極東国際軍事裁判所判決文
A部 第一章 本裁判所の設立及び審理

〈説明〉

本資料は、極東国際軍事裁判所判決文におけるA部 第一章 本裁判所の設立及び審理を文字起ししたものである。原典は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている「極東国際軍事裁判所判決 〔第1冊-第13冊〕 A部 第一章-三章」の6コマ~26コマである。掲載するにあたり旧漢字を新漢字に直した他は原典を再現している。


極東国際軍事裁判所
判決
A部
第一章

(E-1)
極東国際軍事裁判所

アメリカ合衆国、中華民国、グレート・ブリテン・北アイルランド連合王国、ソビエツト社会主義共和国連邦、オーストラリア連邦、カナダ、フランス共和国、オランダ王国、ニユージーランド、インド及びフイリツピン国

荒木貞夫、土肥原賢二、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、廣田弘毅、星野直樹、板垣征四郎、賀屋興宣、木戸幸一、木村兵太郎、小磯國昭、松井石根、松岡洋右、南次郎、武藤章、永野修身、岡敬純、大川周明、大島浩、佐藤賢了、重光葵、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、東郷茂徳、東條英機、梅津美治郎

判決
本裁判所の判決は一九四八年 月 日、これを言渡した。

(E-2)
A部―第一章
本裁判所の設立及び審理

 本裁判所は一九四三年十二月一日のカイロ宣言、一九四五年七月二十六日のポツダム宣言、一九四五年九月二日の降伏文書及び一九四五年十二月二十六日のモスコー会議に基いて、またこれらを実施するために設立された。
カイロ宣言はアメリカ合衆国大統領、中華民国国民政府主席及びグレート・ブリテン国総理大臣によつて発せられた。それには、次のように述べてある。すなわち、
『各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。
『三大同盟国ハ海路、陸路及ビ空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ圧迫ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ。右圧迫ハ既ニ増大シツツアリ。
『三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且ツ之ヲ罰スル為メ、今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ。右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ。又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ。右同盟国ノ目的ハ一九一四年ノ第一次世界戦争ノ開始以来、日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ日本国ヨリ剥奪スルコト、並ニ満洲、台湾及ビ澎湖島ノ如キ日本国ガ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ、中華民国ニ返還スルコトニ在リ。日本国ハ暴力及ビ貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ。前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ、軈テ朝鮮ヲ自由且ツ独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス。
『右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ、日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且ツ長期ノ行動ヲ不撓不屈続行スルモノナリ。』
 ポツダム宣言(附属書A―一)はアメリカ合衆国大統領、中華民国国民政府主席及びグレート・ブリテン国総理大臣によつて発せられ、後に、ソビエツト社会主義共和国連邦がこれに参加した。この宣言中、本件に関連のある主要な規定は次の通りである。すなわち、
『日本国ニ対シ、今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フベシ。』
(E-4)
『無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラレザレバ、平和、安全及ビ正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ吾等ハ主張スルモノナルヲ以テ、日本国国民ヲ欺瞞シ誤導シテ世界征服ノ挙ニ出デシメタル者ノ権力及ビ勢力ハ、永久ニ除去セラレザルベカラズ。』
『「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク、又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及ビ四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ。』
『吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ、又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ、吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ、峻厳ナル正義ニ基キ処罰ヲ加フベシ。』
降伏文書(附属書A―二)は日本国天皇及び日本国政府の名において、また九つの連合国の名において署名された。その中には、いろいろなことのほかに、次の布告、約定及び命令が含まれている。すなわち、
『下名ハ茲ニ日本帝国大本営並ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ、一切ノ日本国軍隊及ビ日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聨合国ニ対スル無条件降伏ヲ布告ス。』
(E-5)
『下名ハ茲ニ「ポツダム」宣言ノ條項ヲ誠実ニ履行スルコト、並ニ右宣言ヲ実施スル為メ、聨合国最高司令官又ハ其ノ他特定ノ聨合国代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ発シ、且ツ斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本国政府及ビ其ノ後継者ノ為ニ約ス。』
『天皇及ビ日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ、本降伏條項ヲ実施スル為メ適当ト認ムル措置ヲ執ル聨合国最高司令官ニ服セシメラルルモノトス。下名ハ茲ニ一切ノ官庁、陸軍及ビ海軍ノ職員ニ対シ、聨合国最高司令官ガ本降伏実施ノ為メ適当ナリト認メテ自ラ発シ又ハ其ノ委任ニ基キ発セシムル一切ノ布告、命令及ビ指示ヲ遵守シ且ツ之ヲ施行スルコトヲ命ズ』
モスコー会議(附属書A―三)の結果、アメリカ合衆国、グレート・ブリテン国及びソビエツト社会主義共和国連邦の各政府によつて、またこれらの各政府の間に、中華民国の賛同を得て、次のことが協定された。すなわち、
『最高司令官ハ日本降伏條項ノ履行、同国ノ占領及ビ管理ニ関スル一切ノ命令並ニ之ガ補充的指令ヲ発スベシ』
(E-6)
 右の権能に基いて、連合国最高司令官マツクアーサー元帥は一九四六年一月十九日に特別宣言書により、『平和ニ対スル罪又ハ平和ニ対スル罪ヲ含ム犯罪ニ付キ訴追セラレタル個人又ハ団体員又ハ其ノ双方ノ資格ニ於ケル人々ノ審理』のために本裁判所を設置した。(附属書A―四)。この宣言書によつて、裁判所の構成、管轄及び任務は、同日最高司令官の承認を得た裁判所條例中に規定されたところによると宣言された。本裁判の開始に先立つて、この條例は数箇の点で修正された。(修正された條例の写は附属書A―五にある。)
 一九四六年二月十五日、最高司令官は各連合国からそれぞれ指名された九人の裁判官を任命する命令を発した。この命令もまた『裁判官ノ責任、権力及ビ任務ハ同裁判所條例中ニ規定セラレアリ・・・・』と規定している。
 裁判所條例に加えられた修正の中の一により、インド及びフイリツピン国によつて指名された裁判官を任命することができるようにするため、裁判官の人数を最大限は九名から十一名に増加された。(E-7)最初に任命されたアメリカ及びフランスの裁判官が辞任したので、その後任として、その 後の命令によつて現在の裁判官が任命され、またインド及びフイリツピン国の裁判官が任命された。
 裁判所條例の第九條(ハ)の規定に従つて、各被告は、裁判の開始に先立ち、自己を代表する者として、みずから選んだ弁護人を指名した。かくて、各被告とも、アメリカ人弁護人と日本人弁護人によつて代表されている。
 一九四六年四月二十九日、裁判所によつて採用された手続規定に従つて、あらかじめ被告に渡されていた起訴状が裁判所に提出された。
 起訴状(附属書A―六)は、一九二八年一月一日から一九四五年九月二日までの期間中の平和に対する罪、通例の戦争犯罪及び人道に対する罪について、二十八名の被告を訴追する五十五の訴因を挙げた長文のものである。
 それは次のように要約することができる。すなわち、
 訴因第一では、全被告について、一九二八年一月一日から一九四五年九月二日までの間に、東アジア、太平洋及びインド洋とこれに接壌する諸国及び隣接する諸島嶼とにおける軍事的、政治的及び経済的支配を獲得しようとする日本の目的に反対する国または国々に対して、日本をして単独または他の諸国とともに侵略戦争を行わせるために、指導者、組織者、教唆者または共犯者として共同謀議を行つたものとして訴追している。(E-8)
 訴因第二は、全被告について、右と同じ期間を通じて、日本をして遼寧、吉林、黒竜江及び熱河の中国諸省(満洲)の完全な支配を獲得するために、中国に対して侵略戦争を行わせる共同謀議を行つたものとして訴追している。
 訴因第三は、全被告について、右と同じ期間にわたつて、日本をして中国の完全な支配を獲得するために、中国に対して侵略戦争を行わせる共同謀議を行つたものとして訴追している。
 訴因第四は、全被告について、東アジア、太平洋及びインド洋とこれに接壌する諸国及び隣接する諸島嶼とにおける完全な支配を獲得するために、日本をして単独または他の諸国とともに合衆国、全イギリス連邦、フランス、オランダ、中国、ポルトガル、タイ、フイリツピン及びソビエツト社会主義共和国連邦に対して、侵略戦争を行わせる共同謀議を行つたものとして訴追している。
 訴因第五は、全被告について、日独伊がおのおのその勢力圏内において特別の支配権をもつとともに――日本の勢力圏は東アジアと太平洋とインド洋にわたるものとして――これらの三国が全世界の完全な支配を取得するという目的に対して、いやしくもこれに反対するあらゆる国に対する侵略戦争において、右の三国が相互に援助するために、ドイツ及びイタリアと共同謀議を行つたものとして訴追している。(E-9)
 訴因第六ないし第十七は、全被告について、訴因中に名を挙げられた諸国に対する侵略戦争を計画し、準備したものとして訴追している。
 訴因第十八ないし第二十六は、白鳥を除いた全被告について、訴因中に名を挙げられた諸国に対する侵略戦争を開始したものとして訴追している。
 訴因第二十七ないし第三十六は、全被告について、訴因中に名を挙げられた諸国に対する侵略戦争を遂行したものとして訴追している。
 訴因第三十七は、被告中のある者について、一九〇七年十月十八日のヘーグ第三條約に違反して、合衆国、フイリツピン、全イギリス連邦、オランダ及びタイに対して不法な敵対行為を開始することにより、これらの諸国の軍隊の人員及び一般人を殺害する共同謀議を行つたものとして訴追している。
 訴因第三十八は、右と同じ被告について、一九〇八年十一月三十日の合衆国と日本との協定、一九二一年十二月十三日のイギリス、フランス、合衆国、及び日本間の條約、一九二八年八月二十七日のパリー條約並びに一九四〇年六月十二日のタイ日本友好條約に違反して、敵対行為を開始することにより、軍人及び一般人を殺害する共同謀議を行つたものとして訴追している。(E-10)
 訴因第三十九ないし第四十三は、右と同じ被告について、一九四一年十二月七日及び八日に、真珠湾(訴因第三十九)、コタバル(訴因第四十)、香港(訴因第四十一)、上海における英国軍艦ペトレル号上(訴因第四十二)、及びダバオ(訴因第四十三)において、殺害を行つたものとして訴追している。
 訴因第四十四は、全被告について、日本の権力内にある捕虜及び一般人を大規模に殺害する共同謀議を行つたものとして訴追している。
 訴因第四十五ないし第五十は、被告中のある者について、南京(訴因第四十五)、廣東(訴因第四十六)、漢口(訴因第四十七)、長沙(訴因第四十八)、衡陽(訴因第四十九)及び桂林と柳州(訴因第五十)において、武装を解除された軍人及び一般人を殺害したものとして訴追している。
 訴因第五十一は、被告中のある者について、一九三九年ハルヒン・ゴール河地域で蒙古及びソビエツト連邦の軍隊の人員を殺害したものとして訴追している。
 訴因第五十二は、被告中のある者について、一九三八年七月及び八月ハーサン湖地域でソビエツト連邦の軍隊の人員を殺害したものとして訴追している。
(E-11)
 訴因第五十三及び第五十四は、大川と白鳥を除いた全被告について、各作戦地の日本軍指揮官、陸軍省の職員、各地方の収容所及び労務班の職員に、起訴国の軍隊、捕虜及び一般人抑留者に対して戦争の法規及び慣例の違反行為を頻繁にまたは常習的に行うことを命令し、授権し、または許可するために、また、日本政府をして戦争の法規慣例の遵守を確保し、その違反を防止するに適当な手段をとらせないために、共同謀議を行つたものとして訴追している。
 訴因第五十五は、右と同じ被告について、その官職によつて戦争の法規慣例の遵守を確保し、その違反を防止するために適当な手段をとるべき法律上の義務を負つていたのに、これをすこしも顧慮しないで無視したものとして訴追している。
 起訴状には五箇の附属書がついている。すなわち、
 附属書Aは、訴因の基礎となつている主要な諸事項と出来事を要約している。
 附属書Bは、條約の條項の一覧表である。
 附属書Cは、日本が違反したといわれている誓約を明記している。
 附属書Dは、違反されたといわれている戦争の法規及び慣例を包含している。
 附属書Eは、被告の個人的責任といわれているものに関する諸事実の部分的な記述である。
(E-12)
 これらの附属書は、(この判決の)附属書A―六に包含されている。
 審理の途中で被告のうちの二人、すなわち松岡と永野は死亡し、大川被告は、審理を受けるに適せず、また自分を弁護することができないと宣告された。従つて、松岡と永野は起訴状から削除された。大川に対しては、この裁判で、起訴状に基いて審理を続けることを中止された。
 五月三日と四日に、起訴状は公判廷において全被告の出席の上で朗読された。それから、裁判所は被告の申立を受けるために六日朝まで休廷した。六日には、現在本裁判所で審理されている全被告が『無罪』の申立をした。
 そこで、裁判所はその年の六月三日を検察側の証拠提出の開始の日と定めた。
 その間に、弁護側は、起訴状に含まれている起訴事実を審理し決定する本裁判所の管轄権を争う動議を提出した。一九四六年五月十七日、弁論の後に、右の動議の一切を『追つて示すべき理由に依つて』却下するという判定が言渡された。(E-13)これらの理由は、本判決のこの部分の第 二章で、本件に関する法を論ずるにあたつて、これを与えることにする。
 検察側はその主張を一九四六年六月三日に始め、一九四七年一月二十四日に終つた。
 弁護側の証拠提出は、一九四七年二月二十四日に開始され、一九四八年一月十二日に終了した。その間に、弁護人が全被告に共通な証拠を提出するについて、彼等の仕事を調整することができるように、一九四七年六月十九日から八月四日まで、休廷が許された。
 検察側の反駁証拠と弁護側の回答証拠が許容され、証拠の受理は一九四八年二月十日に終つた。総計して四三三六通の法廷証が証拠として受理され、四一九人の証人が法廷で証言し、七七九人の証人が供述書と宣誓口供書によつて証言し、審理の(英文)記録は四八四一二頁に及んでいる。
 検察側の最終論告と弁護側の最終弁論は一九四八年二月十一日に始まり、同年四月十六日に終つた。
『争点ノ迅速ナル取調』と『不当ニ審理ヲ遅延セシムルガ如キ行為ヲ防止スル為メ厳重ナル手段』をとることを要求している裁判所條例第十二條にかんがみ、この裁判に要した期間については、いささか説明と注釈を必要とする。(E-14)
 提出される前に準備することのできる証拠や陳述やその他の事項を、そのときどきに、途中でさえぎつて通訳するという普通の通訳方法を採用したならば、不必要な遅延が引き起されたであろうが、それを避けるために、精巧な発言聴取装置(パブリツク・アドレス・システム)が備えつけられた。この装置によつて、できる限り、英語または日本語への同時通訳が行われた。これに加えて、必要な場合には、中国語、ロシア語及びフランス語からの、またはこれらの国語への、同時通訳が行われた。このような便宜がなかつたならば、裁判はもつと遥かに長い期間にわたつたことであろう。しかし、反対訊問や、異議についての即席の議論や、その他の偶発的な発言は、その進行につれて、普通の方法で通訳しなければならなかつた。
 裁判所條例の第十三條(イ)は『本裁判所ハ証拠ニ関スル専門技術的規則ニ拘束セラルルコトナシ。本裁判所ハ・・・・本裁判所ニ於テ証明力アリト認ムル如何ナル証拠ヲモ受理スルモノトス・・・・』と規定している。提出された大量の文書と口頭証言にこの規則を適用したために、必然的に非常な時間を費す結果となつた。(E-15)その上に、起訴状の中の起訴事実からして、直接に、一九二八年から一九四五年に至る十七年間の日本の歴史の調査が必要となつた。それに加えて、われわれの調査は、それほど詳細にではないが、それ以前の日本の歴史の研究にも及んだ。なぜならば、この研究をしなければ、日本とその指導者とのその後の行動を理解し、評価することができなかつたからである。
 起訴事実に包括されている期間は、日本の内政と外交において、強度な活動の行われた期間であたつた。
 国内的には、明治維新の時代に発布された憲法が、これを運営した軍人と文民との間で、重大な闘争の主題となつていた。結局には軍部が優位を獲得し、それによつて、かれらは和戦の問題ばかりでなく、外交と内政の遂行についても、これを左右することができるようになつた。政府部内における文官側と軍部の間の闘争において、議会(選挙された国民の代表者)は早くから重要ではなくなつた。文民と軍部の争いは、文民の側では、職業的文官によつて戦われたのであるが、これらの文官は、ほとんどもつぱら内閣の中の文官大臣の地位や天皇の周囲の輔弼の地位を占めていたものである。(E-16)軍人と文官の間の闘争は、長い期間にわたるものであつた。多くの事件がこの争いの消長を示しているが、どの事件についても、検察側と弁護側の間で、意見の一致したことは稀であつた。各事件の事実も意義も、ともに論争の種であり、それに向つて多量の証拠が提出される論題であつた。
 国内的には、さらに、起訴状に言及されている期間は、日本が近代的工業国家への転換を完成した時期である。また、日本の急速に増加する人口のはけ口として、日本の工場のために原料を手に入れることのできる供給源として、日本の製品に対する市場として、他の諸国の領土に対する要求が増大した時期である。対外的には、この期間中に、右の要求を満たそうとする日本の努力が行われた。この分野でも、諸事件の発生や意義について、弁護側はこれを争つた。しかも、しばしば、争う余地がないように思われることまで争うというほどであつた。
二十五人の被告がこれらの事件で演じた役割を調査しなければならなかつたが、この点でも、一歩一歩困難と戦つて進んだのであつた。
 裁判所に提出された争点に関連する時間と場所との広汎な範囲と、重要であつてもなくても、各事件について一々行われた論争とのために、裁判所條例の要求したように、『迅速』に裁判は進むわけに行かなかつた。(E-17)その上に、法廷で話される言葉は、いちいち、英語から日本語に、またはその反対に、通訳する必要があつたので、審理は少なくとも二倍の長さになつた。日本語と英語の間の翻訳では、西洋の一つの国語を同じ西洋の他の国語に翻訳するときのような速さと確実さをもつて、翻訳を行うことができない。日本語から英語に、またはその反対に、逐語的に翻訳するのは、不可能なことが多い。大部分はただ意訳ができるにすぎない。しかも、両国語の専門家の間で、正しい意訳について、しばしば意見を異にすることがある。その結果として、法廷の通訳者たちの間に、たびたび、どう訳したらよいかについて困難を生じた。そこで、通訳に関する争いの問題を解決するために、裁判所は言語裁定部を設けなければならなかつた。
 これらの遅延に加えて、検察官や弁護人や証人は、冗長であつたり、関連性を欠いたりする傾向があつた。この傾向を抑制することは、最初はなかなか困難であつた。というのは、多くの場合は、念が入り過ぎたり、関連性のない質問や答弁が日本語で行われて、裁判所が英語の翻訳を聞き、それに対する異議の申立てができるようになつたときには、すでに弊害が生じたあとであり、無用の時間が空費されていたからである。(E-18)ついには、この時間の空費を防ぐために、特別な規則を実施することが必要になつた。
 この目的のための主要な規則は、予定された証人の供述書をあらかじめ提出しておくことと、反対訊問を主訊問における証拠の範囲内の事項に限ることであつた。
 裁判所によつて課せられた規則は、これらの規則にせよ、その他のどの規則にせよ、厳格に適用されたものはなかつた。裁判所は被告に対して公正であり、また諸争点について関連性や重要性のある一切の事実を手に入れておかなければならないという最高の必要にかんがみて、ときどきは、寛容な取扱いが許された。
 提出された証拠のうち、特に弁護側によつて提出されたものは、大部分が却下された。それは主として証明力がほとんどないか、全くなかつたからであり、または、全く関連性がないか、非常に稀薄な関連性しかないために、裁判所の助けにならなかつたからであり、さらには、すでに受理された類似の証拠を不必要に集積するものであつたからである。
 証拠が受理され得る性質のものかどうかについての議論に、確かに多くの時間を費したのであるが、もし提出のために準備された証拠をすべて裁判所が受理したとしたら、審理ははなはだしく長びいたであろう。かりにこれらの制限がなかつたならば、裁判はさらにいつそう長くなつたであろう。なぜなら、右のような制限がなければ、実際に提出されたよりも、はるかに関連性や重要性のすくない証拠が提出のために準備されたとおもわれるからである。
(E-19)
 証言の多くは直接口頭でなされるか、または少くとも証人が宣誓し、自己の供述書であることを確認し、その供述書が受理され得るものとして決定された上、その範囲内で、検察官または弁護人がそれを朗読することによつてなされた。証人は反対訊問を受けたが、それも異つた利害を代表する検察官や弁護人から受けることがしばしばあり、さらに、それから、再直接訊問を受けた。
  証人を反対訊問する希望がなかつたときは、多くの場合に、その証人は出廷することなく、その宣誓口供書が提出され、朗読された。
 提出された証拠の大部分は、裁判所を失望させるようなものであつた。事件の説明というものは、証人が臆せずに自己の困難に直面し、これらの事件が疑いもなく発生したということから通常生ずべき推論がこの場合には排除されなければならないことを裁判所に納得させるのでなければ、信ずるに足りないものである。本裁判所の経験では、弁護側の証人の大部分は、かれらの困難に敢然と直面しようとはしなかつた。かれらは冗長なごまかしや言いのがれをもつてその困難に対処したが、それはいたずらに不信用を招くにすぎない。弁護側の最終弁論の大部分は、弁護のために提出された証拠を裁判所が信頼できるものとして取りあげるだろうという仮定に基いたものであつた。(E-20)これはやむを得ないことであつた。なぜなら、弁護側としては、裁判所がどの証人を信用できる証人として認めるつもりであるか、どの証人を拒否しようとするかを予見することができなかつたからである。これらの弁論は大部分失敗に終つている。というのは、証人として率直さを欠くために、裁判所では信頼できるものと認めるつもりのない人々の証言に、かれらの議論の基礎が置かれていたからである。
 こういつた証人の証言のほかに、非常に多数の文書が提出され、証拠として受理された。これらの文書は性質においてさまざまであり、ドイツの外務省を含めて、多くの出所から来たものである。裁判所にとつては、日本の陸海軍、外務省、内閣、その他政府の政策樹立機関の重要な公式記録の原本の多くが存在しないという不利があつた。ある場合には、写であるといわれるものが提出されたが、何かの価値のあることが分るかもしれないから、そのために受理された。公式記録の存在しないのは、日本に対する空襲中に焼失したことと、降伏後に陸海軍が故意にその記録を破棄したこととによるとされた。爆撃が始まつたとき、または切迫していたときに、外務省や内閣官房やその他の重要な官庁のこのように大切な書類が、安全な場所に移されなかつたというのは、奇怪なことに思われる。(E-21)これらの書類がこのようにして破棄されたのでなく、この裁判所に提出されないように抑えられているということがわかつたならば、国際正義のためにとつて、著しい害が加えられたことになるであろう。
 われわれとしては、入手し得た証拠について、われわれが受理した他の証拠と照合によつて結びつけた上、これに頼るほかはない。これらの書類がないことは、われわれが事実を探求するにあたつて不利となつたけれども、他の出所から、関連性のある情報を多量に入手することができた。非公式の、あるいは少なくとも半公式の性質にすぎないところの、この種の他の証拠のうちには、木戸被告の日記と西園寺・原田回顧録とが含まれている。
 おびただしい量に上る木戸の日記は、一九三〇年から一九四五年までの期間にわたつて、かれが内大臣秘書官として、国務大臣として、それから後には、内大臣の職を占めていた間、枢機にあずかる天皇の助言者としての地位において、重要な人物との折衝をその当時に記録したものである。これらの事情にかんがみて、われわれはこの日記を重要な文書と考えている。
 いま一つの重要な文書、または一連の文書ともいうべきものは、西園寺・原田回顧録である。(E-22)これは弁護側の酷評の的となつたのであるが、それは無理もないことであつた。というのは、これらの文書の中には、弁護側が迷惑におもつた辞句があつたからである。われわれは、この批評は充分な根拠がないという意見をもつものであつて、これらの文書に対して、弁護側がわれわれに望んだところよりも、大きい重要性を与えている。西園寺公は最後の元老として特殊の地位を占めていたので、その秘書原田を通じて、真相を充分にあからさまに知ることができた。政府や陸海軍の最高上層部から情報を入手するという、この特別な任務において、原田が長い間元老に仕えたということは、かれが信頼しうる人で、思慮があることを示すものである。もし弁護側で言つているように、かれが信頼するに足りず、また無責任であつたとしたら、かれの情報の入手先である重要な人物と、西園寺公がみずから頻繁に接触したことから見て、公は間もなくこれに気がついたであろう。そして、原田はこの役目に引き続いて留まつていなかつたであろう。裁判所に提出された西園寺・原田文書の確実性については、これらの文書が原田によつて口述され、西園寺によつて校訂された回顧録の原本であることを、裁判所は認めるものである。これらの文書が本件に関連性をもつている限り、それに記録されている事柄について、これらの文書は有用な、信頼のできる、当時の証拠であると裁判所は考える。