が殺戮された。一九三三年一月十一日に、政府は一九〇一年の議定書(附属書B―二)の署名国に訴えた。

日本は十九人委員会の一切の努力を拒否した

  十九人委員会は、さきの休会の決定に従つて、一九三三年一月十六日に再開し、中国と日本との間の解決の基礎に到達しようとして、両当事国に対して、いくつもの質問と情報供与の要請とを出した。同委員会の要請のすべてに対して、委員会が日本から受領した回答は不満足なものであつた。そして、一九三三年二月十四日に、日本政府は委員会に対して、満洲国の独立の維持と承認が極東平和の唯一の保障であり、全問題は結局右の基礎において、日本と中国の間で解決されるものと確信すると通告した。これによつて、委員会の審議は終止符を打たれた。委員会は直ちに総会に報告した。

(E-619)
国際連盟の日本非難

  国際連盟総会は、一九三三年二月二十四日に、十九人委員会が総会のために作成したところの、日本と中国との戦争において日本を侵略者であるとして非難し、かつ戦争の終結を勧告した報告書を採択した。十六カ月以上にわたつて、理事会または総会が中日紛争の解決策を見出そうと絶えず努力してきたが、事態は悪化の一途を辿り、『仮装せる戦争』が続いたと総会は報告した。総会は次のように宣言した。『満洲は、一切の戦争及び「独立」の期間を通じて、終始中国の完全な一部であつたもので、また日本文官及び武官の一団は、九月十八日の事件の後に存在したような満洲の事態の解決策として満洲独立運動を構想し、組織し、遂行し、この目的のもとに、ある中国人の姓名及び行動を利用し、中国政権に対し不平を懐くある少数者及び土着の団体を利用した』。一九三一年九月十八日の秋に、奉天とその他の満洲各地で日本がとつた軍事行動は、自衛の措置と見做すことができないということ、右の紛争の進展に伴つて、日本がとつた各種の軍事的措置の全部に対しても、同じように右のことがあてはまるということを総会は決定した。さらに、『満洲国』の『政府』内の主要な政治的と行政的の権力は、日本人官吏と顧問の手中にあり、かれらは事実上行政を指揮し、支配する地位にあつたと述べた。(E-620)住民の大多数は右の『政府』を支持せず、これをもつて日本の手先と見ているということを総会は認めた。『中国領土の広大なる部分が、宣戦布告なくして日本軍隊により実力を以て奪取せられ、かつ占領せられたること、並に右行動の結果として該部分が中国の他の部分より分離せられ、かつ独立を宣言せられたることは異論を挟む余地なし』と総会は声明した。『一九三一年九月十八日前に存在したる緊張状態発生の際においては、当事国の双方何れにも若干の責任ありたるが如きも、一九三一年九月十八日以降の諸事件の発展に関しては豪も中国側の責任問題は起りえさるるのなり』ということを当然のこととして総会は認めた。これは日本に対して侵略の認定を与えたものであり、かつ将来において同様な行為は同様な非難を受けることを警告したものであつた。従つて、それから後には、日本ではだれ一人として、自分はこの種の行動が許されるものと心から信じていたと、正当に言える者はなかつたのである。一九三三年月二月十四日に連盟総会が採択した報告と意見を異にすべき根拠を、本裁判所は全然認めないものである。
  被告白鳥は、かれが公に行つた諸声明において、満州における日本の行動の正当性を主張するものの急先鋒の一人であつたが、当時のベルギー駐箚の日本公使有田にあてた私信の中で、実は本当のことをいつている。これは一九三五年十一月に書かれ、国際問題において協調を支持する日本の外交官について語つたものであるが、『かれらは満洲を中国に返還し、国際連盟に復帰し、罪を天下に謝するの勇気ありや』と言つているのである。

(E-621)
日本の国際連盟脱退

  日本は連盟規約(附属書B―六)に基く自国の義務を履行しないで、かえつて、一九三三年三月二十七日に、連盟から脱退する意思を通告した。この通告は、日本の脱退の理由を述べて、『聯盟規約其の他の諸條約及び国際法の諸原則の適用殊に其の解釈に付帝国と此等聯盟国との間に屡々重大なる意見の相違ある』ためであるといつた。

熱河侵入

  連盟総会が日本を中国における侵略者として非難する決議を採択した翌日、日本は熱河省に侵入し、それによつて、公然と連盟に反抗した。山海関や九門口のような長城に沿う重要地点は、『山海関事件』に続いた戦闘の結果として、すでに日本軍の手に落ち、熱河の戦略的事態は、一九三三年二月二十二日以前に、きわめて重大になつていた。この日に、傀儡国家満洲国の名で、日本軍は中国に対して最後通牒を送り、熱河は中国の領土ではないといつて、熱河省内の中国軍が二十四時間以内に撤退することを要求した。この最後通牒は容れられなかつた。そこで、一九三三年二月二十五日に、日本陸軍の進撃が始まつた。日本軍は通遼と綏中の基地から三縦隊に分れて前進し、長城の北部と東部の全地域を占領して、戦略上重要な長城の諸関門を占領するまで止らなかつた。板垣と小磯は、関東軍の参謀として、一九三三年三月二日までに完成した全満洲の占領に協力した。

(E-622)
塘沽停戦協定

  長城まで進出した結果として、日本軍は中国の本土に侵入するに好都合な位置にあつた。しかし、次の進出の準備として、日本軍がすでに得たところを強化し、組織するには、時間を必要とした。この時間を稼ぐために、塘沽停戦協定が一九三三年五月三十一日に調印された。武藤司令官は、塘沽で中国の代表と交渉するために全権を与えられ、また関東軍が作成した停戦協定の草案を携えた代表を送つた。調印された停戦協定には、長城以南の非武装地帯についての規定があつた。その條件は、中国軍がまず一定の線まで撤退するというのであつた。その撤退が完全かどうかを随時飛行機で観察する権利を日本軍は与えられた。この撤退に満足した場合には、日本軍は長城の線まで撤退することになつていた。中国軍は再びこの非武装地帯内に入らないことになつていた。

立役者、荒木一

 日本軍が全満洲を占領したという成功は、日本のある方面で、陸軍大臣荒木を人気者にした。かれは絶えず寄稿や講演を頼まれた。一九三三年六月に、かれの演説の中の一つをとり入れて作つた『非常時日本』という映画の中で、かれは軍の理想を述べ、全アジアと太平洋諸島を支配するために、侵略戦争をする軍の計画を示した。(E-623)かれがいろいろ述べた中に、次の言葉がある。『果してアジアはここ半世紀安寧であつたであらうか。シベリア、蒙古、チベツト、新彊及び中国の有様はどうであろうか。果して太平洋の波は静かであろうか。明日も今日と同じように、太平洋の波濤は果して穏かであろうか。その理想と力によつて東洋の平和を確保することは、日本、大和民族の神聖なる使命である。国際連盟は日本のこの使命を尊重していない。国際連盟を中心とする全世界の日本に対する包囲的攻勢は、「満洲事変」によつて現われた。やがては世界をして、わが国の德を欽仰せしめ得る日が到来する。(画面の中央に日本と満洲が映り、次いで中国、インド、シベリア及び南洋が現われた)。「奉天事件」の形をとつた天の啓示によつて建設された満洲国と日本は、相携えてアジア永遠の平和を確立しようとする。』次に、かれは国防を次のように定義した。『国家の防衛を地理的に置くというがごとき小乗的な見方は、私の採らさるところである。「皇道」を、空間的には拡大発展性において、時間的には悠久永続性において守ることが軍の使命である。わが軍は「大君の邊にこそ死なめ』という歌の千古不磨の精神で戦つた。わが国は空間的の発展をする運命にある。われわれが「皇道」を拡めるにあたつて、これに反対するものに対して軍が戦うことは予期せねばならない。諸君、アジアの状態をみよう。この状態でいつまで捨てておくのであるか。アジアに理想郷をつくるということが、われわれの最大の使命である。私は、諸君が挙国一致的に進むことに努力されんことを切にお願いする。』(画面に『光は東方より!』という言葉が現われた)。

(E-624)
第二節 満洲の統一と開発
満洲国改造

 塘沽停戦協定の調印の後に、満洲国が改造された。これは、満洲傀儡国家に対する日本の支配力を強化するために、また、中国に対する侵略戦争を続け、日本がアジアと太平洋諸島を支配することに反対するかもしれない諸国に対する侵略戦争を行う準備として、満洲の経済開発を促進するために行われたものである。
 一九三三年八月八日に、日本の内閣は、『満洲を大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家として発達』させることに決定した。満洲国の支配は、『関東軍司令官統轄の下に、日系官吏を通して行ふ』こととされた。満洲経済の目標は、『帝国の対世界的経済力発展の根基を確立する為日満両国経済を融合すること』とされた。『日満共存共栄』は、『帝国国防上の要求に制約せらるる』こととされた。この決定が行われた当時に閣僚であつた荒木は、疑念をはさむ余地のない言葉で、国防ということを定義している。この政策を遂行するための具体的方策は、慎重に研究された後になつて、初めて閣議の承認を受けることとなつていた。
この計画の研究は、土肥原が一九三三年十月十六日に関東軍司令部勤務を命ぜられ、廣田が一九三三年九月十四日に外務大臣に任命された後になつて、初めて完了された。(E-625)しかし、一九三三年十二月二十二日に、荒木と廣田の出席のもとに、内閣は『満洲政府側に於ては、成るヘく速に君主制への改制を考慮し居る趣なり。君主制の実施は清朝の復辟にあらすして、立憲君主制としての国体を確立するものなることを明にして、苟も満洲国国務の進展を阻礙すへき原因の絶無を期し、就中近く際会することあるへき国際的危険を克服するため必要なる日満両国国防力の増強拡充に寄与せしむへきこと』を決定した。国務院を強化すること、政府内部組織について、特にその人事について、根本的な改正を加えること、並びに、『従来の日満両国間の條約取極等は君主制によつて確立せしむること』が決定された。
  満洲国を、すなわち、日本が世界に対して独立国であると公言していた国を統治する方法を決定したのは、日本の内閣であつたということに注意しなければならない。この口実がわれわれの面前で依然として主張され、数百頁に上る証拠と議論によつて支持されたのは驚くべきことである。
  満洲国のこの従属的な地位が変らなかつたことについての証拠としては、真珠湾攻撃のわずか三日前の一九四一年十二月四日附で、外務大臣東郷が関東軍司令官梅津に送つた電報に優るものはない。(E-626)この電報で、東郷は次のように訓令している。『四日政府統帥部連絡会議に於て国際情勢最悪化に際して満洲国をしてとらしむべき措置を決定せる処、往電第八七三号の次第と相違し我方の方針左の通変更せり。「帝国開戦の際は満洲国は当分参戦せしめさるものとす。同国と帝国との緊密なる関係により、また英米蘭は同国政府を承認し居らさるにより、同国政府は右三国を事実上の敵国と看做し、然るべく取扱うものとす。」(-E627)
  改造の次の段階は、溥儀を満洲国皇帝として即位させることであつた。一九三三年十二月二十二日の閣議決定の後に、閣東軍司令官として武藤大将のあとを継いだ菱刈大将は、溥儀を訪問し、かれが満洲国を帝国にすることを計画していると述べた。満洲国の新しい一連の組織法が一九三四年三月一日に公布された。これらの法律は、満洲国は皇帝がこれを統治するものと定め、皇帝の権能を規定したが、政府の機構を実質的に変更したものではなかつた。日本人が依然として政府の重要な地位を占め、『火曜会』は政策樹立機関として存続され、皇帝が降伏後捕虜となつた日まで、吉岡中将は引続きかれを『監督』する任務をもつていた。新しい法律が公布された日に、溥儀は、長春のある寺院で天を祀つてから、満洲国皇帝の位に就いた。しかし、かれにはなんの権力もなかつた。毎年一回各部長を引見することを許されていたが、それは日本人総務庁長によつて注意深く監督された。
  溥儀を満洲国皇帝の位につけ、同国の経済開促を促進するためにその法律を正した上で、内閣は一九三四年三月二十日閣議を開き、この開発を実行するにあたつてとるべき方針を討議した。荒木は一九三四年一月二十三日に陸軍大臣を辞職し、軍事参議官となつたが、外務大臣廣田はこの閣議に出席していた。根本方針は、『満洲国を日本と不可分的関係を有する独立国家として進歩発展させ、日本の対世界的経済力発展の根基を確立して満洲国経済を強化する』ことに決定された。(E-628)満洲国における交通、通信、その他の事業は、日本帝国の『国防』に寄興させるために、日本の直接または間接の監督のもとに、特殊会社をして開発させることにされた。
  中国に対する日本の意図に関するあらゆる疑いを一掃するためであるかのように、廣田の下にある外務省は、一九三四年四月十七日に、一つの声明を発表した。これが後に『中国から手を引けという声明』とか、『天羽声明』とか言れるものになつた。前者は同声明の内容によつて、後者はこの声明を新聞に発表した官吏の名前によつて名づけられたのである。天羽は外務省の一官吏であつたばかりでなく、その公式な代弁者でもあつた。外務大臣廣田は、一九三四年四月二十五日に、駐日アメリカ大使と会見したとき、自分の方から進んで、『天羽声明』に言及した。新聞記者の質問に答えて、廣田の承認もなく、これに通告もしないで、天羽は声明を発表したのであつて、世界は日本の方針について全然誤つた印象を与えられたと廣田は述べた。さらにつけ加えて、日本の方針は、あらゆる点で、九国條約(附属書B―一〇)の規定を完全に遵守し、支持することであると述べた。廣田がアメリカ大使に言つたことは、私的な言明であつて、公式な声明ではなかつた。『天羽声明』は決して公然と否認されたことはなかつた。この声明を発表したという理由で、天羽は対外進出論者から英雄視された。外務大臣広田は、外務省の許可を受けずに、この声明を発表したことについて、全然天羽を懲戒しなかつた。この声明は、日本の外交方針のその後の進展と密接に合致するものである。そこで、本裁判所は、証拠に基いて、この声明は当時の日本の中国に対する政策を外務省が公式に宣言したものであること、九国條約の締約国に対して、中国における日本の計画に対する干渉を日本政府は許容しないということを警告する目的で発表されたものであることを認定する。
  右の声明は、他のいろいろなことと共に、次のことを含んでいた。(E-629)『支那に関する日本の特殊なる地位に依り、支那問題に就ては、日本の見解及態度は「凡ゆる点に於て」列国のそれと必ずしも一致せさるものあるやも知れず、然れども日本は東亜に於て其の使命及特別の責を果すべく極力努力を求められつつあることは認めらるるを要す。故に支那にして他国の勢力を利用し、日本を排斥する如き挙に出づるは吾人の反対する所なり。満洲事変、上海事変後の此の特殊時期に於て、列国側に於てなされたる共同動作は、仮令名目は技術的或ひは財政的援助にあるにせよ、政治的意味を帯ぶるに至るは必然なり。されば日本は原則としてかかる動作の遂行に反対するものなり。』

『二者合一』制

  一九三四年十二月十日に、関東軍は新司令官と新参謀副長を迎えた。前者は南、後者は板垣である。これらの任命は、満洲国の改組の完成と日本の同国支配機構の改組の完成を先触れするものであつた。日本政府は勅令によつて各省の満洲関係の事務を掌る対満事務局を創設した。同局は、満洲での新しい『二者合一』制に合致するように設立された。関東軍司令官はいままで通りに駐満大使となつたが、関東州租借地の長官の職は廃止され、その任務は新設の関東局総長に移り、この局は大使に隷属することになつた。このようにして、南は関東軍司令官となり、同時に満洲国駐箚大使として租借地の行政、大使館及び南満洲鉄道会社を支配した。(E-630)対満事務局は内閣総理大臣の指揮監督下にあつたが、陸軍大臣がその総裁の地位を占めていたので、満洲国の実際的な支配権は依然として関東軍と陸軍省の手にあつた。南は訊問に答えて、大使としてのかれの第一の任務は、『満洲国の独立を保存する』ことであつたと述べた。当時、かれは『農業、交通、教育というような点に関して』政府に助言を与えた。『あなたの助言というのは、事実上においては命令にひとしいものであつたのではありませんか』という質問に対して、かれは『そうおつしやつてもよろしい』と答えた。一九三六年三月六日に、植田大将が大使兼関東軍司令官として南の後任となり、一九三九年九月七日に梅津大将とかわるまで在任した。梅津は一九四四年七月十八日までこの職にあつた。

対満事務局

  すでに述べたように、対満事務局は各省の満洲関係の事務を掌るために組織され、日本政府と満洲の『二者合一』の行政官との間を繋ぐ鎖として設けられた。この局は関東局、満洲国の対外事務、満洲の経済を開発するために設立された諸会社、日本人による満洲植民、満洲国の文化事業――それは多分阿片取引を含むものであつたろう――その他の満洲や関東州に関するすべての事項を担当した。次の各被告は、陸軍大臣の職にあつたことによつて、この対満事務局の総裁を勤めた。すなわち板垣、畑及び東條である。岡と佐藤もそれぞれ同局の事務官を勤めた。次の者は同局の参与であつたことがある。すなわち賀屋、武藤、重光、岡、梅津及び東條である。

(E-631)
満洲における世論の統制

 満洲から出る新聞報道を統制し、また宜伝を指導するために、関東軍司令官は、すなわち『二者合一』の統制機関は、満洲にある新聞と通信社を全部統合した。それまで、日本政府、満洲国政府または南満洲鉄道会社のもとにあつたすべての新聞通信社は、弘報協会と呼ばれた一つの協会に統合された。この協会は、すべての内外通信記事の発表を厳重に監督し、宜伝の方針と方法を決定するとともに、その協会に属すると否とにかかわらず、右の方針を各新聞通信社に対して励行する任務を与えられた。

(E-632)
星野は満洲国経済の指導者となつた

 満洲国という新しい組織のもとで、星野は満洲経済の自他ともに許す支配者となつた。かれがこの仕事に対する訓練をはじめたのは、日本の蔵相の嘱望によつて、満洲国財務部の一理事官としての任命を受けるために、一九三二年七月十二日日本を出発するとともにであつた。その当時に、かれは、満洲国政府を支配するための関東軍の強力な機関であつた総務庁長官の地位を占める能力があると、認められているということを聞いた。かれは累進して、約束された地位にまで進んだ。満洲国の改造が完了する直前に、一九三四年七月一日、かれは満洲国財政部の総務司長に任命された。それから、一九三六年六月九日に、かれは満洲国財政部次長に任ぜられた。一九三六年十二月十六日に、かれは総務庁の総務司長となり、この職を一九三七年七月一日に総務庁長官という高職に昇進するまで勤めた。一九四〇年七月二十一日に、東京の企画院総裁となるまで、かれは引きつづいてこの職にあつた。満洲の経済開発をどのように解説するにしても、それは実質的には星野の経歴を物語ることになる。一九三二年七月、かれが満洲国財政部の一理事官となるために東京を出発したときに、かれの職務上の補助者として、訓練された職員を連れて行つた。そして、間もなく、関東軍の権限のもとに経済事務を担当する日本人官吏として、かれは満洲で認められるようになつた。

(E-633)
満洲経済の奪取

  軍事占領の最初に、早くも日本側は満洲経済の支配権を押えた。最初に押えられた公共施設は、鉄道であつた。萬里の長城以北の中国側所有の鉄道のすべてと、満洲の諸銀行にあつたこれらの鉄道の貸越勘定とが押えられた。鉄道はすべて統合され、連絡され、そして南満洲鉄道株式会社として知られている日本政府の機関の経営のもとに置かれた。発電、配電の組織は急速に接収された。すべての財源は強制的に接収され、收入は新政府を賄うために使われた。関税は満洲国が独立国家であるという口実で押えられた。一九三二年六月十四日に、各省銀行と邊業銀行を廃し、これに代るものとして、満洲国中央銀行が設立され、前者の資金が新しい組織の資本として用いられた。一九三二年七月一日から、中央銀行によつて、新通貨が発行された。電話、電信及び放送施設は国有であつたので、押えられて日本側の支配下に置かれた。一九三二年四月十四日に、郵政を担当するために特別の職員が任命された。一九三二年七月二十六日までには、かれらはこの業務を完全に手中に収めた。これらの公共業務のすべてにわたつて、日本人の官吏と顧問が主要な政治的と行政的の地位を占め、これらの組織の実際的な支配を行つた。日本の内閣は、一九三二年四月十一日の決定の中で、この慣行を確認した。星野が満洲に派遣されたのは、この決定の後間もなくであつた。かれは財政と金融問題の権威者として認められており、満洲国の経済を組織するために、そこに派遣されたのであつた。

(E-634)
関東軍の満洲指導のための経済計画

  星野が七月に満洲に到着して後、一九三二年十一月三日に、関東軍参謀長小磯は、満洲国を『指導』するについての、かれの計画の概要を電報で陸軍省に送つた。そのうちで、かれは次のようにいつた。『政治は差し当り日本関東軍司令官の内面的指導を背景とし日系官吏を中核として運営す。経済的には共存共栄を原則とし、将来日満経済単一ブロツクの完整に伴ふ組織は日満協同の歩調に則らしむ。日満経済を単一ブロツクたらしむる為相互関税障壁の撤廃を目途とし、日満を通して産業上「適地適業」主義を実現す』。満洲経済の支配と開発のために、その後日本の内閣が採用したすべての計画は、これらの構想に基いていた。

満洲国経済建設綱要

  熱河の占領が完了する前の日に、すなわち一九三三年三月一日に、満洲国政府は『満洲国経済建設綱要』を公布した。日本の内閣は、前に述べたように、一九三三年八月八日の決定で、この『網要』の要点を承認した。この『綱要』の発表において、次のように述べられている。(E-635)『無統制なる資本主義経済の弊害に鑑み、之に所要の国家的統制を加へ、資本の効果を活用し、以て国民経済全体の健全且溌剌たる発展を図らんとす。』経済的開発は、次のような根本原則に基いて進められることになつていると発表された。(一)『国内賦存の国有資源を有效に開発し、経済各部門の綜合的発達を計る為、重要経済部門には国家的統制を加へ、((合理化))方策を講ず。(二)東亜経済の融合合理化を目途とし、先づ善隣日本との相互依存の経済関係に鑑み、同国との協調に重心を置き、相互扶助の関係を益々緊密ならしむ』と。これらの根本原則に基いて、政府は『国防的若くは公共公益的性質を有する重要事業は公営又は特殊会社をして経営せしむるを原則とす』る意図であると発表した。
  満洲国の改造と溥儀の即位との後に、一九三四年三月二十日の日本の閣議で、この『網要』はさらに内閣の承認を受けた。そして、『国防』に必要なこれらの産業は、特殊会社によつて運営されるベきこと、これらの会社は、急速な発展が期待され得るために、満洲国の実業界で支配的な地位を占めるべきことが決定された。これらの特殊会社の組織とその運営は、日本人に有利な独占事業をつくり出し、満洲における『門戸開放主義』を全然実効のないものにした。合衆国とその他の諸国は、中国における通商上の『機会均等』を保証することを目的とした現存の條約義務の、この不当な違反に対して抗議した。(E-636)しかし、満洲国が独立国家であるという理論に基いて、満洲国もよる諸條約の違反については、日本は責任がまつたくないと主張した。

日満経済共同委員会

  日本と満洲国の間の協定によつて、一九三五年に共同経済委員会が設置された。この協定は、委員会が八名の委員で構成され、両国からそれぞれ四名の委員を出すものと規定した。日本側の委員は、関東軍参謀長、在満大使館参事官、関東局総長及び日本政府によつて特に任命された一名ということになつていた。この取極めによつて、関東軍司令官が自動的に三つの投票を支配していたことがわかる。満洲国側の委員は外交、商工及び財政の各部長と日本人である総務庁長ということになつていた。委員会に提出された問題は、すべて多数決によつて決定されることになつていた。一九三五年七月三日の枢密院会議において、右の協定の批准の問題を討議中、質問に答えて、広田は次のように言つた。『私はかれ(元田顧問官)に、満洲国側から出す四人の委員のうち三名は大臣で、他の一名は総務庁長である、この総務庁長は日本人であり、将来においてもまた永久にそうであるだろうことを確信している、ということを考慮することを願いする。そして同庁長は満洲国の一官吏ではあるが、同時に満洲国の指導の任に当つている中心機関である。ゆえに、もし両国間に意見の相違がある場合でも、かれが日本に不利となるような決定をすることは想像できない。』(E-637)委員会は両国間の経済的連繋に関するすべての問題を論議し、日本と満洲によつて組織され、後に満洲国の諸産業を支配するようになつた合弁持株会社を監督することになつていた。しかし、両政府の経済的連繋にとつて重要な事項で、しかも日本の権限内にあるものは、委員会によつて討議されないことと定められていた。これらの事項は、委員会で論議されないことになつていたのであるから、満洲国だけを拘束する片務的契約となるのであつた。星野は満洲国総務庁長に任命されると同時に、委員会の委員になつた。南は、一九三五年に委員会が設置されたときから、一九三六年三月六日に関東軍司令官を免ぜられるまで、委員であつた。梅津は、一九三九年九月七日から一九四四年七月十八日まで、関東軍司令官であつた間、委員会に加わつていた。一九三六年三月二十三日に関東軍の参謀長となつた板垣は、職務上当然に同日委員会の一員になつた。このように、板垣は満洲国建設の主要人物の一人であつた。関東軍の参謀長であつた間に、委員会に参加した他の者には、一九三七年三月六日から陸軍次官に就任した一九三八年五月三十日までの間の東條と、一九四〇年十一月七日から一九四一年四月二十一日までの間の木村とがあつた。陸軍次官に任命された後も、東條は委員会の委員としての職に留まつたが、それは参謀長としてよりも、むしろ政府の代表者としての資裕においてであつた。

円ブロツクの組織

  この経済共同委員会の最初の事業の一つは、両国の通貨を統一することであつた。一九三五年十一月に、円ブロツクが設定されて、満州国の通貨は銀本位を離れ、円と等価に定められた。

(E-638)
治外法権の撤廃

  この経済共同委員会によつて行われた次の重要な経済上の取極めは、一九三六年六月十日に、満洲国と日本との間に調印された條約であつた。この條約の目的は、満洲国の市民権に伴う一切の利益を、それに相当する義務を課することなく、日本人に与えることにあつたもののようである。この條約には、日本が満洲国で享有していた治外法権を、漸進的に撤廃することを目的とすると述べてあつた。しかし、この條約には、『日本国臣民ハ満洲国ノ領域内ニ於テ自由ニ居住往来シ、農業、商工業、ソノ他公私各種ノ業務及職務ニ従事スルコトヲ得ベク、一切ノ権利ヲ享有スベシ』と述べてある。附属協定はもつと詳細にわたつたもので、満洲国における日本人の権利を長々と述べている。(E-639)規定の一つは、『満洲国政府ハ従来日本国臣民ノ有スル商租権ヲ土地所有権其ノ他ノ土地に関スル権利ニ変更スル為速ニ必要ノ措置ヲ執ルベシ』というのであつた。このようにして、一九一五年の日支條約の附属交換公文から生じたところの、商祖権に関する非常に論議の的となつた問題は解決された。このことは、日本が早い速度で満洲を植民地化していたことに鑑み、きわめて重要なことであつた。一九三六年から一九四〇年の間に、日本人約二十二万一千名が満洲に移住した。一九四五年までには、この数は百万を超えた。満洲に移住した日本人の大部分は兵隊に適した者で、関東軍の新師団編制に使用された。これら日本人が移住するための土地は、名ばかりの値段で徴発され、それによつて土地を剥奪された中国農民は立退かされ、未開拓の土地を割当てられた。

満洲国興業銀行

  一九三六年十二月に、資本金六千万円で創立された満洲国興業銀行は、日本の内閣の方針のもとに開発される重点産業に融資する手軽な手段として役立つた。この銀行は満洲国における産業上の目的の融資一切を取扱つた。満洲国人は、満洲国中央銀行及びその支店に預金することを許されたが、興業銀行から貸付を受けることはできなかつた。日本人だけがこの銀行から貸付を受けることを許された。日本人のために貯蓄し、中央銀行に預金するように国民を強制する貯蓄法が制定された。降伏当時に、この銀行には約六十億ドルあつた。これはすべて強制的貯蓄法の結果である。

(E-640)
第二期建設計画

  星野は、その訊問中に、一九三一年から三六年に至る最初の五年の期間における無計画な開発をやめて、満洲国開発のために具体的な総合計画を立てることが必要であると認められたと述べた。満洲国の関係各部、内閣企画院、南満洲鉄道会社、関東軍参謀長としての板垣とともに、星野は『満洲産業開発五箇年計画要綱』を起草した。この要綱は一九三七年一月に完成した。この計画をめぐるすべての問題に対する『最後的決定権』は、関東軍司令官にあつたと星野は延べている。この第二次五カ年計画は、第一次五カ年計画に合まれた根本原則を踏襲したもので、満洲国の資源を開発し、これを『国防』に、すなわち『戦争』に役立たせることに重点をおいていた。鉱工業に関する方針は、『兵器、飛行機、自動車、車輛等の軍需関係産業の確立を期すること、鉄、液体燃料、石炭、電力等の基礎的重要産業を開発し特に国防上必要なる鉄、液体燃料の開発に重点を置くこと』であるとこの要綱には述べてある。
  この計画は、一九三七年一月に、満洲国の省長と各部の総務司長との会議で採用された。一九三七年二月十七日に、満洲国政府は『第一次五カ年施政の実績と第二期建設計画概要』を公表した。(E-641)概要は次のように述べている。『国を樹ててより茲に五周年を閲みし、行政経済の一応の整備を終り、一九三七年度より愈々第二次五箇年計画の年に入り、画期的建設工作に邁進することになつた』。要するに、関東軍の満洲経済開後の第二次案は、変更されないでで、そのまま採用されることになつていた。(E-642)
  この五カ年計画の指導を援助するために、実業家鮎川が満洲に派遣された。清洲の全産業、特に石炭や鋼鉄のような重工業を統制するために、かれは一大持株会社を設立することに賛成した。

産業統制

  一九三七年五月一日に、満洲国は『重要産業統制法』を公布した。この法律は、『重要産業』の許可制を規定するようにつくられ、ほとんどすべての産業がこの法律によつて『重要』と指定されていた。この法律は、満洲の経済を日本の経済に統合するために公布されたのであつた。一九三七年五月二十九日に、日本の陸軍省が発表した『重要産業五箇年計画要綱』には、次のことが含まれていた。『われわれはわが国をして一九四一年を期し、有事の場合に於ても日、満、北支に於ける重要資材の自給自足を可能ならしむべく一般重要産業の綜合的拡充計画を企図するものである。』この計画は、さらに続けて、『国防重要産業の振興は「適地適業」の主義に則り、所要産業を努めて大陸に進出せしめ』るとしている。『重要産業統制法』は、この『適地適業』の原則を実施するために、満洲国の傀儡政府が公布したものであつた。

満洲重工業開発株式会社

  一九三七年十月二十二日に、内閣は『満洲生産開発計画遂行の確立促進を期し、満洲に於ける重工業の綜合的速急確立を図る為』めに、満洲重工業開発株式会社を設立することに決定した。(E-643)これは一大持株会社とし、その株式は満洲国、日本及び両国の国民だけによつて所有されることになつていた。最初に発行された株の半数は満洲国政府に、他の半数は日本の民間資本に売却されることになつていた。同社の経営は、『日本民間の有力なる適任者に一任するものとす。日本民間の有力なる適任者は現日産社長鮎川義介氏を予定』し、同社の社長と理事は両政府によつて任命されるはずであつた。この閣議決定に従つて、この会社を設立するために、満洲国との間に協定が結ばれた。

日本の工場としての満洲国

  重工業開発株式会社の設立によつて日本が完成した経済組織は、日本と日本人にだけに利益をもたらすことになつた。その唯一の目的は、満洲をして日本の使用する戦争物資を生産させる工場にするということであつた。この目的がどのように効果的に達成されたかは、その成功にだれよりも功労のあつた星野の言葉によつて、如実に示されている。日本は満洲で得られるものはすべて手に入れたとかれは言つた。中国の実業家は重要産業から閉め出され、貸付を許されなかつたので、その大部分は破産した。中国の農民は、日本の移民に土地をとられた。貯蓄法によつて、中国の労働者は、いくら働いても辛うじて命を繋いで行けるにすぎない状態に陥つた。米と綿花の専売制によつて、中国人は充分な食糧や衣料を得られなくなつた。それは最良の米と棉花を日本軍に供給するためであつた。勤労奉仕法が関東軍司令官であつた梅津によつて施行された。この法律によれば、十八才から四十五才までの者は、すべて道路の構築や鉱山の探掘や土本工事に従事して、日本軍に労働奉仕をしなければならなかつた。(E-644)これらの労務者は、量の足りない給食を受け、医療も全然施されないような收容所に入れられていた。逃亡に対しては、重刑が科せられた。その結果として、第一に日本人、次に朝鮮人、最後に中国人という制度ができたのである。

阿片と麻薬

 日本は満洲におけるその工作の経費を賄うために、また中国側の抵抗力を弱めるために、阿片と麻薬の取引を認可し、発展させた。早くも一九二九年に、中国国民政府は一九一二年と一九二五年の阿片条約(附属書B―一一及びB―一二)による義務を履行しようと努力していた。中国政府は一九二九年七月二十五日から施行すべき禁姻法を公布していた。一九四〇年までに、阿片の生産と消費を次第に制止する計画であつた。日本は、右の阿片條約調印国として、中国領土内の麻薬の製造と販売を制限し、また中国内への麻薬の密輸入を防ぎ、それによつて、阿片吸飲の習癖の根絶について、中国政府を援助する義務を負つていた。
  奉天事件の当時とその後の暫くの間は、阿片と麻薬のおもな出所は朝鮮であつた。朝鮮では、日本政府が京城で阿片や麻薬をつくる工場を経営Lていた。ペルシヤ阿片も極東に輸入されていた。日本陸軍は、一九二九年に、約一千万オンスに上る大量の阿片の積荷を押敗し、これを台湾に貯蔵していた。この阿片は、将来の日本の軍事行動の経費に充てられることとなつていた。台湾にもう一つ禁制麻薬の出所があつた。一九三六年に暗殺されるまで、日本の大蔵大臣高橋が運営していたシンエイのコカイン工場は、月産二百キ口ないし三百キロのコカインが生産されていた。(E-645)これは、戦争のための収入を得る目的で、製品を販売することを特別に認可されていた唯一の工場であつた。
  日本陸軍の進出した中国の到るところで、軍のすぐあとから、朝鮮人や日本人の阿片行商人がついて来て、日本側当局から何の取締も受けずに、その商品を販売した。ある場合には、これら阿片密売者は、陰謀、間諜行為または破壊行為に従事することによつて、侵入軍のために準備を整えておくように、侵入軍に先んじて送りこまれた。華北でも、磯崎((ゲンンキ))工作の行われた福建省でも、そうであつたようである。日本軍の兵や将校までも、時には、利益の多いこの阿片や麻薬の販売に従事したことがあつた。日本の特務機関は、占領地で、その占領の後直ちに、阿片と麻薬の取引を取締る任務をもつていた。そして関東軍の特務機関が、小磯のもとで、この不法取引に深入りしたために、南が一九三四年十二月に関東軍司令官になつたときには、その特務機関が関東軍におけるすべての軍紀を乱すのを防ぐために、かれはこの機関を廃止しなければならなかつた。土肥原はこの機関の最も主要な将校の一人であつた。麻薬の取引に対するかれの関係は、すでに充分に示されていた。
  阿片と麻薬の取引及び使用を次第に制止するという一般的原則は、中国によつて公布された麻酔剤法だけでなく、一九一二年、一九二五年及び一九三一年の国際阿片條約(附属書B―一一、B―一二、B―一三)の根本的原則であつた。日本はこれらの條約を批准したので、その拘束を受けていた。この漸進的制止の原則を利用して、日本は中国における占領地域に阿片法を公布した。これらの法律は、登録されている阿片常用者に対して、官許の吸飲店で吸飲することを許すことによつて、漸進的禁遏の原則に表面上は従つていた。(E-646)しかし、これらの法律は、日本の真の意図と工作を蔽い隠すごまかしにすぎなかつた。これらの法律は、阿片と麻薬を官許の店に配給する政府統制の專売機関をつくり上げたのであつて、これらの専売機関は、麻薬からの収入を増加するために、その使用を奨励する徴税機関にすぎなかつた。日本に占領されたあらゆる地域で、その占領のときから、日本の降伏に至るまで、阿片と麻薬の使用は次第に増加していた。
  満洲で行われた方法は、次の通りである。一九三二年の秋に、阿片法が満洲国によつて公布され、満洲国阿片管理部がこの法律を施行する行政機関として設立された。この機関は、満洲国総務庁長の全般的監督のもとにあつて、重要な満洲国財源の一つとなつた。これらの財源からの收入がいかに確実であつたかは、星野が満洲国に着任してから間もなく行つた交渉によつて、満洲国の阿片益金を担保とした三千万円の建国公債を、日本興業銀行が引受けることを承諾したという事実によつて証明される。
  この方法は華北で繰返され、さらに華南でも操返された。しかし、これらの地区では、行政機関は、興亜院、すなわちチヤイナ・アフェアズ・ビユーローであつて、東京にその本部を置き、華北、華中、華南の各所にわたつて支部を置いていた。これらの機関が阿片の需要を大いに増加させたから、内閣はときどき朝鮮の農民に対して、けしの栽培面積を拡張することを許可しなければならなかつた。この取引は非常に収益の多いものになつたから、三菱商事や三井物産のような日本の貿易会社は、外務省の斡旋によつて、それぞれの阿片販売地域と供給額を限定する契約を結ぶに至つた。(E-647)
  麻薬取引に従事するにあたつて、日本の真の目的は、単に中国人民を頽廃させること以上に悪質なものであつた。日本は阿片條約に調印し、これを批准したので、臨薬取引に従事しない義務を負つていたのに、満洲国のいわゆる独立によつて、しかし実は虚偽の独立によつて、全世界にわたる麻薬取引を行い、しかもその罪をこの傀儡国家に帰するという都合のよい機会を見出したのである。朝鮮で産出された阿片の大部分は、満洲に輸出された。満洲で栽培され、また朝鮮とその他の地方から輸入された阿片は、痛洲で精製され、世界中に送られた。世界の禁制白色麻薬の九割は、日本人の手から出たものであり、天津の日本租界、大連、並びにその他の満洲、熱河及び中国の都市で、常に日本人によつて、または日本人の監督のもとに、製造されたものであるということが、一九三七年に、国際連盟において指摘された。


極東国際軍事裁判所判決
判決
B部
第五章
日本の中国に対する侵略
第三節より第七節まで

第二巻 英文六四八―七七五頁
一九四八年十一月一日

(E-648)
第三節
中国にさらに進出する計画

 日本の満洲と熱河占領は、一九三三年春の塘沽停戦協定調印とともに完了した。西は内蒙古の他の一省であるチヤハル省に面し、南は華北の河北省に面する熱河が、新しくつくられた傀儡満洲国の国境になつた。もし日本がすでに占領した地域からさらに中国に進出しようとすれば、その進出は、萬里の長城の東端にある山海関附近の遼寧省の細い廻廊によつて、満洲国を中国の他の部分と結びつける道をとるほかには、熱河から西方チヤハルに向うか、または南方河北に向うかであつた。
 一九三四年四月十七日に、日本外務省は『天羽声明』を発表し、中国における日本の諸計画に対する干渉は、一切日本政府の容認しないところであると九国條約(附属書B―一〇)加入国に警告した。その後に、質問に答えて、廣田はアメリカ大使グルーに対し、『天羽声明』はかれの承認も得ず、またかれに知らせもせずに発表されたものであると説明したが、『天羽声明』が日本の中国に対する政策を真に表明したものであることはやはり事実であつた。ここで、すでに、日本の中国に関する野望は、満州と熱河の占領だけでは、満たされていなかつたかもしれないと思われた。その後間もなく、一九三五年の五月と六月に、二つの事件が起つた。その事件の起つたことを理由として、日本側が出した要求に比べれば、その事件はさして重要なものではなかつた。
 しかし、その結果として、河北方面でも、チヤハル方面でも、中国国民政府の地位が大いに弱められることになつた。

(E-649)
河北事件

  一九三五年五月の中頃に、天津の日本租界内で、二人の中国人新聞記者が氏名不詳の者に襲われて暗殺された。これらの新聞記者は、親日的感情を持つていたといわれていた。梅津は当時北支那駐屯軍司令官であつた。かれの参謀長は、かれの承諾のもとに、北平における中国の軍事機関の長であつた何應欽に対して、ある要求を提出した。一九三五年六月十日に、この事件は解決され、中国側当局は次の点に同意をした。河北省から第五十一軍を撤退すること、同省内の国民党党部を閉鎖し、一切の党活動を禁止すること、また同省内の一切の排日行動を禁止することである。
  この解決がいわゆる『梅津・何應欽協定』である。
  広大な河北省に対する中国の主権に、このような大きな権限を加えることを同意するように説き伏せるために、中国当局に対して、圧力が加えられたことは、どんな形においても全然なかつたと弁護側は申立てている。日本側は、将来の両国関係を改善することができるような、ある『提案』を出したにすぎなかつたと弁護側は言うのである。この点については、弁護側証人桑島の証言に注意しなければならない。かれは当時日本外務省のアジア局長であつて、中日関係はかれが直接担当していたことであつた。 日本側が中国側に対して、『相当強硬な要求』をしたということを、かれは北平の日本公使館から聞いたと証言した。かれの証言の全体を考察すれば、中国側は最後通牒をつきつけられたということを、桑島は承知していたことが明らかになる。原田・西園寺日記にも、次のような記事がある。(E-650)当時の日本の首相岡田が、『初めは好意的に極めて軽い意味の警告』を出すつもりであつたが、『結局あんなことになつた訳である』と言つたと書いてある。一九三五年五月三十日に、木戸が当時の外務次官重光に、日本の北支那駐屯軍が中国政府に対して重大な要求を提出したという、その朝の新聞の報道に注意を促したとき、重光はその報道を否定しないで、むしろ、日本陸軍内で、そのような行動に対して責任のある人々はたれかということについて推測をした。

(E-651)
北チヤハル事件

  一九三五年六月に、『梅津・何應欽協定』によつて、河北事件が解決されようとしていたころ、四名の日本軍人がチヤハル省の張北県に入つていつた。同県はチヤハルの西南部、萬里の長城のやや北方にある。かれらはチヤハル省政府発行の必要な護照を持つていなかつたので、中国軍師長の司令部に連行された。その師長は、これを中国第二十九軍の司令官に通告した。同司令官はこれらの四名を釈放し、また張家口と北平への予定の旅行を許可することを命令した。但し、今後は所要の護照を入手しなければならないという警告附きであつた。この問題は、最初は張家口の日本領事が取上げ、中国第二十九軍副軍長秦将軍に対して、中国警備兵が日本軍人の身体検査を強要したり、小銃を擬したり、師団司令部に四、五時間抑留したりして、日本陸軍に侮辱を与えたと抗議をした。その後間もなく、同領事は、問題がきわめて重大であつて、かれの権限では解決できないと述べた。問題は陸軍に移管された。一九三四年十二月に、南が関東軍司令官になり、板垣がその参謀副長になつていた。当時関東軍に配属されていた土肥原が、秦将軍と交渉するように任命された。最後には、関係連隊長及び関係師団の軍法処長を懲戒免職すべしという協定が成立した。(E-652)たといこれらの将校が悪かつたとしても、これらの措置によつて、事態は満足に解決されたものと、だれしも考えたに相違ない。しかし、この協定の條項のうちで、何よりもはるかに重要なものは前述の條項に続く諸條項であつて、それらは、全部ではないにしても、大部分は上述の事件とは関係のないものである。中国第二十九軍の全部隊は、張北県より北の諸県から、すなわち実質的はチヤハル省全体から撤退することになつていた。この地域の治安の維持は、保安隊に、すなわち警察隊の性質をもつ組織に委ねられることになつていた。将来においては、中国人はだれもチヤハル省北部に屯田移民を許されないことになつていた。これから後に、チヤハル省内で、国民党の活動は一切許されないことになつた。チヤハル省内の一切の排日機関と排日行為は禁止されることになつた。これがいわゆる『土肥原・秦徳純協定』である。
 弁護側は、これについても、広大なチヤハル省に対する中国主権に、このような大きな制限を加えることを同意するように説き伏せるために、中国当局に対して圧力が加えられたことは、どんな形においてもまつたくなかつたと申立てている。秦将軍は、その証言の中で、この協定を『一時的の解決』と呼び、中国政府がこれを受諾したのは、『平和を維持せんがためであつて、喜んでしたのではない』と言つている。
  このようにして、二ヵ月も経たないうちに、一九三五年六月までには、国際問題としてさして重要でない二つの事件の解決に名をかりて、熱河における日本軍の右側面は、チヤハルからの攻撃の直接の脅威をまつたく免れることとなつた。日本軍に対して敵意を抱いていると考えられた中国側の二箇軍は、チヤハルと河北から退去させられ、また中国国民党の一切の党活動と一切の排日行為とは、両省で禁止されたのである。

(E-653)
内蒙古自治政府

  一九三五年の初めに、内蒙古における蒙古族の指導者徳王は、この地に自治的な蒙古政府を樹立するために努力を続けていた。この運動のその後の歴史は、田中隆吉少将の証言からとつたものである。この証人は、検察側も弁護側も、ときどき必要に応じて出廷させ、かつ、検察側も弁護側も、やはり必要に応じて、反対訊問によつて、失格させようとした証人である。しかし、この内蒙古自治政権樹立に関する問題については、かれの陳述が信用できないという理由はなく、経緯の詳細について、かれが精通することのできる地位にあつたことは確実である。
  この問題に関する田中の陳述は、次の通りである。南と板垣は、内蒙古自治政府の樹立を熱心に支持した。かれらはこの政府を日本の意志通りにしようと意図していた。一九三五年四月に、右のような政府を樹立する目的で、徳王と会見するために、南は田中ほか一名の将校を派遣したが、このときには、徳王は承諾しなかつた。それに続いて一九三五年六月に、いわゆる梅津・何應鉄協定と土肥原・秦徳純協定が結ばれたが、後者は内蒙古の北部に、すなわちチヤハル省に重大な影響を与えたことに注意しなければならない。田中によれば、一九三五年八月に、南は徳王と会見した。その席上で、徳王は日本との提携を約束し、南は徳王に財政的援助を与えることを約束した。一九三五年十二月に、徳王がチヤハル省の北部を占領するのを援助するために、南は騎兵二箇大隊を派遣した。(E-654)一九三六年二月十一日に、徳王は自治政権の所在地を綏遠省の百霊廟から西スニトに移した。そして、日本人文官がかれの顧問として、同地に派遺された。
  北平の日本大使館事務総長から、廣田外務大臣にあてて、一九三五年十月二日附で、他のいろいろなことと共に、次のような内容の重要な電報が送られている。『関東軍の対蒙古工作は着々として進行し居ること本官及張家口領事累次の報告の通りにして、過日土肥原少将が張家口、承徳間を往来し、チヤハル省主席及徳王と会見せるが如きも、内蒙自治促進の使命を帯びたること疑を容れず。』
  一九三六年一月十三日に、中国にある日本軍に伝達された日本陸軍北支処理要綱の中にも、この内蒙古自治政府が関東軍の援助と支配を受けていたことを明らかにするいろいろな言葉がある。この文書は、少し後に、さらに詳しく考察することにする。

北支自治政府を樹立する企図

  田中少将の証言によれば、一九三五年九月に、南は華北に自治政権を樹立するようにとの命令を与えて、土肥原を北平に派遣した。田中は当時関東軍附の参謀であつて、土肥原への指示の起草に参与したと述べた。土肥原、板垣及び佐々木は、北支自治政権樹立の目的の旗印として、『反共』という言葉を追加しなければならないと考えたと、田中はさらに述べた。本裁判所はこの証言を正しいものと認める。(E-655)なぜなら、それはその後の事態と合致するものであつて、また華北のいわゆる自治運動のほんとうの張本人に関する陳述は、これから論ずる各種の日本側から出た文書によつて確認されているからである。
  次の二カ月間の事件については、ほとんど証拠が提出されていない。しかし、これは驚くに足りないことである。なぜなら、この二カ月は、陰謀の、しかも危険な陰謀の月であつたと思われるからである。このような事柄についての交渉が記録されたり、公表されたりすることは稀である。
  最初は、土肥原は呉佩孚に北支自治政府の首班になるように説得しようとしたが、失敗に終つた。その後に、土肥原は当時の北平、天津方面防衛司令官宋哲元将軍を説いて、この政府を指導させようと努めたが、それも失敗に終つた。そこで、土肥原と日本大使館附武官高橋は、説得をやめて、北支自治政府を樹立せよという要求を出すようになつた。また、土肥原と特務機関長松井、さらに、華北において日本側に特別の経済的権益を与えよと要求した。
  勧誘という手段によつて、自治政府をつくることが失敗に終つたとき、一九三五年十一月に、土肥原は武力による威嚇に訴え、このような政府の樹立を確保するために、最後通牒を発することさえしたこと、関東軍は、萬里の長城の東端にある山海関に戦車、機動部隊、航空機から成る攻撃部隊を集結し、平津地方へ進入する用意を整えさせることによつて、土肥原の威嚇を支援したことか証明されている。(E-656)
  一九三五年の末ごろに、華北に二つの新しい形態の政府が現われた。一つは土肥原の努力の直接の結果として樹立されたもので、『冀東防共自治政府』と呼ばれた。一九三五年十一月末ごろに、それは殷汝耕を首班として樹立された。かれはそれまで冀東地区の長城の南方の非武装地帯の行政督察専員であつた。この政府は、中国国民政府からの独立を宣言した。その首都は、北平の東北の、非武装地帯にある通州であつた。日本軍は同地に守備隊を置いていた。この政府の支配は、非武装地帯内の多数の県に及んでいた。証人ゲツテは、この政府が樹立された後に、何度も同地方を旅行し、日本守備隊を見、日本側によつて徴募され、訓練され、日本人を将校とする新政府の中国人保安隊を見た。この新政府は、非武装地帯にあつたので、中国国民政府軍の力は及ばなかつた。国民政府は、このいわゆる自治政府の存在に対して、日本側に抗議したが、何の效果もなかつた。
  ちようどこのころに、華北に現われたもう一つの政治機関は、冀察政務委員会であつた。これは、土肥原の加えた圧力の結果として、また表面上はかれの希望に副うために、中国国民政府の手によつてつくられたものである。日本年鑑によれば、友好関係を維持するために、日本及び満洲国と交渉する権限をもつ新しい政治機関であつた。
  これらの政権についての土肥原の希望は、一九三五年の末に、田中も同席していた所で、土肥原が南に行つた報告から窺い知ることができる。(E-657)冀察政権と冀東政権は、不満足なものではあるが、とにかく樹立され、関東軍の言うことは大体に聞くであろということ、北支政権は冀察政権を中心にして、樹立されるであろうということを土肥原は報告したのである。
  同じような希望は、このときに、内地にあつた日本陸軍も抱いていた。一九三六年一月十三日に、内地の陸軍当局は、中国にある日本軍に、北支処理要綱を伝達した。その要綱の目的は、華北の五相の自治を実現することにあると述べられていた。ここで思い出されるのは、これこそ、一九三五年九月に南が土肥原を北平に派遣した目的であつたということである。この要綱は、次のことを指示した。冀察政務委員会に対しては、日本の助言と指導を与えること、冀察政務委員会がまだ充分でない間は、冀東の独立を支持しなければならないが、同委員会が信頼できるほど確立したときは、両政権の合流をはかること、日本が満洲国と同様の独立国家を育成するのだと認められるような施策は避けること、従つて日本人顧問の数を限定しなければならないこと、内蒙に対する施策は従来の通り継続すること、但し冀察政務委員会の自治力に対する阻害となつている施策は、当分これを差控えなければならないこと、華北の処理は支那駐屯軍司令官の任務とすること、同司令官は、直接に冀察と冀東両当局と接触することによつて、これを非公式に実施することを本則としなければならないことである。

(E-658)
日本陸軍の華北進出計画

 土肥原が関東軍司令官南に対して、冀察政務委員会は関東軍の言うことは大体聞くであろうし、また独立の北支政権が冀察政権を中心として樹立されるであろうと期待していると述べていたころに、関東軍は、中国に対する日本の意図について、きわめて重要な意義をもつ宣伝計画を東京に送付した。一九三五年十二月九日に、これは関東軍参謀長から陸軍次官にあてて送付された。この計画のある部分は、全文引用の価値がある。計画実施の時期については、『軍の関内進出以前に於ては、主として支那駐屯軍及び中央部の行う宣伝を側面的に援助するの主義に於て実施し、出動後に於ては軍の行動を容易ならしむるの主旨に於て行う』と述べてある。方針としては、『関東軍の関内進出に際しては、その正当性を中外に徹底せしむると共に、北支民衆に対し反国民党、反共産意識を昂揚し、北支一帯に中央分離の気運を醸成し、また爾余の地帯の支那軍及び支那民衆の非戦熱を激成す』と述べている。
(E-659)
  さらに、使用されることになつていた宣伝の型を引用する。『一、北支に従来国民政府の植民地視する所にして、事毎に其搾取の犠牲に供せられあるの事実、並北支民衆はその桎梏より脱せんが為、国民政府より分離し、自ら自治政権を樹立せんことを熱望しあり、また北支当事者も亦内心独立の希望に燃え真剣なる覚悟を有す。
『二、国民政府の銀国有制の実施は該政府に対する怨嗟反感を激成し、ここに急速なる自治政府の樹立運動が展開されつつあり。
『三、北支自治政権が帝国と相提携して赤化防衛に当らんとするは、東洋永遠の平和確立のため日満支合作の曙光として帝国の最も希望するところなり。故に自治政権出現及び其発達に対しては挙国一致確乎不抜の態度をもつてこれを支持す。
『四、国民政府の北支停戦協定その他軍事諸協定の蹂躙、排日排貨の使嗾、満洲国擾乱等は、北支にあるわが権益及び居留民の生活、並びに満洲国の存立に対する脅威なるをもつて、依然裏面的策動を続行するにおいては、帝国としても威力に訴うるのやむなき場合あるべきを中外に諒知せしむ。
(E-660)
『五、派兵に至れば、わが武力行使は支那軍部を膺懲するを目的とし、決して支那一般民衆を対象とせざる点を明かにす。
『六、国民政府その他支那軍閥の武力行使は人民を塗炭の苦境に陥らしめ、国家を破滅に導く所以を宣伝し、一般民衆の非戦熱を昂揚す。
『七、支那軍に対しては特に各軍相互の反目を助長するとともに、日本軍偉大視観を増大し、その戦意を喪失せしむ。
『八、満洲国に対しては、北支自治政権の出現は満洲国政府の善政に対する翹望の具体的現れにほかならず、満洲国の前途に光明を齎す所以を明かにす。』
  このように、この文書を全文引用したのは、一九三五年十二月九日に提唱されたこの提案を、弁護側の全体によつて、特に南、梅津、板垣、土肥原によつて、提出された主張と対照させるためである。この主張によれば、いわゆる北支独立運動は、日本が起したものでも、また促進したものでもなく、華北民衆の側の自発的運動であったというのである。
  華北のいわゆる自治運動に対する日本側の態度と意図の問題について、同じように関連性のあるのは、一九三五年十二月二日に、当時の北支駐屯軍司令官多田中将が東京の陸軍省に送付した『北支に於ける各鉄道の軍事的処理要領案』である。(E-661)
  この文書は、華北において軍事行動に従事する日本軍のために、華北のいくつかの鉄道を運用するについての、詳細な計画を含んでいる。この計画された軍事行動の性質については、この文書は特に述べてはいない。その軍事行動は、『作戦目的』、『作戦行動』、『軍は武力解決の已むを得ざるに至れば』というような漠然とした言葉で説明されている。しかし、文書全体を厳密に討してみると、日本陸軍が長城に沿う線の附近から出動し、前面の中国国民政府の軍隊を駆逐し、華北五省のうちの南部三省である山東、河北、山西を掃蕩しようとしていたことが明らかになる。また、この軍事行動が、懸案の北支自治政権を支援するために開始されることになつていたことも明白である。従つて、中国人鉄道従業員に、『北支自治運動の精神を理解』させることになつていた。そして正常な政情が回復した場合における鉄道の処理について、多田中将は私案として極秘の案を述べている。かれは次のようにいつているのである。『作戦終了し北支の情勢平常化するに伴ひ・・・・鉄道は北支政権に移譲す・・・・。(E-662)日本人顧問または職員の一部を傭聘させて、各鉄道を北支政権交通部に掌握させる・・・・附記。「日本」鉄道線区司令部の撤去に際しては、北支政権に左記の事項を要求する。
『一、各鉄道に顧問及高級職員の傭聘
『二、各鉄道の警備権並沿線主要地の駐兵権
『三、膠濟鉄道及徐州以東の隴海鉄道の譲渡
『四、新鉄道の敷設権
  その上に、この文書は、この行動を容易にするために、華北でいくつかの措置がすでにとられていたことを示している。すなわち、
『二、南京政府の各鉄道輪転材料吸收策に対し努めて之が南下を防止す。之が為努めて各種間接手段を講ずるも、北寧鉄路に対しては、要すれば威力を以て之を抑制す。威力使用に当りては南京政府の抗日戦備に対する自衛並北寧鉄路の保護を名目とす。(北寧とは協定の結果、憲兵を出し賞施中)』
(E-663)
  このようにして、一九三五年の後半に、関東軍と北支駐屯軍は、日本陸軍省の援助を受け、時にはその指示に従つて、中国の北部五省を中国国民政府から離反させ、この地に日本の意に従うような一つまたはそれ以上の自治政権を樹立しようとする計画を実行していたのである。この計画は、日本の満洲と熱河の征服の際に見られた二つの主要な要素を含んでいた。すなわち、(一)日本よる軍事的支配、(二)日本の目的に仕えるようにさせることのできるような、少数の中国要人による独立宣言を含んでいた。しかし、満洲の場合には、軍事的征服が、人為的に醸成された独立宣言よりも、前に行われた。華北の場合には、日本軍部は、軍事的征服の外形を避けようと希望し、初めは説得によつて、後には武力行使の威嚇によつて、人為的につくられた北支自治政府を樹立させようと熱心に努力した。一九三五年の末までには、以上に考察した侵入の計画を日本の軍部は練り上げていた。日本の軍部のいろいろな努力は、日本の外務省に知られていて、遺憾とされていた。しかし、それはこれらの努力が外務省の領域――日本の対外関係の処理――を侵害しようとする陸軍の企てと見られたからにすぎない。

廣田の三原則

  中国にある日本の各軍が、華北における軍事行動を予想して計画を立てていたときに、他方で、日本政府は外交手段によつて中国を隷属させる計画を練つていた。(E-664)一九三五年八月五日に、外務大臣廣田は、かれの訓令に基いて外務省東亜局が作成した計画を、中国にある外交官と領事官に送付した。この計画は、陸海軍当局と協力して、東亜局が日本の中国に対する政策を再検討した結果であつた。三原則は、この計画には、次のように述べられていた。(一)中国側において排日言動の徹底的な取締を行うとともに、日華両国は相互独立尊重及び提携共助の原則による和親協力関係の増進に努め、かつ満華関係の進展をはかること、(二)この関係の進展は、中国側で満洲国に対して正式の承認を与えるとともに、日満華三国の新関係を規律する取極めをなすことを結局の目標とするのであるが、さしあたり中国側は少くとも満洲に接した地域である華北とチヤハル地方で満洲国存在の事実を否認することなく、満洲国との間に事実上経済的及び文化的の融通提携を行うこと、(三)チヤハルその他外蒙に接した地方では、日本と中国の間で共産主義の脅威排除の見地に基く合作を行うこと。
  その後に、一九三五年九月二十八日附で、中国と満洲国における日本の外交官と領事官にあてて送付された電報で、日本を中心とし、日本、満洲、中国の提携共助によつて、東亜の安定を確保し、その共同繁栄を計るのは、日本の対外政策の根基であるとして、廣田は右の三原則を繰り返し強調した。(E-665)その三原則は、実質において、次のように述べられた。(一)中国側に排日言動の徹底的取締を行わせ、欧米依存政策から脱却して、具体的問題について日本と提携させること、(二)中国側をして満洲国に対して究極には正式の承認を与えさせるが、さしあたつては、満洲国の独立を黙認させ、少くとも満洲に接した地域である華北方面では、満洲国との間に経済的と文化的の融通提携を行わせること、(三)外蒙に接した地域で、赤化勢力の脅威を排除するために、中国側に日本と協力させること。右の電報には、以上の原則が着々と実行に移され、中国側の誠意が充分示されるならば、日本と満洲と中国の間の新関係を定める一般的協定を行うものとするという追加的訓令が附加されている。一九三五年八月五日の三原則の文面と比較すれば、この文面に見られる一つの重大な変更は、この後の文面では、日本と中国とが相互独立尊重の原則によつて協力することという字句が省かれていることである。
  一九三五年九月二十八日の第二次の文面に述べられた計画は、陸海軍と相当議論をした後、一九三五年十月四日に、総理、外務、陸海軍及び大蔵諸大臣によつて採択されたものである。在外の日本外交官は、問題を厳秘に付するように、重ねて通告と訓令を受けた。(E-666)一九三六年一月二十一日に、右の三原則は、廣田の議会演説を通じて公表された。しかし、これらの原則は、中国による満洲国の「事実上の」状態の承認を含むことになるために、中国側からは、これを認めようという熱意は少しも示されなかつた。このようにして、日本の外交官は、日本のために、満洲征服の成果を確保することになつていた。
  一九三六年一月二十一日、中国に対する日本の政策に関して、廣田がかれの三原則を発表していたときに、日本の外務省は、中国北部五省に自治政府を樹立しようとする陸軍の計画を充分承知していた。なぜなら、その同じ日に、すなわち一九三六年一月二十一日に、外務省は中国の日本大使にその計画の写しを送付していたからである。

二・二六事件

  二・二六事件は、海軍内閣として知られ、また陸軍の武力によるアジア大陸進出政策に反対であると一般に考えられていたところの、岡田を首班とする政府に対する陸軍側の忿懣が爆発したのであつた。この事件は、一九三六年二月二十六日に起つた。これよりさき、岡田が齋藤内閣の海軍大臣であつたときに、陸軍の激しい反対にもかかわらず、この内閣は陸軍予算を削減する政策を遂行したために、非常な難局に遭遇した。一九三四年に岡田が総理大臣になつたときには、陸軍の勢力は強くなりつつあつた。すでにこの内閣の組閣中に、陸軍が新内閣の邪魔をし、問題を引き起そうとしている徴候があつた。(E-667)
  一九三六年二月二十六日に、二十二名の将校と約千四百名の兵士が政府に対して反乱し、東京を三日半にわたつてテ口化し、首相官邸、議会、内務省、陸軍省、警視庁及び参謀本部を占領し、大蔵大臣高橋、内大臣齋藤、渡邊大将を暗殺し、侍従長鈴木と岡田自身を暗殺しようとした。この事件の結果として、一九三六年三月八日に岡田内閣は辞職し、代つて廣田が総理大臣となつた。
  この事件の目的は、岡田内閣をしりぞけ、その代りに、大陸においてさらに進出しようとする陸軍の政策と合致する、もつと強力な政策をもつ内閣をつくることであつた。この事件は、陸軍の野心に対して政府が同情をもたなかつたことについて、陸軍の青年将校の一団が不満を抱いていたが、その不満が自然に爆発したものと考えると岡田は証言した。

廣田内閣の成立

  一九三六年三月九日に、二・二六事件の結果として、廣田は岡田の後をついで日本の総理大臣に就任した。廣田は陸軍の紀律を確立して、当時その恐しい結果があらわれたばかりの、政治問題への陸軍の干渉を除去するということをしないで、組閣にあたつて、すでに、ある大臣の人選には陸軍の要求に屈従した。その上、かれが総理大臣に就任して間もなく、一九三六年五月には、陸海軍両省の官制が改正され、陸海軍大臣は中将以上の階級、次官は少将以上の階級を持ち、いづれも現役でなければならないと定められた。(E-668)一九一三年このかた、官制はその規定において、予備役の将校を陸海軍大臣に任命することを認めていたのであつた。こんどの変更は、陸海軍大臣を現役高級将官から任命していた当時の慣例を事実において、法律化したものではあるけれども、それは陸軍の要求に従つて行われたものである。これによつて、現役の者であろうと、予備役から現役に再編入された者であろうと、陸軍大臣になる者は、だれでも陸軍の紀律と指揮のもとに置かれ、それによつて陸軍の支配を受けるということを陸軍は確保したのである。

廣田内閣の外交政策

  一九三六年六月三十日に、陸海軍省は『国策大綱』を定めた。その根本政策は、日本の国防を安定するために南方海洋に進出し、これを発展させるとともに、東アジア大陸に強固な地歩を手に入れることであつた。ここに挙げられた大綱は次の通りである。すなわち、(一)日本は列強の覇道政策を是正し、堅実な海外進出策によつて、皇道精神を実現すること。(二)日本は東亜の安定勢力となる帝国の地位を確保するに必要な国防軍備を充実すること。(三)日本は満洲国の健全な発達を期し、日満国防の安固を希望し、経済的発展を促進するために、ソビエツト連邦の脅威を除去し、アメリカとイギリスに備え、日本・満洲・中国の緊密な提携を具現し、この大陸政策の遂行にあたつては、列国との友好関係に留意すること。(E-669)(四)日本は南方海洋では民族的経済的発展を策し、つとめて他国に対する刺戟を避けつつ、漸進的平和的手段によつてその勢力の進出をはかり、それによつて、満洲国の完成と相まつて、国力充実と国防強化の両全を期すること。
  以上の計画は、総理大臣廣田と陸軍、海軍、外務、大蔵各大臣とからなる五相会議で、『国策大綱』として、一九三六年八月十一日に採用された。これらは平和的手段によつて達成されるものであつて、防衛的な性質のものであつたと廣田は主張しているが、この大綱の内容は、説明がなくてもおのずから明らかである。日本はみずから東亜の指導者の役割を引受け、それによつて、大陸における進出から、さらに南洋方面に進出し、ついに西洋諸国の勢力を除去することによつて、この全地域を日本の支配下に置こうと志したものである。すでに言つたように、この文書にある『国防』という言葉の使用に注意しなければならない。この言葉は、日本の国策に関する多くの声明に現われている。この言葉は、決して他国の侵略的行為に対する日本の防禦だけに限られているのではない。侵略的であろうとなかろうと、日本が常に自国の政策を軍事力で支持することを意味しているのである。

板垣の蒙古政策

  国防の名のもとに、廣田内閣が対外進出の外交政策を立てていたときに、関東軍は北方の蒙古に注意を向けていた。これより先、すなわち板垣が関東軍参謀長に昇任した五日後の一九三六年三月二十八日に、板垣は有田大使と会見し、外蒙古と内蒙古との戦略的重要性について、かれの意見を述べた。(E-670)板垣はいつた。『外蒙の関係位置が今日の日満勢力に対し極東ソ領と欧ソとの連絡線たるシベリア鉄道の側面掩護の地帯としては極めて重要性を有す。従つて若し外蒙古にして我日満側に合体せんか、極東ソ領の安全性は殆ど根底より覆さるべく、又万一の際に於ては殆ど戦はずしてソ連勢力を極東より後退せしむることを得るに至るやも知るべからず、従て軍は有らゆる手段に依り日満勢力の外蒙古に対する拡充を企図しあり。』
  さらに、内蒙古に関して、かれは次のようにいつた。『西部内蒙古及び其以西の地帯は、帝国の大陸政策の遂行上重要なる価値を有す。即ち若し該地帯を我日満側の勢力下に包含せんか、積極的には進んで同一民族たる外蒙古懐柔の根拠地たらしむべく、更に西すれば新彊省よりするソ連勢力の魔手を封ずると共に、支那本部をして陸上よりするソ連との連絡を遮断し・・・・如上の見地に立ちて軍は西部内蒙古に対し数年来逐次工作を進めつつあり、軍は将来更に万難を排して工作の歩を進むべく固き決意を有す。』
  この板垣の言葉は、日本の『大陸政策』の線に沿つて、関東軍がこれらの地域ですでに行つたこと、また将来続けて行おうとしてたいことを示すものである。(E-671)土肥原と他の関東軍将校との努力によつて、一九三五年に、徳王の下に内蒙古自治政権が樹立され、すでに内蒙古の一部は日本の勢力下に置かれていたことを想い起さなければならない。残された仕事は、日本の勢力をさらに西方に、そして外蒙古にまで伸張することだけであつた。以上によつて、徳王の率いる内蒙古自治政権の首都が一九三六年二月に百霊廟から西スニトに移され、さらにその年の六月に徳化へ移された理由が明らかになる。

蒙古における建国会議

  日本が積極的な蒙古政策を採用した結果として、内蒙古の自治運動は順調に捗つた。一九三六年四月に、徳王と李守信は、日本特務機関長田中と西ウシユムシンで会見した。蒙政会、シリンゴール盟、チヤハル盟、ウランチヤツプ盟、トモテ旗、アラシヤン、コシンオウ旗、イコチヤ盟、青海及び外蒙古の各代表がこの会合に出席した。この会合は建国会議と称せられ、一九三六年四月二十一日から二十六日まで続いた。この会義で決定されたおもな事項は、次の通りである。(一)内外青海、蒙古を一丸として蒙古国を建設する案、(二)君主制を立てる案、但し当分の間は委員制とすること、(三)蒙古国会を設ける案、(四)軍政府を組織する案及び (五)満洲国との相互援助協定を締結する案である。
(E-672)
一九三六年六月に、この政権の所在地は徳化に移され、独立の蒙古政府が設立された。一九三六年七月に、この政府と満洲国との間に政治的と経済的の相互援助を規定した協定が結ばれた。この條約の締結された後に、徳王はその軍隊の装備に着手した。その目的は、それまで三箇師団であつた騎兵師団を九箇師団に増強することであつた。南も板垣も、蒙古国の樹立に熱心な支持を与えた。陸軍の政策は、極秘のうちに遂行された。内蒙古の独立を承認する準備は、日本陸軍によつて整えられた。

華北に対する日本の政策――一九三六―一九三七年

  一九三六年八月十一日に廣田内閣の関係各省によつて、『第二次北支処理要綱』が決定された。この政策の主眼は、華北民衆が分治政治を完成することを援助し、防共親日満の地帯を建設し、日本の国防に必要な資材を獲得し、ソビエツト連邦の可能な侵寇に備えて交通施設を拡充し、このようにして、華北を日本と満洲と中国の協力のための基礎にしようとすることにあつたと述べてあつた。華北五省には、究極においては自治を与えるものとされた。冀東政権は、河北とチヤハルとの全体に対して模範となるように、その内政を改革するように指導すべきものとされた。(E-673)華北経済開発の目的は、自由投資によつて伸暢された相互的経済利益を基礎とする日華不可分の事態を構成し、これを平戦両時における日本と華北の友好関係の保持に資せしめると述べてある。華北各省の鉄、石炭及び塩は、日本の国防と交通施設及び電力の開発とに利用されることになつていた。この計画は、輸送機関の統一改善と華北の天然資源の開発との方法について、詳細に規定していた。この計画には、冀察政務委員会が日本に追隨するであろうという、一九三五年の終りごろの日本の希望が実現しなかつたことに関して、内的証拠がある。この計画は、冀察の要人を指導するにあたつては、公正な態度で臨まなければならないと述べている。機構を改善し、その人員を浄化し、刷新するとともに、中国軍閥の財政、経済、軍事、行政を清算するように努力しなければならないと述べている。
  ここで日本が提案した華北の自治の内容は、新政権が財政、産業、交通を支配し、中国国民政府の排日的干渉を受けないようにすることであつた。それと同時に、この計画は、日本が中国の領土権を侵害しているとか、独立国家を樹立しているとか、あるいは華北を満洲国の延長としようとしているとかいうよいに解される行動は、これを避けなければならないと定めている。(E-674)一九三六年一月十三日に、外務省から中国の日本大使に回送されたところの、華北に関する第一次案にも、すなわち陸軍案にも、同様な規定があつたことが、ここで思い出されるであろう。日本の国策立案者は、まだ世界人の眼に黒を白く見せることができると信じていたのである。満洲に関する日本の二枚舌についての国際連盟の暴露も、一向かれらの戒めにはならなかつた。
  その後、一九三七年二月二十日に、林内閣の関係各省によつて、『第三次北支処理要綱』が決定された。その内容には、何も実質的な変更はなかつた。一九三七年四月十六日には、同内閣の外務、大蔵、陸軍、海軍各大臣によつて、再び『北支指導方策』が決定された。この計画の要点は、華北の特殊地位を中国政府に認めさせ、経済工作を遂行することであつた。林内閣によつて決定された第三次北支処理要綱と北支指導方策は、いずれも、後にさらに詳しく取扱うことにする。

豊台事件

  一九三六年五月に、日本軍と華北の中国官憲との交渉の結果として、日本軍一箇大隊が北平の西方の町、豊台に駐屯することが認められた。一九三六年九月十八日に、豊台で日本兵一箇中隊が演習を行つた際に、一つの事件が起つた。日本兵が中国軍の駐屯地域を通過したときに、中国の哨兵がかれらを停止させようとし、そこに衝突が起つた。それは直ちに解決されたにもかかわらず、日本側はこの事件を増援の口実に用い、豊台を占領した。(E-675)豊台の占領によつて、日本軍は京漢線の連絡を支配し、また華北を華中から切り離すことができる地位を占めた。これが一九三七年七月七日に起つた蘆溝橋事件の、すなわち、時としてマルコポーロ橋事件とも呼ばれる事件の、舞台装置であつた。この橋は豊台から北平に至る鉄道線上にあつて、もしも日本がこの橋を制圧することができたならば、西方から北平を制圧することが容易になる。そして、豊台駐屯の日本軍は、蘆溝橋から、また、北平に至る鉄道線上のもう一つの戦略的地点である長辛店とから、中国駐屯部隊が撤退することを繰返し要求した。一九三六年の冬に、日本軍はこの緊要な戦略的地域における駐屯部隊の増援を企て、同地に兵舎と飛行場の建設を計画した。このために、豊台と蘆溝橋との間の地域で、かれらは広大な土地を買收したいと思つていた。しかし、これらの要求は中国側によつて拒絶された。

張と川越の会談

  一九三六年の秋に、中国外交部長張群と日本大使川越との間に、中国と日本との外交関係を調整する目的で、一連の会談が行われた。一九三六年十一月の終りに、川越はまた蒋介石大元帥と会見したが、その際に、両国の外交関系の調整を実現する希望が相互に述べられた。中国外交部長との会談で、日本側は次の重要な諸点を内容とする提案を示した。 (一)中日経済協力、(二)中日防共協定、(三)華北と日本との関係にかんがみ、これを特別地域とすることである。(E-676)張群は、中日経済協力にはもちろん賛成であるが、これは互恵平等の原則を基礎とすることを希望していると答えた。中日防共協定に対しても、かれはやはり大いに賛成であるが、この場合にも、またこの協定が中国の主権を侵害しないようにしたいと希望した。華北と日本との関係にかんがみて、これを特殊地域にすることに関しては、単に特殊経済関係を認め得るだけで、特別な行政的変更を認めることはできないとかれは言つた。中国政府の態度は、日本の政策、特に華北に関する政策と相容れなかつたので、これらの会談は何の成果をももたらさなかつた。

廣田内閣の倒壊

  一九三七年一月二十日に、日本の二政党のうちの政友会は、廣田内閣を攻撃する声明文を発表した。攻撃の理由として、他のいろいろなことと共に、次のようなことを挙げた。閣僚はあまりにも官僚と軍部の独断的偏見にとらわれており、あらゆる面に干渉しようとする陸軍の欲望は、日本における立憲政治に対する脅威であるというのであつた。一九三七年一月二十二日に、陸軍大臣寺内は辞表を提出した。その理由は、かれの述べたところによると、いく人かの党員を閣僚に出している政党の時局に対する認識が、陸軍のそれと根本的に相違しているからというのであつた。その当時の情勢のもとでは、陸軍の過激な政策と政党政治をなんとか調和させることのできる新しい陸軍大臣を得ることは、まつたく望みがなかつたので、廣田内閣は辞職しなければならなかつた。

宇垣は組閣に失敗した

  廣田内閣の辞職に伴つて、一九三七年一月二十四日に、宇垣は組閣の勅命を受けた。(E-677)宇垣は陸軍から好感をもつて見られていなかつた。宇垣の就任を妨げるために、陸軍は然るべき有効な手段を講じた。これは重要な、深い意味のある出来事であつて、この判決の他の部分で、さらに詳しく検討されている。従つてここでは、単にいろいろな出来事に関する叙述の一部として、これに言及するに留めておく。

林内閣とその華北政策

  林内閣は一九三七年二月二日に成立した。梅津は陸軍次官として留任し、賀屋は大蔵次官に任命された。政府の一般政策は変更されなかつた。華北に関する廣田内閣の離反政策を踏襲し、一九三七年二月二十日に、関係各省によつて、『第三次北支処理要綱』が決定された。華北処理の主眼は、満洲国を確固たる親日的な防共的なものとし、国防資材を獲得し、交通施設を保護し、ソビエツト連邦に対する防衛を準備し、日本・満洲・中国の結合を確立することにあつた。前記の目的を達成するために、日本は華北における日本の経済政策を実施し、北支政権を内面的に援助し、華北の特殊地位と日本・満洲・中国の結合を中国国民政府に認めさせることになつていた。
  さらに、一九三七年四月十六日に、外務、大蔵、陸軍、海軍の各大臣によつて、『北支指導方策』が決定された。(E-678)華北指導の要点は、『該地域をして実質上確固たる防共親日満の地帯たらしめ、併せて交通施設の獲得に資し、以て一は赤化勢力の脅威に備へ、一は日満支三国提携共助実現の基礎たらしむるに在り』とある。経済開発に関しては、鉄、石炭、塩、その他のような、国防上重要な軍需資源の開発と交通施設の設置とを、必要な場合には、特殊資本によつて、急速に実現しなければならないと定めている。ここでも、また、第三国に日本の意図を誤解させるような行動は避けなければならないという規定がある。関係各大臣の出席した閣議で、これらの政策が作成されたということは、陸軍だけでなく、他の政府各省も、近い将来に実行されるはずの、華北に関する、ある積極的な計画に対して、用意ができていたことを明らかにした。

第一次近衛内閣とその後の華北に対する計画

  林内閣が崩壊した後、一九三七年六月四日に、廣田を外務大臣、賀屋を大蔵大臣として、近衛公爵が総理大臣に就任した。
  軍部内には、中国における軍事行動をさらに推進せよという煽動が行われていた。当時関東軍参謀長であつた東條英機は、一九三七年六月九日に、参謀本部に電報を送つて、現下の支那の情勢をソビエツトに対する作戦準備の見地から観察すると、もし日本の武力でできるならば、まず第一に、中国国民政府に対して『一撃を加え』、日本の背後の脅威を除去しなければならないと進言した。(E-679)一カ月足らずのうちに、進言の通りに、中国国民政府に対する一撃が加えられた。
  われわれが右に検討した出来事によつて、次のことがわかる。満洲と熱河を奪取したことは、徐々に中国全体を支配しようとする日本の計画の単なる第一歩であつて、この中国全体の支配によつて、日本製品の一大市場であり、また非常な天然資源のある中国を、日本が東亜の盟主になることに寄与させようというのであつた。満洲と熱河が奪取されるかされないうちに、そして、これらの地方を日本経済に対する衛星的な供給者に転換することがまだほとんど始まらないうちに、早くも一九三四年の春に、日本は華北五省に関する特殊地位を主張していたのである。一九三五年の六月までに、日本はいわゆる梅津・何應欽協定及び土肥原・秦徳純協定の締結を強行していた。これによつて、右の五省のうちの二省、すなわち河北省とチヤハル省に対する中国国民政府の勢力は大いに弱められた。一九三五年の終りには、日本の支持によつて、二つのいわゆる独立政府が樹立されていた。これは日本がつくり出したもので、徳王の内蒙政府と、通州に首都を置いた冀東防共自治政府とである。このときには、冀察政務委員会も設立されていた。日本はこれを中国国民政府から独立させ、日本の意志のままになるような華北五省の政府に変えることができるものと予期していた。予期されていた華北五省の独立宣言に続いて、日本はこれらの省を軍事的に占領しようと意図していた。(E-680)この占領とこの行動に伴つて行うことになつていた宣伝とに関する軍事的計画は、一九三五年の終りまでには、実施されるように準備されていた。説得も武力による威嚇も、冀察政務委員会をして華北五省の独立を宣言させるように仕向けることはできなかつた。われわれの意見では、日本陸軍は、その軍事的冒険を支持させるように日本政府を支配するために、政府に対するその勢力を増大強化することを日本国内の出来事によつて余儀なくされたのであるが、もしこのようなことがなかつたならば、日本軍によるこれら各省の占領は、実際よりもはるか前に行われたであろう。一九三六年二月の陸軍の反乱の結果として、陸軍は陸軍の野心的な政策を支持しなかつた岡田内閣を除くことはできたが、この反乱は、陸軍の青年将校の間に、軍紀と責任感がないという重大なことを暴露した。このために、再び軍紀を確立する間、陸軍はひと休みしなければならなかつた。次の総理大臣廣田とかれの内閣の陸軍、海軍、外務、大蔵の各大臣は、陸軍の主張する進出政策に全面的に賛成していた。そして、一九三六年の後半には、『一九三六年六月の国策大綱』、一九三六年八月の『国策の基準』及び『第二次北支処理要綱』が、かれらのうちの全部あるいは一部の者によつて採択された。この間に、陸軍は豊台に足場を確保し、これによつて蘆溝橋を占拠し、華北五省を南方の中国各地から切離し、北平を制圧することができるようになつていた。しかし、廣田内閣としては、陸軍の政策に対して全面的には賛成していなかつた。(E-681)閣員の中には、政府に対する軍の支配の増大を不満に感じていた分子もいた。これらの者を除く必要があつたので、一九三七年一月に、陸軍は廣田内閣を倒壊させ、宇垣の組閣を失敗させた。最後に、一九三七年六月の初め短命であつた林内閣瓦解の後に、近衛公爵がその第一次内閣を組織し、陸軍の冒険に対して、ついに政府の支持が確保された。日本が中国を征服しようという計画の次の一歩をとるについて、今や妨害が除去されるに至つた。

(E-682)
第四節
蘆溝橋事件(一九三七年七月七日)から一九三八年一月十六日の近衛声明まで

  一九〇一年九月七日の北清事変に関する最終議定書(附属書B―二)によつて、北平に公使館を有する諸国に対して、公使館区域内の、また首都と海浜との間の自由交通を確保するために、北平天津間の鉄道線に沿う十二カ所に、警備兵を置く権利を中国は認めた。一九〇二年七月十五日の追加協定によつて、それらの地点に駐屯する外国軍隊は、実弾射撃の場合のほかは、中国官憲に通知することなく、野外演習及び射撃演習をする権利を与えられた。一九三七年七月の初めには、他の議定書署名国が華北にただ小分遣隊だけを置いていたにかかわらず、日本は七千乃至一万五千の間でいろいろに見積られた兵力を維持していた。イギリスは公使館警備兵二百五十二名を含めて合計一千七名を有し、フランスの河北省駐屯の実員数は一千七百名ないし一千九百名の間を上下し、その大部分は天津に駐屯していた。日本軍隊の数は、議定書に基く義務を履行するに必要な数をはるかに超えていた。一九三七年六月から、蘆溝橋(マルコポーロ橋)附近において、日本軍は激しい夜間演習を行つた。これらの夜間演習は毎晩行われた。これに反して、他の駐屯外国部隊の行う夜間演習の回数は、日本の行うものよりも、はるかに少なかつた。中国側はその地域の住民に不安を与えないように、夜間演習の事前通告を要求した。(E-683)これに対して、日本は同意していた。一九三七年七月七日の夜は、通告なく演習が行われた。従つて、その夜に、蘆溝橋事件が起つたのは緊張と不安の雰囲気の中においてであつた。
  その夜の十時ごろに、中国官憲は北平の日本特務機関長松井太久郎から電話を受けた。この電話は、宛平の中国駐屯部隊が演習していた日本の部隊を射撃した後に、日本兵一名が行方不明となつたと称し、その捜索を行うために、日本軍隊を宛平に入れることを許可するように要求した。宛平は蘆溝橋の附近にあり、北平の西方の主要な交通線上にあるので、戦略的に相当な重要性があつた。豊台の日本軍隊は、一九三七年七月以前にも、同地駐屯の中国軍隊の撤收を繰返し要求していたのであつた。
  一九三六年に、日本は兵舍と飛行場を建設する目的で、北平西方の豊台と蘆溝橋との間に広大な土地を手に入れようと努力し、それが失敗した経緯とについては、すでに述べておいた。蘆溝橋から中国軍隊を撤收することと、豊台・蘆溝橋間に日本軍が駐屯地を設けることが華北に及ぼす戦略的影響は明日である。北平は、南方と西方から完全に遮断されることになつたであろう。
  宋哲元将軍が休暇で帰郷して不在であつたので、当時二十九軍の軍司令官を代理していた秦徳純将軍は、中国連絡関係官に対して、日本の宛平入城の要求に対しては、その夜の状況のもとに行われた演習は違法であり、従つて、日本側の主張する行方不明の兵については、中国官憲は何も責任はないと回答するように指令した。(E-684)しかし、宛平駐屯の中国部隊に対して、自分の方で搜索を行うように命令するとかれは言つた。日本側はこの回答に満足せず、日本側の手によつて捜索を行うことを固執した。
  宛平城の行政督察專員王冷齋は、秦将軍から、日本軍の演習と日本兵が行方不明になつているかどうかについて調査と報告をするように命令された。この間に、砲六門を有する日本軍一箇大隊が豊台から蘆溝橋に前進しつつあるという報告が中国官憲に入つた。ここにおいて、中国部隊は待機命令を受け、王冷齋が松井との交渉のために派遣された。王冷齋は調査を行つたが、いわゆる行方不明の兵隊を探し出すことができず、その後行われた松井との会談も、何の結果ももたらさなかつたが、現地で共同調査を行うことに決められた。王冷齋と日本代表寺平が城内に入つた後に、日本軍は同城を三方から包囲して、射撃を始めた。中国部隊は城壁に拠つて宛平を守つた。一九三七年七月八日午前五時、まだ調査が行われているときに、蘆溝橋の近くにある龍王廟で、大隊長一木の指揮する日本軍一箇大隊が中国軍を攻撃した。六時ごろに、日本軍は宛平城に対して機関銃で攻撃を始めた。

(E-685)
その後の作戦と停戦交渉

  一九三七年七月八日の朝に、長辛店に至る鉄橋が日本軍に占拠された。その日の午後、日本側は宛平城の司令官に対して、その夜の七時までに降伏するか、そうでなければ、砲撃を開始する旨の最後通牒を送達した。しかし、中国側は頑として譲らず、七時になると同時に、日本軍の砲撃が開始された。翌日、すなわち一九三七年七月九日に、日本側は、松井とその他の者を通じて、秦将軍に対して、行方不明の兵が発見されたことを通告し、また次の條件による停戦を申し出た。(一)双方直ちにに軍事行動を停止すること、(二)双方の軍隊は各々最初の線まで撤退すること、(三)日本に対して一層強い敵意を有していた第三十七師の代りに、第二十九軍に属する他の部隊を宛平の防衛にあてることというのであつた。また、双方とも将来これと同様な性質の事件が起ることを回避する旨の了解が結ばれることになつていた。その日にこの停戦は成立した。
  吉星文中佐の指揮する中国部隊はもとの位置に撒退した。他方で、日本軍隊は豊台に向つて撤退することになつていた。もし日本側が停戦條件を守つたならば、事件は当然にこの段階で解決されたものと見られたであろう。しかし、後になつて、鉄道トンネル附近の約百名の日本兵が、協定通りに撤退しなかつたことが確かめられた。一九三七年七月九日の夜半、そこにいた日本軍部隊は再び城内に向つて発砲したのである。それから後、日本軍部隊は紛争地へ続々注ぎ込まれた。七月十二日には、すでに日本軍隊二万名と飛行機百機がこの地域に入つていた。(E-686)これに続いて、後に述べる大規模な敵対行為が発生した七月二十七日まで、この地域で、両軍の間に散発的な衝突が起つた。

日本政府の態度

  敵対行為が起つたという公電は、一九三七年七月八日に、東京に到着した。その翌日に、近衛内閣は、臨時閣議で、政府の態度として、紛争の規模を拡大しない方針を堅持し、早急に現地で問題の解決をはかるべきことを決定した。この内閣の決定にもかかわらず、一九三七年七月十日に参謀本部は、関東軍から二箇旅団、朝鮮から一箇師団、日本内地から三箇師団を送つて、駐屯部隊を増援することを決定した。廣田と賀屋が閣僚であつたこの内閣は、七月十一日に陸軍案に同意した。関東軍の部隊は北平と天津地域に送られた。しかし、一九三七年七月十一日の夜、中国側が妥協したという北支軍の報告を受けると、統帥部は日本内地における師団の動員を中止することを決定した。一九三七年七月十三日に、統帥部は『北支事変処理方針』を採用した。それには、日本軍は現地解決方針を堅持し、内地部隊の動員は、その後の状況の推移によつて決するが、中国側においてその同意した條件を無視した場合、あるいは華北に向つて軍隊を移動させるような不誠意を示した場合には、断固たる処置をとると定めてあつた。
(E-687)
  一九三七年七月十七日から後、現地では、北支駐屯軍と第二十九軍との間に、南京では、日本の外交官と中国政府との間に、それぞれ交渉が行われている最中に、日本の統帥部は、一九三七年七月十一日に中断されていた日本内地における動員の準備を進めていた。第二十九軍司令官兼冀察政務委員会会長であつた宋哲元が、一九三七年七月十八日に妥協したという報告があつた後になつても、日本の統帥部は、中国政府が誠意を示さなかつたという理由に基いて、まだ動員準備を推し進めて行つた。一九三七年七月二十日に、内閣は三箇師団の増援を承認した。一週間の後に、北支駐屯軍司令官は、平和的解決のためのあらゆる手段を尽した後、第二十九軍を膺懲するために武力を用いることに決意したと報告し、その承認を求めた。統帥部はこれに承認を与えた。その間に、四箇師団の動員令が下された。さらに、上海と青島の日本人居留民を保護するためという名目で、各都市のために、一箇師団づつを用意しておくことになつた。
  一九三五年十二月二日の『北支に於ける各鉄道の軍事的処理要領案』は、日本軍が山東、河北、山西の各省を席巻する作戦を立てていたが、この要領案において、青島が席巻作戦に参加する日本軍増援部隊の上陸港となつていたということに、注意することが大切である。
  外交の方面では、華北へ軍隊を派遣することに関して、必要な処置をとるために重要な決定が行われた一九三七年七月十一日の閣議に続いて、日本外務省は直ちに華北の外交陣を強化する手段を講じた。(E-688)一九三七年七月十一日に、南京の日本大使館参事官日高は、中国政府に対して、問題を現地で解決したいという日本政府の意向を通告し、日本の努力(迅速に時局を拾收するための)を妨げないように要請せよという訓令を受けた。中国外交部長が、紛争地帯から日本軍を撤退させることと、満洲、朝鮮及び日本内地からの軍隊の増派を停止することを要求したときに、日高は中国政府が現地の日本官憲と中国官憲との間の協定を否認する意思であるかどうかと質問し、この点を回避した。中国外交部長は、公文書をもつて、現地の協定または了解は、どのようなものでも、中国政府の承認を経て初めて効力を発生すると指摘したが、その後、一九三七年七月十七日に、再び日本外務省から、中国政府が現地において成立した解決條件の実行を妨害しないように要求せよという訓令を受けた。このようにして、日本官憲の現地解決という観念は、中国政府の承認を受けないで、華北官憲が日本の要求を受け入れることを意味していたことが明らかとなつた。この提案を受理することは、明らかに、現地営局から中央政府の支持を奪うことによつて、現地当局の力を弱め、また中央政府が華北の自治を事実上承認するという二重の効果をもたらすものであつた。

アメリカ合衆国の斡旋申出

  華北で起つた敵対行為は、極東の平和を望んでいた第三国の真剣な関心を呼び起した。(E-689)一九三七年七月十六日に、アメリカ合衆国の国務長官コーデル・ハルは、次の趣旨の声明を発した。平和を維持すること、国家的と国際的に自制すること、すべての国がその政策の遂行にあたつて武力の行使を回避すること、平和的手段によつて国際紛糾を調整すること、国際協定を忠実に遵守すること、條約の神聖を擁護すること、すべての国が他国の権利を尊重すること、国際法に活力を与え、強化することは、アメリカ合衆国が絶えず一貫して主張してきたことであり、同盟に加入したり、煩わしい誓約をしたりすることは避けたいが、上述の諸原則を支持するための平和的な、実際的な手段によつて、協同の努力をすることにアメリカ合衆国は信頼するというのである。
  その同じ日に、中国政府は九国條約(附属書B―一〇)の各調印国に覚書を送り、その翌日の一九三七年七月十七日に、蒋介石大元帥は中国が戦争を求めているのではなくて、単に同国の存立そのものに対する攻撃に対処しているにすぎないことを強調した演説をした。そのさいに、平和的解決に対する最小限度の考慮條件は、次の四点であると述べた。(一)中国の主権と領土保全に対して侵害しないこと、(二)河北省とチヤハル省の行政制度を変更しないこと、(三)中央政権によつて任命された主要官吏を自己の意に反して更迭しないこと、(四)第二十九軍の駐屯地区に制限を加えないこと。一九三七年七月十九日に、中国外交部は南京の日本大使館に覚書を送り、両国は同時にそれぞれの軍隊の移動を停止し、両国が同意する期日に、もとの地点にそれぞれの軍隊を相互撤退しようという中国の提案を再び提出した。(E-690)また、中国政府には、事変の解決のためには、直接交渉、斡旋、仲介、仲裁裁判のような、国際法や條約の上で知られているとのような平和的手段でも、これを受け入れる用意があると明確に述べた。
  事態が收拾のつかなくなるほどに拡大する前に、ハルはこれを解決しようとして、一九三七年七月二十一日に、日本大使と会談した。他のいろいろなことと共に、日本大使に対して、合衆国政府は、日本と中国の間の現在の紛議をいくらかでも鎮めるようなことであれば、仲介に至らない程度で、いつでも、どんなことでも言い、またはなす用意があり、それを喜んで行うつもりであること、もちろん、これはあらかじめ双方の当事国の同意を必要とすることであるとハルは述べた。しかし、日本の態度は、一九三七年七月二十七日議会の予算委員会で、日本政府は第三国の干渉を排除すると演説した外務大臣廣田によつて明らかにされた。上海で敵対行為が発生する三日前の一九三七年八月十日に、東京駐在の合衆国大使ジヨゼフ・グルー氏は、日本の外務大臣に対して、明確な斡旋申込みをなす権限を本国政府から与えられたと語つた。これに続いて、ワシントンの日本大使は、国務省にあてた一九三七年八月十三日附の覚書で、日本は世界平和の維持に関する一九三七年七月十六日のハル氏の声明に含まれている諸原則に同意するものであるが、日本政府としては、これらの諸原則の目的は、極東地域の実情を充分に認識し、これを現実的に考察することによつてのみ到達されるものと信じていると述べた。(E-691)しかし、合衆国国務省は、一九三七年八月二十三日に、同年七月十六日のハル声明の中に挙げられた諸原則を再確認し、交渉によつて紛議を解決することを慫慂するという新聞発表を行つた。

廊坊事件

  停戦協定があつたにもかかわらず、一九三七年七月十四日に、戦闘が再び起つた。宛平は日本側の砲兵によつて継続的に砲撃された。七月十八日(一九三七年)に、宋哲元は日本の駐屯軍司令官香月を訪問し、日本軍に要求された通りに、遺憾の意を表明した。しかし、緊張は緩和されなかつた。多くの事件が続発した。七月の二十五日には、北京と天津の間の廊坊で、日本軍の一箇中隊と中国が衝突した。その翌日も、日本の歩兵一箇大隊が、日本人居留民を保護する目的で、北平市に入ろうと努めていたときに、同市の廣安門で、中国軍と衝突した。これらの諸事件の起つた真の原因は明らかでないが、重要なことは、二十六日に日本側が中国側に最後通牒を送り、他のいろいろのことと共に、中国第二十七師が北平地区から二十四時間以内に撤退すること、そうでなければ、日本は大軍をもつて攻撃するということを要求したことである。

日本の最後通牒は拒否された

  一九三七年七月二十七日に、すなわち、日本側が最後通牒を手交した翌日に、総理大臣近衛は、政府は華北に派兵するにあたつては、東亜の平和を維持すること以外には何の目的も持つていないと声明した。(E-692)日本の最後通牒は受諾されなかつた。一九三七年七月二十七日に、豊台と蘆溝橋の附近とで戦闘が起つた。日本側の駐屯軍司令官香月は、優秀な装備と飛行機三十機以上をもつた増援部隊を天津と通州とから出動させるように命令した。一九三七年七月二十八日の早朝に、日本側は飛行機と大砲で北平市外の南苑に攻撃を加え、中国側に甚大な損害を与えた。このようにして、大規模な敵対行為が展開された。

ドイツにおける反響

  日本大使武者小路は、一九三七年七月二十八日に、ドイツ外務次官ワイツゼツカーを訪問し、中国における日本の行為に現われている反共的な努力をドイツが理解していないと日本は感じていると述べた。ドイツ側の利益のためにも、日本は中国において反共の事業を行つているということを彼は説明しようとしたのである。しかし、ワイツゼツカーはこれに答えて、中国で共産主義を助長する可能性の充分ある日本の行為を、すなわちドイツと日本の双方の目的とちようど反対なことを認めたり、精神的に支援する義務がドイツ側にあると推論することはできないといつた。
 その日に、ワイツゼツカーは東京のドイツ大使に打電して、日本側に穏健な態度をとるように忠告せよと訓令した。日本の中国における行動を防共協定に基く共産主義に対する抗争と見ることは、その協定が第三国の領土においてボルシエヴイズムと戦うことを目的とするものではないことにかんがみて、見当違いであるとかれは大使に伝達した。(E-693)それどころか、日本の行動は中国の統一を妨害し、それによつて、共産主義の蔓延を促進するものであるから、むしろ防共協定に相反するものと考えられた。なお、日本の中国に対する戦争を、共産主義に対する戦いであるように、ドイツ国内でラジオ宣伝をすることは、好ましくないとワイツゼツカーは述べた。
  ドイツのこの態度と日本側が採用した施策の性質とを考えると、日本の関心は第一には共産主義と戦うことであると日本は繰返して声明したが、この声明に対しては、まことに重大な疑念が生じてくる。かような声明は、華北に自治運動を起そうとする土肥原と板垣の努力の初期に、かれらによつて繰返して行われた。後にこの裁判のある証人が証言した事態、すなわち、共産主義者が蘆溝橋事件が起つた後の乱れた状態のもとでその勢力を増大し始め、共産主義運動を育成したのは日本側であつたという事態を、ドイツの外務次官は、すでに予見していたもののようである。

北平の占領

  その日、一九三七年七月二十八日に、蒋介石大元帥は宋哲元将軍に対して、河北省南部の保定に退却し、同市から作戦を指揮するように命令した。次の二日の間、すなわち一九七三年七月二十九日と三十日に、天津で猛烈な戦闘が行われ、中国軍は頑強に抗戦したが、後に津浦線に沿つて南方に退き、他の軍隊も京漢線に沿つて撤退した。北平はこうして隔離され、遂に一九三七年八月八日に、河邊正三の指揮下にある日本軍によつて占拠された。(E-694)河邊はその部隊を率いて北平市内を行進し、要所々々に自分が軍政長官であると書いた布告を貼り、かれの命令を拒否するものはすべて死をもつて処罰すると威嚇した。中立的な観測者の言葉によると、敵対行為が発生してから八週間のうちに、華北で戦闘に従事していた日本軍の総数は約十六万であつた。

大山事件

  華北における敵対行為が進行している間に、そして一九三七年八月八日に北平が日本軍によつて占領されたのに続いて、すぐその翌日に、全世界の重要な関心を呼び起したもう一つの事件が上海で起こつた。一九三七年八月九日の午後に、日本陸戦隊の大山中尉とその運転手斎藤一等水兵が上海郊外の虹橋路の飛行場に入ろうとして、その入口で殺害された。この事件の詳細に関する証拠は互いに矛盾している。しかし、一つの点は疑いの余地なく立証されている。すなわち、大山はこの飛行場に入る何の権限ももつていなかつたということである。いずれにしても、この事件は、一般的には事態の緊迫感を強めたが、日本側はこれをその後の行動の口実にしたり、これをもつてその後の行動を正当化したりしようとはしなかつたので、あまり重要ではない。

上海戦以前の他の諸事件

  大山事件が起つた後、上海の事態はきわめて緊迫してきた。それから四十八時間足らずのうちに、日本は約三十隻の軍艦を上海に集結し、その軍隊の数千名増加した。それと同時に、中国の防備を除去し、または弱体化しようと目論まれた要求が中国官憲に提出された。敵対行為は一九三七年八月十三日に起り、それからはげしい戦闘が続けられた。
(E-695)
  前に述べたように、一九三二年の初期に、上海地区における敵対行為は、一九三二年五月五日の停戦協定の締結によつて終つていた。この協定によつて、中国軍隊は、後に同地域の正常状態の回復したときに取極めがなされるまで、その当時占拠していた地点に留るものと規定されていた。その上海会議へ派遣された中国側代表は、そのとき、この協定を受諾するにあたつて、この協定には、中国領土内の中国の軍隊の行動を永久的に制限することを意味するようなことは、一切含まれていないものと了解するということを特に宣言した。一九三七年六月に、上海の日本総領事岡本は、中国側がかれのいわゆる「禁止区域」で保安隊を増強し、呉淞砲台の再建を含む防禦施設を同地帯で行つているという報告に基いて、停戦協定によつて設置された共同委員会の開催を要求した。一九三七年六月二十三日に開かれた会合で、中国側代表の兪鴻鈞市長は、そのような事柄は共同委員会の権限外であり、この委員会の義務は、協定ではつきりしているように、軍隊の撤収を監督するにあるという立場をとつた。この会議に出席した諸国の代表は、相抵触する解釈について意見は述べられないと結論した。中国側代表は、上海地区における保安隊員の数及び要塞の問題に関して、情報を発表するような権能は自分には与えられていないと述べたが、同時に、問題の地区において行われていることは、敵意または軍事的準備の性質をもつていないと確言した。
(E-696)
  華北において敵対行為が発生した後の一九三七年七月十五日またはそのころに、兪市長は岡本総領事と日本の陸海軍武官を会談に招き、敵対行為が上海に波及することを阻止したい希望を表明し、日本側の協力を要望した。岡本は協力を約し、中国側がテロ行為や排日運動を取締ることを求めた。その後、両者の間には密接な連絡が保たれた。同市長は時には日に二度か三度岡本を訪い、日本の陸戦隊の、ある行動を抑制するように要請した。中国側が抗議を申し込んだ行動というのは、日本陸戦隊が行つた演習や非常警戒処置であつた。岡本によると、かれと日本陸戦隊司令官は演習を抑制することには同意した。しかし、非常警戒措置については、宮崎という一日本人水兵の失踪事件の結果行われたものであると説明した。もつとも、この水兵は後になつて発見された。
  日本においては、大山事件が発生した後、一九三七年八月十日に、陸軍は海軍から、上海における部隊は、今のところこれ以上の措置はとらないが、情勢によつては、軍隊派遣の準備を要するかもしれないと通告された。そこで、日本政府は、万一の場合の動員に関する案を検討しておくのがよいと決定した。上海における日本の陸戦隊は、この事件の後に、日本から送られた千名の兵力で増強された。一九三七年八月十一日正午には、上海の水域には、旗艦出雲とその他の海軍艦船を含めて、比較的大きな艦隊が集結していた。
  一九三七年八月十二日に、上海で再び共同委員会が開催された。(E-697)中国側代表は、同委員会には本問題に対して権限はないという主張を繰返しながら、停戦協定を無効としたものは、日本軍を鉄道線路から撤收することになつていたのに、その鉄道線路から遥か遠く離れた八字橋に、軍隊を駐屯させた日本側であるとし、従つて日本は同協定を援用する権利がないと指摘した。同代表はまた日本の武器や補給品が揚陸されていること、増援部隊がさらに輸送途上にあること、これらの措置は上海の治安に対する深刻な脅威となつていること、中国には自衛のための適切な処置を講ずる権利があることを主張した。日本側代表は、この会議で、日本軍が八字橋に駐屯していたことを認め、陸戦隊はまだ何もする準備ができていないという説明をしたほかには、海軍の集結と増援について否認しなかつた。他方で、中国側代表は、中国の軍事行動は自衛手段をとる権利に基いているという言葉を繰返した。
 一九三七年八月十二日における同じ会議で、双方の当事国が四十八時間以内に攻撃を始めないと保護するように要請された際に、中国側代表は、攻撃を受けなければ攻撃をしかけることはないと述べ、日本側も、挑発または挑戦されない限りは、紛擾を起さないと答え、挑発行為の一例として、一人の日本人新聞記者が中国側によつて逮捕された件を語つた。この会議は紛議を少しも解決するところがなかつた。

上海戦

  一九三七年八月十三日に、日本陸戦隊本部附近と八字橋地区の他の地点とで戦闘が起つた。(E-698)日本側では、その発生の原因は、日本陸戦隊に対する中国軍隊の発砲であると主張した。この点についての証拠には互いに矛盾するところがある。日本側の見解が正しかつたとしても、われわれの意見では、次に述べる行動の範囲と重大さを正当化するものではない。
  衝突の発生した直後、一九三七年八月十五日に、上海の日本臣民を保護するという名目のもとに、内地から二箇師団を派遣する決定を日本政府は声明した。動員令も同じ日に下され、松井石根が日本の上海派遣軍の司令官に任命された。明らかに、日本内閣は局地解決方針を放棄することに決したのである。上海における戦闘は苛烈であつた。さらに日本軍の増援部隊が一九三七年八月二十三日に上海に到着した。両国ともに航空機を活躍させた。日本の航空機は中国の首都南京を爆撃し、港湾や奥地の都市にも、数多くの空爆が行われた。日本艦隊は、陸上部隊と協力すると同時に、中国船によつて港湾に補給品が持ち込まれるのを防ぐために、沿岸を哨戒した。中国船舶のあるものは撃沈された。
  上海における戦闘が盛んに行われている間に、日本の外務次官堀内は、一九三七年九月一日に、アメリカ向けのラジオ放送で、中国側の反日行動を理由として、中国における日本の行動を弁護し、日本の意図は平和的であると主張した。(E-699)現在の華北と上海における戦闘の究極の目的は、両国の間に真の協力ができるような事態を実現することにあるとかれは述べた。その後に、同じような趣旨をもつた演説が、外務大臣廣田によつて、日本の議会で行われた。こうした演説が行われていた間にも、かれらの念頭には、一九三五年以後、代々の内閣が公然と採用してきた政策、すなわち華北を日本に隷属した特別地区にしようとする政策があつたことは明白である。この政策を実現するために、遥か南方の華中の上海にまでわたつて、本格的な戦争が行われていたのである。
  戦闘が続くにつれて、増援隊が続々として上海地区に送り込まれた。日本の統帥部は、一九三七年九月の末から十一月の初めまでに、日本から五箇大隊、華北から五箇師団以上を派遣した。一九三七年十一月の初めには、上海から約五十マイル南方にある杭州湾に三箇師団が上陸し、その月の中旬には、さらに一箇師団が白茆口に上陸した。ここは上海から揚子江を遡つて六十マイルの地点にある。このようにして、紛争地区が拡大するに従つて、松井の指揮の下にある派遣軍と杭州湾に上陸した第十軍の諸師団とは合体させられ、松井を司令官とする中支派遣軍として新編制された。戦闘は三カ月続き、中国軍は十一月十二日までに西方へ退却した。
  一九三七年十二月五日に、日本大使館武官府の楠本大佐と参謀本部の影佐大佐との主唱によつて、日本で教育を受けた蘇錫文を市長として上海大道市政府が設立された。

(E-700)
華北における軍事行動の継続

  中国において行われていた日本の軍事行動を統合するために、一九三七年八月二十六日に、畑俊六が教育総監に任命された。教育総監は、内閣の更迭があつた際に、陸軍大臣を指名する三長官の一人である。第十四師団長の土肥原は、一九三七年八月に京漢線に沿う進出作戦に参加し、東條は兵団長としてチヤハル省の戦闘に従事していた。それと同時に、板垣の指揮下にある第五師団は、平綏線に沿つて、張家口に向けて進撃していた。そして、これを一九三七年八月二十六日に占拠した。ここで、注目に値することは、一九三八年十一月に、チヤハル、綏遠、山西の三省が蒙彊自治連盟の下に別個の地方政権の領域として編成されたことである。この連盟は、日本側によつて、蒙古と新彊を統治しようとして設置されたものであつた。この連盟の首班は徳王で、その顧問には、日本の陸軍将校とその他の、同連盟で政治的と経済的の問題を担当していた人々があつた。
  一九三七年八月三十一日に、北平を距ること約百マイルの西北方にある懐来で、板垣はヨーロツパやアメリカの通信員と会見し、かれは黄河へ向けて南下するかもしれないと言明した。この言明は、日本の計画には、華北の境界を越えて南進する意図が含まれていたことを示した最初のものである。この意図は、その後間もなく、事実として現われた。一九三七年九月四日には、中国に日本軍を派遣した目的は『中国の猛省を促し、速に極東に平和を確立せんとする』にあると説明した勅語が発布された。(E-701)
  これらの軍事行動には、新聞会見、演説、その他の発言の形で、中国国民の士気を沮喪させようとする目的の宣伝が件つていた。
  河北省の首都保定が一九三七年九月二十四日に占領された。当時戦闘に参加していた日本の将官は、ある外国新聞記者に対して、日本軍の軍事目標は『領土を獲得するというよりも、中国国民軍を殲滅し、破壊し、殺戮する』にあると語つた。この中国軍を殲滅するという方針は、これより先、一九三七年九月五日に、廣田が議会で行つた演説の中にも表明されている。そのうちで、かれは次のように述べている『わが国がかかる国家をしてその誤謬を反省せしめんがため、これに決定的打撃を与えんことを決意せるは、正義に基くのみならず、自衛権によるものと確信するものである。日本帝国がとり得る唯一の道は、中国軍が戦意を完全に喪失するように、これに右のごとき一撃を加へることである。』かれはまた同じ演説で、華北に関する日本の方針を繰返して述べ、日本がその時なさなければならない緊急必要事は、『断乎として支那の猛省を促すことを急務とするのである』と結論した。(E-702)日本の望むところは、華北を明朗にし、中国全土から今回のような戦禍の再発を除き、両国の国交を調整し、それによつて前述の国是を実現しようとするにほかならないともいつた。
  板垣の軍隊はさらに前進し、一九三七年十月十四日には、綏遠省の首都帰綏を占領した。その翌日の一九三七年十月十五日に、勅令が公布され、内閣参議制が創設されて、荒木がその一員に任命された。内閣参議の責任は、『支那事変ニ関スル重要国務ニ付内閣ノ籌画』に参画することであつた。
  一九三七年十一月九日に、日本軍は山西省の首都太原を占領した。日本側は直ちに山西省北部を統治する自治政府を太原に設立することに着手した。この傀儡政権は、すでに触れておいたように、後になつて、新しい『蒙彊自治連盟』の一部として、張家口と帰化に創立されたものと合併された。山東地区においては、一九三七年十二月二十五日に、北支派遣軍が山東省の首都済南を占領した。この段階において、日本軍は華北の要衝全部を実際上その軍事占領下に置いたのである。

中国、国際連盟に提訴

  一九三七年九月十二日に、中国は国際連盟規約第十、十一、十七條(附属書B―六)を援用して、国際連盟に訴えた。一九三七年九月二十一日に、国際連盟は、日本政府を二十三カ国諮問委員会に参加するように招請した。しかし、国際連盟から脱退しているという理由で、日本は連盟のどのような政治的活動にも参与しないという態度を維持し、その招請を拒絶した。(E-703)その当時、廣田は第一次近衛内閣の外務大臣であつた。
  一九三七年十月六日に、国際連盟は、日本が中国に対して行つている軍事行動は、紛争の原因をなした事件とは全く比較にならない大規模なものであること、このような行為は、日本の為政者が政策の目的として言明している両国間の友好的協力を万一にも増進し、助長することのできるものではないこと、現存の法律上の約定に基いても、自衛権に基いても、正当化することのできないものであること、また一九二二年二月六日の九国條約(附属書B―一〇)と一九二八年八月二十七日のパリー條約(附属書B―一五)に基づく日本の義務に違反するものであることを指摘した。その日に、アメリカ合衆国政府は、これらの結論に同意すると声明した。

日本側の和平條件

  軍事作戦が成功のうちに進んでいる間に、日本政府は一九三七年十月一日に、『支那事変対処要綱』を採用した。これは軍事行動の成果と外交措置の機宜と、両々相まつて、速やかに事変を終結させなければならないと規定していた。華北においては、ある一定地域を非武装地帯とし、同地帯の治安維持は武装した中国警察をその責に任じさせることになつていた。日本は駐兵権を保持するが、駐屯軍の兵数は『事変』の発生の当時の数に減らすことがあるかもしれない。(E-704)塘沽停職協定は有効とするが、土肥原・秦徳純協定、『梅津・何應欽協定』、その他の、通車、通郵、通空などに関する協定は、これを解消しなければならない。冀察政務委員会と冀東自治委員会は解消し、これらの地区の行政は、中国政府が任意に行うことになつていた。しかし、これらの地域の行政首脳者が日本と中国の融和を具現することが希望された。上海地区に関しては、ここにもまた一定地域を非武装地帯とし、この地帯の治安維持は国際警察または武装を制限した中国警察にその責に任じさせ、租界工部局警察にこれを援助させることになつていた。日本の陸上兵力は撤収するかもしれないが、これには日本軍艦の在泊権を含まれないことになつていた。中日国交の全般的な調整のためには、同時に、またはその後に、政治的、軍事的、経済的方面の交渉を行うことになつていた。中国は満洲国を正式に承認し、日本と防共協定を締結し、華北の非武装地帯内は取締を厳にすることになつていた。特定品の中国関税率を引下げ、冀東における中国側の密輸取締の自由を回復することになつていた。この要綱は、総理大臣近衛、外務大臣廣田、陸軍大臣及び海軍大臣によつて承認された。

イギリスの斡旋申出

  一九三七年十月二十七日より前に、外務大臣廣田とイギリス大使クレーギーとの間に、中国における敵対行為の停止に関する会談が行われた。当時外務次官であつた堀内の言葉によると、廣田はかれの個人的意見として、つぎのような処理條件を表明した。
(E-705)
(一)華北における非武装地帯の設定、(二)現実に即した華北と満洲国の関係の調整、(三)中国側の排日運動の防遏、(四)華北地区における経済的機会均等。これらの見解は、クレーギー大使によつて、中国政府に伝達され、中国政府の見解も、イギリス大使を通じて、二度か三度廣田に伝達された。
  一九三七年十月二十七日に、廣田はイギリス、合衆国、ドイツ及びイタリアの大使との会談で、日本としてはブラツセル会議の招請に応ずることはできないが、四カ国のいずれにしても、日本と中国との間の直接和平交渉が行われるように斡旋することを希望すると述べた。イギリス大使は間もなく廣田を訪問して、イギリス政府は喜んで両国間の交渉を斡旋すると通告した。堀内は廣田がこの申出を受諾したと証言しているが、後になつて、陸軍部内に、イギリスの仲介に対する強硬な反対があつたことがわかつて、この計画は中止となつた。しかし、堀内は、反対訊問で、干渉や仲裁裁判はいつでも排除するのが日本の方針であつたこと、第三国の斡旋はいつでも歓迎するが、日本と中国の間の紛議の処理は直接交渉によつて達成したいというのが日本政府の希望であり、方針であつたことを認めた。

ブラツセル会議

  国際連盟が交渉によつて紛争を解決するために、会議の席に日本を出席させようとして、それに失敗した後、同じ目的を達するために、別の方法が講じられていた。(E-706)ベルギー政府は、一九三七年の十月二十日と十一月七日の二回にわたつて、九国條約第七條(附属書B―一〇)に基いて、極東の事情を検討し、紛争を友好的に解決する方法を考究しようとする見地から、日本がブラツセルにおける会議に参加するように招請した。日本は、これに対して、この会議の招集は、日本に敵意のある見解を表明した国際連盟と密接な関係があるから、日本政府としては、正当な紛争処理をもたらすような隔意のない全面的討議を、期待することができないと信ずると説明して、またも参加を拒絶した。一九三七年十一月十五日に、ブラツセル会議で採用された決議によつて、日本は中日紛議における侵略者であると宣告された。

大本営

  内外の困難に直面した総理大臣近衛は、一九三七年十一月中旬に辞職を希望したが、木戸の勧告によつて、辞意を飜した。
  一九三七年十一月二十日に、戦時だけに設置される機構である大本営を内閣は設立した。これは作戦用兵を統轄する機関であつた。このようにして、参謀総長は事実上陸海軍両大臣に対する支配権を手中に収めた。大本営の会議は毎週一回か二回開かれた。太平洋戦以前には、大本営の発言は、参謀本部と軍令部の発言であるばかりでなく、その長であつた天皇の発言でもあつたから、日本政府に対して、これを左右する大きな力を持つていた。

(E-707)
南京攻撃

松井が上海派遣軍の司令官に任命され、戦地に向つて東京を出発したときに、予定の上海を攻略した後には、南京に向つて兵を進める考えをかれはすでに抱いていた。東京を去る前に、上海派遣軍のために、かれは五箇師団を要請した。中国の首都に対する進攻のために、現実の準備がなされた。というのは、かれはこれより前に上海と南京との附近の地形の調査を行つていたからである。一九三七年十月八日に、松井は声明を発して、『降魔の利剣は今や鞘を離れてその神威を発揮せんとしている。また軍の使命は日本の居留民及び権益を保護する任務を完全に果し、南京政府及び暴戻支那を膺懲するにある』と述べた。上海の周辺の戦闘地域は拡大するものと思われたので、松井は中支派遣軍司令官に任命された。
一九三七年十一月下旬に、武藤章は松井の参謀副長に任命された。上海が攻略されてから約一カ月を経て、日本軍は南京郊外に到着した。松井は、南京は支那の首都であるから、その占領は国際的事件であり、日本の武威を発揚して中国を畏服させるように、周到な研究をしなければならないという意味の命令を発した。日本側の降伏要求は、中国政府によつて無視された。爆撃が始まり、同市は一九三七年十二月十三日に陥落した。南京に入城した日本軍は、新編制の部隊ではあつたが、経験のある部隊からなり立つていた。(E-708)一九三七年十二月十七日に、松井は意気揚々と入城した。十二月十三日から後に、『南京暴虐事件』として知られるようになつた事件が起つた。これは追つて取り上げることにする。
  一九三八年一月一日に、臨時の自治団体が設立され、中国の正式の国旗である青天白日旗の代りに、廃止されていた昔の中国の五色旗を揚げた。

ドイツの仲裁

  合衆国とイギリスとの斡旋の申入れを無視して、日本陸軍はドイツに仲裁の労をとつてもらうように依頼することを望んだ。日本の提案したある和平條件が、一九三七年十一月五日に、南京のドイツ大使トラウトマンを通じて、中国政府に伝達された。次いで十一月二十八日、二十九日、十二月二日に、ドイツ大使は再び日本政府の意図を通達し、十一月に日本政府によつて提案された條件がなお有効である旨を中国当局に通知した。日本によつて提案された点を中国は協議の基礎として受入れる用意があつた。提案された條件は、八月案と称せられるものの中に定められていた。この八月案は、日本の外務、陸軍、海軍各省の当局者によつて、一九三七年七月に起草されたものであるが、右の各省によつて承認されたのは、一九三七年八月五日であつた。その計画は三つのおもな点からなり立ついた。(一)白河に沿つて非武装地帯を設け、中日両軍は右の地帯の外に撤退すること、(二)無併合、(三)無賠償。このような條件の線に沿う交渉は、日本大使川越と中国側との間に行われた。(E-709)しかし、一九三七年八月十三日に、上海で戦闘が起つたことによつて中断された。
 堀内の証言によれば、一九三七年十二月のある日に、ドイツ大使デイルクセンは外務大臣廣田に対して、南京のトラウトマン大使から、中国政府は日本の條件を基礎として和平交渉を再開する意思があるという報告を受けたことを話し、また八月案の和平條件に何かの変更があつたかどうかを尋ねた。そこで、問題は政府と陸海軍の連絡会議に提出され、一九三七年十二月二十日の会議の議題となつた。一九三七年十二月十三日の南京陥落は、日本の中国に対する態度を相当に硬化させた。連絡会議は次のような和平の四基本條件を決定した。(一)日本と満洲国との防共政策に協力すること。(二)指定地域に非武装地帯を設け、また特殊行政機構を設置すること。(三)日本・満洲国・中国の間に緊密な経済関係をつくること。(四)中国による必要な賠償。これらの和平條件と、すでに中国政府に通告されていた一九三七年八月のそれの間の差異は、根本的に非常に大きかつたので、この四條件を中国側が受諾すれば、他のことと共に、一九三一年以来中国が承認を拒んでいた條件、すなわち満洲国の独立ということを認めることになるわけであつた。このような事情のもとで、この提案が紛争を実際に解決するに至らなかつたことは驚くに足りない。
(E-710)
  一九三七年十二月二十二日に、廣田はこの條件をデイルクセン大使に通告して、情況が大いに変化したので、以前の條件を提案することはもはや不可能であると述べた。もし中国側が新條件に対して大体において同意するならば、日本は交渉に入る用意があるが、そうでなければ、日本は新しい立場からこの事変を取扱わなければならないとかれは述べた。これらの新しい條件は、トラウトマン大使を通じて、一九三七年十二月二十七日に中国政府に通告された。
  一九三八年一月十三日に、中国外交部長はトラウトマンに対して、日本によつて提案された新しい和平條件は、その字句が甚しく一般的であるので、中国政府は慎重に検討し、はつきりとした決定に到達するために、その性質と内容を詳しく通告してもらいたいと回答した。中国側の回答は、一九三八年一月十四日に廣田に通告された。

一九三八年一月十一日の御前会議

  中国に対して和平條件が提案されていた間に、日本では、陸軍と政府との間に、意見の相違が生じた。参謀本部は、その和平條件が単に漠然としているばかりでなく、また強硬過ぎると考えた。かれらはもつと具体的な條件を提示することを望んでいた。参謀本部は、中国における戦争の長期化を憂慮していた。それは日本の資源を消耗させるばかりでなく、ロシア、アメリカ及びイギリスに対する戦争の軍事的と経済的の準備に支障を来すものだつたからである。近衛を首班とする政府は、和平條件を漠然とした言葉で表明した方がよいと思つた。外務大臣廣田と文部大臣木戸は、近衛の見解を支持した。内務大臣末次がその四條件を起草し、外務大臣廣田はこれを中国政府に通告させた。(E-711)中国政府の回答を待つていた間の、一九三八年一月十一日に、御前会議が開かれた。この会議には、梱密院議長であつた平沼が出席した。廣田は日本・満洲国・中国の間における緊密な協力と結合とを規定した『支那事変処理根本方針』を説明した。この方針に基いて、択一的な二つの措置が採用された。一方では、もし中国が和解を求めてきたならば、日本は『日支講和交渉條件細目』の別紙中にある和平條件に基いて交渉することを御前会議は決定した。その中には、他のいろいろなことと共に、中国は満洲国を正式に承認すること、内蒙古に防共自治政府を設立すること、華中の占領地域に非武装地帯を設定し、華北、内蒙古及び華中の指定地域に日本の駐兵権を認めることが含まれていた。他方で、もし中国が反省を拒んだならば、日本は中国政府を敵として考えるばかりでなく、日本が協力することのできる新しい中国政府の成立を援助することになつていた。そこで、参謀総長、軍令部総長及び枢密院議長は賛意を表した。こうして、和平條件の細目が起草されたのである。
(E-712)
  御前会議がこの案を採用した日に、トラウトマン大使は、本国政府に対して、かれが東京から受取つた電報は、ドイツ大使館を通じて発せられた和平提案を日本が再び変更しようとしているように思われるという以外には、何も新しい情報を含んでいないことを報告し、そして『吾々は此に依つて中国に対しても面目を失つてゐる』と報告した。

一九三八年一月十六日の近衛声明

  中国の回答は、和平條件が非常に廣い範囲にわたるもので、最後の決定をするために、さらに細目を知りたいと述べていた。ドイツ大使を通じて、一月十四日に、この回答を受取つて、廣田は非常に憤慨し、戦争に負けて和を乞わなければならないのは、日本ではなく、中国であると言つた。公式には、中国は単に四つの根本條件を知らされていただけで、その他は、廣田の希望で、甚だ不明確な形に止めて置かれていたということを指摘されたときに、廣田は問題を閣議に諮ることに同意した。木戸によれば、一九三八年一月十四日に、終日開かれた閣議で、廣田は中国との和平交渉の経過を報告し、最後に中国側に誠意がなかつたと確言した。内閣は、蒋介石大元帥を首班とする中国国民政府をもはや相手にしないことを決定した。
  一九三八年一月十五日に、連絡会議が開かれ、ながながしい討議の後に、参謀本部部員の数名がなお歩み寄つた方がよいと言つたけれども、政府の案が採用された。一九三八年一月十六日に、近衛は、内閣と連絡会議によつて決定された日本の確乎たる方針を表明した声明書を発表した。(E-713)この歴史的に重要な文書は、これらの二つのアジアの両国の間の関係の動向を決定したものであるが、本裁判所の翻訳によれば、次の通りである。
  『帝国政府は南京攻略後尚支那国民政府の反省に最後の機会を与ふる為今日に及べり、然るに国民政府は帝国の真意を解せず、漫りに坑戦を策し、内人民塗炭の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みる所なし、仍て帝国政府は爾後国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす、元より帝国が支那の領土及主権並に在支列国の権益を尊重するの方針には毫も渝る所なし、今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し、政府は国民が此の重大なる任務遂行の為一層の発奮を冀望して止まず』
  このようにして、交渉継続への扉は閉ざされ、さらに侵略を進めるとともに、日本と協力するような『新興政権』を中国に樹立することを究極の目的として、地方の諸政権を育成するための舞台が整えられた。

(E-714)
第五節
華北の臨時政府

  日本は中国国民政府を相手とせずという近衛声明に先だつて、各占領地域には、日本側によつてすでに新しい政権が樹立されていた。山西省北部、帰化、張家口及び上海にあつたもの、並びに各地のいわゆる『治安維持会』がそれである。これらは単に限られた範囲の地域を治めていた地方政権にすぎなかつた。その中で、遙かに大きな地域を包括し、華北で親日の自治政権を樹立しようとする日本の方針に沿つたものが一つあつた。それはすなわち北平の臨時政府であつた。戦闘行為が初めて華北で起つたときに、王克敏は香港にいた。かれは隠退中の中国の高官であつて、後に臨時政府の首班になつた人である。かれは、北平と上海に駐在していた日本陸軍軍人によつて、北上することを説得された。この目的のために、参謀将校が北平と台湾から香港に派遣された。その結果として、一九三七年十一月二十四日に、王は上海に来た。そして、同年十二月六日に、飛行機で日本に赴き、次いで華北に赴いた。華北の日本官憲は、将来北支政権を中国の中央政権にしようという計画に基いて努力していたのであつて、王だけでなく、華南にいた他の著名の士も、上海に駐屯していた陸軍の将校を通じて、招請するように手配した。王が北平に到着した後、一九三七年十二月十四日に、すなわち南京陷落の翌日に、日本陸軍将校の臨席のもとに、臨時政府が正式に発足した。外国新聞記者も出席するように招待された。
(E-715)
  王克敏は、一九三七年十二月に、日本の北支派遣軍の命令によつて設立された新民会の会長にもなつた。この会の任務は、傀儡政府の諸政策を人民に知らせ、政府と人民との接触を保つことであつた。この会の副会長は日本人であつた。
  一九三八年一月十六日の近衛声明は、この臨時政府に新しい活力を与えた。北平と天津地区の諸治安維持会がこれに合流した。そして、その後、一九三八年六月三十日には、冀東政権もこれに併合された。
  一九三八年一月末には、臨時政府は華北の外国輸出入貿易の一部の品目に対する関税を改正していた。グルー米国大使は、一九三八年一月三十一日に、廣田に対して抗議を手交した。それには、この処置をとる唯一の権威者は中国国民政府であること『右臨時政権の創設並びに行為に関しては日本政府に於いては免かれ難き責任あり』という理由で、合衆国はその申入れを日本に対して行うものであると述べてあつた。中国聯合準備銀行が二月に設立され、一九三八年三月十日にその業務を開始し、臨時政府によつて紙幣発行の権限を与えられた。この銀行の総裁と副総裁とは中国人であつたが、幹部は主として日本人であつた。
(E-716)
  この臨時政府は、華中の維新政府とともに、後にいわゆる新中央政府の組織に参加するために、汪精衛からの招請を受諾した。
  臨時政府の結成にあたつて、日本が演じた役割は、日本外務省総務局の記録の中から取り出された文書によつて、これを確めることができる。それは次のように記録している。『昭和十二年⦅一九三七年⦆北支地方にては徳州、綏遠、彰徳、太原等の要地相次で陥落し、又中支方面に於ては十一月下旬、国民政府は漢口、重慶、長沙各地に分散移転を行ひ、十二月十三日首都南京も遂に陥落する等戦局の大勢決するに至れり。茲に於て予て北支要人間に於て考慮中なりし新政権樹立の気運次第に熟せり。
  北支政権の首班に王克敏の出馬したる経緯に付て述ぶれば、王は事変の当初香港に遁れ居たるが、北平特務機関長喜多少将は熱心に王を北支に出馬せしめんとし、上海の山本栄治をして專ら右工作を担当せしめ、北平より直接又台湾軍より特に軍参謀を香港に派し、勧誘に努めたる結果、王は十一月二十四日上海着、十二月六日飛行機にて福岡に飛び、出迎 の山本、余晋龢と共に北支に向へり。
  王は上海着の際は未だ北支政権の主脳者たることを完全に同意したるに非ず、単に状況視察を條件として承諾したるものと言はる。
(E-717)
  北支軍当局は、北支新政権は結局将来の支那中央政権として守り立つる方針にして、陣容の整備に意を用ひ、王のみならず南方有力者を漸次北方に誘発せんとして吉野及今井(当時武官)等上海に在りて熱心に之が工作を進めたり、右北支中心主義は軍中央部及北支寺内大将等も略賛成なりしも、上海武官室側に於ては反対にして、殊に楠本大佐は政権樹立工作上始めより北支を中心と定めて掛る必要なく、此の意味にて上海より多数要人を引抜くことは反対なりとの意向を有し居りたり。
  王克敏北平到着後、王も出馬を決意するに至れり、斯くて新政府の組織、大綱を決定し、昭和十二年十二月十四日北平に中華民国臨時政府の成立を見ることとなれり。』

華中の維新政府

  右の文書はさらに次のことを示している。『中支に於ける政府樹立運動』
  『日本軍上海附近に於いて支那軍を撃破し、昭和十二年十二月十三日南京を攻略するや、中支に於ける政権樹立運動開始せられ、先づ上海に十二月五日上海市大道政府の成立をみたり。上海以外に於いては治安維持会の成立をみたるが、主たるものは昭和十三年一月一日成立せる南京自治委員会及び杭州治安維持会なり、然るに上海方面に於いては蒋政権及び国民党の勢力は南京陥落の頃に於いても猶意外に強く、親日分子も共同租界内に於いてすら公然とは日本側に接近すること不可能の状態なりしものにして、北支に於ける如く有力なる新政権の樹立は永く困難の事情にありたり。』(E-718)
  一九三八年一月十六日の声明に続いて、同年一月二十二日に、総理大臣近衛と廣田とは議会で演説し、日本の政策を論じ、究極において東亜で新秩序を樹立するために、日本と緊密に協力する新しい中国の政権がやがて出現することを強調した。一九三八年一月二十七日に、近衛内閣は『中支新政権樹立方案』を決定した。言い換えれば、中国側の自発的な運動であつたという主張にもかかわらず、日本政府は『中支新政権樹立方案』の決定をあえてみずから行つたのである。日本外務省総務局の記録の中から取り出されたものとしてすでに言及した文書は、次のように、この運動を日本側がどの程度まで指導したかを示している。
『第一方針
一、高度の聯日政権を樹立せしめ、漸次欧米依存より脱却し日本に親倚する支那の一地域たる基礎を確立せしむ。
(E-719)
二、右政権の指導は其の発育に従ひ将来北支政権と円満相投合し得る如くし、大綱に関する邦人顧問の内面指導に止め、日系官吏等を配し行政の細部に亘る指導干渉を行はざることを方針とす。
三、蒋政権の潰滅を計ると共に、皇軍占領地帯に於て至短期間に排共滅党の実現を期し其の全勢力を速に隣接地域に拡大す。』
  この計画は、中国側の名目上の支配について定めていたが、行政と財政については、次のように指令していた。『速かに財政の基礎を確立し、金融機関を整備し、中支に於ける日支経済提携具顕を期す。その処理要領別冊要綱の如し。』軍備に対する指令は――『軍備は治安維持の為最少の兵力を整備し、日本軍の指導の下に速かに治安回復を図るを主旨とす。但し海空軍は挙げて日本の国防計画内に包含せしむ。』新政権は次のように育成されることになつていた。
『新政権は速かに之を樹立し、これが培養により、有形無形の圧力を以て反抗勢力の破摧を期す。
(E-720)
為之皇軍の駐防地に逐次発生する地方自治会を強化し、日本を背景とする新政権の確立を企図する空気を激成せしめ、又上海を中心とする地域に経済の更生を速かに実現し、以て新行政機構の確立を期す。
新政権樹立当初に於ける一般経費中相当額は日本側より援助す。
難民の救済、産業復興のため速かに応急対策を講じ特に農産出廻りを円滑にすると共に春耕の着手に不安なからしむ。
為之地方の治安維持は新政府機関の現地確立まで日本軍により可及的完成を期す。
新行政機構確立順位左の如し。
一、中央政府機構特に立法並びに行政部門
二、上海特別市政府機構
三、省政府機構
四、県以下自治機関の組織
  右――及び二と並行して上海特有の青幇紅幇(中国の秘密結社)等の勢力回収を企図し、新政権を直接間接に後援せしむ。
(E-721)
  地方行政区画は大概旧区画を尊重す。
  租界に於いては新政権の強化に従ひ漸次我が方の勢力を扶植す。既に陸海軍の掌握下にある旧政府機関等は新政権樹立後適時該政権に移管すると共に未解決事項を速かに処理せしむ。』
  戦争の初期に、新政権を樹立する運動がすでに始められていた。菅野を通じて、松井は新政権を組織するために中国のある高官連を説得しようと試みたが、成功しなかつた。後に中華の政権の首班となつた梁鴻志とその他の者が、日本陸海軍の特務機関の支援によつて、この件に携わるようになつたときに、新政権はさらにはつきりとした形をとり始めた。一九三八年三月二十八日に、維新政府が正式に樹立された。この政府は、華北の臨時政府とともに、後になつて、いわゆる新中央政府を組織するために、汪精衛からの招請を受諾した。
  このようにして、親日の、そして実に日本人によつて支配された、中国の『政府』の樹立に関する日本の計画が実現されたのである。

畑の麾下の日本部隊が侵入した他の諸都市

  畑は松井の後任として、一九三八年二月十四日に、中支派遣軍司令官に任命された。三日の後に、畑は西尾の後任として支那派遣軍総司令官となり、一九三八年十一月までその職に留つた。(E-722)
  畑の本来の任務は、上海、南京、杭州の三都市で結ばれる三角地帯を占領することであつた。後になつて、軍事行動を続けること、中国が和を講じなければ、さらに奥地に向けて戦闘地域を拡大するという目的が生じた。本庄と木戸が会談したときに、本庄は次のように述べたと木戸は記している。『徐州戦後は一面漢口に向ふの態勢を示すは必要なるも、同時に事変を解決すること緊要なり。若しこれが思ふ様に行かざれば、是非統帥部とも緊密なる連絡をとり、三年間位持ち堪ふる様に計画して持久戦に入るの必要ありと思ふ。』一九三八年五月十九日の日記に記してあるように、木戸は大体において本圧の意見に同意し、最善を尽すと約した。
  右の三角地帯を確保した上、畑は漢口に向つて前進した。この市は一九三八年十月二十五日に日本軍の手に落ちた。この作戦にあたつて、かれは華北から送られた三十万ないし四十万の兵力をもつていた。これらの部隊は、中国の奥地深く進入し、次に示す日に、次のような重要都市を占領した。
  一九三八年五月十九日に津浦線と隴海線の戦略的交叉点である徐州、一九三八年六月六日に、河南省の首都である開封、一九三八年六月二十七日に揚子江上の重要な要塞である馬■(土偏に當)、一九三八年七月二十五日に江西省の主要な商業都市である九江、一九三八年十月十二日に京漢線上の要衝である信陽、一九三八年十月二十五日に中国の中心に位する漢口。
(E-723)
  このように、廣大な地域にわたる重要都市が占領されたことから考えると、畑が訊問を受けたときに、中国で行われていたものは、日本政府が婉曲に『事変』と名づけたようなものではなく、むしろ戦争であつたということを認めたのも驚くに足りない。

国家総動員法

  長期戦を予期して、日本政府は国家総動員法を施行した。その草案は企画院によつてつくられ、内閣の承認を得た。一九三八年二月の議会にこれが提出されたときに、当時の陸軍軍務局局員であつた佐藤は、必要の説明を行い、この法案の通過を得るために、近衛首相を助けた。この法律は一九三八年五月五日に施行された。これは戦時『(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム)』に際して、『国防目的』の達成のために、国力を最も有効に利用するように、すべての人的と物的の資源を統制運用するように計画されていた。この法律は、すべての日本臣民を総動員することを許し、また、すべての日本臣民または法人もしくは他の団体に対して、国家または政府によつて指定されたその他の団体もしくは人と協力するように強制することを許した。

板垣陸軍大臣となる

  一九三八年六月三日に、板垣は陸軍の要望に従つて、近衛内閣が五月に改造された後に、その陸軍大臣に任命された。この直前に、板垣は関東軍参謀副長、次いで関東軍参謀長、中国で師団長、それから参謀本部附を歴任した。武藤は一九三八年七月に北支派遣軍参謀副長に任命された。(E-724)徐州会戦は、中国軍の主力と会戦し、これを撃破することによつて、中日戦争の運命を決定するものになることを日本は望んでいた。徐州の攻略の後も、中国政府が屈しなかつたので、日本の統帥部は、さらにもう一度中国側に打撃を加え、それによつて、中国に対する戦争を終らせるという希望のもとに、漢口へ進攻するという計画を進めた。板垣は戦争が長びくおそれのあることを認めて、日本国民の決意を強化することに努めた。一九三八年六月二十六日に、陸軍大臣に就任してから最初の新聞会見で、同盟通信社に対して、陸軍は戦闘をおそらく十年間にわたつて続ける準備をしなければならないと語つた。さらに、第三国の態度にはかかわりなく、恐怖したり逡巡したりすることなく、日本は独自の政策を遂行するであろうと述べた。一月十六日の日本政府の公式声明にかんがみて、正式の宣戦布告の必要はないと説明した。
  陸軍大臣板垣は五相会議に参加した。この会義の決定の中のあるものについては、やがて論ずることにする。

中国に対する政策と五相会議――一九三八年

  内閣とは別に、総理、外務、陸軍、海軍、大蔵各大臣の間で会議をするという慣行は、板垣が入閣したときには、すでに新しいものではなかつた。廣田内閣と林内閣のもとでも、この方法で協議が行われ、計画が立てられた。しかし、その間に、板垣が陸軍大臣になつてから、戦争が激しくなるにつれて生じた状況のために、この会議はいつそう重要となり、いつそう頻繁に開かれるようになつた。一九三八年の六月と十月の間に、五相会議は、板垣の参加のもとに、中国に対する政策に関して、最も重要な決定を相次いで行った。(E-725)これらの決定は、戦争の遂行を目的としていたばかりでなく、すでに設立されていた地方的な『傀儡』政府とは別に、中国全体のために、日本の支配下にある政府を、つまり『傀儡』政府を樹立することも目的としていた。たとえば、七月八日には、蒋介石政府が降伏した場合は、次のようにすると決定された。
  『支那現中央政府にして屈伏し来りたる場合に於いては、帝国はこれを一政権とし、「新興支那中央政権の傘下に合流せしむ」との御前会議決定方針に基き処理す。
  支那現中央政府にして屈服し、且つ後述第三の條件(本文書の第三項、屈伏條件)を受諾したる時は、之を友好一政権として認め、既成新興支那中央政権の傘下に合流せしめるか、又は既存の親日諸政権と協力して新に中央政権を樹立せしむ』
  中国の現中央政府屈服の認定條件は次のことを含んでいる。
  『蒋介石の下野』
  同じ日に、蒋介石大元帥が戦を続ける場合のために、択一的な二つの決定が行われた。
  一貫した方針としては、日本が支配する『中央』政府を育成し、拡大するということであつたことを注意しなければならない。日本がこのような政府をつくつたことは、すでに論じておいた。(E-726)
  一九三八年七月十五日に、五相会議は、再び中華民国の『新』中央政府に関して、次のように決定した。『支那新中央政府の樹立は主として支那側をして行はしむるも、帝国之を内面的に斡旋し、その政治形態は分治合作主義を採用す。
  成るべく速かに先づ臨時及維新両政府協力して聯合委員会を樹立し、次で蒙彊聯合委員会を之に聯合せしむ。爾後我方はこの政権を指導し、右諸政権は逐次諸勢力を吸収又は此等と協力して真の中央政府を集大成せしむ。』『新』中央政府の成長を指導したのは、中国人ではなく、『我方』すなわち日本人であつた。
  『漢口陥落し蒋政権が一地方政権に転落するか若くは蒋下野現中央政府改組の事態生起する迄新中央政府樹立せず。
  蒋政権に分裂、改組等を見、親日政権出現したる場合之を中央政府組織の一分子となし中央政府樹立に進む。
(E-727)
  支那新中央政府樹立工作に伴ふ日支関係の調整は左記に準拠す。その具体的事項は別に定む。』
  この『準拠』することとは、次のことを含んでいた。『互恵を基調とする日満支一般提携就中隣善友好、防共々同防衛、経済提携原則の設定。以上の目的を達成する為所要の期間帝国の内面指導を行ふ。』
  新中華民国政府の軍事的地位は、五相会議の次の決定の中で定められていた。
  『支那軍の投降を促進してこれを懐柔帰順せしむると共に其反蒋反共意識を暢達して新政府を支持し、成るべく多数の支那軍を以て抗日容共軍潰滅の為日本軍に協力せしむる如く努め以て民族的相剋を主義的対立に誘導す。
  『我占領地の海港及鉄道水路等交通の要衝並主要資源の所在地等必要の地点に所要の日本軍を駐屯し、僻陬地方には支那武装団体を組織して治安の確保に当らしむ。その兵力量は各地の実情に適合せしむる如く決定するものとす。
(E-728)
  『防共軍事同盟を締結して日本軍の指導下に漸次軍隊を改編し情勢之を許すに到れば国防上必要なる最少限度に截兵す。』
  経済事項に関する決定は、次のことを含んでいた。
  『経済及交通の開発は日満支三国々防の確立に資すると共に三国経済の発展並に民衆の厚生に遺憾なからしむ。特に所要の交通は帝国之を実質的に把握し北支に於いては国防上の要求を第一義とし中、南支に於いては一般民衆の利害を特に考慮するものとす。
  『経済は日満支有無相通の原則に従て開発し三国経済圏の完成に邁進す。但し第三国の既得権益を尊重し或は経済開発に参加せしむることを妨けざるものとす。
  『鉄道水運航空通信は実質的に帝国の勢力下に把握し軍事行動遂行に遺憾無からしむると共に民衆の厚生に寄与せしむ。』
  五相会議の政策決定からの、これらの引用は、日本によつて完全に支配されながらも、中国人の自治という名目に隠れて建設されたところの、中国における政府樹立の一般的方式を示したのである。

(E-729)
土肥原機関

  以上述べた線に沿つて、中国に新中央政府を樹立する計画を促進するために、五相会議は一九三八年七月二十六日に対支特別委員会を設けることに決定した。その決定の詳細は、次の通りであつた。
  『対支特別委員会は五相会議に属し、其決定に基き専ら重要なる対支謀略並新支那中央政府樹立に関する実行の機関とす。
  前項業務に関係ある現地各機関は該業務に関しては対支特別委員会の区処を受くるものとす。
  対支特別委員会と大本営との連絡は陸海軍大臣之に任ず』
  七月二十九日に、右の委員会は土肥原、津田及び坂西を中心に設置され、その任務は次のように定められた。『第一項の重要なる討支謀略とは政治及経済に関する謀略にして直接作戦に関係あるものを含まざる義と解す』。土肥原は委員のうちで最も年少者であつたが、唯一の現役軍人であつた。委員会の任務の執行にあたつたのはかれであつて、この目的のために、『土肥原機関』という名で、上海に一つの機関を設けた。土肥原は中国に関する広い知識と、中国人との親密な交際を活用することができた。右の方針に従つて、まず中国高官連の「陣営内」に反蒋政府を樹立する目的のために、引退した政治家唐紹儀及び呉佩孚将軍を引き出そうとし始めた。(E-730)呉佩孚は当時北平で隠退生活を送つていた。土肥原は呉佩孚を隠退から復帰させ、日本と積極的に協調させることをもくろんでいた。この計画は、『呉工作』と言われるようになつた。この工作の費用は、中国の占領地区の海関剰余金から出ることとなつた。
  唐紹儀は暗殺され、呉佩孚との交渉は失敗に終つたので、土肥原は他にその努力を転じた。中国における土肥原機関は、汪精衛を華中に連れて来る計画をつくり出すことを助けた。汪精衛が上海に来る手配などに関して、汪精衛の同志と行つた会合について、この機関は東京に報告した。土肥原は当時東京にいたと主張しているが、かれがこれらの計画を監督していたことは明らかである。

傀儡政権の『連合委員会』

  知名の中国人を通じて、中国に新しい中央政府を樹立する方針を実行するために、土肥原とその他の者が努力を続けていた間に、日本内地の日本軍当局は、右の政策を遂行する決意を表明した。当時陸軍省新聞班長であつた佐藤は、『支那事変』に関して、二回にわたつて演説を行い、政府の根本的態度は一九三八年一月十六日の政府声明に示されており、新政権を樹立する計画は絶体に変更できないと述べた。(E-731)一九三八年八月の二十七日と二十八日に、日本政府の代表者と天津の日本陸軍当局者は福岡で会合し、臨時政府と維新政府と蒙彊連合政権との間を調整するための基本計画を決定した。一九三八年九月九日に、五相会議によつて、中国におけるこれらの親日機関の『連合委員会』をつくる計画が採択された。日本でなされたこれらの決定の結果として、『新』 中央政府を発展させる事業は、大陸にいる日本人によつて行われた。一九三八年九月の九日と十日に、臨時政府と維新政府の代表者は、日本の代表者と大連で会合し、北平に『合同委員会』を設けることを取極めた。この会同の目的は、種々の傀儡政権、特に臨時政府と細新政府との間の調整と統一をはかり、将来の『新』中央政府の樹立の準備をすることであつた。一九三八年九月二十二日に、北平で成立式が行われ、その翌日に、この委員会は初会議を開いた。

広東と漢口の占領

  中国の特定の戦略的地点の占領を定めた一九三八年七月八日の五相会議の決定に基いて、日本軍は一九三八年十月二十日に広東を、一九三八年十月二十五日に漢口を攻略した。この二つの重要都市とそれに隣接する日本の占領地域との行政に関する措置は、いつもの周知のやり方で行われた。一九三八年十月二十八日に、広東地域と漢口地域の行政に関する取極めは、陸軍、海軍、外務の三大臣の間に協定された。(E-732)この取極めは、日本側による政務の監理と『治安維持会』の発達とを規定した。以上のような政権は、表面上は中国側の発意によつて樹立されることになつていたが、政治的指導は日本側が与えることになつていた。これらの政権は、対支特別委員会と緊密な連絡と協力を保つことになつていた。この委員会は、前に述べたように、土肥原の指導のもとに置かれていた特別な機関である。広東に関しては、次のような特別の訓令が陸軍、海軍、外務の三大臣から発せられた。
  『地方政権の樹立は支那側の発生に委す。但地方政権樹立の促進は我政務指導機関(陸海外広東連絡会議)協力の下に主として謀略機関(対支特別委員会)之に当り、成立後の地方政権の指導は政務指導機関之に当るものとす。』
  中国の戦略的地点を占領する方針は、広東と漢口の攻略だけに止まらず、それよりはるかに広い範囲に実行された。なぜならば、一九三八年十一月二十五日に、五相会議が中国の最南端にある海南島を攻略することを決定したからである。この島は、一九三九年二月十日に、日本側に占領された。

日本は国際連盟との一切の関係を絶つた

  日本は一九三三年三月に国際連盟脱退の通告をしたが、連盟のある種の活動には引続き参加していた。(E-733)漢口と広東が陥落してから、日本の第三国に対する態度は強硬になつた。一九三八年十一月二日に、平沼が主宰し、総理大臣と、荒木、木戸、板垣を含む国務大臣と、南及び松井の両枢密顧問官が出席した枢密院会議が開かれ、その会議で、連盟との協力を続ける問題が考慮された。外交と條約に関する事項は、枢密院の領域内に属するからである。国際連盟理事会が一九三八年九月三十日に日本を非難する決議を採択したという理由で、国家の名誉にかんがみ、日本は連盟の諸機関とこれ以上協力することはできないと考えられた。そこで、南洋委任統治に関する規定を除いては、日本と連盟の諸機関と協力関係を終止する計画がつくられ、右の会議において全員一致で可決された。この主旨の通告は、直ちに国際連盟に送付された。

東亜新秩序

  国際連盟から完全に脱退する決定をした後、日本は『東亜新秩序』と称する方向に進んだ。一九三八年十一月三日に、日本政府は内外に対して声明を発し、中国の主要都市である広東、武昌、漢口及び漢陽の陥落によつて、国民政府は一地方政権となり、日本の究極的目的は、満洲国と中国との提携によつて、東亜永遠の平和を確保する新秩序を確立することであると述べた。
(E-734)
  一九三八年十一月二十九日に、外務大臣有田は枢密院に対して報告をした。そのうちで、比較的に重要な箇所は、次のようである。
  『日支新関係調整の方針と致しましては、日満支三国の政治、経済、文化の各般に亘る互助連環による東亜に於ける新秩序の建設を目的と致しまして、大体次の様な要領に準拠して行きたい所存でございます。即ち・・・・蒋介石政権との和平に付ては・・・・之を行はざる方針でございます。・・・・帝国としては漢口、広東に樹立せられたる親日諸政権を基礎と致しまして、新中央政権の成立を見るやう助長致しまして、其の基礎確立するを待つて之との間に大体左の如き⦅諸項⦆を実現致したい所存でございます。・・・・日満支一般提携・・・・北支及び蒙彊に於ける国防上並経済上日支強度結合地帯の設定・・・・揚子江下流地域に於ける経済上日支強度結合地帯の設定・・・・南支方面に於ては沿岸特定島嶼に特殊地位の設定を図る外重要都市を起点に日支強力提携の素地を確保するに努むること・・・・共同防衛の原則・・・・に関しましては、日満支三国は共同して防共に当ると共に、共通の治安安寧の維持に関し協力することを主眼と致しまして以下の計画を規定致したいと存じます(E-735)・・・・保障及共通の治安維持の為にする特定地帯、地点、島嶼等の駐兵を除く外日本軍隊の早期撤収・・・・最近に於きましても英米等より所謂門戸開放、機会均等主義に基き種々申入れの次第もあつたのでございますが、帝国政府と致しましては所謂門戸開放、機会均等の原則は帝国の生存上の必要、国防上の必要に基く日満支経済「ブロツク」確立の見地より之を検討し、右と相容れざる限度に於ては之を容認すべき限りに非ずとの方針を以て対処して参りたい所存でありまして・・・・帝国の主なる目的は(イ)主として北支及び蒙彊に於ける国防資源の開発は帝国が之を実質的に支配すること、(口)新支那の幣制、関税及び海関制度に付ては日満支経済「ブロツク」の見地より之を調整することの二点を大眼目と致しまして右に抵触せざる限りは殊更に列国の在支権益を排除制限せず。』
  総理大臣近衛は、一九三八年十二月二十二日に、さらに演説をして、中国国民政府を覆滅し、東亜新秩序を確立する日本の決意を繰返して述べた。
  この日本の『東亜新秩序』は、合衆国に重大な関心を引を起した。一九三八年十二月三十日に、グルー大使は、本国政府の訓令に基いて、日本政府に対して通牒を出した。(E-736)その中で、かれは次のように述ベた。『更に為替管理、強制通貨流通、関税改正及び支那の或る地域に於ける独占事業の計画等の如き事柄に関し、日本当局の計画並実施は日本政府、或は日本の武装せる軍隊に依り支那に創設、支持せられる政権が支那で主権の権限に由来するが如き権能を持つて行動し、又更にその様に行動することに依つて合衆国を含めたる諸外国の既得権益を無視し剰さえ其不存在或は廃棄を宣言したりする資格を有するが如きこれ等当局側の越権を意味せり。』グルー大使は、一九三八年十二月三十一日に、日本政府に対して、再び通牒を手交し、アメリ力政府の見解では、いわゆる『新秩序』は、日本の一方的宣言によつて、建設され得るものではないと通告した。
  一九三九年三月十七日の『ジヤパン・アドヴアタイザー』紙によつて、いわゆる新秩序を建設するためには、第三国との衝突は避けることができないと、板垣が議会で明言したと報道された。日本の最初の目標はロシアであり、その次の目標はイギリスとフランスであつた。
  一九三九年七月七日に、蘆溝橋(マルコ・ポーロ橋)事件第二周年の記念日にあたつて、板垣は新聞記者と会見したが、そのうちで、日本の東亜新秩序建設の使命を遂行するにあたつては、第三国の不当な干渉を排除することが必要となるであろうとかれは述べたと報道された。

(E-737)
興亜院

  日本軍が中国の奥地深く進入してから、日本側は新中央政府の結成の準備として、それまで日本陸軍の特務機関によつて行われていた占領地行政を再検討する手段を講じた。宇垣外相は外務省の中に支那事変を取扱う新しい機関を設けることを希望したが、この提案は陸軍に反対された。その後、陸軍の要求によつて、興亜院または何かこれに似た機関を計画することが決定された。設立されることになつていた新しい機関は、一九三八年七月二十六日の五相会議によつて設けられた対支特別委員会とは別のものであつた。この後者は中国国民政府を潰滅させ、親中央政府を樹立する手段に関する機関であつて、設立されることになつていた興亜院は、主として占領地行政に関する事項を管掌することになつていた。
  一九三八年十二月十六日に、この新しい機関は、「興亜院」という名称で設けられた。その総裁は首相であり、副総裁は外務、大蔵、陸軍、海軍の各大臣であつた。その官制によれば、興亜院は次を事項を担当した。すなわち、政治、経済、文化及びそれらに関係する政策を立案すること、特別の法律のもとに中国で企業を起し、あるいは商業を営む商社を監督すること、日本政府の諸機関によつて行われていた中国の行政を調整することであつた。
(E-738)
  その本部は東京にあり、上海、北平、張家口、厦門に四つの連絡部、また広東、青島に二つの出張所があつた。鈴木貞一は興亜院の創立者の一人であり、その政務部長であつた。東京の本部でなされた決定は、支部または『連絡』部に伝達されたが、これらの支部や連絡部は、東京の決定を実施する方法を講ずるにあたつて、現地の中国人官憲と交渉した。
興亜院が設置されたにもかかわらず、中国における日本陸軍は、行政に関する事項を自分の手から放さなかつた。特務機関は引続き存在し、陸軍の干渉は作戦上必要であるとして弁護された。
興亜院の管掌した種々の事項の中に阿片があつた。興亜院は中国の各地方における阿片の需要の状態を研究し、蒙古から華北、華中及び華南への阿片の配給を取計らつた。中国における日本の麻薬政策は、他の箇所で論じてある。

汪精衛が重慶を去つた

  中国で『新』中央政府を樹立する運動は、一九三八年十二月十八日に、汪精衛が中国の戦時の首都重慶を去るに至つて、さらに力づけられた。かれは国民党の副委員長であり、国防会議の副議長であつた。早くも一九三八年の春に、元中国外交部の官吏であつた高宗武と董道寧とは、参謀本部支那課長影佐とに連絡をつけられ、陸軍機によつて日本に連れていかれた。(E-739)日本で、影佐は中国と日本との間の平和の回復についてかれらと話し合つた。両国の間の平和を促進するためには、蒋介石大元帥以外のだれかを求めなければならないこと、それには汪精衛が適任者であろうということが提案された。この会談の内容は参謀本部に報告され、参謀本部はこれを討議した。一九三八年の秋に、参謀本部の一将校が、上海から高宗武と梅思平の起草した『日支和平條件試案』を携えて、東京に帰つてきた。板垣はこの『試案』を五相会議に提出した。日本政府によつてすでに起案されていた『日支関係調整方針』に基いて、この試案に修正が加えられた。一九三八年十一月十八日に、板垣の命令に従つて、高宗武及び梅思平と会談するために、影佐は上海に赴いた。提案された條件に数個の修正が加えられた後に、汪精衛はかねての計画に基いて重慶を去ること、それに伴つて、日本政府は提案された和平條件を発表することが取極められた。これらの取極めは、一九三八年十一月二十五日に五相会議によつて、また一九三八年十一月三十日に御前会議によつて、それぞれ承認された。以上に述べたように、一九三八年十二月十八日に、汪精衛は重慶を去つた。かれは一九三八年十二月二十日に、仏印ハノイに到着した。汪精衛が重慶を去る予定の期日は、木戸が十二月十二日その日記に記載しているように、少くとも六日以前に日本政府に知られていたということに、ここで注意しなければならない。(E-740)その日記には、『汪兆銘(汪精衛)は十八日には重慶を脱出すとの情報もある今日なれば今日我国の政情に不安ある如き態勢を表はすは不可なり』と記されているのである。

近衛の三原則

  一九三八年十二月二十二日に、汪精衛が重慶を『脱出』した後に、総理大臣近衛は、かねて計画されていた通りに、声明を発表した。この声明の主要な点は、次の通りである。(1)日本、満洲及び中国は、東亜新秩序の建設を共同の目的として結合し、これを実現するために、中国は日本に対する反抗と、満洲国に対する敵意とを捨てること。(2)日本、ドイツ、イタリアの防共協定の精神に則つて、両国の間に防共協定を締結することが、日本と中国との国交を調整するために、緊急の要件であると日本は考えていること。中国に存在する実情にかんがみて、特定地点に日本軍を駐屯させなければならないこと。内蒙は特殊防共地域としなければならないこと。(3)中国において、日本は経済的独占または第三国の利益を制限することを希望するものではないが、日本と中国との平等の原則に立つて、中国が日本国民に中国の内地における居住と営業の自由を認めること、両国の経済的利益を促進すること、特に華北と内蒙では、その資源の開発について、日本に便宜を与えることを日本は中国に要求することであつた。
  計画通りに汪精衛は、一九三八年十二月二十九日にハノイで演説した。その中で、日本政府は中国の主権、政治的独立及び領土保全を尊重すること、中国における経済的独占を目的とするものでも、中国における第三国の利益の制限を要求するのでもないことを厳粛に声明をしたのであるから、近衛声明に述べられている三点は、平和の精神と一致するものであると汪は宣言した。(E-741)中国政府は、両国の間に速やかに平和を回復するために、なるべく早く、意見の交換を行わなければならないとかれは主張した。このようにして、日本によつて汪のもとに樹立されることになつていた『新』政府が日本の和平條件を承認するための地ならしができた。この方法によつて、中国との、困難で厄介な戦争を終らせることができ、日本はその戦略的計画を他の方面で自由に遂行することができるというのであつた。それと同時に、自己満足にふけつて平然としている政府が日本によつてつくられ、日本に対して、中国の完全な軍事的と経済的の支配を与えようというのであつた。

平沼の組閣

  一九三八年の末に、総理大臣近衛は辞職しようと考えた。平沼はこれに反対した。かれが木戸に述ベたように、汪精衛が重慶を去り、計画が着々と進んでいるからというのである。しかし、近衛は依然として辞職を固執した。そして、一九三九年一月五日に、平沼がその後継者となつた。荒木は文部大臣として留任し、木戸は内務大臣の地位を受諾し、板垣は陸軍大臣として留つた。
  留任に同意する前に、板垣は陸軍のために七つの條件を明示した。すなわち、(1)『支那事変』に関しては、『聖戦』の目的は既定の政策に従つて達成すること。(E-742)特に中国との関係を調整する基礎を含でいる一九三八年十二月二十二日の声明は、全面的に採用すること。(2)東亜の新事態に対応するために国防計画を確立し、軍備の拡張を目的とすること。(3)日本・ドイツ・イタリアの関係を強化すること。(4)国民総動員組織を強化し、企画院を拡大強化すること。(5)生産の増強のために、全面的な努力を傾注すること。(6)国民の士気を鼓舞すること。(7)貿易を増進すること。
  これらの要求の最初の結果として現われたものは、企画院の起案した『生産力拡充案』を一九三九年一月に閣議が採択したことである。これは、『我国運の将来に於ける飛躍的発展』の準備として、一九四一年までに国防と基礎産業を改善する目的で、日本、満洲国及び中国を通じて、生産力の総合的拡充計画を確立することを規定していた。一九三九年一月二十一日に、総理大臣平沼は議会で演説し、中日事変に関しては、かれの内閣は前の内閣と同じ不動の政策を受け継ぐこと、認識を欠いて、抗日をあえて続ける者に対しては、断固としてこれを潰滅するほかに途がないことを述べた。その間に、日本は中国に於ける軍事行動を続けていた。すでに述べたように、海南島は一九三九年二月十日に、江西省の首都南昌は一九三九年三月二十六日に、それぞれ占領された。

(E-743)
汪精衛上海へ

  一九三八年十二月二十二日の近衛声明と、同じく二十九日の汪精衛声明とは、中国に新しい中央政府を樹立する前触れにすぎなかつた。一九三九年三月に、日本の五相会議は、上海を『安全地帯』と認め、汪をここに移すために、影佐をハノイに派遣することを決定した。影佐は汪にあてた外務大臣有田、陸軍大臣板垣、興亜院部長鈴木及び海軍大臣米内の私信を携えて、一九三九年四月十七日にハノイに到着した。汪は影佐に上海を本拠として和平運動を起すと述べた。日本側によつて、汪は極秘のうちにハノイから上海に移され、一九三九年五月八日に同地に到着した。

汪精衛の日本訪問

  汪は、反対のあることが予想されるので、諸工作のために便利な所に速かに据えてもらいたいと希望した。そのことを、汪とともに上海に行く途中で、台湾にいるときに、影佐は東京の陸軍省に報告した。その後、影佐は実際に汪のために上海に本部を設置した。日本の憲兵隊と汪の手下との活動を調整するために、影佐機関というものもつくられた。
  汪は日本政府の見解を確かめることに関心をもつていた。影佐とその他の日本人に同伴されて、かれは上海を一九三九年五月三十一日に出発して東京へ向つた。東京にいる間に、かれは平沼、板垣、近衛、有田及び米内と懇談した。東京に到着して間もなく行つた平沼との会談で、平沼は自分の内閣が近衛声明を精神を継承し、巌にこれに従つていると汪に述べた。(E-744)一九三九年六月十五日に、総理大臣平沼の代理としての陸軍大臣板垣と汪は会見した。日本は臨時政府と維新政府との、二つの既成政府を解消することはできないこと、その理由は、これに関係していた人々が日本と中国との和平提携の方針に忠実であつたからであることを板垣は述べた。現地における日本と中国との関係を維持する基礎として、臨時政府には政治委員会、維新政府には経済委員会をそれぞれ設置することをかれは提案した。汪はこれに反対しなかつた。板垣は、さらに、青天白日旗は抗日の象徴と見られているから、中国の国旗をかえることを提案した。満洲国の独立を承認することについて、板垣はまた汪の意見を聴いた。これに対して、自分の目的は日本との和平であるから、満洲国を承認するほかに途はないと確信すると汪は答えた。

一九三九年六月の五相会議の決定

  一九三九年六月十日の汪精衛との会談で、平沼は中国の将来について懇談し、自分の意見として、『中国に於て最も適当と思う方策に出られる』ほかに方法はないと述べたと言つている。それにもかかわらず、その四日前に、すなわち一九三九年六月六日に、汪精衛がまだ日本に滞在していたとき、五相会議は『新中央政府樹立方針』を決定した。この方針は、大体において、『新』中央政府と構成員たる地方政府の一団とをもつて、いわば連邦政府の形で、一つの親日政治機構を確立することを目的としていた。(E-745)『但し其の内容に関しては、日支新関係調整方針に準拠』することとなつていた。重慶政府に関しては、『翻意改替すれば』構成分子になることができると右の方針は規定した。いつそう詳しく言えば、『重慶政府が抗日容共政策を放棄し、且つ所要の人的改替を行ふ』ならば、『之を屈伏と認め、新中央政府構成の一分子たらしむ』と規定したのである。また、『之が樹立時期並びに其の内容等は、日本側と協議の上之を定むるのもとす』と規定した。『本工作に関しては日本側として必要の積極的内面支援を与ふるものとす』という決定もなされた。このように方針が定められたのは、当時汪との間に討議が行われていたからであつて、かれに対して要求しなければならない一連の條件と同時に、『汪工作指導要綱』を規定していた。この方針の決定を考察すれば、中国の全土にわたつて日本の支配する政府を発展させるために、汪を利用したという明白な目的が示される。これこそ事実である。もつとも、影佐は、その証言において、汪精衛一派は、中国の主権を尊重すること、内政に干渉しないこと、中国の要請がなければ、日本人顧問をつけないことなどの、広汎な原則を含む要求を提出したといい、中国側のこれらの提案は『概ね認められました』と言つた。

(E-746)
日本内閣の更迭と中国における軍事行動の継続

 一九三九年八月の末から一九四〇年一月中ごろまでの四カ月半の間に、日本では内閣の更迭が二回あつた。一九三九年八月二十二日の独ソ不可侵條約締結の結果として、ドイツ、及びイタリアとの三国同盟を結ぼうとして努力していた平沼内閣は辞表を提出した。一九三九年八月三十日に、阿部大将が新しい内閣を組織した。畑が板垣の後を継いで陸軍大臣となり、武藤が軍務局長となつた。一九三九年九月十二日に、板垣は当時南京にあつた支那派遣軍総司令部の総参謀長に任じられた。かれは同地で汪精衛の『救国和平運動』を支持して陰謀を続けた。中国における日本軍の軍事行動は、中国の奥地にまで続いた。一九三九年七月二十日に、中支那派遣軍は『情勢判断』を行い、これを陸軍次官とその他の機関に提出した。他のいろいろなことと共に、これは中国にある日本軍の将来の計画を述べたものである。これには汪精衛を主班として新しい中央政府を樹立すること、またその発達に積極的援助を与えることに同軍が決定した旨を述べてあつた。
 一九三九年十二月二十三日に、日本軍は中国の最も南の地域にある龍州に上陸し、翌日には広西省の首都南寧を攻略した。一九三九年末には、日本は空軍に出動を命じ、仏印の諸港から中国奥地への軍用資材の輸送を妨害する目的で、雲南鉄道を爆撃させた。一九四〇年一月に、日本に再び政変があつた。総理大臣阿部は一九四〇年一月十二日辞職し、米内によつて引継がれた。しかし、日本の中国に対する一般政策は変らなかつた。
(E-747)

傀儡中央政府の成立

  汪精衛は日本から帰つた後、提案中の傀儡中央政府の樹立に関して、北支派遣軍司令官多田中将と会見し、また臨時政府及び維新政府の首脳部と会見した。そのころに、すなわち一九三九年七月までに影佐は上海に影佐機関を設立していた。この期間は、興亜院と協力するとともに、陸海軍及び外務省とも協力した。この機関が中央政府の樹立を助けた。この目的のために、日本から汪精衛に四千万円の借款が与えられた。一九三九年八月二十八日から九月六日まで、汪精衛は『六全会』を開いた。この大会は国民党の政綱を修正し、日本の提案を『原則』として採用し、新中央政府を樹立するための中央政治会議に関して討議した。その後に、新政府樹立のために、中央政治会議の組織に参加するように、汪は臨時政府と、維新政府に招請を発した。
  影佐によれば、日本では、興亜院が十月につくつた試案を実現する手段が講じられていた。これについては、一九三九年十二月三十日に、日本政府と汪精衛との間に意見が一致した。新政府の樹立に関する細目も、東京で汪の代表者と日本の官吏との間で同意された。それから、一九四〇年一月には、日本陸軍と臨時政府及び維新政府の代表者とが青島に会合して、既成政権を合同することを決定した。一九四〇年三月三十日に、汪の政府が正式に成立した。

(E-748)
第六節
大東亜共栄圏

  日本の大陸における中国支配の計画と密接な関係をもつものに、大東亜共栄圏の建設という思想があつた。これは日本を第三国の利益と衝突させるようになるにきまつていると認められていた。蘆溝橋(マルコ ポーロ橋)における戦闘行為の開始から二年を経た一九三九年七月七日に、平沼内閣の陸軍大臣であつた板垣と海軍大臣であつた米内とは、日本の東亜新秩序建設の使命達成に対する第三国の不当な干渉は排除しなければならないと述べたということが、ジヤパン・タイムズ・アンド・メイルに報道された。この記事は、さらに、『日本は東亜を東亜民族のものとしようとする目的を決して棄てないとの固い決意を、国民全部が示さなければならない。目的の達成のためには、どんな苦難にも堪えなくてはならない』と述べている。一九四〇年六月二十九日に、当時の外務大臣有田は放送演説を行い、日本の東亜新秩序建設の使命と、『援蒋行為の根絶を期し、あらゆる手段を尽す』という決意とを繰返した。東亜の諸国と南洋の各地は互いに密接な関係をもち、その共同の福祉と繁栄のために、協力して相互の必要を補う運命にあること、また共同の生存と安定の基礎に立つて、単一の圏の下に、すべてこれらの地域を統一することは当然の結論であることをかれは述べた。(E-749)陸海軍と外務省当局の代表者の会議では、イギリス国と戦い、イギリス植民地を占領する可能性に言及され、日本の考えとしては、極東の新秩序に、南洋を含むこと、特に、ビルマとインドの東部からオーストラリアと、ニユージーランドまで延びる諸地域を含むことに言及された。
  日本が東亜と太平洋地域に進出しようとする政策をこのように公表した日、すなわち一九四〇年六月二十九日は、深い意義のある日である。この地域に関係のあつた諸国のうちで、オランダはすでにドイツ軍に蹂躙され、その政府は亡命中であつた。フランスはドイツに降伏していた。イギリスはまさにその生死を決する苦闘に直面しようとするところであつた。もしアメリカが干渉するとなれば、日本、ドイツ、イタリアとの戦に直面することになるのはほとんど必然的であつたが、この戦を行うには、アメリカの再軍備の状態は充分でなかつた。日本が隣邦諸国を犠牲として進出するこのような好機会は、容易に再び訪れそうもなかつた。

第二次近衛内閣

  一九四〇年七月の中旬には、畑が陸軍大臣を辞し陸軍が後任を送ることを拒んだために、米内内閣は陸軍によつて辞職を余儀なくされた。木戸の言つたように、近衛は『日支事変の解決を期待されていた人物で』あるという理由で、再び選ばれて新内閣を組織することになつた。東條が陸軍大臣となり、平沼、鈴木、星野が無任所大臣となつた。新内閣は一九四〇年七月二十二日に組織された。新外務大臣松岡は、大東亜共栄圏建設政策を継いで、一九四〇年八月一日に、日本外交政策の当面の目的は、日本・満洲国・中国を核心として、大東亜共栄の連鎖を確立するにあると声明した。(E-750)一九四〇年九月二十八日に、日本政府は『日本外交方針要綱』をつくつた。それによれば、日本と中国との全面和平を実現し、大東亜共栄圏建設の促進に努力しなければならないことが述べてある。その計画によれば、仏印、オランダ領東インド、海峡植民地、イギリス領マレイ、タイ国、フイリツピン、イギリス領ボルネオ及びビルマを含む地域において、日本・満洲国・中国を中心として、日本は一つの圏を組織し、これらの諸国と諸地域の政治、経済及び文化を結合するということになつていた。

中国に対する日本のその後の軍事行動

  汪精衛の政府は、一九四〇年三月三十日に、南京において正式に発足したが、日本に対する重慶の中国国民政府の抗戦は、依然として続けられた。中国政府の降伏を目的とした日本軍の軍事行動は、ますます力を入れて続けられた。一九四〇年六月十二日に、日本軍は重慶の存在する四川省の玄関、宜昌を攻略した。一九四〇年六月三十日には、中国側が奪還していた開封を再び占領した。その上に、日本政府は、中国軍の補給線を断ち、後方からかれらを脅かすために、仏印に軍隊を派遣することを主張した。一九四〇年九月十四日に、木戸はこの目的でとられた行動を是認することを天皇に進言した。中国に対する作戦のために、一九四〇年九月二十三日から、日本軍を北部仏印に進駐させる協定が、日本とフランス当局との間で結ばれた。この協定は長い交渉の後に結ばれたもので、これについては後に論ずることとする。

(E-751)
日本、汪精衛政府との條約に調印

  新政府の設立にあたつて、日本特命全権大使に任ぜられたのは専門の外交官ではなく、軍人である陸軍大将阿部信行であつた。この方式は、そのころ、満洲国において、関東軍司令官であつた軍人が、満洲国傀儡政府に対する日本大使に任じられていた型に従つたものであつた。阿部大将は一九四〇年四月二十三日に南京に到着した。そして、中国と日本の関係を回復する一切の準備は完成した。汪と阿部との間に長い交渉があつてから、一九四〇年八月二十八日に、條約草案について意見が一致し、それから三日後に略式の署名をした。その後、さらに交渉があつて、いくらかの変更が加えられた後に、最後的形式の條約が確定した。一九四〇年十一月十三日の御前会議を経て、この條約は枢密院に廻され、一九四〇年十一月二十七日の本会議で可決された。この條約は、一九四〇年十一月三十日に、南京で正式に調印された。

日華基本條約

  一九四〇年十一月三十日に調印された條約と関係文書は、一見したところ、相互に尊敬を維持することと、東亜に新秩序を建設するという共同の理想のもとに、善隣として相提携することを目的とし、またこれを核心として、世界全般の平和に貢献しようとするものであつた。この條約によれば、両国政府は両国の間の修交に有害な原因を除去し、共産主義に対する共同防衛に当ることを約し、その目的のために、日本は蒙彊と華北の特定地域に必要な軍隊を駐屯させることになつていた。(E-752)汪政府は中国の特定地域に海軍部隊と艦船を駐留させる日本の権利を認めた。さらに、華北と蒙彊の資源、なかんずく国防上に必要な資源に関して有無相通ずるように、両政府は緊密に協力し、相互の必要を補うものとするとこの條約は定めていた。なお、他の地域の資源を開発するために、日本に積極的な、また充分な便宜を与えることに汪政府は同意した。通商を促進し、揚子江下流地域の通商貿易の促進に特に緊密に協力することに両国政府は同意した。この條約には、二つの附属の秘密協定があつた。第一の秘密協定では、外交は一致した行動を基調とし、第三国に関しては、この原則に反する措置は一切とらないということが同意された。その上に、日本軍隊が駐屯する地域の鉄道、空路、通信、水路に関する日本の要求に応ずることに汪政府は同意した。平時における中国の行政権と執行権は、尊重されることになつていた。第二の秘密協定は、日本艦船を『中華民国の領域内における港湾水域に自由に出入碇泊せしめる』ものであつた。汪政府は厦門、海南島及び隣接諸島における特殊資源の、なかんずく国防上必要な軍需資源の企画、開発、生産に関して緊密に協力し、また日本の戦略的要求に便宜を与えることに同意した。(E-753)汪は阿部にあてた別の書簡で、日本が中国で軍事行動を続けている間、中国は日本の戦争目的が完全に達成されるように協力することを約束した。この條約が正式に調印されたと同じ日に、『日満華共同宣言』が発表された。この宣言は、この三国が互いにその主権と領土を尊重し、善隣としての一般提携、共同防共、経済提携を行うことを定めていた。この條約と附属秘密協定によつて、日本は中国の外交活動について発言し、中国内に陸海軍兵力を維持し、中国を戦略上の目的に使用し、中国の天然資源を『国防』に利用する権利を確保した。換言すれば、これらの文書に現われている外交辞令にもかかわらず、中国はせいぜい日本の一地方または一州となるか、惡くすれば、日本の軍事上と経済上の必要を満足させるために搾取される国となることになつていた。

和平交渉の断続と軍事行動の継続

  この條約の締結は、中央政府の樹立、軍事上またはその他の利益の獲得とに関する限りでは、一九三八年一月十六日の近衛声明に述べられた政策の実現されたものとして、日本政府が充分の満足感をもつて見てよいものであつた。同時に、抗戦を続けていた重慶にある中国国民政府をどう処理するかという問題は、未解決のままであつた。この時期における日本政府の態度は正路を外れたような、ぐらぐらしたようなものであつた。(E-754)條約締結以前には、和平工作は重慶の中国政府を対象として行われていたが、これという結果をもたらさなかつた。外務大臣松岡は、これらの交渉を自分自身の手で行おうとして、田尻、松本、その他を香港に派遣した。これらの努力も再び水泡に帰した。汪との條約締結の後は、重慶の中国政府に対する日本政府の態度は再び硬化した。一九四〇年十二月十一日に、阿部は次のような訓令を受けた。『今般帝国政府は(在南京)国民政府を承認し、之と正式外交関係に入りたる次第なる処、事変は尚継続中なるのみならず、我方としては愈々長期戦の態勢を取らんとする情勢に鑑み、貴官は帝国既定の方針並に日支新條約の規定に則り、速に(在南京)国民政府の育成強化を図らるべし。』その後も、重慶に対する軍事行動は続けられた。一九四一年三月一日に、畑は再び支那派遣軍総司令官に任命された。佐藤は一九四一年三月十八日に対満事務局事務官となり、木村は一九四一年四月十日に陸軍次官となつた。総理大臣近衛、木戸、陸海軍大臣の間に意見の一致があつてから、鈴木は企画院総裁となつた。一九四一年四月二十一日には、重慶の後方にあつて戦略上の要衝であつたところの雲南省の首都昆明が爆撃され、同地のアメリカ領事館の建物が大きな損害を受けた。(E-755)かねてから、日本軍の空襲のために、損害を蒙つていた重慶は、一九四一年五月九日、十日及び六月一日に、またもや爆撃された。

中国に関するハル・野村会談

  この間に、世界平和に影響のある問題、特に中日関係について、野村大使はワシントンでアメリカ国務長官コーデル・ハルと交渉を行つていた。これについては、後にさらに詳しく論ずることにする。ここでは、日本が次のことを求めたということを言つておけば充分である。(一)中国に対するアメリカの援助を停止すること、(二)アメリカの助力によつて蒋介石大元帥を動し、日本と直接和平交渉を行わせること――実は蒋に日本の條件を受諾させること、(三)満洲国の承認、(四)中国に日本軍を駐屯させることによつて、中国を軍事的隷属の地位に置く権利である。
  一九四一年七月二日に、東條、鈴木、平沼、岡の出席した御前会議が再び開かれた。この会議で、情勢の推移に伴う日本の国策要綱が可決された。これには、他のいろいろなことと共に、『蒋政権の屈服を促進するために』、さらに圧力を加えるという決議が含まれていた。

第三次近衛内閣

  外務大臣松岡は、日米交渉の運び方について、総理大臣近衛との間に完全に意見の一致がなかつた。東亜と太平洋に進出するとともに、すでにドイツの侵入を受けていたソビエツト連邦を日本が攻撃することにも、松岡は賛成していたが、この政策は、日本の大多数の指導者が日本の力では無理だと認めたものであつた。この内閣は、松岡を除く手段として、一九四一年七月十六日に辞職した。
(E-756)
  一九四一年七月十八日に、近衛はその第三次内閣を組織した。外務大臣としては、豊田が松岡に代つた。日本政府の根本政策は変らなかつた。
  合衆国と日本との間の交渉は続けられた。一九四一年八月二十七日に、近衛はローズヴエルト大統領にメツセージを送つた。同日附の日本政府のステートメントも、ローズヴエルト大統領に手交された。このステートメントは、他のいろいろなことと共に、日本の仏印における行動は、『支那事変』の解決を促進しようとする意図に出でたものであると述べていた。ローズヴエルト大統領はこれに答えて、国際関係において当然に基礎としなければならない原則を、すなわち、あらゆる国の領土保全と主権の尊重と、他国の国内問題に干渉しないという主義とを繰返して述べた。この回答を受取つて、近衛は一九四一年九月五日に閣議を開き、その席で、一九四一年九月六日に御前会議を開くことにした。東條、鈴木、武藤及び岡が全部出席したこの御前会議では、十月中旬に交渉を打切るという決定を行つたほかに、提案中の近衛・ローズヴエルト会見において、『日支事変』に関して、次の要求事項を提出することも定めた。(一)アメリカとイギリスは『日華基本條約』と日満華共同宣言に従つて行われる『日支事変』の処理を妨害しないこと、(二)ビルマ公路を閉鎖し、アメリカとイギリスは蒋介石大元帥に対して軍事的援助も経済的援助も与えないこと。(E-757)一九四一年九月二十二日に、豊田はグルー大使に、日本が中国に対して提出しようと考えていた和平條件を記述した文書を手交した。その條件は次の通りであつた。(一)善隣友好、(二)主権及び領土保全の尊重、(三)日華共同防衛、そのために中国の一定地域に日本国軍隊を駐屯させること、(四)第三点によるものを除いて、日本軍隊は事変解決に伴つて撤退すること、(五)日本と中国の経済提携、(六)蒋介石政府と汪精衛政府との合流、(七)無併合、(八)無賠償、(九)満洲国承認。これらの條件は、体裁のよい目的をもち、汪政府との條約を考慮しているが、それにもかかわらず、実際に中国の完全な政治的、経済的、軍事的支配を日本に与えることになるものであつたということがわかるであろう。
  一九四一年十月九日、総理大臣近衛と情勢を論じたときに、木戸は、アメリカといま直ちに戦争を行うことは得策であるまいが、十年か十五年の間続くかもしれない『日支事変』を完遂するための軍事行動の準備を日本は行い、昆明と重慶に対する計画を実現するために、中国にある日本の全兵力を使用する準備をしなければならないといつた。(E-756)一九四一年十月十二日に、内閣は、陸軍大臣東條の主張によつて、日本は中国における駐兵の方針または中国に関係のある他の政策について動揺してはならないこと、また日華事変の成果を害するようなことは、一切行わないということに意見の一致を見た。言い換えれば、どんな場合でも、日本は中国ですでに獲得しているか、あるいは獲得の見込のある多くの物質的利益を、一つでも放棄してはならないということであつた。一九四一年十月十四日に、閣議に先だつて近衛は東條と会談し、日米開戦と日華事変の終結とについて再考するようにと要望した。東條は依然として中国からの撤兵について、アメリカに少しでも譲歩することに反対し、近衛の態度はあまりにも悲観的だと言つた。その日に行われた閣議で、東條はその見解を固執し、完全な行詰りを引き起した。一九四一年十月十六日に、近衛は辞職した。

東條内閣の成立

  近衛の辞職した後に、木戸の推薦によつて、東條が総理大臣となつた。この推薦には、廣田も明確な承認を与えた。この新しい内閣では、東條はまた陸軍大臣でもあり、内務大臣でもあつた。東郷が外務大臣兼拓務大臣となり、賀屋が大蔵大臣となつた。鈴木は興亜院総務長官兼企画院総裁であつた。嶋田が海軍大臣となり、星野が内閣書記官長に任命された。以前と同じく、総理大臣が興亜院総裁で、陸軍、海軍、外務、大蔵の各大臣を副総裁としていた。

(E-759)
日米会談の継続

  日本政府は、新しい東條内閣が成立した後も、合衆国政府との外交交渉を続けた。しかし、一方では、決定を急ぐようにも見えながら、他方では、中国に関して、その態度を少しでも真に改めようとする意思を示さなかつた。十一月四日に、東郷は野村に対して、かれの会談を援助させるために、栗栖が派遣されることを通知した。その日に、東郷は野村に、もう一つの通信を送り、合衆国政府に提出すべき條件を示した。その中には、日本軍の中国駐屯に関する條件が含まれていた。日本の依然として固執した点は、日本と中国との間に平和が成立した後でも、中国、蒙彊及び海南島に軍隊を駐屯させること、その軍隊は不特定の期間撤退しないこととするが、必要ならば、これを二十五年間と解釈してもよいということであつた。これらの條件は、後に東條、東郷、嶋田、賀屋、鈴木、星野、武藤及び岡の出席した一九四一年十一月五日の御前会議によつて承認された。野村はその承認について、即刻通告を受けた。

中国における軍事行動の継続

  太平洋戦争の発生は、日本の中国における軍事行動を緩和させなかつたし、また重慶の中国国民政府を打倒するという決定にも何の変更ももたらさなかつた。太平洋戦争が起る前でさえも、中国の蒙つた死傷や損害は厖大な数量となつていた。一九四一年六月までに、日本側の統計によれば、中国軍は三百八十万の死傷者と捕虜を出し、日本軍は中国軍から厖大な戦利品を獲得し、中国の飛行機一千九百七十七機を撃破した。そして、日本軍自身の損害は戦死十万九千二百五十、飛行機二百三機であつた。
(E-760)
  一九四二年五月に、日本軍は重慶の後方にある雲南省の龍陵と騰衡とを占拠した。一九四三年十二月に、かれらは湖南省の常徳を攻略したが、これは間もなく中国軍に奪還された。一九四四年の中ごろには、軍事行動は華中の奥地においていつそう激しくなつた。鄭州は一九四四年四月二十日に、洛陽は一九四四年五月二十五日に、長沙は一九四四年六月十八日に、衡陽は一九四四年八月八日に陥落した。次いで、その年の冬には、日本軍は戦略上重要な中国西南部にさらに突入した。日本軍は一九四四年十一月十日に桂林を、一九四四年十一月十一日に柳州を攻略した。終戦のときの中国軍の公式記録によれば、一九三七年七月七日から一九四五年八月までの期間に、中国側の受けた損害は、軍隊だけでも、死傷者、行方不明者が三百二十万九百四十八名であつた。戦争中に殺害され、または不具にされた非戦闘員の数は発表されていないが、すこぶる厖大な数の一般人の死傷者があつたに相違ない。

(E-761)
第七節
満洲と中国の他の地域とに対する日本の経済的支配

  被告に対する訴追は、なかんずく、満洲とその他の中国の地域における経済的支配の獲得を目的とする侵略戦争を行つたことである。従つて、この問題に関して、提出された証拠を簡潔に論ずることが必要となる。すでに述べたように、満洲における日本の政策は、同地域を日本に追随する政府のもとに統一し、その政府との協定やその他の手段によつて、日本で採用された計画に非常に必要な基礎原料を入手すること、交通と産業及び商業の必要な部分との支配権を獲得することであつた。これらはいずれもその後の軍事行動に大きな価値のあるものであつた。
  華北においても、同じ目的のために同じ計画が用いられた。わけても、当時外国市場で入手することのできなかつた物資で、中国全体に対する作戦のためにきわめて必要であり、また全面的計画の進捗に必要であつたものについて、その需要を満たすために、そうであつた。戦争が華中と華南に進展するに至つて、同じ政策が採用された。政治的支配の問題はすでに論じておいた。採用された種々の手段を次に述べるが、それは経済的支配の政策がどの程度に実行されたかを示すのである。

一般的経済問題

  中国に対する日本の政策に関しては、政治政策に関連して、本判決書の初めの方ですでに取扱つた。その際に言及された『計画及び政策』のほとんどすべては、経済的問題をも扱つている。従つて、ここでは、経済的支配の問題に特にあてはまる少数の決定だけに言及する。(E-762)
  この政策の典型的なものは、一九三六年八月十一日に、廣田内閣によつて採用された『第二次北支処理要綱』である。その主眼は、『北支民衆を主眼とする分治政治の完成を援助し該地域に確固たる防共親日満の地帯を建設せしめ、併せて国防資源の獲得、並に交通施設の拡充に資し以て一はソ国の侵寇に備へ一は日満支三国提携共助実現の基礎たらしむるに在り』というのである。さらに、華北の独立を確保するために、日本が現地政権を指導すべきことが定められていた。最後に、『該地方にある鉄、石炭及び塩は我が国防の為め、並びに我が交通施設及び電力の為めに利用するものとす』と定められていた。
  一九三七年二月二十日に、林内閣は『第三次北支処理要綱』を採択した。その主眼は、国防資材の獲得、交通施設の拡充、ソビエツト連邦に対する防御及び日満華三国提携共助の実現である。一九三七年六月十日に、第一次近衛内閣時代の陸軍省は、『重要産業五カ年計画要綱実施に関する政策大綱』を作成した。(E-763)これは、すでにわれわれが述べたように、『我国運の将来に於ける飛躍的発展に備ふる為、本計画は、日満支を通ずる綜合計画の樹立』に基礎を置いたものと言われていた。さらに、この計画は、『重要資源に付、我勢力圏内に於ける自給自足の確立に努め、以て第三国資源に依存することなからしむることを目標とするものとす』と述べている。一九三七年十二月二十四日に、内閣は『支那事変対処要領』を決定した。その中に、『経済開発方針』と題する一項目があつた。その項には、華北経済開発の目標は、日満経済の綜合的な関係を補強し、それによつて、日満華の提携を確立するにあるとあつた。そのためには、中国の現地資本と日本の資本とを緊密に結合させ、それによつて、日本と満洲国との国防に必要な物資の開発と増産に貢献させることが必要であると考えられた。
  右に挙げた最後の計画を実現し、それに関する日本の努力を総合するために、一九三八年四月に、二つの国策会社の設立に関する規定が設けられた。華北に対しては北支那開発会社、華中に対しては中支那振興会社であつた。北支那開発会社の目的は、経済的発展を促進し、華北における各種の企業を統一することであつた。(E-764)その運営は、輸送、港湾の開発、発送電、塩の生産及び販売の各企業、並びにそれに関連する企業に特株会社として出資し、これを支配することであつた。
  この会社は、日本政府の監督のもとに運営され、政府の命令に従わなければならなかつた。実際において、日常の業務を除いて、すべての決定事項が政府の承認を必要とした。たとえば、社債の募集、定款の変更、合併と解散と利益の分配との実施には、日本政府の承認が必要であつた。各会計年度における投資と金融についての計画も、政府の承認を必要とした。
  梅津はこの会社の創立委員に任命され、岡はその補助者となつた。賀屋は相当の期間この会社の総裁を勤め、一九四一年十月十八日に、東條内閣の大蔵大臣になつたとき、その職を離れた。
  中支那振興会社も、北支那開発会社と非常に類似した目的をもち、また実質的に同様な政府の支配のもとにあつた。後に言及するところの公共事業、交通輸送の振興及び天然資源の開発に関する企業は、これらの会社のうちのいずれかの支配のもとに置かれた。
  各種の企業の運営を取扱う前に、一九三九年一月に企画院によつて採択された『支那の経済開発要綱』のことを述べておかなくてはならない。(E-755)この要綱には、中国の天然資源の開発は、東亜新秩序の確立の基本的手段として、日満華三国の経済的協力とという観念を実現する上に、寄与するところ大なるものがあると述べてある。さらに、これらの工作は『軍事行動が継続中であつても、作戦行動及政治工作の進展と平行して行はるべき重要な問題である』と述べている。
  一九四〇年十一月五日に、内閣情報部から出た『日満支経済建設要綱』も、言及しておかなければならない。そのおもな目標は、概ね今後十年間に、三国を一環とする自給自足的経済態勢を確立し、それによつて、東亜の世界経済における地位を確立することであつた。この計画によれば、日本の任務は、科学と技術を振興すること、重工業、化学工業及び鉱業を開発することであつた。満洲国は重要基礎産業を発展させ、中国はその天然資源を、特に鉱業と塩業を開発することであつた。
  この要綱には、その実施に関して、満洲国や中国に相談することには、何も定められていないばかりでなく、この文書を全般的に通読すると、これらの各部門の実施に関する決定は、日本によつて、しかも日本だけによつてなされることになつていたことが明らかになる。
  華北における日本の計画の目的を示しているものとして、重要なのは賀屋の言葉である。すなわち、華北における物動計画には三つのおもな点があつて、その第一は日本に軍需品を供給すること、第二は日本の軍備を拡張すること、第三は平和経済の必要を満たすことであつた。(E-766)

各種の産業

  以上は日本政府によつて採用された一般的な計画と政策との概要を示したものである。これらの一般的計画がどういうふうに各種の産業や経済のそれぞれの特殊部門に適用されたかについて、簡単な概要を述べることは、この場合価値のあることであろう。

運輸と通信

  一九三五年に、土肥原が華北の自治を確立することに関して活動していたとき、かれは天津と石家荘との間の鉄道建設を要求した。北支駐屯軍によつて、一九三五年十一月に立案された鉄道計画については、すでに言及した。この計画は、山東鉄道と隴海線の一部とを獲得し、中国で新しい鉄道をさらに建設しようとする日本の希望または意図を示していた。
  一九三八年七月に、北支那電信電話会社が組織された。北支那開発会社はその資本株の七〇%以上を所有した。右の会社の目的は、華北における海底電線を含めて、日本、満洲国及びその他の世界各地と連絡する電信電話施設を建設し、運営することであつた。このほかに、北支那開発会社に従属する会社は、華北交通会社と華北航空公司であつた。華北交通会社は、華北の三千七百五十マイルに及ぶ鉄道線、六千二百五十マイルのバス路線、六百二十五マイルにわたる内河水運を運営していた。

(E-767)
天然資源

  一九三七年十二月の『支那事変対処要綱』によつて、日本のために収入を得る目的で、華北の塩業を、また鉱産事業のほとんど全部を接收するために、国策会社を設立することが規定された。
  中支那振興株式会社の子会社である華中鉱業公司は、約一億トンと推定されていた華中の石炭を開発するために、一九三六年四月に設立された。
  約二億トンと推定され、中国全体の大半を占めると言われていた華北の鉄鉱埋蔵量は、北支那開発株式会社の子会社であつた龍煙鉄鉱公司によつて、一九三九年七月に接收された。この公司の管理のもとにあつた鉱山のうちで、最も大きな埋蔵量をもつと見積られていたのは、チヤハル省の龍煙鉱山であつた。この鉱山から発掘された鉄鉱の一部とそれから生産された余剰銑鉄とは、日本に輸出された。この公司の発掘した総発掘量四百三十万トンのうちで、七十万トンは銑鉄生産に使用され、残りのうちの百四十万トンは満洲に、百万トン以上は日本に送られた。
  華中における揚子江流域の鉄鉱埋蔵量は一億トンと推定されていた。この埋蔵資源の発掘を続ける目的で、一九三八年四月に華中鉱業公司が設立された。この公司は中支那振興株式会社とその他の日本の会社に支配されていた。この会社の資産のうちで、中国側の権利に対する支払いは、設備と商品の形で行うことになつていた。(E-768)
  華北の石灰埋蔵量は莫大なもので、中国全体の埋蔵量の五割以上を占めると推定されていた。(E-769)これらの石炭を開発するにあたつて、日本側は特にコークス用炭の必要を考慮し、日本に対する供給を確保するために、中国側に対する供給を統制する方針をとつた。年産高の最も多かつた大同鉱山は、北支那開発会社の子会社であつた大同炭鉱公司によつて接收され、経営された。
一九三八年まで日本において消費された塩の大部分は、中国を含めて、東洋と中東の諸国から輸入されたものである。中国からの供給を増加する目的で、華北で塩を生産するために、北支那開発会社の子会社として、華北塩業株式会社が設立された。同じ目的のために、華中では一九三九年八月に、中支那振興株式会社によつて、華中塩業株式会社が組織され、持株会社の資金の投資によつて、新しい塩田をを開発する計画が立てられた。

公共事業

  一九三七年十二月に上海を占領した直後に、日本側はいろいろな公共事業会社を接收した。そのうちに、次のようなものがある。(イ)浦東電燈会社、これは接收の上、華中水電公司の子会社にされた。この華中水電公司もまた日本側に支配されていた。(ロ)上海の中国電力会社は一九三八年六月に接收され、右の持株会社の子会社となつた。これらの場合に、各会社の所有者は、その会社の真の価値よりも相当低い評価で補償を与えられた。
(E-770)
  閘北水電公司が接収され、太平洋戦争が起つた後には、アメリカ人所有の上海電力会社も接收された。一九四五年における降伏の後、種々の施設が元の所有者の手に取戻されたときに、設備と機械が普通の損耗よりもはるかにひどく傷んでいたという証拠が裁判所に提出された。

金融

  華北を占領した初めから、若干の軍票とともに、華北では朝鮮銀行券を、華中では日本銀行券を、日本軍は流通させていた。しかし、占領地域で日本の通貨を使用することは、日本の通貨制度に混乱をもたらすものであつた。この状態を改善するために、日本政府は一九三八年二月に中国連合準備銀行を設立した。そのおもな目的は、通貨を安定し、外国為替の金融市場を統制することであつた。この銀行は日本の円貨にリンクされ、それによつて、華北における日本の投資の基礎となる紙幣を発行することを認可された。日本政府に支配されていたこの銀行は、日本の円貨にリンクされ、それによつて、華北における日本の投資の基礎となる紙幣を発行することを認可された。日本政府に支配されていたこの銀行は、きわめて重要なものとなり、その運営の金融面で日本の政策を実行した。
  日本が中国の被占領地の経済を事実上支配し、また商工業の重要な部分を支配した結果として、多数の日本の実業家や企業家が中国に渡り、その支配力を隠そうともしないで、中国の経済生活にはいつて行つた。

合衆国の抗議

(E-771)
  以上に述べた措置を採用したことは、必然的に他の国の通商貿易に影響を及ぼす結果となつた。そのために一九三八年十月六日に、合衆国大使グルーは総理大臣近衛にあてた書簡で、満洲で起つたことが再び繰返えされていること、華北における為替管理は差別的であること、日本が交通と通信を統制していることと、羊毛と煙草の独占を始めようという案とは、関税率の変更によつて、日本と日本の商人に中国で優先的地位を与えることになると述ベた。そこで、グルー大使は、次のことの中止を要求した。(一)アメリカの貿易と企業に対する差別的な為替管理とその他の措置、(二)日本権益に与えられた独占権または優先権、中国における通商上または経済開発上の権利の優越、(三)アメリカ人の財産と権利に対する妨害、特に郵便に加えられる検閲、アメリカ人の居住と旅行、並びにアメリカの貿易と権益に加えられる制限。この抗議に対して、外務大臣は、その中で非難されていることが真実であることを認めたが、経済的措置は、中国と東亜の利益であるからという理由によつて、正当であると主張した。

中国にける麻薬

  満洲における麻薬の売買に関しては、すでに述べた。
  満洲において採用された方針と類似したものが、中国の北部、中部及び南部で軍事行動が成果を收めるに伴つて、隨時採用された。この売買は、軍事行動と政治的発展に関連していたものである。この売買によつて、日本側によつて設置された種々の地方政権のための資金の大部分が得られたからである。(E-772)そうでなければ、この資金は日本が供給するか、地方税の追加によつて捻出しなければならなかつたであろう。序でながら、阿片吸飲者の非常な増加が、中国の民衆の士気に与えた影響は、容易に想像することができるであろう。
  中日事変が起る前に、阿片の吸飲を撲滅するために、中国政府は決然として努力を続けていた。これらの努力が成果を収めていたことは、一九三九年六月の国際連盟諮問委員会の報告によつて示されている。この報告によれば、一九三六年六月に実施された規則に基いて、中国政府のとつた阿片中毒鎮圧の措置は、きわめて満足な效果を挙げたというのである。
  一九三七年以後に、中国の阿片売買に関係していたのは、日本の陸軍、外務省及び興亜院であつた。三菱商事会社と三井物産会社は、日本、満洲国及び中国のために、イランの阿片を多量に購入していた。外務省との取極めによつて、この二社は、一九三八年三月に、阿片の輸入先と事業の分担範囲とについて協定を結んだ。日本と満洲国に対する阿片の供給は、三菱によつて取扱われ、華中と華南に対しては、三井物産が取扱うことになつていた。華北に対する供給は平等に分担し、毎年の購入高は、日本、満洲国及び中国の官庁が決定し、二社に通告することになつていた。(E-773)興亜院の要請に基いて、この協定は修正され、イラン産阿片買付組合を設立することが規定され、この組合の阿片営業は、右の二社の間に平等に分担されることになつた。
  阿片の販売は、支那派遣軍のもとに、都市や町に設けられた特務機関に委託されていた。興亜院の経済部が華北、華中及び華南における阿片の需要を指定し、その配給を取計らつた。阿片販売の利益は興亜院に渡された。その後、戒烟総局が設けられ、阿片販売からの利益である程度まで賄われていた維新政府によつて、阿片の売買が管理された。しかし、その当時においてさえも、興亜院と華中の日本軍の司令部とは、依然として、阿片売買に関する方針決定に対して責任をもつていた。
  阿片売買を表向きに統制または減少させる措置が随時採用された。一九三八年に設立された戒烟総局がその一つの例である。それとほぼ同じころに、維新政府は、阿片の禁烟を宣伝するために、月二千ドルの予算をとつていた。これらの措置とその他の措置が採用されたにもかかわらず、阿片売買は引続き増加した。その理由は、一九三七―三九年に、上海駐在の日本陸軍武官原田熊吉の曖昧な証言のうちに見出すことができる。(E-774)『私が特務部長の時、陸軍部より阿片禁止局を設ける事によつて支那人へ阿片を供給する様指示を受けました』とかれはいつている。
  一九三七年六月に、国際連盟の阿片売買に関する諮問委員会の会議で、中国における不法な売買は、日本の進出と相まつて増加したということが公然と言われた。

内蒙古

 すでに述べた通り、一九三五年の土肥原・秦徳純協定の後に、北チヤハルから中国軍が撤収してから、日本の勢力はチヤハル省と、綏遠省に及んだ。それから後は、農民に対して、阿片をさらに栽培することが奨励された。その結果として、阿片の生産は相当に増加した。

華北

  華北では、特に河北省と山東省では、一九三三年の塘沽停戦協定と非武装地帯の制定があつてから、中国人は阿片売買を取締ることができなかつた。そこでは、その結果として、阿片中毒者の数が驚くほど増加した。阿片の供給は、日本側に管理されていた種々の会社や組合によつて取扱われていたのである。
  一九三七年に天津が占領されてから、麻薬の使用に著しい増加が見られた。天津の日本租界は、ヘロイン製造の中心地として知られるようになつた。少くとも二百のヘロイン工場が日本租界に設けられた。(E-775)一九三七年五月に、国際連盟の阿片売買に関する諮問委員会では、世界中にある禁制薬白丸(パイワン)⦅ヘロインを使用した丸薬⦆のほとんど九割が天津、大連、その他の満洲と華北の都市で製造された日本品であることは、周知の事実であると述べられた。

華中

 ここでも、実質的には右と同様なことが行われた。南京の阿片の吸飲は、一九三七年までにほとんど一掃されていた。日本軍による占領の後は、麻薬の売買は公然と行われるようになり、新聞に広告までされた。本章の初めの部分で立証されたように、麻薬売買の独占から得た利益は莫大なものであつた。一九三九年の秋までには、南京における阿片販売の月収入は、三百万ドルと推定された。従つて、満洲、華北、華中、華南における阿片売買の規模から推してみれば、日本政府にとつて、収入の点だけからしても、この事業がどのように重要であつたかが明らかである。われわれは、麻薬売買に関して、さらに詳細を述べる必要を認めない。一九三七年以後に、上海、華南の福建省と広東省、その他の地域で、日本によつて省や大都市が占領されるごとに、阿片売買は、すでに述べた中国の他の地域におけると同様な規模で増加したということを述べれば充分である。