極東国際軍事裁判所判決文
B部 第四章 軍部による日本の支配と戦争準備 第一巻

〈説明〉

本資料は、極東国際軍事裁判所判決文におけるB部 第四章 軍部による日本の支配と戦争準備 第一巻を文字起ししたものである。原典は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている「極東国際軍事裁判所判決 〔第1冊-第13冊〕 B部 第四章 第一卷」である。掲載するにあたり旧漢字を新漢字に直した他は原典を忠実に再現している。


〈見出し〉

表紙
序論
皇道と八紘一宇の『原理』
大川によるこれらの『原理』の唱道
田中内閣のもとにおける陸軍の勃興
濱口内閣時代の対外進出宣伝
橋本と一九三一年の三月事件
若槻内閣と奉天事件
若槻内閣時代における陸軍の権力の確立
犬養内閣の時代における満州の征服
政党政治に対する攻撃と犬養の暗殺
齋藤内閣時代の戦争準備
世論の戦争への編成替/荒木が陸軍の計画を示す
齋藤内閣時代の戦争準備、並びに天羽声明
齋藤内閣と岡田内閣の時代の廣田の外交政策
一九三五年、大陸における陸軍の進出と政府の経済的準備
廣田の外交政策と陸軍の企画との調整統合
岡田内閣時代における陸軍の権力の増大
一九三六年の二・二六事件と岡田内閣の倒壊
岡田の政策と失脚は陸軍の要求の過激な性質を示している
廣田とその内閣
陸海軍大臣は現役将官から選ぶことを規定した勅令
日本の国策の基準は一九三六年八月十一日に決定された
決定された諸原則
一九三六年の決定によつて要求された戦争準備の措置
一九三六年の国策決定に表明された目標の意義
国策決定の起源
防共協定
廣田のもとにおける経済上と産業上の戦争準備
戦時における世論統制の計画
海軍の諸準備
海軍軍縮諸条約に基く日本の権利義務
海軍条約に対する反対の増大した時代
一九三四年の共通最大限主義
一九三五年にロンドン会議から脱退
廣田内閣時代の海軍拡張
委任統治諸島の歴史
一九三六年前における委任統治諸島の要塞化
廣田内閣時代における委任統治諸島の機密の保持
海軍将校、南洋諸島の行政官となる
廣田内閣における各被告の地位
橋本と大日本青年党
学校と大学における軍事訓練の歴史
検閲と宣伝流布の歴史
一九三六年における橋本の政策
一九三七年一月の政治的危機
廣田内閣の倒壊と宇垣の組閣の失敗
林内閣と第一次近衛内閣の構成
林内閣時代の華北に対する新経済政策
廣田内閣と林内閣の時代の、満州の経済上と産業上の開発における陸軍の役割
満州国五カ年計画
一九三七年五月二十九日の重要産業五力年計画
大陸資源開発の決定
戦争産業と戦争資材の生産とに関する細目的計画
一九三六年の決定と一九三七年の計画との関係
計画は陸軍のソビエツト連邦攻撃の意図を示している
陸軍の計画は西洋諸国をも目標とした
一九三七年中の海軍の準備並びに委任統治諸島における準備
海軍備砲口径の国際的制限に対する同意の拒絶
陸軍の一九三七年度計画の目的に関する佐藤の演説
一九三七年度計画が日本の産業拡充計画に与えた影響
内閣企画庁
中国の戦争が五カ年計画に与えた影響
蘆溝橋事件は陸軍の煽動によるものであつた
第一次近衛内閣、陸軍の対中国戦争方針を採用
戦争準備と中国制服との関係
中国における戦闘と皇道及び八紘一宇の原理との関係
蘆溝橋事件後における廣田の外交政策
ブラツセル会議並びに戦争準備態勢の一部としての条約義務の違反
蘆溝橋事件後の満州国における産業計画
蘆溝橋事件後における戦争産業の拡充
統制経済の確立
蘆溝橋事件後の、ソビエツト連邦に対する陸軍の準備
中日戦争が陸軍の全国的動員計画を日本に採用させた
蘆溝橋事件後の国家的戦争準備に関する佐藤の演説
内閣参議、大本営及び臨時軍事費
蘆溝橋事件後における宣伝の統制と検閲の実施
蘆溝橋事件後において世論を戦争へ導くためになされた教育制度の利用
木戸、一九三七年十一月に内閣の危機をそらす
廣田、中国征服を達成する内閣の決意を強化する
陸軍、予期されたソビエツト連邦との戦争に対する計画と準備を継続する
中国における日本の勢力の確立と戦争産業の開発
一九三八年の廣田外交政策は一九三六年八月の五相会議決定に基いていた
蘆溝橋事件後における日本と西洋諸国の関係の悪化
一九三八年における海軍の準備と委任統治諸島内の準備
廣田、海軍情報の交換を拒否する
廣田政策は基本国策決定の言葉の中に示されてる
日本の占領地の経済的支配と開発
産業上の準備――人造石油と石油工業
その他の産業上の戦争準備
陸軍、国家総動員法を準備
一九三八年二月の政治危機と動員法の制定
国家総動員法と国策の基準の決定との関係
陸軍、動員法の目的を説明
陸軍は今や日本を戦争のための国家総動員のもとにおくことに成功した
一九三八年五月の満州国の長期産業計画
一九三八年五月の経済危機は陸軍の長期計画を脅した
一九三八年五月の内閣改造
近衛内閣は戦争のための総動員遂行のため新たな手段を講じた
板垣及び荒木と戦争のための国家総動員
一九三八年五月の内閣改造に伴う陸軍首脳部の異動
華中における新攻勢――一九三八年七月
ソビエツト連邦に対する戦争準備の継続/陸軍がドイツとの軍事同盟の交渉を開始した
ソビエツト連邦を攻撃する陸軍の意図は満州の征服に源を発していた
陸軍、ソビエツト連邦に対する攻撃の計画を延期――一九三八年八月
ソビエツトに対する計画によつて、陸軍はドイツとの同盟を求めるようになつた
防共協定締結後の日本とドイツとの関係


〈表紙〉

極東国際軍事裁判所
判決
B部
第四章

軍部による日本の支配と戦争準備

第一巻 英文八三―二八〇頁
一九四八年十一月一日

〈本文〉

第四章 軍部による日本の支配と戦争準備
序論

 この起訴状が主として取上げている日本の歴史上の期間を取扱うにあたつては、まず第一に、同期間内における日本の国内史を考察することが必要である。一九二八年からこのかた、日本の軍隊はその近隣の多くの国の領土を相次いで侵略した。本裁判所は、これらの攻撃の歴史と、日本が占領した領土の資源の日本による開発とを取扱わなければならない。しかし、本裁判所の最も重要な任務は、これらの攻撃が違法であつたという範囲内で、それらに対する個人の責任を判定することである。この責任は、単に国外における日本の活動を検討するだけでは判断することができない。実際において、『なぜこれらのことが起つたか』、また『それらが起つたことに対して、だれが責任があるか』という質問に対する答えは、日本の国内政治のその当時の歴史がわかつて初めて見出されるということがしばしばある。
 その上に、もしわれわれがまず最初に国外における日本の活動の検討に手を着けたとしたら、この検討をしている間に、これらの活動を充分に理解することは不可能であるということをわれわれは発見するであろう。なぜなら、これらの活動を行うために選ばれた時期並びにその進展の形態及び範囲は、しばしば、海外の事態だけでなく、国内の事態によつても支配されたからである。これらの理由によつて、海外における日本の行動を大いに支配し、説明するところの、日本国内の政治的発展を、われわれはここでまず第一に考慮するものである。
 ここに検討中の期間の著しい特徴は、軍部とその支持者が日本政府部内で非常に有力な地位に段々上つて行つたので、他の政府機関は、国民の選んだ代表者にしても、内閣の文官大臣にしても、枢密院や天皇の側近者のうちの文官輔弼者にしても、その後期においては、軍部の野望に対して実効のある抑制を何も加えなかつたということである。日本の純粋の軍事問題についても、民政や外交についても、軍部とその支持者の勢力が優勢になつたことは、一挙に成就されたものでもなければ、その達成を脅す諸事件が起ることなしに成就されたるものでもなかつた。しかし、結局は成就されたのである。軍部が優位を占めることによつて頂点に達した政治的闘争の中において、主要人物の受けた変転に満ちた運命は、国外で起つた事件の多くに、説明の光を投げるものであることがわかるであろう。日本の軍事的冒険とそれに対する準備は、日本の内地における政治闘争の変転の多い運命につれて消長があつた。

皇道と八紘一宇の『原理』

  日本帝国の建国の時期は、西暦紀元前六百六十年であると言われている。日本の歴史家は、初代の天皇である神武天皇によると言われる詔勅がその時に発布されたと言つている。この文書の中に、時の経つにつれて多くの神秘的な思想と解釈がつけ加えられたところの、二つの古典的な成句が現われている。第一のものは、一人の統治者のもとに世界の隅々までも結合するということ、または世界を一つの家族とするということを意味した『八紘一宇』である。これが帝国建国の理想と称せられたものであつた。その伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもつた人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかつた。行為の第二の原則は、『皇道』の原理であつて、文字通りに言えば、『皇道一体』を意味した古い成句の略語であつた。八紘一宇を具現する途は、天皇の仁慈に満ちた統治によるのであつた。従つて、『天皇の道』――『皇道』または『王道』――は徳の概念、行為の準則であつた。八紘一宇は道德上の目標であり、天皇に対する忠義は、その目標に達するための道であつた。
  これらの二つの理念は、明治維新の後に、再び皇室と結びつけられた。一八七一年に発布された勅語の中で、明治天皇はこれらの理念を宣言した。その当時に、これらの理念は、国家組織の結集点を表現したものであり、また日本国民の愛国心への呼びかけともなつた。

大川によるこれらの『原理』の唱道

  一九三〇年に先だつ十年の間、領土の拡張を主張した日本人は、これらの二つの理念の名のもとに、それを主張した。これに続く幾年もの間、軍事的侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となつた。
  最初は被告の一人であつたが、本裁判の進行中に、精神に異状を来した大川博士によつて、一九二四年に一冊の書物が出版された。日本は大地の最初に成つた国であるから、万国の国民を支配することがその天命であるとかれは述べ、また、日本によるシベリアと南方諸島の占領を唱道した。一九二五年及びその後に、かれは東洋と西洋の間に戦争が起り、その戦争で日本はアジアの戦士になるであろうと予言した。一九二六年に、強い物質主義的精神を伸長させることによつて、この崇高な使命を達成することに努めるべきであると述べた。かれは有色民族の解放と世界の道義的統一を唱道した愛国結社を組織していた。参謀本部の招請に応じて、かれはしばしばこれらの主旨に基いて講演した。

田中内閣のもとにおける陸軍の勃興

  一九二七年四月に、田中が総理大臣に就任したとき、対外進出論者が最初の勝利を占めた。新内閣は、満州と呼ばれる中国の一部に平和的に浸透する政策を行うことにきめていた。しかし、中国の有力な分離論者との交渉を通じて、満州に日本の覇権を確立することを田中が提唱したのに対して、関東軍内部の諸分子は、この政策に対して焦燥を感じていた。関東軍は、南満州鉄道を含む日本の利益を保護するために、ポーツマス条約に基いて満州に維持されていた日本の部隊であつた。一九二八年四月に、田中の交渉相手であつた張作霖元帥を関東軍の一部の者が殺害した。張作霖元帥は満州における中国軍の総司令官であつた。
  この殺害に責任のある陸軍将校を処罰しようとする田中の努力に対して、参謀本部は陸軍大臣の支持のもとに反抗したのであつてこの反対は見事に成功した。陸軍は政府を無親した。そして、中国側の反抗は大いに活発になつた。軍の支持者の離反によつて、政府は甚しく弱体になつた。
  一九二九年四月に、大川は満州問題を政府の手から奪う目的をもつた大衆運動を開始した。参謀本部は大川の成功によつて意を強くし、やがてかれと協力し始めた。この問題について世論を喚起するために、有能な宣伝家が日本の各地に送られた。
  この反対と、満州で絶え間なく起つた混乱とに直面して、田中内閣は一九二九年七月一日に辞職した。

濱口内閣時代の対外進出宣伝

  田中の後を承けて濱口が総理大臣になつたときに、幣原男爵は外務省に復帰した。田中の就任前の諸内閣で、幣原は友好的な国際関係という自由主義的政策の代表的な主唱者であつた。かれの再任は、陸軍の武力による対外進出計画に対して、一つの脅威となつた。この挑戦を冒して大川は、参謀本部員の支持のもとに、その宣伝戦を続けた。満州は中国から分離され、日本の支配下に置かれなければならないとかれは主張した。このようにして、アジアに対する白色人種の支配は終りを告げ、それに代つて、『王道』の原理の上に打ち建てられた国が創造され、日本はアジアの諸民族の指導権を握り、白色人種を駆逐するというのである。このようにして、一九三〇年には、すでに皇道は日本によるアジアの支配及び西洋との戦争の可能性を意味することになつた。
  陸軍当局者は直ちに大川に追隨した。満州は日本の生命線であり、日本はそこに進出し、これを経済的、産業的に開発し、ソビエツト連邦に対してこれを防衛すべきであるという主張を普及するため陸軍将校は大仕掛の宣伝を開始した。一九三〇年六月に、当時関東軍の一参謀であつた板垣大佐は、武力によつて満州に新国家を樹立することに賛成していた。かれは大川に倣つて、このようを発展は『王道』に適つたものであり、アジアの諸民族の解放をもたらすものであると言つた。

橋本と一九三一年の三月事件

  一九三〇年を通じて、濱口内閣は緊縮政策をとつた。この政策は軍閥の反感を煽つた。陸海軍の予算は削減された。常備軍は縮小された。海軍軍備制限条約は強い反対を押し切つて批准された。少壮海軍将校や愛国諸団体の中には、かなり憤慨する者があつた。一九三〇年十一月に、総理大臣は暗殺者によつて致命的な傷を負わされたが、幣原男爵の自由主義的な指導のもとに、内閣はそのまま続いた。
  従つて、自由主義は陸軍の憤懣のおもな対象となつた。そして、一九三一年一月に、これを打倒しようとする陰謀が企てられた。これがいわゆる『三月事件』であつて、戒厳令を布くための理由をつくり、軍部内閣の樹立に導こうという筋書をもつた叛乱を引を起すために、大川と橋本中佐によつて企らまれた一つの共同謀議であつた。それは参謀本部の支持を受けていた。軍務局長小磯中将は共同謀議者を教唆した。新総理大臣として選ばれていた宇垣がそれを黙認することを拒絶したので、この陰謀は失敗した。
  一九三〇年一月に、橋本はヨーロツパのいろいろな独裁制の方法についての知識と熱情をもつて、トルコから日本に帰つて来た。一九三〇年九月に、かれの同僚である参謀本部の高級将校の間に、必要ならば暴力によつても国家の改革を成し遂げることを究極の目的とする一つの結社をかれは組織した。不成功に終つた一九三一年の三月事件は、この工作の結果であつた。
  橋本の工作は、大川のそれと互いに補足し合うものであつた。かれの手によつて、『皇道』は同時に軍部独裁の道ともなつた。軍の憤懣を買つた議会を打倒しなければならないということを、かれは大川に洩らした。大川自身も既成政党を排除し、軍政によつて皇威を顕揚しなければならないと宇垣に語つた。これが『昭和維新』の事業となるはずであつた。『昭和』は現在の天皇の治世に与えられた名称である。
  日本憲法によれば、陸海軍大臣は総理大臣と同等の立場で天皇に直接近づくことができた。参謀総長と海軍軍令部長も、直接天皇に対して責任があつた。従つて、皇道という道は軍の道であるという主張には、歴史的に見て、正当な理由があつた。
  一九三一年の三月事件は失敗したけれども、その後の諸事件に対する前例をつくつた。陸軍は軍備縮小と自由主義の唱道者に対する民衆の憤激をかきたてた。このような不平分子の一人が、自由主義的な総理大臣であつた濱口を暗殺した。或る方面では、陸海軍軍備縮小計画は、軍の問題に対する内閣の不当な干渉であると見られていた。軍国主義者は、天皇に対する忠義という愛国的な感情を、かれら自身の目的に転用することに或る程度成功した。

若槻内閣と奉天事件

  一九三一年四月十四日に、濱口の後を承けて総理大臣となつた若槻のもとで、内閣と陸軍は正反対の政策をとつていた。外務大臣として留任した幣原が、満州問題の平和的解決を交渉するために、誠心誠意努力していたのに反して、陸軍は積極的に紛争をかもし出した。それが頂点に達して、一九三一年九月十八日における奉天の攻撃となつた。これは後に奉天事件として知られるに至つたものの発端であつて、それが遂には満州国という別個の政府を樹立するに至つた。これは後に取扱うことにする。
  それまでの五カ月の間に、内閣の軍備縮小と予算節約との政策に対する反抗が強くなつた。橋本とかれの率いる陸軍将校の一団は、依然として武力による満州の占領を唱えていた。この一団は、『桜会』として知られ、国家の改造を招来することを目的としていたものである。国粋主義と反ソビエツト政策を標榜する黒龍会は、民衆大会を開催し始めた。大川は民衆の支持を得るための運動を続けた。かれは陸軍が全然統制することのできないものとなつたと言い、内閣が陸軍の意のままに黙従するのも、単に時間の問題であろうと言つた。大川と同様に、南満州鉄道株式会社の役員であつた松岡洋右は、満州が戦略的にも経済的にも日本の生命線であるという、周知の議論を支持する書物を著わした。
  橋本及びその桜会とともに、大川は奉天事件を煽動した。参謀本部は、土肥原大佐の勧めに従つて、この計画を承認した。土肥原と板垣大佐は、ともに関東軍参謀部の部員であつたが、各々この攻撃の立案と遂行にあたつて重要な役割を演じた。
  田中内閣のときに参謀次長であつた南中将は、若槻内閣では陸軍大臣となつていた。かれは自分の前任者である宇垣と異つて、自分が閣僚として参加していた自由主義的内閣に対抗して、かれは陸軍の立場を支持した。一九三一年八月四日に、部下の高級将校に向つて、かれは日本、満州、蒙古の間の緊密な関係について語り、軍縮政策を支持する人々を非難し、天皇の大目的に完全に奉仕することができるように、かれらが訓練を誠実に実行することを促した。
  陸軍中将小磯は、軍務局長として、一九三一年の三月事件の計画について、内々与り知つていたが、今では陸軍次官になつていた。陸軍大臣南は、陸軍の側に立つて、満州の占領に関する陸軍の計画に賛成したが、内閣と天皇の見解に対しては、ある程度の敬意を払う気持があつた。若槻内閣は陸海軍予算を削減しようとする方針を続けていた。そして、一九三一年九月四日までには、この点について、陸軍大臣南と大蔵大臣井上との間に、実質的な同意が成り立つていた。この措置に賛成したことについて、南は直ちに小磯から強い非難を受けた。その結果として、南と井上との間にできた同意は無効にされた。
  一九三一年九月十四日までには、蒙古と満州における陸軍の計画は、東京で知られていた。その日に、南は天皇からこれらの計画を中止しなければならないと警告された。東京における陸軍の首脳部とその他の者の会合で、この言葉をかれは伝えた。そこで、この陰謀は放棄することに決定された。南はまた関東軍司令官に書簡を送り、陰謀を放棄するように命令した。この書簡は、奉天における事件が起つた後になつて、ようやく伝達された。この重要な書簡を伝達するために派遣された使者は、建川少将であつた。われわれが満州事変を論ずるときにわかるように、事件がすでに起つてしまうまで、かれは故意にこの書簡の伝達を遅らせたように見受けられる。
  一九三一年九月十九日に、すなわち奉天事件の起つた翌日に、事件は南によつて内閣に報告されたが、かれはこれを正当な自衛行為であると称した。

若槻内閣時代における陸軍の権力の確立

  若槻は直ちに事態を拡大してはならないという訓令を発し、陸軍が政府の政策を完全に遂行しなかつたことに対する憂慮の念を表明した。五日の後、すなわち一九三一年九月二十四日に、内閣は日本が満州に領土的野心を有するということを否定した正式の決議を可決した。
  天皇が内閣の対満政策を支持するように仕向けられたことについて、陸軍は憤激した。そして、ほとんど毎日、南はかれ自身が総理大臣に与えた保証に背いて行われた陸軍の進出を報告した。一九三一年九月二十二日に、かれは朝鮮軍を満州に送るという計画を提案したが、このようなことをしたことについて、首相から非難された。一九三一年九月三十日に、南は増援部隊の派遣を要求したが、首相は再び拒絶した。内閣の決議が可決されてから一週間の後に、参謀総長は、若槻に対して、関東軍はさらに揚子江地域にまで前進することを余儀なくされるかもしれないし、関東軍はその特権に対して外部から干渉されるのを我慢しえないであろうと警告した。
  一九三一年十月に、新しい共同謀議が橋本とその桜会によつて計画された。かれは満州事変における自分の役割を告白している。この事件は、かれの言うところによれば、「王道」に基いた新しい国家を満州に樹立するばかりでなく、日本の政治的状態の解決を目的としたものであつた。
  十月陰謀は、この後の目的を達成するために計画されたものであつた。軍部のクーデターによつて政党制度を破壊し、陸軍の政策に共鳴する内閣を樹立することが計画されたのである。
  陰謀は暴露され、南の命令によつて、この計画は放棄された。しかし、一九三一年の十月と十一月を通じて、満州では、内閣の方針を真向から破つて、軍事的活動が続けられた。もし内閣が協力を拒み続けたならば、関東軍はその独立を宣言するであろうという噂が流布された。この威嚇に直面して、自由主義者中の穏健分子の抵抗が打ち破られた。
  一九三一年十二月九日に、陸軍大臣は満州の事態について枢密院に報告した。陸軍の活動を妨げるものは、今では、それが日本と西洋諸国との関係に及ぼすかもしれない有害な影響だけに限られていた。南は、日本の公式の保証と陸軍の行動との間の食い違いは、不幸なものであるということには同意した。しかし、陸軍の軍紀事項に関しては、部外者の干渉を一切許さないという鋭い警告をかれは発した。
  三日の後に、すなわち一九三一年十二月十二日に、若槻はその内閣が陸軍を統制する能力がないということを認めて辞職した。満州事変は、これを阻止しようとする内閣の決定にもかかわらず、拡大し続けたとかれは言つた。陸軍を統制することのできる連立内閣を組織する望みを捨てて、心ならずも幣原の政策を放棄するほかないと、かれはきめたのである。幣原外務大臣がどうしても譲歩しなかつたので、若槻はその内閣の辞表を提出することを余儀なくされたのであつた。陸軍は満州における征服戦争の目的を達成し、日本の内閣よりも強力であることを示した。

犬養内閣の時代における満州の征服

  陸軍を統制することを企てるのは、こんどは、いままで反対党であつた政友会の番となつた。犬養が天皇の命令を受けたとき、天皇は日本の政治が完全に陸軍によつて支配されることを欲しいということを聞かされた。かれの党の内部には、新政府の内閣書記官長となつた森を指導者とする強力な親軍派があつた。しかし、犬養は直ちに関東軍の活動を制限し、また満州から陸軍を次第に撤兵することを蒋介石大元帥と交渉する政策をとつた。
  阿部大将は新内閣の陸軍大臣として指名されていたが、多くの陸軍青年将校は、阿部がかれらの感情を知りもせず、またそれに同情ももつていないという理由で、この任命に反対していた。犬養はかれらの強要に従つて、荒木中将ならば陸軍を統制することができるであろうと信じて、かれを陸軍大臣に任命した。
  満州で日本の支配のもとに新国家を建設することをすでに計画していた関東軍の司令官本庄中将は、板垣大佐を使者として東京に派遣し、陸軍大臣荒木の支持を得た。
  犬養は密かに蒋介石大元帥と交渉を開始したが、それは森と軍閥の知るところとなつた。森は陸軍の憤激について犬養の子息に警告した。そして、交渉は充分の見込みがあつたにもかかわらず、総理大臣はやむを得ずこれを中止した。一九三一年十二月下旬に、すなわち内閣就任の二週間後に、御前会議が開かれ、その直後に、荒木、陸軍省及び参謀本部によつて、満州における新しい攻勢が計画された。犬養は満州からの撤退を許可する勅命を拒絶された。板垣大佐は、傀儡統治者を就任させて、新国家の行政を手中に収めるという関東軍の計画を仄めかした。陸軍を統制しようとする新総理大臣の計画は、数週間のうちに挫折した。
  陸軍が計画した通りに、満州における新攻勢が始まつた。他方で、東京では、軍事参議官の南は、天皇に対して、満州は日本の生命線であること、そこに新国家を建設しなければならないことを進言した。一九三二年二月十八日に、満州国の独立が宣言され、一九三二年三月九日に、最初の組織法が公布され、それから三日の後に、新国家は国際的承認を要請した。一カ月の後、一九三二年四月十一日には、この既成事実を遂に容認した犬養内閣は、日本による満州指導の計画を審議した。

政党政治に対する攻撃と犬養の暗殺

  一九三二年の最初の三カ月の間に、橋本と大川は、それぞれ、日本から民主政治を排除する国家改造または革新の準備をしていた。一九三二年一月十七日に、橋本は日本の議会制度の改革を主張する新聞記事を発表した。民主政治は日本帝国の建国の原理と相容れないという論旨をかれは唱えたのである。既成政党を血祭りにあげ、明朗な新日本の建設のために、その撲滅をはかることが必要であるとかれは述べた。
  大川は新しい結社をつくろうとしていた。この結社は、日本帝国の伝説的な創始者であり、『皇道』と『八紘一宇』の伝説的な唱道者であつた神武天皇にちなんで名づけられた。この新結社の目的は、日本精神を昂揚し、国家主義を発展させ、日本人に東亜の指導者になろうという志を抱かせ、既成政党を打倒し、国家主義的な線に沿つて組織された政府の実現を達成し、国力の海外への進出を促進するように、日本の産業開発の統制を計画することであつた。
  犬養内閣は満州問題について譲歩したけれども、閣内の自由主義分子は、大川や橋本が主張した形式の国家革新には依然として反抗した。犬養は陸軍予算の節減に賛成し、日本が満州国を承認することに反対した。かれの軍閥に対する反対は、かれの生命を危うくしているという警告を、その子息を通じて、森から何度も受けた。軍国主義者と、内閣による支配がよいとまだ信じていた人々との間の分裂は、内閣にも陸軍自体にも影響を及ぼした。武断派は陸軍大臣荒木によつて指導され、『皇道派』――『皇道』の『原理』を支持する者――と言われるようになつた。
  一九三二年五月に、犬養は民主主義を称揚し、フアツシズムを非難した演説を行つた。一週間の後に、かれはその官邸で暗殺された。橋本は海軍将校によつて遂行されたこの陰謀の加担者であつた。
  惹き起された事態について、近衛公爵、原田男爵及びその他の者が協議した。内大臣秘書官長木戸、陸軍次官小磯中将、軍務局の鈴木中佐がそこに出席していた。大養の暗殺は、かれが政党政治を擁護したことに直接に起因しているということに、意見が一致した。鈴木は、もしこれに続く諸内閣が政党人を首班として組織されたならば、同様な暴力行為が起るであろうと考え、その理由をもつて、連立内閣を作ることに賛成した。

齋藤内閣時代の戦争準備

  一九三二年五月二十六日に就任した齋藤内閣は、内閣と陸軍との間の対立について妥協を成就しようと試みた。内閣は軍を統御して、そして陸軍予算の縮減を含む一般的節約を実施しようというのであつた。他方で、内閣は満州国における陸軍の政策を容認し、日本の支配のもとに同国の経済的、産業的開発を促進することを決意した。荒木中将は依然として陸軍大臣であり、一九三二年二月に陸軍次官になつた小磯中将は、その職に留任した。
  満州国に関する新内閣の政策が日本と西洋諸国との関係を悪化させることは避けられないことであつた。しかし、陸軍は、また閣内の反対に束縛されないで、ソビエツト連邦との戦争のために、また中国の中央政府との新たな闘争のために、準備をしていた。
  早く一九三一年十二月には、中国の熱河省を新国家に包含することが計画されていた。そして、一九三二年八月に、同地域は満州国の一部をなすものであると声明された。同じ月に小磯は関東軍参謀長になるために、東京におけるその職を去つた。
  それより一月前に、すなわち一九三二年七月に、モスコーの日本陸軍武官は、ソビエツト連邦との戦争は避けられないものであるから、この戦いに対する準備に最大の重点を置かなければならないと報告していた。国際連盟の掣肘、中国の抵抗及び合衆国の態度が、日本のアジアにおける大業の完成に対して、より一層の障害となつていることをかれは認めた。中国との、またソビエツト連邦との、戦争は当然起るにきまつており、合衆国との戦争は起るかもしれないから、これに対して日本は用意していなければならないとかれは信じていた。
  日本の満州国承認は六カ月間遅らされていたが、一九三二年九月に、枢密院は、この措置によつて生ずる国際的反響は恐れるに足りないと決した。枢密院の承認によつて、関東軍が立てた傀儡政権と日本との間に、協定が結ばれた。大陸における日本の利益拡張を保証するために、これは適切な措置であると考えられた。この協定の規定によつて、新国家は日本のすべての権益を保証し、関東軍が必要とする施設はすべて提供すると約束した。日本は、満州国の負担において、同国の防衛と治安維持を引受けた。中央と地方との政府における要職は、日本人のために保留され、すべての任命は、関東軍司令官の承認を得て初めて行われた。
  右の協定に従つて、小磯は関東軍参謀長として、日満両国の経済的『共存共栄』の計画を立案した。両国は単一経済ブロツクを形成し、産業は最も適当な土地において開発すること、陸軍は思想運動を統制し、当分の間政党の存在を許さないこと、必要な場合には断乎として、武力を用いることになつていた。
  齋藤内閣が就任して後間もなく、陸軍大臣荒木は、満州国の建設にかんがみ、国際連盟の決議と以前に日本が行つた声明とは、もう日本を拘束するものと認められないと発表した。一九三一年に、満州における日本の干渉をめぐる事情を調査するために、国際連盟はリツトン委員会を任命した。この委員会の報告を受取つた後、満州における日本の行動と、中国の他の地域において新しい事件をつくり出しつつある活動とに対して、連盟は強い非難を表明した。日本の計画に対するこの反対にかんがみ、一九三三年三月十七日に、斎藤内閣は連盟を脱退するという日本の意思を通告することに決定した。その措置は、それから十日後にとられた。それと同時に、太平洋における日本の委任統治諸島に、外国人を入れない措置がとられた。これによつて、条約上の義務に違反し、外国の監視を逃れて、太平洋における戦争の準備をすることができた。
  その間の大陸における軍備は、直接にソビエツト連邦に向けられていた。一九三三年四月に、軍務局の鈴木中佐は、ソビエツト連邦は絶対の敵であると称した。なぜならば、ソビエツト連邦は、かれの言葉によれば、日本の国体の破壊を狙つていたからである。

世論の戦争への編成替
荒木が陸軍の計画を示す

  政治評論家は、この期間に起つた事件は、日本の『新秩序』の基礎であると評した。橋本は、満州の征服と連盟脱退について、自分もある程度まで与つて力があつたことを認めた。これらのことは、かれの言うところによれば、ある程度まで、かれが一九三〇年一月にヨーロツパから帰国したときに企てた計画の結果であつた。
  大川は、日満議定書は両国の共存共栄の法的基礎を確立したものであると言つた。日本国民の魂の中に、憂国の心が勃然として湧き起つたのであるとかれは言つた。民主主義と共産主義は一掃され、日本において、国家主義的傾向が今までにないほど旺盛になつた。
  大川はまた日本が国際連盟から脱退したことを歓迎した。かれの見解によれば、国際連盟はアングロ・サクソン優越の旧秩序を代表しているものであつた。日本は一挙にして英米への依存に打ち勝ち、外交において新しい精神を発揮することに成功したのであるとかれは言つた。
  一九三三年六月に、陸軍大臣荒木は、最も重要な意味をもつた演説を行つた。形式においてその演説は愛国心に訴えた感情的なもので、非常時には陸軍を支援せよと日本国民を促すものであつた。しかし、その中には、荒木が八紘一宇の伝統的目標と同一視していた東亜の武力的征服を達成しようとする不動の意図が、明確に示されていた。
  戦争への感情を醸成するために、かれは大川と橋本が広く宣伝していた政治哲学を大いに利用した。日本は無窮であり、かつ拡大発展する運命にあるとかれは言つた。混沌たる中から秩序を見出し、理想的な世界を、東亜に栄土を具現するのが、日本民族の真の精神であるというのであつた。
  ここに新秩序と旧秩序との間の区別がある。なぜならば、全世界は国際連盟の指導のもとに、日本の神聖な使命の達成を妨げているからであると荒木は言つた。したがつて、これは日本にとつて非常時であつた。最近に起つた事件は、国家をあげての総動員を準備しなければならないことを示しているというのであつた。
  国際情勢に関するこの解釈を基礎として、荒木は国民一般の支持を求めた。かれはその聴衆に対して、満州建国は日本の民族精神を新たに覚醒させた天の啓示であるとかれは言つた。奉天事件によつて生れた熱意が保持されるならば、新秩序は達成される。民族精神の復興は、日本を悩ましている国際的困難を解決するであらう。なぜならば、戦争が起るかどうかという問題は、結局、国民の精神力によるからである。
  国民の行くべき道は『天皇の道』であり、日本の軍隊は天皇の軍隊であると荒木は言つた。従つて、『皇道』を宣揚しようとする使命に反対するものに対しては、どのようなものであつても、陸軍は戦うというのである。
  その後に、日本の戦争準備の基本原則となることになつたところの、『国防』という言葉についても、荒木は述べた。それは、日本自身の防衛に限られているのではなく、『国の道』の、すなわち皇道の護持もその中に含まれているとかれは言つた。従つて、『国防』とは、武力によつて他の国を征服することを意味するということをかれは明確に示した。同じ期間中に、かれが書いたものの中で、荒木は蒙古に対する陸軍の計画を示し、『皇道』に対して反対する国はどんな国でも、断乎としてこれを撃破するという日本の決意を再び断言した。

齋藤内閣時代の戦争準備、並びに天羽声明

  その後の数カ月の間に、荒木の方針は、一般国民の支持も、内閣の承認を得ていた。一九三三年九月ごろには、軍首脳者の努力によつて、軍縮諸条約に対する強烈な反感がつくり上げられていた。当時の海軍の比率を、日本に有利に修正せよという国民一般の要求があつた。どの内閣も、この一般国民の叫びに反対するものは、憤慨した民衆の反対に遇わなければならなかつた。日本はワシントン海軍軍縮条約から脱退する意向を通告した。
  その間に、齋藤内閣は、荒木の国防の原則を、満州国に対する政策において、最も優先的な考慮事項としていた。一九三三年十二月までに、この政策は確定されていた。両国の経済は統合され、その軍費は分担されることになつていた。満州国の外交政策は、日本のそれを模範とすることになつていた。両国の『国防力』は、日本がやがて直面するかもしれない国際危機を乗り切るために、増強されることになつていた。九国条約の『門戸開放』に関する規定は、『国防』の要求と相反しない範囲においてだけ、これを遵守するということになつていた。
  一九三三年十二月に、日本がソビエツト連邦に対して戦端を開くべき日に備えるために、関東軍は作戦とその他の準備を行つていた。二カ年の間に、外務大臣幣原の『友好』政策は完全に棄てられてしまつた。
  一九三四年四月に、東亜に関する新しい政策が『天羽声明』として表示された。この非公式声明は、外務省の一代弁者によつて新聞に発表されたもので、国際的な驚愕を惹き起した。そして、齋藤内閣によつて、直ちに否認された。しかし、これは一九三三年の内閣の諸決定と完全に一致したものであつて、陸軍大臣荒木が十カ月前に言明したのとほぼ同じ政策を、荒木ほど煽動的な言辞を用いないで、繰返したものにほかならない。
  日本は中国において特殊な地位を有しているから、日本の見解は、必ずしもあらゆる点で列国のそれと一致しないかもしれないと声明された。日本が連盟を脱退しなければならなくなつたのは、この意見の対立のためであつた。日本は諸国と友好関係を希望していたが、東亜の平和と秩序とを維持すること関しては、自己の責任において行動するというのであつた。この責任は、日本にとつて回避することのできないものであり、また中国自身を除いた他の国とは、その責任を分担することができないというのであつた。それであるから、日本に対して抵抗するために、外国から援助を求めようとする中国のいかなる試みも、日本の反対を受けるというのであつた。

齋藤内閣と岡田内閣の時代の廣田の外交政策

  一九三三年九月十四日に、国際的緊張が増大していたこの雰囲気の中で、廣田は日本の外務大臣になつた。内閣と陸軍が新秩序を計画し、準備していたときに、かれは西洋諸国の懸念を緩和し、自分の国の国策の侵略的性質を小さく見せようとした。一九三四年二月に、合衆国に対して、同国と日本との間には、友誼的解決が根本的に不可能な問題は存在しないと確信するとかれは保証した。
  一九三四年四月二十五日、天羽声明が発表されてから一週間の後に、廣田はその意味を弱めようとした。アメリカの国務長官ハルに対して、この声明はかれの承認も受けないで行われたものであり、誤つた印象を起させたと伝えた。日本は九国条約の規定の適用を排除して、中国で特殊の権益を求めるような意思は全然ないという断定的な保証をかれは与た。それにもかかわらず、かれの政府は、この同じ条約の『門戸開放』の規定よりも、満州における日本の戦争準備の要求の方を重要視することをすでに決定していたのである。
  さらに、一九三四年の四月と五月に、ワシントンの日本大使は同様な保証を与えた。しかし、同大使は、日本政府が中国における平和と治安の維持に特別の関心をもつているということを、たしかに認めた。但し、ハルの直接の質問に答えて、かれは、この表現は、東洋における最高覇権を意味するとか、できるだけ速やかに通商上の優先権を掌握しようという意図さえも意味するのではないといつた。
  一九三四年になると、どのような保証も、満州国に石油独占が制定されていたという事実を隠すことはできなかつた。ハルは、日本が条約上の義務に違反して、アメリカの商社を排斥することに対して抗議した。一九三四年八月に、齋藤に次いで、岡田が総理大臣になつた後に、外務大臣廣田は、ハルに対して、満州国は独立国であつて、日本は石油独占に関してはなんら責任を有しないと通告した。満州国は関東軍の支配の下にあり、また、石油独占を始めることは、齋藤内閣の『国防』政策の直接の結果であつたけれども、合衆国がその後さらに発した通告は、日本に少しもその責任を認めさせることができなかつた。
  廣田の公言と日本の行動との間の不一致は、一九三四年十二月になおいつそう明らかにされた。その月に、満州国に関する政策を統合するための日本政府の機関として、対満事務局がつくられた。

一九三五年、大陸における陸軍の進出と政府の経済的準備

  廣田が日本の意図は侵略的ではないと否定している間に、陸軍はその戦争準備を促進した。一九三五年に、陸軍はアジア大陸における軍事的進出の準備を主唱した。他方で、一九三四年七月八日に就任した岡田内閣は、満州国における陸軍の経済計画を支持した。
  一九三四年十二月に対満事務局が設置されると同時に、南大将は関東軍司令官と駐満大使に任命された。板垣少将がかれの参謀副長になつた。
  板垣の助力によつて、南は内蒙と華北五省に自治政府の樹立を育成する計画を立てた。これは中国国民政府に重大な損害を与えるものであり、それと同時に、一方で満州国と、他方で中国及びソビエツト連邦との間に、緩衝国を設けることになるものであつた。
  一九三五年五月に、梅津中将隷下の北支駐屯軍は、同地域の中国軍に対して、最後通牒に等しいものを発する口実をつくつた。梅津の要求に力を添えるために、南は関東軍を動員した。ある部隊は、華北の非武装地帯にはいつた。一九三五年六月に、中国側は屈服し、その軍隊と行政機関を天津地域から移した。木戸が東京で認めたように、中国に対するこの手段は、板垣とその他の者の計画に基くもの、すなわち、かれらが満州国の場合に行つたように、外交官でなく、軍部が率先して中国の処理にあたらなければならないという計画に基くものであつた。
  同じ期間に、関東軍は張北で一つの事件をつくり上げ、土肥原少将は傀儡統治者として予定されていた者との陰謀を担当した。その目的は、新自治政府の結成にあつた。外務省はこれらの出来事には介入しなかつたが、廣田は北京大使館から、その進行振りに関して、充分な報告を受けた。一九三五年十月二日に、日満経済ブロツクに華北を入れ、国防を増強するために、陸軍が実質的な自治国家を樹立する企図を有しているということをかれは聞いた。また、陸軍の内蒙計画は着々と進行しており、土肥原は疑いもなくそれを促進しているということも聞いた。
  弁護側の証人河邊によれば、張北事件は、一九三五年六月二十七日に、土肥原・秦德純協定の締結によつて解決された。陸軍は、今では、内蒙の半分と華北五省の相当な部分とにおける地方政権を支配していた。
  その間に、一九三五年七月三日、枢密院は、満州国とのいつそう緊密な経済的協力を審議するために、外務大臣廣田の列席のもとに、会議を開いた。枢密院の審査委員会は、満州における軍事外交の施策は充分進められているが、経済方面において種々の施策を調整統合する組織が未だに考え出されていないと報告した。そこで、この委員会は、必要な機構を設けるべき経済共同委員会を設置する協定を結ぶことを進言した。枢密院は、日本が常に経済共同委員会における投票権の優勢を期待することができるという廣田の保証を得た後に、右の措置を承認した。この新しい協定は一九三五年七月十五日に調印された。

廣田の外交政策と陸軍の企画との調整統合

  岡田内閣が倒壊する前の、最後の三カ月の間において、陸軍の政策と廣田の外交政策は完全に統合された。一九三五年十二月に、内蒙の地方政府が中国側から残りの地域を接収するのを援助するために、南大将は軍隊を派遣した。一九三五年八月一日に、梅津の後任として北支駐屯軍司令官になつた多田中将は、かれの軍事的目的の達成に使用するために、同地域における鉄道をかれの支配下に置く計画を立てた。
  また同じ月に、関東軍は、華北におけるその軍事活動に即応して行うべき宣伝計画を陸軍に送つた。中国の本土に進出すると同時に、日本の立場が合法的であることを全世界に納得させるために、宣伝を開始することになつていた。反国民党と反共産党的の煽動によつて、華北の住民を中央から分離する試みもなされることになつていた。『反共』というこの標語は、一九三五年自治運動が初めて開始されたときに、土肥原、板垣及びその他の者によつて選ばれたものであつた。
  一九三六年一月二十一日に、陸軍が華北を処理するために立案した計画の要領を、廣田は中国にある日本の大使に送つた。この大使は、華北五省に自治政府を次第につくり上げていくという趣旨であると訓令された。外務省は、新しい政治機構に支援と指導を与え、それによつて、自己の機能を拡張し、強化しようと決心していた。満州国と同様な独立政府を華北に樹立しようという日本の意思を示すものと世界が認めるような措置は、一切とらないことになつていた。軍事機関は、計画の実施にあたつて、外務省や海軍と密接な連絡を維持するようにと指示されることになつていた。自治に関する種々の問題を取扱うための臨時組織は、北支駐屯軍司令官のもとに設置されることになつていた。
  この外務省と陸軍との間の妥協によつて、第一期の軍事的準備は完了した。満州国の資源は開発の途上にあつた。陸軍の常備兵力は、一九三〇年当初の二十五万から、一九三六年当初の四十万に増加した。第二期における軍事的な計画は、全国民を戦争のために総動員することになつていた。

岡田内閣時代における陸軍の権力の増大

  一九三四年七月八日から一九三六年三月八日まで、日本の総理大臣であつた岡田啓介は、かれとかれの前任者齋藤の在任中、陸軍の権力は増大しつつあつたと証言した。岡田の言うところによると、アジアにおける日本の勢力を拡大するにあたつて、武力を行使しようとする陸軍の政策に対して、右の二つの内閣は反対する勢力であると陸軍が認めたので、両内閣とも陸軍の怨みを買つた。
  陸軍部内における『過激派』の勢力と横暴は、一九三五年七月に、教育総監が辞職を強要されたときに明らかに示された。この処置に対する抗議として、軍務局長永田中将は、かれの事務室で、佐官級の一陸軍将校によつて暗殺された。総理大臣として、岡田はこの事件を非常に遺憾としたが、この犯罪の調査には無力であつた。陸軍は勝手に調査を進め、総理大臣や内閣の介入を許さなかつた。
  この事件の結果として、さらにまた面倒な問題を軍部が起すのを恐れたので、林大将は陸軍大臣として辞表を提出した。すべての将官が擁護することを同意した川島大将がかれの後任になつた。川島がこの任命を受諾したのは、相当な危険を冒すものであることを、閣僚は承知していた。

一九三六年の二・二六事件と岡田内閣の倒壊

  その後に起つた事件は、前述の危惧が根拠のないものではなかつたことを証明した。というのは、一九三六年二月二十六日に、陸軍の岡田内閣に対する憤懣は、陸軍青年将校の一団による、かれ自身に対する暗殺の試みによつて、最高潮に達したからである。政府に対して反乱し、主要な官庁を占拠して、二十二名の将校と約千四百名の兵士は、三日半にわたつて、東京を恐怖に陥れた。この期間、総理大臣がその官邸に包囲されている間、政務は内務大臣によつて行われた。大蔵大臣高橋と内大臣齋藤は、これらの暴力行為者によつて暗殺された。十日の後に、軍部を統制することができないので、岡田はその内閣の辞表を提出した。

岡田の政策と失脚は陸軍の要求の過激な性質を示している

  岡田の在職中に、日本国民を戦争準備の状態に置こうとする多くの措置が講ぜられた。廣田は外務大臣として、永野は口ンドン海軍会議への日本代表として、日本が一九三四年十二月に海軍軍備の制限と縮小に関するワシントン条約を廃棄するという意思を宣言し、翌年十二月にロンドン海軍会議から脱退するに至つた政策について、主要な役割を演じた。同じ期間中に、委任統治諸島では、諸地点で航空基地や貯蔵施設が建設されており、同地への外人旅行者の立入りを阻止する周到な警戒処置がとられた。
  一九三五年には、また、内務省の直轄のもとに、厳重な報道検閲制度が実施され、新聞は政府によつて承認された宣伝を流布するための道具以上のものではなくなつた。一般の世論発表機関の一切について、警察は検閲と取締の広汎な処置を講じた。一九三五年八月に、陸軍省は学校と大学における軍事教練の情況を査閲し、その発展に貢献し、卒業生の資格について将来の軍事的価値を評価することができるための規則を発した。
  合衆国からのたびたびの抗議にかかわらず、日本側は満州で石油の独占を確立し、同国の天然資源開発のための機械を供給した。
  少くとも一九三五年十月このかた、陸軍は日本の外交政策に積極的な、また独自な立場をとつてきた。というのは、現に同じ月に、当時のベルリン大使館附武官であつた被告大島は、日独条約の交渉を始めており、フォン・リツペントロツプに対して、両国の間に一般的条約を締結したいという日本参謀本部の希望を表明していたからである。
  これらのすべての成行きにもかかわらず、また関東軍が満州と華北においてその目的の実現に着々として進んでいたにもかかわらず、急進分子は満足していなかつた。陸軍では、岡田内閣は海軍が軍国主義者を抑制しようとしてつくつたものであると見ていた。華北における陸軍の政策に対して、正当な支持を受けていないと陸軍は考えた。暗殺や反乱によつて陸軍部内の急進分子は、かれらの進路からして、まず陸軍省自身の、より穏健な勢力を追払い、それから内閣を追払つた。軍国主義者の圧迫に対して、内閣は実質的な抵抗はしなかつたけれども、やはりそれほど過激でない政策を代表しているのであつた。一九三六年二月二十七日に、すなわち東京で陸軍の反乱が起つたその翌日に、中国の厦門の日本領事館は、この反乱の目的は、分裂した内閣を軍部内閣によつてとり代えることにあると発表した。青年将校層は、中国全土を一撃のもとに占領し、日本がアジアで唯一の強国となるように、直ちにソビエツト連邦に対して戦争する準備をしようと思つていると言つた。
  これは陸軍の企図であつた。そうして、一九三六年三月九日に、廣田内閣は右に述べた状況において成立したのであつた。一九三五年十一月に、白鳥がある友人に語つたように、外交官も政党も、軍国主義者を抑圧することができないなら、むしろかれらの政策を支持し、これを実現するように努力する方がよいというわけであつた。

廣田とその内閣

  一九三六年三月九日、新内閣が成立したときに、岡田内閣の閣僚は、廣田自身をただ一つの意味深長な例外として、すべて更迭された。齋藤が総理であつたときに、一九三三年九月十四日、かれは外務大臣となり、三十カ月の間、その職を占めていた。日本側のアジア大陸侵入が続くにつれて、権益に影響を受けた他の諸国、特に合衆国からの抗議はだんだん増加し、かれはこれを処理しなければならなかつた。日本側が大陸における主権を奪い、九国条約の『門戸開放』の規定を到る処で破つたことは是正されなかつたが、かれは西洋諸国の信用をある程度まで保持することに努めた。今では、陸軍が優勢な時代になり、他の閣僚が職を投げ出したというときに、廣田は日本の総理大臣になつた。一九三五年十二月に、ロンドン海軍会議から引揚げた日本の代表の主席であつた永野が、かれの海軍大臣になつた。一九三五年八月一日まで北支派遣軍を指揮した梅津中将が、陸軍次官になつた。嶋田海軍中将は、軍令部次長として留任した。有田は廣田にかわつて外務大臣となり、一九二六年十月から枢密院副議長であつた平沼男が、同院議長の職に就いた。
  東亜に新秩序を立てるという陸軍の企図は、この内閣のもとで、日本政府の確定政策となつた。

陸海軍大臣は現役将官から選ぶことを規定した勅令

  新内閣が成立してから二カ月の後に、代々の政府に対する陸軍の勢力をさらに強固にした一つの処置がとられた。一九三六年五月十八日に、海軍大臣と陸軍大臣は、中将またはそれ以上の階級をもつた現役将官でなければならないという古い規則を復活する勅令を、新政府は公布したのである。このことは、間もなくいろいろな事件で証明された通り、岡田を辞職させた威嚇の方法を用いなくても、内閣を成立させたり倒したりすることのできる一つの武器を、軍当局の手に与えるものであつた。

日本の国策の基準は一九三六年八月十一日に決定された

  一九三六年八月十一日に、総理大臣廣田、外務大臣有田、陸軍大臣寺内、海軍大臣永野及び大蔵大臣馬場が出席した五相会議で、日本の国策の根本が決定された。この決議には、諸外国に対する日本の対外関係においても、戦争のための国内準備の完成においても、日本の指針となる諸原則がきわめて明瞭に述べられた。われわれはまずこの決議そのものの内容を検討し、それからこれを採用するに至つた経緯を検討することにしよう。

決定された諸原則

  国策の基本原則に、日本を内外両方面で鞏固にし、日本帝国が『名実共に東亜の安定勢力となりて東洋の平和を確保し、世界人類の安寧福祉に貢献』するというにあつた。その次の一句は、企図されていた発展の性質について、疑念の余地を残さないものであつた。国策の確立とは、『外交国防相俟つて東亜大陸に於ける(日本)帝国の地歩を確保すると共に、南方海洋に進出発展する』ようにすることであつた。
  この決定の第二部は、この政策から生じる事態と、この事態に対処する処置とを検討することにあてられていた。
  まず第一に、この政策に東洋に権益をもつている他の諸国との間に、必ず紛議をかもすであろうということが認識された。従つて、日本は『列強の覇道政策を排除し』、『共存共栄主義』に立脚した自国の政策をとるということになつていた。この方針に、一年の後に、重要産業五カ年計画の中で、さらに具体的に定義された。この計画では、国防上必要な産業は、『適地適業主義に則り』、つとめて大陸に進出させ、日本は『最も必要と認める資源を選び、巧に北支の経済開発に先鞭を着け、その天然資源を確保するに務めること』とされていた。このような政策は、一九二二年の九国条約の規定に公然と違反するものであつた。
  一九三六年八月に設けられた第二の原則は、第一のものに暗示されていた。『我帝国の安泰を期し、其の発展を擁護し、以て名実共に東亜の安定勢力たるべき地位を確保するに要する国防軍備を充実す』というのである。この言葉も、一九三七年の陸軍の計画の中で、具体的な定義を受けることになつた。
  第三の原則は、最初の二つの原則の実際の施策に対する関係を明らかにしている。日本は『満州国の健全なる発達並びに日満国防の安固を期せんがため、北方蘇国の脅威を除去するに邁進すべきものとす』というのである。日本は『又英米に備へ日満支三国の緊密なる提携を具現して我が経済的発展を策するものとす』というのであつた。しかし、この目的を遂行するにあたつて、日本は『列国との友好関係に常に留意するものとす』とされていた。
  これと同じ用心が第四の、つまり最後の原則に見られる。『南方海洋、殊に外南洋方面に対し、我社会的、経済的発展を策し、努めて他国に対すを刺激を避けつつ、漸進的平和手段による我勢力の進出を計り、以て満州国の完成と相俟つて国力の充実強化を期す』というのである。

一九三六年の決定によつて要求された戦争準備の措置

  一九三六年の国策決定の最後の部分には、軍部と外交機関との均衡が規定されていた。国防軍備は充実されることになつていた。兵力の程度は『蘇国の極東に使用し得る兵力に対抗する』ために必要まものとし、また日本が『蘇国に開戦初頭一撃を加へ』得るように、在満鮮兵力を充実することに特に注意を払うことになつていた。海軍軍備は、合衆国海軍に対して、西太平洋の制海権を確保することができる程度に強化されることになつていた。
  日本の外交政策は、『根本国策の円満なる遂行に』あるとされていた。そして、軍当局は、外交機関の活動を有利に円満に進ませるように、これを援助する義務を与えられた。
  最後に、国内政策は根本国策に基いて決定されることになつていた。国内世論を指導し、統一し、非常時局を切抜けることについて、国民の覚悟を固めるための措置がとられることになつていた。国民生活の安定、国民体力の増強、『国民思想の健全化』について措置がとられることになつていた。日本の外交は刷新され、その対外情報宣伝組織が完備されることになつていた。航空輸送と海上輸送を飛躍的に発展させることになつていた。国策の遂行に必要な貿易と産業を振興し、促進するために、行政と経済の機関が創設されることになつていた。重要な資源と原料の自給自足計画の確立が促進されることになつていた。

一九三六年の国策決定に表明された目標の意義

  五相会議が一九三六年八月十一日に採択した国策の基準を述べたものは、東亜の支配権を握るばかりでなく、南方に勢力を拡げようとする日本の決意を表明していた。この南方への進出は、できれば平和のうちに成し遂げられることになつていたが、外交上の勝利を確保するためには、武力による威嚇も用いることになつていた。日本の大陸に対する計画は、ソビエツト連邦との衝突をもたらすことがほとんど確実であり、また東洋に権益をもつ他の諸国との紛争も必然的に引き起すであろうということが認識されていた。この列強のうちには、一九二二年の九国条約締約国のすべてを、わけてもイギリスと合衆国とを挙げなければならない。日本が『現存する列強の覇道政策』を自国の『共存共栄』主義に代えるという決意は、明らかに、九国条約の締約国としての日本の義務に違反して、満州と中国の他の地域とにおける経済と産業の強奪を、日本の指導者が決意していたということを意味したにすぎない。
  この国策は、戦争のための広汎な動員計画で支持されることによつて、初めて成功し得るものであることが率直に認められた。海軍拡張の目標は、合衆国海軍に対抗して、日本が西太平洋の制海権を確保することができる程度の大きい兵力とすること、陸軍拡張の目標は、ソビエツト連邦がその東部国境に展開することのできる最も強大な兵力に対して、圧倒的な一撃を加えることができる程度の強い軍隊をつくることでなければならないことに意見が一致した。これらの目標は、産業開発と自給自足のための広汎な計画の樹立を必要とすること、日本国民の生活は、すべての面で、来るべき国家的非常時において、かれらの演ずる役割に完全に備えさせるように、指導と統制を行わなければならないことが認められた。

国策決定の起源

  日本の戦争準備の全体制の礎石となつたこの根本的な国策の決定は、廣田内閣が全体としてこれを発意したものではなく、陸海軍省で発意されたものである。一九三六年六月三十日に、陸軍大臣寺内と海軍大臣永野は、会議を開いて一つの草案に同意した。この草案は、あらゆる重要な点で、一九三六年八月十一日の五相会議で最後的に採択された要綱と一致していた。強調された点において、多少の相違があつた。そして、これらの場合には、両軍部大臣のいつそう露骨な用語の方が、政策の立案者の意図を、いつそうはつきりと表わしていた。最後の草案では、アジアにおける強固な地歩の確保と南洋の開発とについて、曖昧に述べているが、そこを両軍部大臣は断定的に述べ、日本の指導原理は、一貫した海外発展策を遂行することによつて、『皇道』の精神を実現することでなければならないといつている。
  同じ日に、すなわち一九三六年六月三十日に、寺内と永野は、五相会議の同僚であつた廣田、有田及び馬場に対して、かれらの計画を提示した。大蔵大臣馬場は、列強の覇道政策をアジア大陸から駆逐しなければならないことに同意したが、日本自身としては、軍国主義的専制を行わないことが肝要であると述べるのを適当と考えた。外務大臣有田は、当時の国際情勢では、イギリスと合衆国の好意を維持する必要があると強調した。しかし、それ以外の点では、草案にある意見は、日本の外交政策に関するかれの考えに一致するものであるとし、これに少しも反対しなかつた。総理大臣廣田は、提案に少しも欠点を見出せないと言つた。そして、会議は具体案の立案を陸海軍に一任して閉会した。
  一九三六年八月七日に、五大臣は再び会議を開いて、その計画を最終的な形で承認した。その四日後に、すなわち一九三六年八月十一日に、これらの決定は、関係五大臣がそれぞれ署名した公式文書の中にくり返して表明された。

防共協定

  一九三六年の六月と八月の五相会議より数カ月前に、廣田の政府は、もう一つの陸軍の重大な計画を採択したということをここで記しておこう。一九三五年十月に、ベルリン大使館附の陸軍武官大島は、参謀本部の承認を得て、日独同盟のための非公式な会談を開始した。一九三六年の春、廣田が総理大臣に就任した後に、武者小路大使はベルリンに帰り、その後はかれ自身その交渉にあたつた。フォン・リツペントロツプと武者小路との間の長期にわたつた会談の後に、一九三六年十月二十三日、防共協定についてベルリンで話し合が始まつた。一九三六年十一月二十五日に、この協定は日本の枢密院によつて批准された。

廣田のもとにおける経済上と産業上の戦争準備

  国策の基準が再び確定される前と後に廣田内閣がとつた処置は、その決定に示された原則に緊密に即応していた。満州と華北に対する日本の支配力を強固にすることは、大いに進捗した。関東軍は満州自体で支配力を揮つていたが、日本内地の政府当局は、名目上独立した衛星国を建設し、その国策を日本が左右し、その天然資源を日本が自由に開発することができることをはかつていた。一九三六年六月十日に調印された日満協定は、この目的が実際上達成されたことを示した。
  二日の後に、合衆国の国務長官コーデル・ハルは、日本外務省の代表者に対して、第一に東亜の、次いで日本が適当と認める他の地域の、絶対的な経済的制覇を日本は求めているという印象がつくり出されていると知らせた。これは、終局においては、政治的と軍事的の支配をも意味するものであるとハルは述べた。
  一九三六年八月十一日に、日本の国策の基本を決定したその同じ会議で、『第二次北支処理要綱』も承認された。その主要な目的は、防共親日満の地帯を建設し、そこで日本が戦争準備計画に必要な資源を獲得し、かつ、ソビエツト連邦との戦争に備えて、その交通施設を改善することであつた。
  大陸で陸軍が新しい資源と産業拡充の新しい進路とを確保しつつあつた間に、日本では新しい戦争経済を発展させる処置が講じられつつあつた。一九三六年二月の陸軍の叛乱中に、大蔵大臣高橋が暗殺され、それに続いて廣田内閣が組織されたことは、日本政府の財政政策上の一転換期を画したものである。政治的目的のために、経済の国家統制を強調する一連の財政的措置に、日本はいまや着手したのである。この新しい政策は、産業拡充の全面的計画に適合するように計画されていた。このときから、莫大な歳出予算に応ずるために、政府の国債発行高は絶えず増加し、健全財政の原則はほとんど考慮されなかつた。一九三七年の一月に、外国為替を必要とする取引は、政府の許可を受けなければならなくなり、在外資産からの支払は、実際上戦争産業に必要な物資の購入に限定された。
  一九三六年五月二十九日に、『国防と国産工業を整えるために』、自動車生産工業を確立するという明確な目的で、法律が制定された。それまでは、自動車工業は事実上存在していなかつたばかりでなく、経済上健全な企業ではなかつた。それであるのに、この工業の発達は、政府の厳重な統制のもとに、今や国家の助成金や大幅な免税の恩典によつて、奨励されることになつた。
  日本の商船隊も、政府の補助金によつて、急速に増加されつつあつた。廣田の在任中に、第三次の『解体、建造』計画が開始された。前年度の計画と合わせて、この計画は総トン数、十万トンを新造した。それによつて、一九三六年末には、日本はその所有総トン数に比して、世界の諸国中で、最も近代的な商船隊を所有するに至つた。

戦時における世論統制の計画

  一九三六年五月二十日に、陸軍省は戦争の開始前とその初期の情報と宣伝の活動に関する総動員計画の一部を作成した。この計画は、もし戦争がさし迫つた場合には、政府の啓蒙宣伝方針を実施するために、情報局を設置することを規定した。その活動範囲と運営方法は、詳細にわたつて規定されていた。その任務は、公衆に対するあらゆる種類の通信を指導し、統制すること、政府によつて承認された方針を促進するために、あらゆる言論機関を利用することであつた。

海軍の諸準備

  廣田が総理大臣であつたときに、戦争準備のための国家総動員を促進させるについて、海軍は陸軍に劣らず積極的であつた。陸海軍両大臣は、国策の基準を記述したものをつくり、これを五相会議で支持するについて、協力して行動した。五相会議で国策を新たに述べることを主唱したのは、実に当時の海軍大臣永野大将であつた。そして、かれの語つたところから推測すれば、一九三六年八月十一日に最後的に採用された具体案は、海軍省で起草されたものと思われる。
  この年は、日本海軍が海軍軍備を制限する一切の義務を免れた年であつた。というのは、ワシントン条約は一九三六年十二月三十一日に期限が満了したからである。
  日本の従来の対外発展計画については、日本海軍は直接の関心をほとんどもつていなかつた。ここに初めて、合衆国艦隊に対抗して、日本海軍は西太平洋の制海権を確保するという大役を振り当てられた。このようにして、日本が決定した海軍軍備拡張の政策は、一九三〇年以来、ますます大きな支持を受けた。それであるから、ここで、国際協定によつて海軍軍備を制限する方式を、日本が廃棄した手段を回顧することは、戦争の準備の問題にとつて所を得たものである。

海軍軍縮諸条約に基く日本の権利義務

  合衆国、イギリス、日本、フランス及びイタリアは、一九二二年二月六日に、ワシントンで調印された海軍軍備制限に関する条約の締約国であつた。この条約の第四条と第七条には、それぞれ各締約国が保有することのできる主力艦と航空母艦の合計トン数が規定されていたが、この制限は、関係各国の防御上の必要に基いていた。右の両艦種について、日本が許された最大保有量はアメリカまたはイギリスに対して六割であつた。右の両艦種とその他の艦艇に搭載して差支えない砲の口径にも、制限が加えられた。すなわち、主力艦の場合は十六インチ、航空母艦の場合は八インチであつた。この条約は一九三六年十二月三十一日になつて満了すること、また、締約国のうちの一国がこの条約を廃棄するという意思を通告してから二年を経過するまで、引続いてその効力を有することになつていた。このような通告があつてから一年以内に、すべての締約国は会議を開くことになつていた。
  合衆国、イギリス及び日本は、インドとイギリス帝国自治領とともに、一九三〇年四月二十二日にロンドンで調印された海軍軍備制限及び縮小に関する条約の締約国でもあつた。この条約は、ワシントン条約を廃棄したものではなく、ワシントン条約のわくのうちで、それ以上の縮小と制限を規定したものであつた。航空母艦及び潜水艦の最大排水量とこれに搭載される砲との制限について、規定が設けらた。主力艦及び航空母艦以外で、各締約国の保有することのできる水上艦船の合計トン数を示す詳細な表も定められた。日本が保有し得る限度は、アメリカやイギリスに許されたものの約七割であつた第三の重要な規定は、各軍艦の起工と竣工ごとにこれに関する一定の情報を、各締約国は他の各締約に通告しなければならないことであつた。その上に、協定は一定の主力艦の廃棄にも及んでいた。この規定は、明らかに日本に有利なものであつた。航空母艦に関する規定は、ワシントン条約と同じ期間効力をもつこととなつていた。しかし、その他の諸点では、この条約は、一九三六年十二月三十一日に確定的に満了することになつていた。締約国の間で、一九三五年中に再び会議を開くことになつていた。
  ロンドン条約が日本に与えた利益を評価するには、一九三〇年中海軍大臣であつた財部の見解に重きを置かなければならない。財部の言うところによれば、日本海軍は仮想敵国の維持する海軍力の七割を保有することがぜひとも必要であると考えられていたので、主力艦の保有量に関して、日本はワシントン会議でこの比率を維持しようとした。この目的は最後に断念され、日本は六割の比率に同意した。しかし、日本は他の二つの主要な目的を達することができた。すなわち、八インチ砲搭載巡洋艦七割と、潜水艦の現有勢力の保有とであつた。ロンドン会議では、第三の主要な目的を、すなわち総括トン数で七割を達しようとして、あらゆる努力をし、遂に成功した。
  ロンドン条約の規定に基いて、八インチ砲搭載の巡洋艦については、日本の保有量は合衆国にくらべて七割から六割に低下したことは事実であるが、それほど強力でない艦船について、日本の保有量の比率が増加されたことによつて、それは償われた。この条約は何といつても合衆国との友好関係を念としたものであり、日本は合衆国との軍備競争によつて苦境に陥る可能性を免れたと財部は言つた。総理大臣濱口も、これと同じ気持を表わし、この条約のある部分はまつたく満足なものとはいえないことを認めながら、いずれにしても、一九三六年以後になれば、日本は自由に艦船を建造することができるということを指摘した。
  総理大臣濱口、海軍大臣財部及び濱口内閣はこの条約を支持したけれども、その批准を見るまでには、相当な反対があつた。一九三〇年八月十八日から九月二十六日までの間に、枢密院の審査委員会が十三回にわたつて開かれ、そのたびに激論が闘わされた。内閣と枢密院との間の意見の対立は、公然と現れてきた。かつ、永野が次長であつた海軍軍令部と内閣との間にも、意見の対立があつた。濱口は、海首脳部の進言を無視したと責められたときに、穏やかに、軍部の見解には考慮を払つたが、条約締結に関する事項は、内閣が決定しなければならないと答えた。討議が進むにつれて、世界各国との友好関係を信頼している者と、中国と日本との間の問題に干渉する合衆国またはその他の諸国に対抗するにあたつて、衝突の現場で日本が優越した力をもつために、充分な軍備を有すべきだと主張する者との間に、はつきり対立のあることがわかつてきた。後者の見解は、日本の兵制は日本の特色であること、合衆国は中国と蒙古から日本の勢力を駆逐しようとするであろうということ、それであるから、兵力を整備しなければならないということを述べたある顧問官によつて、よく言い表わされている。日本が世界で占めている重要な地位は、まつたく日本の兵力の賜ものであると言つた顧問官が二人あつた。
  一九三〇年十月一日に、ロンドン条約は枢密院によつて批准された。そのときに濱口と財部は、前記のかれらの見解を表明した。一般の大きな関心と臆測と不安とが引き起された。平沼は枢密院副議長として、どの会議にも出席していた。

海軍条約に対する反対の増大した時代

  一九三〇年にロンドン条約の批准に反対した少数派は、時が経つにつれて、多数派となつた。そして、齋藤と岡田の両『海軍』内閣時代には、条約上の制限に対する反対が力を得てきた。
  一九三三年九月十五日、齋藤が総理大臣であつたときに、グルー大使はワシントンに対して、ロンドン条約によつて課せられた制限に対する反対が増大しつつあることを報告した。グルー大使は、ロンドン条約の批准以来、特に過去十二カ月の間に、日本の海軍首脳部は、一九三五年に開かれることになつている会議で、日本は対等を、さもなければ、少くとも相対的トン数の大幅な増加を要求しなければならないと主張していると述べた。ロンドン条約に関係のあるあらゆることに対して、かれらは憤懣と軽蔑の感情をかもし出した。濱口と犬養が暗殺されたり、他の政治家が脅迫されたりした原因の一部は、かれらがロンドン条約を支持したことにあつた。財部を初めとして、その他の海軍高級将校が退役したのは、かれらがこの条約を支持したためであると言われていた。
  グルーは、現在の日本の世論はどのような形式の軍備制限にも甚しく反対していること、条約の限度まで建艦するという合衆国の新しい政策は、すでに興奮している感情にますます油を注ぐことになつたことを強調した。日本の海軍首脳部は、今では、不相応に貧弱な資力で建艦競争を始めるか、かれら自身がかもし出した世論にあえて逆らうかという板挟みに陥つた。
  このときに、齋藤内閣は十八カ月在任していた。この内閣でも、前内閣でも陸軍大臣であつた荒木は、この問題を慎重に取扱い、ワシントン条約とロンドン条約は、国費を節約し、再軍備の競争と新兵器の発達を阻止したことを認めた。しかし、日本がこれらの条約の規定は時代後れのものと考えていること、次の会議で比率の修正を要求するであろうということをかれは明らかにした。
  グルーの報告が書かれた前日に、廣田は日本の外務大臣と軍事参議官になつた。⦅英語原文をその儘⦆それからちようど一年余り経つて、一九三四年九月十七日に、廣田はグルーに対して、日本はワシントン条約の廃棄を一九三四年十二月三十一日以前に通告することに確定したと知らせた。その間に、天羽声明が発表され、齋藤内閣は辞職し、岡田内閣がこれに代つた。

一九三四年の共通最大限主義

  一九三〇年のロンドン条約は、新条約を作成するために、一九三五年に各締約国が会合することを規定していた。一九三三年の七月か、あるいは八月に、齋藤内閣時代の海軍軍令部次長であつた海軍中将高橋は、率直に『われわれは対等要求の貫徹の覚悟をもつて会議に臨むつもりである。われわれの要求が容れられないときは、引揚げてくる』と言つた。
  一九三四年十月に、予備交渉のために、日本代表がイギリス及びアメリカの代表とロンドンで会合したとき、日本代表のとつた立場がこれであつた。日本代表は、平等の安全をもたらすためには、共通最大限を設け、その範囲内で、各国とも建艦して差支えないが、どの一国でも、これを超過してはならないことにするほかないと確信すると言つた。かれらは協定によつてこの共通最大限をできるだけ低く定めることを望んだ。特に航空母艦、主力艦及び八インチ砲巡洋艦を全廃するか、さもなければ、その保有量を最小限度に制限することをかれらは望んだ。これらの艦種は、その固有の性質上、攻撃的であるとかれらは見ていた。他方で潜水艦は比較的耐波性がなく、かつ他の艦種に比べて航続力が小さいので、本質的には防禦的兵器であると見ていた。もし潜水艦を商船攻撃に使用することを禁ずるロンドン条約の規定が一般的にされたならば、潜水艦の攻撃的性資は消滅するであろうとかれらは考えた。
  この提案は、合衆国の海軍力に比して、日本のそれを増強するように計画されたものであつた。一九三三年に、合衆国は新しい海軍政策を実施し、ワシントン条約とロンドン条約で規定された制限を目標として建艦するが、それでも、この制限よりも相当低い程度に止めることにした。比較的低い共通最大限度まで一般的縮減を行なおうという提案によれば、定められた限度よりも大きい海軍を有する主要な海軍国は、多くの艦船を廃棄するか、沈没させなければならないことになつたであろう。それであるから、日本案の実際的な効果は、結局においてアメリカ艦隊の一部分とその新しい建艦計画の成果を全部犠牲にすることになり、しかも日本側では、これに相当する犠牲を全然払わなくてもよいということになつたであろう。
  また、すでに述べたように、ロンドン条約の規定に基いて、日本は八インチ巡洋艦の相当量をやや犠牲にした代りに、総括トン数で比率を増加する主張を貫徹していた。ワシントン条約の規定はまだ有効で、日本の主力艦と航空母艦の相対的保有量を低い水準に限定していた。従つて、日本が全廃を勧告したいと思つていた三艦種は、日本が相対的に最も劣勢な艦種であつた。
  最後に、一九三〇年以来、潜水艦の役割について、日本がその見解を変えたことは明白であつた。条約の批准に激しく反対したある枢密顧問官は、その反対に際して、合衆国が一番恐れているのは潜水艦であるから、日本が潜水艦を保有する限り、合衆国は決して恐れるに足りないと言つた。海軍大臣財部は、日本政府が潜水艦の現有勢力を保有することに成功したことを特に指摘した。これは日本の海軍政策の三大原則の一つとなつていた。
  一九三四年十月、ロンドンで会談が行われているときに、日本政府は世論の指導に関する公式の声明を発表した。これには、日本が国際連盟で経験したところから見て、公正な主張がいつでも国際会議で認められるとは限らないことがわかると述べてあつた。日本の海軍力の維持は東亜の平和の基礎であるから、海軍の消長は日本の国運の将来を左右する。それであるから、日本国民は外国の宣伝の術策に乗ぜられないようにしなければならない。たとい日本の主張が容れられず、協定が不成立に終る場合にも、これは必ずしも建艦競争が始まることを意味するものでなく、また万一このような競争が起つたとしても、当局は自主的方法によつて日本の地位を維持することができることを確信すると述べた。
  予備会談は、何の協定にも達しないで、一九三四年十二月十九日に終つた。その同じ日に、日本の枢密院は、ワシントン条約を廃棄する日本政府の決定を満場一致で可決し、一九三四年十二月二十九日に、合衆国に対して日本の意思を通達した。これに先立つて、日本は一方的行為に伴ふ困惑を避けるために、イギリスに対して、同一の行動に出るように説得しようと試みたが、不成功に終つた。

一九三五年にロンドン会議から脱退

  一九三五年十二月七日に、ワシントン条約とロンドン条約に従つて招集された海軍会議がロンドンで開かれ、ワシントン条約に調印した五力国の代表が出席した。アメリカ代表は、現存の比率に従つて、各艦種について、一般的に二割の量的縮減を行うことを提案し、また質的制限に関して、特に備砲の口径の制限に関して、討議する用意があつた。これに答えて、日本の首席全権永野は、日本の世論はもうワシントン条約を支持していないことを繰返し、日本は依然として共通最大限を主張していることを再び確言した。アメリカ代表は、現存条約が各締約国の平等な安全を規定しているのに反して、総括的対等は太平洋における日本の地位の圧倒的な優勢を意味することになるであろう、と指摘した。それであるから、もし日本がその要求の貫徹を固執するならば、建艦競争を惹き起すばかりであらう。日本の代表は、これらの反対に答えるために、実質的なことは何も試みないで、日本の見解では、合衆国の海軍力が優勢である限り、日本の存立そのものを脅かすものであると述べただけであつた。
  ワシントン条約の規定は、新しい協定に達することができるで存続しなければならないというアメリカの提案にもかかわらず、また、質的制限について協定に達しようとするイギリスの試みにもかかわらず、対等の問題が第一に決定されなければらないという主張を日本は固執した。従つて、一九三六年一月十五日で、共通最大限の原則が総会議で討議された。この提案に対しては、どの代表も支持しようと言わなかつたので、日本代表は正式に会議から脱退した。
  このようにして、一九三四年と一九三五年に、すなわち、岡田が総理大臣であり廣田が外務大臣であつたときに、海軍の再軍備への障害が取りのぞかれた。一九三六年八月に、合衆国艦隊に対抗して、西太平洋の制海権を確保するに足る海軍を整備することを五相会議は決定した。そうすることによつて、現存の条約による方式を廃棄すれば、建艦競争を引き起すばかりであるというアメリカの憂慮を裏書きした。

廣田内閣時代の海軍拡張

  一九三六年十二月に、つまりワシントン条約が満了する月に、海軍軍務局長は――公表されないことになつていた演説で――日本海軍の軍備資材は日を逐つて急速に進歩していると報告することができた。海軍中将豊田は、列席者に対して、この新しい建艦計画は多額の資金の支出を必要とするであろうと警告した。細目は報告しないけれども、その目的のための予算を惜んではならないとかれは述べた。日本海軍の将来の建艦計画をあまり早く他の諸国に知らせることは、日本にとつて不利であるとされた。
  廣田内閣によつて立てられた新計画は、翌年にその成果をもたらした。一九三七年度において、日本海軍の建艦の数字は、一九三一年から一九四五年までの間で、最大の増加を示したからである。
  しかし、西太平洋の制海権を確保するには、海軍は艦船のほかに根拠地を必要とした。西太平洋の中央部の全地域にわたる日本の南洋委任統治諸島――マリアナ、マーシヤル、カロリンの諸群島――は、一九三七年一月二十日から海軍の管轄下に入つた。

委任統治諸島の歴史

  ヴエルサイユ条約の規定によつて、国際連盟から、日本は広い地域に散在するこれらの三群島の委任を受け、これらの行政をパラオに本庁を置いた南洋庁を通じて行つた。連盟規約によつて、受任国は陸海軍根拠地の建設を防止する任務を課せられていた。一九二二年二月十一日に、ワシントンで調印された太平洋諸島嶼に関する条約によつて、日本は合衆国に対して、これと同じ義務を約束した。
  日本の南洋委任統治諸島への航路は、日本郵船株式会社によつて運営されていたが、一九三三年以来、この会社は南洋諸島向けの船には外人船客を乗せない方針をとつた。齋藤の『海軍』内閣の在任していた一九三三年三月二十八日に、この会社は、そのホノルル支店に宛てて、外人の船室申込みは拒絶すること、執拗に申込みをする者には、日本の関係当局の許可があつたときだけ乗船させることを通知した。

一九三六年前における委任統治諸島の要塞化

  委任統治領に海軍の施設を建設する工事は、一九三二年か一九三三年に始められ、これらの工事が始められたのは、外人拒絶の方針と同じ時期であつた形跡がある。少くとも一九三五年には、マリアナ群島のサイパン島に滑走路と海軍航空機基地が建造中であつた。マリアナ群島で一番大きいこの島は、アメリカ領グアム島の北方約二百マイルのところにある。
  一九三五年の後半期には、外人の南洋諸島の旅行に加えられた制限をさらに強化する手段がとられた。一九三五年十月十四日に、右の日本の汽船会社は、そのホノルル支店に対して、この地域への航路に船客を引受けないようにあらゆる努力が払われていることを再び通知した。どのような特別の場合でも、乗船を希望する船客について、充分に詳細に報告を南洋庁に提出しなければならず、南洋庁は必ず外務省と海軍省に協議した上で決定することになつていた。
  実際の経験からすると、たいていの場合に、申込みは拒絶されるものと思われた。
  一九三五年の十月と十一月に、これら指令がさらに再び繰返して発せられた。南洋航路に関する一切の問題は、すべて日本人係員だけで取扱うように、また通信は必ず日本語で書くように指令された。船室申込みの拒絶は、設備が悪いことと出帆日が不規則であることを理由とすることになつていた。特定の場合の許可は、海軍大臣と外務大臣廣田との所管であつた。

廣田内閣時代における委任統治諸島の機密の保持

  廣田内閣が成立してから三カ月を経た一九三六年六月に、アメリカの国務長官は、グルーに対して、委任統治諸島における港の拡張または防禦施設に関して、重大な疑惑の念が抱かれていると通知した。開港場でないアラスカの諸港に日本船は出入を許されていることが指摘された。そして、アメリカ大使は、合衆国の駆逐艦が南洋委任統治諸島を訪問するについて、許可を求めるようにとの訓令を受けた。自分の発意であるとして、グルーは廣田自身に対してその要請をした。総理大臣は、好意はもつているが、その問題については、何もわからないと称した。後になつて、グルーに対して、決定は拓務大臣と海軍大臣の所管であるということが告げられた。日本と合衆国は、一九二二年に、それぞれの委任統治諸島に寄港する際は、相互に通常の礼譲を尽すということを協定したにかかわらず、許可は与えられなかつた。
  一九三六年七月二十八日に、前記の日本の汽船会社は、またまた、そのホノルル支店に対して、南洋航路の乗船申込みを引受けてはならないと通知した。さらに、一九三七年四月八日附と一九三九年三月十三日附の通信によつて、その後もこの制限が緩和されなかつたことが示されている。
  これらの事実を総合してみると、一九三六年八月十一日の国策の決定の前にも、その後にも、受任国としての義務に違反して、日本は南洋地域で戦争準備をしていたことがわかる。外務省と海軍省は、終始これらの成行きから注意をそらすことに意を用いた。そして、外務大臣として、また総理大臣として、廣田はこれらの努力に大いに関与していた。

海軍将校、南洋諸島の行政官となる

  廣田内閣がまだ在任していたときの一九三七年一月二十日に、枢密院は、海軍部内における先任順をそのままにして、現役海軍将校を南洋庁の行政官に任命することができるようにする措置を承認した。平沼が議長であつたこの会議に、出席していた者の中には、廣田自身も海軍大臣永野もいた。非公開のこの会議で、委任統治諸島に対する日本の関心の真の性質が明らかに述べられた。右の措置の理由として挙げられたのは、南洋群島が日本の国防上重要な地位を占めるに至つたことと、国際情勢と同群島の航路、港湾、道路、航空及び通信に関する施設にかんがみて、日本海軍の便益と軍事的事情に特別な考慮を払わなければならないことであつた。

廣田内閣における各被告の地位

  一九三六年三月九日から一九三七年二月一日まで、廣田が総理大臣であつた期間は、戦争のための積極的な計画と準備の期間であつて、この計画と準備は陸海軍両省で発議され、その長期計画の遂行に他の主要な政府各省が関係するに至つたということはすでに明らかにされた。
  その当時に、最も重要な職に就いていた者の中に、一九三六年三月二十三日に陸軍次官となつた梅津中将があつた。一九三八年五月三十日まで、廣田、林、近衛各内閣を通じて、かれはこの職に留まつていた。廣田のもとでは、かれはさらに多くの従属的な官職を兼任していた。これらの官職は、当時の陸軍の関係していた範囲を示すものとして役に立つであろう。かれは対満事務局、内閣調査局及び内閣情報部の参与であつた。かれは自動車工業に関する事項の調査を任務とする委員会の一員であり。また教学刷新委員会の委員でもあつた。かれは帝国議会で陸軍省の所管事項を担当していた。
  一九三六年八月一日に陸軍少将に任じられた木村は、整備局統制課長であつた。一九三六年五月二十日には、かれの局はすでに戦時または非常時の世論統制のための動員計画をつくつていた。武藤中佐は、一九三六年六月十九日まで、軍務局課員であつた。そして鈴木大佐は一九三六年八月一日まで右の局に配属されていた。
  一九三六年四月二十八日に陸軍中将に任ぜられた板垣は、一九三四年十二月十日から関東軍参謀副長となつていた。一九三六年三月二十三日から一九三七年三月一日まで、かれは関東軍の参謀長であり、さらに日満経済共同委員会の委員であつた。従つて、廣田の在任期間中、かれは満州と華北諸省における日本の軍事的と経済的の諸準備に密接な関係をもつていた。一九三四年七月一日以来、満州国財政部の司長であつた星野は、一九三六年六月九日に同部の次長となつた。
  嶋田海軍中将は、一九三五年十二月二日から一九三七年十二月一日まで、軍令部次長であつた。この期間中に、海軍は一九三六年八月の国策決定に寄与し、委任統治諸島の支配権を獲得し、また海軍拡張の新しい政策を樹てていた。岡大佐は一九三六年十二月一日まで軍令部の部員であり、また海軍省出仕であつた。
  廣田の在任期間中、賀屋は議会で大蔵省の所管事務を担当し、また対満事務局参与でもあつた。一九三七年二月二日、廣田内閣がかわつて林内閣となつたときに、賀屋は大蔵次官になつた。

橋本と大日本青年党

  日本の国策の基礎が決定されてから数日の後、一九三六年八月に、橋本大佐は予備役に編入された。かれは直ちに新しい団体を設立する仕事に着手し、一九三六年の後半中に、演説やパンフレツトによつて、その団体の目的を説いた。
  橋本は皇道と八紘一宇という二つの伝統的な教えをかれの理論の基礎とした。世界統一の第一歩は、日本の国民自体を直接に天皇のもとに統一することにあるからだと橋本は説いた。革新を達成するためには、青年の血と熱が必要である。そして、大日本青年党の目的は、この必要を満たすことであつた。青年は新日本の骨格となり、大和民族の精神的と物質的の全力を皇道の精神に、すなわち天皇に対する忠義の精神に統一することであつた。
  ここで考察している期間には、陸軍の歴史は政府の権力への反抗の歴史であつたということはすでに明らかにされた。政治家や内閣の政策が陸軍の政策と衝突すると、脅迫や暗殺や叛乱によつて、かれらは除かれてしまつた。一九三六年になると、廣田を総理大臣として、陸軍は在任中の内閣に対して不動の優位を確立してしまつた。橋本はこの過程をさらに一歩進めて、唯一つの政党だけが、すなわち陸軍の政党だけが存在するようになる日、また陸軍の支配者がもはや民主主義的政治形態によつて煩わされなくなる日に備えようとした。全体主義の直接の目標は、皇道という理念のうちに象徴され、世界支配の究極の目標は、八紘一宇という理念のうちに象徴された。
  戦争と軍の支配を支持するように日本国民の心を指導するために、すでにとられた手段を、ここで、検討してみることができよう。

学校と大学における軍事訓練の歴史

  すでに一八八六年に、日本の小学校、中等学校及び師範学校で軍事訓練と講義が始められていた。そして、一八九六年の日清戦争の後は、正規の陸軍将校が訓練を指導した。一九一四年―一八年の戦争の後は、この問題に数年間はほとんど注意が払われなかつた。しかし、一九二二年から後は、教育振りを監督するために、陸軍省は将校を派遣した。
  一九二五年とその後は、男子学生が確実に訓練を受けるように、陸軍省と文部省は協力した。一九二五年四月二十三日に、現役陸軍将校を学校に配属することに定められた。これらの将校は、陸軍省と文部省との間の協定によつて、教員養成所やあらゆる種類の官公立の学校に、また申出があれば私立の学校にも、配属されることになつた。かれらは学校当局の監督と命令に従うことになつていた。しかし、かれら自身は依然として陸軍省に属しており、陸軍省は学校における訓練の実情を査閲する権利を与えられていた。一年後の一九二六年九月に、陸軍省は査閲官の制度を設け、訓練の実施状況について報告させることにした。
  一九二六年四月に、正式の学校教育を受けなかつた十七歳から二十一歳までの青年を収容する目的で、新しい教育組織を文部省は創設した。その課程は四カ年間であり、一般的と職業上の価値のある学科を含んでいたが、総訓育時間数の半分は特に軍事訓練に割かれていた。これらの青年学校がつくられた月に、これらの学校で行われる軍事教練の査閲について、陸軍省で規則がつくられた。
  一九二七年までには、軍事訓練は全体の学校制度にわたつて強制的になつていた。そして、一九二五年から一九三〇年まで、この種の訓育に充てられた授業時間数は常に増加されていつた。
  大学では、軍事学科は一九二五年から義務的となつた。但し、この義務制は、初めは厳格には実施されなかつた。実際の軍事訓練は依然として任意制であつた。しかし、講義と教練の両方に出席した大学生は、後に三年間の強制的兵役のうち二年間を免除されたので、確実に出席するようになる強い誘因があつた。
  奉天事件の起る少し前に、満州は日本の生命線であり、安定した経済秩序の建設は満州を支配することにかかつていると学生達は教えられた。満州で戦争が起るとともに、軍事訓練課程に対して容易に消えずに残つていた反対も、軍事教育によつて鼓吹された極端な国家主義の新しい精神に押されて、跡形もなくなつた。一九三一年から後は、軍事教官は、名目上は学校や大学の当局に従属していたが、独立と支配の程度をますます高めていつた。
  満州の軍事行動が收まつてからは、軍事学科に充てられていた時間は、わずかばかり減少した。しかし、廣田内閣が政権を握つていた一九三六年には、あらためてまた推進された。訓練は教練、体育及び演習からなつていた。学校で使われる教科書は、日本の軍事史を扱い、学生の間に兵役に対する熱情を養成するように考案されていた。

検閲と宣伝流布の歴史

  出版の自由は、日本では常に制限されていた。既存の法規による検閲の実施は、警保局の任務であり、この局は内務省の支配を受けていた。あらゆる形の言論発表について、警察は検閲法規を実施した。そして、政府の政策と一致しない意見の発表の統制に、特に関心をもつていた。
  演説や公開の催し物の原稿は、すべて警察の承認を得なければならなかつた。警察が不都合なものと考える原稿は、すべて押えられた。警察の命令に従わない個人や団体は、一九二五年の治安維持法の規定によつて、すべて処罰された。さらに、極右と極左の破壊的分子を監視するために、一九二八年に始められた治安警察機関があつた。一九三一年から後は、これらの『特高警察』は、時の政府の政策に反対する者と意見の公の発表とのすべてを監視した。検閲の実施は、満州で戦争が起る前に強化されるに至つた。その同じ期間に、政府に内面指導された宣伝が新聞を通じて広められた。一九三〇年から始まつて、著述家や講演家や論説記者たちは、満州の戦争を支持するように世論を指導することに一致協力した。その年の末までには、この政策に反対する者は、すべてこれを抑圧するための措置がとられた。
  一九三一年から後は、陸軍は独自の非公式な検閲を行つていた。どのような著述家や出版業者でも、その仕事を陸軍が不満足であると考えた場合には、陸軍の代表者の直接訪問を受け、陸軍の不興を招いたという忠告を与えられた。このような脅迫や警告は、満州における戦争に関連して、その活動を述べた各種の愛国団体によつても発せられた。
  満州戦争の後に、政府と陸軍は、大陸における日本の地位を正当化し、国内の批判を抑圧するために、組織的な運動を始めた。軍事問題を取扱う原稿は、内務省警保局の承認を受けてからでなくては、印刷することができなかつた。一九三五年から後は、新聞は完全に同省の支配のもとにあつた。
  陸軍の使嗾によつて、かつ戦争の勃発を予期して、一九三六年に、廣田内閣によつて情報部が設けられた。その任務は、各省に代つて、情報の統制と宣伝の流布を調整することであつた。これによつて、世論を指導し、統一し、『日本の非常事態』を克服するために国民の決意を強化するという、一九三六年八月十一日の国策決定を遂行すべき便利な手段が政府に与えられた。

一九三六年における橋本の政策

  橋本は、大日本青年党の設立に従事すると同時に、かれのあらゆる著述や演説で、戦争を支持するように日本の世論を指導していた。さきに五相会議が用いたよりも、もつとあからさまな言葉で、かれは南方への進出を、特にオランダ領東インドへの進出を唱道した。かれはイギリス海軍をもつて自己の計画に対するおもな障害物であると認めた。そして大決心が必要であると日本に警告した。かれは日本民族の優秀な素質を称揚し、日本民族の使命は白色人種による暴政と圧迫を終らせることであると言つた。
  その後、一九三六年に、橋本はかれの新団体の目的を書いた宜言を発表した。この文書のうちで、『皇道』の実現について日本を妨げようとするところの、異つた主義をもつ他の諸国を征服するために、絶対的に必要な量まで日本の軍備を強化しなければならないとかれは述べた。さらに、再軍備の中核は、無敵空軍の実現でなければならないと述べた。

一九三七年一月の政治的危機

  その間に、すでに廣田の政府が確定していた経済的と軍事的の対外進出計画は、賛否いろいろに迎えられた。そして、軍国主義者とこれに対する残存した反対論者との間に、闘争が起つていた。廣田内閣は、一方では、この内閣の官僚主義的傾向と軍部に対する不当な迎合とを非難する政友会の反対を招き、他方では、今や自分自身以外の見解の発表を許そうとしない軍閥の反対を招いていたのである。
  一九三七年一月二十日に、政友会の党大会は、廣田政府の外交と行政の政策を批判する宣言を発表した。この党は、議会制度を強化し、一切の政府施策を綿密に検討する意図を表明した。わけても、軍国主義者が独善と優越感の性質をもつていることを認め、これを攻撃した。軍部が国家機能の全分野に干渉しようと欲していると断言し、もしこの弊害の昂進を許すならば、民意の暢達は阻止され、立憲政治は名ばかりとなり、寡頭専制をもたらすであろうと述べた。
  陸軍当局はこの挑戦を直ちに取上げ、さきに橋本が使つたのにも劣らないような、途方もない言葉で声明を出した。皇道と八紘一宇という一対の題目が陸軍当局の同答の基礎となつていた。
  政党はみずから省みるところなく、軍当局の攻撃ばかりに終始していると非難された。政党の政策は、日本国民を島国日本に閉じこめるものである以上、国民を満足させることはできないと言われた。政党の政策は、日本が東亜の安定力となることができないということを意味するものである。それは庶政一新計画の終りであるというのであつた。この声明書は、現在の状態の議会を廃止し、また国体を明徴にし、産業を振興し、国防を充実し、国民生活を安定し、重要問題を着々と解決していくような憲法政治の形態に復帰することを勧告した。
  要するに廣田のもとで陸軍のすでに達成した一切のものが、今や危うくなつていることを陸軍は認めたのである。

廣田内閣の倒壊と宇垣の組閣の失敗

  二日後の一九三七年一月二十二日に、陸軍大臣寺内は、一部閣僚の見解が陸軍の見解と根本的に異つていると称して、廣田内閣から辞任した。当時の事情の下では、就任してから、全力を尽してきた軍紀粛正、国防充実、庶政一新は、絶対に遂行できないとかれは信じたのである。
  陸軍大臣の辞任の言葉は、明らかに、廣田内閣では、他のどの将官も陸軍大臣の職を受諾しないであろうということを意味していた。従つて、後任を求めることは、直ちに断念された。一九三七年一月二十四日に、新内閣を組織すべき天皇の命令が宇垣大将に与えられたが、大将は結局においてこれを辞退しなければならないことになつた。辞退する前に、かれはあくまで陸軍大臣を求めようと試み、そのために少くとも四日を費したが、成功しないで終つた。
  多年の慣行によつて、新しい陸軍大臣の人選は、辞任した陸軍大臣、参謀総長、教育総監から成る三長官会議によつて定まることになつていた。一九三七年一月二十五日に、辞任した陸軍大臣寺内大将に対して、字垣は後任者を推薦するように依頼した。宇垣に対して、陸軍はあえて宇垣の組閣を阻止するものではないと寺内は言つたが、しかし、軍の維持と統制に関連して、字垣自身の立場を再考慮するよう求めた。翌日、教育総監杉山大将が字垣を訪問して、陸軍内の情勢を述べ、重ねて字垣が組閣の企てを思い止まるよう努力した。その日の午後、三長官が会合し、三名の将官の名前を申し出たが、これらの将官はすべて陸軍大臣就任を辞退した。そこで、三長官はそれ以外の有資格者である将官たちもこの地位を拒絶するであろうときめ、寺内はその旨を宇垣に通告した。これらのことは、すべて陸軍次官梅津中将から在郷軍人会に通知された。かれは説明して、宇垣大将は陸軍の信頼を得ていないので、何人も宇垣内閣の陸軍大臣として陸軍統制の重責に任じることができないと考えられると言つた。
  二日後になつても、字垣はなお希望を捨てていなかつた。一九三七年一月二十七日に、梅津は組閣の行きづまりを批評し、字垣が穏やかに天皇の命令を辞するようにとの希望を表明する談話を発表した。字垣はそうしないわけにはいかなくなつて、実際にそうした。そこで、天皇の命令は林大将に与えられた。廣田内閣は一九三七年二月一日に辞職し、翌日林が就任した。
  日本の政治の諸方面に対する軍人の支配が増大してきたことに対して、一九三七年一月二十日に行つた政友会の抗議は、この恐るべき事態の推移を阻止しようとして、日本の政党が行つたほとんど最後の真剣な試みであつた。しかし、それはなんの役にも立たなかつた。軍部が進んで協力しなければ、内閣は存続することができず、また新しい内閣をつくることもできないということを軍部が証明する好機を与えたにすぎなかつた。それによつて、自己の意に適う内閣でなければ、日本の政府に協力を拒むことができるほど強力になつたと軍部が今や感じていることも、示されることになつた。

林内閣と第一次近衛内閣の構成

  この力の試練に勝利を博した後に、陸軍は着々としてその産業計画の歩を進めた。林が総理大臣として在任していた四カ月の間で、注目しなければならないことは、陸軍が一九三六年に立てた計画が着々として成果を収めたということだけである。廣田自身は辞職した。しかし、宇垣の危機の間、陸軍の立場を支持した梅津中将は陸軍次官として留任した。廣田内閣で、議会における大蔵省所管事項を担当していた賀屋は、こんどは大蔵次官になつた。嶋田海軍中将は依然として軍令部次長であつた。
  自由主義派の一部残存者は依然有力な地位に止まつていたに相違ない。なぜならば、一九三七年三月十七日に、橋本が再び政治家攻撃を始めたからである。帝国議会の中には、現状維持を支持し、軍部の政治に対する干与の非難を事としている自由主義者がいるとかれは言つた。これを指さして、国民の間に反軍思想を広め、軍の政治革新運動を妨害するための巧妙な計略であるとかれは称した。国防の見地からすれば、政治に干与することは軍部の義務であるとかれは言つたのである。
  総理大臣林は、一九三五年七月には、すでに陸軍の人気を失つていて、陸軍大臣として辞表を提出するほかはないと感じていた。林内閣の成立をもたらした危機から四カ月を経て、かれは職を去り、かわつて近衛公が首相になつた。この時もまた、陸軍の計画の発展が少しでも止つたり、変つたりすることはなかつた。梅津と嶋田はまたまたその職に留つた。廣田は再び外務大臣の地位に就いた。この地位は、さきにかれがみずから総理大臣になるまで、齋藤と岡田の両内閣で占めていたものである。賀屋は大蔵大臣となり、それによつて、経済産業計画と金融統制との多忙な分野で、最も高い地位に到達した。平沼男爵は、林と近衛の両内閣で、引続いて枢密院議長であつた。

林内閣時代の華北に対する新経済政策

  林内閣は、就任してから三週間の後に、すなわち一九三七年二月二十日に、華北に対する新しい基本政策を承認した。それは一九三六年八月十一日の五相会議の決定を再確認し、補足したものであつた。華北の処理について、日本の主眼とするところは、華北を反ソビツエト緩衝国として建設すること、物資の、特に軍需産業用の物資の、供給源を確保することであるということが、今やはつきり述べられた。
  林内閣の在任期間中に、すなわち一九三七年四月十六日に、華北に対する日本の政策が重ねて述べられた。この新しい計画は、前のものを強調したにすぎないものであつたが、日本と中国の双方の民間資本の投資を奨励することよつて、経済的浸透を成就するということをはつきり述べている。この計画によつて、鉄や石炭のような重要鉱物資源が確実に利用できることになつていた。交通機関、電力源及びその他の工業上の施設の建設が速やかに完成されることなつていた。しかし、不必要に外国の疑惑を招かないように、厳重に注意することになつていた。

廣田内閣と林内閣の時代の、満州の経済上と産業上の開発における陸軍の役割

  一九三七年一月に、関東軍は満州国の経済上と産業上の開発のための五ヶ年計画をつくつた。満州で戦争が起つてから、関東軍は同国の公益事業と金融機関の支配権を着々として握りつつあつた。一九三一年から一九三六年までの五カ年間に、原料を調査したり、新たに工場をつくつたり、交通を改良したりするような事業は、純粋に軍事的な施策と並んで進められていた。一九三五年には、すでに日満経済共同委員会が設立されていた。同年十一月には、円ブロツクの確立によつて、両国の通貨の統合が成就されていた。一九三六年六月十日には、満州国の原住民のすべての権利を日本国民に与える新しい条約が調印されていた。かれらを保護するために、特別な法律がつくられることになつていた。かれらは満州国の裁判管轄権に服せず、またいくらかの課税を免除されていた。
  日本人の移民の数は急速に増加し、当時三十九万人を超えていた。かれらのうちの多くは、必要なときは兵隊にすることもできる者であつた。これらの新しく来た者に良い土地を与えるように、原住民は名ばかりの買入価格で所有地を奪われた。一九三六年十二月に、日本の内閣の政策に従つて、優先産業に対して簡易に資金を与えるために、満州国興業銀行が創立された。
  これらの出来事のすべてにわたつて、日本内地の軍当局は、関東軍を通じて、支配力を及ぼしていた。一九三六年六月十日の条約の条項に基いて、日本国民に影響のあるすべての法令は、関東軍司令官の承認を必要とした。その上に、関東軍司令官は、その部下を通じて、満州国の内政を完全に支配した。
  一九三六年三月二十三日から一九三七年三月一日まで、板垣中将は関東軍参謀長であり、この地位に伴つて、同時に経済共同委員会の一員であつた。かれが公言した政策は、日本が必要とする政治的と経済的の条件を満州国に実現すること、両国の軍事上の計画と準備を統合すること、それと同時に、満州国自体の繁栄を促進することであつた。関東軍司令官植田大将の名において、かれは満州国の内政について最高の権力を行使した。
  満州国総務庁長の地位も、やはり、日本人が占めていた。その地位は、国内政策を決定するについて、鍵となる重要な地位であつた。すべての官吏の任命は、かれの指示によつて行われ、ただ参謀長としての板垣の承認を受けることを条件としただけであつた。その当時に、満州国の財政部次長として、六カ月の経験をもつていた星野は、一九三六年十二月十六日に、国務院総務庁長となつた。かれは日本で経済専門家と見られており、満州国の経済開発を促進することを任務としていた。この任務を遂行するにあたつて、かれは関東軍司令官と絶えず連絡を保つていた。

満州国五カ年計画

  一九三六年と一九三七年における陸軍の計画の直接の目的は、満州事変の成果を確保し、発展させることであつた。この五カ年計画は、無計画な開発をやめて、具体的な調和のとれた計画を立てることを目的としていた。満州国の財政部やその他の部の代表者とともに、星野はこの計画の立案に加わつた。板垣もまたこの仕事に携わつた。最後の決定権は、関東軍司令官植田大将にあつた。一九三七年二月十七日に、満州国政府は公報を出し、この新計画の実施とともに、満州国は画期的な建設工作期にはいろうとしていると発表した。
  満州国の計画は、軍が日本自体のためにつくつた諸計画に非常によく似ていたから、双方を産業上と経済上の開発に関する単一の計画と考えることもできる。

一九三七年五月二十九日の重要産業五力年計画

  林内閣が在任していた一九三七年五月二十九日に、一九三六年八月十一日の国策の基準の決定中に定められた目標の達成に向つて、最初の重要な処置がとられた。その日に、軍は『重要産業五カ年計画要綱』と題された文書を出した。この計画は、だいたい一九四一年までに、計画的に重要産業の振興をはかり、その年までに、日満及び華北は、重要資源を自給できる一箇の圏を構成するように立案されていた。このようにして、日本の東アジアにおける指導的地位が確保されることになつていた。
  この五カ年の間に、十三の産業が優先産業として選ばれた――兵器、航空機、自動車、工作機械、鉄鋼、液体燃料、石炭、一般機械、アルミニウム、マグネシウム、電力、鉄道車輛がそれである。これらを選んだ根拠は、これらが戦時に重要だからであつた。この一般計画のわくの中で、陸軍は別に兵器及び飛行機工業について計画をつくることになつていた。既存の資本主義生産組織に対して、急激な変革は行わないが、金融と物価との統制、重要でない産業からの労働力の転換、対外決済の統制によつて、その計画の進捗をはかることとなつていた。五カ年の期間が終つたときに、進捗状況を検討することになつていた。

大陸資源開発の決定

  重要産業五カ年計画には、拡充すべき産業として選ばれたものは、日本自身と満州国との双方に配置し、この目的のために、両国は一環と見做されるということが明示されていた。さらに、(英訳された言葉によると)、『巧みに』日本は華北で率先して、その天然資源の開発に努めることになつていた。
  すで満州国五カ年計画によつて、同国の資源をどのように利用することになつているかが示されていた。兵器、航空機、自動車及び車輌生産のための軍需工業を確立することになつていた。鉄、石炭、液体燃料及び電力を含めて、基礎重要産業を開発することになつていた。軍需品として必要か農産物の増強に努めることになつていた。鉄道と港湾には、この産業開発計画に必要な施設を設けることになつていた。
  この計画全体の目的は、戦時に必要となるかもしれない満州の資源を開発すること、この国の産業開発の強固な基礎を築くこと、右の開発を、日本に欠けている物資を日本に供給すると同時に、満州国の自給自足を確立するように秩序立てることであつた。

戦争産業と戦争資材の生産とに関する細目的計画

  一九三七年六月四日、近衛が林にかわつて総理大臣になつたときに、陸軍の計画は依然として継続され、中断されることがなかつた。
  一九三七年六月十日に、陸軍は重要産業五カ年計画実施に関する政策大綱試案をつくつた。この大綱は、一九四一年までに、重要資源の自給自足を確立するという目標の達成を忠実にはかつていた。指定された十三の工業は、それぞれ別箇に考慮されていたが、ある基本原則は、各工業別の計画に共通であつた。各工業を政府の統制と不断の監督のもとに置くために、厳格な措置をとることになつていた。政府の統制の実施を助ける機関として特殊法人を設立し、許可制をとることになつていた。免税によつて、補助金によつて、さらに営業損失に対する政府の補償によつて、生産を確保することになつていた。
  三週間の後に、すなわち一九三七年六月二十三日に、陸軍省は『軍需物資生産五箇年計画概要』という第三番目の計画をつくつた。最初の二つの計画は、一般的に戦争産業の拡充を取扱つていたのに反して、この第三番目のものは、右の大規模な拡充計画における陸軍自身の役割に関するものであつた。それは、軍事的な対外進出と支配を、戦力に必要な諸産業の自給自足の達成に同調させることを目的としたものであつた。たとえば兵器工業のような、ある種の産薬が第一にこの計画の中にはいつた。その他のもので、陸軍の当面の必要に縁の遠い産業、たとえば電力供給のような産業は、重要産業計画の中に入れる方が適当であつた。さらにその他の、たとえば自動車、飛行機及び工作機械工業のようなものは、ひとしくそれぞれの計画の中にはいつていた。しかし、この計画の各部門は、すべて分離することのできない関係にあつた。

一九三六年の決定と一九三七年の計画との関係

  一九三七年の五月と六月に、陸軍がつくつたこれらの三つの計画の中には、一九三六年八月十一日の国策の基準の決定の際に、五省大臣が定めた諸原則が具体化されていた。これらのどちらの場合にも、その根本目標は、アジア大陸に確固とした地歩を確立することと、軍事力によつて東アジアを支配することであつた。
  一九三七年五月二十九日に出され、経済的自給自足を達成するように立案された重要産業計画の目的は、『東亜指導の実力を確保する飛躍的発展』であつた。一九三七年六月十日に、陸軍が出したさらに詳細な計画も、同じことを目的としたものであつた。『万難を排して達成』しなければならない日本の国運の『画期的発展に備えるため』に、一九四一年までに、自給自足を達成することになつていた。戦争資材を取扱つた第三の計画では、それらの目標が繰返され、また詳細に述べられた。一九四一年までに、『速に軍需品製造工業を画期的拡充』することになつていたばかりでなく『軍政的処理を統合帰一することにより』、日本の経済の運営を『合理的に開展』する必要があつた。平時体制から戦時体制への急速な転換に対して、特別な注意を払うことになつていた。
  これらの陸軍省の計画が作成され、発表された期間中、梅津中将は陸軍次官であつた。一九三六年三月二十三日に、すなわち、廣田が総理大臣になつてから二週間の後に、また同年の重要な五相会議の三カ月前に、かれはすでにこの職に就いていた。字垣を廣田の後継者として承認することを陸軍が拒んだときに、梅津は重要な役割を演じた。一九三八年五月三十日まで、林と近衛のもとで、かれは陸軍次官の職に留まつていた。

計画は陸軍のソビエツト連邦攻撃の意図を示している

  一九三七年の陸軍の計画は、全然または主として、中国の征服を目標としたものではなかつた。弁護側の証人岡田は、これらの計画はソビエツトの五カ年計画に対抗して作成されたものであり、また日本の国力がソビエツト連邦の国力にくらべて優勢であるようにするためであつたと述べた。日本はソビエツト連邦の国力と武力の飛躍的な発展に対抗する措置をとらなければならない立場に置かれていたとかれは述べた。
  それにもかかわらず、この計画は、岡田の述べたように、防禦的な性質のものではなかつた。重要産業に関する計画でも、戦争資材の生産を取扱つた計画もで、『国防力』の充実ということを目標としていた。それには、日本の軍備の完成が伴わなければならなかつた。陸軍大臣荒木が『国防』という言葉を定義したのは一九三三年六月であつたが、そのとき以来、この言葉は常に武力によつてアジア大陸に進出することを意味していた。一九三七年の諸計画自身の中に、右の結果を達成しようとする陸軍の意図が明確に示されていた。
  しかし、ソビエツト連邦を日本のアジア政策に対する避けることのできない敵であると陸軍が見ていたことは、疑いがない。モスコー駐在の陸軍武官は、すでに一九三二年七月に、そう述べていた。参謀本部の鈴木中佐は、一九三三年四月に、それを繰返した。関東軍は一貫してこのような戦争の準備を続けていた。そして、国境の戦闘で、ロシア軍に対する自分の力を試していた。『反共産主義』が華北と内蒙への日本の侵入の標語であつた。一九三六年八月十一日の国策の基準の決定の中で、軍備拡張の程度は、ソビエツト連邦が東部国境に動員できる全兵力に対して、これに対抗するのに必要な程度とすると五相会議は決定した。一九三六年十月の防共協定は、このような衝突への道を進めたものであつた。
  右の三つの陸軍の計画のうちの最後のものがつくられる前、一九三七年六月九日に、陸軍がソビエツト連邦に対して戦争を開始しようとしていたことを証明する新しい証拠があつた。一九三七年三月一日に、板垣の後任として関東軍の参謀長になつた東條中将は、この目標を延期する方がよいと考え、そのように参謀本部に意見を具申した。当時の中国の情勢とソビエツト連邦に対する作戦準備とを考慮した上で、もし日本の武力がこれを許すならば、関東軍の背後を脅かすものと日本側で考えている中国国民政府軍に対して、まず一撃を加えなければならないとかれは確信していたのである。一カ月の後、蘆溝橋事件が起つたときに、陸軍は日本の軍事力が右の措置をとるに充分であると考えたことが明かになつた。

陸軍の計画は西洋諸国をも目標とした

  しかし、陸軍の一九三七年の計画は、ソビエツト連邦だけを目標としたものではなかつた。なぜならば、東アジアの征服を成就するにあたつて、日本が西洋諸国の敵意を招くであろうということは、長い間認められていたからである。日本の関心は、アジア大陸だけに限られていたものでもなかつた。一九二四年と一九二五年に、すでに大川は東インド諸島の占領を主張しており、また東洋と西洋との戦争を預言し、その戦争で日本は東洋の戦士となるであろうと言つた。一九二九年七月に、白人種を駆逐して、アジア諸国民を解放することをかれは待望していた。一九三三年三月における日本の国際連盟からの脱退は、アングロ・サクソンの支配からの解放の先がけであるとかれは言つた。一九三三年六月に、荒木は日本国民に対して、国際連盟の指導の下に、全世界は日本がその使命を果すことに反対したと言つた。かれは来るべき非常時について説いた。それ以来ずつと、これが評論家や企画立案者の論題となつていた。
  一九三三年九月になると、どのような形式であろうと、国際協定による軍備制限には、日本の世論は甚だしく反対していた。同じ年の十二月に、齋藤内閣は、九国条約に基く日本の義務が大陸に対する日本の目標の障害となることがあつてはならないと決定した。一九三四年と一九三五年に、外務大臣廣田は、一方では、満州国にある西洋諸国の既得権益を次第に侵害しながら、他方では、いろいろと安心させるような言明をして、西洋諸国の憤懣を和らげるという先例をつくつた。
  これは一九三六年八月十一日に五相会議で採択された方針であつた。大陸から西洋列強の軍事的支配を排除すること、日本は漸進的な平和的な手段で南方に発展するが、同時にこれらの諸国との友好関係を保つていくように努めることになつていた。
  しかしながら、穏やかな回答を与えておくという政策は、西洋諸国との公然の衝突を延ばすこと以上の結果を生ずるかもしれないということは、考えられていなかつた。合衆国に対抗して、西太平洋の制海権を確保することができるように、海軍軍備を強化しなければならないと五相会議は決定した。同じ期間に、橋本は南方へ、殊にオランダ領東インドへ進出することを公然と主張した。かれはイギリス海軍がこの計画にとつておもな障害であると認め、また無敵空軍の建設を中核とする軍備の拡張を要求した。
  この目標は、一九三七年六月二十三日の戦争資材計画の中で、陸軍によつて承認された。その計画は、陸海軍航空機の数を非常に大きく増加することを定め、また一九四二年を所要の戦時能力に達する第一年と定めた。
  一週間の後に、すなわち一九三七年七月一日に、橋本は別の論説を発表した。その中で、各国は空軍の拡張に狂奔していると日本国民に警告した。もう一度、ソ連邦に対して用いられるかもしれないばかりでなく、日本の軍備の根幹となるかもしれない無敵空軍の必要をかれは力説した。
  一九三七年の五月と六月の陸軍の諸計画は、一九三六年の国策決定に類似していた。この計画の基調は、あらゆる困難を排して、海外発展という目標を達成しければならないということであつた。時期の熟さないうちに、西洋諸国を刺戟して戦争を起すつもりはなかつたが、これらの諸国が右の因難の一となつていたことに、明らかに認められていた。このような困難が戦争に訴えなければ打開できなくなる日に備えて、陸軍の五カ年計画の中に、時宜に適した規定を陸軍は設けていた。
  その間に、条約上の制限や陸軍の大陸計画に加わるということに煩わされないで、海軍は孜々として太平洋においての戦争の準備をしていた。

一九三七年中の海軍の準備並びに委任統治諸島における準備

  一九三七年には、日本の海軍力と海軍建艦数字とのあらゆる部面において、大きく急激な増加を見た。重巡洋艦三隻と新航空母艦一隻とが就役した――これは一九三二年以来最初の新造巡洋艦であり、一九三三年以来最初の新造航空母艦であつた。その年のうちに、海軍兵員数は二割五分以上増加した。今までにない大きさと火力を有する新主力艦の建造が始められた。数年の間比較的に変動のなかつた重巡洋艦の総排水量は、二万五千五百トン増加した。同様に大いに増加した駆逐艦の勢力は別として、最る顕著な増加を見たのは、ロンドン海軍会議で日本代表が特に攻撃的な武器と称した種類の艦種そのものであつた。
  この期間を通じて、嶋田中将が海軍軍令部次長であつた。ロンドン海軍会議が開催される数日前の一九三五年十二月二日に、岡田内閣のもとに、かれは就任したのであつた。一九三七年十一月三十日まで、廣田、林、近衛の各内閣を通じて、三人の海軍大臣のもとに、かれは引続き勤務した。この期間中に、日本は海軍軍備縮小の国際協定から脱退し、合衆国の太平洋艦隊に匹敵する海軍をつくり上げようと計画し、急速な、しかし大規模な建艦計画を実施し始めた。
  この期間中に、また、海軍は日本の南洋委任統治諸島の管轄を委ねられたが、秘密のうちに、条約義務に違反して、これらの諸島の要塞化と海軍基地としての施設とに取掛つた。マリアナ諸島のサイパンにおける海軍航空基地の建設は、少くとも一九三五年以来始まつていた。一九三七年中に、十インチ砲が送られ、格納された。海軍の監督のもとに、地下燃料庫を設ける工事も始められた。一九三七年か、あるいはそれより前に、これらの工事はカロリン諸島にまで及んだ。なぜなら、この年に、パラオ諸島のペリリュー島に滑走路が建設されつつあつたからである。そして、一千マイル東方で、トラツク環礁の諸島に、軍事施設が構築されつつあつた。

海軍備砲口径の国際的制限に対する同意の拒絶

  一九三六年一月十五日に、日本がロンドン海軍会議から脱退した後にも、西洋諸国は、海軍再軍備競走のもたらす弊害を軽減する希望を捨てなかつた。
  合衆国、イギリス、フランス及びイタリアは、一九三六年三月二十五日に、新しい条約を結んだ。この条約は、近く満了する二つの条約の規定のあるものを更新し、または修正した形で残した。新条約の規定によれば、主力艦の備砲の口径の制限は十六インチから十四インチに引下げることになつていた。但し、一九三七年四月一日より前に、非締約国との間に、この趣旨の一般的協定に達することを条件としていた。この規定を効力あるものにすることが日本の権力内にあつたにかかわらず、そうしてもらいたいという英国の要請は、林内閣の外務大臣によつて明確に拒絶された。
  一九三七年六月四日、第一次近衛内閣が成立した日に、合衆国はこの制限を実施したいという真剣な希望を表明し、日本に対して必要な約束を得たいと直接に懇請した。その当時建造中であつた合衆国の主力艦に十四インチ砲を搭戴するか、十六インチ砲を搭載するかは、日本の回答によつて決せられるであろうと説明された。二週間の後、一九三七年六月十八日に、外務大臣廣田は日本の拒絶をグルー大使に伝達し、日本の代表がロンドンで表明した見解を日本は堅持するものであることを繰返した。
  このようにして、陸軍が大規模な軍事的準備計画をつくつていたちようどその数カ月の間に、戦争準備を着々と進めて行こうとする日本の意図について、新しい証拠が与えられた。これらの準備は、主として西洋諸国を目標としたものであつた。

陸軍の一九三七年度計画の目的に関する佐藤の演説

  いままでに考慮された証拠は、一九三七年度において、日本の戦争準備と日本陸軍の計画とが目的としたものを明白に証明している。その顕著な確証は、一九四二年三月十一日に、当時の陸軍省軍務局長であつた佐藤少将が行つた演説の非常に詳細な新聞報道によつて与えられている。この演説を、かれは陸軍記念日の記念講演として行つたものである。弁護側はこれを単なる戦時宜伝であると称したが、その報道の正確さについては、異論がなかつた。
『昭和十一年陸軍で樹てた国防政策は満州事変の成果を確保増進するためには、軍備と生産力の画期的拡充の必要を痛感した。しかして、欧州列強の軍備拡張、再軍備が昭和十六年乃至同十七年に出来上るので、その頃国際危後が来ることを予想し、昭和十七年度までには、是非共軍備と生産力の大拡充を終らねばならぬと考へ、軍備は昭和十二年度より同十七年度に至る六箇年計画、生産力は昭和十二年度より同十六年度に至る五箇年計画を以て大拡充することとした。』
  この演説には、追つて再び言及することにする。なぜならば、その中で、陸軍の究極の目的がどのように終始一貫して考慮されていたか、またどのように陸軍の努力が成功を収めたかについて、佐藤は再検討しているからである。しかし、まず、経済と産業を拡充する予定期間に、日本の政府の政策と計画を統合し、指導するために設けられた新しい機構を考察しなければならない。

一九三七年度計画が日本の産業拡充計画に与えた影響

  陸軍は、その一九三七年度の五カ年計画で、他のすべての考慮を、『国防力』を達成するという考慮に従属させた。戦争産業の急速な拡充が成就されることになつていた。その拡充は、平時体制から戦時体制への転換を容易にするために、最大の注意が払われるように計画され、指導されることになつていた。これらの目的のためには、他方で、産業の統制を軍部の監督のもとに一元化することが必要であつた。しかし、このような体制は、産業人の協力がなくては効果がないということが認められた。
  従つて、陸軍は、その一九三七年六月二十三日の軍需物資計画で、政府と陸軍の統制に応じ得るような新しい産業階層の設定と、企業家及びその使用人の双方に対する好条件の維持とを結合することを目的とした。労働時間は延長されないことになつていた。新しい機械と技術が時代遅れの生産手段にとつて代ることになつていた。企業家に資本または経営上の損失を被らせるような危険に対しては、適当な注意が払われることになつていた。これらの予防策がとられた上、統制をある程度強化すれば、拡充と転換という軍部の目標の達成を容易にすることになるのであつた。
  産業の統制を強化するために計画された特定の方策は、みな今までより大きい企業体を組織することを主眼としていた。産業の合併と企業の合同とに対して指導が与えられ、それらに対して、一般的な統制を行う特別の機関が徐々に設立されることになつていた。有機的な生産ブロツクが結成され、相互依存的な生産者の諸集団を結合することになつていた。小工業者の全生産能力が戦時の諸目的に利用されるように、軍事的見地から、かれらの組合が組織されることになつていた。
  一九三七年度の諸計画は、産業政策上、今までとまつたく変つたことをしようとするものではなかつた。というのは、第一歩はすでにずつと以前に踏み出されていたからである。一九二九年に、商工省の産業合理化特別委員会がつくられていた。その翌年に、生産過程を単純にし、浪費を除くために、正常な措置を講ずる一つの局がつくられた。一九三一年に通過した重要産業統制法は、計画統制経済に向つての第一歩であつた。その効果は、大工業者の力を強くし、中小経営者を自己防衛のために団結することを余儀なくさせた。中小経営者が組合を結成するというこの傾向は、一九三一年に、そして再び一九三二年に、法律によつて奨励された。
  一九三六年には、さらに徹底的な措置がとられていた。重要産業統制法の修正は、大資本産業の間に、カルテルの結成を実施させた。生産者と製造業者の間に結ばれた協定を法制化することによつて、独占事業体の結成が奨励された。それと同時に、小製造業者の間にも、組合に対する金融上の便宜を増すことによつて、同様のことが行われた。
  それにもかかわらず、一九三七年度の諸計画は一つの時期を画するものであつた。ここに初めて、総合的で長期な規模の上に企画が行われ、また初めて企画の目的が軍の要求に直接に結びつけられ、従属させられたのである。

内閣企画庁

  林が総理大臣であつたときで、陸軍の五カ年計画がつくられる直前の、一九三七年五月十四日に、内閣企画庁が設立された。それは過去において国策事項を審議していた内閣詞査局を廃し、これに代つたものであつた。その前身と同じく、企画庁は内閣自身の一部局であり、国策事項に関する決定を容易にすることを第一の任務としていた。その職員は百五十人で、技術専門家を含んでいた。内閣の上級職員は、その参与に任命された。企画庁の設置に関する勅令は、企画庁は内閣総理大臣の管理のもとに属し、重要国策とその運用に関して意見を具申すると規定した。その通常の任務は、各省間に調整が行われ、軋轢が避けられるように、総理大臣に進言することであつた。
  勅令の中に挙げられている企画庁の他の任務は、経済と産業の拡充の期間において、企画庁が演ずることになつていたおもな役割を示している。企画庁は、各省大臣から内閣に提案された諸政策を審査し、それらに関して適切な意見を具申することになつていた。そして、政府の各省によつて提出された諸計画を統合調整する目的で、その相対的重要性を判定することになつていた。これらの事項に関する企画庁の決定は公表されず、総理大臣に対する進言の形で提出されることになつていた。企画庁は予算案に関する意見も具申することになつていた。
  企画院⦅企画庁は一九三七年十月から企画院となる⦆の運営方法は、被告星野によつて説明された。一九四〇年七月に、かれは同院の総裁になつた。企画院は、次の年次に対して各自の要求の概算を提出した他の各省と協力して、その計画を樹てた。企画院のおもな任務は、日本本土の経済を計画することであつたが、これには、必然的に、日本の支配下にあつた大陸の各地における、特に満州国における、産業の開発の知識を必要とした。それで、企画院の計画案の中には、満州国における責任ある日本官吏との協定によつて、満州国に対する計画が含まれていた。企画院の任務は、なかんずく、各省がそれぞれの必要をなるべく完全に満たすようにはからうことであつた。
  一九三七年六月十日、第一次近衛内閣が就任してから二三日の後に、外務大臣廣田は、企画庁総裁の兼任を命じられた。

中国の戦争が五カ年計画に与えた影響

  林内閣の在任中に、そして陸軍の五カ年計画が完成する前に、産業拡充の新政策を実行に移すために、重要な措置がとられた。一九三七年三月中に、精鋼の国内生産を増加するために、五カ年計画が始められた。
  一九三七年四月に、日本の船舶『解体、建造』補充計画の第四期が実施された。一九三二年以来、補助金制度によつて、日本は約四十八隻の快速貨物船を建造した。このために、世界中で、船齢五カ年以内の船舶のトン数の比率が日本は最も高くなつた。新計画は、トン数と速力について指定された最低限度の標準をもつ客船と貨客船の建造に対して、補助金を与えることを規定した。補助金の率は、或る場合には、建造費の半分に達した。
  一九三七年五月一日に、陸軍の満州における諸計画が法制化された。その同じ日に、満州国の一つの法律が制定され、それによつて、戦争準備のために最も重要と認められるものを生産する全産業について、国家に完全な統制権が与えられた。
  日本自身についての計画は、さほぎ捗つていなかつた。一九三七年七月七日、蘆溝橋事件が起つたときに、五カ年計画の検討は一時延期された。その後の数カ月の間、日本政府の注意は、中国における戦争に直接必要な諸事項に集中された。
  重要産業についての計画の概要を述べた陸軍の最初の計画は、第一次近衛内閣に承認を求めるために提出された。この計画案を実行に移すための陸軍の詳細な計画の要約は、一九三七年七月十三日、戦闘が始まつてから六日の後に、企画庁総裁廣田に届けられた。軍需品、航空機、その他の戦争資材の生産に関する第三の計画は、戦争開始のわずか二週間前につくられた。
  この第三の計画は、陸軍の需要を満たすには不適当であつたので、一時放棄された。そして、重要産業についての計画は、軍事的消費にあてられる物質を、できる限り最大量に生産することができるように変更された。国家非常時という刺激のもとに、産業の拡充は、一九三七年七月から一九三八年十二月の間に、計画されていた程度以上に、だんだんに発展した。
  しかし、この期間に、企画院は当面の問題を最初に取扱わねばならなかつたが、戦争のための大規模な計画という元来の目的は、決して見失われなかつた。一九三八年の初めには、この年だけに限られた一年間の措置として、動員計画が復活された。その年の二月に通過した国家総動員法は、戦争準備のための広汎な措置を、あらかじめ議会に提出して、その協賛を得ることなしに、日本政府が取りうるようにした。一九三八年六月に、政府部内には、日本の財政的な困難が五カ年計画の成功を危うくするのではないかという憂慮の声が起つた。
  一九三九年一月に、企画院は一つの新しい総括的な計画を出した。これはそれまでの十八カ月間の戦争で得た経験に基いたものであり、かつその後に続く数年のために新目標を設定したものである。平沼内閣の承認を得たこの計画は、根本的には、陸軍省が一九三七年度の計画にあたつて主張した最初の計画そのものであつた。

蘆溝橋事件は陸軍の煽動によるものであつた

  蘆溝橋の事件は、華北を日本の統治下に置こうとする陸軍の画策が極点に達したものである。一九三五年五月には、満州国の場合と同様に、軍部がさきに立つて華北を処理すべきであるとする関東軍内の分子の決意について、木戸は記していた。同年十二月に、関東軍は、中国の本土への同軍の進出を予期して立てられた宣伝計画を、陸軍省に送付した。翌月に、陸軍の対華北計画の実施にあたつて、岡田内閣の外務大臣として、廣田は軍と外交上で協力する方針を立てた。中国における戦争のこの段階の発端となつた戦闘は、満州の占領をもたらした奉天事件のように、陸軍自身の発意で企画され、煽動され、実行されたのである。
  戦闘が始まる一カ月足らず前に、東條中将は、戦争か平和かの問題を陸軍参謀本部につきつけた。関東軍の参謀長として、中国政府の軍隊に対して攻勢に出る機が熟しており、またこのような軍事行動は、ソビエツト連邦に対する戦争開始に先立つて行われなければならないと、かれは信じていた。日本の兵力でこのような挙に出ることができるかどうかとうことは、参謀本部が決定すべきさらに大きな戦略上の問題であつた。
  この決定は重大問題であつた。というのは、陸軍省が当時なお立案中であつた経済的と軍事的の長期の計画は、中国における紛糾に直ちに巻きこまれることを全然考慮に入れていなかつたからである。このこみ入つた事態のすべての要因は、それ以前の十五カ月の間、陸軍次官の職にあつた梅津中将には、わかつていたに相違ない。最初に起つた戦闘を全面的攻勢という程度にまで拡大させたやり方は、参謀本部がすでに中国と戦争をすることにきめていたことを示すものである。
  一九三七年七月七日の夜に、蘆溝橋にいた日本の駐屯軍は異例な演習を行い、一人の日本兵が行方不明になつたと称して、その捜索を行うために、宛平城に入ることを要求した。日本側の苦情についてまだ交渉が行われている間に、戦闘が勃発した。そして、一九三七年七月八日の午後に、日本側は同城の降伏を要求する最後通牒を発した。それに続いて起つた戦闘で、日本軍は相当の死傷者を出した。一九三七年七月十日に、日本司令官の提案に基いて、停戦が協定された。
  この事件はそれで終結したと見て差支なかつた。しかし、それは日本側の意向ではなかつた。最初の衝突が起つてから二十四時間内に、関東軍の大部隊が戦闘の行われた現場に集中し始めた。増援部隊が華北に到着すると、中国軍の撤収を求める新しい要求が出された。一九三七年七月十三日に、参謀本部は、もし中国軍が華北に派遣されるならば、事態に対応するために、断固とした行動をとると決意した。日本側の新しい要求が履行されなかつたので、翌日蘆溝橋で再び戦闘が始められた。

第一次近衛内閣、陸軍の対中国戦争方針を採用

  中国との戦争は、陸軍が攻撃の時機と場所を選んだのではあつたが、日本の国策の結果として予知されていたものであつた。一九三六年二月、林が総理大臣であつたときに、華北をソビエツトに対する緩衝国として設定し、またそれを日満経済ブロツクに包含することが決定されていた。こうして、蘆溝橋における最初の攻撃があつてから数カ月のうちに、一九三六年八月十一日に五相会議で承認された言葉をかりて言えば、『アジア大陸における確固たる地歩』を獲得し、また『東亜の安定勢力となる』ために、政府と陸軍は協力したのである。
  戦闘の第一報を受けたときに、内閣は問題の現地解決をはかることに決意したが、同地域に対して、さらに軍隊を出動させる命令は取消さなかつた。二日後の一九三七年七月十一日に、廣田と賀屋が閣僚であつた内閣は、すでに引き起されていた事態を再検討した。その後で、日本政府は華北の治安の維持を切望するものではあるが、同地に派兵するために、一切の必要な措置をとることに決したという趣旨の声明を発した。日本内地における動員は中止されたが、関東軍の諸部隊はその進撃を続けることを許された。同時に、華北に新しい外交官と領事官を派遣する措置がとられた。これらの人々は、再び外務大臣廣田の監督の下にはいつていたのである。この紛争を交渉に委ねることを提案した中国の新しい努力と、アメリカの斡旋の申出とは、ともに戦闘の再開に続いてなされたのであるが、いずれも顧みられなかつた。直接交渉が続いて行われていたにもかかわらず、一九三七年七月十七日以後に、日本内地における陸軍動員の準備は絶え間なく進行し、また政府の明確な承認を得た。
  一九三七年七月二十六日に、日本の新しい最後通牒は、北京における戦闘を引き起した。そして、その翌日に、総理大臣近衛は、アジアに『新秩序』を建設するという、かれの内閣の決意を議会で表明した。満州占領の前に政府の代弁者等が主張したと同じように、日本は中国に領土を欲するものではないとかれは主張した。大東亜共栄圈の提唱者の言葉通りに、日本の求めているものはただ協力と相互援助――東亜の文化と繁栄に対する中国からの貢献――だけであるとかれはいつた。これに加えて、いつそう意味深く、中国との懸案を局地的に解決するだけでは充分でないと考えると述べた。日本はさらに一歩進め、中国と日本との関係の基本的解決を得なければならないと断言した。
  これによつて、内閣は参謀本部と同じ結論に到達したことと、日本は中国の征服という決意を翻えさないことが、今や明らかになつた。

戦争準備と中国制服との関係

  ここで注意すべき重要なことは、この決定は、単に基本国策をさらに推進したものではなく、前年の決定になかつたことを追加したものだということである。廣田を首班とした五相会議は、日本は万難を排してアジア大陸に進出すると決定していた。この進出が進むにつれて、西洋諸国を敵にまわし、またソビエツト連邦との戦争をほとんど避けがたいものにしてしまうことをかれらは認識していた。海外進出論者の計画のもたらす結果に日本が対応するには、数カ年にわたる国家的規模の動員を行うほかないことをかれらは認めていた。しかし、この準備計画のどの段階において、中国領土に対する新たな大規模の進攻を行うのが最も都合がよいかは、きめていなかつた。
  東條は、中国の占領は、来るべきソビエツト連邦との力の試錬に付随する小さい問題にすぎないと見ていた。その後の出来事から見ると、日本の内閣もまた中国の抗戦力を過小評価していたことがわかる。一九三七年九月になつても、外務大臣廣田は、国民政府軍に対する迅速な膺懲の一撃というようなことをまだ口にしていた。さらに、華北全域は、戦争を遂行するための経済的と産業的の開発の計画に含まれていた。従つて、国家総動員そのものを成功させるために必要であつた。
  近衛の政府がなした決定の中心点は、あまり早く国際的敵意を強める危険よりは、すでに列挙された利益の方が重要だということであつた。中国におけるこの戦闘の発生した事情そのものによつて、中国の征服は、より大きな闘争に対する準備計画に付随するものと見られていたことがわかる。

中国における戦闘と皇道及び八紘一宇の原理との関係

  これは、後年において、日本の一流の政治評論家がとつた見解であつて、かれらは、アジア大陸における進展を、その前に行われた『新秩序』の計画に、また皇道と八紘一宇の原理に結びつけた。
  白鳥は、一九四〇年十二月に出版された本の中で、八紘一宇という古典的な言葉は、東亜新秩序の建設を究極の目的とするところの、この運動の国家的標語として採用されたと述べた。満州における衝突も、中国における衝突も、『皇道』の精神を表わしたものであり、また民主主義的観念に反対したものであつた。ドイツと西ヨーロツパ諸国との戦争も、本質的には同様な衝突から起つたものであるといえるであろうとかれはつけ加えた。
  松岡洋右は、一九四一年外務大臣であつたときに、自国の発展に関して同様なことをいつた。近衛とその他の政治家が絶えず否定したと同様に、日本が新しい領土の獲得や他国の搾取を望んでいたということをかれは否定した。満州事変は日本精神の発揚であり、ある意味において、アメリカとヨーロツパ諸国が日本の平和的な発展を抑圧したために起つたものであるとかれは述べた。
  かれは聴衆に対して、日本の外交は八紘一宇の大精神を全世界に宣揚する重大な役割を演じなければならないと話した。その国策を実施するにあたつては、日本は神国であり、神意に従つて進まなければならないという点に留意する必要がある。これが『支那事変』の理由であつて、物質的な欲望ではないと述べたのである。
  白鳥と同じ月に、新しい著書を公けにした橋本は、一層あからさまであつた。かれは『支那事変』を『世界新秩序』建設の緒戦と呼ぶことができるであろうと述べ、この新秩序達成のためには、イギリスやアメリカとの妥協を許さないと述べた。かれは中日戦争を『国体の飛躍的顕現である』と形容した。
  それから、一九三六年八月に力説したと同様に、一九四〇年十二月にも、世界征覇の、すなわち八紘一宇の目標の達成を可能にする皇道の原理に、国の総力を集中しなければならないとかれは力説した。ヨーロツパ戦争の難局を転じて、日本によつて世界を『世界新秩序』に導く絶好の機会としなければならないとかれは述べた。

蘆溝橋事件後における廣田の外交政策

  一九三七年の後半期に、中国における戦争は次第に規模も大きくなり、激しさも増した。中国への進出と同時に、日本の行動の合法性を全世界に納得させようとする宣伝工作を行うという関東軍の計画に従つて、外交政策に関する各種の声明がなされた。
  外務次官堀内は、一九三七年九月一日に、ラジオ放送を行い、その中で、日本は中国の領土を獲得する意思がまつたくなく、単に両国の間に真の協力をもたらす状態を実現することを希望していると述べた。
  四日後の一九三七年九月五日に、外務大臣廣田は議会において外交政策を述べるにあたつて、同じ趣旨のことを敷衍した。日本政府の基本的国策は、日本、中国、満州の共存共栄のために、三国の間の関係を安定させるにあるとかれは述べた。中国は日本の真意を無視して大軍を動員したのであつて、これに対して、日本は軍事行動によつて対応するほかはないと述べた。自衛のために、また正義のために、日本は中国に対して決定的な一撃を加えることに決意したのであり、それによつて、中国の過ちを反省させ、また中国軍の戦意を失わせようとするものであると述べた。
  しかし、一カ月後の一九三七年十月六日に、国際連盟は、日本の中国に対する軍事行動は、この衝突を引き起した事件とはまつたく均衡のとれないものであり、またそれは現存の条約による権利に基いても、自衛権に基いても、正当化することができないと決定した。
  この間に、廣田は国策決定の中に定められた原則を続けていた。その原則というのは、西洋諸国との友好関係を維持しようと試みながらも、アジア大陸における進出の計画に対するいかなる妨害も日本は許さないというものであつた。一九三七年七月二十九日に、すなわち、近衛がその内閣の対中国政策を明らかにした二日後に、予算委員会で、廣田は中国との紛争に対して第三国の干渉を予期していないと述べた。この委員会に対して、もしそのような申出が第三国からあつた場合には、これに対して、政府は躊躇なく、きつぱりと拒絶するとかれは保証した。
  一九三七年八月十日に、グルー大使は、合衆国の新しい斡旋の申入れを廣田に伝達した。このときになつて初めて、一九三七年七月十六日のハル国務長官の最初の声明に対して、廣田は回答をしたのであつた。一九三七年八月十三日にハルに伝達されたこの回答文で、日本内閣は、ハルが言明した世界平和維持に関する原則には賛意を表するが、これらの原則の目的は極東においては、その地域の特殊な事情に考慮を払うことによつて初めて達成されると信ずると述べた。
  中国における事態を調査していた国際連盟諮問委員会の事業に参加するようにとの招請に対して、一九三七年九月二十五日に、廣田は同じような言葉で回答をした。日本内閣は、中国と日本との懸案を公正に実際的に解決することは、両国自身によつてのみ見出すことができると確信していると廣田は述べた。
  一九三七年十月六日の連盟総会の決議は、中国における日本の行動がもたらした国際的憤懣の程度を示した。その際に、各連盟国は、中国の立場を弱くするようなどのような行動をもとることを差控えることと、この国に対して積極的な援助を与えるのに、どのような措置を講じたらよいかを考慮することとが決議された。
  さらに、一九二二年の九国条約の規定に従つて、中国に発生した困難な事態を検討するために、その条約の締約国の会議を開くことも同意された。アメリカ合衆国は、これらの認定や決議に対する全般的同意を表明した。

ブラツセル会議並びに戦争準備態勢の一部としての条約義務の違反

  一九三七年十月中に、廣田、賀屋及び木戸が閣僚となつていた内閣は、ブラツセルで開かれることになつていた九国会議に参加するようにとの招請を拒絶した。内閣は、この決定を伝達するにあたつて、中国における日本の行動は防禦的性質のものであると主張し、連盟総会の非友好的な認定と決議に対する多大の遺憾の意を表明した。内閣の見解によれば、紛争の解決は、日本との協力が必要であることを中国が認識することにあるのであつて、この必要を充分に理解することによつて、初めて他の諸国は極東の安定に有効な貢献をなし得るというのであつた。
  中国においてとつた行動に関して、日本がどのような弁明をしようとも、事態を率直に論議することを拒否したのは、九国条約締約国としての義務に反するものであつた。しかし、これは日本の従来の声明とまつたく一致するものであつた。というのは、条約義務の違反と否認は、それ以前から、戦争準備の一般計画の一部になつていたからである。
  一九三三年における日本の連盟脱退は、このような不利な認定によつて促進されたものであつた――その際には、満州事変に関してであつた。連盟に対して、脱退の意図を通告するにあたつて、日本は連盟が極東の事態の現実を把握することができず、それによつて東アジアの安定を害していると非難した。日本のスポークスマンは、『現実に平和を確保するよりは、適用不能なる方式の尊重をもつて一層重要なりとした』構成員が大多数を占めている団体に対しては、日本はもう協力することができないと述べたのである。
  その年の間に、齋藤内閣の海軍大臣は、海軍軍備制限条約に対する日本の態度を説明することを求められた。その説明をするにあたつて、かれは現在の比率に対する日本の不満を強調し、もし国際情勢に変化が起つた場合には、『ある国家が、曽て調印した条約で永久に満足していなければならないという理由は全然ない。ひたすら人類の福祉を顧慮すればこそ、われわれはロンドン海軍条約に調印したのであつて、無条件に調印したわけではない。ワシントン条約について言えば、これは十二年前に調印されたものであつて、われわれの考えるところでは、国際情勢がその間にまつたく変化しているから、もはやわが帝国の安全を保障するに適切なものではない』と述べた。
  一九三四年に、ロンドンで海軍軍縮会議の予備会談が開かれたときに、岡田内閣は国内の世論の指導に関する声明を発した。それには、『公正なる主張も国際会議に於ては必ずしも常に容認せらるるものにあらざることは、既に満州問題に関連し国際連盟を脱退せる帝国の経験せる処なり』と述べてあつた。たとい協定が不成立に終つても、日本は何も恐れることはないとつけ加えてあつた。その翌年の一九三五年に、日本の『正当なる主張』が否認されたので、日本は国際協約によつて軍備を制限する方式を放棄するに至つた。条約が満了した後の最初の年である一九三七年に、日本の海軍戦争準備計画は明確な形をとつた。
  一九三四年十二月中に、ジヨン・サイモン卿は、軍縮予備会談における日本代表松平に対して、九国条約の締約国として、イギリスは中国に関して権利と義務をもつていることを指適し、この国の独立に関する日本の政策はこの後どうなるかということを尋ねた。満足な、または明確な回答は得られなかつた。しかし、一九三六年の国策決定と一九三七年の陸軍の五カ年計画とによつて、その立場が明らかにされた。日本は大陸にその確固とした地位を獲得し、華北の資源を『巧みに』利用することになつていた。中国における戦争は、この政策の結果であつた。

蘆溝橋事件後の満州国における産業計画

  一九三七年の後半に、日本の国策と計画の多くの面が満州に関する各種の措置の中に示された。この国の資源を開発し、重工業の建設を促進する手段がとられた。これらの手段は、概ね陸軍の五カ年計画の線に沿つたものであり、政府の統制に応ずる、より大きな産業単位をつくることを含んでいた。
  この政策は、これまた、九国条約の規定に基く西洋諸国の権利に対するいつそうの侵害を惹き起した。日本は満州国産業の発展を完全に支配していたが、この両国は互いに完全に独立しているという擬制に対して、まだある程度の敬意が払われていた。この仕組によつて、西洋諸国が抗議した条約義務の不履行に対する貢任を日本は否認し得るからであつた。
  一九三七年八月三日に、両国の政府は、両国合弁の株式会社を設立する協定を結んだ。その目的は、満州国に対する日本人の移民を助成し、この国の国土を開発することにあつた。一九三七年十月二十二日に、すなわち外務大臣廣田が企画院総裁の兼職を解かれる三日前に、満州国の新しい産業上の措置を検討するために、内閣は閣議を開いた。閣僚の中には、大蔵大臣賀屋と文部大臣木戸がいた。日本の内外の情勢は特に重工業の急速な拡張を要求していること、この成果を満州国において得るためには、新しい産業統制の手段を必要とするということについて、内閣は意見が一致した。その際に、両国の政府は協力して満州に重工業を確立し、発達させる新国策会社を創立することを決定した。代用品を原料として使用することに対して、特別の注意を払うことになつていた。満州国政府は所要資本の半額を支弁し、残額は個人によつて払込まれることになつていた。この新しい企業の経営は、これに最も適任の日本の民間人に委ねられ、この新事業の生産品は、日本において外国製品でないものとして取扱われることになつていた。
  満州国それ自身においては、財政部次長と国務院総務庁長を歴任した星野が、一九三七年七月一日に、同院の総務長官になつた。満州国の総務長官として、すべての産業がかれの支配下に置かれ、また日満経済共同委員会の満州国側の委員としてのかれの一票は、日本がすべての決定を可決させることを可能にした一票であつた。これらの大きな権力を用いて、星野は日本人にあらゆる産業を管理させ、満州の人民を企業から除外した。
  一九三七年十二月一日に、その前の月になされた協定に基いて、日本は満州国における治外法権を返還した。この措置は一九三六年六月十日の日本と満州国の間の条約においてすでに考えられていたものであるが、日本の支配下にあつた満州国政府によつて、同国における一切の外国商社をその管轄下に置くことを主張するための手段として用いられた。この行為は九国条約の『門戸開放』に関する規定によつて獲得された権利を侵害するものであつて、この行為に関して、直ちに合衆国から日本に対して抗議がなされた。

蘆溝橋事件後における戦争産業の拡充

  一九三七年十月二十五日に、企画庁が改組された。それから後は、廣田の総裁としての職務は慶止され、かれはすべての注意を自由に外交問題の処理に注ぐことができた。しかし、中国で戦争が発生した直後から、この日までの間に、日本自身の内部で各種戦争産業の拡充を促進し、日本の経済を戦時の要求に役立つものにするために、いろいろな措置がとられた。中国における戦争がそれらの措置をとることを促し、またそれらの相対的優先度を決定したことは疑いを容れないが、これらの措置は、さきに陸軍が計画した長期にわたる性格をもつものであつた。
  油と石油の供給を確保することは、何よりも緊急な必要事であつた。なぜならば、自国だけでは、日本は平時の一般需要量の一割しか供給できなかつたからである。油と油製品の貯蔵量を漸次増加させることによつて、中国における短期戦のような勃発事件のためには、すでに相当の貯えができていた。しかしすでに一九三七年の計画において、自給自足のために、陸軍は、政府の助成金によつて人造石油工業を興すことを決定していた。人造石油の生産を促進するために、新しい国策諸会社が設立されることになつていた。
  一九三七年八月に、すなわち、中国で再び敵対行為が始められた翌月に、これらの長期計画を実行に移すための法律が通過した。石炭を原料として、人達石油の生産を増進することが決定された。この産業の拡張とそれに対する金融のため、政府の指導統制のもとに、新しい国策諸会社が設立された。また認可、免税、政府助成金の制度のための規定が設けられた。
  日本は国内産の鉄の供給量も乏しかつた。従つて、鉄鋼業が不充分であつた。一九三三年から、この産業は政府の統制下に置かれ、一九三七年前の十年間に、国内生産額は三倍になつていたが、林内閣の在任中の一九三七年三月に、生産額増大を目標とする新計画が立てられた。一九三七年八月十二日に、陸軍の鉄鋼業計画を実行に移す新しい法律が通過し、国内生産額を五カ年以内に二倍にすることが企てられた。鉄鋼とその他の戦略物資の生産を奨励するために、巨額の補助金が支払われた。次第に大きくなつていた造船業になくてはならない部品を製造する実業家は、特別の奨励を受けた。
  陸軍は、一九三七年六月十日の詳細な計画で、さらに、政府がすべての鉄道、港湾、道路の完備に努力しなければならないということも定めていた。一九三七年十月一日に、日本国内の全運輸施設を拡充し、統制するものとして、巨額の資本を擁する新しい国策会社を設立するための法律が通過した。
  しかし、中日戦争のこの段階においてさえ、長期にわたる産業上の準備は、戦争努力に最も肝要な特定産業と施設に対する措置だけには限られなかつた。満州国の場合と同じように、日本自身においても、政府の統制がもつと容易に行われるように、重工業をより大きな単位に編成する陸軍の計画が実行に移された。一九三七年八月に通過した重要産業統制法は、産業群ごとに新しい連合を、すなわちカルテルを結成することを奨励し、このカルテルには広汎な自治力が与えられた。

統制経済の確立

  陸軍はその一九三七年六月十日付の詳細な予定計画においてすでにこれらのことを計画していたが、これらのことは、広汎な貿易と金融の統制措置を必要とする計画的統制的経済と相俟つて達成しなけばならないことも予見していた。この目的を達成するために必要な措置は、詳細に定められていた。それは次のような言葉で結んであつた。『本計画の成否如何は、一に懸つて帝国政府の一貫せる不動の国策的指導に在ること言を俟たず。政府は国力増強の見地より、各種産業に対し凡ゆる政策手段を以を之を支援するを要すべく、特に政府の財政的助成手段は最も肝要なり』と。戦争産業に必要な政府援助の推定額は、一九三七年の残余の数カ月間には五千七百万円であつたものが、一九四一年には三億三千八百万円に上つた。従つて、戦争の経済的と産業的の諸準備の成否に対する責任は、大部分大蔵大臣賀屋の肩にかかつていた。
  産業上の立法を最も多く生み出した月である一九三七年八月に、外貨獲得の手段として、金の生産を奨励するために、特別の措置が可決され、政府は国内にある一切の金の処分を統制する権能を得た。
  同じ月に、輸入許可の最初の措置がとられた。その翌月には、貿易尻調整のために、さらに広汎な措置が可決された。この一九三七年九月の法律は、臨時の便法として可決されながら、遂に廃止されることがなかつた。この法律によつて、輸入品の選択、分配及び利用について、政府は完全な統制権をもつこととなつた。これらの権能は、各重要産業ごとに設けられたところの、政府の統制下にある輸出入組合の手を通じて、企画院が行使した。
  この種の制限的立法は、まつたく新しいものというわけではなかつた。なぜならば、日本の輸出が輸入を償うに充分であつたことは殆んどなかつたからであり、しかもその経済生活と工業国としての地位については、日本は輸入に依存していたからである。日本の工業化計画が次第に推進されたことと、満州事変のときから外国の対日クレヂツトか事実上なくなつたこととによつて、貿易と金融を統制する措置が相次いでとられるようになつた。外国為替の管理に関する諸法律は、一九三二年と一九三三年に可決された。一九三三年三月に通過した外国為替管理法は、一切の外国為替取引を管理し、規制する広汎な権能を内閣に与えた。
  しかし、これらの権能は、一九三七年一月になつて初めて全面的に発動され、そのときから一カ月三万円をこえる金額の一切の為替取引は、政府の許可を必要とすることになつた。一九三七年十二月になると、事態が非常に悪化していたので、許可免除額は一カ月百円となつた。
  一九三七年九月十日の臨時資金調整法に基いて、日本の金融に対する全面的な権限が日本銀行に集中され、さらに大蔵大臣賀屋の、すべてに優先する自由裁量に従わなければならないことになつた。

蘆溝橋事件後の、ソビエツト連邦に対する陸軍の準備

  一九三七年に実施された徹底的な金融統制は、戦争産業の発展を奨励するために、同年中に支払われた巨額の補助金によつて引き起されたところも多少はあつたが、これらの補助金は、陸海軍の予算によつて国庫におしつけられた要求に比較すれば、少額なものであつた。平常は、両省の予算は一般会計と特別会計とから成り立つていた。しかし、一九三七年には、中国における戦争から直接生ずる経費を賄うために、第三の会計が設けられた。この『臨時軍事費』は、初めは中国における緊急事態によつて生じた臨時措置であつたが、いつまでも打切られなかつた。陸軍だけの総経費は、一九三六年の五億円強から、一九三七年の約二十七億五千万円まで増加した。
  この巨額の経費は、日本の軍事力の厖大な増強を可能にした。国際連盟の諮問委員会は、一九三七年十月六日の報告書の中で、日本はその行動を強化することを止めず、兵力をますます増加し、ますます強力な武器を用いていると認定した。陸軍の常備兵力は、一九三七年一月一日の四十五万人から、一九三八年一月一日の九十五万人に増大した。
  華北で敵対行為を起していた陸軍は、いくぶんかは東條中将の勧告に基いて、これらの行為を来るベきソビエツト連邦との闘争の序幕戦であるとまだ考えていた。中国において戦闘が激しく行われていたときに、関東軍参謀長として、東條はソビエツト連邦攻撃に備えて別の諸計画をつくつた。一九三七年十二月に、これらの計画を陸軍次官梅津中将に送達した。その翌月に、東條は梅津に関東軍兵力を増強する規則を制定してはどうかと提案し、その制定を実現した。一九三八年一月二十四日に、当時の関東軍司令官植田大将は、『緊迫せる対ソ戦』の準備に華北が寄与すべきことを陸軍大臣杉山に進言した。

中日戦争が陸軍の全国的動員計画を日本に採用させた

  一九三七年の純粋な軍事的準備よりも、さらに重要なことは、日本国民の総力を戦争のために動員しようとする、いつそう広汎な企図の実現を、どの程度まで、陸軍が達成していたかということである。中国において、あえて再び戦争を始めることにしたので、陸軍は新しい仕事を引受けてしまつたのであるが、それがどれほど大きなものであるかを陸軍は充分理解していなかつた。これによつて、日本国民のために立てた長期計画が円滑に発展することを陸軍は妨げた。しかし、他方で、戦争開始後の最初の六カ月の間に、平時には到底求められないほど、易々諾々として、政府と国民が陸軍の主要計画を探用したことを陸軍は知つた。
  計画され、組織化された戦争経済を確保するための基本的な措置は、満州国においても、日本自身においても、すでにとられていた。海軍でさえも、その軍備は着々と強化しつつあつたが、陸軍の一切を綱羅する目的の遂行について、積極的な役割を演ずるようにされていた。
  一九三七年八月、陸軍が上海を攻撃したときに、内閣の命令によつて現地に派遣された約三十隻の艦艇から成る海軍力がこれを援助した。その後、同じ月に、補給物資が中国軍の手にはいることを阻止するために、海軍は中国沿岸の封鎖を宣言した。
  一九三七年十二月、中国の領土を『共栄圈』内に入れるために、新しい措置がとられた。この月に、日本側は北京に新しい臨時の中国の政府を樹立した。これについて公表された目的の一つは、この政府が統治する地域の産業を開発することであつた。新政権を支持する目的でつくられた宣伝機関は、華北にある日本軍の統制下に置かれた。関東軍は、ソビエツト連邦との戦争に対する関東軍の準備のために、この隷属地域が貢献するであろうと期待した。

蘆溝橋事件後の国家的戦争準備に関する佐藤の演説

  佐藤少将は、一九四二年三月、陸軍軍務局長であつたときに、以上に述べてきた事態の発展を広く調査する機会をもつた。さきに言及しておいた演説で、すでに他の証拠によつて立証されている結論を彼は確証した。
  中国における戦争を再び起させた蘆溝橋事件は、生産力拡充五カ年計画の第一年度中に発生したと佐藤は指摘した。かれは次のように述べた。『私共の最も憂へたことは、事変のために軍備拡張と産業五カ年計画が崩れはせぬかということであつた。そこで、当時における私共の心構へは、支那事変をして断じて、我が国の消耗戦に終らしめざることであつた。これがため、大体において予算でいへば四割を支那事変に、六割を軍備拡充に使ひ、鉄その他の重要資材からいへば、陸軍に配当せられたものの二割を支那事変に、八割を軍備拡充に使つて来た。その結果、航空、機械化部隊等は大拡張を見、全陸軍の戦力は支那事変前の三倍以上に拡充されたのである。海軍は支那事変に消耗すること極めて少く、一意整備拡充せられたと思う。勿論軍需産業の生産力は大体からいへば七、八倍拡充された。
  これは、ある程度の権威をもつて、佐藤が語ることのできる問題であつた。なぜならば、一九三七年六月二十四日から一九三八年七月二十九日まで、かれは初めは企画庁の調査官であり、次いで企画院の事務官であつたからである。同じ期間に、支那事変総動員業務委員会の特別委員及び陸軍省軍務局の課員として働いた。一九三八年十二月に、かれは中央部職員の任務を解かれた。一九四一年三月に、帝国議会陸軍省所管事務政府委員、興亜院連絡委員会幹事、対満事務局事務官のような要職についた。右の演説を行つた当時も、かれはなおこれらの職務に就いていたのである。

内閣参議、大本営及び臨時軍事費

  上述の期間いおいて、内閣に及ぼす陸軍の勢力を増大し、その長期計画を実施するための措置がとれた。『支那事変』によつて生じた事柄に練達堪能な者を内閣の籌画に参与させるために、臨時的処置として、一九三七年十月十五日に、内閣参議が設けられた。それぞれ国務大臣の待遇を受けていた十二名の参議は、戦争のための国家動員の三つの主要な分野を代表することになつていた。実業家が軍人及び政治家とともに内閣の審議に参与し、進言することになつていた。松岡と荒木大将は、この参議制度が設けられたその日に、内閣参議に任命された。
  日本が中国との戦争に深入りするにつれ、近衛内閣の閣僚は、大本営の設置を討議し始めた。この機関は戦時または重大な事変の時だけに設置されるものであつた。当時中国で行われていたところの、宣戦を布告しない、また戦争と認められていない戦争は、大本営の設置を正当とするかどうかについて、多少の論議があつた。一九三七年十一月三日に、陸軍大臣杉山と文部大臣木戸は、当時の時局の収拾について話し合つた。一九三七年十一月十九日に、内閣はこの問題を審議した。廣田、賀屋及び木戸は当時この内閣の閣僚であつた。その翌日、大本営が設置された。
  これは陸軍省、海軍省、参謀本部及び軍令部からなる合同機関であつた。陸軍部は参謀本部で、海軍部は軍令部で別々に会合した。しかし、一週一度か二度は、宮中で全体会議が開かれた。この全体会議は作戦用兵の問題に関したものであつた。行政上の政策の問題は、内閣が内閣参議の助言を得て決定する事項であつたが、作戦の指導は大本営が担当した。
  これは機密の保持をぜひとも必要とし、内閣が関与することのできない分野であつた。大本営は天皇だけに対して責任を負い、その部員は、大本営の一員としての資格においては、陸海軍大臣の直轄のものとではなく、それぞれ参謀総長と軍令部総長の直轄のもとにあつた。
  それから後の数年間に起つた諸事件で、大本営が演じた役割の重要さを示す証拠はほとんどない。大本営は連絡統合のよく行われなかつた機構であつて、とかくその構成部分であつた陸軍部と海軍部にわかれがちであつた。しかし、この大本営の設置ということそれ自身によつて、軍部は時の内閣の承諾もなしに、また時には内閣の知りもしないうちに、重要な軍事事項を決定する権力を得た。
  しかし、それよりさらに重要であつたことは、臨時軍事費を設けることにた成功したことによつて、軍が獲得した日本の財政に対する権力であつた。この軍事費からの支出は、陸軍大臣、海軍大臣または大蔵大臣の許可に基いて行つて差支えなかつた。これから後の何年もにわたつて、このような支出は単に賀屋とその後任者の許可に基いてだけでなく、陸軍大臣の板垣、畑及び東條と海軍大臣の嶋田との許可に基いて行われた。

蘆溝橋事件後における宣伝の統制と検閲の実施

  五相会議が一九三六年八月十一日の国策決定で認めたように、かれらの計画は、究極においては、日本の『天命』を成就させようとする国民の覚悟にかかつていた。そのときに、国内政策は国策としての対外進出政策に役立つようにしなければならないこと、従つて、『国内与論を指導統一し、非常時局打開に関する国民の覚悟を鞏固ならしむ』る措置を講ずることをかれらは決定した。この決定が行われる前、一九三六年五月二十日に、陸軍は動員計画を出した。それには、開戦の際に、世論を指導統制するために必要な手段が詳細に述べられていた。各省は日本国内各地に独自の情報宣伝機関を設けることになつていた。この年に、政府各庁による宣伝の実施を統轄協調するために、情報部が設置された。
  蘆溝橋事件が起つてから二カ月後の一九三七年九月に、この情報部は内閣直属の機関として機構の改革が行われた。一九三七年九月二十五日に、陸軍次官梅津中将がこの新しい内閣情報部の一員に任命された。新しい情報部の任務は、情報宣伝に関する陸軍の動員計画を実施することにあつた。
  戦争勃発の結果として、直ちに起つたことは、当時すでに行われていた検閲の実施が一層厳しくなつたことであつた。日本政府の政策を批判するすべての者を監視していた特別高等警察は、もはや中国における戦争に反対を唱えることを許さなくなつた。このような批判を抑圧することが内務省のおもな仕事の一つとなつた。同省の管轄下にあつた正規の警察は、その政策が実施されるように注意した。内閣の政策について公然と批評がましいことを言つた者は逮捕され、訊問された。政策に反対したと認められた者は検挙され、投獄された。
  世論の統制は学校や大学で最もよく例証された。教授や学校の教員は、内閣の政策の宣伝と普及に満腔の熱意をもつて協力するように要求された。平和の理想を是とする思想の表明、あるいは戦争準備の政策への反対は、峻烈に弾圧された。
  一九三七年十月二十二日に、木戸が文部大臣になると、かれは直ちにこれらの統制手段の実施に力を尽した。国策に対して批判的であつた教員は罷免されるか、辞職を強要された。かれらはまた、しばしば検挙され、治安維持法によつて、日本帝国の政体に反対するという嫌疑で起訴された。このような弾圧手段が容易に実行されたことは、軍人、政治家及び政治評論家が、日本国民の世論を戦争へ導びくことにどれほど成功したかということを示すものである。上述の教員の免職または辞職の強制は、当時国内問題とはならなかつた。というのは、一般民衆はかれらを単なる個々の自由主義の支持者と見做していたからである。

蘆溝橋事件後において世論を戦争へ導くためになされた教育制度の利用

  蘆溝橋事件が起る前ですら、配属教官を通じて、陸軍はすでに諸学校における軍事教育や教練を監督していたが、中国で戦闘が始まると、これらの教官の支配力は、学校自身の経営を左右するほど絶対的なものとなつた。教育は政府の目的に役立たなければならないということを文部省はよく承知していた。そして、一九三七年五月に、『国体の本義』という本を教員、学生生徒、及び一般国民に普及した。
  同じ年に、日本の学校制度を検討する目的で、教育審議会が設けられた。この審議会は、内閣の変更に煩わされずに研究を続け、また日本国民の特性をどのようにして発揮させるかということを審議することになつていた。この審議会は、特に学校における軍事教育と教練を促進するために設けられたものではなかつたが、中国との戦争が起つてからは、それが任務となつた。
  学校の課程と教授法の広汎な変更についての教育審議会の勧告が実行に移されたのは、一九四〇年になつてからであつた。しかし、一九三七年には、審議会は国家を本とする奉仕ということをその根本目的として採択した。
  一九三七年十月二十二日に木戸が文部大臣に任命されると同時に、日本の学校制度の改革が実施され始めた。一九三七年から後には、教育は国民の好戦的感情を助長することを目的とした。学校の課程のうちで、純粋の軍事訓練に充てられた時間はもとより、普通の正規科目においても、皇道の精神または超国家主義が学生に注入された。日本は強い国であること、また世界に対してその特殊な性質を現はさなければならないことをかれらは教えられた。大学でも、学校でも、軍事訓練と学校の教授の双方を通じて、日本は至上であるという思想が全国民に徹底するに至るまで、軍国主義の精神が教え込まれた。戦争は光輝あるもの、生産的なもの、そして日本の将来にとつて必要なものであると説かれた。

木戸、一九三七年十一月に内閣の危機をそらす

  一九三七年の後半期において、外務大臣廣田は、自国の国民とドイツ国民の双方に向つて、中国との紛争は共産主義に対抗する闘争であると説明して、中国の征服について、ドイツの援助を得ようと努力したが、それは不成功に終つた。一九三七年十一月六日に、枢密院はイタリアを防共協定への第三の協力者として参加させる新しい条約を確認したが、中国における日本の活動に対するドイツ側の不満は、少しも減らなかつた。ドイツは中国に重要な利害関係をもち、また国民党をドイツの反ソビエツト政策の将来の提携者と考えていた。従つて、ドイツは敵対行為の存在を無視することにし、中国も日本も、宣戦を布告していなかつたという理由で、厳正中立の規則に拘束されていないものと見ることにした。
  一九三七年十一月に、近衛内閣は、中国における戦争の長びいたことから起る諸問題によつて苦しめられていた。物資や人力の莫大な消耗にもかかわらず、戦争はますます大きくなつていき、今や急速な勝利の見込みはなかつた。国家の経済に負わされた甚しい無理は、重大な財政上の困難を引き起しつつあつた。当時ブラツセルで会合中であつた九国条約会議は、諸国の間に、日本の友邦はないということを思い出させるだけであつた。一九三七年十一月三日に、陸軍大臣杉山と文部大臣木戸は、時局収拾の方法について、意見を交換した。
  日本の陸軍は、ドイツ人と同様に、来るべきソビエツト連邦に対する戦争のことばかり考えていた。中日戦争の困難があまりにも大きくなつたので、参謀本部はこの戦争を終結させるために、ドイツの干渉を求めようとした。ベルリンの大使館附陸軍武官大島少将は、この目的のために、彼の信望を利用するように訓令を受けた。
  一九三七年十一月十五日に、総理大臣近衛が内閣の総辞職を考慮していると木戸に洩らしたとき、木戸はこの処置の結果として起るかもしれない影響をいち早く見てとつた。それが財界とその他の方面に不利な影響を及ぼし、為替が崩落するであろうとかれは考えた。これは転じて中日戦争の戦局に悪い影響を及ぼすものであつた。内閣の辞職の結果は、国内の政治的事態を不安定にし、中日戦争の戦局を守勢に転ずることにもなるであろうと考えた。いずれにしても、かれが『漸く本腰となれる』ものと認めた各国の非友好的態度は、強化されるであろうと考えた。このような成行きは、ぜひとも避けなければならなかつた。
  一九三七年十一月十六日に、木戸はこれらの見解を近衛に力説し、かれがその地位に留まることを頼んだ。近衛は当分そうすることに同意した。四日の後に、大本営を設置することによつて、中日戦争の遂行について、内閣は新しい決意を示した。

廣田、中国征服を達成する内閣の決意を強化する

  しかし、一九三七年十一月のこの同じ月に、もし内閣が中日戦争を終結させることを希望していたとしたならば、その機会はあつた。日本の地位はまことに思わしくなくなつていたので、参謀本部でさえも、急速な勝利の希望を捨ててしまつたほどであつた。ドイツの不満という重圧を受け、ドイツ人仲介者を通して、外務大臣の廣田は、一九三七年十一月五日に、中国側に対する三回の和平申入れのうちの第一回の申入を行つた。このようにして、開始された交渉は、一九三七年の十二月から一九三八年の一月まで、引続いて行われた。しかし、廣田の曖昧な、変転する要求は、全然具体的協定の基礎にならなかつた。交渉が行われている間にも、日本側は中国における攻勢を懸命に続けた。
  一月になると、どのような妥協的和平に対しても、内閣は反対するという態度を強化した。一九三八年一月十一日に、『支那事変』の処理を決定するために開かれた御前会議は、もし国民党がどうしても日本の要求に屈服しないならば、これを潰滅するか、新興中央政権の傘下に合流させなければならないと決定した。
  日本の三回にわたる和平申入れの中の最後の申入に対して、日本側の提案がさらに明確に述べられるようにと要請した和協的な回答を中国側は送つた。日本側の提案は、廣田の使嗾によつて不明確な形式で提示されたものであり、かれは今や中国がイギリスと合衆国から援助を得るかもしれないことをおそれていたが、中国の回答に憤激した。一九三八年一月十四日に、ドイツ人仲介者に対して、中国は敗者であつて、速やかな回答をしなければならないとかれは述べた。日本としては、この問題が国際的の論議または仲介の対象となることを許さないと強調した。ドイツ人は、その本国の政府に報告するにあたつて、かれらの意見では、日本が率直に行動していないことを明らかにした。
  この同じ日に、すなわち一九三八年一月十四日に、近衛、廣田及び木戸の列席した閣議で、日本はもはや国民党を対手にせず、成立を期待されていた新しい中国政権だけと交渉するということが決定された。これはむなしい期待ではなかつた。なぜならぜ、一九三八年一月一日に、すでに日本は相当な儀式を行つて、南京で新しい地方政権を発足させていたからである。一九三八年一月十六日に発表された公式声明の中で、日本の内閣は中国の領土と主権との尊重を再び繰返したが、これは今や日本がつくり上げた中国政府を指すことになつた。この同じ声明は、中国にある列国の権益の尊重を約束した。
  一九三八年一月二十二日に、近衛も廣田も議会でこれらの保証を繰返した。他方で、日本政府は、一九三六年の国策決定に述べられている原則を堅持することを再び確言した。この議会に、総理大臣の近衛は、『申す迄もなく、日満支の鞏固なる提携を枢軸として東亜永遠の平和を確立し、以て世界の平和に貢献せんとするは、帝国不動の国策であります』と言つた。紛争の前途は遼遠であること、また東亜の安定勢力である日本の使命はいよいよ大きくなつたことをかれはつけ加えた。
  五日の後に、搾取と軍事的支配が真の意図であることが再び明らかにされた。一九三八年一月二十七日に、日本の後援している南京政権が中支臨時政府の中核をなすべきであることを内閣は決定した。それは『高度の連日政権』であつて、衝次英米依存から脱却することになつていた。その海空軍は、日本の国防計画に包含されることになつていた。それは現存する北支の傀儡政府と『円満相投合する』ことになつていた。
  一九三八年一月二十六日に、東京のドイツ大使は、すでに日本は中国を占領するものと確信し、本国の政府に既成事実を容認するように勧告した。ベルリンの東郷大使は、ドイツ側に対して、日本が建設中の新中国における経済への参加という好餌をつけ加えて提供した。この日から後、中国を援助することと、中国に対する日本の企図に反対することをドイツは差控えた。一九三八年二月二十日に、ヒツトラー総統は、長い間延び延びになつていた措置をとつた。すなわち、ドイツが満州国を承認することと、中国で日本が勝利を収めた方がよいというかれ自身の希望とを発表する措置をとつたのである。
  二カ月の間に、そして総理大臣は意気消沈していたにもかかわらず、木戸と廣田は、万難を排して達成することになつていたところの、『東亜大陸における鞏固なる地歩』の獲得に向つて、再び日本を乗出させることに成功した。

陸軍、予期されたソビエツト連邦との戦争に対する計画と準備を継続する

  一九三八年の初めの数カ月の間、内閣が中国の征服を遂げようという新しい決意をしていたときに、陸軍はソビエツト連邦との戦争の準備を継続していた。一九三七年十二月に、関東軍参謀長東條は、陸軍次官梅津に対して、ソビエツト連邦に対する戦争の準備として、内蒙に気象観測所を設置するための一つの計画を通告していた。一九三八年一月十二日に、梅津中将に対して、かれはこの工事を至急に完成する必要を力説した。『支那事変』とソビエツトに対する戦略との双方に関して、かれはこの工事をきわめて肝要であると考えた。同時に、かれは在満部隊軍人の服役延期の問題を梅津に提案し、決定を求めた。そこで、一九三八年一月二十九日に、梅津はその措置をとることにしたと東條に通告した。一九三八年二月十一日に、東條は梅津に対して、一九三八年、一九三九年の間に、ソビエツトに対する築城施設を実施するための関東軍の計画を送付した。
  しかし、陸軍の注意は、純粋な軍事的計画と準備だけに限られてはいなかつた。まさに中国で戦闘を開始しようとしていた関東軍の指導者は、この紛争も、日本の国内政策及び対外政策における他のいかなる部面も、差迫つたソビエツト連邦との戦いに関連して考慮すべき要因であると考えた。
  東條と梅津が詳細な軍事計画を定めていた間に、当時の関東軍司令官であつた植田大将は、一層広汎な戦略問題に注意を向けていた。一九三八年一月二十四日に、華北の住民を最もよく『緊迫せる対ソビエツト戦準備に資』せしめるために、華北を開発する方法について、かれはその意見を陸軍大臣杉山に通知した。
  満州国と華北占領諸省の経済と産業を開発するために、同じ期間中にとられた措置は、関東軍の計画と密接な関係があつた。一九三七年十二月二十日までは、満州国内の一切の重工業の発展は、大『国策』会社の第一である南満州鉄道会社によつて支配されていた。この会社は、松岡のもとで、この日から後、国内政策の実施について協力するだけでなく、ソビエツト連邦との戦争に対する軍の作戦上と、その他の諸準備についても協力し、それによつて、関東軍の戦争準備に重要な役割を引続き演じた。
  しかし、南満州鉄道会社は、華北における戦略的な事態の発展に要する経費を賄うという財政的負担の増加に応ずることができなかつた。そこで、一九三七年十二月二十日に、満州国の勅令によつて、新しい持株会社が創設された。日本政府と満州国政府の協定に従つて設立されたこの新しい『満州重工業開発株式会社』の手に、満州国内の諸産業の支配権が集中された。星野のもとにあつた満州国総務庁は、この会社を支配し、またこの会社を政府の監督のもとに置く法律の起案に協力した。この新会社は、一九三八年の初めに設立された。.
  満州国がドイツから承認された一九三八年二月から後に、満州国とドイツとの間の、いつそう緊密な関係を促進する計画を陸軍は立てた。両国の間に外交関係が樹立され、友好条約が調印された。一九三八年五月十五日に、東條は参謀本部に対して、満州国ができるだけ早く防共協定に参加すべきだという関東軍の希望を表明した。一九三八年五月二十四日に、梅津は、日本の内閣は何も異議はないが、満州国の独立という擬制を維持することを希望すると回答した。満州国政府が最初の一歩を踏み出し、あたかも自己の意思によつているかのように行動し、日本の援助を要請することが最もよいと考えられた。

中国における日本の勢力の確立と戦争産業の開発

  この間に、日本軍が征服した中国の地域では、日本の『新秩序』が建設の過程にあつた。一九三七年十二月、南京が陥落した後に、日本の支配の下にある各種の地方政府が樹立された。一九三八年三月二十八日には、満州国の型に倣つて、華中の新政府が樹立された。名目上独立の『中華民国維新政府』は、その組織大綱によつて、その治下の地域の資源を開発し、産業の発展を促進することになつていた。さらに、防共の措置はとるが、対外親善関係の維持をはかることになつていた。華北の場合と同様に、この傀儡政府を援助するために、新しい宣伝団体が組織された。
  政府発行の『東京ガゼツト』は、日本の中国に対する関係が新段階にはいつたことを布告した。これは八紘一宇の目標に向つて前進したことを示しているから、深い意義を有することである。『全世界を一家族として』という理想は、常に日本の国内政策と対外政策の根本をなしていること、それは当時採用されていた中国に対する政策を説明するものであることが宣言された。
  この記事は、近衛と廣田とが議会で行つた政策表明の趣旨に忠実に従つたものであつた。日本の第一の目的は、中国が抗日の態度を放棄するであろうということを期待して、中国を『徹底的に膺懲』することであつた。一九三八年一月に、日本の内閣は、爾後国民党を相手にしないという不退転の決意を表明し、また華北と華中の新興政府の発展に助力するということを表明した。この記事はさらに続けて、日本の現在の行動の究極の目的は、東アジアの平和と安全を脅す紛争の一切の根源を除くことであると述べた。このようにして、東アジアの諸国が、かれら自身の間で、『共存共栄の理想』を享受することができるというのであつた。
  この方法によつて、日本は軍需資源を生産し、戦争産業を拡張する新領域を獲得した。一九三八年四月八日に、日本側が出資する新会社が長江流域の鉄鋼を開発利用するために発起された。
  一九三八年四月三十日に、二つの新『国策』会社が創立され、満州国で同様な会社が行つたと同じ目的を中国で果すこととされた。すなわち、北支那開発株式会社と中支那振興株式会社とが、中国における占領地域の重工業の発展を助長するために設立されたのである。両会社の資本金は、日本政府が半額を出資した。陸軍次官梅津中将は、両会社の創立委員会の委員に任命された。近衛は、この二つの会社の仕事は、大陸における日本の軍事行動と政治的活動との双方にとつて緊要なものであると考えた。

一九三八年の廣田外交政策は一九三六年八月の五相会議決定に基いていた

  中国におけるこれらの事態は、一九三六年八月十一日の国策の基準に関する決定の目標を固執した外務大臣廣田の政策を反映していた。ソビエツト連邦との戦争が近づきつつあるという形勢に陸軍がまつたく気をとられ、ドイツを同盟国として当てにしていたときに、廣田はもつと広い、もつと慎重な見解をとつていた。大陸における進出を成就すること、それと同時に、その進出が結局はもたらすような一.切の紛争に対して、日本の準備を完成することを、かれはもつぱら目指していた。
  一九三八年五月二十九日に、廣田は外務省を去つた。しかし、その少し前に、華北の経済的開発にドイツとイタリアが参加するについての原則を定めた。第一の、また不変の目的は、日本の東亜『新秩序』の建設であつた。そして、枢軸諸国との関係も、西洋諸国との関係も、かれらに与えられた公言や誓約によつてではなく、もつぱらそのときの便宜ということに従つて決せられることになつていた。
  ベルリンの東郷大使は、ドイツ側の援助を懇請するように訓令された。東亜における日本の特殊な地位をドイツが認めることに対する代償として、日本はドイツを他の諸国の占めていた地位に劣らない地位に置くように努力しようとかれは提案することになつていた。できるならば、他の諸国の事業よりも、ドイツ側の事業に優先権を与えることになつていた。原則として、ドイツと日本とは、中国の市場において、同等の地位を占めることになつていた。――但し、ある点では、中国の通貨制度の維持に対して実際に責任をもつ国として、日本が特殊な地位に立つことはあるかもしれなかつた。それでも、輸出入管理制度を設ける場合には、他のどの第三国の利益よりも、ドイツの利益にもちろん優先権を与えることになつていた。
  従つて、廣田には、西洋諸国の条約上の権利を尊重する意思はなく、またそれを保護するという自分の保証を実行する意思もなかつた。しかし、用意周到に、かれの部下に対して、ドイツやイタリアに与えた優先的取扱いによつて、イギリスと合衆国が将来中国の経済発展に参加することがまつたくできなくなるおそれがあるならば、ドイツとイタリアには、日本が占めると同等な優先的地位はもとよりのこと、これより劣る優先的地位であつても、それを認めてはならないと警告した。従つて、ドイツの参加について定められた方式は、日本自身にとつて最も有利なものに事実上限られていた――すなわち、特定の事業の経営に参加することにして、資本を供給し、または信用貸しで機械類を供給することであつた。

蘆溝橋事件後における日本と西洋諸国の関係の悪化

  この偽満政策にもかかわらず、外務大臣廣田は、西洋諸国との親善関係の維持という第二の目的を達成しなかつた。一九三七年の後半において、日本の政治家は、日本は中国領土にどのような野心も持つていないと否定し続けた。外国人と外国財産は保護され、外国の条約上の権利は維持されると内閣は繰返し保証を与えた。しかし、これらの公言と、アジア大陸における日本の活動の性格とには、あまりに大きい食違いがあつたので、日本と欧米諸国との間の不和は目立つて大きくなつていつた。
  しかし、それでも、西洋諸国の疑惑と憤懣を和らげ、また日本と枢軸国との提携の意義を小さく見せようとする努力が払われた。一九三七年十二月に、『東京ガゼツト』において、防共協定はどの特定の国家も対象とするのではないと公言された。この協定が曲解されていて、不当な非難を受けていると内閣は不満を漏らした。
  この期間に、中国における日本陸軍部隊の行動は、日本と西洋との疎隔を大きくするのに役立つばかりであつた。抗議を頻繁に行われ、保証も繰返し与えられたにかかわらず、中国にあるイギリスとアメリカの市民と財産に対する攻撃は続けられた。陸軍が西洋諸国との友好関係を殆んど尊重しなかつたので、一九三七年十二月には、イギリスとアメリカの海軍に対して、理由のない攻撃が加えられたほどである。揚子江上にあつた一隻の合衆国の砲艦が砲撃され、沈没した。イギリスの砲艦にも、またイギリスの商船にも、攻撃が加えられた。これらの挑発行為は、南京付近にはいつてくる一切の艦船に対して、その国籍にかかわらず、攻撃を加えよという明確な命令に従つて、現地の軍の指揮官、特に橋本大佐によつて行われた。
  近衛も廣田も、一九三八年一月二十二日の議会における施政方針演説で、日本の西洋諸国との友好関係を増進する希望を再び強調した。中国にある西洋諸国の権益は、最大限度まで尊重するという明確な保証を廣田は重ねて与えた。ところが、一九三八年の最初の六カ月の間を通じて、東京の合衆国大使が廣田に引続き抗議を申入れたにかかわらず、日本陸軍の諸部隊は、中国にあるアメリカ権益をたびたび理由もなく侵害した。
  この敵意の表明によつて、日本は甚しく不利を蒙つた。なぜならば、一九三八年六月十一日に、日本向けの航空機とその他の武器の輸出に対して、合衆国が道德上の輸出禁止を課したからである。
  廣田は軍部指導者よりも抜け目がなかつた。かれは日本の戦争準備の期間中における西洋諸国の援助の価値を知つていた。従つて、友好精神の虚偽の保証と虚偽の表明によつて、かれはこの援助を獲ようと努力してきた。しかし、同時に、日本は太平洋における戦争の準備を整えつつあつた。そして、日本の戦争準備の右の部面を促進することについて、廣田は顕著な役割を果しつつあつた。

一九三八年における海軍の準備と委任統治諸島内の準備

  外務省と海軍省が保つていた秘密の蔭に隱れて、一九三八年を通じて、南洋委任統治諸島を要塞化し、これを航空と海軍の基地として施設することによつて、日本は太平洋における戦争の準備を続けた。一九三七年までは、これらの準備は、ほとんどマリアナ群島と西カロリン諸島だけに限られていた。しかし、この年に、海軍の監督のもとに、構築作業は太平洋を東の方に横切り、トラツク環礁にまで及ぼされた。一九三八年には、マーシヤル群島で工事が始まつた。この群島は、中部太平洋のうちにあり、西洋諸国との戦争で日本の最前進基地となつた。この時から、マーシヤル群島で飛行場を建設し、これに防禦工事を施す仕事は、相当緊急を要するものとして推進された。秘密のうちに、しかも条約上の義務に違反して、広く散在する委任統治諸島の全地域にわたつて、今や進行しつつあつたこの工事は、西洋諸国の一部または全部に対して行われる太平洋上の戦争の準備ということ以外の目的とは、両立しないものであつた。
  海軍軍縮のための国際協定から日本が脱退したことにかんがみ、一九三六年に、合衆国は大規模な建艦計画に着手した。一九三八年には、その前の年に始められた大計画を日本はそのまま続けていたのではあるが、その建艦率は、間もなく合衆国の建艦率に追い越されてしまつた。一九三九年より後は、アメリカの建艦量は日本よりも相当に大きかつた。
  この海軍軍備拡張の競争は、アメリカが好んでしたものではなかつた。一九三五年のロンドン海軍会議の合衆国代表は、協定不成立の結果はこのようなことになるであろうと日本側に警告していた。一九三六年に、合衆国、イギリス、フランス及びイタリアの間に調印された新しい条約は、日本の参加の途を残しておいた。しかし、一九三七年に、太平洋において日本に海軍力の優位を与えない限り、どのような条件に対しても、日本は同意することを重ねて拒絶した。一九三八年二月に、近衛内閣は、競争的な海軍軍備拡張を防止しようとするアメリカの最後の招請に応じることを拒んだ。

廣田、海軍情報の交換を拒否する

  日本が参加しなかつた一九三六年の条約の結果の一つは、主力艦と巡洋艦に許される最大限の排水量を決定し、それに装備し得る砲の口径を制限したワシントン条約の規定を更新したことであつた。しかし、この規定は、非加盟国の無制限な建艦に対抗して、エスカレーシヨンの権利を条件としたものである。一九三七年十一月四日に、口径十八インチ砲を搭載するために設計された六万四千トンの主力艦『大和』の龍骨を日本は据えた。
  一九三八年二月には、日本が一九三六年の条約の制限を超えて建艦しているという噂が続いたので、合衆国に憂慮を与えていた。そこで、この件について、合衆国は日本の注意を喚起し、日本が同条約の制限を遵守しているという満足な証拠がなければ、合衆国は条約によつて与えられたエスカレーシヨンの権利を行使すると言つた。しかし、一九三六年に他の海軍国の定めた制限を超えることを日本があえて選ぶならば、日本の建艦計画に関する情報を受領した上で、合衆国には、自国と日本との間に、新たな制限について協議する用意があるというのであつた。
  この提議は、交渉することも、情報を与えることもしないという真つ向うからの拒絶に会つた。一九三八年二月十二日に、外務大臣廣田は政府の回答を行つた。日本は他国を脅威するような軍備を所有する意図をもつていないとかれは言つた。日本政府は、情報についてのアメリカの要請に応ずることはできないが、日本が一九三六年の条約に規定された制限を超えて建艦計画を企図していると、なぜ合衆国が結論するのか、その理由がわからないというのであつた。この通告が行われてから二週間以内に、日本では第二の六万四千トンの主力艦の龍骨が据えられた。

廣田政策は基本国策決定の言葉の中に示されてる

  外務大臣としての廣田の政策は、合衆国とのこの折衝において明白に示された。一九三六年八月十一日の国策決定は、日本が『米英にも備へ』なければならないこと、海軍軍備は、合衆国海軍に対して、西太平洋の制海権を確保することができる程度まで整備充実することを定めていた。廣田は総理大臣としてこの決定に参加したのであるが、かれはこの決定に終始忠実であつた。中国における日本の目的に関してと同様に、日本の建艦計画に関しても、かれは自己の目的を達成するために欺瞞に訴えることを躊躇しなかつた。友好的外交関係の蔭に隠れて、日本の戦争準備を完成するのがかれの政策の基本的原則であつた。
  廣田の外交政策の個々のおもな特徴は、陸海軍によつて起草された国策の基準に関する決定の中に見られる。その中で、日本は満州国におけるその地位を固めると同時に、日本の国力の充実を期さなければならないということが述べられている。日本は大陸から『列強の覇道政策』を排除し、『共存共栄主義』に基いて、日本みずからその秩序を確立することが日本の目的ということになつていた。しかも、日本は『根本国策の円満なる遂行につとめ』、『列国との友好関係に留意す』ることになつていた。
  わけても、『外交、国防相俟つて東亜大陸における帝国の地歩を確保するとともに、南方海洋に進出発展する』という根本の目的に、廣田は忠実であつた。総理大臣近衛の、中国の征服を完成する決意が動揺したときに、廣田はこの不変の目標を追求するように内閣の結束を固めた。

日本の占領地の経済的支配と開発

  一九三八年一月は陸軍の長期の経済と産業の計画が復活した月である。なぜならば、この月に、一九三八年度に限定された産業拡充と経済統制の新計画を企画院はつくり、閣議の承認を得たからである。
  内閣企画庁は、一九三七年十月に改造された後⦅このときに企画院と改称された⦆、陸軍と緊密な関係を保つた。一九三七年十一月二十六日に、陸軍次官梅津中将は企画院の参与に任命され、当時軍務局の課員であつた佐藤中佐はその事務官になつた。企画院の一九三八年度の計画は、戦争産業の拡充と重要物資の需給規制に関するものであつた。
  一九三八年一月に、他の戦争への準備を続けながら、中国の征服を完成する近衛内閣の新たな決意は、大蔵大臣賀屋に新しい負担を加えた。労働力と物資についての陸軍の要求は、日本の産業の生産物と、それを生産する人員とを吸収した。戦争と戦争産業の拡充とに要する支出は、急速に増加しつつあつた。その結果として、必要を輸入品の支払いをするために外国為替を獲得するについて、日本は非常な困難を感じていた。
  満州国と中国の占領地域における天然資源の確保と開発が捗れば、他国からの輸入に依存するのをある程度まで軽減することに役立つであろう。合成工業を拡充することは、その第二の部分的な解決法であつた。しかし、その反面で、これらの計画は支出の増加を必要とし、その拡充の期間中、輸入依存を続けることを必要とした。一九三八年一月十八日に閣議で採択された企画院の計画は、この年度の輸入割当を徹底的に削減した。この削減は、平常の国内供給だけでなく、戦争準備になくてはならないものと考えられていた物資の輸入までも削減することを必要とした。そこで、経済的と財政的の統制について、新しい施策が必要とされた。
  内閣の採用した解決策は、日本の開発していた領土の被征服住民を犠牲にして、日本国民の財政的負担を軽減するように立案されていた。これは何も新しいことではなかつた。台湾銀行と朝鮮銀行がそれぞれ台湾と朝鮮で事業を営む商社の大多数を所有することによつて、また政治的な支配力によつて、日本は台湾と朝鮮の経済を長い間支配してきたのである。同様の方法は、満州国でも用いられた。産業開発の資金を得るために、一九三六年十二月に設立された満州興業銀行は、その払込資本の十五倍まで社債を発行することを許可されていた。日本によつて管理されるこの銀行によつて与えられた便宜は、満州国の戦争産業の開発に対する融資を容易にした。
  いま、近衛内閣は、中国でも同様な開発を計画した。一九三八年二月に、満州銀行と同じ方式に基いて、『中国連合準備銀行』が設立された。この新しい銀行の総裁と副総裁は、日本政府によつて任命され、その幹部は主として日本人であつた。この銀行の活動範囲は華北であり、その地域内では、この銀行の発行した通貨だけが法定通貨であつた。中国連合準備銀行は、通貨制度の安定と金融市場の統制とをはかるためにつくられたのである。優先的クレヂツトの供与や外国為替の操作のような方策によつて、この銀行は華北の経済的と産業的の開発を大いに促進し、日本政府の同地域における産業計画を実施するための機関となつた。
  これらの産業計画は、すでに実施されつつあつた。そして、日本側が進めていた新しい戦争産業は、華北の経済に対する日本の支配を確立するために、それ自身重要であつた。満州国においては、産業上の支配は、特別法によつて設置された『国策会社』という方策によつて達成された。いま、一九三八年の上半期において、それと同じ方策によつて、中国の占領地域の産業の支配を日本は徐々に獲得していたのである。
  中国連合準備銀行は、一九三八年三月に、営業を開始した。同じ月に、一九三五年十一月以来日本と満州国を含んでいた『円ブロツク』が拡大されて、華北を含むことになつた。この手段によつて、日本の投資と中国産業の開発との途が開かれたのである。
  日本の通貨の価値を維持するために、占領地域で日本銀行券を使用するという慣行が中止された。中国連合準備銀行は華北に新しい通貨を与えたが、華中と華南では、無価値な軍票だけが法定通貨として許された。このようにして、日本は大陸の資源を掌中に収めながら、日本がすでに占領していた領土の住民を犠牲にして、自己の戦争経済を支えたのである。一九三八年九月までには、正貨の裏づけのある日本銀行券を使用するという慣行は、日本の支配下にあつた大陸のすべての地域において中止された。
  このようにして、大蔵大臣賀屋の日本経済に対する支配も固められた。一九三七年九月以来、日本銀行を通じて、かれは日本の財政に対して完全な支配を行つた。この銀行の資金は、アジア大陸における日本の冒険的な諸活動に対して、もはや無統制に浪費されるものではなくなつた。このような保護のもとに、これらの資金は、日本政府の補助金と統制によつて、日本自身の戦争産業を拡充するために、一九三八年の最初の四カ月間に講ぜられた新しい施策を支持するのに用いられた。

産業上の準備――人造石油と石油工業

  近衛内閣は、その財政難にもかかわらず、日本の戦争物資の自給自足を確保する覚悟であつた。そうするために、どんな犠牲が生じようとも、その覚悟であつた。企画院の一九三八年度の中間計画は、物資動員計画を含んでいた。また、この年の最初の四カ月に、日本内地の戦争産業を助長し、拡充するために、新しい措置が講じられた。このような新しい措置の一つ一つは、産業の拡充に対する政府の統制を強める效果をもつていた。そして、それぞれそれらに対応するものが一九三七年の陸軍の五カ年計画のうちにあつた。いずれの場合にも、財政上の増大した負担を引受けることによつて、陸軍が戦争準備に不可決のものと指定した諸産業を政府は、急速に拡充しようと企てた。
  最初にとられた措置は、一九三七年の後半期に始められた人造石油工業の保護と開発を目的としたものであつた。陸軍の五カ年計画で、日本が輪入に依存する程度を軽減することができるように、陸軍はこの産業のために徹底的な助成金政策を実施することを決定していた。一つの特殊会社がこの新産業に必要な機械の製造を確保することになり、その間に、工業設備がドイツから輸入されることになつた。デイーゼル油と航空用ガンリンの生産に大きな重点が置かれた。人造石油産業の拡充には、満州国の石炭資源が利用されることになつた。代用燃料の発見を奨励し、隠れた新しい資源を国内で試掘することになつた。資金の充分な供給を確保し、この非経済的な未発達の産業の発展を促進するために、新しい会社が設立されることになつた。
  中日戦争が発した後に、直ちにこれらの計画は実行に移された。そして、一九三八年一月に、人造石油の生産を統制し、政府の融資を可能にする手段を設けるために、大資本を擁する新しい会社が法律によつて創設された。それはちようど陸軍が計画していた通りの会社であつた。
  一九三八年三月に、すべての埋蔵鉱物資源の開発を促進することを目的とした法律に基いて、政府は試掘を統制し、助成金によつてこれを奨励し、さらに政府自身の責任で試掘業を起すことさえできる権力を撮つた。
  同じ月に、企画院の進言に基いて、民間の使用に廻される石油の量を制限するための配給制度が採用され、続いて、代用燃料の生産を奨励するために、新しい国策会社が創立された。油と石油の保有量に大いに重点が置かれたので、政府はこの新会社を通じて、より効率の少い代用燃料の生産と使用に関する実験に助成金を与えたほどであつた。
  一九三八年の輸入量は一九三七年のそれより少かつたけれども、また中国における戦争の要求があつたにもかかわらず、一九三八年の日本の油と石油の保有量は増加の一途を辿つていた。

その他の産業上の戦争準備

  一九三八年三月と四月は、産業開係の法令の制定の月であつた。これらの法令を通じて、陸軍の計画は実現された。国家の支持に依存し、内閣の統制に服した新しい産業階層は、日本の政治組織の確立の特色となつた。各産業を究極的には閣僚のうちの誰かの統制のもとに置くことによつて、戦争のための国家動員の指導について、内閣はさらに大きな責任をとるようになつた。
  電力事業は最初に影響を受けたものの一つであつた。他の戦争産業の発展は電気事業の拡充発展に依存していたので、この事業は日本の戦争準備にとつてきわめて重要なものであつた。従つて、陸軍はその一九三七年計画の中に特に電力事業を取入れていた。また、その満州国工業化の計画でも、これに特別な優先的地位を与えていた。陸軍は新しい国策会社を設け、この会社が政府の監督のもとに日本における電力の生産を統制し、軍の要求を充たすに必要な方法で、その拡充を促進することを考えていた。この計画は、一九三八年三月の電力統制法によつて、実行に移された。
  電力の生産と供給は、この時までは多数の企業によつて経営されていたが、この新しい法律によつて、すべての主要な会社は、それぞれの発電施設の管理を一つの新設国策会社に移さねばならなかつた。この新会社は政府の直接管理下に置かれ、免税、補金及び政府保証という通例の特権をすべて与えられた。
  一九三八年三月には、さらに、陸軍が戦争資材の中で最も重要なものとしていた航空機の生産を指導し、奨励するための法律が通過した。この新しい法律によつて、一部の航空機生産工場は政府の直接支配下に置かれ、すべての工場は国家の許可を受けることが必要となつた。この工業の金融難を緩和し、それによつて、その急速な拡充を確保するために、いつもの措置がとられた。
  しかし、航空機工業の拡充は、これまたアルミニウムの供給の増加に依存していた。というのは、日本の航空機とその部分品の七割以上がこの金属によつてつくられていたからである。従つて、一九三七年の五カ年計画は、軽金属工業の拡充に重点を置いた。これらの工業は、電力を安く供給し、それらの製品に対する一般的需要の範囲を拡大することによつて、奨励されることになつていた。これらの新工業は、戦時には、直ちに航空機とその部分品との生産に転換されることのできるようになつていた。
  一九三二年までは、日本には、アルミニウム工業が全然なかつた。しかし、一九三六年には、その生産はすでに相当な額に達し、その翌年には倍加していた。一九三八年四月二十八日には、新しい軽金属製造事業法が『国防調整に』貢献するという公表された目的で通過した。これは今ではよく知られている免税、輸入税免除、補助金及び保証の制度を制定したものであつた。この産業に従事するものは、すべて許可を受けなければならなかつた。政府は生産技術も、生産される物品の選定も統制することになつていた。このようにして、戦時転換という目標が考慮に入れられていた。
  一九三八年三月中に、非常に重要な、もう一つの法律が制定された。これについては、石油産業に関連して、すでに述べておいた。同月に制定された重要鉱物増産法は、ほとんどすべての鉱業運営を政府の直接の統制の下に置いた。収用という威嚇のもとに生産が要求され、非経済的な事業の開発から生じた損失には補助金が与えられた。鉄、鋼、石炭、石油及び軽金属工業に影響を与えたこの法律は、限界線以下にあつた多数の生産者を業界に進出させ、非常な政府の支出を生じさせた。経済的危機の時期にありながら、日本がこのような施策に乗り出したということは、日本の戦争準備の達成のためには、内閣が他のすべての考慮を犠牲にする覚悟であつたことを示す最も明白な証拠を提供するものである。

陸軍、国家総動員法を準備

  この大量の新しい法律は、政治的事件を伴わないで制定されたものではなかつた。一九三八年二月に、中国を屈服し、さらに他の戦争のために日本の準備を完成させる決意を強化した近衛内閣は、立法府で新たな反対に直面した。議会のある一派は、内閣を強制的に辞職させることを要求していた。いま一つの派は、内閣の産業立法の計画に対する反対を電力法案に集中した。この一派は企業家自身の支持を受けていた。これらの企業家は、日本が長い間戦争をしてはいないだろうと信じ、非経済的な産業拡張について、内閣が計画している諸方策は、結局かれらの損失を招くものではないかと心配していた。議会内の第三の一派は、陸軍の計画の遂行にあたつて、内閣に熱意がないと非難していた。
  かような状態のもとで、戦争のための動員の全計画は危険に陥つた。莫大な量の物資が費消されていたし、これを直ちに補給する見込みは全然なかつた。ちようどこの時期において、ソビエツト連邦と早く戦争をするために、陸軍はその計画を定め、軍事的準備を完了しようとしていた。陸軍の首脳者は、戦争は長期にわたるであろうということをよく知つており、中国における戦闘が続行されている間にも、戦争資材の貯蔵量をさらに蓄積しなければならないという決意を頑として動かさなかつた。
  廣田内閣が就任してから二年近くの間に、戦争のための国家的動員について、陸軍はそのすべての面を計画し、促進していた。同じ期間を通じて陸軍次官の職にあつた梅津中将は、今や戦争産業の拡張と編制のための陸軍の計画の進捗について、以前よりももつと緊密に関係するようになつた。かれはその職に伴う職務を他に数多く兼任していたが、その上に、一九三七年十一月二十六日に企画院の参与となつた。同院の事務官佐藤中佐は、陸軍省軍務局の課員であつた。
  陸軍がそのときつくつた計画は、その前の二カ年の画策と成果のすべてを反映していた。梅津が陸軍次官になつて間もなく、一九三六年五月二十日に、陸軍省整備局は戦時における情報と宣伝を統制するための計画をつくつた。そして、一九三八年の初期には、この局はさらに新しい案を立て、戦争のための国家動員に関するあらゆる面を遂行するに必要な権力を包括的に内閣に与えようとした。この陸軍の案は、『国家総動員法』草案という形式になつていた。この案が法律になれば、議会は内閣を支配するどのような権限も放棄することになるのであつた。この法律によると、内閣は勅令によつて立法をすることになるのであつた。一度制定されれば、この新しい法律の諸規定は、内閣の欲するいかなる時期にでも、発動させることができた。
  総動員法は、陸軍の軍事的準備の成功のためばかりでなく、企業家が協力するように充分な奨励を受け、結局において蒙る損失に対して補償を与えられるためにも必要であつた。これらの考慮の一つーつが佐藤にはよくわかつていた。

一九三八年二月の政治危機と動員法の制定

  議会で起つた事態は、一九三七年一月に、林が総理大臣として廣田の後を継いだときに生じた事態とよく似ていた。どちらの場合にも、陸軍の企画に従つて、内閣は産業の拡充と統制に関する大規模の措置を実行に移すことにあたつた。どちらの場合にも、この目的の達成に必要な法律は、議会で強硬な反封を受けた。どちらの場合にも、陸軍を支持する者は、企図された変更がまだ充分徹底的なものでないと考え、政党と既存の議会制度とに攻撃を集中した。
  政党に対するこの不満は、新しいものではなかつた。これは、軍が最高の地位を占めなければならないと唱えていた者が、かれらの計画に反対されるたびに、表明してきた立場であつた。すでに一九三一年三月に、橋本は、当時陸軍の忿懣を買つていた議会はこれを撲滅しなければならないという信念を述べた。一九三二年一月に、政党制度を『明朗な新日本建設のために』打倒しなければならない危険な非国民的機構であるとかれは称し、政党の即時解消を唱道した。一九三六年十二月、政友会が廣田内閣の最初の産業動員措置を非難したときに、これと同様の意見が軍部側から表明された。いま、一九三八年二月には、近衛は、かれの内閣に反対であるという点だけで一致している議会と対立し、一九三七年一月に廣田内閣が崩壊したときと同じ危険にさらされていた。
  この板ばさみに遇つて、内閣は陸軍の案を採用した。一九三八年二月二十四日に、総理大臣近衛は、国家総動員法案を制定するために、これを議会に提出し、それを支持するために演説をするように、佐藤を指名した。このために、困難な、また微妙な立場に置かれたということを佐藤はみずから説明している。同法案が可決されるか、否決されるかということに、企業家の好意がかかつていた。この企業家の援助がなければ、国家動員計画はとうてい達成できないのであつた。この法案を擁護する任務を与えられることを佐藤は、熱心に希望した。議会に出席していた者のうちで、この法案の意味を説明することができるのは、かれ一人であつた。その際行われた説明のうちで、自分の説明が最も力あるものであつたとかれは心から思つた。その結果として、議会内の反対は押し切られ、この法案は法律となつた。
  近衛は、陸軍の案を自分のものとして採用することによつて、かれを陸軍の方策遂行に充分な努力を欠いていると非難していた一派の批判を沈黙させた。内閣の立場は強化され、産業計画の承認が保証された。陸軍は企業家の支援を得、戦争のための全国的動員の進捗に対する新しい脅威を取除いた。
  その上に、日本における完全な政治的制覇の達成に、陸軍はさらに一歩を進めた。軍部の熱望を達成する上に、潜在的な危険であると軍部が常に認めていた議会は、今や束縛されてしまつた。この法律を通過させることによつて、戦争と戦争準備に関連した内閣の諸案に対する支配力を、立法府はこのようにして自分から剥奪してしまつた。このとき以来、議会にはからずに、内閣はこの新しい法律が付与した広汎な立法権と行政権を行使することができるようになつた。

国家総動員法と国策の基準の決定との関係

  一九三八年五月五日に、勅令によつて効力を発した国家総動員法は、各国における戦時緊急法令の型に倣つたものであつた。これは表向きは単に中国における戦争の遂行を促進するために企てられたものであつたが、経済的と産業的の拡充のための一設計画を促進させるにあたつて、内閣のとる措置に法律上の承認を与えることに完全に利用された。
  この法律は、どのような種類の製品、原料、事業にも及ぶように、適用範囲を拡げられることができた。物資を徴発し、産業と会社を統制するために、事実上無限の権能をそれは内閣に与えた。その規定によると、政府は土地や建築物を徴発し、補助金や補償金の支払いを許可し、安定策を施行し、情報の公表を阻止し、日本国民の職業に関する訓練と教育を指導することができた。わけても、政府は国家の労働力を管理し、徴用することができた。この法律が制定された当時、近衛内閣には、外務大臣として廣田、大蔵大臣として賀屋、文部大臣兼厚生大臣として木戸が列していた。
  総動員法の規定は、日本の戦争準備の多面性と総活性を顕著に示すものである。それは単に軍事的または経済的な準備だけの問題ではなかつた。戦争能力を最大限度に発揮させるために、国民生活のすべての面が命令され、統制されるのであつた。日本の全国力は、この唯一の目標に向つて集中され、増強されるのであつた。国家総動員法はこの目標に達するための手段を与えたのである。
  この措置は、一九三六年八月十一日に決定された国策の基準に似たものであつた。その当時決定されたのは、日本の国内政策は基準計画に従つて立てられるということであつた。五相会議の承認した言葉で言えば、それは『わが国家の基礎を内外共に強化する』ことであつた。そのために、国民の生活を保護し、国民の体力を増強し、国民の思想を指導するような措置がとられることになつた。対外進出と領土拡張の計画によつて疑いもなく促進されるところの、『非常時局打開に関する』国民の覚悟を鞏固にすることになつた。

陸軍、動員法の目的を説明

  一九三八年五月十九日に、すなわち、国家総動員法が実施されてから二週間の後に、陸軍はこの法律の目的について註釈を日本の新聞に発表した。内容の全部はまだ発表することはできないが、国防に対する動員法の関係を大衆が理解できるように、この法全体の精神と本質とを解釈しようとするものであると説明されていた。それによれば、日本は国土が狭く、天然資源に乏しい。日本は中国で蒋介石大元帥の頑強な抵抗を受けているばかりでなく、北方では完全に動員され、また侵略を決意しているソビエツトの陸軍と相対している。その上に日本は合衆国とイギリスとの強力な海軍によつて包囲されている。このような理由によつて、日本の国防計画には、大きな国難が伴つている。というのは、日本の国防は今やその基地を自国の沿岸ばかりでなく、満州国、華北及び華中の国境にも置いているからである。
  日本の国民は、これらの国境線を保持するためには、長期にわたつて固い決心と真剣な努力とが必要であると警告された。物的と人的のあらゆる資源を最大限に動員するのでなければ充分でない。軍事上の成功は、主として『綜合国力』の組織的な、有效な動員に依存する。国家総動員法は、実に以上の目的を達しようとして計画されたものである。
  説明の残りの部分は、『綜合国力』の実現は何を必要とするかということを日本国民に知らせるために費やされた。第一の要素は精神力である。なぜならば、国民自身が戦力の源だからというのである。教育施設や宣伝機関を統一された運動に動員し、それによつて、国民の闘志を盛んにするために、できる限りの努力をするのであり、このように闘志を盛んにすることによつて、国民はどのような艱難辛苦にも耐えることができるようにするというのであつた。
  労働力の需給を調整するために、人力の動員が行われるというのであつた。それは青年が召集されたので、かれらの工場における職場を補充されるようにであつた。戦時経済へのこの移行は、職業訓練と労力管理に対する政府の計画を必要とするのであつた。
  人力以外の、物的資源の動員に関する諸計画は、事態の展開を正確に予測していた。その初期の進展は、すでに述べて置いた。まだ時間の余裕がある間に、陸海軍用の莫大な量の資材を海外から入手することになつていた。国内における軍需資材の生産は、平和産業を犠牲にして増大されることになつていた。従つて、輸出入とともに、あらゆる生産企業は政府管理のもとに統一されることになつていた。
  政府はまたあらゆる金融上の信用を統制することになつていた。政府はあらゆる輸送機関を統一し、拡充することになつていた。能率が上るように、政府は科学を動員することになつていた。日本において士気の昂揚をはかり、世論を統一すると同時に、諸外国における対日世論を有利に導くために、国内及び外国における情報の蒐集と宣伝の弘布について、政府が責任を負うことになつた。
  総動員の種々の必要に備えるために、政府はさらに、長期にわたる柔軟性のある計画を用意することとなつた。それによつて、陸海軍は軍需品を常に充分供給されるようにした。民間の企業は、樹立された計画に従わなければならなかつた。統制は議会に付議されることなく、便宜上勅令で実施されることになつた。国家総動員審議会や種々の半官的機関が、動員法実施のために、創設されることになつた。これらの機関といくつかの自治機関は、内閣政策の樹立と実施について、政府を援助することになつた。

陸軍は今や日本を戦争のための国家総動員のもとにおくことに成功した

  いま終りになろうとしている期間において、陸軍はみずから日本の運命の支配者となつていた。そして、陸軍の煽動によつて、国民は軍事力拡充による勢力拡張計画に乗り出したのであつた。
  外務大臣廣田がさきに総理大臣として在任していたときに、陸軍の諸計画が国策として初めて立てられたのであるが、かれは一九三八年五月の末に内閣を去つた。そのときに、廣田の仕事に対して、長い間補足的な役割を果していた梅津中将も、その職を辞した。一九三六年三月二十三日に、梅津は陸軍次官になつたのであるが、それは廣田が総理大臣であつたときで、国策の基準を決定した重要な五相会議以前のことである。林と近衛が総理大臣であつた期間、かれはその地位に就いていた。
  廣田と梅津は、近衛内閣とそれ以前の諸内閣との間で、最も重要な鎖をなしていた。というのは、陸軍の計画が着々と発展し、達成されたという点で注目すべき期間において、どちらも重要な地位を占めていたからである。陸軍の詳細な計画は、次ぎ次ぎに容認され、遂には日本国内のすべての反対が除かれてしまつた。
  日本の陸海軍は、絶え間なく拡張されていた。日本の増大する軍事力は、依然として中国の征服に使用されていた。一九三八年五月十九日に、華中の日本軍は徐州を攻略し、これによつて、すでに日本の支配下に置かれていた地域の中にあつたところの、中国側の抗戦の孤立地区が除かれた。徐州の戦いは決定的なものではなかつたが、中国におけるすべての抵抗を粉砕するという、延び延びになつていた日本の希望に刺激を与えた。
  その間に、満州国にある関東軍は、参謀本部と協力して、ソビエツト連邦との戦争に対する準備をしていた。日本国内では、新しい艦隊が建造中であつた。委任統治諸島においては、太平洋における戦争の準備として、海軍基地の建設が行われていた。
  経済上と産業上の自給自足という目標の違成のために、大々的な努力が払われた。この自給自足によつてのみ、陸軍が計画していた戦争の負担に、日本は堪えることができるのであつた。日本国内、満州国、華北と華中の被征服地域において、重要原料の新しい資源の開発と、新しい戦争産業の建設が行われていた。内閣は日本の全国力を戦争に動員するために必要な法的権限をすでに自己の手に入れていた。組織化と宜伝とによつて、日本の国民は、国家の運命と陸軍が提唱していた勢力拡張計画とを同じものと考えるようにさせられていた。

一九三八年五月の満州国の長期産業計画

  陸軍の五カ年計画を達成するためには、日本が占領していた大陸地域の天然資源と潜在的産業力を最大限度に利用しなければならなかつた。華北と華中においては、このような開発の基礎はすでに築かれつつあつた。しかし、これらの地域から、日本は実質的な貢献を受けることはまだ期待できなかつた。
  満州国の状態は、それとは異つていた。というのは、一九三七年二月に、満州国政府は産業拡充の第二次五カ年計画に着手していたからである。この計画は、日本陸軍の一九三七年度の経済的と産業的の企画の不可欠の一部を成していたが、星野はこの計画の作成と実行とに参加していた。
  中日戦争を再発させた蘆溝橋事件の後においてさえ、計画の目標を維持するためには、どのような努力も惜しまれなかつた。一九三七年十一月に、近衛内閣は、満州国の重工業を振興させることは、日本の目的にとつてどうしても必要であると決定していた。そして、内閣の決定を実施するために、満州重工業株式会社という新しい国策会社が設立された。
  一九三八年五月には、日本に支配されていた満州国政府は、さらにいつそう広汎な戦争産業拡充の計画を作成した。その際、この新計画を達成するために、満州重工業株式会社を利用することが決定された。満州国の総務長官としての星野の発言は、一九三七年十一月の近衛内閣の決定の結果としてできたこの新しい計画の発足に、決定的な力をもつていた。
  この新計画は、日本と満州国の間にいつそう緊密を連繋をつくり上げることに、大きな重点を置いていた。すでに得た経験に照らして、一九三七年の最初の計画は、日本の戦争準備の負担のうち、満州国が今までより大きい部分を担うことができるように、徹底的に修正された。修正が必要になつたのは、国際情勢の変化に基くものであるとされた。
  新計画の目的のすべては、日本に不足しており、また日本の陸軍が戦争の要求上きわめて重要であると特に指摘したところの、産業の生産を増加することであつた。これによつて、鉄鋼の生産は、日本の増大する需要を満たすという明確な目的のために、大いに拡張されることになつた。鉱業方面の活動は、日本の石炭の供給を保護するために、拡張されることになつた。電力設備は増強され、工作機械の生産は、いつそうの工業的発展を奨励する目的のために、増進されることになつていた。航空機と軍需品との生産に附隨する新しい化学工業が樹立されることになつた。新しい航空機工場が、広く分散した地域に建設されることになつた。満州国は、年産五千の航空機と三万の自動車の生産を目標とすることになつた。日本の対外購買力は、一部は金に依存しているのであるから、金の増産にも組織的な努力が払われることになつた。
  修正された計画は、資本としてほとんど推定五十億円の支出を要した。これは一九三七年度の予算に組みこんだ額の二倍よりわずかに少いものであつた。言いかえれば、必要とされた額の半分以下を日本が賄うことになつていた。
  満州国政府は、この計画の実施を監督するために、経済企画委員会を設置することになつた。この新しい組織は、日本で企画院が果していたものとほとんど同じ機能を、満州国で果すことになつた。その主管のもとに、この国の資源に対する新しい完全を調査が行われることになつた。熟練労働を養成するために、実業学校が設立され、また修正計画が要求した経済的と行政的の再調整を行うために、計画が立てられることになつた。

一九三八年五月の経済危機は陸軍の長期計画を脅した

  陸軍の企画を実行するためにすでにとられた施策は、日本の経済に次第に増大する負担を負わせた。軍事的勝利や進出にもかかわらず、中国の戦争は依然として日本の物的と人的の資源を絶えず消耗させていた。さらに、原科の重要な供給源として、また戦争産業の開発を行うことのできる地域として、陸軍は中国を頼りにしていた。
  陸軍は、総動員法の目的を示すにあたつて、日本の国民に対して、中国における戦争の継続のために、国策の根本的目標が見失われるようなことがあつてはならないと再び警告した。華北と華中は、満州国及び日本とともに、単一の圏を構成するものであり、その一体性は、現地の抵抗に対してだけでなく、ソビエツト連邦と西洋諸国の双方に対しても、これを維持しなければならないと説明された。陸軍の企画のおもな目標は、過去のすべてのときと同様に、今もなおこれらの強大な相手方の一つ一つに対する勝利を保証するに充分な規模において、兵器とその他の戦力を蓄積することであつた。その当時に、中国における戦いは、陸軍の長期計画に破綻を来すのではないかと陸軍は深く心配していた。
  蘆溝橋で戦争が再発して以来、日本は絶えず経済的崩壊の危険に直面していた。この脅威を避けるために、産業上、商業上、財政上の統制に関する広汎な措置が講じられていた。満州国の産業の援張に関する修正計画は、日本がすでに支配していた大陸の諸地域を、どのように搾取していたかということを重ねて示した。これらの地域の住民は、戦争産業を拡充し、過重な負担を負わされた日本の経済を助けることに、次第に増加する負担を負わされていた。
  それにもかかわらず、一九三八年の五月と六月に、日本は深刻な経済的と財政的の危機に襲われていたことが明らかになつた。陸軍は日本の政府と国民に対する支配を獲得したが、その野心の達成に対する新しい挑戦に直面した。その動員計画の採択は、すでに保証されていた。問題は今や日本の国民が陸軍の政策がもたらす苦しみに耐え得るかどうかということであつた。
  このような状況のもとに、一九三八年五月五日に、内閣は国家総動員法によつて附与された権限を発動した。この法律の目的に関する註釈の中で、戦争のための国家総動員を達成する途上にどのような困難が横わつていようとも、断固としてその目的に邁進するという決意を陸軍は重ねて言明した。

一九三八年五月の内閣改造

  それから十日の後に、発生した事態に対処するために、内閣は改造された。廣田は外務省を去つた。大蔵大臣として、日本経済を陸軍の動員計画上の諸要求に従属させることを指導し、統制していた賀屋も、またその職を辞した。
  陸軍の計画が挫折するおそれがあつたので、これに対処するために、二人の軍人を加えることによつて、この内閣は強化された。板垣中将が杉山の後任として陸軍大臣となつた。奉天事件以来、陸軍の武力による対外進出と勢力拡大の企図について、板垣は特に関係が深かつた。一九三六年三月二十三日から一九三七年三月一日まで、かれは関東軍参謀長の職にあり、それ以後は師団長として、中国の征服に加わつていた。
  新しく文部大臣となつた荒木大将は、陸軍の計画の発展の初期を通じて、軍部の指導者であつた。奉天事件が起る二カ月前、一九三一年七月に、国家主義精神の促進を目的とする秘密結社である国本社の有力な会員と、かれは認められていた。同じ年の十二月、犬養内閣が就任したときに、陸軍の青年将校の要請によつて、陸軍大臣に任命された。犬養の後継者である齋藤のもとでも、かれはこの地位に留つた。
  一九三二年と一九三三年中、陸軍大臣として、荒木は日本に戦争準備を完成させることのできる非常政策を採用することを主張した。かれは強力な軍国主義者の有力な代表者と認められていた。一九三三年六月のラヂオ放送演説において、だれよりも先に、陸軍の長期計画の全貌を発表し、日本国民に対して、その達成に協力するように促した。
  一九三三年中に、荒木の行動は、齋藤内閣の内部に軋轢を起した。かれの代表する政策が、日本を世界の他の諸国から孤立させつつあることがわかつたからである。一九三三年十二月に、大蔵大臣高橋は、日本の対外関係が悪化したのは、陸海軍の軍国主義者に責任があるとした。その翌月に、荒木は内閣を去つた。しかし、満州の征服を要求し、さらに武力による対外進出計画を唱道していた一派をかれは指導し続けた。一九三四年一月二十三日以来、荒木は軍事参議官の職にあつた。一九三七年十月十五日に、内閣参議制度ができてからは、かれはその一員でもあつた。
  日本の教育制度は、木戸の指導のもとに、戦争のための国家総動員という目的に役立つようにされていたが、この内閣に、かれは厚生大臣として留つた。陸軍の計画を達成するためには、かれは中国における戦争を終らせることがどうしても必要であることを理解した。かれは徐州における勝利の重要性を過重には評価しなかつた。しかし、すでに中国人の間に和平の話が出ていると信じた。従つて、今や日本は漢口への進軍という新しい軍事的攻勢を計画すべきであると考えた。

近衛内閣は戦争のための総動員遂行のため新たな手段を講じた

  経済上と財政上の危機は、一九三八年六月十一日にさらに著しくなつた。この日に、日本が中日戦争の遂行にあたつて、繰返し条約上の義務を破つたことにかんがみて、合衆国は日本向けの航空機、兵器、発動機部品、航空機用爆弾、魚雷に対して道徳的輸出禁止を実施した。
  板垣、荒木、木戸を新たに閣僚として改造された内閣は、一九三八年六月二十三日に閣議を開いて、全国的に戦争準備を整えるという目標を維持するために、いかなる措置をとるべきかということを決定した。この決定は、総動員法の目的について、陸軍の説明のうちに含まれた予想が正しかつたことを示すものであつた。他の一切の考慮を国策の基準の目的を実現するための考慮に従属させるという内閣の決意が大いに強調された。戦争のための国家総動員に絶対必要な諸施策が直ちに実施されることになつた。
  国家経済を内閣が検討したところ、その年のうちに、日本の輸出が三分の一減少したことが明らかになつた。この理由とその他の理由のために、日本の貿易尻はきわめて不安であつた。もし事態がさらに悪化するならば、非常の際には、兵器とその他の物資の調達は、これに必要な外国為替がないために、非常にむずかしくなる。当時の情勢においてさえ、一九三八年度の物動計画で定められた目標に達することは困難であつた。五カ年計画の成功はすでにおぼつかなくなつていた。
  内閣の意見によれば、情勢はきわめて重大であつて、その日その日の彌縫策では、対処することができなかつた。このようなやり方で問題を解決しようとすることは、日本の現状の要求する生産力の拡充を達成するとともに、緊急の軍事上の必要に応ずるために払われている努力に対して、重大な支障を来すものであつた。
  決定された徹底的な施策の中には、非軍事用物資の供給をさらに減ずることが含まれていた。戦争産業拡充の分野でも、節約が行われることになつていた。この緊縮政策に従つて、為替相場の安定を維持したり、軍需品の供給を続けたり、輸出を促進したり、国民生活を保証したりするために、措置を講ずることになつていた。
  この目的のために、国家総動員法によつて与えられた広汎な権力が活用されることになつていた。物価を公定し、物資の配給を行うことになつていた。貯蓄を奨励し、戦時利得を制限し、廃品を回収することになつていた。在外資金を保存し、そして日本はその外国貿易の排斥に対して報復することになつていた。輸出を奨励するために、外国貿易の管理に関する行政を一元化することになつていた。軍需品の生産を増強することになつていた。
  特に、需要と供給の調節によつて、重要物資を節約するために、徹底的な措置をとることになつていた。製品の輸出とその原材料の輸入とをリンクさせることによつて、結局は輸出されるはずの物資が国内市場に吸収されてしまわないことを政府は確実にすることになつていた。国民の生活、輸出、バーター貿易に必要な最小限の輸入は許可されることになつていた。この例外とともに、軍需の充足と軍需品生産の保証とに必要な輸入だけが許されることになつていた。
  関係各省は、内閣の決定した政策を遂行するために、それぞれ独自の措置を講じ、国家総動員の達成を緊急な事柄として取扱うように、訓令を受けた。

板垣及び荒木と戦争のための国家総動員

  この二人の新しい閣僚は、直ちに国家総動員計画を支持した。閣議があつてから三日後の一九三八年六月二十六日に、陸軍大臣板垣は、新聞記者と会見した際に、日本を襲つている経済的困難に対する内閣の認識を表明し、かつ、これらの困難によつて、中国の征服が妨げられてはならないという、かれ自身の決意を表明した。蒋介石大元帥は、戦いの第一線における勝利は期待していないが、長期間にわたつて、国家資源に重荷を負わせることによつて、日本を敗北させようと望んでいるとかれは述べた。
  無期限にわたつて、日本は来るべき戦闘行為に耐えることができるという自己の確信を板垣は表明し、読者に対して、戦争のために長期の準備が必要であることを力説した。日本国民に対して、国家資源の保存に対する内閣の計画の精神を体し、当局に協力を惜しまないようにとかれは要望した。
  国際状勢を批判して、板垣は『第三国が、かれらの在華権益を保護するために種々の策動に訴えつつあるのは当然であるが、日本としては、恐怖逡巡することなく、独自の政策を遂行するだけのことである』と述べた。
  蘆溝橋事件の一周年記念日である一九三八年七月七日に、文部大臣荒木は演説を行つた。そのうちで、かれは板垣と同じ意見を表明した。この演説の大意は、一九三三年六月に、かれが陸軍大臣として行つた演説と殆んど違わなかつた。どちらの場合にも、現在の難局から、陸軍の究極の目標である世界支配の実現ということを、荒木は予期していたからである。
  この場合には、かれは次のように述べた。『我等は長期戦に耐うるに必要なる国力の充実を期せねばならない。国民思想を堅持して万邦無比の国体を明徴にし、八紘一宇の精神を広く世界に顕揚しなければならない。』
『物心両面より国家総動員の実を挙げ、躍進伸張日とともに目覚しき皇国の隆運に資益するは勿論、啻に東亜の日本としてのみならず、実に世界の日本として新時代の曙光を導き、以て日本の大使命を達成するに足る正しき襟度と熾なる気力とを養成せねばならない。』
  板垣と荒木の用いた語調は、自信に満ちた強硬なものであつたにかかわらず、両人の言葉の底には、中国における戦闘の成行について、深刻な不安の流れていることが明らかに認められた。この問題がまだ解決されないうちに、陸軍の長期計画は危うくなつていたのである。

一九三八年五月の内閣改造に伴う陸軍首脳部の異動

  一九三八年五月の内閣の改造が行われたときに、陸軍首脳部の間でも異動があつた。東條中将は現地勤務から呼び戻され、梅津にかわつて、陸軍次官になつた。東條は、一九三七年三月一日以来関東軍参謀長として、ソビエツト連邦に対する戦争のための陸軍の計画と準備に密接な関係をもつていた。ソビエツト連邦を攻撃する前に、中国に一撃を加えることを参謀本部に進言したのは、かれであつた。中国で戦闘が始つてから後は、かれは絶えずソビエツト連邦に対する戦争のための軍事的準備に專念していた。そして、この仕事の遂行について、かれは梅津と緊密な接触を保つていた。
  北平から南方へ前進していた日本軍の師団長であつた土肥原中将は、一九三八年六月十八日に、中国から呼び戻され、参謀本部附となつた。板垣と同じように、奉天事件の計画と実行及びその後の陸軍の計画の展開に、土肥原も顕著な役割を占めていた。かれは中国の情勢についての直接に得た知識を東京に持つて来た。
  陸軍次官東條は、一九三八年六月のうちに、その他の多くの職務に任命された。その職務は、それぞれ国家総動員のある面と関係していた。かれの前任者梅津でさえも、これほど多数の、またはこれほど多様の地位を占めたことはなかつた。東條は企画院参与、対満事務局参与及び内閣情報部委員になつた。また、総動員法の規定に従つて新しく設けられた国家総動員審議会の委員にも任命された。陸軍航空本部長になり、航空事業調査委員会委員にもなつた。自動車、造船、電力、製鉄の諸事業に関する委員会に参加し、また科学者議会の委員になつた。海軍審議会の委員にもなつたのであるから、海軍関係の問題も、かれは見落さなかつた。
  佐藤中佐は、引続いて、軍事上の準備と戦争のための総動員の他の部面とをつなぐ第二の鎖となつていた。一九三七年十一月二十六日以来、かれは企画院事務官の任務と陸軍省軍務局課員の任務とを兼ねていた。

華中における新攻勢――一九三八年七月

  内閣が戦争資材の補給を維持する措置をとつていたときに、参謀本部は、さきに木戸の同意した計画に従事していた。一九三八年六月に、参謀本部は華中における新しい大攻勢のための作戦計画を立てた。畑大将の指揮のもとに、約四十万の歴戦の部隊がこの進攻に参加することになつていた。漢口が目標であつた。この戦闘が成功すれば、これによつて、既存の傀儡政権を北と南に分離している溝をなくすることになる。
  改造された内閣は、戦争のための動員計画がこれ以上危うくならないように、中国の抗戦を終らせるために、最大の努力を払う覚悟であつた。一九三八年七月七日の演説の中で、荒木大将は、『われわれは抗日支那を徹底的に撃滅し、再び起つ能わざらしむる迄は戈を収めざる方針である』と述べた。
  一九三八年七月に、この攻勢は開始され、七月と八月を通じて、さらに多くの中国の都市と村落が日本軍進攻の潮に巻きこまれるに伴つて、小さい勝利がおさめられた。しかし、中国の降伏という希望を正当化するような徴候は、まだ少しも見られなかつた。

ソビエツト連邦に対する戦争準備の継続
陸軍がドイツとの軍事同盟の交渉を開始した

  中国で新しい攻勢が始められていたときに、陸軍は予期されたソビエツト連邦との戦争に対する準備を続けていた。一九三八年六月十九日に、新陸軍次官の東條は、かれがかねて関東軍参謀長として非常に密接な関係をもつていたこれらの軍事的準備について、正式な通告を受け取つた。内蒙古の日本陸軍は、ソビエツト連邦に境を接する戦略的地域の調査を行つていた。関東軍の参謀長も、蒙古の天然資源が調査中であり、すでに入手された資料が点検中であると報告した。
  経済的困難を冒して、戦争のための内閣が国家総動員を成し遂げようと苦心していたときに、ソビエツト連邦に対する攻撃は、依然として軍閥の念願にあつた第一の計画であつた。陸軍大臣板垣も、文部大臣荒木も、ともに長期戦の準備の必要であることを力説した。一九三八年七月十一日に、荒木大将は、『中国及びソ連邦と最後迄戦ふといふ日本の決心は、十年以上もそれを継続するのに十分である』と述べた。
  この決心を念頭に置いて、陸軍は、みずから進んで、その軍事的征服の目的の達成に向つて、一つの新しい重要な一歩を踏み出した。戦争のための国家総動員の計画は、今や承認され、達成の途上にあつたので、陸軍の注意は、日本自身の軍事力を強化するような、もつと緊密な同盟をドイツと交渉することに向けられた。参謀本部に促がされて、ベルリンの日本陸軍武官大島は、両国の間に軍事同盟を締結するために、ドイツ政府と交渉を開始した。
  このような武力の連合は、ソビエツト連邦との戦争に対する陸軍の準備を完全なものにするであらうというのであつた。
  このときから、日本のドイツに対する関係は、日本の戦争準備の一つの面としてばかりでなく、日本自身の中の成行きを決定するについて、欠くことのできない一つの要素としても、意義の深いものである。一九三三年以来、ヒツトラーのもとに勃興した新ドイツは、日本と同じように、征服と領土拡張の戦争に対する準備に従事していた。これらの二国は、それぞれ自己の計画の実現に専念していたので、互いに他の一方に対して、ほとんど考慮を払わなかつたが、ソビエツト連邦に対しては、共通の野望を抱いていた。これらの野望は、一九三六年十一月にベルリンで締結された防共協定となつて現われた。
  ドイツとの軍事同盟は、日本の陸軍の計画の中に、すでに長い間、重要な位置を占めていた。ソビエツト連邦を攻撃する時期が近づくように思われるにしたがつて、この同盟の必要はいつそう緊急なものとなつた。軍閥の計画の中で、この部門の起源と発展を了解するためには、まず、ソビエツト連邦に対する戦争を行うための陸軍の計画の進行を大体に観察しておくことが必要である。

ソビエツト連邦を攻撃する陸軍の意図は満州の征服に源を発していた

  ソビエツト連邦に対する反感から、防共協定によつて、日本はドイツと提携するようになつたのであるが、この反感は、陸軍の野心の性質そのものに固有のものであつた。大川は、一九二四年に、初めて領土拡張の計画を提唱したときに、シベリアの占領を主張した。一九三一年に、モスコー駐在の大使として、廣田もまた同じ意見であつた。その当時に、かれは、日本は攻撃する意思があろうとなかろうと、いつでも戦争ができる用意をして、ソビエツト連邦に対して、強硬な政策をとらなければならないという見解を表明した。かれの意見では、このような準備のおもな目的は、共産主義に対する防衛としてよりも、むしろ東部シベリアを占領する手段としてであつた。
  ソビエツト連邦を敵と見做すについては、すでに第二の理由があつた。一九三〇年に、満州を征服するという陸軍の計画に対して、国民の賛同を得るために、そのころ運動していた陸軍の代弁者は、ソビエツト連邦に対して、日本はこの地域を防衛しなければならないということを強調した。一九三二年四月、満州国という新国家が樹立されたときに、ソビエツト連邦や西洋諸国は、それぞれ敵と見做された。その当時、関東軍参謀部の一員であつた板垣大佐は、『アングロ・サクソン世界並びにコミンテルン侵略の闘争に於いて盟友日本』の利益を促進するという新しい委員会の委員に任命された。
  それから約三カ月の後に、モスコーの日本陸軍武官は、ロシアと日本との戦争は将来避けられないと政府に報告した。それより約六カ月前に、ソビエツト外務人民委員から日本に対してなされた不侵略条約の提議に関して、かれは不即不離の態度をとることを力説した。それからさらに五カ月おくれて、一九三二年十二月十三日に、両国間に未解決の意見の相違があるので、このような協定の交渉は時宜に適しないという理由で、日本は右の提護を拒絶した。一九三三年二月に、右の協定を協議しようという提案があらためて出されたときにも、日本は再びこれを拒絶した。二カ月の後に、参謀本部の鈴木中佐は、ソビエツト連邦は日本の国体の破壊を目的としている絶対の敵であるから、このような提案は一切斥けなければならないと述べた。このようにして、日本の軍閥によつて、ソビエツト連邦は、列強のうちで、日本が東亜の盟主になるという目標の達成を特に妨害する国であると認められた。
  ソビエツトとの戦争のために、軍事的の計画と準備が着々と進められたことは、すでにこの説明の中でしばしば述べてある。一九三三年の十二月になると、朝鮮の日本陸軍は、すでに『対ソ作戦の場合を顧慮し』て準備をしていた。荒木大将は、すでにそのときに、このような攻撃のための足場として、蒙古に目をつけていた。一九三四年三月に、岡田内閣が政権を握つた後、参謀本部によつて提出されたところの、ソビエツト連邦に対する戦争のための計画を天皇は裁可した。
  一九三五年十一月に、当時スエーデンの公使であつた白鳥は、攻撃の機が熟したと有田に告げた。日本は武力によるか、武力を使用するという威嚇によつて、直ちにソビエツト連邦を東亜から閉め出さなければならないとかれは考えた。
  一九三六年三月二十三日、廣田内閣が就任した後に、関東軍参謀長として、板垣は外蒙古を日本の『新秩序』の圏内に含める措置をとつた。日本の国策の基準が決定された一九三六年八月十一日以後、ソビエツト連邦を目標とする準備は、日本が『ソ国の極東に使用し得るいかなる兵力にも対抗する』ことができるように強化された。
  中国における戦争の再開が究極にはソビエツト連邦に対する攻撃を含む陸軍の対外進出計画の一部であつたことは、すでに述べたところである。蘆溝橋で戦闘が開始される前にも、その後にも、ソビエツト連邦との戦争のための軍事的準備は維持され、促進された。関東軍は参謀本部と密接に協力していて、できるだけ早い時期に開始されることになつていた迅速な襲撃のための部隊の配置をすでに行つていた。
  一九三五年十一月に、白鳥は、もし攻撃が十年間放置されたならば、ソビエツト連邦は手のつけられないほど強力になるかもしれないが、直ちにこれを行えば、成功の可能性は十分にあると述べた。地球上のいかなる他の国も、その当時において、日本にとつて真の脅威とはなり得ないとかれはつけ加えた妥当な価格で、樺太とシベリアの沿海州との譲渡を要求しなければならない。ソビエツト連邦は、『無力な資本主義共和国』にされ、その資源は著しく制限されなければならないというのであつた。

陸軍、ソビエツト連邦に対する攻撃の計画を延期――一九三八年八月

  この緊迫した感情に駆り立てられて、陸軍は、日本が中国にますます深入りしつつあつたことと、日本の経済が不安な状態に追い込まれてしまつたこととに焦慮していた。軍の指導者は、ソビエツトとの戦争に対する準備のかれらの計画を断乎として維持し、ナチス・ドイツに支援を求めた。一九三八年七月、板垣と東條とが陸軍省内の職に就いた後に、ソビエツト連邦に対して早く攻撃を開始しようという陸軍の焦燥は、直ちにはけ口を見出した。
  一九三八年七月の初めに、ハサン湖地区のソビエツト国境の日本の警備隊が増強された。七月の半ばに、その地区の一部の領土に対する日本の要求を受諾させるために、重光がモスコーに派遣された。紛争の対象となつていた土地は、戦略的価値のある一つの高地であつた。
  重光はこの交渉を通じて高圧的な態度をとつた。そして、一九三八年七月二十日に、満州国に対する日本の義務を口実として、ソビエツト部隊の撤退を正式に要求した。
  その翌日に、陸軍大臣板垣は、参謀総長とともに、日本の要求が強行できるように、ハサン湖に対する攻撃を開始することについて、天皇の裁可を得ようと試みた。この件に関して、陸軍の方針は外務省と海軍省との支持を得ていると、天皇に対して虚偽の報告がなされた。翌日の一九三八年七月二十二日に、この計画は五相会議に示され、その承認を受けた。
  一九三八年七月二十九日に、ハサン湖の日本軍は、ソビエツトの国境警備隊を攻撃した。このようにして始められた戦闘は、一九三八年八月十一日まで続き、そのころには、この作戦に使用された日本軍は潰走させられていた。その後、紛争の地域をソビエツト連邦の手に委ねたまま、日本は平和条件を交渉した。
  ハサン湖の戦闘は、本判決の後の部分で、詳細に論ずることにする。しかし、攻撃が行われるに至つた経緯は、現在の叙述に重要である。この計画は陸軍の発意によつて促進され、実施された。陸軍大臣板垣は、長い間、ソビエツト連邦との戦争は避けられないと信じていた。かれの次官である東條は、このような戦争のための詳細な計画と準備を監督していた。攻撃は、主としてソビエツト連邦を目標とした新しい軍事同盟を、陸軍がドイツと交渉中であつたときに起つた。それは、極東におけるソビエツト連邦の勢力を潰滅させようという、陸軍の計画の一つの産物であつた。
  ハサン湖における日本の敗北によつて、陸軍の計画は急に修正された。佐藤大佐は、一九三八年八月二十五日に、陸軍省の代弁者として、警察部長の会合で陸軍の政策を説明した。陸軍の決意と国家の困難を論じた演説の中で、かれは企画されたソビエツト連邦との戦争に対する一つの新しい態度を明らかにした。列席している者に対して、このような戦争はいつ起るかもしれないから、軍事的準備を続けなければならないと警告したのである。しかし、当時すぐにこのような戦争を徴発することは、日本にとつて不利であるということをかれは強調した。『しかしながらロシアと己むなく戦ふ場合としては時機を選ぶの要あり、而して其の為には軍備の拡充、生産力の拡充のせられた後――昭和十七年以後――であらねばならぬ』とつけ加えたのである。
  陸軍とその支持者の性急さに対して、抑制が加えられた。陸軍の指導者は、国策の基準の決定の中で定められた原則に従うことを再び決意した。この国策の基準は、まず第一に、中国における日本の『新秩序』の建設と戦争準備の完成とを要求したのであつた。
  しかし、ソビエツト連邦は、依然として一つの主要な敵と見做されていた。なぜなら、日本の東亜における征覇という目標の達成に対して、この国が妨げになつていたからである。佐藤は、日本がソビエツト連邦に対して戦争を強いるという究極の目標を捨てたものではないことを明らかにした。この目的を国家総動員を完成するための第一の理由として、かれは力説した。ドイツ、イタリアとの防共協定は強化されなければならないという陸軍の信念をかれは再び確言した。しかし、かれの演説は、ハサン湖における敗北の結果として、陸軍はそれ以上の負担をみずから引受ける前に、国力の充実をさらに高度に達成する決心であることを発表した。

ソビエツトに対する計画によつて、陸軍はドイツとの同盟を求めるようになつた

  ドイツでは、一九三三年に、ヒツトラーが政権を握つた。日本陸軍は、当時ソビエツト連邦との戦争準備に専心していたので、直ちにこの新しい政権に関心を寄せた。一九三四年三月、岡田内閣の在任中に、大島大佐がベルリンの陸軍武官に任命された。
  参謀総長の訓令で、大島はナチ政権の安定性、ドイツ陸軍の将来、ドイツとソビエツト連邦との関係の状態、特に両国の陸軍の間の関係を注視し、調査することを命じられた。大島はまたソビエツト連邦に関する情報を蒐集し、報告することになつていた。ソビエツト連邦が戦争に捲き込まれるようになつた場合に、ドイツがどのような態度をとるかをかれは見極めることに努めることになつていた。
  一九三四年五月に、大島は新しい任務に就き、一九三五年の春には、フォン・リツペントロツプから、ドイツは日本と同盟を締結する意思があるということを聞いた。かれはこの情報を参謀本部に伝えた。この提案について調査するために、ドイツに派遣された若松中佐は、一九三五年十二月にベルリンに到着した。
  このころすでに、少くとも軍閥中の一部の者は、ソビエツト連邦との戦争の場合に、ドイツの支持を得ることを確信していた。一九三五年十一月四日の書簡の中で、有田にあてて、白鳥は『ドイツ、ポーランドの如きは、対ソの関係に於て、我と同一立場に在るを以つて敢て了解等を結ぶの要なく、一度事端勃発すれば期せずして、起つべし、問題は、英国のみ』と書いた。
  若松と大島は、ベルリンでドイツ当局者と協議し、ドイツ側に、参謀本部は両国間の一般的な同盟に賛成している旨を伝えた。交渉がこのような段階に達したので、この提案は陸軍から内閣にまわされた。その間に、かつて五年以前にソビエツト領土の占領を主張していた廣田が、総理大臣になつていた。そして、白鳥の私信の受取人であつた有田が外務大臣であつた。
  一九三六年の春に、すなわち国策の基準が最後的に決定される数カ月前に、廣田内閣は陸軍の提案を取上げた。ベルリンに到着したばかりの武者小路大使は、ドイツが日本との協力を熱心に希望しているということを確めることができた。長い間の交渉の結果、防共協定と秘密軍事協定が調印され、一九三六年十一月二十五日に、両方とも日本の枢密院によつて批准された。

防共協定締結後の日本とドイツとの関係

  防共協定は、ドイツ側が提案し、参謀本部が賛成していたところの、一般的な軍事同盟ではなかつた。八月の五相会議は、すでに日本をあからさまな反ソビエツト政策に従わせることにきめていたが、防共協定は、東亜に対するソビエツト連邦の進出を防ぐことを目的とし、純粋な防禦的措置としてつくられていた。外務大臣有田は、枢密顧問官に対して、それをこのような観点から説明し、慎重にもドイツの国内政策に同意するものではないと述べた。日本の世論は、まだドイツとの同盟を受け入れるまでになつていなかつた。そして、この事実が内閣の条約締結の権能を牽制していた。
  しかし、実際においては、この協定は、ソビエツト連邦に対する日本の侵略的な政策を助長した。ドイツ側から、ソビエツト連邦に対するドイツ側の態度を定めるについては、秘密協定の精神だけが決定的なものであるという誓約を廣田は得ていた。万一必要な場合には、この協定が両国の関係をさらに発展させる基礎になるはずであつた。
  その上に、この協定が性質上防禦的であるという主張は偽りであることを有田自身が示した。というのは、かれは枢密顧問官に対して、ソビエツト連邦は、日本との一切の折衝において、妥当な行動をとつていたと確言したからである。かれみずからも、たとい日本の戦争準備が充分でなかつたとしても、ソビエツト連邦が先んじて事を構えようとは考えていなかつた。有田は、また、この協定が中国との折衝において、日本の立場を強化することを希望した。
  実際において、防共協定は、日本の世論を離反させることなく、また日本側の言質はできる限り最小限度にとどめておいて、ソビエツト連邦に対抗するために、また中国において、ドイツの支持を受けるという利益を得ようとして締結されたものである。
  これらの同じ考え方が、日本とドイツとの関係のその後の発展を支配した。蘆溝橋で戦闘が始まつた後に、日本は、中国におけるその行動を、防共協定の目的に従つて行われた共産主義に対する闘争として正当化しようとしたが、それは成功しなかつた。