極東国際軍事裁判所判決文
B部 第四章 軍部による日本の支配と戦争準備 第二巻

〈説明〉

 本資料は、極東国際軍事裁判所判決文におけるB部 第四章 軍部による日本の支配と戦争準備 第二巻を文字起ししたものである。原典は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている「極東国際軍事裁判所判決 〔第1冊-第13冊〕 B部 第四章 第二卷」である。掲載するにあたり旧漢字を新漢字に直した他は原典を忠実に再現している。
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〈見出し〉

中国におけるドイツとの経済的協力に関する廣田の政策の失敗
陸軍は日本の対独関係を維持した
陸軍、枢軸国間の軍事同盟を提案
陸軍、中国征服の決意を新たにする――一九三八年八月
親日の中国中央政府を組織する企て
軍閥、中国における妥協に反対
一九二八年九月の内閣危機の結果、外務大臣宇垣の辞職となる
陸軍の方針の変化/一九三七年七月――一九三八年九月
世論の動員についての陸軍の役割
日本の教育制度に及ぼした荒木の影響
戦争のための経済上と産業上の動員の一般的進捗
中国の占領地域へ向つて日本の『新秩序』の拡大
興亜院
中国の経済上と産業上の開発を促進するためにとられた措置
日本の外交政策を支配するために陸軍がドイツとの提携を利用した方法
外交官の異動はドイツ及びイタリアとの関係を強化しようとする内閣の希望を示した
陸軍は枢軸諸国との軍事同盟の交渉を続行した
ドイツとの文化協定、並びに同国に対する近衛内閣の政策
一九三八年における日本と西洋諸国との関係の一般的な悪化
中国における西洋諸国の権利の日本による侵害――一九三七年七月―一九三八年九月
中国における西洋諸国の権利の侵害の継続と『大東亜』主義の出現――一九三八年十月―十二月
海南島を占拠し、仏印に圧迫を加える決定
日本の国際連盟との関係の断絶とその意義
南方進出の準備、並びに日本の究極の目的と荒木
日本の当面の目的――東亜新秩序の建設及びソビエツト連邦との戦争に対する準備
第一次近衛内閣の辞職――一九三九年一月四日――と平沼内閣の成立
中国に対する日本の政策の意義――『善隣友好』の原則
中国に対する日本の政策の意義――『共同防共』の原則
中国に対する日本の政策の意義――『経済提携』の原則
一九三七年と一九三八年における日本の経済上と産業上の戦争準備の継続
一九三九年一月、平沼内閣の承認した戦争産業拡充計画
平沼内閣時代における戦争のための経済産業動員
平沼内閣の中国に対する政策と海南島及び新南群島の占領
第一次近衛内閣の在任中における無条件的枢軸同盟の要求の増大
枢軸関係強化の追加的理由となつた西洋諸国との関係のいつそうの悪化
閣内不一致の発展
ドイツと妥協的協定に達しようとする内閣の企てに対する軍閥の反抗、一九三九年四月
一九三九年五月四日の『平沼声明』
停頓状態の継続
無条件枢軸同盟を締結する軍部の共同謀議に対する平沼の支持
橋本、軍閥の目的を支持
平沼は依然として軍部派の要求を支持
ドイツ及びイタリアとの同盟の締結を強行しようとする板垣の試み
中国における陸軍の活動とノモンハンにおけるソビエツト連邦に対する攻撃とによる内閣の困難の増大
有田と軍閥との政策の対立のために、一九三九年六月と七月には、新しい措置がとられなかつた
ドイツとの同盟に関する政策を決定しようとする平沼内閣の試み、一九三九年八月八日
一九三九年八月二十三日のドイツ・ソビエツト中立条約に起因する平沼内閣の瓦解
阿部内閣の就任、一九三九年八月三十日
軍閥は枢軸諸国との完全な結合のために活動を継続
西洋諸国に対抗して日本とドイツを同盟させる軍部派の共同謀議
大島はドイツに勧められて太平洋の西洋諸国の属地に対する日本の攻撃を計画した
阿部内閣崩壊の理由と米内内閣による親ドイツ外交政策の回復
米内内閣、国策の基準に関する決定の原則を固執
オランダ領東インドで特恵的な経済上の地位を得ようとする日本の試み
米内内閣のヨーロツパ戦争不介入政策は日本で強硬な反対を引き起した
陸軍は中国の征服と戦争のための国家総動員とを完了するために不介入方針を支持
日本は国外の原料資源に依存していたので、公然とは九国条約を否認できなかつた
合衆国依存をやめるために、日本の立てた新しい産業上の自給自足計画

米内内閣の南方進出の計画と準備
ヨーロツパにおけるドイツの成功と西洋諸国からの引続く反対とによる親ドイツ派の勢力増加
重光、有田に西洋諸国との協調を進言
日本はオランダ領東インドに対する特別の関心を強調した、一九四〇年五月
日本は南方進出を準備し、ドイツはオランダ領東インドに対する無関心を言明
日本は重光の進言を無視して南方進出の準備を継続
日本は仏印に重ねて要求を提出、一九四〇年六月
米内内閣は仏印における行動の自由を欲し、ドイツに西洋諸国に対抗する協力を申入れた
重光は依然として米内内閣の政策に反対
有田、合衆国との協力の提案を拒否
有田、日本の政策の基礎が西洋諸国を目標とするドイツとの協力にあることを示す
親ドイツ派、米内内閣の打倒と枢軸同盟の締結を準備
現ドイツ派の人人、ドイツ大使と直接に折衝
来るべき近衛内閣と一国一党制度とのための政治的準備
親ドイツ派による内閣更迭の準備と総理大臣米内その他の暗殺の陰謀
ドイツによる対日方針の言明拒絶に基く米内内閣の苦境
日本に東アジアと南太平洋を支配させようとする枢軸同盟の計画の出現
陸軍が米内内閣に反対した理由
陸軍による米内内閣の倒壊
米内内閣の倒壊と近衛の総理大臣選任に関する木戸の役割
第二次近衛内閣の成立と政策
第二次近衛内閣、軍部による日本支配の完成を決意
連絡会議並びに軍部派の支配が完成された方法
国家への奉仕という考えが日本国民の心の中に吹きこまれた。
ドイツとの提携の試案及び日本の大東亜支配計画の範囲
第二次近衛内閣による試案の採用
一九三六年八月十一日の国策決定に基く第二次近衛内閣の政策
『限度内において南方問題を解決する』政策
『大東亜』政策に関する重光の見解
松岡、日本の対枢軸諸国協力の条件をドイツに提案
三国軍事同盟に関する詳細な計画、一九四〇年九月四日の四相会議
三国同盟の交渉、一九四〇年九月九日―十一日
三国同盟の締結をめぐる事情
三国同盟の条項及び一九四〇年九月二十七日に日本とドイツの間に交換された誓約
三国同盟締結に際しての日本の指導者の意図


極東国際軍事裁判
判決
B部
第四章

軍部による日本の支配と戦争準備

第二巻 英文二八一―五一〇頁
一九四八年十一月一日

(E-281)
中国におけるドイツとの経済的協力に関する廣田の政策の失敗

  一九三七年十月二十七日に、東郷は大使として武者小路にかわるために、ベルリンに派遣された。その数日の後、一九三七年十一月六日に、日本の枢密院は、ドイツ及びイタリアとの新しい条約を批准した。これによつて、三締約国はそれぞれ防共協定に含まれた取極めを交換した。この会議には、議長平沼、外務大臣廣田、大蔵大臣賀屋が出席した。
  日本は必ず中国の征服に成功するであろうということ、ドイツは、日本を支持することによつて、日本がつくろうとしている新しい中国において、必ず優先的地位を得られるであろうということをドイツに納得させるのが東郷の仕事であつた。一九三八年一月に、不本意ながら、ドイツ側はこの見解を受け入れた。
  しかし、廣田は、中国の経済的開発について、日本がイギリスと合衆国との援助に頼つていることを認識していた。かれには、有名無実の特権以上のものをドイツに与えるつもりはなかつた。それに対する代償として、中国で必要な物資や技術的援助ドイツ側から得ようと考えていた。従つて、東郷がドイツ側に対して与えることのできる約束の範囲を、廣田は狭く限定した。
(E-282)
  日本の経済的危機が深刻となつた一九三八年五月、六月、七月の間に、東郷大使は、次第に強くなりつつあるドイツ側の不満に直面しながら、この困難な任務に努力していた。ドイツ政府が一九三八年の七月と八月に、同大使を完全に除外して、陸軍武官の 大島と交渉した事実は、東郷の失敗の程度を示すものである。
  一九三八年の五月と六月の間に、中国の再建に対するドイツの経済的参加について、外務大臣フオン・リツベントロツプと東郷との間に、繰返して協議が行われた。フオン・リツベントロツプは、ドイツの承認と援助との代償として、中国におけるドイツ貿易に対して、特別に寛大な取扱いを求めた。廣田の許した狭い制限のうちで、東郷は鄭重ながら用心深く答えた。フオン・リツベントロツプにつきつめられて、条約の形で、日本がドイツに他の第三国よりもよい取扱いを保証することはできないとかれは説明した。ドイツ外務大臣は、不満の意を表わしたが、明確な条約の形で承認したくないものでも、実際上は、与える用意が日本にはあるものと解釈した。
  結局において、リツベントロツプは間違いを覚つた。というのは、一九三八年七月二十四日に、ドイツ外務省は、中国にあるその代表者から、中国の被征服地域の状況に関して詳細な報告を受取つたからである。その中には、中国における日本官憲が、ドイツ権益に対して、組織的な差別待遇を実行していることが明らかにされていた。(E-283)日本の商社に与えられた優先権によつて、在来のドイツ商社は重大な損害を蒙つていた。
  この情報を受取つて、ドイツ側の不満はさらに強くなつた。中国からの報告によつて、フオン・リツベントロツプがかれの以前の決定の正しかつたことを確認したということを、一九三八年七月二十七日に、東郷は聞いた。日本の『特別に優先的な取扱い』という瞬味な形の申出は、不充分と見做された。ドイツ政府には、日本が中国における外国貿易――ドイツの貿易を含めて――に容赦なく圧迫を始めたと思われたからである。中国における経済的協力の条件について、両国の間の意見の隔りは、依然として広かつた。一九三八年九月八日に、ベルリンにおける大使として、陸軍武官大島少将が東郷にかわつたときにも、事態にはなんの変化も起つていなかつた。

陸軍は日本の対独関係を維持した

  中国における戦争が蘆溝橋で再発したことは、最初はドイツからの激しい非難を招いた。この疎隔にもかかわらず、ソビエツト連邦との来るべき闘争を常に念頭に置いていた陸軍は、ドイツに援助を求めた。一九三七年の後半に、日本が中国で手をつけた仕事にだんだん深入りしていることをすでに憂慮していた参謀本部は、中国当局と問題の解決を交渉するために、ドイツの調停を求めた。
(E-284)
  その当時、自国と日本との関係に不満を感じていたドイツ外務大臣は、日本大使ではなく、日本の陸軍武官と交渉をした。一九三八年一月に、フオン・リツベント口プは大島に対して、日本とドイツはなお一層密接に協力すべきであるとの信念を伝えた。大島はこの情報を参謀本部に伝達した。参謀本部は、ソビエツト連邦がこの新しい同盟の主目標とされることを条件として、原則上これに同意した。
  同じ月に、便宜上の理由によつて、ドイツは日本の中国征服の企てを容認し、その翌月に、満州国に対して承認を与えた。一方ではドイツとの結合を、他方では日本と満州国との結合を強めるために、陸軍はこの機会を利用した。満州国とドイツとの間に外交関係が成立し、両国の間に友好条約が調印された。そのときに、東條中将は、満州国が防共協定の参加国となるべきであるとの関東軍の希望を表明し、梅津はこの提案に対する参謀本部の快諾を伝えた。これらの折衝に、満州国を占領していた日本陸軍が『急迫せる対ソビエツト戦争』のために軍隊の配置をしていたときに行われたのである。

(E-285)
陸軍、枢軸国間の軍事同盟を提案

  一九三八年七月の初め、板垣と東條がそれぞれ陸軍大臣と次官になつてから少し後に、陸軍は、再びドイツとの軍事同盟を促進する手段をとつた。大島は外務大臣リツベントロツプに対して、日本陸軍の意見としては、日本がドイツ及びイタリアと一般的な防禦同盟を結ぶ時機が来たと述べ、一般的な形でこの提案を出した。
  陸軍としては、全面的ではないにしても、少くとも主として、ソビエツト連邦を目標とする協定を求めたが、フオン・リツベントロツプは、強力な同盟の必要を強調して、単にソビエツト連邦の攻撃があつた場合に協議するというだけの協定は考慮することを拒絶した。大島は、ドイツ側のこの見解に従つて、提案された同盟の条項の概要をみずから作成した。それは相互協定の形をとり、締約国に対して挑発されない攻撃が加えられた場合に、軍事的援助を与えるというものであつた。それはまた協議、相互の経済的と政治的の支持について規定を設けた。
  大島はフオン・リツベントロツプと提案された協定の正文を定め、特使を送つてこの草案を参謀本部に伝達した。この協定案は、国際情勢に関するフオン・リツベントロツプの意見を記した覚書を添えられていたが、東京では、ドイツ側から出た提案として取扱われた。軍の指導者は、この案を外務大臣宇垣に伝達して、それによつて、かれらが大島の工作を概して是認していることを示した。新しいドイツの提案を検討するために、宇垣は直ちに五相会議を招集した。
(E-286)
  一九三八年八月九日に、総理大臣近衛は、内閣全体にこの提案を報告した。軍事的援助を与えることを日本が明確に約束するような協定に対しては、特に海軍が反対であつた。木戸もまたこれを重大な問題と認めた。しかし、この提案に関する討議がなされた後に、参謀総長は、内閣と陸軍は提案された同盟に賛成であると大島に伝えた。日本としては、挑発されない侵略の場合に軍事的援助を約束する協約を結ぶ意思はあつた。しかし、この協定は、第一次的にはソビエツト連邦に対して、そして第二次的に他の諸国を対象としたいと希望された。
  この交渉はきわめて秘密に行われたので、これが近衛の手許に達した後まで、東郷大使は何も知らなかつた。東京のオツト大使は、さらに八カ月過ぎた後まで知らなかつた。この提案の草案は、少くともその趣旨においては、大島が最初にドイツ側に提案した規定を含んでいたにかかわらず、近衛はこれをフオン・リツベントロツプから出たものであると信じて受取つた。
  近衛内閣は、その辞職までの残りの五カ月の間、提案された同盟の締結のために、何も新しい手段はとらなかつたけれども、この期間に、枢軸国相互の関係は強化された。中日戦争に伴う情勢から、日本の南方への進出の最初の兆候が現われてきた。そして、日本の欧米諸国との関係は、引き続いて悪化した。

(E-287)
陸軍、中国征服の決意を新たにする――一九三八年八月

  ハサン湖の戦闘に伴う陸軍の方針の変更は、一九三八年八月に佐藤の行つた二つの演説の内容で示された。その前月に、佐藤は大佐に進級し、内閣情報部の部員になつた。またその月に、企画院事務官の兼職を解かれた。かれは軍務局の一員としての本務に留まり、陸軍省の新聞班長の任務に就いた。
  一九三八年八月の二十五日と二十九日に、内務省の警察部長会議で、佐藤は中日戦争の処理について陸軍の方針を説明した。(E-288)陸軍省の代弁者によつて、責任ある政府職員に対してなされたこの演説は、当時の陸軍の方針の権威ある表明となるものである。
  広範囲にわたる佐藤の演説を一貫する主旨は、陸軍は中国国民政府の軍隊の抵抗を破碎する決意を有し、同時にまた戦争のための国家総動員を完遂するということであつた。内閣はまだ中国における戦争を処理するについての方針を確定していなかつた。しかし、陸軍は、長い間心に懐いていたソビエツト連邦に対する即時攻撃の計画を犠牲にして、国策の基準のおもな目的を達成しようという決意をいつそう固めた。
  佐藤は、当時の漢口に対する進撃の結果起り得ることについて考察し、同市の占領が中国の抵抗を終らせるかどうかについて、陸軍自身が疑いをもつていることを示した。何事が起つても、漢口の陥落を機会に中国の新しい親日中央政府を樹立しなければならないと、陸軍は決意していた。
  新しい中国では、日本が指導者としての役割で全力を尽すが、満州国の場合と異つて、日本人が政府の役人となることはないと佐藤は述べた。華北と内蒙古は、それぞれ満州国と同様な地位をもつ二つの地域となることになつていた。(E-289)内蒙古を確保するおもな理由は、ソビエツト連邦との戦争を準備するについての価値であり、他方で、華北は経済上と産業上の発展を推し進めることのできる地域とされていた。その資源は、『国防』の必要を満たすために開発することとされ、華中もまた日本の経済力発展の基地となることになつていた。
  中国に対する陸軍の態度を正当化するにあたつて、既に近衛と廣田が言ひ出していた議論を佐藤は全部利用した。列席している者に対して、中国征服の完成と国家総動員の完遂とに対する陸軍の熱望を滲み込ませようとかれは試みた。日本は平和を求めず、その困難に打ち克たなけばならないとかれは言つた。内閣の内部における優柔不断を克服しなければならないこと、中国における外国の仲介を許してはならないことを陸軍は決意していたのである。
  蒋介石大元帥の特使が提出していると報ぜられている和平提案を、内閣は取上げないであろうという確信を佐藤は披瀝した。中国における新政権の樹立は、動かすことのできない条件であることをかれ自身確信していると述べた。

(E-290)
親日の中国中央政府を組織する企て

 廣田のあとを襲つて外務大臣になつた宇垣大将は、北部と南部ですでに樹立されていた親日政権を結合させるために直ちに処置を講じなければならないという見解をみづから懐いていた。
参謀本部附になつたばかりの土肥原中将は、一九三八年八月に、戦争を収拾するには、どうすればよいかを調べるために、中国に派遣された。蒋介石元帥とはどんな妥協もしてはならないという意見を固持していたので、土肥原は日本人と協力する他の指導者を見出すことにとりかかつた。一九三八年九月中に、日本が自己の好む条件で和平を結び得る新しい中央政府を樹立する工作が進められた。
一九三八年九月十一日に、この新事態に直面した中国国民政府は、もう一度国際連盟に訴えた。紛争を調査するために、直ちに設置された委員会に参加するように、日本は連盟から招請を受けた。
一九三八年九月二十二日に、外務大臣宇垣は、その参加に対する内閣の拒絶を連盟に伝えた。このような方法は、『紛争の公正妥当なる解決を見出し』得ないことを日本政府は確信するとかれは述べた。(E-291)その日に、新しい中央政府の樹立を促進するために、日本の後援によつてつくられた新しい中国人の委員会が北平に設立された。

軍閥、中国における妥協に反対

 中国における戦争を急速に解決する必要があるということは、今やすべての者が同意する点であつた。内閣も陸軍も、ひとしく、日本の不安定な経済を補強し、また戦争のための国家総動員を完遂するに役立つ地域に中国をしなければならないと決意していた。
しかし、この主要な結果を得るために、妥協が有效であるかどうかについて、内閣の内部に意見の相違があつたことを佐藤は明らかにした。外務大臣宇垣と他のいく人かの閣僚とは、軍事占領という陸軍の目標を放棄して、和平のための直接交渉を再開しなければならないという意見に傾いていた。
 この意見の不一致は、内閣だけのことでもなかつた。一九三八年九月になると、日本国内には、蒋介石大元帥との交渉を再開することが必要になつたとしても、なを中国との和平をもたらさなければならないという強い気持があつた。参謀本部部員の間では、これが支配的な意見であつた。
 しかし、佐藤が示したように、陸軍部内には、これと反対の意見をもち、中国における戦争を妥協によつて解決しようとするどんな企てにも反対する決心をもつていた有力な一派があつた。(E-292)陸軍次官東條中将は、この見解の主唱者であり、陸軍大臣板垣は、東條と見解を同じうした。板垣と東條とは陸軍の政策の決定者であり、佐藤大佐は、かれらの代弁者であつた。一九三八年八月の演説の中で佐藤は非妥協的な見解を陸軍全体のものであると称し、この見解にくみしない者に封して、攻撃を加えた。
 中国における戦争に対する内閣の方針には、多くの疑点があると佐藤は言つた。最も高い地位にある人々自身でさえ、どんな手段をとらなければらないかについて、はつきりわかつていなかつた。内閣の優柔不断と軍指導者の決断とを比較して、宇垣を支持する者は陸軍の方針の実行を妨げるものであると佐藤は非難した。
  陸軍がその企てに対する反対に遇つたときに、いつもそうであつたように、政府機構を改正し、政党を廃止せよという即時の要求が軍閥から出た。中国における陸軍の方針が実行されるように、政府部内自身の『革新』が必要であることについて、佐藤は語つた。『政党問題』を処理する新しい手段について、かれは仄めかした。日本の内外の困難な問題を断固として処理し得るような、政治の『一党制度』の組織を促進する運動が始まつていた。

(E-293)
一九二八年九月の内閣危機の結果、外務大臣宇垣の辞職となる

  ドイツからの一般的軍事同盟の提案に力づけられた総理大臣近衛は、中国においては妥協を許さないという意見であつた。一九三八年九月七日に、漢口占領後に起る事態について、かれは厚生大臣木戸及びその他と話し合つた。みずから日本の中国支配の強固な支持者であつた木戸は、もし中国の降伏する兆しが現われないならば、蒋介石大元帥との交渉を再開する必要があるかもしれないという意見を述べた。そのときに、近衛は、もしそのような手段をとらなければならなくなつたら、その責任は、自分にはあまりに重くて引受けることができないから、辞職すると答えた。かれが外務大臣宇垣から受けた非難について苦々しく語り、宇垣を取巻く一派は、かれの内閣の総辞職をもたらそうと企てるであろうという考えを表明した。
  一九三七年十一月の政治危機の際にしたと同じように、木戸は直ちに近衛と軍閥の側に立つた。もし政局が宇垣の方針によつて処理されるようになるとすれば、日本国内に混乱が起り、その結果中国側によつて打ち負かされることになるであろうとかれは述べた。(E-294)従つて、近衛に対して、勇気を起して職に留まるように激励した。この際に、木戸の言つた言葉は、宇垣の政策が一般の支持を得ていたことを木戸が知つていたことを示すものである。
  今や木戸の支持を保証された近衛は、独裁制度を確立しようとする陸軍の策謀を内々知つていることを洩らした。提案された政党の合流によつて、かれが断固たる『一党制度』の首領となり、それによつて、日本でこれ以上反対を受けないで、国策が遂行されるようにすることができるかもしれないと思うと述べた。この問題に関しては、近衛はかれ自身言質を与えなかつたが、成行きがどうなるかを見るために、その職に留まつた。
  板垣、木戸、近衛の後ろ楯になつていた軍閥の勢力は、宇垣の一派にとつてはあまりにも強いものになつた。その月に、すなわち一九三八年九月に、宇垣は内閣を去り、近衛自身が外務大臣の職務をとつた。ここで再び、日本の政府は、国策決定に示された目標に向つて着々と進むようにきめられてしまつた。

陸軍の方針の変化
一九三七年七月――一九三八年九月

 ここで、蘆溝橋攻撃以後に起つた陸軍の方針の変化を再検討し、分析してみることが適当である。中国における戦争は、東條の意見に従つた参謀本部の発意によつて再び始められた。これは、ソビエツト連邦に対して戦争する陸軍の計画を達成するための第一歩であつた。(E-295)一九三七年の最後の三カ月に、参謀本部は、中国で拡大しつつあつた戦争が、陸軍の計画の主要な目的を挫折させるのではないかと、ますます心配するようになつた。軍の指導者は非常に憂慮したので、再び自分から進んで、紛争についてドイツの仲介を求めた。
  その結果として、一九三七年の十一月と十二月に、ドイツの機関を通じて、中国の和平提案が差し出された。外務大臣廣田が、中国との交渉においては、断じて妥協しないという決意であつたから、右の提案は成功しなかつた。総理大臣近衛は、木戸と廣田に支持されて、その職に留まり、その内閣は、これ以上蒋介石大元帥を相手にしないと誓言した。これは一九三八年一月十一日の御前会議の決定であつた。
  この時期に至つてさえも、時の参謀次長であり、事実上参謀本部の首班であつた多田中将は、中国における戦争の即時解決を求めることに、強く賛成していた。一九三八年一月十五日に、中国に対してとるべき新しい措置を考慮するために、十一時間にもわたる連絡会議が開かれた。内閣の中国政策に対して、参謀本部は非常に強く反対していたので、多田は御前会議の決定を取消させようと試みた。ソビエツト連邦との戦争の準備がこれ以上妨げられないようにするために、陸軍はどんな犠牲を払つても戦闘を早く終らせる用意があつた。(E-296)近衛と木戸は、断固として陸軍の見解に反対した。そして、廣田の方針が通つた。
  一九三八年の五月に至つて、一九三七年の十一月から日本を襲つていた経済的と財政的の危機がますます深刻になつてきた。中国側の抗戦も弱まらなかつた。その間に陸軍は総動員法を通過させたが、戦争の準備の長期計画とソビエツト連邦に対する即時攻撃の計画とは、両方とも重大な危険に直面した。このような事態の展開に最も責任のあつた外務大臣廣田は、この経済危機を回避することのできなかつた大蔵大臣賀屋とともに辞職した。ともに軍閥の指導者であつた板垣と荒木が内閣に加つた。ソビエツト連邦に対する戦争のための日本の準備に精通していた東條が、梅津のあとを継いで、陸軍次官になつた。
  このときに、廣田の後任外務大臣として、宇垣大将も入閣した。宇垣は多年軍閥とは著しく相違した見解をもつていた。かれは軍閥の信頼を少しも得ていなかつたので、一九三七年一月にかれが組閣を試みたとき、軍の指導者はこれを挫折させた。しかし、次の一点に関しては、宇垣の意見は軍部の指導者の意見と一致していた。板垣と同じように、たとい中国国民政府と交渉しなければ解決ができないとしても、中日戦争を早く解決することにかれは賛成していたのである。
(E-297)
  新しい陸軍次官東條は、ソビエツト連邦を早く攻撃するという陸軍の計画を支持してはいたが、中国に対する陸軍の目的を妥協によつて犠牲にしてはならないという見解を維持していた。総理大臣近衛も、厚生大臣木戸も、中国における戦争の早く解決することを望んではいたが、それより先に、まず中国側の抵抗を破碎しなければならないという意見を固く支持していた。
  一九三八年の七月と八月に、日本軍はハサン湖でソビエツト軍を攻撃し、かえつて撃退された。この経験の後に、ソビエツト連邦に封して即時開戦を強行するという計画を陸軍は延期した。
  この延期によつて、中日戦争を直ちに解決するということは、以前ほど緊急でなくなつた。参謀本部部員の大部分は、依然として中国との交渉による和平に賛成していたが、中国国民政府と妥協してはならないという東條の見解に、陸軍大臣板垣は同意した。総理大臣近衛はあくまでもこの意見を固執し、木戸の支持を得た。
  外務大臣宇垣の見解は、ドイツ及びイタリアとのいつそう緊密な軍事同盟が有望なことによつて自信を増してきた陸軍の見解と、またもや正面から対立した。宇垣は内閣を去つた。そして、陸軍の方針に対しては、再び反対がなくなつた。
  ソビエツト連邦に対する攻撃を一時あきらめたことによつて、陸軍は一九三六年の国策決定の主要な目的を確実に保持することができた。(E-298)中国における戦争は、日本の好む条件で平和を結ぶことのできる新しい親日的な中央政府が樹立されない限り、終結されないことになつた。この新しい中国が、日本の国家総動員計画に対して、大きな貢献をすることになつていた。その間に、日本はドイツと軍事同盟を交渉し、国内戦備の完成を急ぐことになつていた。

(E-299)
世論の動員についての陸軍の役割

 一九三八年五月十九日に、陸軍は、国家総動員法の目的に関するその説明の中で、国民こそ国家の戦力の源泉であるから、動員に第一に必要なものは『精神力』であると述べた。この目的をもつて、教育施設や宣伝機関は統一戦線に動員されることになつた。一週間の後に起つた内閣の改造で、軍人であり、軍閥の指導者であつた荒木大将が、新しい文部大臣となつた。
  戦争を支持するように世論を導くために、検閲と宣伝との非常に実質的な措置がすでにとられていたが、これらの措置は、満州占領後の数年の間、陸軍によつて実施されていた。そして、このことについては、主として荒木に責任があつた。かれは一九三一年十二月に陸軍大臣になり、犬養内閣と齊藤内閣を通じて、一九三四年の一月まで、その地位にあつた。この期間において、世論の発表に対する陸軍の統制が強固に確立された。新聞は軍閥に受け容れられるような見解を掲載し、陸軍の方針に反する論評は、どのようなものでも、脅迫されたり、報復されたりした。陸軍やその支持者をあえて批評した政治家も、脅迫された。政治的指導者や閣僚さえも、常に警察によつて尾行をつけられた。(E-300)警察は内務大臣に対して責任をもつていたにもかかわらず、この点に関しては、陸軍大臣荒木の指揮に従つた。
  陸軍と警察とのこの緊密な連絡は、後年においても維持された。一九三五年以降は、新聞は完全に警察の支配を受けた。一九三六年に廣田内閣が就任したときは、警察は何人にも政府の政策を批評することを許さなかつた。蘆溝橋事件の後は、中国における戦争に対する反対は、すべて峻烈に弾圧された。一九三八年八月に、陸軍の計画が修正されたとき、直ちに、内務省の警察部長会議で、陸軍省の代弁者であつた佐藤がその新方針を説明したということは、陸軍と警察との間に保たれていた緊密な連絡を示すものである。
  教育の分野における荒木と軍閥の及ぼした影響も、同じように大きかつた。荒木は、陸軍大臣に就任する前でさえも、当時すでに諸学校に施行されていた教練や軍事学科を、大学でも始めようとした。陸軍大臣として、一九三二年と一九三三年に、かれはこのような訓練を拡張することを奨励した。陸軍省によつて配属された軍事教官は、学校当局に対して、ますます大きな支配力を得た。そして、学生は軍の対外進出の目的を支持するように教えられた。
  一九三二年と一九三三年の間に軍閥によつて加えられた圧力と、対内と対外の政策上の問題に対する絶え間のない陸軍の干渉とによつて、齋藤内閣の内部に軋轢が起つた。一九三四年一月に、荒木は陸軍省を去つた。(E-301)その後、一九三六年の三月に、廣田内閣が政権を握るまでは、学校における教練と軍事学科は、それほど重要視されなかつた。
  一九三七年七月七日に、中国における戦争が再発してから、あらゆる形式の世論統制の手段が強化された。諸学校における軍事教官は、学校当局から完全に独立するようになつた。五カ月の後に、すなわち一九三七年の十一月に、あらゆる教育の根本的目的は、日本国家に対する奉公心を助長することでなければならないと決定された。同じ月に、木戸が文部大臣になつた。そして、教育制度を日本国民の好戦的精神の涵養という任務に転換することが始められた。戦争を支持するように、学生の心を指導するについて、大学教授がみな積極的に協力することを確実にするために、警察と文部省当局が協力した。
  総動員法の目的についての陸軍の説明は、この仕事の強化が必要であることを強調した。そして、荒木は文部大臣に任ぜられたので、一九三八年五月二十六日に、その任務を与えられた。

日本の教育制度に及ぼした荒木の影響

  荒木が文部大臣として任命されてから一月の後、一九三八年六月二十九日に、学校と地方当局とに対して、新しい訓令が発せられた。この新しい文部省令は、一九三八年五月十九日に陸軍が表明した希望を反映していた。教育施設を統一戦線に動員することによつて、日本国民の戦闘精神を強化するために、あらゆる可能な努力が払われることになつた。
(E-302)
  その省令は、『抑々学生生徒は国家活動の源泉にして国民の後勁たり。国家の付託する所、真に重且つ大なるものあるを思はざるべからず』と述べた。省令はさらに続けて、それであるから、教育制度全般の目的は、国民精神の涵養と発展でなければならないと述べた。『忠君愛国の大義を明にし、献身奉公の心操を確立することに力むべし。』学生生徒に対して、日本の『国体』と『国民文化』の『特質』とを、はつきり理解させなければならなかつた。
  純粋な軍事的性質の訓練に、特に重点が置かれることになつた。単に学生が『皇国民として分に応じ、必要なる』軍事的能力を体得するためばかりではなく、同時に愛国の精神と当局に対する絶対的服従の精神を注入するために、この訓練が施されるというのであつた。
  荒木は木戸によつて始められた仕事を継続した。一九三八年五月二十六日から、平沼内閣が辞職した一九三九年八月二十九日まで、かれは文部大臣の職にあつた。この間に、日本の学校制度は、陸軍省から送られた軍事教官の完全な支配のもとにはいつた。軍事教練と軍事講義は、日本の大学で義務的となつた。(E-303)学校でも、大学でも、一切の教育は、日本国民の間に好戦的精神を涵養するという根本的な目的に貢献するようにされた。

(E-304)
戦争のための経済上と産業上の動員の一般的進捗

  一九三八年九月に、内閣は決意を新たにして、陸軍の長期経済産業計画の目標の達成にとりかかつた。日本国内の産業上の組織化の計画は、すでに相当に捗つていた。特定の政府的目的のために、特別の法律をもつて組織されたところの、国策会社という方法によつて、その計画は主として達成されていた。これらの会社は、政府によつて直接に経営され、また管理され、それぞれの企業分野の中で、非常に広汎な権限をもつていた。これらの会社の資本金のほぼ半額は政府によつて提供され、政府はまたこれらの会社に対して補助金を与え、かつ税を免除していた。一九三七年六月四日から一九三八年五月二十六日まで、大蔵大臣として新しい産業階層の組織を監督した賀屋は、一九三八年七月一日に、大蔵省顧問に任命された。
  八月の演説の中で、佐藤は各警察部長に対して、この処置は続けられなければならないと警告した。『来るべき対ソビエツト戦争のことを考えると、我軍需生産力は現在非常に不足している』とかれは述べた。従つて、自由な産業経営から統制された産業経営への変更は、恒久的のものでなければならないし、国家総動員法の実施によつて成就されなければならならないと陸軍は固く主張していた。特に、日本の輸入依存と不安定な外国為替事情という、それに関係のある問題に対応するために、右の処置は利用されるものであることを佐藤は指摘した。
(E-305)
  征服地域の開発と、日本の経済を回復し、貿易尻を調整するためにとられた徹底的な措置とにもかかわらず、日本国内の戦争産業に支払われる補助金は急激に増大しつつあつた。戦争のための国家総動員の目的に向つて進もうという内閣の決意は、重大な財政上の困難にあたつてとられた新しい措置によつて、よく明らかにされている。一九三八年九月十六日に、日本と日本が支配している大陸の地域の金資源を開発するために、資本金五千万円で、新しい国策会社が設立された。
  輸入に依存して供給されていた戦争資材の保存をはかるために、新しい措置がとられた。一九三八年十一月二十一日に、屑鉄及び鋼鉄の収集と活用に関する規則が定められた。屑鉄の配給と販売の独占権を有する統制会社が設立され、政府の統制のもとに置かれた。
  しかし、一九三八年の後半においては、主要な歳出は、中国を開発して経済的と産業的の資産化をするため、並びに同国における軍事行動のためのものであつた。陸軍省の予算だけでも、一九三七年度の二十七億五千万円から、一九三八年度の四十二億五千万円に増加した。一九三八年度の軍事予算は、全体として、同年の国家予算総額の四分の三であつた。この巨額な歳出の目的は、戦争のための国家総動員を完了し、また中国の抗戦を屈服させて、天然資源と戦争産業力の新しい分野を開くことであつた。これが陸軍の方針であつて、最近にも佐藤大佐の演説で表明された。

(E-306)
中国の占領地域へ向つて日本の『新秩序』の拡大

  ドイツの経済的援助を得るための最後の努力をしていた東郷大使は、一九三八年七月二十九日に、フオン・リツベントロツプに対して、日本はその支配力が中国全体に及ぶようになるまで拡大する考えであることを認めた。この目的は、佐藤の八月の演説で再び強調されたが、一九三八年の最後の四カ月間に、日本の政策の基本的な特徴になつた。華中でも、華南でも、陸軍は勝利を収め、これによつて、日本側は中国の領土の大部分に対する支配力を獲得した。華中でも、華南でも、政治的統御と経済的支配との日本側の体制が強化され、拡張された。中国側は抗戦をやめなかつたけれども、一九三六年の国策決定が要求した『東亜大陸に於ける鞏固な地歩』を、日本は相当程度に占めた。
  外務大臣宇垣が一九三八年九月に辞職してからは、陸軍の中国征服という目標は、板垣、荒木、木戸が閣僚であつた近衛内閣から、無条件の支持を受けた。一九三八年七月二十日から、松井大将は内閣参議の一員となつてた。中日戦争の初期に、すなわち一九三七年十月三十日から一九三八年三月五日まで、かれは日本の中支派遣軍を指揮していた。(E-307)一九三八年七月に、内閣改造の行われた後に開始された軍事的攻勢は、一九三八年の九月と十月を通じて続けられた。
  一九三八年十月二十日には、華南の主要都市広東が日本軍に攻略された。五日後の一九三八年十月二十五日には、華中の日本軍は、漢口を攻略することによつて、その目的を達した。この成功を充分に利用して、日本軍はさらに華中の奥深くへ進んだ。
  日本の勢力が最も少かつた華南では、征服された地域の復興と開発に対する援助を始めることになつていた。企画院は、右の地域における日本の軍事的勝利の效果を確保するために、直ちに行動することが必要であると発表した。華北と華中には、日本に支配された政治的と行政的組織がすでに樹立されていた。これらの地域に対する陸軍の計画は、復興、経済開発及び戦争産業の拡張を要求していた。
  一九三八年十一月三日に、総理大臣近衛は放送演説を行い、その中で、日本の対華政策に新しい段階が到来したといつた。中国の天然資源の開発によつて達成することができる『経済提携』についてかれは述べた。近衛によると、東亜において『新しい、理想的な秩序』を樹立しようという日本の目的を達成する上に、これは基本的な手段であつた。復興の諸方策は、作戦行動や政治工作と同様に、重要なものであり、緊急なものであつた。(E-308)これらの方策を通じて、国民党政府は打倒され、新しい親日的な中国が確立されるというのであつた。

興亜院

 一九三八年十二月十六日に、中国における日本の政治的と行政的な支配を確保するために、恒久的な機関が設立された。この日に、中国の内政に関連のあるすべての事項を取扱うために、内閣に一つの新しい部局が設けられたからである。興亜院は百五十人の専任職員をもつこととされたが、この数は総理大臣の意向次第で増加できることになつていた。総理大臣自身が職務上当然にその総裁になることになつていた。同様に陸軍、海軍、大蔵、外務の各大臣が副総裁になることになつていた。総裁官房は、総務長官と四部長に支配されることになつてた。
  この新しい部局は、中国の政治、経済、文化の発展を指導することになつていた。さらに、この部局は、日本政府の各庁が行う中国関係の行政事務の全部面を統一することになつていた。
  興亜院は二重の意味で重要である。第一には、これによつて、征服された中国に関係のある事務が、戦争のための国家総動員の実施について最も重要な職責にあつた五大臣の直接権限内に置かれるに至つたことである。一九三六年に国策の基準を決定したのは、五相会議であつた。(E-309)一九三八年八月に、外務大臣宇垣がドイツ側の軍事同盟提案を初めて付託したのは、この同じ一団に対してであつた。今や日本の『新秩序』の不可分の関係にある部分としての、また新たな武力進出の準備に役立つものとしての、中国の開発を監督することになつたのは、この『内閣内の内閣』であつたのである。
  第二には、中国における事態の展開を注視すること、日本の中国関係事務の処理を調整し、管理すること、日本の内閣が中国に関連のある重要事項を決して見落さないようにすることをもつぱら自己の職務とする常設的な事務機関が設けられたことである。 興亜院が発足した日に、当時陸軍兵器本廠附であつた鈴木少将は、同院の四人の部長のうちの一人になつた。

中国の経済上と産業上の開発を促進するためにとられた措置

  さきに佐藤が指摘したように、中国における軍事上の成功は、政治的と経済的の目的を達成するための飛石にすぎなかつた。一九三八年十月の勝利が収められた後に、近衛内閣は、陸軍の一九三七年の計画中にあらかじめ示されていた中国の経済的と産業的の発展を達成することに専念した。新しい計画は、満州国と日本自身で採用されていたのと同じ型に従うことになつていた。
(E-310)
  総理大臣近衛に、一九三八年十一月三日の放送演説で、この結果を達成するための方法について述べた。華北と華中の経済開発のための主要な機関は、一九三八年四月三十日に創立された二大国策会社とすることになつていた。北支那開発株式会社と中支那振興株式会社は、日本の国策実施のために設立されたのであると近衛はいつた。これらの二つの持株会社は、復興と産業開発の特定の部門に直接従事している子会私に融資することになつているとかれは説明した。華中の会社は、戦争のために荒廃した地域の再建を企てることになつていたが、華北の会社は、日本の戦争準備上の必要に直接寄与することになつていた。なぜならば、華北では、戦禍による損害があまり大きくなく、かつ、この地域には鉄、石炭、その他の天然資源が豊富であつて、これを開発すれば、充分に利用することができるからであつた。中国で実施された政治的と経済的の措置は、軍事的措置とともに、陸軍の計画の産物であつた。中国を征服してその資源を利用しようという東條中将の決意は、そのときまでになし遂げられたことについて、非常に力になつた。陸軍大臣板垣か優柔不断であつたときに、東條は強硬であつた。そして、結局には、板垣は東條と同じ見解をもつようになつた。
(E-311)
  一九三八年五月三十日から、東條は陸軍次官としていろいろの職をもち、それによつて、戦争のための動員の各主要部面に密接に関係するようになつた。その上に、華北と華中の経済を統制し、支配することになつていた二つの国策会社の設立委員会の一員であつた。一九三八年十二月十日、中国に対する陸軍の計画がすでにほとんど成就されようとしているときに、東條はその本職を辞し、陸軍航空総監になつた。

日本の外交政策を支配するために陸軍がドイツとの提携を利用した方法

  ドイツからの一般的軍事同盟の提案を検討した一九三八年八月九日の閣議の後に、内閣は安んじて問題を軍部の手に委ねた。参謀本部から、内閣も陸軍もともにフオン・リツベントロツプの行つた提案に賛成であるという通告を大島は受けた。しかし、この新しい同盟は、第一次的には、ソビエツト連邦を目標とすることが希望されていた。
  内閣がこの提案に同意したことは、日本の外交政策に対して、陸軍がすでに獲得していた努力の程度を示している。日本とドイツとの間に成立していた関係は、大島少将の手を通じて、陸軍によつて発展し、維持されていたものである。
(E-312)
  一九三四年五月に、大島は初めてベルリンの陸軍武官の職に就いた。かれが受けた当時の訓令は、ナチ政権の安定性、ドイツ陸軍のもつ潜在的な価値、並びに、万一ソビエツト連邦が戦争に捲きこまれた際にドイツがとるであらう態度を判断することであつた。大島は外務大臣フオン・リツベントロツプの腹心の友となつた。この交友関係を通じて、陸軍は自己とドイツとの関係を維持しようとはかつた。間接的に日本の外交政策を左右する手段として、陸軍はこの関係を利用した。
  一九三六年十一月に、ベルリンで締結された防共協定は、参謀本部の承認のもとに、フオン・リツベントロツプと大島との間に行われた協議の結果であつた。一九三七年十一月に、参謀本部は、同じ方法を用いて、近衛内閣の中国に対する政策を変更させようと企てた。外務大臣廣田は、中日戦争を解決するための、ドイツからの『斡旋』の申出を不本意ながら受諾した。この中日戦争は、反共の同盟国を相互に疎隔させていたものである。この仲介の企ては、ドイツの発意で行われたように見えたが、これも日本の参謀本部の指示によつて、大島が促したものであつた。最後に、一九三八年八月九日に近衛内閣に伝達されたドイツの一般的軍事同盟の提案は、それ自身、ドイツ当局と参謀本部の部員との間の秘密の申合せの結果にほかならなかつた。
  この最後の提案の作成にあたつて、大島はみずから先に立つて事を運んだ。(E-313)一九三八年の初めのころの月に、このような問題に直接に関係している参謀本部の部から、今が日本とドイツの一般的軍事同盟を締結する好機であると考えるという通知を大島は受けていた。この通告をした者は、参謀本部全体の意見を代表しているわけではないことを明白にしていたのであるが、ドイツ側に対して、大島は日本陸軍がこのような同盟の締結を望んでいると知らせた。大島自身がその内容の大綱を樹て、フオン・リツベントロツプとともに、仮提案の正文を決定した。そのときになつて初めて、参謀本部はそれを承認し、ドイツ側の発意によつてなされた提案として、外務大臣宇垣に伝達した。フオン・リツベントロツプと大島との交渉は、東郷大使が日本政府を代表して、中国の征服地域に対するドイツの経済的参加の条件を協議していた数カ月の、ちようどその間に、かれの少しも知らないうちに、行われていたのであつた。

外交官の異動はドイツ及びイタリアとの関係を強化しようとする内閣の希望を示した

  外務大臣宇垣の辞職に伴ひ一九三八年九月及び十月に、外交代表の異動が行われた。これらの異動は、内閣がまだ積極的な公約を与えることを望まなかつたけれども、陸軍と同様に、ドイツとの同盟関係を一層緊密にしようとする熱意をもつていることを明らかにした。
(E-314)
  今では、ソビエツト連邦と直ちに戦争することは考えられていなかつたから、同国に対しては、もつと協調的な態度をとる必要があつた。一九三八年八月に、日本がハサン湖で敗れたために、重光大使が露骨な言葉で行つた満州国国境に接するソビエツト領土の割譲の要求は、放棄されていた。一九三八年九月二十二日に、重光はモスコーの大使としての任を解かれ、同じ資格でロンドンに派遣された。モスコーにおけるかれの後任者は東郷であつた。ベルリンの大使としての経験から、東郷はそれほど強硬でない政策を行うのに適していた。その前年に、かれはドイツ側に対して、日本が守る意思のない約束を誠意のあるものと思いこませようと努力していた。
  東郷はすでにドイツ側の信用を失つていたから、かれがモスコーに移されたことは、二重の目的に役立つた。一九三八年十月八日に、かれの後任として、かれの陸軍武官大島がベルリンの大使になつた。
 大島の活動は、すでに大いに東郷の外交上の機能を奪い、東郷の権限を侵していた。一九三七年に、中国征服を完遂する日本の決意について、東郷が保証を与えていたときに、フオン・リツベントロツプは大島から、すでに日本陸軍が中日戦争の解決の交渉を望んでいることを聞いていた。一九三八年に、廣田の政策に従つて、東郷はドイツに対して中国の被征服地域内で優先的地位を与えようと申し出たが、そのときには、他方で、大島の勧告で、枢軸三国間の軍事同盟を締結する希望をドイツ側に起させていた。(E-315)一九三八年八月には、東郷の約束が実を伴つていないことが完全に暴露されていた。そして、同じ月に、大島の仕事が近衛内閣の全面的承認を得た。
  従つて、大島が大使に任命されたことは、重大な意義をもつ事件であつた。ソビエツト連邦との戦争を予期して行われた軍事同盟の交渉に対して、それは内閣の承認の印を押すものであつた。完全に陸軍の信頼を受けている軍人を、その時まで專門の外交官が占めていた地位に据えるものであつた。それは日本の外交政策の分野における陸軍の勝利であり、また陸軍の戦争準備の一歩前進であつた。
  大島の抜擢は、今や日本が偽りなくドイツ及びイタリアとの協調を望んでいるという保証をドイツ側に与えた。大島自身は、地位も名声も上つたので、三国軍事同盟を締結するために、フオン・リツベントロツプと自由に合作することができた。
  この仕事は、イタリアにおいてもまた遂行されることになつていた。大島がベルリンの大使に任命される二週間前、一九三八年九月二十二日に、長い間ソビエツト連邦との戦争を望んでいた白鳥が、口ーマの大使に任命された。かれはみずから枢軸三国の間に軍事同盟を締結することが自己の主要任務であると考えていた。
  白鳥の任命も、外交問題における陸軍政策の勝利の、もう一つの重要さを例示するものである。かれの軍閥との関係は久しいものであつた。一九三〇年十月三十一日から一九三三年六月二日まで、かれは外務省情報部長であつた。(E-316)この期間を通じて、陸軍の征服と対外進出の計画について、かれは強力な支持者であることを示した。一九三二年五月、総理大臣、犬養の暗殺される一、二週間前に、内閣と官吏の内部で、総理大臣の自由主義的政策を支持する者と、『皇道』派に属する者、すなわち陸軍大臣荒木の指導する軍閥に属する者との間に、分裂があつた。このときに、日本が国際連盟から脱退することをやかましく要求した外務省官吏の一団の中で、白鳥は特に有力な者であつた。かれの見解によれば、連盟に加盟していることは、満州征服後の日本の立場と両立しなかつたのである。
  それから四カ月の後、齋藤内閣の在任中に、白鳥は再び軍閥の意見を支持した。日本の難局は強力な政府が存しないために生じたのであるとかれは主張した。従つて、荒木こそ、『有力な軍国主義者の代表者』として、来るべき五、六年の間、確固とした政策を進めるであらうと述べ、陸軍大臣荒木が総理大臣に任ぜられることを主張した。
  白鳥は、自分が東京にいることは、自分の主張する意見を護るために重要であると考えていたので、海外勤務を受諾することを好まなかつた。それでも、一九三三年六月二日に、かれはスカンデイナヴイア諸国の公使となつた。そして、海外在勤の期間を通じて、日本はできるだけ早くソビエツト連邦に対する攻撃を始めなければならないという陸軍の意見を支持した。
(E-317)
  一九三七年四月二十八日、蘆溝橋事件の起る三カ月前に、白鳥は東京に呼びもどされ、臨時外務省事務に従事することを命ぜられた。
  一九三八年の初めの数カ月間に、かれは華北と華中を旅行し、対外政策についてのかれの意見が、板垣中将の意見とよく一致していることを知つた。
  板垣は、陸軍大臣に任命されてから二週間を経たない一九三八年六月に、近衛に対して、白鳥を外務次官に任命するように説いた。この要求は、その後間もなく、外務省の少荘官吏の支持を受けた。それは大川が外務大臣宇垣に提出した陳情書にあらわれている。近衛はこの申入れを政治的に好都合であると考えたが、宇垣と外務省の上級官吏とはそれに反対し、この任命は行われなかつた。
  一九三八年八月に、内閣はドイツ及びイタリアとの軍事同盟の申入れを承諾した。他方で、陸軍はソビエツト連邦との戦争の計画を修正した。一九三八年九月に宇垣が辞職したことは、国内政策でも、対外政策でも、陸軍とその支持者が勝利を収めたことを示すものである。その月に、大島はベルリンの大使となり、白鳥は大使として口ーマに派遣された。

(E-318)
陸軍は枢軸諸国との軍事同盟の交渉を続行した

  このように内閣から援助を受けて、ドイツとの友好関係を固めるために、陸軍は新たな努力を払つた。一九三八年十月二日に、陸軍大臣板垣はヒツトラーに電報を送り、ドイツがチエツコ・スロヴアキアのズデーテン問題の処理に成功したことに対して、陸軍の深甚な賞賛を表明した。ドイツの国運が永久に盛んであること、また『日独両国軍の友諠が防共戦線に統一せられ、従来より更に一層強化せられ』ることをかれは祈つたのである。
  ベルリンでは、大島大使はドイツと、日本との陸軍の協力をさらに緊密にするという目的の達成を促進していた。一九三八年の九月か十月に、かれはソビエツトの国境を越えて諜報者を派遣し、またドイツ軍の指導者とソビエツト軍に関する情報を交換する交渉をした。
  その間に、三国同盟を締結するという企ては、口ーマでもベルリンでも考慮されていた。ドイツ側は、ムツソリーニ及びその外務大臣チアノとすでにこの計画を協議していた。ムツソリーニはまだ同盟を締結する決心がついていなかつたが、すでにこの企てに根本的には同意であることを表明していた。
  この提案された同盟条約の正文は、大島、フオン・リツベントロツプ、チアノによつて、その直接協議の結果として作成されたものである。(E-319)その有効期間は十年と定められていた。『単独不講和』規約という形で、新しい条項が追加された。また援助を与える義務が生じたときは、直ちに協議すべきであるということを定めた議定書草案もつくられた。
  一九三八年十二月に、日本からの許可を得て、大島はローマを訪問した。しかし、ムツソリーニにはまだ同盟締結を考慮する用意がないことをかれは知つた。

ドイツとの文化協定、並びに同国に対する近衛内閣の政策

  一九三六年十月に、防共協定が締結されたとき、日本とドイツとの間には、秘密軍事協定が結ばれた。そのときに、ドイツ側は、ソビエツト連邦に対するドイツ側の態度をきめるにあたつては、秘密協定の精神だけが決定的なものであること、この協定は、万一必要な場合には、日独関係をさらに進展させる基礎となるものであることを宣言した。陸軍がそのときしていたのは、この進展を実現することであつた。
  一九三八年十月中に、有田が外務大臣になつた。その前月に、宇垣が辞職した後、総理大臣近衛がみずから引き受けていた外務大臣の職を引継いだのである。陸軍の諸計画を知つている点で、有田の右に出るものはなかつた。それはかれが廣田内閣で外務大臣をしていたからである。(E-320)国策の基準が決定された五相会議の度重なる重要な会合に、有田は右の資格で出席していた。その期間中、外務大臣として、有田は日本とドイツの間に防共協定と秘密軍事協定が締結されるに至つた諸交渉を指揮していた。一九三六年十一月、批准のために、この協定が枢密院に提出されたときに、有田は内閣の代弁者としての役目をつとめた。
  一九三八年十一月二十二日に、文化的協力に関する日独間の協定が枢密院によつて批准された。平沼がその枢密院会議で議長であつた。板垣と荒木はそれぞれ陸軍大臣と文部大臣として出席した。このときにも、有田は日本とドイツの関係を強化しようとする措置に関する代弁者であつた。
  この協定は、両国の文化関係は各自の国民精神にその基調を置くべきことを述べたもので、枢密院審査委員会によつて承認された。この委員会は、この協定は友好関係を強固にし、『之を増進』し、また日本の外交の一般目的達成に寄与するであらうと報告した。
  防共協定が批准されたときと同じように、幾人かの顧問官は、内閣の親ドイツ政策の真の意味について、まだ懸念を抱いていた。(E-321)この新しい協定はなんら政治的の意味を含んではいないことを有田は保証したが、この保証は、ある一人の顧問官を満足させなかつた、その顧問官は、『最近我が国に於いてドイツ国の風潮に心酔せんとするの傾向なしとせず』といつた。『右事実に鑑み、本官は重ねて本協定批准に当り、国民に其の向う所を謬らしめざるよう何等かの方法を講ぜられんことを希望す』とかれはつけ加えた。
  二年前に、内閣の対独政策を支配していた考えが、依然として行われていた。この枢密院会議の記録は、日本の世論はドイツ及びイタリアとの緊密な同盟をまだ考えていなかつたことを明らかにしている。有田は文化協定の意義を実際より軽く説明した。というのは、同内閣はそのような同盟が企てられていることを認める用意がなかつたからである。その上に、木戸とその他の者は、ドイツが提案した形の同盟は、面倒な約束になるのではないかという懸念を表明した。これらの二つの制限的条件のもとに、三枢軸国の三国軍事同盟によつて、戦争に対する日本の国内準備が強化される時期を早めるために、近衛内閣はできる限りのことをした。

一九三八年における日本と西洋諸国との関係の一般的な悪化

  提案されたドイツ及びイタリアとの軍事同盟は、日本の強い主張によつて、第一次的にはソビエツト連邦を目標とすることになつていたが、この新しい提案が、日本の西洋諸国との関係に不利な影響を与えることは避けられないことであつた。(E-322)一九三八年八月に、総理大臣近衛が一般的な軍事同盟についてのドイツの提案を初めて受けたときに、かれは国際情勢に関するドイツの見解についても知らせを受けた。外務大臣フオン・リツベントロツプは、ソビエツト連邦との戦争は避けられないものであり、ハンガリーとチエツコスロヴアキアは同盟国となる可能性があり、ルーマニアは中立を維持するであろうと考えた。かれはフランスをイギリスから引き離すことはできないものと考え、これらの国が敵となる可能性があることを仄めかし、合衆国はこれらの国を経済的には援助するが、軍事的には援助しないであろうと述べた。提案された同盟を日本側の承認を得るために提出する前に、これについて、フオン・リツベントロツプがヒツトラー自身と長い間協議したということは、日本側にわかつていた。
  従つて、内閣と陸軍にとつては、ドイツがある程度まで西洋諸国を目標とした一つの同盟を考えていたことは明らかであつた。ソビエツト連邦ばかりでなく、他のすべての諸国をも目標とすることになる条約の交渉を承諾することによつて、内閣はドイツの提案に暗黙のうちに同意した。
  同じ一九三八年の八月に、陸軍はソビエツト連邦に対して直ちに攻撃を開始する計画を再検討した。そして、中国において、日本の『新秩序』を建設することに努力を集中した。(E-323)一九三八年十二月までには、一九三六年の国策決定に含まれた対外進出主義者の目的は、大体において達成されていた。『大東亜共栄圈』の存在は公然と宣言された。そして、この地域における日本の立場は、国策決定の言葉によれば、日本が『列強の覇道政策を排除する』ことを要求したのである。一九三八年八月二十五日に、佐藤大佐は『支那は英ソ両国を背景とし、両国は陰に陽に支那を援助し、わが戦闘行為の進捗に障碍を与えつつあり』と述べた。
  一九三八年の後半のこれらの月には、すでに緊張していた日本と西洋諸国との関係は、さらにはつきりと悪化した。陸軍の長期計画の遂行は、友好とか条約の尊重とかを口にしても、もはやもつともらしく聞えない段階に達していた。日本の指導者は、まだ戦争の覚悟はできていなかつたが、今までより大胆に語つたり、行動したりする用意ができていた。動員は部分的に達成され、今やドイツの援助が約束されていた。中国の占領は着々と進められていたように見受けられ、日本の新しい帝国が存在するに至つたことは、もはや否定できなかつた。
  事態のこのような発展は、これから、さらに詳細に検討しなければならないが、決して政策に変更があつたことを示すものではなかつた。日本は戦争準備を完成しつつも、依然として『列国との友好関係の維持に努』めることになつていた。しかし、国策決定の目的は、『万難を排除して達成』することになつていた。(E-324)西洋諸国に対する新しい態度は、佐藤が八月に警察部長に対して行つた演説によつて示されている。『英に対しては或る程度の彼の権益を認め、速に蒋介石との縁を一切打切らしめる』とかれは述べたのである。

中国における西洋諸国の権利の日本による侵害――一九三七年七月―一九三八年九月

  一九三七年七月七日に、蘆溝橋で中国における戦争が再び始められてから、日本が中国における西洋諸国の権益を侵害した件数は次第に増大していた。中国におけるイギリスとアメリカとの国民と財産に対する攻撃がしばしば行われた。そして、これらは繰返し行われた外交上の抗議の題目となつた。
  西洋諸国に対する日本の関係に同様に害を及ぼしたのは、中国において『門戸開放』または通商上の機会均等を維持するという条約上の義務を日本が組織的に侵害したことであつた。これらの慣行に関する最も明白な実証は、ドイツ側から出ていた。一九三八年七月二十四日に、中国におけるドイツの代表は、日本の軍当局者が中国と内蒙古の経済を制圧しようと努めていると本国政府に報告した。日本はこれらの国の経済をもつぱら自国にだけ役立たせ、すべての外国の利益を排除しなければならないという意思であるとかれらは述べた。
(E-325)
  外国の抗議に応えて、日本の当局者は、すでに起つた事件に関しては遺憾の意を表明し、戦争の必要上やむを得なかつたと弁解し、条約上の義務は尊重していると称した。しかし、一九三八年六月に、板垣と荒木が近衛内閣の閣僚として木戸と同僚になつたときに、自説を押し通そうとする新しい精神が徐々に現われた。
  一九三八年七月の末に、東京のイギリス大使は、自国のおもだつた苦情の概要を提出した。外務大臣宇垣は、これらの要求を解決することに好意を示したが、それと同時に、大使に対して、もしイギリスが日本に対してさらに友好的になり、蒋介石大元帥を支援することを中止するならば、解決はいつそう容易に達成されるであろうといつた。
  日本は中国に対して宣戦の布告をしていなかつたから、中国国民政府軍に対して、他の諸国が援助を与えることについて、苦情を唱えることを正当化する理由はなかつた。その上に、国際連盟の加盟国であつたイギリスとその他の諸国は、一九三七年十月六日に連盟で可決された決議を支持することを約束していた。そのときに、中国における日本の活動の侵略的性質にかんがみ、すべての連盟国は、中国の抵抗力を弱めるおそれのあるどのような行動をもとることを差控えること、また各国は中国に積極的な援助を与えるために、どんな措置をとるべきかを考慮することが決議されていた。
  宇垣の声明の真の意義は、中国の征服を西洋諸国に黙認させるために、日本は圧力を加える決心であつたという含みにある。(E-326)この政策は、その翌月に明らかにされた。
  一九三八年八月に、イギリスとフランスが天津におけるそれぞれの租界内の親中国的な活動を取締ることを日本は要求した。これらの活動は、国際法に基いて苦情を申し立てる根拠を日本に与えたものでもなければ、その取締は連盟の決議の趣旨に合致したものでもなかつた。それにもかかわらず、イギリスとフランスの当局者は、もし日本の要求に応じなかつたならば、かれらの国が適法に占領している地域から撤退せねばならなくなるおそれがあつた。
  一九三八年九月に、宇垣が辞職した後、傍若無人の精神は、いつそうはつきりと現われてきた。一九三八年の最後の三カ月の間に、有田が外務大臣に就任してから、日本は初めて条約義務を破る意思のあることを公然と認めた。従つて、この期間に行われた外交上の通告の頻繁な交換を、やや詳細に検討することが必要である。

(E-327)
中国における西洋諸国の権利の侵害の継続と『大東亜』主義の出現――一九三八年十月―十二月

 一九三八年十月三日に、東京の合衆国大使ジヨゼフ・C・グルーは、アメリカの苦情の概要を提出した。中国における『門戸開放』の原則の遵守と合衆国の利益の保護とに関する誓約は、従来実行されていなかつたとかれは述べた。通商の規則を定め、これに課税し、これを禁止する究極の権限が日本の手中にある限り、『門戸開放』はあり得ないということを強調した。
  その三日後に、グルーは詳細な通告によつて、この抗議の根拠を示した。その通告は、満州国における日本の諸会社は特恵的な地位に置かれていること、物資の交流に対する制限は、外国の貿易業者に対して、日本側の競争者の負担していない不利な条件を負わせていること、このような措置が中国の他の地域にも適用されるであろうという証拠がすでにあることを指摘した。満州国において、軍事上の必要という口実によつて、合衆国の国民は自分の財産に手をつけられないようにされていた。日本の商船は依然として揚子江下流を使用していたが、アメリカの船舶は航行を拒否されていた。青島の港は、日本の手中にあつた。
(E-328)
  最初の間は、これらの苦情は、単に外務省の代弁者から穩やかな回答を得ただけであつた。このような状態は、戦局の緊急な必要に基くものであり、他の諸国は日本の立場を了解しなければならないとかれはいつた。しかし、次第に東亜『新秩序』の理論が出現してきた。一九三八年十一月三日に、総理大臣近衛は、日本の真意を了解し、新しい事態に適応する政策をとる第三国とは、どんな国とでも、日本は協力するであろうと声明した。
  一九三八年十一月十八日に、有田はこれらの苦情に対して一般的な回答を行い、再び戦局の緊急な必要を指摘し、日本は今やその『東亜新秩序』のために努力をしているものであるから、事変前の体制の諸原則は適用できないと述べた。合衆国の代表者は、有田に対して、この回答はアメリカの要求の全面的な拒否となると述べた。それに対して、外務大臣は、『門戸開放』の原則を中国だけに適用することは、甚だ非論理的であると答えた。グルー大使は、合衆国が条約義務と『門戸開放』の原則とを遵守していることを再び強調し、それによつて、有田からさらに明確な回答を引出した。有田は、日本は第三国と協力することを欲するものであるが、現在においては、『門戸開放』の原則を無条件に適用するのを認めることは、日本にとつて困難であると述べた。中国と日本との、いつそう密接な関係を助長するために必要な措置は、このような原則の実行を排除することを必要とすることがあるかもしれない。(E-329)しかし、他の諸国の経済的活動の余地は、依然として相当に残るであろう。揚子江問題については、かれは何の誓約も与えることができなかつた。
  この意見の交換がすんでから二日して、グルー大使は、広東の海関が一九三八年十一月初旬に日本の領事館当局と軍当局によつて接収されたことを指摘し、これは『門戸開放』の原則に対してさらに新しい違反を構成すると苦情を述べた。今度は、有田は日本の立場をはつきり明らかにした。東洋における国際紛争の防止を目的とした諸条約を原形のまま適用することは、『却て平和と一般の繁栄を齎す所以にあらず』とかれは述べた。日本は『門戸開放』政策に原則において同意しているが、イギリス帝国内部におけると同じように、日本は中国と満州との『特恵的関係』を許されなければならないと述べた。防衛上欠くことのできない必要を満たすために、独占企業が許されるであろうが、一般的には第三国に対して特別の差別は行わないというのであつた。
  グルーは、かれの政府は、条約義務の一方的な変更は認めることはできないと述べた。そして、一九三八年十二月三十日に、現状のどのような変更も、列国の間の会議において行われなければならないと主張した回答をさらに有田に提出した。その後、会談は相当の期間中止された。

(E-330)
海南島を占拠し、仏印に圧迫を加える決定

  一九三八年の最後の三カ月間に、日本の政策の上に、西洋諸国との確執を激しくするものと予想される出来事がまた現われた。蘆溝橋で中日戦争が再び始つてから十日の後、一九三七年七月十七日に、フランスは、中国国民政府に対して、仏印を通じて武器弾薬を補給することを契約した。日本は中国に対して宣戦の布告をしたことは一度もなかつたから、この契約は少しも中立法規の侵害を構成するものではなかつた。それにもかかわらず、フランス当局に対して、日本は何回も抗議した。そして、この圧迫の結果として、一九三七年十月に、当時存在した契約期限が満了したら、軍需品の供給を中止することをフランスは約束した。
  有田が外務大臣として就任した後、一九三八年十月二十六日に、日本は依然として武器が仏印を通じて国民党軍に補給されているという苦情を述べた。フランス当局は、雲南鉄道がこの目的に使用されていることを否定し、日本側から要求された措置をとることを拒絶した。
  それにもかかわらず、中国へ軍用物資を輸送するために、雲南鉄道が使用されていると日本は主張し続けた。一九三八年十二月九日に、有田の承認を得て、日本の海軍軍令部に対して、作戦上の事情から必要である限り、中国の領土内で雲南鉄道を爆撃することについて、外務省には何の異議もないということが通告された。(E-331)この爆撃のもたらす作戦上と政治上の影響はすこぶる大きいものであろうということ、しかし、それがフランス、イギリスまたはアメリカ合衆国を『過度に』驚かせることはなかろうということが前からきめられていた。
  右の政策に一致するものとして、それより二週間前の五相会議の決定があつた。陸軍大臣板垣がその一員であつたこの五相会議は、一九三八年十一月二十五日に、海南島は必要な場合には軍事行動によつて攻略するということを決定した。この中国領の島は、北部仏印の沿岸に相対し、これを制圧する位置を占めていた。

日本の国際連盟との関係の断絶とその意義

  これと同じ期間中に、日本は国際連盟との間にまだ残つていた関係を完全に断絶した。一九三八年九月二十二日に、外務大臣宇垣は、中国の事態を調査するために設けられた連盟委員会に参加することについて、日本の拒絶を伝達した。この回答を受領してから一週間の後に、各国は日本に対して制裁手段をとること、また中国に授助を与えることを連盟は決議した。
  制裁手段をとるという連盟の決議が発表された直後、一九三八年十一月二日に、枢密院会義が開かれた。(E-332)この会議に出席した者の中には、枢密院議長平沼、総理大臣近衛、文部大臣荒木、厚生大臣木戸及び陸軍大臣板垣がいた。
  審査委員会は、連盟を脱退してから、日本は進んで連盟諸機関とその活動に協力したと報告した。しかし、連盟は中国の立場を擁護し、今や日本に対して制裁手段をとることを決議した。具体的な手段はまだ何もとられていないが、この決議が有效である限り、日本と連盟とは完全に対立することになる。従つて日本は連盟との一切の関係を断絶しなければならないが、南洋諸島の統治は、連盟規約と委任統治条項に従つて、これを続けることにする。従来のように、日本は受任国として行政に関する年報を提出することにする。枢密院は審査委員会の報告を採択し、全会一致で連盟との関係を断絶することを決議した。
  この決議は、日本が東亜を支配する意図を有していることを初めて認めたのと時を同じくしていた。陸軍の武力による対外進出計画は、その性質そのものからして、国際団体の権利を否定するものであつた。そして、計画の捗るにつれて、この事実は必然的にますます明らかとなつてきつつあつた。一九三三年に、連盟が満州の占領を非難したことが動機となつて、日本は直ちに連盟から脱退した。(E-333)その後、日本の指導者は、終始一貫して、陸軍の計画の遂行と両立しない国際的な誓約を避けてきた。今やその計画が部分的に達成されたので、日本の指導者は国際団体から脱退する最後的な手段をとつた。
  それにもかかわらず、中国に関する九国条約と南洋諸国に関する連盟規約の規定とは、引続き日本を拘束した二つの重要な誓約となつていた。日本の代弁者は、これらの義務を尊重すると公言した。というのは、日本は戦争の準備をしながら、『列国と友好関係の維持に努』めるということが国策決定の原則であつたからである。当時までの数カ月の間に、中国において起つた諸事件は、外務大臣有田に、日本はもはや東洋に関する諸条約の文字を厳格に守る意思のないことを認めさせるに至つた。この新しい政策の声明は、極東の変化した事態に基くものとされた。しかし、そこに起つた変化は、日本の侵略の結果であつたのである。
  日本は受任国としての権限を連盟規約から得たのであるが、その規約によると、南洋地域に要塞を構築することは禁止されていた。三年あるいはそれ以上前に始められた築城工事は、日本の委任統治諸島の全体にわたつて、ますます急速に進められていた。しかし、これはまだ厳重に守られていた秘密であつた。そして、引きつづいて人を欺瞞することができる所では、日本の指導者はこの手段を用いた。(E-334)枢密院は、連盟規約の規定に従つて、日本がこれらの諸島を統治する意図のあることを再び確認した。

南方進出の準備、並びに日本の究極の目的と荒木

  一九三八年十一月三日に、近衛内閣は『大東亜』の将来に関する政策の公式声明を発した。この声明は、国際連盟との一切の関係を断絶する決定のあつた翌日に発表されたのであるが、日本の『新秩序』の出現を、大川とその他の政治評論家が一般に普及させた曖昧な、また大げさな言葉で説明した。
  国策の基準に関する決定をした者が考えていた通り、このような事態の展開が西洋諸国に敵意を懐かせるようになることは避けられないことであつた。これらの西洋諸国と戦争に訴えない限り、これ以上の進出は達成されないという場合に備えて、日本はすでにその全資源を動員しつつあつた。秘密のうちに、新しい海軍力がつくられつつあつた。そして、太平洋の戦争に備えて、海軍基地が準備されつつあつた。
  この準備は、日本がアジア大陸に建設しつつあつた新しい帝国に外国が干渉することに対して、単に防衛的な警戒の措置でもなかつた。というのは、中国とソビエツト連邦以外の国の領土に対しても、日本は野心をもつていたからである。国策の基準に関する決定は、第二の目標――『外交国防相俟つて南方海洋に発展する』という目標を定めていた。
  すでに日本は南方進出の準備を進めていた。一九三八年の五月と十二月の間に、日本政府の当局者は、オランダ領東インドで宣伝工作を行うことを準備していた。日本の『南方進出』に対する準備をするという公然とした意図をもつて、マレー語の新聞を発行することが計画された。
(E-335)
  これらの日本の究極の目的は、文部大臣荒木が当時行つた演説に反映されている。内閣が『大東亜』の将来に関して宣言をしてから四日の後、すなわち一九三八年十一月七日に、『国民精神作興』に関する詔書の十五周年記念日に際して、荒木は放送演説をした。荒木は中国における日本の成功を回顧し、これはこの詔書の履行の一段階であると称した。しかし、聴衆に対して、根本問題は中日事変そのものにあるのではなく、中日事変は『新しい世界平和』の前兆にすぎないと警告した。日本は来るべき新世界に大きな役割を演ずる立場にありと述べ、それゆえに、日本はどのような非常事態にも備えなければならないというかれの確信を表明した。(E-336)かれは続けて、『蒋介石や世界が何と申そうとも、この新世界の黎明期に重責を負へる光栄ある日本の臣民として十分なる底力を蓄へて、日本それ自体の本質を眺めながら、悠々迫らず一歩一歩足を大地に踏みしめて、永遠の禍根を絶ちつつ建設に進まねばならぬのであります』と述べた。

日本の当面の目的――東亜新秩序の建設及びソビエツト連邦との戦争に対する準備

  これらの究極の目的を達するためには、日本が中国にもつていた足場を固めることと、戦争のための国家総動員をなし遂げる努力を強化することを必要とした。一九三八年の十一月と十二月の発表では、これらの当面の任務が強調された。近衛内閣は、その一九三八年十一月三日の声明で、中国国民政府はすでに一地方政権と化したと発表した。声明はさらに続けて言つた。国民政府が容共抗日の政策を固執する限り、それが潰滅するまで、日本は断じて矛を收めない。というのは、日本が満州国及び新中国と相携えて、『新秩序』を建設しようと企てているからであると。一九三八年十一月二十九日に、外務大臣有田は、日本の中国に対する政策を回顧して、これらの目的と企てとを再び繰返した。
 これらの声明によつて、内閣はやはりソビエツト連邦を日本の野心達成の当面の障害であると見ていたことが明らかである。(E-337)いまでは、西洋諸国との戦争も、究極においては起り得ることであつたが、ソビエツト連邦は最も間近な敵であり、次第に大きくなりつつあつたその国力は、東亜の制覇という日本の目的に絶えず挑戦するものであつた。
  興亜院が設置されてから六日の後、一九三八年十二月二十二日に、総理大臣近衛は、内閣の政策をいつそう明確にする声明を発表した。再び『抗日国民政府の徹底的武力掃蕩』を期するとともに、『東亜新秩序の建設に向つて邁進』するという、かれの内閣の確固たる決意を繰返して述べた。さらに続けて、東亜にはコミンテルンの勢力の存在を許してはならないこと、防共協定の精神によつて、新しい協定を新中国及び満州国と結ばなければならないことを語つた。日本は反共産主義の手段として、新中国と満州国と内蒙古とに駐兵する権利を求めるであろうといつた。中国はその天然資源を、特に華北と内蒙古の地域の天然資源を開発するについても、日本に便宜を与えるものと期待された。

第一次近衛内閣の辞職――一九三九年一月四日――と平沼内閣の成立

  近衛の演説の趣旨には、決意の不足を示すものは何もなかつた。それにもかかわらず、二日後の一九三八年十二月二十四日に、総理大臣は再び内閣の辞表を提出する話をしていた。(E-338)一九三七年六月四日以来のかれの在任期間は、政治危機が繰返して起つたことが特徴であつた。これらの危後が動機となつて、かれは辞職するといつて人を威嚇したことが数回あつた。この威嚇は、どの場合にも、軍閥に刺戟を与えるのに役立つただけであつた。そして、軍閥はかれを説得して留任させた。その場合には、いつでも、陸軍の計画の進展に対する反対が斥けられた。近衛が総理大臣のときに、これらの計画は実を結んだのである。日本はすでにアジア大陸に『新秩序』を建設しており、戦争への国家総動員は、真剣に行われていた。
  陸軍の征服と戦争準備との計画に対して、近衛がみずから終始一貫して支持を与えていたので、この一般的計画の実施に対して、かれはほとんど反対を受けなかつた。しかし、陸軍の目的を達成するためにとられた措置の詳細については、内閣の内部からも、外部からも、幾度も繰返して批評を受けた。一九三八年八月に、近衛は単一政党制度による政府の首班に推されることを希望していた。この政府では、軍閥が反駁の余地のない唯一の発言権をもつことになつていた。しかし、その希望は実現しなかつた。
 内閣の当時の政策の或る部面が賢明なものであるかどうかを疑う者から、再び不満の声が出たに違いないと思われる。以前と同じように、近衛は総理大臣の地位に留まることを勧められた。(E-339)枢密院議長平沼は、かれに対して、中国の現状にかんがみて、その職に留まらなければならないと忠告した。厚生大臣木戸と陸軍大臣板垣は、『計画の進展』を討議するために、総理大臣と会見した。新任の興亜院政務部長であつた鈴木少将は、近衛がその職に踏み留まらなければいけないと信じていた。しかし、このときには、かれらの懇請は役に立たなかつた。一九三九年一月四日に、近衛は内閣の辞表を提出した。
  それに続いて起つた変化は、単に指導者がかわつただけのことであつた。国策の基準の決定の目標を達成するために、近衛と協力した重要な政治指導者の一派は、例外なく官職に留まつた。近衛は枢密院議長になり、かれの前任者平沼が新しい総理大臣になつた。
  陸軍大臣板垣、外務大臣有田及び文部大臣荒木は、それぞれその職に留まつた。木戸は新内閣の内務大臣になり、鈴木は、かれが最近獲得した内閣情報部の委員と、興亜院の部長としての地位に留まつた。
  総理大臣平沼は、一九三六年三月十三日以後、廣田内閣が初めて陸軍の計画の進展に着手してからの全期間を通じて、枢密院議長の地位にあつた。一九三六年十一月二十五日には、天皇の臨席のもとに開かれ、防共協定の批准が全員一致で承認された枢密院会議に出席していた。一九三七年十一月六日には、この協定にイタリアが加入することを承認した枢密院会議の議長であつた。(E-340)一九三七年一月二十日には、日本の委任統治諸島は、帝国の国防上重要な地位をもつようになつたのであるから、海軍の管理のもとに置くべきであると決議した会議の議長であつた。
  一九三八年一月には、平沼は、外務大臣廣田によつて作成された長期の外交政策に承認を与え、中国の戦争は最後まで戦わなければならないという廣田の意見を支持した。平沼が総理大臣の職を受諾する一月余り前の一九三八年十一月二十九日に、外務大臣有田は、詳細にわたつて、かれの中国に対する政策を枢密顧問官に説明した。この政策は、すべての重要な点で、廣田の計画と国策の基準の決定の原則とを包含していた。
  平沼は、一九三八年十一月二日に、日本と国際連盟との間に残つていた関係を断絶することを全員一致で決議した枢密院会議の議長であつた。一九三八年十一月二十二日には、天皇の臨席のもとに開かれ、日独文化協力に関する協定を承認した枢密院会議に出席した。
  満州の征服の前にすら、平沼は軍閥の指導者の中で卓越した地位を得ていた。廣田内閣が政権をとる前の十年の間、かれは枢密院副議長の地位に就いていた。一九三一年七月には、日本の民族精神を養い、それを高揚することを誓言した秘密結社国本社の総裁でもあつた。この団体の理事の中には、陸軍軍務局長小磯中将がいた。この小磯は、それより三カ月以前に、自由主義的な若槻内閣を顛覆しようとした陸軍の陰謀の参画者であつた。
(E-341)
  一九三一年七月という月は、陸軍の計画の進展において、重大な時期であつた。陸軍の指導を主張する者と若槻内閣を支持する者との間には、すでにはつきりした分裂があつた。その二カ月後には、奉天事件が起つた。一九三一年十二月に、荒木は陸軍大臣として、日本における軍部の優越と満州における軍事的支配とをもたらそうとする運動の積極的な指導者になつた。
  一九三一年七月には、自由主義者から、天皇の側近にいる者としては、荒木は危険であると見られていた。かれはまた平沼を首班とする国本社の理事であった。日本の征服と対外進出との過程のそもそもの初めに、平沼が軍閥の最も有力な分子から指導者として仰がれたことは、軍閥の指導者としてのかれの重要性を示すものである。自由主義者の間では、そして陸軍部内でさえも、荒木は平沼の追随者であると見られていた。太平洋戦争の根本的な原因は中国の征服の中にある 平沼が総理大臣になつた一九三九年一月五日には、日本はすでに容易に停止することのできない征服と領土拡張の計画に着手していた。(E-342)国策の基準の決定は、自給自足の目標を達成すことと、日本の全国力を戦争のために動員することとを要求していた。中国に対する日本の侵略が他の諸国に引き起した不満と懸念のために、戦争準備を完成することが従来よりもいつそう緊要になつた。このことは、ひるがえつて、外国の物資の供給源に依存する必要のない戦争経済の整備を必要とした。自給自足が絶対的に必要であることから、陸軍の計画の第二段階を、すなわち南方への進出を実行することが必要となつた。国策の決定には、この措置は、『外交、国防相俟つて』これを行うと定められていた。
  一九四一年十二月七日に、日本と西洋諸国との戦争を引き起すようになつた諸事件の次第に増大する推進力については、なお考察する必要がある。しかし、日本が第二次世界大戦の渦中に捲きこまれるようになつた起源とその傾向をもたらした原因とは、中国の占領地域に日本の『新秩序』が建設されるまでに、順次に起つた一連の事件に求められる。
  一九三八年十一月二十九日、すなわち『大東亜共栄圈』の存在が正式に声明された月に、外務大臣有田は日本の中国に対する政策を枢密院に説明した。国民党が抵抗をやめ、『新中央政権』と合流しない限り、国民党との和平はないとかれはいつた。調停の提議は一切受付けないことになつていた。(E-343)時が来れば、新しい中国の政府との間の解決は、総理大臣近衛が宣言した三原則に基いて行うことになつていた。
  『善隣友好』、『共同防共』、『経済提携』という、これらの原則は、日本が中国でとつた行動を正常化するために、さきに近衛が出した諸声明に由来するものである。それから生じた結果は、一九四一年の日米外交会談の根本的な論争点となつた。この交渉は太平洋戦争の発生によつて終りを告げたのであるが、その交渉の間、右の三原則は一度も満足に説明されたことがなかつた。それにもかかわらず、一九三八年十一月に、ある程度まで、有田は明瞭にその一つ一つの意義を解説することができた。
  有田の説明を基礎として用いれば、満州征服の前に始まり、西洋諸国との戦争で終つた期間において、日本を導いた政策の一貫した発展の跡を辿ることができる。

中国に対する日本の政策の意義――『善隣友好』の原則

  『善隣友好』という第一の原則は、単に日本と満州国と『新中国』との相互的承認を意味していた。(E-344)そして、積極的に提携することと、三国間の軋轢の一切の原因を除くこととに、重点が置かれていた。簡単にいえば、この原則は、よく知られている『東亜新秩序』の概念にすぎなかつた。この言葉の中には、東亜における日本の優越的な役割と、同地域におけるその特権と責任という根本的な前提が暗に含まれていた。この原則は、一九三四年四月十七日の『天羽声明』以来の、日本のすべての重要な政策の声明の基礎を成していた。合衆国が『この事態の現実』を認めなかつたことが、両国の間の敵対行為の根本的原因であると、太平洋戦争が始まつた日に、日本政府は主張したのである。
  有田は、この原則に当然に伴う帰結として、日本が中国における戦争について外国の仲介を許さないことと、日本が国際義務から免れることとを挙げた。日本と国際連盟との間に残つていた関係を断絶したときより、わずか三週間前に、この長年の政策が表明されたことは、すでに述べたところである。
  有田は今や枢密院に対して、イギリス、合衆国及びフランスが『帝国の対支施策を妨害する』態度にかんがみて、日本は『九国条約その他集団的機構による支那問題処理』の考えを排除することに努めることにするという意見を勧めた。(E-345)枢軸国の間の関係を強化し、中日戦争を急速に処理しながら、右の諸国を『各個に我が対支政策を事実上諒解し、帝国の態度を支持するか、少くとも之を傍観する態度に出る』ようにさせるのであるとかれはいつた。

中国に対する日本の政策の意義――『共同防共』の原則

  近衛原則の第二は、『共同防共』という原則であつた。有田は、これは日本と満州国と『新しい中国』との提携を必要とすると述べた。この新しい中国は日本がつくり出したものである。これらの三国は軍事同盟を締結し、『共同防衛』の手段を講ずることになつていた。『共同防衛』に必要ないろいろな事項は、すべての交通と通信との施設に対する日本の軍事上と監督上の権利の保留と、華北及び蒙古における日本軍の駐屯とを必要とした。他の日本の部隊は撤収されることになつていたが、治安を維持するために、華南の特定地域には、駐屯軍を置くことになつていた。中国はこれを維持するための財政的支出に助力しなければならないことになつていた。
  ここで作成された要求は、実質的には有田がこのときに説明したままの形で、一九四一年の日米会談における意見不一致の三つの根本的原因の一つとなつたのであるが、その要求はここで初めて作成されたのである。
(E-346)
  有田は『共同防共』の原則に当然に伴う明白な帰結を示した。かれは『ソ連邦に対しては、今次事変に積極的に参加せしめざるが如く諸般の工作』が実施されるであろうといつた。この考慮は、再び枢軸諸国の間の関係を強化する必要があることを強調するに役立つた。
  一九四一年の日米会談における意見不一致の第二の主要な原因となつた三国条約は、一九四〇年九月二十七日になつて初めて締結されたのであるが、このような条約の大体の原則は、すでに近衛内閣の一般的な承認を受けていた。
  一九四一年の交渉中に、日本は三国条約の締約国としての義務の性質または範囲を示すことを拒んだ。しかし、日本の指導者は、ドイツ及びイタリアとの同盟は防衛的なものであると主張した。それにもかかわらず、外務大臣有田は、一九三八年十一月二十九日に行つた外交方針演説で、枢軸三国が一層緊密な同盟を結ぶことは、日本がイギリス、合衆国及びフランスに対してとるべき『外交上の大策』の一つであると述べた。このような措置によつて、これらの諸国に、アジア大陸における日本の『新秩序』の建設を認めさせようというのであつた。

(E-347)
中国に対する日本の政策の意義――『経済提携』の原則

  『経済提携』は近衛原則の第三の原則であつた。有田は、これを説明して、日本と満州国と『新しい中国』とがそれぞれの天然資源の不足を互いに補うための共同互恵を意味するものであると述べた。日本と満州国に足りない資源、特に埋蔵資源を華北から求めることを重点とし、中国はこの目的のために特別の便宜を供与することになつていた。日本は中国の産業化の計画、経済財政政策の確立、関税海関の統一制度の採用を援助することになつていた。すでに実行されていたこの方針は、一九三七年五月二十九日に出された陸軍の重要産業拡充計画の中で、明白に示されていた。これには、日本は『最も必要と認むる資源を選びて北支の開発に先鞭を著け、其の資源の確保するに努む』と述べてあつた。
  有田は、ここで、六カ月前に廣田が用いたのと大体同じ言葉で、『経済提携』の実施にあたつての、第三国に対する日本の政策を明らかにした。軍事上の必要によつて、『門戸開放』の原則の実行にいくらかの制限が加えられたとかれは述べた。(E-348)指導原理は、今では、華北と蒙古の天然資源を日本が実質的に支配すること、中国の幣制と関税の海関制度の支配によつて、日本・中国・満州国ブロツクの体制を確立することであつた。『列国の在支権益が右二目的に抵触せざる限りは、殊更にそれを排除制限せず』 とかれはつけ加えた。その上に、東亜における日本の優越的地位に障害を及ぼさない『無害な個々の懸案』については、日本はこれを解決することになつていた。不必要な軋轢によつてではなく、すでに略述された『外交上の大策』によつて、西洋諸国の態度を動かすのが日本の政策であると有田は述べた。さらに、ドイツやイタリアのように、日本に好意的態度を示す国に対しては、日本はその参加を歓迎するというのであつた。中国にある権益を保証することは、西洋諸国の態度を動かす第二の手段となるというのであつた。ここに、一九四一年において日本と合衆国との合意を妨げた三大障害のうちの最後のものが、充分に発展した形で、存在したのである。

(E-349)
一九三七年と一九三八年における日本の経済上と産業上の戦争準備の継続

  一九三六年八月十一日の国策の基準の決定は、第一の主要なものとして、二つの関連した目的の達成を必要としていた。すでに満州国を領有していた日本は、その支配をアジア大陸に拡大することにしていた。第二に、みずからの資源を補うために、中国の資源を利用することによつて、日本は軍事力を増大し、戦争産業を拡充し、物資の供給について外国の資源に依存しないようにして、戦争の用意を整えておくことにしていた。
  一九三八年の後半の間に、中国でかち得た軍事的成功によつて、中国における領土拡大という目的は実質的に達成されていた。これはまた経済開発と産業の発展に新しい分野を開き、日本の直接的な軍事負担を軽減し、それによつて、戦争のための国家総動員の達成に向つて、日本が再び力を集中することを可能にした。
  一九三六年には、この動員を一九四一年までに完了させるものとして陸軍は計画していた。この目的を念頭に置いて、陸軍は、次の五年間における軍備と戦争産業との拡充のために、綿密な計画を立てていた。
(E-350)
  一九三七年二月には、満州国に対する五カ年計画が採用され、実行に移された。一九三七年の五月と六月には、軍備の拡充と日本国内における戦争産業の発展のために、陸軍に同様な計画をつくり出した。 そのころに、戦争の準備として、日本の資源の完全な動員を行うために、日本の全経済と全産業とを政府の統制のもとに置くことが計画された。内閣企画庁が一九三七年五月に創設され、この実施を監督する任にあたつていた。
  一九三七年七月七日に、蘆溝橋で中日戦争が再発すると同時に、陸軍の立てた日本の長期動員計画の採用が延期された。中国にあつた日本軍の直接の需要を満たすために、企画庁の監督のもとに、生産が個々別々に拡充された。しかし、陸軍は動員計画の諸目的を犠牲にはしないという決心を固く守つていた。陸軍の統制下にあつた重要物資のうちで、わずか五分の一が中国における戦争の遂行に割り当てられた。
  一九三七年と一九三八年には、中国における軍事行動の規模と激しさが増大したにもかかわらず、陸軍の長期計画の諸目的は、着々と進められた。一九三八年一月に、企画院はその年限りの暫定計画をつくり出し、それによつて、五カ年計画を復活した。その翌月に、陸軍は国家総動員法を通過させることができた。この総動員法は、戦争に対する準備態勢の達成に向つて、日本国民のすべての資源と能力を差向ける権限を内閣に与えた。
(E-351)
  一九三八年五月に、深刻な財政の危機のために、日本自体の動員計画の成功が危くなると、満州国の五カ年計画が変更され、その生産目標が引き上げられた。総動員法によつて与えられた権力が発動された。陸軍は、この法律の目的を説明するにあたつて、どのような犠牲を払つても、動員計画を進めるという決心を再び明らかにした。
  それにもかかわらず、一九三八年七月には、この計画の諸目的は、中国において日本の立場を固める必要があつたので、再び延期された。戦争産業の拡充に関するあまり緊急でない諸方策は、新しい軍事的攻勢を成功させるのに絶対に必要な軍需品とその他の資材の供給を確保するために、延期された。一九三八年十月、華北と華中の大部分に対する日本の支配力が強化されたときに、近衛内閣は経済的自給自足計画と戦争産業の拡充とを再び慎重に考慮した。中国の征服された地域では、すでに満州国で実施されていたのと同様な経済開発と産業発展の計画が立てられた。
  一九三八年の十一月と十二月に、近衛、有田及び荒木が行つた演説は、国家総動員の完成をなし遂げるために、あらゆる努力を尽すという内閣の決意を反映したものであつた。
  このようにして、陸軍の戦争産業拡充五カ年計画を復活するための道が開かれた。これらの計画は、決して放棄されていたのではなかつた。(E-352)中国における戦争によつて、日本の経済に課せられた負担にもかかわらず、陸軍の一九三七年度計画で定められた生産目標は、突破されていた。一九三九年一月、すなわち、平沼内閣が近衛内閣の後を継いだ月に、企画院は、陸軍の一九三七年度計画の諸目的を取り上げ、それをその時期に即するようにした新しい計画をつくり出した。

(E-353)
一九三九年一月、平沼内閣の承認した戦争産業拡充計画

  一九三九年一月に、平沼内閣は、企画院が作成した生産力拡充計画を承認した。この内閣には、有田、板垣、荒木及び木戸も閣僚であつた。こうして、陸軍の一九三七年度の経済産業計画の目的と原則は、はじめて、内閣の明確な承認を得た。
  この新しい計画は、日本の国力の充実を確保するために、特に立案されたものであつた。この計画は、日本、満州国及び中国の他の地域に対する総合的な産業拡充計画を樹立することによつて、日本に従属する領域を継続的に開発することを要求した。一九三七年度計画のように、この計画は、日本が非常時において第三国に依存することをできるだけ避け得るように、日本の支配下にある地域内で、天然資源の自給自足を達成することを目的としていた。
  陸軍の一九三七年度計画におけるように、日本がその将来の国運の『飛躍的発展』に備え得るように、一九四一年度までに、物資の自給自足と軍備の拡充を達成することに、最も重点が置かれていた。
(E-354)
  一九三七年五月二十九日に、陸軍がつくり出した計画においては、戦争上のいろいろな要求を満すためになくてはならないと考えられる或種の産業が選ばれ、政府の補助金と統制を受けて、急速に拡充されることになつていた。
  一九三九年度計画も、統一された計画のもとに急速に拡充される必要があると認められた重要産業に限られていたが、この計画は、前の長期計画において定められていた生産目標を引き上げた。
  戦時の兵站線にとつてなくてはならない造船業は、建造費の半額を限度とする補助金によつて、すでに厖大な拡充が行われていたが、新しい計画によれば、一九四一年度までに、総トン数において、さらに五割以上の増加を必要とした。航空機の生産にとつて、絶対に必要な軽金属工業は、まだ充分に発達していなかつたが、特に指定されて、さらに急速に、経済を無視して、拡充されることになつた。日本が主として合衆国からの輸入に依存していた工作機械の生産は、二倍以上に増加されることになつた。
  満州国に対する五カ年計画は、同地の石炭資源の開発に、すでに大いに重点を置いていたが、新しい計画は、さらに相当量の増産を必要とした。そのような増産は、限界点以下の生産者に対して、莫大な補助金を支払わなければ達成されないものであつた。鉄と鋼鉄を求めて、日本はすでに限界点以下の生産を行つていた。(E-355)それにもかかわらず、一九三九年一月の企画院の計画は、国内生産の増加の総計において、鋼鉄は五割、鉄鉱は十割以上を目標とした。自動車工業は、すでに非経済的に一年に一万五千七百台を生産していたが、一九四一年度までには、この生産高を年産八万台までふやすことを要求された。
  石油と油類は、日本がほとんど輸入に依存していたが、その生産に特別の注意が払われた。人造石油工業はすでに創設されていたが、非常に経費がかかつた。それにもかかわらず、新しい計画は、航空機用ガソリンの生産において六十割以上、人造重油において九十割、自動車用人造ガソリンにおいて二百九十割以上を増加することを定めた。

(E-356)
平沼内閣時代における戦争のための経済産業動員

  一九三九年一月に、平沼内閣が承認した『生産力拡充計画』は、一九三八年五月十九日に、陸軍が国家総動員法の目的を説明したときに、その説明の中で要求していた措置を実施したものであつた。そのときに、陸軍は、陸海軍が常に軍需品を充分に保有しているように、政府において国家総動員のいろいろの要求に対応して、長期計画を整えておくべきであると言明していた。
  産業上と軍事上の準備は相互に関係したものであつて、軍事上の成功は、主として国家の総力の組織的な效果的な動員に依存するというのであつた。
  この理由で、日本における軍需品の生産は、他の産業を犠牲にして拡充されることになり、すべての重要産業は、政府の指示に従つて統一されることになつた。国家総動員審議会は、動員法を運用し、政府がその計画を立案したり、遂行したりすることを助けることになつた。
  一九三九年の生産拡充計画が規定した実施の方法は、陸軍の企画を反映したものであつた。(E-357)事態は将来の生産力拡充が迅速に、また強力に行われるべきことを必要としていると述べられた。そこで、政府は、重要産業の振興と統制のために、すでにとられていた措置を有効に利用すること、迅速に拡充するために選ばれた産業に対して、新しい措置を案出することになつた。必要に応じて、熟練及び未熟練労働者、資金、原料を政府は供給することになつた。これらの目的のために、内閣は、必要なときは、国家総動員法によつて与えられた機能を利用するか、新しい法令を制定することになつた。それゆえに、この新しい計画は、将来の戦争に備えて、日本国民を動員する上に、すこぶる重要な措置であつた。
  一九三九年の最初の八カ月中に、平沼内閣はさきに承認した措置を実施した。一九三九年三月二十五日に、日本が当時遂行していた戦争産業を拡充する計画の秘密を保つために、一つの努力が払われた。『軍用に供する人的及び物的資源に関する防諜』を目的とする法律が可決されたのである。三日後の一九三九年三月二十八日に、文部大臣荒木は国家総動員審議会総裁となつた。
  一九三九年四月に、船舶建造において、今まで以上の補助金の支給と損失の補償を規定する新しい法案が可決された。この工業に対する政府の統制を強化し、建造される船舶を標準化する新しい措置がとられた。(E-358)電力の生産と供給は、全面的に政府の統制と指示に従うことになつた。鉄鋼業に対する統制が強化され、その生産品は特に優先権を与えられた諸工業に供給された。石炭のすべての大口販売は、政府の許可制のもとに置かれた。石油製品の生産と他の人造工業とに支給されていた補助金は増額された。
  一九三九年六月に、政府発行の雑誌『トウキヨウ・ガゼツト』に、満州国五カ年計画は、鉄、鋼鉄、石炭、その他の戦争産業の増産に優秀な成果をもたらしたと報告された。同じ月に、朝鮮のマグネサイトの資源を開発するために、新しい国策会社が創立された。
  戦争目的のための生産が拡充されつつあつた間に、陸軍の兵力も増強された。一九三九年三月八日に、兵役法が改正され、陸海軍予備人員の補充的服役期間が延長された。一九三七年六月二十三日の陸軍の軍備拡充計画が要求した通りに、陸海軍に対して、戦争産業に対する今まで以上の支配権も与えられた。一九三九年七月に勅令が公布され、陸海軍大臣に対して、それぞれの発意で、戦争のための生産にとつてきわめて重要なものとして、選定された種類の事業を収用するという権限が与えられた。これらとその他の措置によつて、戦争の準備のために、日本の人力と資源を動員しようという陸軍の計画が実施されるに至つた。

(E-359)
平沼内閣の中国に対する政策と海南島及び新南群島の占領

  経済上と産業上の戦争準備計画は、何よりもまず、中国に対する日本の支配権の強化を必要とした。一九三八年の十一月と十二月中に、外務大臣有田とその他の第一次近衛内閣の閣僚によつて行われた演説で、最大の重点は、中国の征服を完了し、日本によつて支配される『大東亜圏』の発展を促進しようとする日本の決意に置かれていた。一九三九年一月に、平沼内閣によつて承認されたところの、戦争産業拡充計画を成功させるためには、日本、満州国及び中国の他の地域の完全な統合が必要であつた。
  この計画の遂行は、第一次近衛内閣がまだ存在していた間に、日本の西洋諸国との関係を著しく悪化させた。九国条約の規定は絶えず軽視され、仏印に圧迫を加える措置が講ぜられた。
  一九三九年一月五日に、平沼内閣が就任したが、これらの政策は持続された。一九三九年一月二十一日に、新総理大臣は議会で内閣の方針を説明した。内閣はあくまでも中国における所期の目的達成に邁進する決意であると平沼はいつた。(E-360)日本、満州国及び中国の他の地域は速やかに結合し、『新秩序』が旧秩序にかわるようにしなければならないといつた。あくまで抗日を続ける中国人は壊滅するというのであつた。新しい内閣は、この目的を確実に達成するために、必要ないろいろな措置を講じたと平沼はいつた。
  日本と西洋諸国の間の溝を深めた政策は、このようにして、新しい内閣のもとで、そのまま続けられた。一九三九年の最初の六カ月間の中国における戦争の続行に伴つて、合衆国国民の身体と財産に対して、さらに多くの侵害の事例が起つた。
  征服された中国の地域内で、九国条約の調印国としての義務に違反して、日本は西洋諸国の権益に対する差別を実施し続けた。
  一九三九年二月十日に、日本の海軍部隊は中国の海南島を奇襲し、これを占領した。この不意の行動は、一九三八年十一月二十五日の五相会議で承認されていたものである。この行動の結果として、フランス、イギリス及び合衆国は、直ちに抗議をした。この行動は仏印に対する脅威となつた。仏印は、蒋介石大元帥の軍隊に援助を与えていると日本側が繰返し非難していた国である。(E-361)それにもかかわらず、日本軍はこの島の占領を完了し、その六週間後に、日本はさらに南進した。一九三九年三月三十一日に、日本の外務省は、南支那海に存在する小さい珊瑚礁の一群である新南群島の併合を宣言した。この群島は、海南島の南方七百マイルのところにあつて、中国における日本の行動範囲から、はるかに離れていた。しかし、仏印のサイゴンからは、四百マイル以内のところにあつた。

(E-362)
第一次近衛内閣の在任中における無条件的枢軸同盟の要求の増大

  大島が初めて陸軍武官としてベルリンに派遣された一九三四年以来、陸軍はドイツとの提携がどうしても必要であると考えていた。当時の軍部の政策は、累次の五カ年計画によつて、急速に増大しつつあるソビエツト連邦の軍事力が、あまり大きくならないうちに、ソビエツト連邦を早期に攻撃することが必要であるというのであつた。この攻撃のためには、ソビエツト連邦に対するドイツとの同盟が最も望ましいのは明らかであつた。
  一九三八年五月と六月に行われた第一次近衛内閣の改造の後に、陸軍は内閣の政策を支配した。今や内閣の政策は、中国の征服を完了すること、ソビエツト連邦があまりに協力にならないうちに、これに対する攻撃を始めること、戦争のための国家総動員の完了を急ぐことを目標としていた。これらが国策の基準の決定の最も主要な目的であつた。一九三八年八月に、日本がハサン湖で敗れた後、陸軍大臣板垣とその他の陸軍の指導者は、ソビエツト連邦に対する予定の戦争を延期しなければならないと決定した。そこで、しばらくの間、陸軍の努力は中国の征服に集中された。他方で、この征服の成否に、経済上と産業上の戦争準備の計画の達成がかかつていた。
(E-363)
  一九三八年の終りの数カ月の間に、中国の抵抗を打破り、中国を開発して経済的に利益の挙がるものにしていくという仕事は、相当の成功をおさめた。その代償として、日本と西洋諸国との関係が著しく悪化したが、これは避けられないことであつた。
  中国にある西洋諸国の権益を侵害するという内閣と陸軍の固い決意は、もう隠すことも、いい繕うこともできなくなつた。日本の国際連盟との関係のうちで、残つていたものも打ち切られた。大東亜圏の建設が声明された。
  日本は西洋諸国の反感を刺激していたので、軍閥の一部は、今までになかつたほど強硬に、ドイツ及びイタリアとの一般的軍事同盟を主張するようになつた。
  一九三八年七月に、当時のベルリン駐在陸軍武官大島は、ドイツと日本の新しい同盟を提案した。外務大臣フオン・リツベントロツプは、直ちに、ドイツは一般的軍事同盟を望んでおり、ソビエツト連邦を唯一または主要な目標とする同盟は望んでいないことを明らかにした。リツベントロツプは、かれのこの言明に、対外政策に関するかれの見解を述べた通牒を添えた。それは、イギリス及びフランスとドイツとの間に、戦争が起り得るとドイツが考えていることを明らかにしたものであつた。大島は、提案された同盟の範囲に関して、リツベントロツプの見解を受け容れ、提案された同盟の規定の大要をみずから書いて、これを直ちに参謀本部に送つた。一九三八年八月の末に、提案された条項には、陸軍も海軍も大体同意しているという通告を大島は受けた。(E-364)しかし、陸海軍は、提案された条約に基く日本の義務を制限するような変更を加えたいと希望した。この条約は、防共協定の延長と見做され、主としてソビエツト連邦を目標とするものにしようというのであつた。西洋諸国が主要な敵であるという印象を与えることを避けるように注意すること、即時または無条件の軍事的援助を与える義務を日本は負うものでないということを大島は警告された。これは日本が自動的にヨーロツパ戦争に巻きこまれるようになるのを防ぐものであつた。
  しかし、大島は、この訓令を自分の解釈で、日本には一般的軍事同盟を結ぶ用意があるとドイツ側に言明した。提案された条約は防共協定の延長と見做されるべきであり、主としてソビエツト連邦を目標とすべきであるという訓練をかれは受取つていたが、この訓令を無視し、ドイツ側に対して、日本の軍部の指導者は、ドイツの行つた提案に完全に同意していると了解させるようにした。提案された軍事同盟の草案は、イタリアの外務大臣チアノ、フオン・リツベントロツプ及び大島の同意によつて定めたもので、すべての第三国を一様に目標とするものであつた。ベルリン滞在大使に任命されてから間もない大島は、一九三八年十月の末に、この草案を日本の外務省に送つた。外務省はしばらく前から有田が指揮していた。内閣ははつきりした言質を与えることなく、提案に対して一般的な賛意を表明したが、この新しい条約がおもにソビエツト連邦を目標とすることを日本は希望すると述べた。
  近衛内閣は、このような条約の締結をもたらすために、これ以上に積極的な措置をとらなかつた。
(E-365)
  一九三八年の九月と十月に、白鳥と大島は、それぞれローマとベルリン駐在大使に任命された。この二人は、ドイツ及びイタリアとの一般的軍事同盟に賛成していた。
  外務大臣有田は、ドイツ及びイタリアとの軍事的関係の強化を望んだが、同時に表面上は西洋諸国と友好関係を維持することをも希望した。外務省は大島に対して、提案された条約は中日戦争の解決を容易にし、ソビエツト連邦に対する日本の立場を強化し、それによつて、軍隊を他の場所で用いることができるようにし、また日本の立場を国際的に強化するであろうと通知した。しかし、ドイツ側の草案を受諾するという意味を有田は述べたのではなかつた。かれは大島に、日本は対案を提出すると通知した。
  一九三八年十一月二十五日に、有田は枢密院で、中国における日本の行動に、ソビエツト連邦に干渉させないようにするために、あらゆる措置を講ずることが日本の政策であると述べた。何よりもこの理由のために、日本はドイツ及びイタリアとの関係を強化することを望んだ。
  一九三八年十一月二十九日に、近衛内閣の政策は有田によつて明らかに述べられた。日本は中国の本土と蒙古における地位を強固にしようとした。日本が支配していた地域内で、ソビエツト連邦との戦争に向つて、軍事的な準備態勢をつくり出すために、あらゆる必要な措置を日本はとることになつていた。しかし、みずから求めて早急にソビエツト連邦と戦争を始めるという考えはなかつた。(E-366)このようにして、有田は国策の基準の決定に述べられた立場――すなわち、ソビエツト連邦は、アジア大陸に関する日本の計画の最も主要な敵であり、結局には戦争になるのをほとんど避けることができないであろうということ――を固執した。
  しかし、有田はまた西洋諸国に対して、さらに強硬な立場をとらないわけにはいかなくなつていた。イギリス、合衆国、フランスが中国に対する日本の政策を妨害したから、中国における紛争を解決するにあたつて、日本は国際的な機関の使用を避けたいとかれは述べた。条約上の義務は、中国における日本の政策と衝突しない限りにおいてだけ、遵守するというのであつた。西洋諸国に対しては、中国における日本の政策を黙認し、自発的に支持するようにさせるか、少くともその政策が実施されている間は、何もしないで、傍観しているようにさせるというのであつた。
  この理由からも、またソビエツト連邦に対する戦争の準備としても、枢軸諸国との関係を強化しようというのであつた。このことは、一方では、ソビエツト連邦が二正面の戦争を予期しなければならなくなることを意味し、他方では、中国において西洋諸国から妨害を受ける危険を避ける大きな外交的措置となるのであつた。しかし、有田は、ドイツの思うままに日本をイギリス及びフランスとの戦争に巻きこむような同盟を欲しなかつた。そのような戦争は日本を合衆国との太平洋戦争にも巻きこむかもしれなかつた。平沼内閣在任の全期間を通じて、海軍は有田を強く支持した。というのは、海軍は太平洋戦争に対する準備ができていなかつたからである。
(E-367)
  そこで、内閣の希望通りに、有田は枢軸との関係をいつそう緊密にする政策を立てたが、それは防共協定の強化策としてであつて、かれの限られた目的には不必要であつたところの、一般的軍事同盟としてではなかつた。一九三八年十一月から一九三九年三月まで、かれはこの協定の内容を強化し、他の国を協定の規定に参加させようと努力した。

枢軸関係強化の追加的理由となつた西洋諸国との関係のいつそうの悪化

  一九三九年の初めの四カ月の間、日本と西洋諸国との間の隔たりは広くなりつつあつた。外務大臣有田自身が雲南鉄道の爆撃を是認した。海南島と新南群島は日本軍によつて占領されていた。オランダ領東インドとニユーギニアの支配のための準備が行われつつあつた。これらの地域で産する石油と他の原料に対する必要が増大しつつあつた。中国における西洋諸国の条約上の権利に対する妨害も増大しつつあつた。さらに悪いことには、中国における陸軍の行動が西洋諸国との間に存在する緊迫した関係を故意に悪化させつつあつたことである。これらのすべての理由のために、平沼内閣の閣僚は、今ではドイツ及びイタリアとなんらかの軍事同盟を締結したいとあせるようになり、一九三九年四月になると、有田は単に防共協定を強化するに止めるというかれの限られた計画を放棄した。しかし、内閣はまだ同盟が西洋諸国との戦争を促進するものではなく、それを予防するものであることを希望していた。

(E-368)
閣内不一致の発展

  平沼内閣を分裂させた論争点は、そのころ全閣僚が希望するようになつていた同盟の締結を確保するために、どの程度の約束を日本がしなければならないかということであつた。
 一九三八年十一月と十二月中に、ソビエツト連邦も西洋諸国も同じように目標とする一般的軍事同盟を締結するために、大島は努力を続けた。白鳥も同じように、このような同盟の締結のために働いた。日本では、有田の防共協定を強化する政策がとられていた。
一九三八年十二月に、有田は大島に対して、外務省は提案された同盟が主としてソビエツト連邦を目標とすることをまだ希望していると知らせた。ドイツが西洋諸国との戦争に巻きこまれた場合に、日本が必ず参加しなければならないような約束をしておかないようにするという、はつきりした目的のために、外務省の代表者伊藤を首班とする使節団がイタリアとドイツに派遣された。この政策は、大島がすでにドイツに与えた言質と相反するので、大島も白鳥も反対した。伊藤使節団がローマを訪れた後、一九三九年二月七日に、白鳥はイタリア側に対して、日本は新しい提案――おそらく有田の政策の線に沿うもの――を提出するが、イタリアはそれを拒否すべきであると警告した。
(E-369)
一九三九年一月五日に、平沼内閣が就任すると、間もなく、陸軍大臣として留任した板垣が、ドイツの希望する一般的軍事同盟を締結せよという白鳥と大島の要求を支持していることが明らかになつた。
  一九三九年二月七日に、外務大臣有田は天皇に対して、参謀本部が大島にドイツとの折衝で職権を越えないように警告したということを報告した。しかし、その同じ日に、条約はソビエツト連邦だけを目標としてはどうかという天皇の意見に対して、陸軍は従うのを喜ばないことを示した。これは、一九三八年八月に大島に与えられた訓令の中で示されていた陸軍の態度とは、反対のものであつた。そのときには、陸軍も海軍も、提案された条約を防共協定の延長と見做すこと、それがソビエツト連邦を目標とすることを希望していると述べられていた。今度は陸軍は一般的軍事同盟に賛成すると明言した。
  白鳥も大島もともに、一九三九年二月中にベルリンに到着した伊藤使節団の提案を、正式に伝達することを拒んだ。しかし、両大使は、チアノとフオン・リツベントロツプ両外務大臣に対して、内密に使節団の訓練を伝え、ドイツの提案が日本によつて受諾されない限り、辞職すると威嚇した。
  外務大臣有田は、白鳥と大島の活動のもたらす結果について、今やはなはだしく憂慮していた。(E-370)一九三九年二月十三日に、有田は、提案された同盟に関して、大使大島が直接陸軍に報告し、外務省には通告さえしなかつたと憤慨して苦情をいつた。もし自分が陸軍に対してとらなければならなくなつた強硬な立場が成功しないならば、日本の外交政策は完全な失敗に終るであろうと有田はいつた。
  総理大臣平沼と陸軍大臣板垣が出席した一九三九年二月二十二日の枢密院会議で、外務大臣有田は、枢軸諸国との間の国交の強化は、主としてソビエツト連邦を目標としなければならないという政策を堅持する旨を明らかにした。参加国の数をふやすことによつて、防共協定が量的に強化されるだけでなく、枢軸側三国間の協定で条約の内容を変更することによつて、これが質的に強化されると有田はいつた。
  有田の言明は、ドイツ側が一九三八年八月に提案した一般的軍事同盟を締結するために、なぜ第一次近衛内閣も平沼内閣もこのときまで積極的な手段を講じなかつたかを示している。ドイツは、ソビエツト連邦と西洋諸国との両方を目標とする一般的軍事同盟を希望していた。この当時の日本の公けの政策は、ソビエツト連邦を唯一の目標としないとしても、主要な目標とする同盟であつて、このためには、新しい同盟を必要としなかつた。有田の目的のためには、防共協定の規定を強化することで充分であつた。
(E-371)
  ここにおいて、平沼内閣の内部に紛争が起つた。外務大臣有田は第一次近衛内閣の政策を維持し、ソビエツト連邦を目標とする枢軸との条約を歓迎すると同時に、ドイツと西洋諸国との間の戦争に参加しなければならないように、日本を拘束しようとする企てに反対した。他方で、陸軍大臣板垣は、日本はドイツの提案した一般的軍事同盟を締結しなければならないという見解を先に立つて主張した。軍の中には、他のすべてをさしおいて、ドイツとの一般的軍事同盟の締結を第一とする一派があること、大島と白鳥は、この一派のために、陸軍大臣板垣の了解と支持を得て行動していることが今や明らかになつた。
  一九三九年三月十日に、有田は、外務大臣に対してよりも、陸軍に対して忠実な態度を示していたところの、大島と白鳥の両大使の提出した辞表を受理する意思を表明した。有田は総理大臣平沼がこの点でかれを支持すると信じたが、このような決定は何もなされなかつた。
  一九三九年三月十七日に、板垣と米内は、提案されたドイツとイタリアとの一般的軍事同盟の問題については完全に意見が相反していたにもかかわらず、議会で日本の政策に関する共同声明を行つた。陸海軍両大臣は、アジアの新時代のための日本の政策が、疑いもなく、第三国との摩擦を引き起すであろうという点で、意見が一致していた。(E-372)かれらはソビエツト連邦及びフランスの中日戦争に対する態度を不快としたのであつて、これらの国が中国から追い出されない限り、紛争の解決は不可能であると述べた。
  有田でさえも、西洋諸国と日本との関係の悪化に圧せられて、防共協定を延長する協定の外には、どのようなものも締結すべきではないというかれの提案を放棄したが、それはちようどこの一九三九年四月のころであつた。
  一九三九年四月中に、日本は軍閥が唱えた見解に対する譲歩を含新しい対案をドイツとイタリアに出した。ドイツ側の草案が部分的に取入れられたが、不当に西洋諸国に疑惑を起させないように、それには制限つきの解釈を与えられなければならないとされていた。
 大島と白鳥は、再びこの提案を正式に伝達することを拒んだが、今度もまた、ドイツとイタリア側に対して、もし両国がイギリス及びフランスと戦争を行つたならば、日本は西洋諸国に対する戦争に参加すると知らせた。ドイツとイタリアは、前述の日本側の制限つき提案を拒否した。

ドイツと妥協的協定に達しようとする内閣の企てに対する軍閥の反抗、一九三九年四月

  この期間中に、平沼内閣の閣僚は、その政策を定めようとして、多くの会議を続けて行つた。(E-373)西洋諸国に対する戦争において、日本がドイツとイタリアの側に参加するという大島と白鳥の言明は、外務大臣有田の反対をさらに強め、両大使にこの約束を撤回させなければならないと有田は天皇に報告した。天皇は有田に同意して、陸軍大臣板垣を叱責した。その板垣は、かれの態度に関して、天皇に報告されたことを憤慨した。
  陸軍大臣板垣の指導する軍部派の意見と、天皇の側近者の支持を得ていた外務大臣有田の意見との間に立つて、平沼は板挟みに陥つた。平沼自身は陸軍の意見に傾いていて、それを支持したいと思つた。内務大臣木戸は、平沼に向つて、天皇の意見が陸軍の意見ともつと緊密に合致することが望ましいと勧告した。内閣全体は、日本のドイツとの関係を強化することを希望し、無分別にならない程度で、譲歩をしようという気持になつていた。陸軍は、日本がヨーロツパ戦争に巻きこまれることを希望していないと主張した。しかし、この議論には、なんの誠意もなかつたことは明らかである。というのは、陸軍は防共協定に附属していた秘密協定を廃棄したいと思つていたからである。軍事援助を与えるという日本の義務を、ソビエツト連邦に対する戦争の場合だけに制限していたのは、この協定であつた。
  大蔵大臣石渡が陸軍大臣板垣を支持し、海軍大臣米内が外務大臣有田を支持して、五相会議の行きづまりが続いた。(E-374)このような状況において、一九三九年四月二十二日に、内閣はその最後の提案でとつた立場を固執するということに決定された。大島は依然としてドイツ側との連絡機関として用いられることになり、もし交渉が不満足に移つたならば、内閣は辞職するということになつた。
  この間、ドイツとイタリアは、ヨーロツパで戦争を行うことに、意見の一致を見ていた。一九三九年四月十六日には、ゲーリングとムツソリーニがローマで会見していた。かれらは、そのときに、両国はイギリスとフランスに対して戦争を開始する好機を待つことにきめていた。その間は、両国とも最大限度に軍備を整え、戦争のための動員体制を維持することになつていた。同じ月に、フオン・リツベントロツプは大島と白鳥に対して、もしドイツと日本との間の条約の話し合いがあまり長引くならば、ドイツはソビエツト連邦となんらかの形で接近を計らなければならなくなるかもしれないと警告した。結局において、平沼内閣は、枢軸諸国との一般的軍事同盟の締結について、意見をまとめることができなかつた。そして、一九三九年八月に、ドイツはソビエツト連邦と不可侵条約を締結した。
  白鳥と大島が一九三九年四月の日本側の対案を提出することを拒否したことが明らかとなつた後に、内務大臣木戸の態度が変つた。(E-375)前には平沼に対して、ドイツとの同盟を結ぶために、あらゆる努力をしなければならないと勧告したのであつたが、両大使が依然として一般的軍事同盟を支持し、これに反する日本外務省の指令を無視していることから、一九三九年四月二十四日に至つて、木戸は両大使を召還するほかはないと考えた。その翌日に、大島と白鳥自身から、かれらの召還を要求した緊急な要請が届いた。
  事態は今や危機に瀕した。もし内閣が日本とドイツ及びイタリアとの関係を強化することに成功しなければ、その目的を達し得なかつたことになるであろう。他方で、もし内閣がドイツの要求を受け容れたならば、ドイツと西洋諸国との間に起るかもしれないどのような戦争にも、日本は参加しなければならない立場になるのであつて、閣僚の中には、当時それを望まない者があつた。
  このような状況のもとで、受諾のできるような協定をドイツ及びイタリアと結ぶために、内閣は最大の努力をすることにきめた。大島と白鳥が訓令に従わないことにかんがみて、一九三九年四月二十六日に、平沼が東京のドイツ及びイタリア大使を通じて、ヒツトラーとムツソリーニに直接折衝することが決定された。総理大臣平沼は、枢軸国の間の提携を求める一般的な要望を述べることになつていた。外務大臣有田は、両国の大使に、日本が直面している具体的な問題を説明することになつていた。

(E-376)
一九三九年五月四日の『平沼声明』

  『平沼声明』と呼ばれるようになつたこの個人的書簡は、一九三九年五月四日に、有田から東京駐在のドイツ大使に手交されたが、有田にとつては、それは明らかに不本意であつた。
  この声明で、平沼はドイツにおけるヒツトラーの業績に対して称賛の意を表明し、自分も同様に日本の『東亜新秩序』を維持する仕事につとめていると知らせた。ドイツと日本が当面している使命の遂行を可能にした防共協定の効果について、平沼の満足の意を表明した。自分は今防共協定を強化し、ドイツ、イタリア及び日本の提携をいつそう緊密にする協定の締結を考えているといつた。かれは続けて、『われわれの関係の強化に関する限り、日本はドイツ及びイタリアの一方がソ連の参加なくして一国または数国の攻撃を受けた場合に於ても両国に味方し、両国に対して政治的、経済的援助及び日本の国力を以て可能なる限り軍事的支援をも与へんとする強固且不動の決意を有することを確言することができる』といつた。
  それから、平沼は制限的条項をつけ加えた。これは有田の政策を表明したものである。(E-377)『日本は右の如き協定の規定に従ひドイツ及びイタリアに対する軍事的援助を考慮する用意があるが、日本は自国の今日の事態に鑑み、現在に於てもまた近き将来に於ても、両国に対して実際上何等有効な軍事的援助を与えることはできない。併し情勢の変化により之が可能になつたならば、日本は欣然之を与へることは申す迄、もない』とかれはいつた。
  平沼は、この留保が受諾し得るものであるということをはつきり確認することを求め、提案された同盟の目的を説明するにあたつて用心することも求めた。
  平沼声明は、ドイツと日本国内の軍部派に対して、いくらか譲歩をしたが、ドイツが西洋諸国と戦争をすることになつても、日本は直ちにドイツに軍事的援助を与える義務を負うものではないという規定は、重要なものであつた。この声明は、ドイツとイタリア側ばかりでなく、大島と白鳥の両大使からも無視された。
  内閣の内部は、紛争の解決がつかないという状態であつた。外務大臣有田と海軍大臣米内は、ドイツが西洋諸国との戦争を始めることにきめれば、いつでも日本は西洋諸国を相手に戦う義務を負うことになるような同盟の締結に対して、激しく反対した。陸軍大臣板垣と大蔵大臣石渡は、枢軸との完全な結合を希望した。他の閣僚の間には、さまざまな意見があつた。内務大臣木戸は、三国軍事同盟を締結しようとする陸軍の懸命の努力に同情はしていたが、このような同盟の結果として、日本が陥るかもしれない危険を認めていた。(E-378)拓務大臣小磯は、陸軍の勢力拡大計画の忠実な支持者であつたが、日本のドイツとの関係がある限界内で強化されたときは、イギリスを説いて、中日戦争の満足を解決をまとめさせることができると考えたので、有田の見解に傾いていた。
  決定的な発言権は総理大臣平沼にあつた。かれは陸軍の方針を支持し、また大島と白鳥が訓令に従わないのを許す傾向があつた。一九三九年五月四日のかれの声明は、日本自身の戦争準備を補い、また武力によつて対外進出の目的を達成することを可能にするような同盟を締結することに、かれの内閣が熱心であつたことを示した。
  しかし、平沼のとつた方式は、提案された同盟がどのような形式をとるべきか、またどのような目的を果すものと期待してよいかについて、引続き根本的な意見の相違があつたことをも示していた。

停頓状態の継続

  一九三九年四月の日本側の提案で、さらにまた一九三九年五月四日の平沼声明で、一般的軍事同盟についてのドイツの要求に対して、内閣は新しい譲歩をした。しかし、軍部派は、今では第一次的に西洋諸国を目標とするということがわかつた同盟に、日本が完全に参加することを絶対に必要としているドイツの要求に対して、相変らず支持を続けた。
  平沼声明は、有田の方針と陸軍大臣板垣及び軍部派の方針との間の、本質的な相違を除くに至らなかつた。(E-379)内閣の中の両派とも、中国の支配及び東南アジア諸国への進出という国策によつて、西洋諸国の反対が強くなるであろうということは認めていた。有田は相変らずソビエツト連邦を日本の東亜『新秩序』のおもな敵と見做していたので、第一次的にソビエツト連邦を目標とした同盟を希望した。枢軸諸国の間のこのような同盟は、西洋諸国が上に述べた国策の遂行を妨げることを思ひ止らせることになるであろうとかれは考えたのである。
  しかし、軍部派は、ソビエツト連邦との即時開戦という予想に、もうとりつかれていなかつたので、陸軍の対外進出のすべての目的が成功するかどうかは、戦争のための日本の動員ばかりでなく、枢軸諸国の間の完全な目的の一致にもかかつていると信ずるようになつた。西洋諸国は、日本が南方進出の目標に達するのを妨げていた。これらの諸国は、陸軍が遂行していた中国における侵略戦争に対して、容赦なく反対していた。これらの諸国は、戦争のための動員の成否を左右する重要な原料を支配していた。軍部派の見解では、日本とドイツとイタリアの一般的同盟がつくり出す脅威によつて、これらの諸国を牽制し、日本の対外進出の国策に反対させないようにしなければならなかつた。
  フオン・リツベントロツプは、西洋諸国が来るベき年にドイツとイタリアに敗れたならば、日本が獲得するであろう利益をすでに指摘していた。(E-380)それゆえに、完全な無条件の軍事同盟を要求することは、陸軍の方針の基本的な特徴となつていた。ドイツの政策が変り、また西洋諸国に対する攻撃がもう決定されていたので、軍部派は、このような同盟が第一次的にはソビエツト連邦でなく、西洋諸国を目標とするものであるということに満足していた。

(E-381)
無条件枢軸同盟を締結する軍部の共同謀議に対する平沼の支持

  一九三九年の五月中、すなわち平沼声明がなされた直後に、軍部派は一般的な軍事同盟の締結を達成するための努力を再開した。東京駐在のドイツ大使オツトは、平沼が声明を出したのは、満足な妥協に到達するために、できるだけのことをする用意が日本にあるかどうかについて、口ーマとベルリンで疑惑が生じているかもしれないので、それを打ち消す試みとしてであつたと報告した。この声明に対する陸軍の態度をオツトは確めてみようと約束した。
  二日後の一九三九年五月六日に、陸軍大臣板垣の方針に直接に従つて行動していたところの、参謀本部部員の見解をオツトは報告することができた。陸軍の考えでは、平沼の声明は、当時の状況のもとで望み得る最善の提案を現わしたものであつた。それにもかかわらず、陸軍の意向としては、西洋諸国に対抗するために、日本の軍事的援助を実施するについて、この声明は『情勢の変化』という不明確なことを条件としているが、この言葉づかいをはつきりさせ、また強くしたいということであつた。
  陸軍次官はオツトに対して、日本は比較的に孤立しているから、直接の協力を与えるについて、不利な立場に立つてあろうが、この条約は、日本を確定的に枢軸諸国に結びつけるであろうと告げた。(E-382)しかし、海軍は平沼声明に現われた方針に対する反対を続け、政府全体を通じて、同盟の味方と敵との間に、 深い溝ができていた。
  フオン・リツベントロツプは、日本側の遷延によつて、ドイツとイタリアとの間に、別の協定が必要になつたけれども、三国同盟の交渉は、少しも悪影響を受けるものではないといつた。かれはまた大島に対して、ドイツとイタリアとは、直接にフランスとイギリスに対抗しているから、行動をとらないわけには行かなくなつたといつて、新しい同盟が直接に利用されるのは、西洋諸国に対してであることを明らかにした。
  一九三九年五月六日に、すなわち、平沼声明がドイツに伝えられた翌日に、大島は再び外務大臣有田の訓令を無視した。その時に、二国同盟について協議するために、イタリアに向う途中であつたフオン・リツベントロツプは、ドイツまたはイタリアが第三国と戦争を行つた場合に、たとい日本から軍事的援助の来る見込みがまつたくないとしても、日本も交戦状態にあるものと見做してよいかどうかと質問した。平沼声明の字句に構わずに、大島は肯定的な回答をしたことを有田に報告した。このような保証が権限なしで行われたことについて、有田は非常に憤慨した。そして、総理大臣平沼が、中立的な態度をとるよりも、むしろ陸軍を支持する方に傾いていることを知つていただけに、かれはいつそう困惑した。
  その翌日の一九三九年五月七日に、大島の報告を審議するために、今ではほとんど絶え間なく会合していた五相会議が開かれた。予期されたように、総理大臣平沼は陸軍大臣板垣に賛成し、フオン・リツベントロツプに対する大島の回答を支持した。
(E-383)
  一方において、一九三九年五月六日に、ドイツ外務省の一官吏が新しい非公式な提案を出した。それは日本が以前に拒否した要求を含んだもので、平沼声明にはまつたく触れていなかつた。外務大臣有田は、調査の結果、この提案の草案は、日本陸軍がかねてドイツ外務省に提出しておいたものであることを発見した。この軍部の共同謀議の結果に対して、有田は責任をとることを拒否したが、総理大臣平沼はあくまで軍部派を支持した。
  一九三九年五月九日に、すなわち、ドイツまたはイタリアがどのような戦争を行つても、それに日本が参加するという大島の保証を平沼が支持した会合の二日後に、非公式なドイツ外務省の提案を審議するために、五相会議が会合した。この提案は、日本の軍部派の勧めによつて出されたことがわかつていた。
  この提案は公式になされたものではなく、また平沼声明に対するなんらの回答を受けていないといつて、海軍大臣米内は激しく異議を唱えた。平沼はこの異議をしりぞけ、ドイツとイタリアの加わるどのような戦争にも、積極的にではないであろうが、日本は参加するであろうという大島の保証が報告されているので、ドイツの態度は充分にわかつていると主張した。

(E-384)
橋本、軍閥の目的を支持

 橋本はこれらの目的を公然と唱道した最初の者であつた。閣内の紛争が続いている間に、陸軍の政策に大衆の支持を集める目的で、かれは一連の新聞論説を書いた。これらの論説のうちの六つは、一九三九年五月一日から一九三九年七月二十日までの間に発表されたものであるが、その中で、橋本は軍部派の政策が変つたことを明らかにした。ソビエツト連邦と西洋諸国は、ともに中国における日本の政策の敵であるとかれは見做したが、イギリスが日本の最大の敵であるということこそ、かれの一貫した論旨であつた。
  イギリスとソビエツト連邦、すなわら、蒋介石大元帥を支援する諸国を打倒するまでに、中国における戦争は終らないと橋本はいつた。かれは、中国における日本の諸目的に対して、イギリスをおもな反対者であると見做し、イギリスが打倒されたときは、ソビエツト連邦は孤立に陥るであろうといつて、イギリスに対する攻撃を唱道した。
  そこで、日本は西洋諸国に反抗して南進すると同時に、ソビエツト連邦に対して、みずからを守らなければならないと橋本は主張した。また、日本の運命は南方にあり、中国におけると同様に、南方においても、日本の発展の進捗を妨げるものはイギリスであると主張した。当時の情勢では、日本がイギリスを征服するのは容易であるといつて、日本がイギリスを攻撃することを橋本は繰返して勧告した。かれは香港の占領と上海及び天津のイギリス租界の接収を主張した。(E-385)イギリス艦隊がシンガポールに達し得る前に、日本の空軍がこれを全滅させることができるという信念を表明した。この一連の論説の最後のものは、一九三九年七月二十日に発表されたが、その中で、橋本は日本の世論がついに反英に転向したことを認めて、満足の意を述べた。
  橋本は、かれが述べた理由によつて、三国同盟の締結を要求した。この同盟は軍部派が要求していたものである。平沼と有田は、ドイツ及びイタリアとの関係を緊密にすることを希望しているが、かれらはイギリスをおそれて、一般的軍事同盟の締結を躊躇しているのであると橋本はいつた。従つて、行動を躊躇しないような強力な戦時内閣の樹立をかれは力説した。
  日本の武力による努力拡大の諸計画は、ドイツ及びイタリアとの提携によつて達成されるものであると橋本は考えた。イギリスを滅ぼすのがこれら両国の方針であるから、枢軸諸国の利益は一致しているとかれはいつた。従つて、民主主義も共産主義も、ともに攻撃の目標に含まれるように、日本は直ちにドイツ及びイタリアとの関係を発展させ、強化させなければならないと要求した。もしわれわれがこの提携を強化したならば、イギリスとフランスを打ち破ることは容易であろうといつた。ヨーロツパでは、ドイツとイタリアが民主主義も共産主義もともに撃滅し、東アジアでは、少くともインドまでの範囲において、日本がこれらの原則のもとに打ち立てられた国々を打ち滅ぼすというのであつた。

(E-386)
平沼は依然として軍部派の要求を支持

 一般的軍事同盟に関するドイツの提案に日本が賛成しなかつたことは、ドイツとイタリアにおいて、はなはだしい不満を買つた。
  一九三九年五月十五日に、フオン・リツべントロツプに東京の大使オツトに電報を送り、陸軍省における大使の同志の友人に対して、そして、もしできるならば、陸軍大臣板垣自身に対して、速やかに決定に達することが必要なことを知らせるようにと訓令した。オツトは、ドイツとイタリアが望んでいる同盟締結が合衆国をイギリス及びフランスの側に立つて参戦させないようにする最良の途であると話すことになつていた。また、日本の東アジアにおける、とりわけ中国における支配権は、第一に西洋諸国に対する枢軸国の優勢に依存することを、日本は了解しなければならないと指摘すことになつていた。
  フオン・リツベントロツプは大島に対して、ドイツとイタリアは二国協定を締結しようとしているが、日本の参加の途は依然として開かれていると語つた。かれは大島に対して、ドイツ・イタリア間の協定締結と同時に、提案された三国同盟について、意見の一致した草案を秘密に作成することが望ましいことを強調した。
  陸軍大臣板垣は、大島とドイツ側が希望しているような方法で、直ちに同盟を締結しなければならないと決意していた。一九三九年五月二十日に、かれは大島を通じてフオン・リツベントロツプに、遅くても翌日までに、ドイツに日本の内閣から積極的な新しい決定を受取るはずであると約束した。
(E-387)
  一九三九年五月二十日に、五相会議が再び開かれた。それは陸軍大臣板垣と海軍大臣米内が総理大臣平沼に個別的に報告を行つた後のことであつた。外務大臣有田は、日本は枢軸国のどのような戦争にも参加するであろうという大島の肯定的な言明を、大島に取消させることを提案した。しかし、平沼は言を左右にし、それを取消させることを拒絶した。総理大臣は、大使大島の言葉を取消すことを繰返し要求されたが、日本の立場に関して、大島のいつたことはそれでよろしいという態度をかれは維持した。会議が終つた後も、事態は依然として前の通りであつた。意見の相違は解決されていなかつた。積極的な新しい決定に到達するという板垣の約束は、果されなかつた。二日の後、すなわち、一九三九年五月二十二日に、独伊同盟が締結された。
  一九三九年五月二十日の会議の後に、外務大臣有田は大島に対して、ヨーロツパにおける紛争の場合に、日本政府は交戦状態に入る権利を留保することを望むという明確な訓令を送つた。大島はこの通告を伝達することを拒み、有田に対して、ぶつきらぼうな言葉の電報で、その旨を伝えた。ローマにいた白鳥は、大島と同じ途をとつた。争いは、今や平沼声明の真の意味は何かという点にかかつていた。陸軍はそれが参戦を含むといい、外務大臣有田と海軍とは含まないといつた。天皇は有田を支持し、陸軍の方針に反対した。(E-388)しかし、一九三九年五月二十二日に、総理大臣平沼は、陸軍の希望通りに事を選ばなければならないといつて、再び陸軍の解釈を支持した。

ドイツ及びイタリアとの同盟の締結を強行しようとする板垣の試み

  陸軍大臣板垣は、今では、内閣の瓦解という危険をおかしても、この問題のために戦い、速やかに結末をつけようと固く決意していた。ベルリン駐在の日本大使として、大島は外務省に対して責任を負つていたにかかわらず、板垣は大島に対して、外務大臣有田にこれ以上報告を送らないように訓令した。板垣は、閣内の諸派を放任しておき、提案された軍事同盟の問題に関して、かれら自身の間で解決に達するようにしたいと思つていた。大島はフオン・リツベントロツプに対して、これらの経過を内密に説明した。
  一九三九年五月二十八日に、フオン・リツべントロツプにこの情報を東京の大使オツトに伝え、大島の情報を秘密のものとして取扱うように訓令した。オツトに、速やかに決定させるために、さらに圧力を加えるようにと要求された。一九三九年五月二十一日までに断定的な回答を与えるという板垣の約束が守られなかつたことについて、ドイツとイタリアが落胆しているということを関係当局者に伝えるように、かれは訓令された。一九三九年六月五日に、オツトはフオン・リツベントロツプに対して、外務省と陸軍省の当局者から受けた情報を報告した。すべての論点について、陸軍の主張が通つた上で、陸軍と海軍は了解に到達したということであつた。平沼と有田に、この了承を不本意ながら承認し、外交機関を通じて、ベルリンとローマに通告されることになつているということが述べられた。(E-389)オツトに情報を提供した者によれば、日本はイギリスとフランスに対する戦争に参加することには同意しているが、有利な時機を見て、この戦争に参加するという権利を確保したいということであつた。
  陸軍の支持者が成立したと称した意見の一致は、ほんとうのものではなかつたので、オツトの予報した通告は来なかつた。海軍はどんな譲歩をしたにせよ、陸軍の計画の根本的な点に対して、依然として反対であつた。意見の一致と称されたものは、平沼の支持のもとに、一部分は陸軍大臣板垣の強要によつて、一部分はかれの二枚舌によつて得られたものであつた。
  天皇は依然として外務大臣有田の方針を支持していた。板垣は、一九三八年七月にハサン湖において武力を行使するために、天皇の同意を得ようと試みたのと同じ方法で、この障害を乗り越えようと試みた。陸軍の希望した同盟に対して、外務大臣有田が賛成するようになつたとかれはそのとき偽つて報告したのである。しかし、天皇は策略にかかつたことを発見し、一九三九年七月七日に、板垣が故意に嘘をいつたことを責め、かれを激しく叱責した。
  一九三九年の六月と七月を通じて、日本側の新しい通告は、まつたくドイツに達しなかつた。軍部派が希望した同盟は、天皇と海軍と外務大臣がそれに反対している限り、締結することはできなかつた。 板垣はこれを認めていた。(E-390)それは、かれが、天皇の気持を変えることはできないかとかれが一九三九年七月二十三日に枢密院議長近衛に尋ねたことからわかる。近衛の答えは、それをなし遂げることは非常に困難であろうと考えるということであつた。
  しかし、板垣はかれの目的を捨てなかつた。一九三九年八月四日に、内務大臣木戸に対して、三国軍事同盟の締結に内閣が同意しなければ辞職するつもりであると伝えた。

中国における陸軍の活動とノモンハンにおけるソビエツト連邦に対する攻撃とによる内閣の困難の増大

  その間に、中国と満州国境における陸軍の活動は、内閣の困難を増大していた。閣内の両派とも、中国における日本の地位を固め、その目的に反対するどの国に対しても反抗する決意を維持していた。一九三九年七月六日に、陸軍大臣板垣と海軍大臣米内は、中国の抗戦を終らせようという固い決意を再び表明した。両軍部大臣は、蒋介石大元帥の軍隊を支援する第三国の妨害を打ちくだかなければならないと述べ、また、東アジアにおける日本の『新秩序』建設のためには、一切の努力を惜まないようにと日本国民を激励した。
  占領された中国の全地域のために、新しい傀儡政府を樹立する試みが行われていた。(E-391)陸軍は、この政策を実行するにあたつて、西洋諸国の権益を攻撃するについて、すべての表面的な口実を捨ててしまつていた。
  陸軍は、さらに、一九三八年の後半期に立てた計画に従つて、外蒙古を日本の支配圏内に入れようと努力していた。一九三九年一月に、平沼内閣が就任してから、日本軍の分遣隊は外蒙古の国境を越えて、すでに数回にわたつて、小規模の襲撃を行つていた。
  これらの国境襲撃よりもいつそう重大なのは、一九三九年五月中に、ノモンハンで始められた戦闘であつた。軍部派の首脳部がドイツ及びイタリアとの一般的軍事同盟を締結しようと努力していたときに、関東軍の部隊は、満州国国境に駐屯していたソビエツト軍を再び攻撃した。この戦闘は、本判決の後の部分でもつと充分に説明することにするが、相当に大規模の作戦に進展し、交戦した日本軍の敗北となつて、一九三九年九月中に終つた。
  ノモンハンにおける攻撃が、参謀本部の命令またはその黙認によつて行われたものであるか、それ以前の諸場合のように、関東軍自身の発意でなされたものであるかを示す証拠は、本裁判所に提出されていない。提案されたドイツとの軍事同盟問題に専念し、すでに拾収の見込みがないほどに分裂していた内閣は、この作戦を陸軍部内の問題と見做し、それに対して、なんら干渉の試みをしなかつたように見受けられる。
(E-392)
  しかし、ソビエツト連邦とのこの紛争が、平沼内閣内のどちらの派の見解にも、少しも変化をもたらさなかつたことは確実である。戦闘が続いた全期間を通じて、陸軍大臣板垣と軍部派は、イギリスとフランスを第一の目標としたドイツとの同盟を締結しようと努力した。外務大臣有田、海軍大臣米内及びかれらを支持する者達は、西洋諸国に対する戦争に直ちに参加するように日本を拘束する同盟の締結を避けるために、同様な決意をもつて争つた。
  これらの軍事的活動は、内閣の審議にあたつて生じた緊張の空気を増大した。この事態の全貌は、一九三九年七月七日に、天皇が板垣を叱責した際に、内大臣が使つた言葉によつて要約されている。そのときに、内大臣は『如何にもどうも陸軍は乱脈でもう迚も駄目だ』といつた。かれは事態を悲しむべきものであると考え、陸軍は国を亡ぼそうとしているといつて歎いた。それでも、閣僚は、そのときの事態からして、ドイツ及びイタリアとある種の同盟を結ぶことは必要であるということに、意見が一致していた。

有田と軍閥との政策の対立のために、一九三九年六月と七月には、新しい措置がとられなかつた

  しかし、一九三九年六月と七月を通じて、軍部派と外務大臣有田を支持する者との間に、引続き存在した意見の不一致のために、新しい措置は全然とられなかつた。(E-393)そして、一九三九年六月から八月まで、ドイツとの交渉にも、平沼内閣内の未解決の紛争にも、新しい進展は全然起らなかつた。
  一九三九年八月には、板垣はヨーロツパにおける戦争が差迫つていることを知つていた。また、有田の政策がある程度の成功を収めれば、枢軸諸国の無条件三国同盟について、平沼内閣の同意を得る可能性がなくなりはしないかと心配していた。
  有田はこのような同盟の結果をおそれ、中国における日本の地位を確保するような協定をイギリスと結ぶことが非常に重要であると考えていた。その目的を念頭に置いて、かれはイギリス大使クレーギーに申入れをなしつつあつた。有田が日本は三国同盟を締結するかもしれないということをほのめかし、それを誘因として、三国同盟に代る有田の政策にイギリスの協力を得ようとしていたことを板垣は知つていた。

ドイツとの同盟に関する政策を決定しようとする平沼内閣の試み、一九三九年八月八日

  この努力に対抗するために、板垣はドイツの無条件軍事同盟の提案に内閣の同意を得ようとして、さらに努力を試みた。(E-394)日本国内の世論が、経済的に魅力のあるイギリスとの和解を支持するような反響を示す危険のあることをかれは認めていた。一九三九年八月四日に、この事態について、板垣は内務大臣木戸と話し合つた。木戸は、大島と白島がはばかるところなく日本の利益をドイツとイタリアの利益に従属させたやり方はよくないと認めながらも、終始陸軍の見解に賛成してきたのであり、また海軍を説いて反対を断念させようと試みていたのである。
  板垣は木戸に対して、ドイツ及びイタリアとの軍事同盟の締結に内閣が同意しないなら、自分は辞職するといつた。これは必然的に内閣を崩壊させる結果となるものであつた。木戸は当時の情勢で内閣がかわることを心配し、軍部内閣をつくろうとするあらゆる試みは阻止しなければならないことを板垣に納得させた。板垣は、陸軍と海軍との間の行きづまりの打開が再び試みられることに同意した。
  従つて、五相会議でこの問題が再び討議されて後、一九三九年八月八日に、内閣はどのような措置をとるべきかを考慮するために会合した。総理大臣平沼は、陸軍の計画をそのまま受け容れるという立場から、いくらか退いていた。枢軸諸国の間に同盟を結ぶように、内閣は長い間努力してきたことをかれは指摘した。陸軍もまた単に既定計画に実を結ばせるように努力してきただけであると陸軍大臣板垣は昨日主張したが、自分としては、そうであるとは思えないと平沼はいつた。それから、総理大臣は他の閣僚の発言を求めた。
  閣内の総意は、情勢の変化は攻守同盟を必要とするというのであつた。(E-395)最初に計画されていた通りに、日本はまず防禦同盟を締結することを試みるが、もしそれができない場合は、攻守同盟を締結しようというのであつた。攻守同盟にどのような制限をつけるかを定めようとする試みはなされなかつたが、外務大臣有田は、内閣の同意は板垣が要求した無条件同盟とは開きがあると考えた。陸軍大臣が辞職するか、内閣がさらに折合いをつけるかしなければならなかつた。
  板垣の方では、この一般的な不安と幻滅のときにあたつて、自分が演じていた役割について一つの告白をした。自分は陸軍大臣でもあり、閣僚でもあるとかれはいつた。閣僚としての役割では、内閣全体が承認した計画に賛成したが、陸軍大臣としては、陸軍の総意に従い、独立して行動してきたというのであつた。

一九三九年八月二十三日のドイツ・ソビエツト中立条約に起因する平沼内閣の瓦解

  一九三九年八月八日の閣議は、陸軍大臣板垣と軍部派が希望した積極的な決定には達しなかつた。内閣は攻守同盟の必要を認識しながらも、板垣が一九三九年六月五日になした約束以上に、すなわち、ドイツと西洋諸国との間のどのような戦争にも、日本は好機を見て参加する権利を留保するという言質以上に出ることを拒否したし、また実際内閣はこの以前の提案を明確に確認することもしなかつたのである。
(E-396)
  そこで、板垣はもう一度強力手段を講じようと決意した。かれはオツトに事態を説明し、情勢上まつたくやむを得ないから、最後の手段として、自分の職を賭す決意であるといつた。これはほとんど確定的に大島と白鳥の辞職をももたらすことになるのであつた。これらの辞職は、結局には、ドイツと日本陸軍とが望んでいた同盟を成立させるであろうと希望されたが、その直接の結果としては、これらの計画に急激な頓挫を来すことになるであろうということが認められた。
  一九三九年八月十日に、板垣はオツトに対して、当時の重大な緊迫した形勢をドイツとイタリアに通報し、両国が譲歩することによつて援助してくれるように要請してもらいたいと頼んだ。具体的には、日本が参戦の時期を選ぶという条件の背後には、何の底意もないという保証づきで、ドイツとイタリアが一九三九年六月五日の提案を受諾することを提案した。そうすれば、板垣はその与えた保証の明白な確認を得ることにするというのであつた。協定は外務省に通告しないで成立させるというのであつた。大島と白鳥は、板垣の訓令に基いて行動することになつており、一九三九年八月八日に暫定的に成立した決定の範囲内にはいる取極が内閣に提示されることになつていた。
  オツトは以上の情報のすべてをドイツに伝達し、ドイツ政府が板垣の要請に応ずるように勧告した。陸軍はドイツが希望している同盟の第一の支持者であるから、陸軍の内政上の立場を支持することは、ドイツにとつて、最も重要なことであるとオツトは指摘した。(E-397)さらに、オツトは、このような譲歩はドイツとの同盟を求めるという決定に政府全体を引きもどし、内閣の瓦解を避けることになると思うといつた。一九三九年八月十八日に、オツトは、板垣と有田の間の紛争はまだ激しく続いていると報告した。板垣の立場は、無条件軍事同盟を要求している青年将校の圧力によつて強化されたが、五相会議は、一九三九年六月五日に非公式にドイツに伝達された申入れ以上に出ようとしなかつた。有田のイギリスに対する交渉の結果とは関係なしに、陸軍はその同盟政策を遂行していた。
  五日後の一九三九年八月二十三日に、ドイツ・ソビエツト中立条約が調印された。一九三九年九月一日に、ドイツはポーランドに侵入し、この行動の結果として、一九三九年九月三日に、イギリスとフランスがドイツに対して宣戦した。ドイツは板垣の要求した譲歩を行わなかつたし、陸軍大臣の強行手段の企ては機会を逸した。しかし、事態は陸軍大臣の辞職以上のものを必要とした。内閣の政策も、完全に信用を失つていた。内閣と国民は、ソビエツト連邦に対抗する同盟国として、ドイツを当てにしていた。内閣は成立の当初から、日本と枢軸諸国との間に、いつそう緊密な関係をもたらすことを公約していた。一九三九年八月二十八日に会議を開き、その政策の失敗を認めた後に、平沼内閣は総辞職した。内閣の親ドイツ政策の崩壊によつて、西洋諸国との暫定協定を求めることが可能になつた――それは板垣がおそれていた政策である。

(E-398)
阿部内閣の就任、一九三九年八月三十日

  新しい内閣を組織させるために、天皇は阿部大将を呼び寄せ、ある指示を与えた。畑か梅津を新しい陸軍大臣にすること、治安の維持が最も重要であつたので、内務大臣と司法大臣の任命には慎重を期すること、新内閣の対外政策は、イギリス及び合衆国との協調の政策とすることというのであつた。
  右の最後の指示に従うためには、第一次近衛内閣と平沼内閣がとつてきた対外政策を反転することが必要であつて、このことは、天皇の与えたその他の指示がなぜ必要であつたかを説明している。新しい陸軍大臣は、陸軍の信頼を受け、また陸軍を統制し得る者であることが必要であり、新しい政策が成功するかどうかは、主として、国家の対外政策の急転換に対する反動として、日本の大衆の間に生ずる混乱を内務大臣と司法大臣において取締ることができるかどうかにかかるのであつた。
  阿部は、やや当惑して天皇の指示を当時の枢密院議長近衛に報告し、近衛は近衛で辞任する内務大臣木戸に知らせた。もし阿部が陸軍大臣の人選について天皇の選択に従うとすれば、軍部と衝突する危険があると木戸は近衛に語り、近衛はこれに同意した。(E-399)従つて、天皇はこの指示を陸軍自体か、辞任する陸軍大臣かに言渡し、慣例によつて、陸軍三長官に新しい陸軍大臣の選択を任せなければならないというのであつた。その他の天皇の指示については、木戸は、阿部が阿部自身の裁量に任せてもよいと考えた。これらの意見を阿部に伝えることを木戸は近衛に頼んだ。
  一九三九年八月三十日に成立した阿部内閣には、前の内閣の閣僚は一人も残つていなかつた。畑が新しい陸軍大臣になつた。白鳥は、かれ自身の要求によつて、ローマから呼び返された。一九三九年九月五日に、関東軍は、ノモンハンにおけるソビエツト連邦に対する国境戦争の終結と失敗を発表した。二日後に、陸軍大臣の職に天皇が選んだもう一人の候補者であつた梅津が、関東軍司令官になつた。初めは阿部自身が行つていた対外問題の処理は、海軍大将野村の任務となつた。
  野村の指導のもとに、内閣の対外政策は、日本の西洋諸国との関係の改善を企てた。ドイツ及びイタリアとの接近をはかろうとする努力は、少しも行われなかつた。日本の東南アジア侵略のための措置は、少しも講じられなかつた。平沼が総理大臣であつたときの終りごろに発生した仏印における爆撃事件は解決され、日本によつて賠償金が支払われた。
  しかし、西洋諸国との関係の改善が希望されたことは、日本の中国支配の目標が放棄されたことを意味したのではなかつた。これは日本の国策の基本的な綱領であつた。阿部内閣は、日本がつくり出した東亜『新狭序』を、西洋諸国が認めることを望んだ。
(E-400)
  この政策の例証となるものは、一九三九年十一月三十日に、外務大臣野村とフランス大使との間に行われた会談である。野村は大使アンリーに、両国の間の友好関係を回復しようというフランスの希望に日本は同感であると述べた。フランスが先ごろ行つた譲歩に対して、かれは感謝の意を表明した。しかし、蒋介石大元帥の政権の壊滅のために、日本が全力を尽しているのに対して、フランスは中国の抗戦の援助を続けているということを野村は指摘した。さらに、太平洋のフランス領土、特に仏印は、日本に対して、経済的障壁を設けている。もしフランスが真に日本との国交調整を望むならば、あいまいな行為をやめ、蒋介石大元帥の政権との関係を断ち、日本の『支那事変』解決の企てに同情的態度をとるべきであると野村は述べた。
  野村はアンリーに、多量の軍需品が今でも仏印を経由して、中国国民政府軍の手に入つており、このフランスの植民地は、親中国、反日本の活動のための、また中国軍の補給のための基地になつているといつた。野村は、外務省官吏に軍事専門家を同伴させて、これを北部仏印のハノイに派遣し、中国内の仏印国境に近いところで、フランスに疑惑を起させているところの日本の軍事行動が行われている理由を現地で説明させたいと思つていた。このようにして、フランスの疑惑を解き、協定ができるようになるのではないかと野村はいつた。
(E-401)
  一九三九年十二月十二日に、大使アンリーは、仏印を経由して軍需品が輸送されることを否定するフランス側の回答を提出し、日本がこの苦情を再び持ち出したことに遺憾の意を表明した。ハノイに日本総領事が駐在している以上、同市に使節団を派遣するだけの理由をフランスは認めることができないとアンリーはいつた。両国間の懸案となつている意見の相違であつて、右のほかのすべてのものについては、フランスは喜んで協議したいと述べ、また、中国と仏印との国境における日本側の軍事行動について、説明を求めた。
  野村はこれに答えて、軍需品が引続いて輸送されていることは、論議の余地のない明白な事実であるといつた。日本と中国との間の戦争は、公然と宣戦が行われていないから、フランスには、蒋介石大元帥の軍隊に対する物資の供給を停止する法律上の義務がないことをかれは認めたが、中国の抗戦軍隊を助ける傾向のある輸送を停止する措直をフランスが講ずることを、かれの内閣は希望していると述べた。
  阿部内閣の政策は、同内閣が政権についた直後に、ソビエツト連邦に対して行われた申入れの中にもよく示されている。モスコー駐在の日本大使東郷は、ノモンハンの戦争の解決を提案するように訓令を受けていた。そして、数日のうちに、この解決が成立していた。(E-402)東郷はまた、国境紛争解決のための一般委員会の設置と、ソビエツト連邦との通商条約の締結とを提案するように、訓令を受けた。もしソビエツト連邦が両国の間の不侵略条約を提案したならば、ソビエツト連邦が蒋介石大元帥への援助を打ち切る用意があるかどうかを、東郷はまず尋ねることになつていた。

軍閥は枢軸諸国との完全な結合のために活動を継続

 西洋諸国との暫定協定を結ぼうとする内閣の新しい政策にもかかわらず、軍部派はドイツ及びイタリアとの完全な結合を求める政策を変えなかつた。独ソ条約は、平沼内閣と日本の世論とに対して、激しい衝撃を与えていた。大島でさえも驚き、このような合意がついに成立したことに憤慨していた。しかし、大島と白鳥は、ドイツの意図については、充分に警告を受けていた。
  大島は、ヒツトラーとドイツ陸軍から、完全な信頼を受けていた。中立条約締結の前の年には、フオン・リツベントロツプから、かれはドイツの政策をいつも充分に知らされていた。フオン・リツベントロツプは、長い間、ドイツも日本もソビエツト連邦と了解に到達しなければならないと確信していた。今やかれは、たとい三国同盟が締結されたとしても、右の結果を実現するために、自分は努力したであろうといつた。フオン・リツベント口ツプは、一年以上も前に、この政策を大島にもらしていた。一九三九年六月十六日に、かれは大島と白鳥に対して、日本がドイツの提案に同意しなかつたので、ドイツは単独でソビエツト連邦と条約を結ぶという、はつきりした警告を与えていたのである。(E-403)白鳥は、これがドイツの意図であることをさとつたが、大島は、このような接近は問題にならないと信じ、この警告は、日本にドイツとの同盟を結ばせるための拍車をかけることになるであろうと考えていた。
  一九三九年八月二十三日に、独ソ中立条約が締結された後、白鳥とかれの属する親ドイツ派とは、この事件が日本に引き起した反動を打ち消すために努力した。その目的が達成されなかつたので、枢軸諸国の間の接近をはかるために、もつと有効に働くことのできる日本に召還されるように、かれは強く要請した。
  独ソ中立条約の締結は、日本では、防共協定附属秘密協定の違反であると考えられたので、これに関して、平沼内閣はドイツ側に抗議した。しかし、大使大島は、この抗議を手交しようとした相手であるドイツ外務省の当局者によつて、その提出を思い止まらせられた。白島もまた、この抗議を手交すべきでないと勧告した。それにもかかわらず、大島は内閣の訓令に従つたと報告した。しかし、ドイツのポーランド侵入が完了した一九三九年九月十八日まで、かれは平沼内閣の抗議を手交しなかつた。この手交さえも、大島は弁明するような態度で行つたのであり、ドイツ外務省がこの文書を非公式に参考のために受取るということで、かれは満足した。
  この間に、ローマの白島は、独ソ中立条約の締結について、日本国内で生じている憤慨の念に対して、自分は同感ではないということを明らかにしていた。(E-404)一九三九年九月四日に、かれはローマ駐在のドイツ大使に、防共協定附属秘密協定の効力について語つた。この協定の意図は、両国のうちのどちらも、ソビエツト連邦と不侵略条約を結ばないようにすることであつた。防共協定を締結する当時には、ソビエツト連邦がドイツ及び日本の主要な敵と思われたからである。そのとき以後に、事情は完全に変化したのであり、どんな国に対しても、条約のために自国の崩壊をも招くようなことを期待するのは不合理であろうと白鳥はいつた。今では、イギリスが両国の主要な敵となつたのであり、これを絶対に打ち破らなければならないのであつた。要するに、白鳥は、独ソ不可侵条約の真の性質――すなわち、東部と西部の国境において、同時に戦争をしなければならなくなるのを避けるための、ドイツ側の策略であること――を認識したのである。
  一九三九年九月二日に、白鳥は日本への召喚の公式通知を受取つた。かれはフオン・リツベントロツプに、自己の親ドイツ的意見を説く機会をもつことを特に希望し、ベルリンに行かれないことがわかると、大島を通じて、自分の気持を伝える手はずを整えた。
  東京では、辞任する陸軍大臣板垣が、枢軸の結合に対するかれの変らない信念を表明した。一九三九年九月六日に、ドイツ大使館附陸軍武官と空軍武官のために催された招待会で、板垣と新しい陸軍大臣畑は、ドイツに対して著しく懇篤な演説を行つた。板垣は大使オツトに、日本とドイツの連帯を強化するために、かれがきわめて真剣な努力をしたことを指摘した。(E-405)この努力は、ヨーロツパの事態が発展したために、失敗に帰したとかれは語つた。しかし、かれの後継者畑は、かれと完全に所見を同じくしているということを板垣は強調した。畑は、ヨーロツパ戦争に介入しないという阿部内閣の宣言に言及したが、軍人として、自分はドイツのとつた行動を充分に理解しているとオツトに保証した。

西洋諸国に対抗して日本とドイツを同盟させる軍部派の共同謀議

 軍部派の他の者は、日本とドイツとの間に、緊密な関係を続けさせようと努力した。そして、このような努力をすることを、ドイツ側は勧めもしたし、これに報いもした。廣田内閣の陸軍大臣であり、一九三六年八月の国策の基準の決定に最も責任のある者の一人であつた寺内大将は、平沼内閣が瓦解してから間もなく、親善使節としてドイツに到着した。陸軍大臣板垣が言ひ出して、かれはナチス党大会に出席するために派遣されたのであつた。海軍はこの使節団に反対したが、板垣は天皇に対して、防共協定によつてつくり出された連帯を強化するために、寺内を派遣しなければならないと進言した。
  一九三九年九月二日に、白鳥はローマ駐在のドイツ大使に、邪魔のはいつた枢軸国との接近を首尾よく続けるについて、充分な見込みがあると信ずるということを語つていた。日本では、ソビエツト連邦と落着をつけることを望む世論が強くなりつつあり、不可侵条約の締結に発展するかもしれないとかれは述べた。(E-406)ソビエツトの脅威を受けなくなれば、日本はヨーロツパ戦争に合衆国が介入する可能性を最小限にすることができるであろうというのであつた。
  一九三九年九月四日に、白鳥はドイツ大使に対して、かれの意見としては、日ソ条約の締結する方法は、ドイツの仲介を通ずるほかはないと語つた。そこで、白鳥は大島に、東京からのどのような訓令も待つていないで、ソビエツト連邦に対するドイツの『斡旋』を要請するように促した。かれは枢軸諸国がイギリスに対して団結すべきであると信じ、ポーランド戦が完了した後に、フランス及びイギリスと受諾のできる休戦に到達することによつて、世界戦争は避けられるであろうと希望した。
  二日後に、フオン・リツベントロツプが大島に力説した見解は、白鳥は述べたものと非常によく符合していた。フオン・リツベントロツプは大島に、日本の運命はドイツのそれと常に結びついていると語つた。もしドイツが敗北したならば、西洋諸国の連合は、日本がこれ以上に対外進出することを妨げるであろうし、中国における日本の地位を奪い去るであろうというのであつた。しかし、もし日本がドイツとの関係を維持し、改善するならば、日本の地位は、ドイツの勝利によつて、結局は動かないものになるというのであつた。
  三枢軸国の間の密接な協力という考えは、少しも失われていないとかれはつけ加えた。ソビエツト連邦との了解があるから、世界の情勢に応じて、三国はその活動を直接にイギリスに向けるというのであつた。(E-407)これはすべての関係当事国の真の利益にかなうものであつた。フオン・リツベントロツプは、何をおいても、ソビエツト連邦と日本との了解のために、みずから努力するというのであり、東京でも、この同じ方針が採用されるものと確信していた。ドイツのイギリスに対する争いは、将来における全世界の政治を決定することになるであろうから、ソビエツト連邦と日本との了解は、速やかに達成されなければならないというのであつた。
  これらの言明について、大島はすべて同意を表明した。日本陸軍は、疑いもなく、ソビエツト連邦との了解の必要を認めるであろうし、これらの考えは、近い将来において、日本の外交政策の中に織りこまれる見込みが確かにあるとかれはいつた。白鳥もこの結果を実現するために努力するというのであつた。
  フオン・リツベントロツプもヒツトラーも、大島に対して、また寺内に対して、これらの見解を機会あるごとに力説した。大使オツトは、同じ趣旨で、日本の参謀総長閑院ときわめて率直に話すように訓令された。さらに、大島はドイツ政府と陸軍の完全な信頼を受けているから、大島が大使としてベルリンに留まることが重要であるとほのめかすことになつていた。
  しかし、大島は、ベルリンでよりも東京で、いつそう有効に活動ができると判断した。一九三九年十月二十七日に、フオン・リツベントロツプはオツトに対して、大島が計画通り東京へ帰つた上は、ドイツと日本との友好のために努力することになつていると知らせた。大島に対して、ドイツ大使館を通じて、ベルリンへの特別な通信経路を提供するように、オツトは訓令された。

(E-408)
大島はドイツに勧められて太平洋の西洋諸国の属地に対する日本の攻撃を計画した

 フオン・リツベントロツプは、枢軸の結合を促すにあたつて、日本をはげまして南方に進出させようと試みた。かれは大島にも寺内にも、日本の死活に関する利益がその方面にあることを力説した。ドイツの仲介によつて、日本とソビエツト連邦との間に了解が成立すれば、日本は東アジアにおける努力を自由に南方に向けて伸ばし、計画されている以上の進出をすることができるであろうというのであつた。寺内はこれに同意し、中国における戦争を我慢できる妥協によつて終らせ、もつと大きな経済的成功の得られる南方において、日本の陸海軍の力を利用するのが最も日本の利益になるといつた。
  大島は同意したばかりでなく、大いに乗気であつた。日本は東南アジアに進出する用意が完全にできているであろうし、これには香港の攻略も含まれることになろうといつた。かれはすでに電報でこのことを提案していたのである。大島の意見では、日本は東南アジアに深く進出しなければならないというのであつた。日本はオランダ領東インドの錫、ゴムと油、イギリス領インドの棉花、オーストラリアの羊毛を必要とした。これらの必要品の全部を得たならば、日本はきわめて強力になるというのであつた。
(E-409)
  かれは、当時に、日本はオランダ領東インドと不侵略条約を結び、それと同時に一つの協定を結び、その成立した協定に従つて、日本が東インドの原料を開発することができるようにしなければならないと考えていた。この方法によつて、オランダはイギリスから離間されるというのであつた。

阿部内閣崩壊の理由と米内内閣による親ドイツ外交政策の回復

  阿部が総理大臣として在任していた間には、陸軍大臣畑にしても、軍部派の他の者にしても、自分たちの見解を採用させようと、公然と試みたということは示されていない。白鳥がすでに指摘していたように、阿部内閣の成立によつて、ある好都合な結果を生ずる見込みがあつた。日本の政策の目標は、前と同様に、中国における『新秩序』の建設であつた。独ソ条約の締結によつて、かもし出された民衆の反感は、内閣更迭の結果として、相当に緩和されていた。日本では、ソビエツト連邦との和解を求める気分が次第に強くなつていた。もしそれがだんだんになし遂げられたならば、不可侵条約の結果をもたらすかもしれなかつた。新しい内閣が政権をとつたので、白鳥はドイツと日本の関係をもと通りにすることを続ける機会が確実にあるものと考えた。白鳥も大島も、この機会をできるだけ利用するために、東京に帰つた。
  阿部内閣の方針とその組閣をめぐる事情とは、それみずから、この内閣の崩壊の理由を含んでいる。中国において日本の『新秩序』を建設する、という目的を放棄する内閣は、すべて政権を保つことを望み得なかつた。(E-410)しかも、その目的をもち続けることは、西洋諸国との友好関係を回復することと両立しなかつた。この外交政策を促進するために、阿部内閣はつくられたのである。その政策の実行は、しかし、できるものではないということが間もなく認められた。
  軍部派に属する者は、勢力のある地位を回復した。一九三九年九月二十八日に、土肥原は軍事参議官になつた。一九三九年十二月一日に、荒木は再び内閣参議になつた。
  仏印に関する外務大臣野村の交渉は、フランスとの友好関係をもたらすにも至らなかつたし、野村が得ようと努力をした譲歩を日本は獲得もしなかつた。一九三九年十二月五日に、合衆国は、中国における自国の財産に日本軍が加えた損害について、新たな抗議を申入れた。そして、十日後に、日本向けの輸出が道義的に禁止されていた品目の表を拡張した。日本が輸入しなければならない原料の供給は、差控えられることになつた。
  一九四〇年一月十二日に、日本はオランダに対して、同国と日本との間の仲裁裁判条約を廃棄する意思を通告した。これによつて、この条約は一九四〇年八月に効力を失うことになつた。三日後に、阿部内閣は辞職し、その辞職とともに、西洋諸国といつそう友好的な関係を助長しようとする政策が放棄された。
  その翌日に、米内が新しい総理大臣になつた。かれは、平沼内閣の海軍大臣のときに、ドイツと西洋諸国との戦争に日本が加わるということを確定的に約束するのを避けようとして、有田が努力したのに対して、支持を与えた人である。(E-411)畑は陸軍大臣として留任した。平沼内閣の拓務大臣として、有田の政策を一般的に支持した小磯は、再び前の職に就いた。国策の基準が決定されたときに、廣田内閣の外務大臣であり、第一次近衛内閣と平沼内閣でも、やはりその職にあつた有田は、こんどもまた外務大臣になつた。ヨーロツパ戦争が起つたために、事情は変つたのであるが、有田の政策は変つていなかつた。かれはみずから本裁判所で証言して、米内内閣の外交方針は、ドイツとの友好関係を維持することにあつたが、しかし、その目的のために、日本の重要な利益に重大な害が及ぼされないという範囲においてのことであつたといつた。

米内内閣、国策の基準に関する決定の原則を固執

  有田は、米内内閣の在任の間、日本が国策の基準の決定の原則を守り続けるようにした有力者であつた。日本が中国の支配を確保するという第一の目的に対しては、歴代の各内閣は、あくまで忠実であつた。それは日本の政策の基礎であつた。
  平沼が総理大臣であつた一九三九年中に、満州国を除く中国の全占領地域において、反逆者汪精衛の指導の下に傀儡政府を樹立する準備が行われていた。(E-412)この人は一九三九年六月に東京を訪問した。そして、その翌月に、すなわち一九三九年七月七日に、陸軍大臣板垣と海軍大臣米内は、議会に対して、中国に関する共同声明を行い、同国に対する日本の野心の達成に対する干渉は、西洋諸国からのものであろうと、ソビエツト連邦からのものであろうと、すべてこれに抵抗するという日本の決意を表明した。中国における日本の確立された地位について、西洋諸国の黙認を得ることができ、これに基いて、イギリス、フランス及び合衆国との友好関係を回復することができればよいということを阿部内閣の指導者は希望したが、それは空しい希望であつた。
  平沼内閣が辞職する前に、汪精衛は中国にいた日本陸軍の指導者の援助を受けて、中央政治委員会の組織を始めていた。これから発展して、中国の新しい親日中央政府ができることになつていた。板垣が陸軍大臣をつとめていた平沼内閣が倒れてから、十二日後の一九三九年九月十二日に、板垣は中国にある支那派遣軍の総参謀長になつた。阿部が政権を得た後も、中国における日本の軍事行動は続けられた。一九三九年十一月三十日に、中国における日本の目的に従つて、外務大臣野村は、中国国民政府向け物資の輸送を中止するように、フランス側に対して再び圧力を加えた。
  一九四〇年一月十六日、米内が総理大臣となり、有田が外務省に帰つたときに、汪精衛政府樹立の計画は、大いに捗つていた。この月に、中国の占領地域の既存の傀儡政権を合同することを目的として、青島で会合が開かれた。
(E-413)
  国策決定の第二の主要目的は、戦争に備えて、日本国民の動員を達成することであつた。有田は、第一次近衛内閣の外務大臣となつて間もなく、一九三八年十一月に、右の目的とアジア大陸で優越的地位を確保するという目的とは、相互に依存しているということを強調した。平沼が総理大臣で、有田がその外務大臣であつた一九三九年一月に、内閣は経済産業拡充のための企画院の新しい計画を承認した。陸軍の長期経済産業計画の目的は、一九三七年の前半において、蘆溝橋で中国における戦争が再発する前に定められたものであるが、このときに初めて、明確に内閣の承認を得た。すでに得られた経験に照らして、日本の軍備の充実が一九四一年までに完成されるように、生産水準を高めることが要求された。この年が初めの計画の年であつたが、一九三七年以後の中国における戦争によつて、日本の軍事資源の枯渇を生じ、そのために、しばらくは、軍備完成の日が遅れるおそれがあつた。
  一九三六年八月十一日の国策の基準の決定は、中国における日本の勢力を強固にすることと、戦争のために日本国民を動員することとを、日本の政策の二つの主要目的であると言明したが、それと同時に、これらの目的の実現をはかるにあたつて、日本は西洋諸国と友好関係を維持するように努力するということも言明した。(E-414)有田と米内は、平沼内閣の閣僚として、日本をヨーロツパ戦争に巻きこもうとする軍部派の企図に、断固として抗争した。一九三九年九月におけるこの戦争の勃発は、日本に何も新しい義務を負わせなかつたし、他方で、中国における日本の行動に西洋諸国が干渉する見込みを少くした。
  従つて、米内内閣は、ヨーロツパ戦争に介入しないという阿部内閣の政策を維持することについて一致していた。ドイツとの友好関係を維持するという外務大臣有田の希望を制限する要因となつたものは、この原則であつた。
  それにもかかわらず、『国防外交相俟つて』、日本が南方におけるその権益の開発に努力するということも、やはり国策の基準の決定の目標であつた。米内内閣が就任した後において、日本の対外政策における最初の大きな展開は、この点についても、有田が国策の決定に定められた原則を固執していたことを示している。
  中国で戦争が続けられたことと、軍備充実のための経済産業準備計画によつて、日本経済に対する負担が大きくなつたこととのために、重要原科について、日本が国外の供給源に依存する度合いが増大した。一九三九年十二月に、外務大臣野村は、協定によつて仏印からの供給を増大させようと試みたが、一般的な了解がまとまらなかつたために、なんの成果もなかつた。阿部内閣が崩壊する三日前の一九四〇年一月十二日に、日本はオランダに対して、同国と日本との間の仲裁裁判条約を廃棄する意思を通告した。

(E-415)
オランダ領東インドで特恵的な経済上の地位を得ようとする日本の試み

  一九四〇年二月二日に、ヘーグの日本公使を通じて、オランダの外務大臣に対して、新しい提案が行われた。形式上では、それは日本とオランダ領東インドとの関係を規定する互恵的協定であつた。日本としては、オランダ商社の従業員の入国に対して、制限的措置をとらないことを約束し、オランダとしては、オランダ領東インドにおける外国人労務の使用について、現行の制限を廃止または変更することを約束することになつていた。日本には、オランダ領東インドにおいて、新しい企業のために便宜を与え、既存の企業に対して、いつそうの更宜を与えることになつていた。右の譲歩の代償として、日本における新しいオランダの投資に機会を与えることになつており、満州国と中国の政府も同様な便宜を与えるように、日本が『斡旋』することになつていた。
  さらに、オランダの方では、オランダ領東インドへの日本の物資の輸入に影響する現行の制限的措置を廃止または変更することを約束し、両国の間の物資の交流をいつそう容易にするために、必要な措置を講ずることになつていた。(E-416)日本の方としては、東インドからの輸入を増加するために、適当な措置を講じ、日本自身の経済的困難のある場合を除いて、事情の許す限り、オランダ領東インドが必要とする重要物資を同国に向けて輸出するのを制限または禁止しないようにすることになつていた。
  最後に、厳重な取締り措置によつて、両国のそれぞれの報道機関が、相手国に対して、非友好的な論評を行うのを差控えさせることになつていた。
  日本は一年以上も前に、これらのオランダの重要領土における資源を確保する計画を立てていた。一九三八年の後半に、第一次近衛内閣が在任中であつたとき、日本政府の役人は、日本の『南進』の準備として、オランダ領東インドにおける宣伝工作の実施にあたつていた。
  右の新しい提案は、日本がオランダとの関係を規定した既存の条約を廃棄したときに、すぐ引続いて行われた。それは互恵主義に基いてなされたと称せられたけれども、日本がオランダ領東インドに提供した利益がつまらないものであつたことは明らかである。これに対して、日本の方では、東インドで生産される重要軍需原料を無制限に手に入れることができるようになるのであつた。一九四〇年五月十日、オランダがドイツの攻撃を受けたときには、同国はこの日本の提案に対する適当な回答をまだ考慮中であつた。

(E-417)
米内内閣のヨーロツパ戦争不介入政策は日本で強硬な反対を引き起した

  一九四〇年の前半中に、米内内閣は、ヨーロツパ戦争不介入の政策を固く守つていた。これは中国における日本の地位を確保し、戦争のための日本の措置を完了するという任務に、国家の全力を向けることができるようにするためであつた。この政策は、日本自身のうちで相当な反対に会いながらも維持された。
  一九四〇年二月二十三日に、特別な使命をもつてドイツから到着したばかりのスターマーは、フオン・リツベントロツプに対して、日本では、国内問題が最も主要なものであると報告した。ドイツとの無条件同盟を支持した大島、白鳥、寺内及びその他軍部派の人人の態度は変つていないこと、かれらはあらゆる援助をする用意があることをかれは認めた。内閣は日本がヨーロツパ戦争に引き入れられることを防ぎ、またイギリスと合衆国との友好関係を維持しようと試みているが、世論は明確に親ドイツ、反イギリス的であるといつた。阿部が政権を握つていた間、大いに弱められていた陸軍の勢力は、着々と強くなりつつあつた。阿部のもとでは、外務省や陸軍省の親ドイツ的職員は、計画的に国外の職に転任させられたが、今では反対の政策がとられつつあつた。陸軍の勢力がさらに増大することを期待して差支えないというのであつた。
(E-418)
  中国における戦争が続いたので、日本の経済的な困難と必需物資の不足が増大し、また長い期間にわたつていた。日本の中国における目的に西洋諸国が反対していることを憤慨して、議会の一部の議員は、九国条約を廃棄し、日本がヨーロツパ戦争に参加することを公然と主張するようになつた。一九四〇年の三月中に、有田の不介入政策が議会で攻撃された。外務大臣は日本と枢軸との関係を強化するように迫られた。有田はこれに答えて、日本と他の枢軸諸国との間に友好関係の存在することを強調したが、中国における戦争を解決しなければならないから、日本はヨーロツパ戦争に介入することはできないと主張した。
  一九四〇年二月七日に、米内と有田の出席した議会の予算委員会で、委員の一人が九国条約の廃棄を唱え、この条約は、日本の大陸政策を牽制するために、イギリスと合衆国が考え出した策略であると称した。この条約は、『新秩序』の達成に対する重大な障害であり、また汪政権が樹立された後に、中日戦争を解決するにあたつて、非常な困難をもたらすものであるとかれはいつた。
  一九四〇年三月二十八日に開かれたところの、この委員会の他の会議で、委員の一人は、イギリスとフランスに対する結束を固くするために、ヒツトラーとムツソリーニが会見したという報道について述べ、このような同盟に対する参加の招請を日本は拒絶すべきではないという意味のことを述べた。(E-419)外務大臣有田は、これに答えて、ヨーロツパ政局に対する内閣の確固たる不介入方針は、当時の情勢では、最も賢明な策であるという、かれの信念を再び明らかにした。日本が日本自身を中心において、その独自の公正な方針によつて行動していく以上は、日本が孤立しなければならないかもしれないという懸念は必要でないといつて、国策決定に定められた原則をかれが守つていることを強調した。陸軍大臣畑は、有田を支持した。
  外務大臣の答弁を機会に、いま一人の委員は、日本がその外交方針を完全に変えることが適当であるかどうかという主要問題を持ち出した。かれは、ヨーロツパ戦争が予期したよりも早く終つた場合に、起るもかしれない情勢について、予想を述べた。イギリスとフランスは、いつまでも、中国の抗戦軍隊を援助することをやめないであろうとかれはいつた。もし日本が現在の政策を維持したならば、今では先頭に立つて中国における日本の立場を支持しているドイツとイタリアでさえも、日本に反対するのではないかとかれは心配した。阿部内閣が成立したときには、ヨーロツパにおける戦争の結果の見通しがつかなかつたのであると指摘した。しかし、今では、事態が変つていると思うというのであつた。イギリスと合衆国に好意を示そうとする内閣の傾向は、日本国民に強い不快の念を起させていると同時に、ドイツの不満をも買つていることをかれは強調した。そこで、内閣がヨーロツパ戦争不介入の政策を完全に放棄し、他の枢軸諸国との同盟を結ぶように力説した。汪政権の樹立は、このような政策の変更にとつて、適当な機会を与えるのではないかとかれはいつた。

(E-420)
陸軍は中国の征服と戦争のための国家総動員とを完了するために不介入方針を支持

  一九四〇年三月二十八日の予算委員会における陸軍大臣畑の言明は、日本自体の地位が強固になるまで、陸軍はヨーロツパにおける不介入方針を支持する決意であつたことを示している。日本は中国における戦争の処理に力を集中していること、従つて、国際情勢の変化に対応するために、政略と戦略を巧みに協調させることが必要であるとかれはいつた。中国における戦争を処理するために、日本の方針には、どのような変更もないというのであつた。その方針というのは、日本の東亜『新秩序』の建設に対して、どこまでも妨害するどの第三国でも、これを排撃するのに全力を注ぐということであつた。
  さらに、畑は、陸軍が不介入方針を純粋な便宜上の問題と考えているということも明らかにした。米内と有田がしばしば述べてきた方針は、陸軍としては、日本の完全な行動の自由を留保するものであると考えているとかれは述べた。
  二日後の一九四〇年三月三十日に、汪精衛の指導のもとに樹立されたところの、中国全体のための新しい傀儡政府が正式に成立した。一九四〇年三月二十八日の予算委員会で、陸軍大臣畑は、この出来事は蒋介石大元帥の地位を完全に覆えすものであるといつた。(E-421)また、陸軍は新政権に対してできる限りの援助を与え、中国国民政府軍に対する戦いを続けるといつた。中日戦争の目的は、中国の抗戦軍隊を徹 底的に壊滅することにあると繰返していつた。従つて、汪政権の樹立は、中日戦争の処理における一段階にすぎないとつけ加えた。
  このときの畑の言明は、また、中国の資源の開発によつて、日本の経済的困難に対する圧力を軽減し、原料の新しい資源を提供することを陸軍は希望しているということも明らかにした。かれは予算委員会に対して、陸軍は中国の占領地域で得た物資を最大限度に利用しており、将来はこれがいつそう高度に行われることが期待されていると説明した。重要物資の自給自足は、陸軍の宣撫工作の実施と相まつて確保されることになるというのであつた。

日本は国外の原料資源に依存していたので、公然とは九国条約を否認できなかつた

  戦争の遂行に必要な原料の自給自足という目標に達しようと努力するにあたつて、日本はヂレンマに陥つた。中国の資源の開発は、今では以前よりもはるかに大きな規模で行われることになつたが、それは九国条約の締約国としての日本の義務に違反して行われていた。日本が重要な原料の新しい資源を求めるようになつた理由そのものから、日本は直ちに西洋諸国との破局を引き起すことを差控えなければならなかつた。(E-422)これら諸国の領土から、日本はこれらの物資の重要な供給を受けていたからである。一九四〇年三月三日に作成された公式の文書の中で、日本は、その戦争準備になくてはならない物資の供給源として、強度に合衆国に依存しているということが認められた。この理由から、合衆国に対して、日本は決然とした態度をとることができないと述べてあつた。
  中国で戦争が起つてから、合衆国とその他の西洋諸国は、中国に対する日本の侵略を常に非難し、また九国条約の遵守を要求していた。この条約の違反がしつこく続けられたので、一九三八年六月十一日に、合衆国はある種の軍需物資の日本向けの輸出に道義的な禁止を課することになつた。一九三八年の終りの数カ月の間、有田が外務大臣であつたときに、条約上の義務が自国の重要な利益に相反するときには、それを遵守しない考えであるということを日本はついに認めた。
  一九三九年中に、中国における日本軍の非行と日本の条約上の義務の違反に関して、合衆国はさらに抗議をした後、日本に対する物資の供給を制限する新しい措置をとつた。一九三九年七月二十六日には、同国は日本に対して、一九一一年以来両国の間の通商関係を規定していた通商航海条約を廃棄する意思を通告した。そのころには、この条約は、中国にあるアメリカの権益を日本に尊重させるには、不充分であることが明らかになつていた。しかも、アメリカがその規定を忠実に守るときは、日本にその侵略政策をやめさせることができるような経済的な措置を合衆国としてとるわけにいかなかつた。(E-423)一九三九年十二月十五日には、道義的輸出禁止の品目表に、モリブデンとアルミニウムが加えられた。
  一九四〇年一月二十六日に、すでに与えられていた通告に基いて、通商航海条約はその効力を失つた。一九四〇年の三月には、日本に対する軍需物資の供給を禁止する法律が合衆国で考慮されていた。
  これらの出来事によつて、一九四〇年の二月と三月の議会の予算委員会の討議で、九国条約否認の問題が重大な論題となつた。一九四〇年二月七日の会議で、ある委員は、合衆国の課している制限的措置について注意を喚起し、有田に対して、汪政権が樹立された後は、九国条約は中国における日本の今後の目的の達成に大きな障害となるであろうということを指摘して、この条約を廃棄するように力説した。この条約の基本原則は、極東の新しい事態には、適用することができないということについて、有田は同意した。それを廃棄することは、一方で、日本の『新秩序』を建設し、日本国内の状態を改善するのに有利であるとかれはいつた。しかし、他方で、それを廃棄することは、国際的に面白くない反響を呼び起す可能性があつた。そこで、この問題は、慎重に考慮する必要があつた。汪政権が樹立された後に、この問題について、話合いをするというのであつた。
  一九四〇年三月二十八日の予算委員会の会合で、有田は繰返して、九国条約の廃棄は、よい結果をもたらすかもしれないし、悪い結果をもたらすかもしれないといつた。(E-424)このような措置が望ましいということは否定しなかつたが、廃棄する時期と用いる手段とについて、慎重な研究を要することをかれは強調した。
  陸軍大臣畑は、汪政府の樹立は、中国における日本の目的の達成に向つて、一つの段階にすぎないことを指摘したが、九国条約の取扱いに関しては、陸軍は内閣の方針に従うといつた。畑は自分の意見として、この問題はまつたく便宜上の問題であるといつた。中国における現状は、九国条約の範囲をまつたく超越していること、同条約のために、日本の作戦行動の遂行が妨害されてはならないとかれは考えていた。かれはつけ加えて、目下のところ、陸軍は揚子江を再開することにきめているといつた。しかし、これはまつたく自主的に決定すべき問題であるといつた。

合衆国依存をやめるために、日本の立てた新しい産業上の自給自足計画

  一九四〇年三月三日に、一つの政策が立てられた。その政策は、日本が合衆国に依存していることを認めて、日本が同国に、特にその文書のいわゆる『聖戦』を遂行するためになくてはならない物資の供給について、依存することをやめることができるようにする措置を定めたものであつた。(E-425)この外務省の秘密文書は、欠くことのできない軍需物資の自給自足を達成するために、また、日本が合衆国の好意に頼らなくてもすむようにする経済制度を確立するために、経済産業拡充計画の全体を修正しようという意図をあらわしている。この新しい計画は、工作機械の製造の大拡張と、『特殊鋼』生産のための代用資材の研究と、屑鉄、油、その他の軍需物資のこれまでの供給源に代わるものとを必要とした。精製鋼や電気銅の製造と、原油の精製と、人造石油の生産とのための諸設備は、急速に拡充されることになつた。
  この高価な非経済的な方策は、産業上の必要に応ずるために、軍事費の一時的転換によつて、賄われることになつていた。産業を国有化すること、満州国と中国の他の地域の経済を日本のそれに統合することに、さらに大きな重点が置かれることになつていた。この新しい計画は、絶対的に必異なものと考えられたから、中国における戦争と、ソビエツト連邦との戦争に備える軍事的準備とのために割当てられた資金が、この計画の目的の実現に転用されることになつていた。この理由で、ソビエツト連邦との関係の一時的な調整に到達するために、日本は努力することになつた。
  すでに説明した措置の結果として、日本は合衆国に対して強硬な態度をとることができるようになるという考えであつた。(E-426)そして、合衆国は戦争の脅威に直面し、同国民の世論の圧迫を受けて、日本の行動を黙認し、原料の供給に対する輸出禁止を解くであろうと期待していた。

米内内閣の南方進出の計画と準備

  米内内閣は、いろいろな考慮から、九国条約を公然と否認することを差控えたが、その同じ考慮から、日本は南方に対する侵略的意図を偽装することになつた。しかし、南方進出の計画は、一九四〇年の前半に用意され、つくり上げられた。
  一九四〇年三月十七日に、その会計年度に対する拓務省の厖大な歳出案を審議するために、決算委員会が開かれた。委員の一人は、この支出の目的を探り出そうとして、日本は満州国と中国の他の地域の開発に専念するよりも、前方へ進出する方がさらに大きな利益を得ることができるという見解を力説した。日本は南方で原料の実庫を発見することができることを指摘し、その例として、フイリツピン群島のミンダナオ島とオランダ領東インドのセレベス島とを挙げた。かれはこれらの地域の占領を唱道した。もつとも当時では実行することができない措置であることを認めた。それにもかかわらず日本は北方と南方の両方を目標としなければならないこと、特に南方に対してもつとも大きな努力を傾けなければならないといつて、国策の根本的変更を強く主張した。
(E-427)
  当時の状況では、日本は一面では防禦、他面では攻撃という両面の計画を立てなければならないとかれは考えた。拓務大臣小磯が最近数次にわたる閣議で、同様な意見を発表したことを委員会は喜んでいると述べた。
  小磯はそれに答えて、日本は南方も北方もともにその目標と見做さなければならないという意見に完全に同意し、それが拓務省の方針であることを委員会に説明した。満州国と中国の他の地域を将来開発することを計画するにあたつては、人口の移動がおもな仕事であつて、経済的な開発は附随的な目標であつた。しかし、日本の南方発展は、経済開発がおもな目的であつて、植民はその目的への一つの手段であつた。
  国策の基準に関する決定の原則に従い、また、西洋諸国との公然の破局を避けようという内閣の希望によつて加えられる制限の範囲内で、外務大臣有田は、日本の南進政策の進展を支持した。
  一九四〇年四月十五日に行われた新聞会見で、オランダ領東インドに対する日本の政策について、かれは声明した。その間、通商協定のために、一九四〇年二月十日に手交されていた日本の提供に対して、オランダ側からはなんの回答もなかつた。
  右の機会に、有田に、東アジアの他の諸国と同様に、日本は南方地域、特にオランダ領東インドと密接な関係をもつているといつた。(E-428)これらの諸国の間の経済的連結が密接であるから、東アジアの繁栄は、これら諸国の相互援助と相互依存にかかつているというのであつた。
  有田は質問に答えて、もしヨーロツパにおける戦争がオランダ領東インドに影響を与えるとすれば、単にこれらの経済的関係が害されるばかりでなく、東アジアの平和と安定を脅かす事態が起るであろうといつた。これらの理由のために、ヨーロツパの戦争に伴うどのような進展であつても、オランダ領東インドの現状に影響するようなものには、日本は深い関心をもつものであると有田はつけ加えた。その翌日の一九四〇年四月十六日に、この声明はワシントンの日本大使館によつて発表された。

ヨーロツパにおけるドイツの成功と西洋諸国からの引続く反対とによる親ドイツ派の勢力増加

  一九四〇年の最初の五カ月の間、米内内閣のとつた措置は、中日紛争の解決を少しももたらさなかつた。日本の国内自体では、困窮と不満が広まり、すでに一九四〇年二月に充分はつきりしていたところの、日本人一般の親ドイツ的感情が強められた。
  一九四〇年四月三日に、日本大使の出席の上で、日独文化委員会がベルリンに設けられた。(E-429)ドイツ外務省の次官ワイツゼツカーは、かれの祝辞のうちで、数年来喜ばしく発展してきた日本とナチス党の諸団体との関係に言及した。この新しい委員会は、ドイツと日本との伝統的に緊密な精神的連帯を強化する有効な機関であるといい、両国を結びつけている政治的友好関係はさらに増進されることを確信するといつた。
  ヨーロツパにおけるドイツの勝利が潮のように高まるにつれて、九国条約の廃棄を唱える者は、いつそう露骨にそれを唱えるようになつた。この見解は、単に議会の予算委員会だけでなく、議会そのものにおいて、公然と主張された。
  一九四〇年三月二十三日に、大使オツトはフオン・リツベントロツプに報告して、日本における政治的諸事件は、日本と西洋諸国との関係がいつそう悪化したことを示しているといつた。合衆国とイギリスは、中国における汪政権の樹立に対する反対を続けた。イギリス大使は、新しい傀儡政権が組織されたことについて、抗議を提出した。合衆国大使は、中国における『門戸開放』主義の違反について、さらに二つの抗議を提出した。
  数個の政党の議員が同時に外務大臣に対して、日本とドイツ及びイタリアとの関係を、すなわち日本の政策に対して友好的であるこの両国との関係を強化するように力説した。一九四〇年三月二十八日の予算委員会で、委員の一人は、ドイツの勝利を確実と見做し、日本がヨーロツパ戦争に参加することを主張した。
(E-430)
  オランダ領東インドに関する一九四〇年四月十五日の有田の言明に対しては、直ちに合衆国からの応答があつた。一九四〇年四月十七日に、国務省は新聞発表を行い、オランダ領東インドの現状に対する干渉は、どのようなものでも、全太平洋地域の平和と安定を損うものであると言明した。
  一九四〇年五月九日に、ドイツはオランダに侵入した。その翌日に、合衆国から最近に東京に帰つたドイツ外務省の特使スターマーは、フオン・リツベントロツプに対して、日本の情勢を報告した。最近のドイツの成功は、日本で深い印象を与え、極東におけるイギリスの重要性を減じたとかれはいつた。陸軍部内と日本国民の間には、反英感情が目に見えて強くなつた。合衆国がとつている態度から見て、合衆国とイギリスとの了解に達しようとする米内内閣の試みは、不成功に終るであろうとスターマーは確信していた。
  スターマーは、米内内閣の経済政策が適切でなく、同内閣の困難は再び増大したといつた。かれは、これらの政策がかもし出した動揺と不満の結果として、結局はドイツに有利な新しい内閣が成立することになるであろうと考え、そのときが来れば、近衛が新しい総理大臣になるであろうと思つた。
(E-431)
  かれはつけ加えて、いずれにしても、一方で日本と、他方で合衆国及びイギリスとの間の緊張した状態は、当然増大するか、少くともそのまま減少することなく続くよりほかはないといつた。しかし、リツベントロツプに対して警告し、中日戦争が解決されるまで、また国内の救済に緊急措置がとられるまで、日本はその政策を変えることはできないであろうといつた。

(E-452)
重光、有田に西洋諸国との協調を進言

  ドイツとの関係をいつそう緊密にすることと、日本がヨーロツパ戦争に参加することとを要求する声がやかましく高まりつつあつたにもかかわらず、外務大臣有田は、ヨーロツパ戦争に介入しないことと、日本と合衆国との関係にはつきりした溝ができるのを避けようというかれの政策を維持していた。スターマーは、一九四〇年五月十日の電報で、米内内閣は依然としてイギリス及び合衆国とさらに進んだ意見の一致を得ようとつとめていると報告した。この政策を有田に絶えず勧めていた外務省官吏の一人は、口ンドン駐在の日本大使重光であつた。
  一九三九年の七月と八月の間、平沼内閣の瓦解の前に、外務大臣有田は、中国における日本の地位をイギリスに黙認させることができるかどうかを探つていた。一九三九年の終りに近く、阿部内閣が在任していた間は、これが日本の外交政策の目的であつた。米内が総理大臣に、有田が外務大臣となつた後に、大使重光はこの目的を維持させようと努力した。かれの主張は、日本の国策の目標は、西洋諸国の反対を受けない政府を中国に樹立することによつて、その達成をはからなければならないというのであつた。
  汪精衛政権が中国に樹立される前、三週間にもならない一九四〇年三月十三日に、重光は、中国における紛争を解決するための日本の条件に対するイギリスの反対を除こうとして、そのころかれが行つた努力について、有田に報告した。(E-453)かれはイギリスの外務次官R・A・バトラー氏に対して、汪精衛政権を中国の新中央政府として設立するという日本の意思について、すでに話していた。『近衛原則』と日本の政策に関するその他の声明とを説明の基礎として、中国に対する日本の意思を最も有利に理解されるように説明していた。中国で治安を確立し、また新しい中国政府と諸外国との協力を確立することが日本の政策であるといつていた。かれはつけ加えて、新しい政権のもとでは、国内紛争を画策した者だけが排除されることになつているといつていた。この基礎の上に立つて、中国国民政府との妥協の機会が見出されることをかれは望んだ。
  重光は有田に対して、この政策をとれば、イギリスとの間に、双方の国にとつて有利な協定を結ぶ機会があるということを感じさせようと努力した。イギリスは、中国国民政府だけを承認するという政策を直ちに変更することはできないが、事態についての重光の予想がその通りになることを望むとバトラーが述べたと重光はいつた。原則を犠牲にする結果とならない譲歩ならば、イギリスはそれを行う意思があることを示すものとして、イギリス政府は、天津のイギリス租界に関する日本との紛議を解決する措置をとつていた。
(E-434)
  重光は有田に対して、ソビエツト連邦の行動に関するイギリスの懸念は、日本といつそう根本的な意見の一致に至る基礎を与えるものであると告げた。中国に関しても、さらに一般的に世界の事態に関しても、両国の間の了解をいつそうよくしなければならない理由があるということについて、バトラーは同意していた。
  重光はバトラーに、ヨーロツパ戦争に関して、日本は厳正中立の立場を維持すると決意していることを保証し、両国の間の貿易障壁を取除きたいという希望を表明していた。バトラーはこれに答えて、イギリスは、その結果に達するために、あらゆる努力を尽す用意があるといつていた。
  一九四〇年五月十三日、すなわち、ドイツがオランダとベルギーに侵入してから四日後に、重光は再び有田に報告した。かれは、ヒツトラーがこの作戦にすべてを賭けるという決意をしていることは明白であるといつたが、ドイツはフランスとイギリスを決して打ち破つてしまつたのではないということを強調した。日本はあらゆる出来事に応ずる用意をしておかなければならないこと、従つて、東アジアで安定した事態をつくり上げることを国策の指導原理としなければならないことをかれは強調した。
  重光は有田に対して、一九三六年の国策の基準に関する決定の諸原則の範囲内で、しかもそれ以上の侵略的な措置をとることにならないような一つの方式を提供しようと試みた。
  国際情勢にかんがみて、東アジアにおける日本の指導的地位を確立することは、非常に緊急なことであるとかれはいつた。(E-435)ヨーロツパ戦争の結果にかかわりなく、まず中国における紛争が解決されなかつたならば、日本は不利な立場に置かれるであろうというのであつた。従つて、どんな犠牲を被ろうとも、直接または汪政権を通じて、日本は蒋介石大元師との和解をもたらすようにつとめなければならないと進言して、妥協的な措置の必要を強調した。
  重光は有田に対して、南方地域全体に対する日本の政策は、オランダ領東インドに対してすでにとられた政策を基礎としなければならないと主張した。日本は南方地域の現状を変更する意思はないこと、交戦国も中立国もこの地域に干渉しないこと、そして南方の原住民の利益を第一に考慮することを日本は宣言すべきであるといつた。

日本はオランダ領東インドに対する特別の関心を強調した、一九四〇年五月

  オランダ領東インドに対する外務大臣有田の政策は、その一部は、かれが西洋諸国との公然の破局を避けたいと望んでいたことによつて、また一部は、南方に対する日本の発展の野心を達成するために、ヨーロツパにおけるドイツの勝利を利用したいという希望によつていたことによつて支配されていた。オランダ領東インドにおける現状の維持に関して、日本が特別の関心を表明した一九四〇年四月十五日の有田の声明に対して、オランダは即座にかねての保証を繰返した。(E-436)一九四〇年四月十六日、すなわち、この声明がなされた翌日に、オランダの外務大臣はヘーグ駐在の日本公使に対して、オランダは、オランダ領東インドについて、どの国の保護も干渉も求めたことがなく、また将来も求めることはないであろうと通告した。二日の後、すなわち、一九四〇年四月十八日に、この言明は東京におけるオランダ公使によつて確認された。
  それにもかかわらず一九四〇年五月十一日、すなわち、ドイツがオランダを攻撃した二日の後に、有田は、オランダ領東インドにおける現状維持に関する日本の特別の関心について、ソビエツト連邦、合衆国、イタリア及びすべての交戦国の注意を再び喚起した。同じ日に、合衆国国務省は、オランダ領東インドの現状を維持するという意図を幾多の政府がすでに明らかにしていたことを発表した。国務省の意見では、このような声明は、どれほどしばしば繰返しても、繰返し過ぎることはないというのであつた。イギリスは日本に対して、オランダ領東インドに干渉する意思がないことを通告し、フランスも同様の保証を与えた。一九四〇年五月十五日に、東京駐在のオランダ公使は有田に対して、オランダ政府はイギリスもフランスも合衆国も干渉することはないと信じていると通告した。
  これらの保証にもかかわらず、日本においては、論争が引続き盛んに行われていた。一九四〇年五月十六日に、合衆国国務長官コーデル・ハルは、日本の大使に対して、日本では、あたかも他の諸国からは現状維持の誓約が与えられなかつたかのように、毎日または一日おきに、事態の新しい局面が論議されているといつて、憂慮の念を表明した。(E-437)オランダ領東インドに、日本の何か特別な利益と想像されるものが存在すると日本が主張することは、右のような誓約にかんがみて、了解しがたいことであるとハルはいつた。日本は中国の広大な地域を支配し、同国との通商上の平等を排除する意思を明かにしているから、オランダ領東インドに対しても、同様な企図をもつているかもしれないというようなことをいつた。大使はこれを否定し、イギリスとフランスがそこに軍隊を上陸させることを企てない限り、日本は事態に満足していると述べた。
  同じ日に、すなわち、一九四〇年四月十六日に、オランダ領東インドの総督は有田に対して、現存する日本との経済関係を維持する意向であること、日本にとつて絶対的になくてならない鉱油、ゴム、その他の原科の輸出に制限を加えないことを通告した。しかし、有田はまだ満足しなかつた。かれはオランダ公使に対して、一九四〇年五月二十日に、ほかの物資で日本にとつて同様に重要な物がたくさんあると通告した。かれは、特定物資の約定された量を日本に毎年輸出するというはつきりした保証を求め、これらの要求事項に応ずることを文書で確認することを要求した。

(E-438)
日本は南方進出を準備し、ドイツはオランダ領東インドに対する無関心を言明

  一九三九年、平沼内閣が政権を握つていた間に、外務大臣有田は引続いてソビエツト連邦を日本の最大の敵と見做していた。一九三九年八月二十三日の独ソ不可侵条約の締結が原因となつて、この内閣が崩壊した後に、大島と白鳥は、かれらが日本とソビエツト連邦との和解をもたらすために努力することについて、フオン・リツベントロツプと意見が一致した。かれらの計画は、ひとたびソビエツト連邦との了解に到達したならば、枢軸三国はその活動をもつぱら西ヨーロツパ諸国に対して思うままに向けることができるというのであつた。こうして、日本の南方進出に対する妨害が取除かれるというのであつた。大島と白鳥は、かれらの目的を達成するために、東京に帰つた。
  一九三九年の最後の四カ月の間、阿部内閣の穏健な政策は、ソビエツト連邦との接近を容易にする途を開いた。ノモンハンにおける紛争は急速に終り、日本の一般民衆のソビエツト連邦に対する敵意は、ある程度まで緩和された。モスコー駐在の日本大使東郷は、国境紛争の全般的解決と新しい通商条約とについて、ソビエツト政府と交渉するように訓令された。日本とソビエツト連邦との不可侵条約の交渉は、蒋介石大元帥に関する援助を放棄する意思がソビエツト連邦にあるかないかにかかつているということも、かれは知らされた。
(E-439)
  新しい米内内閣に、有田が再び外務大臣として就任した一九四〇年一月五日以降も、中国における日本の野心に対してソビエツトが妨害しないかという懸念は続いた。一九四〇年五月十日には、米内内閣は、イギリス及び合衆国と、より以上の意見の一致に達しようとまだ努力していた。日本とソビエツト連邦は、互いに相手を信用していなかつた。大島、白鳥及びその他の軍部派の者の助けを得て、ドイツ大使館は、依然として両国の間の和解の促進につとめていた。
  しかし、軍部派と世論の圧力のもとに、米内内閣の政策は次第に変化を示した。日本の侵略的行動に対して、引続き行われていた西洋諸国の反対のために、原料の新しい供給源の必要が増大した。一九四〇年三月に、ソビエツト連邦に対する軍事的準備のために割当てられた資金と資材の一部は、合衆国に日本が依存しないでもすむようにすることを目的とする工業生産に転用された。小磯のもとにあつた拓務省は、日本の東南アジアへの進出の計画をすでに立てていた。
  ヨーロツパにおけるドイツの勝利は、これらの計画を実行する機会を与えるもののように見えた。一九四〇年五月九日に、ドイツかオランダを攻撃したとき、外務大臣有田は、オランダ領東インドに対するドイツの態度が言明されれば、日本にとつて好都合であるとほのめかして、ドイツ側の支持を求めた。(E-440)外務大臣の新聞会見で、また日本の新聞紙上で、西洋諸国がオランダ領東インドに関する意見を表明しているのに対して、ドイツからはなんの言葉も来ていないということが指摘された。
  このようにして、ドイツは、日本の侵略的目標を西洋諸国に向けさせる機会を与えられた。大使オツトは有田に対して、ドイツのオランダ侵入は、ヨーロツパ戦争の遂行だけに関連するものであるということを告げるように、フオン・リツベントロツプから訓令を受けた。ドイツ自身としては、オランダ領東インドに対して、関心をもつていなかつたが、この地域における事態の発展に対する日本の不安は、これを充分に理解していた。フオン・リツベント口ツプは、西洋諸国の行動がこのような懸念を起させる機縁となつたが、ドイツは常に日本に対して友好政策をとつてきたといつた。オツトは有田に対して、ドイツがオランダ領東インドに対して無関心であることを確定的に言明したことを明らかにして、この通告を口頭で伝えることになつていた。
  一九四〇年五月二十二日に、オツトは有田に、最近のドイツの軍事的成功について話し、またフオン・リツベントロツプの通告を伝えた。これに対して、有田は感謝の意を表した。日本の外務省から、ドイツはオランダ領東インドに対して無関心であると言明したというコミユニケが出された。日本の新聞はこの発表を大きく取扱い、それはこの地域に対する日本の政策を完全に承認するものであり、また将来のドイツの支持を約束するものであると報道した。ドイツの態度は、西洋諸国のとつた態度と対照された。

(E-441)
日本は重光の進言を無視して南方進出の準備を継続

  一九四〇年五月二十五日に、すなわち、ドイツがオランダ領東インドに対する無関心を言明した直後に、大使重光は有田にもう一度警告を送つた。ヨーロツパ戦争の結末はまだ疑問であるから、日本はあらゆる出来事に備えておかなければならないともう一度強調したのである。ドイツがオランダとベルギー方面の戦線で勝利を博したにもかかわらず、イギリスとフランスはまだ戦争を続けることを固く決意しているとかれはいつた。日本は厳正な中立の政策を保つべきであり、妥協的な措置をとることによつて、中日紛争を終了させなければならないと再び力説した。
  ヨーロツパにおける成行きの結果として、日本はいや応なしに東アジアの安定勢力となつたと重光は指摘した。ヨーロツパ戦争の結果がどうなろうとも、妥協によつて中国との和解に達すれば、日本の地位は強化されるというのであつた。もしこのことが行われたならば、日本はいつでも国際的な舞台に立てるようになるというのであつた。そうでなければ、もし西洋諸国が勝利を得たときは、再び中日事変に干渉するであろうというのであつた。
  重光の進言は、ヨーロツパにおけるドイツの勝利の蔭に隠れて、武力によつて南方に進出しようとする計画の放棄を意味するものであつた。かれは有田に対して、中国における妥協政策を公式に言明し、同時に、ヨーロツパの交戦国の軍隊を中国から撤退させることを要求するように勧めた。(E-442)日本と満州国と中国の他の地域との沿岸から三百マイルの海域に及ぶ中立地帯の宣言について、日本はまた考慮すべきであると重光はいつた。このような方法で、ヨーロツパ戦争が太平洋に波及するのを防ぐことができると考え、世論や軍部派の圧力を無視して行動するように、かれは有田に説いた。しかし、日本の政策には、全然変化がなかつた。
  一九四〇年五月の終りと六月の初めに、イギリスとフランスの軍隊は、ドイツの攻撃の重圧を受けて撃退された。一九四〇年六月九日に、ソビエツト連邦と日本は、協定によつて蒙古と満州国を分ける国境線を定めた。一九四〇年六月十日に、イタリアはイギリスとフランスに対して宣戦した。一九四〇年六月十七日に、フランスは休戦を求めなければならなくなつた。
  一九四〇年六月十日に、有田は、合衆国艦隊の大半がハワイに置いてあることについて、苦情を述べた。大使グルーはかれに対して、艦隊がその通常の基地の一つにいることは、日本に対する脅威にはならないと保証したけれども、有田の方では、それが引続いてそこに留まることは、オランダ領東インドとその他の南方地域に対する日本の意図に対して疑惑をもつていることを意味するものであると主張した。かれはもう一度グルーに対して、日本は新しい領土を獲得する意図をまつたくもつていないと保証した。
 この間、東京のドイツ大使館は、合衆国に対する悪感情をかき立てるために、報道機関や主要な政治家に働きかけた。(E-443)大使オツト自身、近衛とその他の日本の政界の著名な人物に対して、日本と合衆国との衝突は、結局において避けられないものであるとほのめかした。大島、白鳥及びその他軍部派の者は、この煽動について、ドイツ側と協力した。

日本は仏印に重ねて要求を提出、一九四〇年六月

  フランスの崩壊が切迫するにつれて、オランダ領東インドに代つて、仏印が日本の侵略の次の犠牲として意図された。蒋介石大元師の軍隊に対する物資供給を中止せよという日本の要求は、一九四〇年三月に、フランスの拒絶にあつてそのままになつていた。一九四〇年六月四日に、東京駐在のフランス大使に対して、再び強硬な申入れがなされ、再び拒絶された。
  仏印に対する日本の政策は、東亜『新秩序の建設に対するすべての障害は、いかなる犠牲を払つても、これを一掃する』という日本の決意によつて支配されていた。どの経路であつても、それによつて中国の抗戦軍隊が援助を受け得るものは、すべて閉鎖するというのであつた。このために、仏印を日本の支配の下に置くものとすると決定されていた。
  一九四〇年六月十二日に、仏印の東部国境と境を接しているタイと、不侵略友好条約を締結することによつて、日本はその地位を強化した。(E-444)同じ日に、仏印の北部国境附近に駐屯していた日本の南支派遣軍は、中国が海外で購入した武器と軍需品の大部分が依然として雲南鉄道経由で重慶に輸送されていると発表した。この発表は、仏印当局が蒋介石大元帥を援助するためにとつているところの、このような行為は看過できないと述べた。四日後の一九四〇年六月十六日に、仏印の植民地当局の敵性行為と日本の主張しているものをフランスが中止させるように日本は要求した。一九四〇年六月十七日に、すなわち、フランスかドイツに休戦を求めた日に、仏印総督はこれらの要求に屈服した。一切の中国向けの兵器、弾薬、その他の軍需品の供給を中止することに同意し、また、北部仏印へ日本軍事使節団を派遣することにも賛成したのである。
  翌日の一九四〇年六月十八日に、総理大臣米内、外務大臣有田、陸軍大臣畑及び海軍大臣吉田を会議を開いて、さらに要求をすることを決定した。日本は仏印当局に対して、一切の親中国的活動の抑圧を要求し、もしこの要求が拒絶されたならば、武力を行使するというのであつた。武力を直ちに行使してはいけないかという議論があつたが、陸軍は武力を用いるという威嚇で充分であろうと考え、この方針に反対の勧告をした。
  今やドイツの支配に服しているフランス政府に対して、日本はさらに約束を要求し、そしてこれを得た。(E-445)中国向けのある軍需品の供給に対して課せられた禁止は、日本の使嗾によつて拡大され、広範な種類に及ぶ他の物資を含むに至つた。フランス当局は、密輸入行為を抑えることによつて、この封鎖を実施することを約束した。
  一九四〇年六月二十二日に、日本の使節団の派遣に対して、フランスは正式に同意した。一九四〇年六月二十九日に、日本の陸軍省、海軍省、外務省の代表者四十名から成るこの使節団は、仏印のハノイに上陸し、与えられた約束通りに、封鎖が実施されていることを確めた。

米内内閣は仏印における行動の自由を欲し、ドイツに西洋諸国に対抗する協力を申入れた

 その上に、ドイツとイタリアに対して、政治的と経済的との両見地から、日本は仏印の将来に重大な関心をもつているということが通告された。ドイツがあまりにひどいかけひきをしない限り、西洋諸国に対して、米内内閣がドイツと協調して行動しようとしていることが今や明らかになつた。一九四〇年六月十九日に、すなわち、日本の対仏印政策が四相会議で決定された翌日に、大使来栖は、ドイツ外務省のある役人との会談で、この問題を一般的に持ち出した。
  来栖は話のはじめに、ドイツとの関係をもつと密接で心からのものにしたいという日本の希望を強調した。(E-446)以前には、この政策に反対していた人々でさえも、今では、日本の将来が西洋諸国にではなく、ドイツへの接近にかかつているということを知つているとかれはいつた。日本がドイツとの国交の改善を望んでいることを示すものとして、来栖は、日本の元外務大臣佐藤尚武が近く訪問することを挙げた。
  来栖は話を続けて、日本の立場を論じ、また、両国の間の協力がどのような形をとるべきかについて、日本側の見解を論じた。ドイツの圧力にかんがみて、西洋諸国は日本向けの輸出に対して有効なボイコツトを課することができないから、かれは日本の原料不足を非常に重大なものとは、もう考えなかつた。重工業の拡充が今では日本の最も重要な仕事であるとかれはいつた。この拡充についてドイツが協力してくれるならば、日本はもう合衆国に依存しなくなるから、行動の自由を獲得することになるというのであつた。合衆国の示してきた非友好的な態度にかんがみて、日本の産業家は、喜んでアメリカの供給源をドイツの供給源に切りかえるであろうというのであつた。
  日本のソビエツト連邦に対する敵意と、日本がドイツに対して実質的な経済的援助を与えることができなかつたこととが、枢軸諸国間の緊密な協力に対する障害であつた。これらのどちらも乗り越えられるであらうということを来栖は示した。モスコーの大使東郷も自分自身も、日本とソビエツト連邦との国交の改善のために、熱心に働いているとかれはいつた。(E-447)日本の将来が南方に存すること、北方の敵を味方にしなければならないことは、日本においても、ますます明白に認識され始めていると言明した。軍部の党派の中には、この方向転換に反対するものもあることは認めたが、大島がこれらのものにその必要を納得させるであろうとかれはいつた。
  来栖は、日本自身の範囲とその他の海外諸地域から、ドイツへ向けて、原料輸送を促進する用意がもう日本にはできているはずだということをもほのめかした。西洋諸国の現状に照らして、もはや中立法を文字通りに固く守る必要はないことをかれは指摘した。ヨーロツパ戦争が終了した後は、ドイツ及びイタリア、ソビエツト連邦、合衆国、日本及び中国によつてそれぞれ支配される四つの勢力範囲が残るという予想をかれは述べた。そうなれば、ドイツ・ブロツクと日本ブロツクとの緊密な関係は、両国にとつて相互に有利であると考え、ドイツがその戦後の経済企画において日本に充分な地位を割当てることをかれは提案した。

重光は依然として米内内閣の政策に反対

  米内内閣の政策の最近の展開を知つた大使重光は、一九四〇年六月十九日に、有田に対して、明確な警告を送つた。もし仏印またはその他の地で武力に訴えることが決定されたならば、日本はまず合衆国の態度を慎重に考慮すべきであるといつた。(E-448)経済上の諸問題だけでなく、合衆国とイギリスの海軍力に対しても、またフランスの状況に対しても、充分に注意を払わなければならないというのであつた。フランスの降伏が完了したならば、フランスの太平洋属地に対して、オーストラリアが干渉するおそれがあると重光は思つた。この場合には、日本は積極的な行動に出る好機をつかむことができるかもかしれないと考えた。しかし、ドイツの勝利が確実であるという内閣の信念に、かれはくみするものでないということを明らかにした。かれは有田に対して、フランスの崩壊が完全であるとしても、イギリスは戦いを続け、容易には敗れないであろうと注意した。
  西洋諸国の被つた挫折にもかかわらず、重光は有田に対して、以前に送つた電報の中で唱えた政策の基本原則を重ねて力説した。日本は東アジアにおける自己の立場を強化するために、ヨーロツパの情勢を利用すべきであるとかれは考えていた。日本は、南方の島々を含めて、東アジアの安定に重大な関心をもつことを声明すべきであるといつた。ヨーロツパ戦争の拡大を防ぐ決意と、東アジアはもはやヨー口ツパの搾取の場所であつてはならないという決心とを、日本は言明すべきであるというのであつた。ヨーロツパで枢軸側が勝利を得るかもしれないということを考えて、日本はドイツの東南アジア侵入をあらかじめ防ぐことも用意しておき、このような侵害から、日本がドイツと戦争する危険に追いこまれないようにしなければならないというのであつた。
(E-449)
  この電報とそれより前の電報から、重光の方針ははつきりと現われてくる。西洋諸国は、ヨーロツパの戦争に勝つではあろうが、東アジアにおける勢力は大いに弱められるであろうということ、従つて、日本の地位は強められるであろうということをかれは考えた。妥協によつて、中国との和解に達したならば、将来において、西洋諸国が介入する機縁がなくなるであろうと指摘した。中立政策をとることによつて、日本は国際的な舞台に立つ資格を得るであろうというのであつた。
  さらに、アジアと東インド諸島における西洋の勢力に反抗することによつて、日本は東洋の諸民族の好意を支持をかち得るであろうし、中国との和解の達成をいつそう容易にするであろうというのであつた。このように、平和的な措置によつて、日本は現に戦争の準備をしている目的そのものを達成できるというのであつた。枢軸国がヨーロツパで勝利を得ることになつたとしても、同じ考えがあてはまるというのであつた。国力を損うことなく、アジアの諸民族の間に威信を増したならば、東洋を支配しようとするドイツのどのような企図に対しても、日本は阻止する用意があることになろうというのであつた。

有田、合衆国との協力の提案を拒否

  しかし、日本の政策は、米内、有田、畑及び吉田が出席した会議で、一九四〇年六月十八日に決定されていた。(E-450)受諾できるような条件で、ドイツは協力を与える用意があるという問題全体が検討されつつあつた。日本の仏印に対する特別の関心は、一九四〇年六月十九日に、ドイツとイタリアに漏らされていた。合衆国とイギリスに対する日本の政策は、この知らせに対する回答によつてきまるものと決定された。
  これらの回答が待たれている間に、合衆国は日本との了解に到達し、また日本の誠意をためすために、別の試みをした。大使グルーは有田に対して、日本と合衆国は、ヨーロツパ交戦国の太平洋属地に関して、平和的手段によつて変更されるのでないかぎり、その現状を維持するという共通の希望を宣言した覚書を交換すべきであると提案するように訓令された。さらに、もし何か問題が起り、両国のうちの一方がこれについて協議をすることが望ましいという意見である場合には、両国の間で協議するという規定をグルーは提案することになつていた。
 一九四〇年六月二十四日に、グルーは有田に対して、ごく内密にこの提案を行つた。しかし、そのさいに、合衆国は他の特定の問題についてとつた立場を譲歩したのではないということを明らかにした。この新しい合衆国の提案は、両国間の関係を改善するなにかの方法を発見する手段として、企てられたものである。
  有田は日本に対するドイツの態度に確信がなかつたので、この合衆国の提案を非常に慎重を要する事柄であると考えた。この提案は九国条約体制の復活であるとかれは見てとつた。(E-451)この条約はまだ日本を拘束していたが、それに含まれた業務を免れ、否認するために、日本はあらゆる努力をしてきたのであつた。日本の行動の自由に対して、特にオランダ領東インドに関するそれに対して、新しい制限が加えられることを有田は望まなかつた。
  そこで、有田はグルーに対して、日本と合衆国との間に、多くの未解決な意見の相違が残つていることにかんがみ、これらの意見の相違がまず解決されなければ、新しい提案を受諾することは困難かもしれないと述べた。かれは日本の世論の親ドイツ的傾向に言及した上、かれ個人としては、合衆国との接近を望んでいるが、この意見のために、自分は激しい非難を浴せられているといつた。それにもかかわらず、かれはその提案に慎重な考慮を払うと約束した。
  一九四〇年六月二十八日に、外務大臣有田は、合衆国の提案に対する日本の回答を与えた。かれは大使グルーに対して、現存の国際情勢にかんがみ、合衆国が提示した基礎の上で、覚書の公式交換を考慮することができるかどうか疑わしいといつた。ヨーロツパ戦争がヨーロツパの交戦国の太平洋属地の地位に与える影響について、日本は、深い関心をもつていると有田はいつた。そこで、現在の過渡的時期において、どのような性質の協定も締結することを日本は望ましいとは考えないというのであつた。有田は、ヨーロツパ戦争が極東に波及するのを防止するために、かれ自身努力しているといい、日本と合衆国だけに関係のある問題を討議するのが時宜を得たことではないかといつた。

(E-452)
有田、日本の政策の基礎が西洋諸国を目標とするドイツとの協力にあることを示す

  一九四〇年六月二十九日に、すなわち、合衆国の提案を外務大臣有田が拒絶した翌日に、かれは外交方針演説を行つた。それはドイツと協調して行動するという米内内閣の希望を非常に強調したのもであつた。
  かれは両国が共通の思想をもつていることを明らかにし、日本の肇国以来の理想は、万邦をして各々その所を得られるようにするにあるといつた。日本の外交方針は、この理想に基いてをり、そのためには、国運を賭して戦うことすらも敢て辞せなかつたといつたのであつた。従つて、世界の同じ地域の国々は、密接な人種的、経済的及び文化的なきずなによつても結ばれているから、まずそのみずからの『共存共栄』の分野を建設するということは、自然の順序だというのであつた。
  ヨーロツパの紛争によつて、戦争というものは、現存する秩序の不正を是正しえなかつたことに普通に基くということが示されたと有田はいつた。日本が東亜『新秩序』建設の事業に着手したのは、この理由によるものであつた。日本の目的が誤解され、中国の抗戦軍隊を支持する国々によつて、この目的が阻害されてきたことは、はなはだ遺憾なことであるとかれはいつた。このような反対を、日本はすべて根絶する決意をしているというのであつた。
(E-453)
  有田の演説の残りの部分は、東アジア及び東南アジアと東インド諸島の全地域に対して、日本の宗主権を言明したものにほかならなかつた。東アジアの諸国は相互に協力し、相互の必要に応じ合うという運命をもつたところの、単一の分野を構成しているとかれはいつた。続いて、ヨーロツパ戦争がはじまつたときに、日本はヨーロツパに対する不介入の方針を宣言し、ヨーロツパの紛争を東アジアに波及させてはならないという希望を声明したといつた。
  有田はこの演説の結びとして、西洋諸国に日本の諸計画を妨害しないようにと勧告した。西洋諸国が戦争を太平洋にまで拡大するようなことは、なにも行わないものと日本は信ずるとかれはいつた。日本は東亜『新秩序』建設の事業を遂行するかたわら、ヨーロツパにおける事態の進展に対して、またヨーロツパ戦争が東アジアと南洋の諸地域に及ぼす反響に対して、慎重な注意を払つていると述べた。これらの地域の運命は、『東亜の安定勢力たる帝国の使命と責任とに顧みて』、日本にとつて重大な関心事でみると言明した。

親ドイツ派、米内内閣の打倒と枢軸同盟の締結を準備

(E-454)
  一九四〇年五月と六月における外交方針の諸声明と通告の中で、日本はドイツの協力を希望するが、ヨーロツパ戦争に参加する意思はないということが明らかにされていた。しかし、一九四〇年一月に米内内閣が就任して以来、西洋諸国に対する戦争に参加せよという一般の声は絶え間なく高まつて行き、大島、白鳥、その他の日本における親ドイツ派の指導者と協力して動いていたドイツ大使館の館員によつて、たゆみなく培われていた。
  一九三九年八月、阿部内閣が平沼内閣にかわつて就任したときに、日本とドイツとの間の密接な協力に対して、重大な障害が起つていた。日ソ不可侵条約の締結によつて、ドイツに対する大衆の憤慨が引き起されていたのである。陸軍内のある党派と一般の日本民衆の間では、ソビエツト連邦は依然として日本の最大の敵と見做されていた。阿部内閣は、西洋諸国との接近をはかることを誓約していた。
  一九四〇年一月、米内内閣が就任したときに、世論は再びドイツとの協力を支持し、ソビエツト連邦に対する敵意がある程度まで減少した。しかし、中国における闘争はまだ終つていないし、政界では、ヨーロツパ戦争に対する不介入の原則が確固とした地歩を占めていた 日本における親ドイツ派は、そしてドイツ大使自身でさえも、中国の紛争が解決され、国内の政治的分裂が収拾されるまで、日本はヨーロツパに介入できないことを認めていた。
(E-455)
  従つて、陸軍は内閣と協力していた。陸軍大臣畑は、日本にドイツとの無条件的な同盟を約束させようということについて、板垣と希望を同じくしていたけれども、阿部内閣と米内内閣のいずれの政策にも反対しなかつた。日本がヨーロツパ戦争に参加することに対する障害は、徐々に取除かれた。ヨーロツパにおけるドイツの勝利に刺戟され、また南方における大きな利得の見込みがあつたので、米内内閣の政策は、機会主義的な変化を遂げた。(E-456)満州国の北部国境は、ソビエツトとの協定によつて定められ、南進の計画と準備はでき上つていた。西洋諸国が、ソビエツト連邦にかわつて、日本の侵略の第一の犠牲として意図されていた。蒋介石大元帥と和解を計るために、陸軍は再び交渉を始めていた。
  一九四〇年三月以来、適当な時期が来たら、米内内閣は更迭するであろうと広く予想されていた。一九四〇年五月に、ドイツ大使は、親ドイツ派の新しい内閣が多分近衛の指導のもとに組織されるだろうと期待していた。そのときから、大使オツトは大島、白鳥、その他の有力な日本人との協力を続けて、ヨーロツパ戦争に対する日本の介入――すなわち、米内内閣が断然反対していた措置――を実現させるために働いていた。
  一九四〇年六月中旬に、フランスが崩壊すると、親ドイツ派のある者は、米内内閣の更迭が行はれなければならないときが急速に近づいていると感じた。一九四〇年六月十八日に、日本の政治体制の再調整及び強化と強力な外交政策の樹立とを目的とした政治団体の会員に対して、白鳥は演説を行つた。この会合で、かれは官吏として内閣の倒壊を主張することはできないが、ドイツの成功にかんがみて、一つの機会はすでに失われたと感じていると述べた。三国枢軸同盟に反対する者が内閣に地位を占めている限り、ドイツとの協調の見込みはないと考えるというのであつた。
(E-457)
  ドイツは日本に対して、オランダ領東インドにおける完全な行動の自由をすでに与えていたので、日本の仏印に対する計画に従つて、米内内閣が行つた新しい申入れには応答しなかつた。この新しい利確を要求したことは、ドイツにかけひきをする機会を与えた。ドイツ外務省の一官吏は、中国に対する日本の政策を尊重して、ドイツが払つた経済上の犠牲について詳しく述べ、また、ヨーロツパ戦争が始つてから、日本は中立的な役割を固執し、ドイツ船舶乗組員が合衆国から送還されたり、ドイツに向けられた物資が日本経由で輸送されたりすることについてさえも、便宜を計らなかつたことを指摘した。

現ドイツ派の人人、ドイツ大使と直接に折衝

 一九四〇年六月十九日に送つた仏印に関する通告に対して、ドイツの回答を米内内閣が待つている間に、親ドイツ派に属する者は、かれらの計画に対する二つの重要な障害を取除く手段をとつた。
一九三九年十月二十六日以来、軍務局長と国家総動員審議会幹事の任に就いていた陸軍少将武藤は、ドイツ大使館附陸軍武官と話し合つた。(E-458)日本と蒋介石大元帥との間に、すでに長い間行われている妥協の話し合いについて、機会があつたら、ドイツが仲介者として立ち、日本の受諾できる方法で、中日戦争を終らせることができたならば、陸軍はこれを歓迎するであろうと武藤はいつた。また、日本は中日戦争を解決したいと望んでいるから、仏印に非常な関心をもつていると言明した。ドイツ陸軍武官の質問に答えて、陸軍はソビエツト連邦との妥協を必要と考えていると武藤は告げた。
外務省における有田の後継者として、しばしばその名をあげられていた白鳥は、一九四〇年六月二十三日に、新聞会見において、日本とソビエツト連邦との不可侵条約の締結を主張した。
拓務大臣小磯のもとにあつた拓務省は、日本の南方進出の企画に直接関係していたが、かれは直接に大使オツトと話し合い、もし日本が仏印とオランダ領東インドの諸地域とで軍事行動を起したならば、ドイツはどのような態度をとるであろうかと質問した。オツトは、オランダ領東インドについては、これに対して無関心であるというドイツの言明に言及したが、仏印に関しては、ドイツは条件をつけるであろうということを示した。ドイツはおそらく異議を唱えないであろうが、それには、合衆国がヨーロツパ戦争に加わつたならば、フイリツピンとハワイを攻撃することを約束するとでもいつたようなことによつて、合衆国を太平洋地域にしばりつけておくことを日本が保証してくれることを条件としてであるといつたのである。
  小磯は、この提案については、なおよく考慮しようといい、さらに進んで、枢軸諸国間の共同の行動に対する他の障害について語つた。(E-459)締結の可能性のある日ソ不可侵条約の問題に言及して、ソビエツト連邦は、多分蒙古と中国の西北部で、ある種の領土的利権を要求するであろうと考えるといつた。これらのことについては交渉の余地があるとかれはいつた。仏印とオランダ領東インドにおいて、日本の植民地獲得の目的が実現された後でも、日本が合衆国から経済的に独立することは、漸進的にしか行われないであろうということをかれは認めた。しかし、仏印における日本の目的の達成とソビエツト連邦との条約の締結は、来るべき近衛内閣に対して、蒋介石大元師との和解に達する有望な出発点を与えるものであると考えた。

来るべき近衛内閣と一国一党制度とのための政治的準備

  内閣の更迭が長い間徹底的に準備されていた。近衛の最初の総理大臣在職のときの特徴は、閣僚間の意見の相違から、また陸軍の方針と内閣の方針との衝突から、政治的危機が頻繁に生じたことであつた。以前に陸軍がその計画に対して反対に会つたときと同じように、このときにも、政党を廃止せよという差迫つた要求が起つていた。外務大臣宇垣の辞職をもたらした一九三八年九月の政治的危機の際に、既存の政党にとつて代り、日本の国内と対外の問題に『断乎として対処』する一国一党制度の組織に対する強い要求があつた。(E-460)当時の総理大臣近衛は、このような統一された政権の首班にすえられることを望んでいた。こうなれば、陸軍の方針は内閣の方針となり、反対も意見の相違も起り得なくなるというのであつた。
  一九三八年には、『一国一党制度』が実現しなかつたが、一九四〇年中、米内内閣が在任した間に、『国内政治体制整備強化』の運動が、内閣の更迭と『強力外交』の採用に対する要求と同時に大きくなつた。一九四〇年三月十九日に、陸軍大臣畑が政治における陸軍の役割に関する質問を受け流した後、軍務局長武藤少将は率直な言明をした。日本の指導原理は、『主義と信念において完全なる国家主義、すなわち全体主義でなければならぬ』という断定的な見解をかれは引用し、これに賛意を表した。かれはつけ加えて、このようにして、国家の総力が発揮できるといつた。もし政党が現在の危機においてかれら自身の利益を助長することだけを求めているならば、陸軍は政党の解消に賛成であると武藤はいつた。
  一九四〇年五月十日までには、新しい政党をつくり、近衛がその総裁になり、木戸が副総裁になるということが決定されていた。木戸は、近衛が指導者となることを自分は望んでおり、近衛が政界に留まる限り、かれを支持すると受け合つた。
  一九四〇年五月二十六日に、近衛と木戸は、予期される内閣の更迭と、かれらの新しい政党の樹立とのための計画を話し合つた。(E-461)内閣の更迭の際には、少数の大臣だけを選ぶということに同意した。そうしてから、新しい政党の樹立を公表し、あらゆる既存政党に解消を要求するというのであつた。すでに選ばれた少数の閣僚は、新党に加わるように要求され、他の閣僚は、すでに入党した者だけから選ばれることになつていた。
  新しい内閣は、国防、外交及び財政に関して、陸海軍の要望に特別な考慮を払うことにするつもりであつた。この目的のために、総理大臣、陸軍大臣及び海軍大臣とともに、陸海軍の両総長も加わる最高国防会議を設置することが提案された。

親ドイツ派による内閣更迭の準備と総理大臣米内その他の暗殺の陰謀

  一九四〇年六月一日に、木戸は内大臣の地位を提供された。かれはこの任命を拒絶するように強く勧められた。それは、新しい近衛の政党の幹部として、かれが務めるものと予期された役割が重要なものであつたからである。しかし、木戸は近衛と相談した後、この職を受諾した。近衛はかねてかれの任命を推薦することに力を添えていたのである。
  内大臣の在任期間は、内閣の更迭とは無関係であつたが、その職務は、国務に関して常に天皇の相談相手となり、また天皇と内閣との間の正式の仲介者をつとめることにあつた。(E-462)従つて、内大臣の地位は、大きな勢力をもつものであつた。
  一九四〇年六月二十四日、米内内閣が枢軸国の間の協力についての同内閣の提案に対してドイツの応答を待つていたときに、近衛は枢密院議長の職を辞した。大使オツトはドイツに対して、この辞職は、近衛の指導のもとに、新しい内閣と新しい単一政党を組織することを目的とした政治的企画が進んでいることを示すものであると報告した。
  さらに、本国政府に対して、近衛一派の有力者は、明らかに自分と連絡をしようとしていると報告し、武藤と小磯が提唱していた考えについて、その一派と討議を行う権限を要請した。このようにすれば、ドイツが近衛一派と協力することからして、どのような結果が期待できるかということを、かれは確かめることができるというのであつた。
  このような事情において、米内内閣を力づけることは、ドイツの利益にならなかつた。一九四〇年七月一日に、オツトは、一九四〇年六月二十九日の外務大臣有田の外交方針演説は、いつそう積極的な対外政策の採用を発表することによつて、国内の政治的進展と同調しようとする試みであると報告した。これによつて、有田は米内内閣の立場を強化しようと希望していたのである。
(E-463)
  この演説に関連して、米内内閣に対する反対は、表面に現われてきた。有田は、内閣が枢軸政策の線から離れようと考えたことは決してなかつたといつて、ドイツ及びイタリアとの友好関係を強化しようという内閣の決意を無条件的に宣言しようと計画していた。反対派は、陸軍のあとに続いて、この政策の急変に対して抗議した。その理由としては、枢軸諸国に同調するという有田の声明は、内閣が今までとつてきた政策と矛盾しているというのであつた。米内内閣の崩壊を希望していた陸軍は、ドイツと緊密に協力してきた反対派を犠牲にして、内閣の面目をよくしようという有田の試みをねたんでいた。陸軍の強要で、有田の演説の原案は、相当の修正を施された。こうして、かれの企ては失敗に終つた。
  陸軍の勢力は、米内内閣が就任する前に弱くなつていたが、再び非常に強力になつてきていた。仏印と香港との両方に対して、武力で威嚇する態度がとられた。オツトは、国内政治の動向には、圧力が加えられており、やがて内閣の更迭が起るであろうという典型的な前兆が現われたと言つた。
  その翌日に、火に油を注ぐようなことが起つた。とりやめになつた有田の演説の原文と、陸軍がそれに反対して成功した事実とを、外務省情報部長が暴露したのである。そこで、情報部長は憲兵に逮捕され、訊問を受けた。
(E-464)
  この暴露があつてから、軍部派の目的に反対していた総理大臣米内とその他の者の生命に対して、陰謀がたくらまれた。一九四〇年七月五日に、陰謀者は逮捕され、同じ日の後刻に、木戸は内大臣として事情を天皇に報告した。木戸は天皇に対して、陰謀者の行動は非難すべきであるが、かれらの動機は内閣の慎重な考慮を要するといつた。ついで、かれは近衛と、政治体制の変更に関するかれらの計画と、内閣の更迭があつた場合にとるべき措置とについて話し合つた。

ドイツによる対日方針の言明拒絶に基く米内内閣の苦境

  しかし、米内内閣は、内閣の存続を確保するような協定をドイツと締結するために、努力を続けた。ドイツに対する日本の特派使節佐藤は、ベルリンに到着していた。一九四〇年七月八日に、佐藤と大使来栖は、外務大臣フオン・リツベントロツプに、日本の立場を説明した。
  佐藤はドイツと日本がそれぞれの勢力範囲内で『新秩序』の建設に従事しているといつて、両国の共通の利益を強調した。両国は今のところソビエツト連邦と友好関係を維持しなければならないから、この点においても、協力することができると指摘した。(E-465)佐藤は、中国における戦争が始まつて以来、同国に『新秩序』を建設するという任務が日本の最大の任務であつたと説明した。これが日本の政策の、一見していかにも複雑な変化を説明するものであつて、これらの変化は、すべて中日戦争の事情によるものであるといつた。日本は行動の自由を得るために、今では、この戦争の解決に懸命な努力を払つているというのであつた。
  佐藤は、日本がドイツに対してなした貢献について、フオン・リツベントロツプの注意を促した。過去三年間にわたつて、日本はイギリス、フランス及び合衆国の各政府の注意をある程度まで引きつけ、これによつて、ドイツの仕事を容易にしたとかれはいつた。日本が行動するかもしれないという脅威が絶えず存在するので、今や合衆国の艦隊は太平洋から離れられなくなつた。日本の政策は、極東において、または両アメリカ大陸を除いた世界の他の地域において、合衆国の干渉を許してはならないということであるとかれはつけ加えた。
  しかし、合衆国がいつそう厳重な経済的制裁を加えることになれば、日本は南方で物資の新しい供給源を求めなければならなくなるから、これを避けるには、同国をあまりに挑発することはできないと佐藤は説明した。こうなれば、ドイツも日本も合衆国と戦争する危険にさらされることになる。これは両国ともぜひ避けたいと思つていることであつた。
  従つて、佐藤は、ドイツと日本との間には、他の問題と同様に、経済問題でも協力をする必要があると強調した。(E-466)かれはフオン・リツベントロツプに対して、中国では日本が主人で、他の諸国は日本の客であるというのが日本の政策であるといつて、日本は中国でドイツに経済上の機会を与えたいと思つていると保証した。かれはつけ加えて、この政策のためにこそ、日本は長年イギリス、フランス及び合衆国のような国の勢力に対して戦つてきたのであるといつた。ドイツの経済的援助があれば、日本は九国条約の制度に対する反抗に成功し、中日戦争を解決し、合衆国に依存しなくてすむようになるであろうというのであつた。佐藤の議論の要点は、ドイツは極東における日本の地位を強化することによつて、ヨーロツパにおける自己の地位を強化することになるというのであつた。従つて、仏印及びオランダ領東インドに対する日本の目的に関して、ドイツがその方針を言明することをかれは要請した。
  フオン・リツベントロツプは、日本国内における政治的動向について知つていたので、慎重に答えた。日本がドイツと協力したいと希望していることをかれは歓迎したが、ドイツは今ではヨーロツパにおける勝利を確信していて、日本からの援助をもうたいして重要視していないという印象を与えた。将来には新しい協力の機会が起るであろうとかれは言明したが、日本の政治的目的に関して熟知していないという理由で、それより具体的なことは延べようとしなかつた。協力に関する日本の申し出が経済方面に限られるのであるかどうかをかれは明らさまに尋ね、仏印またはその他の太平洋地域に関するドイツの態度については、なんら新しい暗示を与えなかつた。

(E-467)
日本に東アジアと南太平洋を支配させようとする枢軸同盟の計画の出現

 右の会談に関する報告は、外務大臣有田の困難を増加した。米内内閣が倒れる三日前の一九四〇年七月十三日に、有田はドイツの意図について深い疑念を漏らした。かれは佐藤に向つて、日本をヨーロツパ戦争に介入させることがドイツの目的であるのか、また、極東におけるフランスとオランダの植民地を支配することをドイツはみずから希望しているのではないかということを尋ねた。
米内内閣を代表して、佐藤が条件を提出したときに、フオン・リツベントロツプはそれを控え目な態度で受取つたのであるが、これらの条件そのものは、一九四〇年六月二十四日に、小磯と武藤がすでにオツトから確かめていたように、ドイツ側にとつて受諸し得るものであつた。というのは、ドイツ側としては、イギリスとイギリス連邦の諸国に対抗して、日本が今すぐに介入する必要をもう感じていなかつたからである。従つて、三国枢軸同盟の締結に対する最大の障害は取除かれていた。ドイツが最も望んでいたのは、西洋諸国に対して、日本をドイツとイタリアの側に立たせる強力な日本政府であつた。極東におけるこのような牽制策は、合衆国が引続き中立を守ることを保証するものであるとドイツは信じていた。
 外務大臣有田がドイツの真意について臆測をしている間に、外務省の役人は、一九四〇年七月十二日に、陸軍と海軍の代表者に新しい案の最初の草案を提示したが、この案の原則は、その時から、日本が西洋諸国に対して攻撃をする時まで、日本の政策を支配したものであつた。(E-468)すべての要点において、これは四日前に佐藤がフオン・リツベントロツプに示した案であつた。
  これらの二つのどちらの場合に認められたことは、一九三一年九月に奉天事件が起つて以来、日本の活動は断えず征服と領土拡張という同じ目標に向けられていたということである。政策と行政機関には、たび重なる変更があつたにもかかわらず、日本の目的は、一貫して、東アジアと南方の諸国と領土に対して、自己の支配権を確立することにあつた。その目的を達成するために、ヨーロツパ戦争によつて生じた情勢を利用することが今や企てられたのであつた。
  一方で日本、他方でドイツとイタリアは、それぞれの勢力範囲内で、協調して、また緊密に協力して行動するというのであつた。ドイツとイタリアがヨーロツパにおいて不法に獲得したのと同様な行動の自由を、日本は東南アジアと南太平洋地域において享有すべきであるということを、枢軸諸国が協定するというのであつた。日本は極東におけるイギリスの勢力と利益をくつがえすことになつており、また、合衆国がドイツに対する戦争に参加するのを阻止する役割を果すことになつていた。両国の間の連携によつて、両国の侵略的な計画に対するソビツエトの妨害に対して、それぞれいつそうの安全性が得られるのであつた。(E-469)ドイツの経済的援助は、日本の合衆国に対する依存を減少させることができ、日本は、ドイツが最も緊急に必要とする原料を東アジアから手に入れることができるように保障するというのであつた。しかし、現在のところでは、ヨーロツパ戦争に日本が介入することをしつこく要請するドイツのどんな動きに対しても断固として抵抗するというのであつた。

(E-470)
陸軍が米内内閣に反対した理由

  米内内閣には、この計画を実現するのに必要な決断力も、目的に専念する熱意もなかつた。陸軍は『強力外交政策』、すなわち、新しい内閣で実行されるものと近衛と木戸がきめていた政策を要求した。米内内閣の在任中は、親枢軸政策を採用せよという要求に対して、終始一貫して抵抗が続けられた。平沼内閣在任中の一九三九年に、米内と有田とは、三国軍事同盟を結ぼうとする軍部派の画策を頓挫させることに与つて力があつた。陸軍がドイツ及びイタリアとの軍事同盟を急速に締結せよという要求を再び持ち出したとき、今度は有田は躊躇し、米内は反対した。このような人が政権をとつている間は、日本とドイツとの間に、協調の見込みはないと白鳥はいつていた。三国軍事同盟締結の問題は、内閣と内閣の辞職を要求する者との間で、根本的な争点となつていた。
(E-471)
  第二の根本的な争点は、『大政翼賛会』と称する新しい全国的な政治団体の設立に関するものであつた。陸軍の計画が脅かされ、あるいは反対された政治的危機に際しては、軍部派は常に政党の廃止を要求してきた。一九四〇年三月に、陸軍少将武藤はこの要求を再び持ち出して、日本に必要なのは全体主義的体制であり、それによつて、国家の総力が発揮されるようにすることであるといつた。近衛と木戸は、一九四〇年五月二十六日に会見したときに、すべての既存政党にかわる新しい政党の組織に乗り出すことを計画した。かれらは、新しい内閣の外交政策と国内政策を決定するについては、陸軍と海軍に顕著な役割を与えることも計画した。従つて、近衛の内閣は、軍部派を代表することになり、その軍部派の政策に対しては、なんの反対も生じないわけであつた。
  大政翼賛会が達成するものと計画されていたのは、これらの目的であつた。翼賛会は、国家総動員法の目的に関する陸軍の説明の中で、一九三八年五月に、操返して述べられたところの、国策の基準の原則を完全に実施することになつていた。すべての反対を抑えつけることによつて、翼賛会は国家の戦力を増し、陸軍の政策を支持するように、日本国民を組織統制することになつていた。
(E-472)
  このことは、結局において、軍部派の要望に応ずる独裁制の樹立を意味することを総理大臣米内は悟つた。すべての既存政治団体は廃止され、議会は審議の自由を跡方もなく失うようになることをかれは知つた。そこで、かれの内閣は、大政翼賛会の設立に反対した。
  陸軍次官阿南と軍務局長武藤は、先頭に立つて、米内内閣の辞職を要求した。かれらは内閣書記官長石渡に対して、もし内閣が辞職を拒絶するならば、陸軍大臣の辞職を強行することが必要となるであろうと知らせた。この威嚇について、米内から尋ねられた際に、陸軍大臣畑は、結局は内閣が辞職した方がよいと思うというあいまいな答えをした。

陸軍による米内内閣の倒壊

  参謀本部の将校は、軍事上と政治上の二つの立場から、米内内閣は当時の世界情勢に対処する能力がないときめていた。この見解が表明されたときに、参謀総長閑院はこれを畑に伝え、畑は陸軍の態度について米内に知らせることになつていた。そうする前に、畑は近衛とこの事情について話し合うことになつていた。
(E-473)
  一九四〇年七月八日に、木戸は陸軍次官阿南と侍従武官長から、これらの事態の進展について知らされた。阿南は木戸に対して、ドイツ及びイタリアと交渉を行うには、米内内閣はまつたく不適当であること、その政務処理方針は、致命的な手遅れを来すことにさえなるかもしれないということを話した。従つて、内閣の更迭はやむを得ないことであり、四、五日の中には、そうなるものと思われるといつた。陸軍の意見を突きつけられたら、米内内閣がどのような行動に出るかを見極めようと、陸軍は待ち構えていると木戸は聞かされた。
  阿南の木戸との会見は、陸軍がとつた威圧的な態度を示すものである。陸軍次官は木戸に、陸軍は一致して近衛が総理大臣の候補となることを支持すると告げた。木戸が新しい外務大臣の人選が困難なことを指摘すると、陸軍はその問題をまつたく近衛に一任する用意があると阿南は保証した。
  木戸が知らされていたように、陸軍の意見の覚書がつくられ、米内に提出された。一九四〇年七月十六日に、総理大臣は畑を呼び寄せ、陸軍の見解は、内閣のそれと異つていると告げた。かれは陸軍大臣に、もし内閣の政策に不同意ならば、辞職してもらいたいといつた。(E-474)そこで、畑は辞表を提出し、米内に後継者の指名を求められると、その日のうちにこれに対する回答をすると約束した。陸軍の他の二『長官』と相談した後に、畑は米内に対して、陸軍はだれも推薦することができないと知らせた。
  このようにして、陸軍は米内内閣が崩壊するほかはないようにし向けた。一九四〇年七月十六日、陸軍大臣が辞職したその日に、総理大臣は、ほかにまつたく方法がないので、内閣の辞表を天皇に提出した。
  その翌日の一九四〇年七月十七日に、大使オツトはベルリンに報告して、陸軍がむりやりに引起した内閣の更迭からみて、いつそう積極的な反イギリス政策へ急速に転換されるものと予期されるといつた。この政策が決定された場合に、香港を直ちに攻撃するために、陸軍はすに攻城砲隊を動員していた。 米内内閣の倒壊をもたらした策謀に、陸軍大臣畑が積極的に参加したということは、示されていない。かれは米内内閣の政策を支持していた。この政策は、それ自体が武力によつて勢力を拡大するという国家目的を推進するために計画された侵略政策であつた。かれが在任していたのは、親ドイツ派の人人が、かれらの計画を成功させるには、その前にまず日本の国内的な不一致を解決しなければならないことを知つていたからである。かれは、侵略的な目的を隠そうとする内閣の用心深い企てを、単に便宜上の問題であると見ていたことを明らかにしていた。(E-475)都合のよい時機が来たときに、米内内閣の瓦解と、軍部の要望に応ずる新しい内閣の登場とをもたらすために、かれは利用されるままに任せておいたのである。

米内内閣の倒壊と近衛の総理大臣選任に関する木戸の役割

  一九四〇年六月一日に、内大臣として任命されてから、木戸は近衛と密接な連絡を保ち、米内内閣の更迭を唱えていた者たちの目的を絶えず援けていた。一九四〇年六月二十七日に、かれは内閣更迭の際にとるべき手続について協議し、また政治体制の強化について、大蔵大臣櫻内と意見を交換した。一九四〇年七月五日に、総理大臣とその他の著名な人々を暗殺する陰謀が発覚したときに、木戸はこれを天皇に報告するにあたつて、陰謀者の動機を支持した。それから後は、米内内閣の瓦解と近衛の政権掌握とをもたらす陸軍の策謀に、かれはひそかに加わつていた。天皇が米内の辞職を避けられないものと信ずるようになつていながら、なお米内に信頼を寄せており、内閣の更迭の必要になつたことを遺憾としていることを、木戸は知つていた。(E-476)一九四〇年七月十六日の朝、米内が直ちに辞職することを強いられそうなことが明らかとなつたときに、木戸は天皇に畑の辞職の経緯を報告し、新しい総理大臣を選ぶ方法を説明した。
  長老の政治家のあるものが『元老』と呼ばれていて、新しい総理大臣の任命に関して、天皇に進言することが慣例となつていたが、そのうちの一人だけが存命していた。それは西園寺公爵であつた。それまでは、西園寺の勢力は大きいものであつた。主としてかれの進言と政治情勢に関するかれの知識とによつて、宮中関係者は、軍部派の行動に対して、ときにはいくらかの掣肘を加えるように促されたものであつた。
  西園寺の秘書であり、腹心であつた原田男爵は、米内とともに、木戸がその動機を支持した陰謀者によつて、暗殺の対象にされていた。
  一九三九年十一月に、木戸は近衛の要求によつて、総理大臣を選ぶ新しい方法を考え出す仕事を行つていた。かれの提案は、枢密院議長、内大臣及びすベての前総理大臣からなる一団をもつて、『元老』にかえてはどうかというのであつた。この『重臣』の一団に属する者の意見が天皇に伝達されるというのであつた。
  一九三九年十一月十日に、木戸はこの計画を近衛と話し合つた。近衛は、できるだけ早く、それが実行に移されることを希望した。(E-477)木戸が近衛に対して、西園寺が生きている限り、この計画を実行に移すのは困難であろうという懸念を表明したところからすれば、近衛も木戸も、この新しい制度を政治問題における西園寺の勢力を除く手段と見ていたことは明らかである。
  一九四〇年一月に、米内が阿部にかわつて総理大臣となつたときには、この計画は実行されなかつたが、一九四〇年七月に、米内内閣が辞職したときには、西園寺は病気であり、政治問題から遠ざかつていた。従つて、内大臣としての木戸の勢力は、大いに強められた。
  天皇はこの新しい制度に関する木戸の説明を受け容れた。そして、米内内閣の辞表が受理された後、木戸に重臣会議を召集させた。この会議で、総理大臣の候補として名を挙げられたのは、近衛だけであつた。平沼は、十日前に、近衛が候補となることに賛成であるといつていた。木戸自身は、陸軍が賛成することはわかつており、最近の陸軍の行動には、近衛が就任するという仮定に基いているものがあると思うといつて、近衛の任命を強く主張した。そこで、問題は解決された。この決定を伝えるために、西園寺に送られた使者は、公爵は病体であり、政治情勢にうといので、天皇に進言する責任は負いたくないといつたと報告した。
  そこで、木戸は重臣の進言を天皇に報告した。天皇は、最後的な決定が下される前に、もう一度西園寺に相談することを希望した。(E-478)しかし、西園寺の病気を口実として、木戸は天皇にそれを思い止まらせた。そこで、近衛が呼ばれ、新しい内閣を組織する命令を受けた。

第二次近衛内閣の成立と政策

  近衛は、木戸とかれが一九四〇年五月二十六日に計画していた方法で、内閣の組織に取りかかつた。天皇から新しい内閣を組織すべき委任を受諾した後に、近衛は木戸に対して、離任する陸海軍大臣に対して、陸海軍の相互の協力を行う意向のある後継者を選ぶように要請するつもりであると告げた。陸軍、海軍及び外務大臣が選ばれたら、近衛はかれらと国防、外交、陸海軍の協力、及び統帥部と内閣との関係の諸問題を充分に相談することになつていた。これらの問題について、四相会議の意見が一致するまでは、かれは他の大臣の選考を開始しないということになつていた。この計画を近衛は実行した。
(E-479)
  海軍大臣吉田は、新しい内閣に留任した。陸軍中将東條が陸軍大臣に選ばれた。米内内閣の倒れた後に、離任する陸軍大臣畑は、東條をかれの後任とするようにと、天皇にひそかに推薦するという前例のない措置をとつた。東條は一九三八年五月三十日から一九三八年十二月十日まで陸軍次官として在任し、それ以後は陸軍航空総監をつとめていた。一九四〇年二月二十四日以来、かれは軍事参議官を兼任していた。
  外務大臣の選考は困難なものと木戸は認めていた。日本とドイツとの完全な協力を主張した極端論者の白鳥がこの地位に適当であると思われていたが、近衛は松岡を選んだ。かれの任命が発表されもしないうちに、新外務大臣はこのことを内々ドイツ大使に知らせ、ドイツとの友好的な協力を希望するといつた。
  この期間を通じて、日本の政治の動向について、ドイツはいつも詳細に知らされていた。一九四〇年七月二十日に、大使オツトは本国政府に対して、松岡の任命は確かに日本の外交政策の転換をもたらすであろうと報告した。
  一九四〇年七月十九日に、近衛、松岡、東條及び吉田は長時間の会議を行つた。(E-480)そこで、新内閣の政策の諸原則が定められ、意見がまとまつた。ベルリンの日本大使館は、ドイツ外務省に対して、新しい内閣に主要な地位を占める四大臣が、この異例な手続によつて、ドイツとイタリアに対する接近を含む公式の外交政策項目を定めたことを知らせた。
  これらの政策問題が決定したので、近衛はかれの内閣の他の閣僚の選考を進めた。新しい内閣の成立は、一九四〇年七月二十二日に発表された。
  前に満州国の経済上と産業上の開発を主管していた星野は、国務大臣兼企画院総裁になつた。この任命は重要なものであつた。なぜなら、新しい内閣は、国家総動員を早めること、日本と満州国と中国の他の地域との経済をいつそう密接に統合することに、非常な重点を置いていたからである。金融上の諸統制が強化され、軍備が大いに増強され、戦争産業がさらに急速に拡張されることになつていた。
  陸軍少将武藤は陸軍省軍務局長として留任し、畑は軍事参議官になつた。親ドイツ派の首脳者の一人と認められていた大橋が外務次官に任命された。白鳥は、自分がこの任命を拒絶したことを内々でオツトに知らせた。(E-481)かれが外務大臣松岡の常任の顧問になるであろうということが、今や予期されているというのであつた。この地位で、日本の外交政策について、広範な勢力を揮うことができると白鳥は考えた。一九四二年八月二十八日に、かれは外務省の外交顧問になつた。
  東條と星野が今や閣僚になつた新しい内閣は、一九四〇年七月二十六日に、すなわち、内閣が成立してから四日後に、その政策を明らかにした。この新しい声明に示された基本的原則は、一九三六年八月十一日の国策決定の諸原則であつた。世界は今や歴史的転換の関頭に立つており、新しい政治的、経済的、文化的の秩序が創造の過程にあると述べてあつた。日本もまたその歴史上類例のない試練に直面しているというのであつた。
  もし日本が八紘一宇の理想に従つて行動すべきものとすれば、政治組織が根本的に改められ、国家の『国防』体制が完成されなければならないと言明された。『大東亜新秩序』の建設を達成することが日本の目的なのであつた。その目的のために、日本は軍備を増強し、国民の総力を動員するというのであつた。日本は、何よりもまず、中国における戦争の解決に成功するために、力を集中するというのであつた。
  弾力性のある政策を採用することによつて、日本は世界情勢の変化を利用する計画と準備を整え、日本自身の国運の発展をはかるようにするというのであつた。

(E-482)
第二次近衛内閣、軍部による日本支配の完成を決意

  一九四〇年五月二十六日に、近衛と木戸は新しい内閣を組織することを計画したが、その内閣は軍部の要望に従つて行動することによつて、またその政策に反対するかもしれないようなすべての政治的な党派を抑圧することによつて、全体主義的国家の政府になるものであつたことは、すでに明らかにされた。このようにして、軍部派の指導者は、事実において、日本の不動な支配者となるわけであつた。
  早くも一九三〇年九月に、橋本はこのような軍部内閣の成立を唱えたが、その後、それが軍部派の企画の究極の目標となつていた。一九三六年八月十一日の国策決定は、世論を指導統一するために、またすでに採用されていた侵略的政策の遂行に関する国民の覚悟を強固にするために、手段を講ずることを定めていた。一九三八年二月に、国家総動員法が制定されたので、これらの目標は、達成することができるものになつた。陸軍は同法の目的を説明するにあたつて、国民生活のあらゆる面は、最高度の戦争能率の達成に向けられることになると指摘した。
(E-483)
  経済産業の分野では、これらの成果は、すでに大部分収められていた。世論も厳重に統制され、陸軍とその支持者の望むままに動いていた。第二次近衛内閣が成立すると、軍部による日本の支配を完成する最後的な措置がとられた。
  新しい内閣の成立は、陸軍の支持のおかげであつた。内閣の政策が確固とした基礎をもつように、近衛はあらかじめ新しい陸海軍大臣の同意を得ていた。残つていることは、軍の方針と内閣の方針の統一を確保し、将来の戦争に備えて、日本国民の組織化を完成するのに必要な措置を実施することであつた。一九四〇年七月二十六日に、東條及び星野が閣僚であつたこの新しい内閣が、すでに定められていた政策を承認するために会合したときに、これらの目的が非常に強調された。
  そこで、基本国策に関する決定の根本原則に従つて、政府のあらゆる部門を改組することが決定された。教育制度が引続いてこの目的のために利用されることになり、国家に対する奉仕が最高の考慮を払うべきことであるという考えを日本国民に吹きこむことになつていた。
  内閣は、新しい国家政治体制を打ち立てることによつて、政治の調整統一をはかるために努力することになつていた。(E-484)この計画に適合するように、議会制度が変更されることになつていた。国家に対する奉仕と、国民と専制政府との協力とを基礎として、国家が改造されることになつていた。
  これらの目的は、陸軍と内閣との協力によつて達成された。採用された新しい方法のうちで、最も重要なものは、『連絡会議』と大政翼賛会であつた。

連絡会議並びに軍部派の支配が完成された方法

 連絡会議の目的は、軍と内閣との政策の統一を確保することであつた。その設置は、近衛と木戸によつて、かれらが一九四〇年五月二十六日に会合したときに予定されたのであつて、そのときに、最高国防会議を設け、総理大臣及び陸海軍大臣とともに、参謀総長と軍令部総長がその構成員になることと決定された。
 この新しい組織は、近衛と木戸が最初に考えたものよりも大きかつた。それはすでに示した構成員ばかりでなく、外務と大蔵の両大臣、参謀本部と軍令部の両次長、陸海軍の両軍務局長を含むことになつた。ときとしては、企画院総裁や内閣書記官長もこれに出席した。
(E-485)
 一九四〇年七月二十七日に、すなわち、新しい近衛内閣がその将来の政策の原則について意見をまとめた翌日に、連絡会議は会合した。この会合では、国の内外政策のすべての重要な面にわたつて、右と同じような決定が行われた。
 この新しい会議は、陸海軍首脳者を内閣の政策の樹立に初めて直接に参与できるようにしたものであるが、それみずから、非常に重要な政策樹立の機関となつた。その上に、この会議は、御前会議の審議の機能を自己の手に収めることによつて、宮中関係者の勢力を弱めるようになつた。御前会議は、最も重大な国務を決定する場合にだけ召集されたものであるが、このとき以来は、連絡会議によつてすでに到達された決定に対して、正式の承認を与えること以上には、ほとんどなにもしなかつた。
 この新しい会議の決定は、陸海軍と五人の最も重要な閣僚の機能を総合したものを現わしていた。従つて、これらの決定を変更することは困難であつた。一九四一年には、連絡会議がしばしば開かれ、ますます閣議の機能を奪いとるようになつた。
  連絡会議はまた総理大臣の立場を強化することにも役立つた。それまでの内閣は、陸軍の不満によつて倒されてきたのであつた。(E-486)四相または五相会議の決定がしばしば無効にされたが、その理由は、陸軍大臣が他の陸軍の軍人や陸軍省の職員と相談した後に、その同意を撤回したからであつた。今や軍部の首脳者がみずから重要な決定に参加するようになつたので、一度定められた政策は、後に容易に動かすことができなくなつた。
  陸軍としては、単にその政策の道具として近衛を利用する計画であつたが、近衛の方では、前もつて定められた政策を中心にして、その内閣を組織したという慎重なやり方によつて、また連絡会議を設けたことによつて、専断的な政権の指導者としての支配的地位を獲得した。内閣と陸軍は、日本国民の政治的活動を取締ることによつて、また政治的反対党を除くことによつて、軍部の日本支配を完成するように協力した。
  一九四〇年十月十日に正式に設立された大政翼賛会については、本判決のあとの章で、いつそう詳細に論じてある。この会は、日本政府から多額の補助金を受ける全国的な団体となつた。これが設立されてから後は、他のすべての政治団体は消滅した。このような方法で、議会制度の変革がなし遂げられ、

国家への奉仕という考えが日本国民の心の中に吹きこまれた。

(E-487)
  陸軍は、この新しい団体を通じて、すべての既存政党を追放し、陸軍首脳部の思うままになるような、一つの新しい『親軍』党を結成する考えであつた。しかし、近衛は、木戸と計画した通りに、既成政党の党員をこの新しい団体に引入れた。軍、官、民は一致団結して、強大な『国防力』をもつた国家を建設するようにしなければならないとかれは宣言していた。
  軍務局長であり、陸軍の最も有力な指導者の一人であつた武藤は、一九四〇年八月に、事態が変つたことを容認した。大政翼賛会が国民みずから起した運動ではなく、かれらに押しつけられたものであることをかれは指摘した。この新しい団体に強い政治力が与えられなければならないとかれは考えた。陸軍と内閣とが協力して、この運動を指導し、拡大し、それによつて、陸軍と内閣とが今や共通に抱いている侵略的な国家目的を助長しなければならないことをかれは承認した。

ドイツとの提携の試案及び日本の大東亜支配計画の範囲

  一九四〇年七月十六日に、近衛が天皇から内閣を組織するようにと命令を受けたときには、日本の新しい外交政策の試案がすでに作成されていた。(E-488)外務省は、ドイツ及びイタリアと緊密に協力する政策をようやく決定していた。この政策は、その前年に、親ドイツ派の者が、特に著しく白鳥が、絶えず主張していたものである。日本自身の目的が明らかにされるまでは、ドイツの意図を示さないとフオツ・リツベントロツプがいつたことに刺激されて、外務省は、日本がヨーロツパ戦争に介入することは約束せずに、ドイツの協力を得ることを目的とした提案を起草していた。
  この提案は、陸軍、海軍及び外務省の代表者によつて、一九四〇年七月十二日と、さらにもう一度一九四〇年七月十六日に討議されたが、この討議から、いろいろな出来事が日本を素通りしているという心配のあることがわかつた。ドイツはイギリスを征服するであろうと予想された。ヨーロツパ戦争は近い将来に終るかもしれないと考えられた。もし日本に速やかに行動する用意がなければ、南方における征服の機会は消え去るかもしれないということがわかつた。
  ヨーロツパの戦争が一たび終れば、日本がその支配を東アジアと南洋のすべての地域に及ぼそうとするのをドイツは阻止するであろうということ、ドイツとイタリアは、他の諸国と提携して、日本の進出を挫折させるもかしれないということを日本はおそれた。しかし、一方では、外務大臣松岡が後になつて述べたように、今や『皇国は実に世界の天秤を左にでも右にでも上下さす大の力を持つている』と信じられていた。
(E-489)
  ヨーロツパにおけるドイツの成功に力づけられて、日本の指導者が口にしたのは、もはや『東亜新秩序』の建設だけではなくなつた。普通に使われる言葉は、今や『大東亜共栄圈』であつた。イギリス、フランス及びオランダの勢力が傾いてきたこのときに決定されたことは、東アジア、東南アジア、太平洋の諸地域にあるイギリス、フランス、オランダ及びポルトガルの属領のすべてに対して、日本が支配権を獲得するということであつた。
  一九四〇年七月十六日に、陸軍と海軍と外務省の代表者は、日本の発展の究極の目標は、一方では東部インドとビルマ、他方ではオーストラリアとニュージーランドの間にある地域全部を含まなければならないということに意見が一致した。もつと手近な対象としては、日本は香港、仏印、タイ、マレー、オランダ領東インド、フイリツピン及びニューギニアを含む地域の支配を目的するというのであつた。
  これらの目的を遂成するには、日本がドイツ及びイタリアと協力する基礎として、明確な提案をすることが絶対に必要であると考えられた。日本はヨーロツパ戦争に介入することを約束することなく、むしろ、好機が到来したと考えられるときに、別個にイギリスに対する戦争に乗り出す意思を言明しようというのであつた。(E-490)しかし、宣戦までにはならないあらゆる手段で、日本はドイツのイギリス征服を援助することを約束することにした。極東におけるイギリスの勢力をくつがえし、インドとビルマにおける独立運動を助長するために、日本は手段を講ずることにした。合衆国とソビエツト連邦の両方に関して、日本はドイツに支持と協力を与えるというのであつた。日本の行動は、太平洋と極東におけるアメリカの利益に対して、常に脅威を与えるものであるから、合衆国がヨーロツパ戦争に介入する可能性を、日本は最少限度に止めるわけであつた。その代りに、日本の計画を合衆国またはソビエツトが妨害する可能性に対して、日本は保護を得るというのであつた。
  日本はヨーロツパとアフリカにおけるドイツとイタリアの排他的な権利を認め、その代りに、東アジアと南洋における政治上の優越性と経済上の自由を得る自己の権利の承認を要求することにした。また、中国に対する戦争について、ドイツの協力とドイツの経済的及び技術的援助を求めることにした。その代償として、中国からも南方からも、ドイツの必要とする原料を供給することを約束することにした。日本とドイツは、ヨーロツパ戦争が終れば、両国が支配することになるものと期待している二つの広大な勢力範囲の間の貿易について、互恵主義を取極めるというのであつた。
  この案は第二次近衛内閣の外交政策の基礎となつた。

(E-491)
第二次近衛内閣による試案の採用

  日本は東南アジアと東インドを征服することにきめていたが、とるべき実際の措置の性質と時期については、はなはだ不明確であつた。この未決定の要素は、ある程度まで、陸軍と海軍と外務省との間の見解の相違から生じたものである。しかし、そのおもな理由は、ドイツの真の目的について、はつきりしていなかつたからである。
  仏印、オランダ領東インド及び南洋の他の地域に対して、ドイツ自身がたくらみをもつているのではないかという大きな懸念があつた。この問題に対して、日本は強硬な態度をとり、ドイツがヨーロツパで手いつぱいである間に、速やかに行動しなければならないと考えられていた。他方では、ドイツが最も容易に受諾するような形で、日本の排他的な要求を提出することに決定された。日本は政治上の指導権と経済上の機会を求めているということだけを述べて、その征服の目的を隠そうというのであつた。 ドイツとソビエツト連邦及び合衆国との関係についても、憂慮されていた。ヨーロツパ戦争が終れば、これらの両国は、ドイツと日本とともに、残つた四つの世界的国家となつて現われるだろうと予期されていた。(E-492)そうなつたら、日本は引続いてドイツ及びイタリアと協力するのが望ましいと思われたが、ドイツの政策が変つて、日本はなんの支持も得られなくなるのではないかという心配があつた。ドイツ及びイタリアの目的と同時的に、日本はもつぱら日本自身の目的の達成を促進するために、合衆国と交渉することに意見が一致した。ソビエツト連邦との関係の改善を助長する政策をとらなければならないが、それはこの政策がドイツと日本の計画にとつて都合のよい間に限るものとするということが承認された。
  最後に、日本として与える用意のある程度の協力は、ドイツにとつて、受諾できないものではないかという不安があつた。日本は、イギリスに対して、いつそう積極的な手段を直ちにとるべきかどうか、また、中国における戦争が終つたら、シンガポールを攻撃すると約束すべきかどうかということが議論されたが、はつきりした言質を与えないことに定められた。
  これらのことが不明確な事柄であつて、これを解決するのが、新しい内閣の任務となつた。日本の外交政策の基本原則については、このような疑念はまつたくなかつた。あらゆる困難にかかわりなく、東アジア、東南アジア、南太平洋地域の全体に対して、日本は支配権を確立しなければならないということに、陸軍と海軍と外務省の代表者は意見が一致していた。この目的のために、必要となれば、日本の目的に反対するどの国に対しても、日本は戦うというのであつた。しかし、便宜上の必要から、日本はまずドイツ及びイタリアと意見の一致に達しようというのであつた。
(E-493)
  一九四〇年七月十九日、近衛、松岡、東條及び吉田が新しい内閣の政策を立てるために会合したときに、かれらはすでに作成されていた計画を採用した。『新秩序』が速やかに建設されるように、かれらは日本とドイツ及びイタリアとの関係を強化することにきめた。この案に従つて、かれらはソビエツト連邦と不可侵条約を締結し、満州国と蒙古とをその新しい協定の当事者にすることにきめた。イギリス、フランス、オランダ及びポルトガルの領土を、日本の『新秩序』のわくの中に含ませることにきめた。もし合衆国がこれらの計画を妨害しないならば、日本は同国を攻撃しようとはしないが、もし合衆国が妨害しようとするようなことがあれば、戦争に訴えることを躊躇しないというのであつた。

一九三六年八月十一日の国策決定に基く第二次近衛内閣の政策

  第二次近衛内閣が就任すると、有田の外交の運営は、近衛と軍部派の『強力』な外交に変つたが、有田の政策の中心的な特色は維持された。日本の長年の国家的野望は、ここでも再び、八紘一宇の理想として説明されたが、それはドイツとイタリアの野望に従属させるべきではないと新しい内閣は決意していた。
(E-494)
  日本のドイツ及びイタリアとの提携の条件は、まだ定められていなかつたが、新しい内閣は、一九三六年八月十一日の国策の基準に関する決定で定められていたところの、陸軍の企画の一貫した目的をあらためて強調した。一九三六年と同じように、一九四〇年七月二十六日にも、日本の政策の第一の目標は、中国の征服と、戦争のために国家総動員のあらゆる部門を促進することであると遊べられた。これらの既定の目的が成就されつつある間に、日本は弾力性のある政策をとり、国際情勢の変化を利用して、自己の利金を増進できるようにするというのであつた。
  しかし、一九四〇年七月二十六日の閣議決定の中では、日本は『大東亜新秩序』を建設しようとすること、日本、満州国及び中国の他の地域はその根幹をなすにすぎないということが明確に述べてあつた。一九四〇年八月一日に、この決定は、政府の声明として、外務省によつて発表された。その際に、外務大臣松岡は談話を発表し、その中で、日本の使命は『皇道』を全世界に宣布することであると述べた。日本の外交方針の当面の目的は、この精神に則つて、日本、満州国及び中国の他の地域をそれぞれ一環とする東亜共栄の一大連鎖をつくり上げることにあるとかれはいつた。(E-495)この目的のために、日本はその道程に横たわる有形無形の一切の障害を排除する覚悟であるというのであつた。日本と協力する用意のある友邦と同調して、日本はその理想と天から与えられた使命との達成のために、勇気と決意をもつて努力するというのであつた。
  他方で、一九四〇年七月二十七日の連絡会議では、陸軍と海軍が内閣の方針を受諾することを表明し、同時に、『第三国と開戦に至らざる限度において南方問題を解決すること』と定めていた。日本はドイツ及びイタリアとの協力の条件を取極め、ソビエツト連邦との調整を遂げようと試みると同時に、合衆国に対しては、確固とした、しかし穏健な態度を維持するというのであつた。連絡会議は、『米国に対しては、帝国の必要とする施策遂行に伴う巳むを得ざる自然的悪化は敢て之を辞せざるも、常に其の動向に留意し……』と決定した。この決定は続けて、『我より求めて摩擦を多からしむるは之を避くる如く施策す』と述べていた。
(E-496)
  内閣は、この点においても、日本は他国をいたずらに刺激することを避けるようにつとめるとともに、『外交国防相俟つて南方海洋に』勢力を伸ばさなければならないと述べたところの、国策の基準に関する決定の原則を守つたのである。

『限度内において南方問題を解決する』政策

 連絡会議は、この原則に従つて、日本の南方進出の政策を遂行するために、直ちにとるべき措置を詳細に決定した。すでに北部仏印は日本の文配下にあつた。日本軍は、起るかもしれない香港攻撃に備えて、すでに動員されていた。日本はオランダ領東インドに対して、原料の供給の保証を求める要求を行つていた。新しい内閣が就任した日に、この問題について解決に到達するために、日本はオランダ領東インドに経済使節団を送るということが発表されていた。
  連絡会議は、これらの政策を続けることに決定した。当分の間は、外交手段によつて、日本はオランダ領東インドの重要資源の確保をはかることにした。フランスの太平洋属地を日本が占領することについて、ドイツの承認を求めるために、また委任統治によつて現在日本が治めている元のドイツ領諸島を引続き保有するために、日本は交渉をすることにした。また、南方における他の諸国の支持を助長するために、日本は努力するというのであつた。
(E-497)
  しかし、仏印、香港、マレー及び中国における西洋諸国の祖界については、蒋介石大元帥の軍隊に対する援助を阻止し、日本に対する敵意ある感情を根絶するために、日本はいつそう強力な措置をとることにした。仏印に対しては、飛行場の使用と、日本軍隊の通過の権利とを要求することにした。日本は仏印に対して、日本の軍隊に食糧を供給することを求め、さらに同国から原料を手に入れる措置をとることにした。
  陸軍大臣東條は、これらの措置で満足しなかつた。一九四〇年七月三十一日に、大使オツトはドイツに報告して、東條は日本とイギリスとの関係を極度に悪化させつつあるといつた。そうすることによつて、東條は日本における親イギリス派の勢力をさらに切りくずし、東アジアにおけるイギリスの属地に対して、日本が行動を起す時期を早めたいと望んでいるというのであつた。

『大東亜』政策に関する重光の見解

  第二次近衛内閣の政策が決定された一九四〇年八月五日に、大使重光は松岡に電報を送り、新外務大臣の就任に対して、また『大東亜政策』の確立と実行に対して、祝意を述べた。
(E-498)
  米内内閣が在任していた間に、重光は外務大臣有田に対して、軍部派の要求を阻止するように力説していた。ヨーロツパ戦争の結果として、東アジアにおける西洋諸国の勢力は次第に減少しつつあるとかれは主張した。日本の熱望する極東における優越的地位を得るには、巌格な中立の政策を維持するのが最もよい途であるとかれは考えた。しかし、軍部派が政権をとつてしまつたので、厳格な中立の政策をとる見込みはもはやなくなつた。
  重光は次のようにいつて、今では新内閣の目的を支持した。『大東亜における我地位を建設するには、直接には小国の犠牲に於て行い、他国との衝突を避け、一時に相手を多くせず、各個処分の方策を以て、最小限度の損害を以て最大の利益を収むることを考慮する要あらん。』かれは、これらの方策の目標とすべき国の例として、フランスとポルトガルを挙げ、こうして方策を進めれば、イギリスと合衆国に払わせる犠牲は間接的なものとなるであろうと述べた。
  しかし、重光は、結局には、西洋諸国がドイツと、イタリアに勝ちそうであることを、依然として信じているということを明らかにした。(E-499)ドイツが確実にイギリスを征服するという仮定に基いた近衛内閣の政策の基本原則に対しては、かれは反対であることを示した。
  新しい内閣は、蒋介石大元帥の軍隊の抗戦を粉砕するために、日本の作戦を強化することを決定していた。しかし、重光は、以前と同じように、中国における戦争の解決のためには、度量の大きい態度をとることを唱道した。
  内閣はまた、極東におけるイギリスの属地に対する攻撃をもくろんだところの、南方進出の政策を採用した。陸軍と陸軍大臣東條は、敵対行為開始の時期を早めたいと熱望していた。たとい日本と合衆国との間に戦争を起すようなことになつても、南方進出を遂行することを内閣は決意していた。重光は、イギリス及び合衆国との関係については、日本は『周到なる考慮と用意とを以て進むこと』が必要であることを強調した。極東におけるイギリスの勢力が減少しつつあることを重ねて指摘し、合衆国でさえも、東アジアにおけるその地位から退却しつつあると主張した。日本がその東亜政策を遂行するにあたつて、穏健に行動するならば、この政策に対するイギリスと合衆国からの障害は、やがて自然に除かれることを期待してよいという見解をかれは固執した。
(E-500)
  第二次近衛内閣は、日本とドイツ及びイタリアとの協力を助長することを決定していた。陸軍は枢軸諸国間の三国同盟を締結せよという要求を重ねて持ち出していた。重光は、共通の政策をとるように、ドイツと日本とを拘束するような措置をとつた場合に、そこに生じてくる危険を強調した。かれは松岡に対して、太平洋でイギリス及び合衆国との衝突に日本を引きこもうとして、有力な運動が行われていると警告した。これがドイツの政策であることと、イギリスのある一部の間で、右のような戦争によつて、日本の東アジア進出が阻止されることを希望されているということとを、かれは暗示した。一九四〇年の終りの数カ月の間に、重光はロンドン駐在大使として、イギリス政府の閣僚に対して、日本との友好関係を回復するために、新しい基礎を求めることを勧めた。
  この一九四〇年八月五日の電報の中で、重光は、ドイツとイタリアの政策に平行して、日本は独自の政策をもつて進むべきであると説いた。日本が従うベき模範として、ソビエツト連邦とドイツとの関係に、かれは注意を喚起した。ソビエツト連邦は、イギリスとの妥協の余地を残す中立政策を強く維持しているといつたのである。それと同時に、ソビエツト連邦は、ヨーロツパ戦争と関係のない小国に対する勢力を築き上げつつあると重光はいつた。この政策こそ、『東亜における政治的、経済的に実力ある地位』を建設するという主要な目的を達成するために、日本がとるべきものと重光の考えた政策であつた。

(E-501)
松岡、日本の対枢軸諸国協力の条件をドイツに提案

  それにもかかわらず、日本とドイツ及びイタリアとの協力の条件が取極められもしないうちから、最後には、東南アジアと東インドまで、戦争によつて進出するということがすでに確定方針と見做されていた。一九四〇年八月の初めに、軍令部総長伏見は天皇に対して、海軍としては、現在のところ、マレーとオランダ領東インドに対する武力行使は避けたいと知らせた。戦争の決意をしてから、準備のために、少くもさらに八カ月を要するとかれはいつた。従つて、戦争になるのは遅いほどよいと考えた。
  すでに外務大臣松岡は、ドイツ及びイタリアとの協定に達するために、最初の手段をとつていた。一九四〇年八月一日に、かれは大使オツトに、日本の政府も国民も、日本とドイツ及びイタリアとの関係を強化したいと思つていると知らせた。かれは自分としてはいつもこのような政策を支持してきたといつたが、内閣の決定は、ドイツの方から提案される協力の条件によつてきまるということを明らかにした。
(E-502)
  一九四〇年七月の会議で、日本はヨーロツパ戦争には介入を企てないことに決定されていた。かえつて、松岡はドイツに対して、世界情勢について、広い見解をとることを求めた。ドイツがイギリス本国を占領した後でも、イギリス連邦の他の諸国を崩壊させるのは、容易なことではないであろうと指摘した。オツトはその通りであると同意した。松岡は、ソビエツト連邦からも、合衆国と残存するイギリス連邦諸国とから成るアングロサクソン・ブロツクからも、ドイツは反抗されることになるだろうといつた。そうなれば、日本の地位はきわめて強いものになるというのであつた。
  松岡は、中国側の抗戦を粉砕するまで、日本は中国における戦争を続ける決意であるといつた。これはドイツの援助がなくても達成できるというのであつた。かれは続けて、日本は南方における野心を実現することも決意してるといつた。松岡の意見では、日本はまずタイより北の諸国に力を集中するが、日本の目的は、変転する世界情勢とともに変るというのであつた。ドイツの協力を確保するために、松岡はオツトに対して、日本の支配を確立すべき諸地方に対して、日本は征服の意図も搾取の意図もないと告げた。
  松岡はこのように話を切り出して、日本の政策に対するドイツの態度と、ドイツがどんな援助を与える用意があるかを知りたいと望んだ。また、ソビエツト連邦と合衆国との両国に関するドイツの政策と日本とこれらの両国との関係についてドイツが日本に何を求めるかを知りたいと望んだ。
(E-503)
  この会談が行われた同じ日に、大使来酒はドイツ外務省の一役人に、同じような申入れをした。ドイツ側では、もし来栖と松岡が東アジアと南洋における日本の目的を間違いなく述べているとすれば、日本側が提案した条件で協力することは、ドイツの利益になるという結論を得た。そこで、一九四〇年八月二十三日に、日本へのドイツの特使として、スターマーが外務大臣フオン・リツベントロツプによつて派遣された。
  その間に、松岡は、西洋諸国との協力に賛成するすべての外交官と外務省職員を徹底的に追放した。白鳥は、『独裁主義に則つて国務を調整する』ために設けられた委員会で、対外政治事項の代表者になつた。この新しい委員会は、枢軸諸国との協力の政策を絶えず要求した。

(E-504)
三国軍事同盟に関する詳細な計画、一九四〇年九月四日の四相会議

  一九四〇年九月四日に、総理大臣近衛、外務大臣松岡、陸軍大臣東條及び海軍大臣は、日本とドイツとの交渉の策略を立てるために会合した。今がドイツとの会談を開始する好機であると思われた。ドイツの特使スターマーは東京に来る途中であつたし、日本とドイツ及びイタリアとの協力を強めたいという希望は、非常に明確に現われてきていた。
  この四相会議では、すでに決定された政策から離れた点はなかつたが、ドイツ及びイタリアとの交渉のあらゆる面に対して、日本側の態度が確定され、また著しく細目にわたつて述べられた。日本、ドイツ及びイタリアは、それぞれアジアとヨーロツパにおける支配の目的を達成するにあたつて、戦争に訴えることも含めて、あらゆる手段によつて協力するために、基本協定に到達するということが決定された。三国は、これらの目的を成就するにあたつて、相互に援助する方法と、イギリス、合衆国及びソビエツト連邦に対して、共同にとる政策について、協定するというのであつた。
(E-505)
  交渉に費す期間をできるだけ短くすることにして、でき上つた協定は共同声明の形で発表することにした。これはいつそう詳細な軍事協定の基礎となるものであつて、この協定の条項は、必ずしも公表しないことにした。この軍事協定は、軍事上、経済上、その他の種類の相互援助を与えるべき各締約国の義務を定めようというのであつた。
  四相会議は、日本としてこの援助がとるべきものと考える形態を詳細に計画し、三国軍事同盟の協議にあたつて、日本の従うべき原則を定めた。
  第一に、日本の勢力範囲は、日本の太平洋委任統治諸島、仏印とその他のフランスの太平洋属地、タイ、マレー、イギリス領ボルネオ、オランダ領東インド、ビルマ、オーストラリア、ニユージーランド、インド、その他の諸国を含むべきであるということに意見が一致した。しかし、ドイツと交渉するにあたつては、オランダ領東インドを含めて、ビルマ以東、ニユー・カレドニア以北の地域だけについて、日本は言及することにした。もしドイツが留保をしたならば南洋をも含めて、東アジアの全地域における優越という日本の目的をドイツに認めさせるような方法で、日本の意図を表明することにした。日本の究極の目標は、仏印とオランダ領東インドを独立させることであるが、まずこれらの諸国に対する政治上と経済上の優位を獲得したいということを主張しようというのであつた。
(E-506)
  第二に、ソビエツト連邦と合衆国に関して、三国は共通の政策を採用するというのであつた。ソビエツト連邦と友好関係を維持することが三国の目的ではあるが、もし締約国の一つがソビエツト連邦との戦争にまきこまれそうになつた場合には、三国が一致して行動するということについても、同意するというのであつた。日本はソビエツト連邦を東方、西方、南方で牽制し、こうして同国を三国同盟国側の列に加わらせるように努力するという点で、ドイツ及びイタリアと協力するというのであつた。
  さらに、戦争に至らない手段によつて、合衆国を牽制するために、締約国は提携して行動することになつていた。この政策に従つて、フイリツピンは、日本がすぐに支配するつもりであつた国々の中に、含まれていなかつた。それを含むかどうかは、合衆国の態度によつて、きまることになつていた。ドイツ及びイタリアとの政治的と経済的の協力によつて、合衆国に圧迫を加え、これによつて、日本の野心を達成できるようにするというのであつた。
  第三に、各締約国によつて与えられる経済的援助の性質は、別個の協定の対象とすることになつていた。日本は、その支配下にある地域から、ドイツがイギリスに対する戦争の遂行に必要とする原料を供給するというのであつた。(E-507)ドイツは、それに対して、中国における戦争の遂行を容易にすることについて、日本と協力し、それまで日本が大部分合衆国に依存していた技術的援助と戦争資材を供給するというのであつた。
  第四に、東アジアにおけるイギリスの政治上と経済上の権益を除くために、日本は事態の必要とする措置を講ずることにした。ドイツに対する経済的援助によつて、中国におけるイギリスの権益に対する政治的と経済的の圧迫によつて、宣伝によつて、並びにイギリスの領土における独立運動の奨励によつて、日本はイギリスに対する戦争についてドイツとイタリアを援助することにした。もしドイツが望むならば、原則として、イギリスに対抗する軍事的協力を与える意思があることを日本は宣言するというのであつた。そうでなければ、日本の主要目標は合衆国とすることになつていた。
  しかし、イギリスと合衆国に対して、武力を行使するようなことがある場合に関しては、日本は自主的に決定する権利を留保することにした。もし中国における戦争が解決に近づいたならば、日本はできるだけ都合のよい時機を選んで、この目的のために武力を行使するというのであつた。中国における戦争が続いている間は、情勢がもはや猶予を許さないほどにならない限り、日本は西洋諸国に対する戦争に訴えないというのであつた。
(E-508)
  提案された同盟の要点は、さきに松岡がドイツ側に示唆したものであつた。ドイツがイギリスに対する戦争に勝利を得た暁には、世界はそれぞれドイツ、イタリア、日本、ソビエツト連邦、合衆国によつて支配される四つの勢力範囲にわけられるというのであつた。この事態が生じる前も後も、日本はドイツ及びイタリアと提携して行動し、おのおのが征服と勢力拡大の目的を完全に実現できるようにするというのであつた。

三国同盟の交渉、一九四〇年九月九日―十一日

  五日後の一九四〇年九月九日に、外務大臣松岡はスターマーに会つて、ドイツとの交渉を開始した。スターマーはドイツ外務大臣の直接の訓令に基いて語つたのであるが、提案された三国同盟の締結に対する熱意において、ドイツは日本に劣るものではないことを知らせた。すべての重要な点で、ドイツの見解は、一九四〇年八月一日に、松岡が大使オツトに表明した見解によく符合していた。
  ドイツはヨーロツパ戦争を早く終らせることを望んでおり、現在のところでは、日本の軍事的援助を必要としないとスターマーはいつた。ドイツは、日本が合衆国の参戦を牽制し、防止することを特に望んでいた。提案された同盟の締結と協力な外交政策の採用は、合衆国と日本またはドイツとの間の戦争を防止するのに、最も確かな途であると考えられていた。(E-509)ドイツとイタリアは、合衆国を牽制するために、あらゆる可能なことを行うし、両国が無理をせずに割くことのできるような兵器を日本に供給するであろうとスターマーはいつた。
  ドイツの提案は、ほかの点でも、よく日本の目的に副うものであつた。ドイツは東アジアにおける日本の政治的指導権を承認し、尊重するとスターマーは言明した。ドイツがこの地域で求めているものは経済的性質のものだけであつた。ドイツは日本と協力し、また日本がドイツの経済上の必要に応ずることを期待するというのであつた。ドイツはまたソビエツト連邦と日本との間の歩み寄りをもたらすことに援助するであろうし、それは克服しがたい困難をもたらすものではないと考えるというのであつた。
  ドイツは、現在のところ、日本の中立を希望しているが、来るべき世界征覇のための争闘においては、日本を同盟国と見なしているということを、スターマーは明らかにした。現在の戦争は速やかに終るかもしれないが、大きな闘争がなにかの形で数十年も続くであろうとかれはいつた。その間、ドイツは、日本と合衆国との間の戦争を防止するために、できるならば、両者の国交を改善するためにも、あらゆる可能なことをするというのであつた。しかし、三国は最悪の事態に対して備えていなければならないとスターマーはいつた。日本と合衆国との間の戦争は、結局はほとんど避けられないものとドイツは考えていた。
  スターマーは松岡に対して、ヨーロツパにおける戦争は、最後にはアングロサクソン世界全体を相手とする闘争に発展していく運命にあると告げた。(E-510)ドイツは、提案された同盟をこの闘争における協力のための長期の取極めであると考えており、従つて、イギリスとの戦争が終る前に、速やかに日本が枢軸に加入することを希望するというのであつた。
  スターマーと松岡は、一九四〇年九月九日、十日及び十一日に会合した。三度目の会合で、かれらは提案された三国同盟の草案を二人の間でまとめた。ドイツの明白な希望によつて、イタリアはこの交渉に参加するようには招請されなかつた。イタリアの外務大臣チアノは、一九四〇年九月十九日に、フオン・リツベントロツプから、提案された同盟について、初めて内示を受けた。そのときに、ドイツ外務大臣は、この同盟は両面――すなわち、ソビエツト連邦に対しても合衆国に対しても――威力をもつものと考えると語つた。

三国同盟の締結をめぐる事情

  松岡とスターマーが、提案された三国同盟の草案を決定してから、その締結を確保するのに、一刻も失われなかつた。一九四〇年九月十六日に、この提案は、天皇の出席した枢密院会議という形式をとつた御前会議に提出された。外務大臣松岡は、ドイツとの交渉の経過を述べ、提案された草案の各條項を説明した。しかし、海軍はこの提案に同意しなかつた。
(E-511)
  三日後の一九四〇年九月十九日に、この問題は連絡会議で審議され、一九四〇年九月二十四日に、ついに意見が一致した。一九四〇年九月二十六日に、天皇の出席のもとに再び会同した枢密院に、それは報告された。近衛、松岡、東條、及川が出席していた。及川は吉田のあとを継いで、このときに海軍大臣になつていたのである。同盟の代弁者の中には、企画院総裁星野、陸軍省軍務局長武藤、大蔵省と海軍省との代表者が含まれていた。
  今や非常に緊急を要すると考えられたので、枢密院は、草案を審議し、文書で報告を提出することを審査委員会に委任するという通例の慣行に従わなかつた。その代りに、枢密院会議に出席した者がみずから全員の委員会を構成し、枢密院副議長をその委員長とした。近衛と松岡が最初にこの提案を説明した。そのあとで行われた協議は終日続き、夕方にまで及んだ。(E-512)全員の審査委員会は、ついで全会一致で、提案された同盟の締結を勧告し、一つの警告をつけ加えた。政府はソビエツト連邦と日本との関係を改善し、イギリスと合衆国を刺戟するような一切の行動を避けなければならないと決議されたが、政府はこれらの措置を講ずるとともに、最悪の事態に備えなければならいと要求された。
  それから、天皇の出席のもとに催される枢密院本会議として、会議がもう一度開かれた。審査委員長は決定された勧告を口頭で報告し、さらにいくらかの協議をしてから、同盟を締結することが全員一致で承認された。
  その翌日の一九四〇年九月二十七日に、三国同盟は締結された。この新しい同盟は、万邦をして『各各其ノ所ヲ得』させる平和の一手段であるということを宣言した詔書が発布された。外務大臣松岡は演説を行つて、東亜『新秩序』の指導者として、日本の責任は増大したと言明した。日本は平和的な手段によつてこれらの責任を果すつもりであるが、画期的な決定を必要とするような場合と情勢が起るかもしれないといつた。日本の将来は、普通の努力では、とうてい乗り越えることのできないような、数知れない困難につきまとわれているとかれはつけ加えた。
  大島と白鳥は、もつと明らさまであつた。白鳥は一九四〇年十二月に書いたものの中で、三国同盟を評して、『世界新秩序』達成の手段であり、まず満州の征服となつて現われた動きの最高潮に達したものであるといつた。
(E-513)
  大島の見解では、『大東亜圈』は武力によつて南進するのでなければ達成されないということを、今では近衛内閣が確信しているというのであつた。唯一の問題は、『いつ事を始めるべきか』であるとかれはいつた。
  木戸もまた三国同盟のもつ意義のすべてを明らかに了解した。一九四〇年九月二十一日に、かれは天皇に自分の考えを報告して、もし同盟が締結されたならば、日本はついにはイギリスと合衆国に対抗しなければならなくなるであろうといつた。それであるから、かれは中国における戦争が速やかに解決されなければならないと考えた。
  天皇は、提案された同盟には、決して同意を与えないとかねていつていた。天皇は元老西園寺公の進言を非常に頼りにしていたが、西園寺は強くこの同盟に反対であることが知られていた。海軍の同意を得た後も、近衛内閣はこの困難を克服しなければならなかつた。それは木戸の通牒によつて乗り越えられた。
  内大臣としての木戸の義務は、交渉の経過について、元老に報告することであつた。まさに行おうとする決定の重大性を充分に承知しながらも、木戸は西園寺に対して、何が起つているかをまつたく知らせずにおいた。これについて、義務を怠つたことを責められると、元老の病弱を考慮してのことであると答えるだけであつた。(E-514)同盟が締結されてしまつたことを知つて、西園寺は大いに憂慮し、天皇の周囲に人がいなくなつたと感じた。

三国同盟の条項及び一九四〇年九月二十七日に日本とドイツの間に交換された誓約

  三国同盟の前文に、ヨーロツパとアジアにそれぞれ『新秩序』を建設するという締約国の決意と、そうするにあたつて、相互に援助するという決心を述べている。この文書は、ドイツとイタリアはアジアにおける日本の指導権を尊重し、日本はヨーロツパにおけるドイツとイタリアの指導権を尊重することを規定した。三国は相互の協力を誓約したが、その詳細についての決定は、その目的のために任命される混合專門委員会によつて行われることになつていた。ヨーロツパ戦争または中国における戦争に現在加わつていない国によつて、締約国のいずれかが攻撃された場合には、同盟の他の参加国は、政治的、経済的及び軍事的の援助を与えることになつていたドイツとイタリアは、ソビエツト連邦と締約国のいずれかとの間の現在の関係に対して、この同盟はなんの影響をも及ぼすものでないということを確認することになつていた。この同盟は、十年間効力を有することになつており、その更新についての規定があつた。
(E-515)
  一九四〇年九月二十七日に、すなわち、三国同盟が締結された日に、書簡の交換によつて、さらに他の誓約が日本とドイツとの間に行われた。国際連盟の委任によつて、当時日本が統治していた旧ドイツ領の太平洋諸島は、日本が保持することにするということが協定された。その当時、他の諸国の支配の下にあつた南洋における旧ドイツ植民地は、イギリスに対する戦争が勝利に終つたときは、自動的にドイツの所有にもどることになつていた。しかし、ドイツは、これらの植民地を日本に譲り渡す交渉を行う意思のあることを保証した。
  松岡は、ドイツ大使あての書簡の中で、日本の希望を述べた。ヨーロツパ戦争の範囲が制限され、速やかに終結されることを希望する点で、日本はドイツ及びイタリアと同じであるとかれはいつた。このような結果を得るために、日本は努力を惜まないというのであつた。しかし、『現在大東亜地域及び他所に存在する諸事情』にかんがみ、イギリスと日本との間には、戦争の危険があるとかれはつけ加えた。このような場合には、ドイツはそのできる限りの方法で、日本を援助するであろうということを、日本政府は確信していると松岡は言明した。
  オツトはこの書簡を受取つたことを認め、援助が与えられることになるような事態は、三国間の協議によつて決定されることになるであろうといつた。(E-516)ドイツは、みずからの援助と、ソビエツト連邦に対する斡旋とを誓約した。また、できる限りの産業上と技術上の援助を日本に与えることを約束した。
  オツトは、三国が世界歴史の一つの新しい決定的な段階にまさにはいろうとしており、その段階においては、それぞれヨーロツパと『大東亜』とにおいて、指導者の役割を引受けるのが三国の任務であるとドイツは確信しているといつた。

(E-517)
三国同盟締結に際しての日本の指導者の意図

  三国同盟は、東南アジアと南洋へ軍事的に進出するために、日本の準備における必要な一歩として結ばれた。一九四〇年九月に行われた多数の協議や会議では、それに参加したすべての人々によつて、次のことが認識されていた。この同盟の締結は、フランス、オランダ及びイギリス連邦の諸国に対して、日本が戦争を行わなければならないようにするであろうということ、この同盟の締結は、もし合衆国が日本の侵略的目的の達成を妨げようとするならば、合衆国に対して戦争するという意思が日本にあることを意味するということである。日本が戦争資材についてまだ自給できないことは認められたが、この新しい同盟が締結されたら、南方において資材の新しい供給源を確保することは、西洋諸国との戦争という危険を冒しても遙かに有利であると考えられた。
  しかし、同時に、この同盟がもつと大きな目的をもつていることも、はつきりと理解されていた。外務大臣松岡が一九四〇年九月二十六日の枢密院会議でいつたように、『本案条約は今後帝国外交の基調を為すもの』であつた。ドイツがイギリスを征服してしまえば、世界の大国としては、同盟参加国、ソビエツト連邦及び合衆国が残るものと期待された。(E-518)締約国は、方便として、しばらくは合衆国及びソビエツト連邦の両国との戦争を避けるようにすることに同意した。世界に発表されることになつていた同盟の条項は、形の上では防禦的であつた。相互に援助するという締約国の義務は、締約国のうちの一国またはそれ以上に対して、攻撃が行われたときにだけ生ずるものと言い現わされていた。それにもかかわらず、枢密院とその他における討議の趣旨の全体からすれば、三国の画策の促進のために、侵略的な行動が必要と考えられるときは、いつでもその行動において三国は相互に援助する決意であつたということが明白である。南方に進出しようとする日本の計画にとつて、合衆国は直接の障害として認められていたから、松岡は同盟は主としてこの国を目標としているといつた。
  三国のソビエツト連邦との関係を改善するために、三国はあらゆる努力をすべきであるということも、それが締約国の目的に副つたものであるという理由で、同様に意見が一致した。しかも、三国同盟は、ソビエツト連邦をも目標としていることが認められていた。ソビエツト連邦と日本との関係の改善が永久的な性質のものであるということを、松岡は考えていなかつた。そのような改善は、二、三年以上も続くということはほとんどあり得ないし、それ以後は、三国は情勢を再検討することが必要になるであろうとかれはいつた。(E-519)松岡は、一九四〇年九月二十六日の枢密院の会議で、かれに向けられた質問に答えて、同盟の明確な条文にもかかわらず、またドイツとソビエツト連邦との間に不可侵条約があるにもかかわらず、三国はそのうちの一国がソビエツト連邦と交戦することになれば、相互に助け合うものであるとはつきりいつた。
  要するに、三国条約は、侵略国の間で、その侵略的目的を促進するためにつくられた盟約であつた。その真の性格は、ある枢密顧問官が、条約の前文に含まれている万邦をしてその所を得しむという一節と、最も強いものだけが生存すべきであるというヒツトラーの主義とが、どのようにして調和させられるかと質問したときに、充分に暴露された。総理大臣近衛、外務大臣松岡及び陸軍大臣東條は、ともどもに、強い国だけが生存するに足るものであると答えた。もし日本がその『皇道宜布の大使命』に失敗するならば、日本自体が滅亡しても、まつたくやむを得ないとすらかれらはいつた。
(E-520)
  米内内閣の瓦解の後に日本の指導者が行つた諸決定は、特別に重要なものである。従つて、それらの決定については、すでに詳細に述べておいた。それらの決定を見れば、共同謀議者は、厖大な地域と人口の上に、日本の支配を拡大し、かれらの目的を達成するために、必要とあれば、武力を行使すると決意していたことがわかる。それらの決定がみずから明白に認めるところによつて、三国同盟を結ぶについての共同謀議者の目的は、これらの不法な目的を達成するための援助を確保することであつたことがわかる。それらの決定を見れば、公表を目的とした表面上防禦的な三国条約の条項にもかかわらず、締約国の相互援助の義務は、防禦的にせよ、侵略的にせよ、締約国の一国が交戦するようになれば、効力を発生すると期待されていたことがわかる。それらの決定によつて、三国条約の目的は、平和の大義を助長することであつたという弁護側の主張は、完全に論破されてしまう。
  共同謀護者は、今や日本を支配した。かれらは自分たちの方針を定め、その実行を決意していた。中国における侵略戦争が少しも力を弱めずに続けられていた間に、さらにいつそうの侵略戦争のためのかれらの準備は、完成への道を大いに進んでいた。中日戦争を遂行するならば、その侵略戦争を引起すことは、ほとんど間違いないことであつた。本判決のうちで、太平洋戦争を取扱う章の中において、これらの準備が完成され、攻撃が開始されたことが述べてある。共同謀議者は、これによつて、日本が極東の支配を確保するであろうと期待していたのであつた。