山田支隊 その他

・機関銃の耐久性能(多数弾連続発射後の諸現象)

・秦賢助「捕虜の血にまみれた白虎部隊」(『日本週報』昭和32年2月25日号)

・両角業作への取材経緯(『ふくしま戦争と人間』・『南京の氷雨』)

・阿部輝郎による鈴木明への取材協力(『南京の氷雨』)

・阿部輝郎の取材状況(『南京の氷雨)

・福島県戦死者名簿(1937年11月〜1938年4月) NEW

参考資料




機関銃の耐久性能(多数弾連続発射後の諸現象)

陸軍歩兵学校編『機関銃教練ノ参考(分隊戦闘)第二巻』陸軍歩兵学校将校集会所発行、昭和13年3月20日(国会図書館デジタルコレクション所収)pp.64-71

多数弾発射に伴ふ諸現象の他参考事項
一、多数弾連続発射後の諸現象(三年式の実験値)
(一)銃身(腔中)熱度の関係
発射弾三百発迄は概ね一発につき一度の割にて増加、三百発以上は二発につき一度の割にて上昇す

(二)熱度と公算躱避
銃身冷却時の公算躱避を一とすれば
六〇〇――二〇〇〇発連続発射後熱したるまゝなれば
同じく冷却しても手入せざるときは
三、四〇〇――三、八〇〇発連続発射後

(三)初速の減度は著しからず

(四)金質には大なる影響なきも銃の命数には大なる関係を及ぼす

(五)多数弾発射に伴ひ規整子■分昼■を伸縮するを要する

(六)油槽の油は一杯に充填せば深さ三糎なり
多数弾発射後其消費量を点検せるに銃によりて大なる差あるも十連発射に要せる油量は概して一粍乃至六粍の深さを消費せり
油の消費量も亦銃の固癖なる如し(主として油導子同発條等の機能を差にるが如し)而して油を多く要する銃は発射に際し銃の油煙(熱のため油燃焼する薄煙)多きを以て概ね判定し得

(七)故障は発射弾多きに従ひ増加の傾向あり故に機会を得ば直に手入を行ふこと肝要なり(手入れ部参照)

(八)照準線は上方に偏するを以て約三連毎に修正するを要す

二、銃の冷却の手段
戦闘の後各種の手段を尽して銃の冷却を図るを要す而して各種の手段を尽すとは精神上の意を多分に含むものにして具体的の方法としては戦場に於ける実際の状態より考ふれば多数あるべきものにあらず左に若干の例を挙ぐ

(一)自然冷却
槓桿を引き遊底を開き、腔中の通風を良好ならしむ

(二)水冷却
冷却法中最も実用的にして又効果多きものとす其の要領左の如し
(1)予め準備せる水(或は水嚢、水筒等の水)を直接銃身を注ぎて冷却す
(2)雑布等を濡らしてつけ屡〃交換す
(3)右の如く雑布をかけて其の上より絶えず水をかくるを可とす
(4)戦闘後等にて附近に水あるときは其位置にて手にて水をかくるを可とす
(5)水冷却につき疑問を生ずるは熱したる銃身に冷水を注ぎて金質に差支なきやの件なり本件は金質に及ぼす作用寧ろ自然冷却よりも有利なりと称せらる

(三)草葉雪等による冷却
雪或は冷たき草葉等を直接銃身にあて冷す

(四)風による冷却
1、通風よき所に出して(戦闘中は斯くの如きことは不可能ならんも射撃中止間ならば為し得る場合あらん)冷す
2、銃尾機関を開放し風の流通を良好ならしむ
3、帽子其他所在の物を以て煽き風を送りて冷す

三、熱の発生と冷却の実験(三年式機関銃の実験値)
以上各種の方法を講じて如何なる程度に冷却し得べきや又は幾何の発射後素手にて持つに幾何の時間を要すべきや等は当時の気温、気象等の殊に風により著しく差異あるを以て一概に之を説明し難きも左に二、三の実験を揚げ参考に資せんとす
(1)三連発射後耐熱銃身覆を用ひて約三、四分後銃身を握り得
(2)五連(一五〇発)発射せるに銃身を握り得ず
(3)約六〇連(一八〇〇発)発射せるに煙草に点火し得るに至れり之を水にて冷却せるに七分にて銃身を持ち得るに至れり自然冷却に任するときは少なも三十分を経ざれば持ち得ざるべし
(4)二〇〇〇発発射せるに外部の熱二九〇度に登り自然冷却を待ちしに銃身を持ち得る迄約一時間を要せり

(四)手入、注油、各部の点検要すれば部品の交換に就て
機関銃は前述の如く数百否数千発の射撃にも抗堪し得べしと雖も発射に伴ひ火薬燼焔の累積、塵埃の附着等に因り故障を生起するに至るへきを以て射撃の間断を利用し絶へず重要部の手入を実施し以て故障の発生を予防せざるべからず若し戦況分解手入を許さざるときは約二〇連の発射毎に薬室を開き遊底の頭部薬室に塗油するを可とす然るときは幾分か故障を予防し得べし何となれば右の二ケ所は燼■の最も附著し易き場所なるを以てなり
油の消費量につきては前述せるが如き状態なるを以て油槽の油を充実することにも著意しあるを要す
射撃中銃の各部に欠損緩解、螺子の戻回等を生じ故障となること少からす特に瓦斯誘導螺の状態には留意を要す
之が緊定不十分なりし為弛緩して瓦斯漏を生じ又甚だしきは戻回して瓦斯「ポンプ」内に脱落せるが如き例あり又撃莖尖頭折損し折れたる尖端が円筒頭部撃莖室内にて動揺し「マクレ」を生ぜる例あり発射約二〇連にして閂子欠損せることあり
抽筒子「ばね」弱きため抽筒子脱出し円頭と「ばね」との間に介在して故障を生ぜることあり又脱管の結果雷管が円筒頭部室に付着し突込を生ずることあり
舌形板の端末に反起を生じ或は下方に曲りたるため保弾板の前端引かかりて装填不能を生ずることあるを以て注意を要す
要するに射撃に際しては射撃の中止間と実施間とを問はず絶えず各部の機能爆等音に注意し又打殻薬莢を点検し要すれば銃の部品交換を行ひ以て故障の絶滅を期せざるべからず戦況中に於てもなし得れば地形を利用し分隊長以下協同して手入、点検を行ひ且戦ひ且手入するの要領を会得するに至りて初めて分隊は戦闘教練に慣熟したりと称し得べきなり

陸軍歩兵学校編『機関銃教練ノ参考(分隊戦闘)第二巻』



秦賢助「捕虜の血にまみれた白虎部隊」

(前略)
  上海戦の次に直面したのは、江陰城のたたかいで、これも激戦であつた。さらに、鎮江の激戦を経て、追撃戦にうつり、南京攻略戦にうつつていつた。昭和十二年十二月十三日、南京郊外二キロの地点、揚子江の沿岸にある幕府山砲台を占領して、凱歌をあげ、この戦いで実に二万の捕虜を、白虎部隊は得た。未曾有ともいうべきこの大量捕虜の中には、老陸宅、馬家宅に拠つて、白虎部隊に悪戦苦闘をさせた約二千の残敵も混つていた。
  南京は脇坂部隊の一番乗りによつて陥落し、南京入城の日は、白虎部隊は、部隊の数倍にあたる捕虜を引きつれていたのだから、壮観であつたが、何しろあまりにも大量の捕虜を得て、始末に困るほど、途方にくれた。飯を食わせてやらねばならないが、第一食糧は欠乏している。手当もしてやらねばならぬ。厳重な監視も必要である。一部隊の仕事としては、これだけでも、大変なことであつた。
(中略)

 十七日の、歴史的な入城式を控えて、十三日の夜から三日間、南京市内と、城外揚子江畔において、眼も覆う、大虐殺事件は、展開されたのである。

(中略)

 さらに、大量虐殺の汚名をきて、全世界の非難を浴びたのは、捕虜を殺戮したことである。先にも述べたように、多くの部隊はたくさんの捕虜をつれて、処理に困つていたときであるから、「殺してしまえ」と、誰いうとない。デマのごとくに伝つて来たそのことに乗つて、これまた、いたるところの空地で、何百人もの捕虜を集めて、一人一人斬り殺すのも面倒とばかり、銃弾を浴びせ殺してしまつた。

両角大佐の苦悶

 虐殺事件は、十五日の午後から、夜にかけて、頂点に達した。
  この日、南京市街を太平門に向つて歩いてゆく捕虜の行列があつた。おびただしいその数は、二万を数えられた。
  もともと給与の悪条件に置かれた彼らの、武装を解除せられた姿は、まるで乞食にもひとしかつた。青ざめ、恐怖にふるえ、あるいは虚脱して、ボロを下げた彼らは、素足で寒さにおののく者もいた。まるで屠所に曳かれてゆく姿であつた。
  これぞ、白虎部隊が、南京入城に際して、お土産につれて来た大量捕虜であつた。
  果てしない行列の前途に待つている運命は、まさに、死であつた。
「花の白虎部隊」とまで、謳われたこの部隊の捕虜になつた彼らを、虐殺したのは、果たして、白虎部隊の過誤であつたろうか。人情部隊長とまでいわれた両角大佐の意図であつたろうか。それとも、師団長である荻洲部隊長荻洲立兵中将がえらんだ、処理方法であつたろうか。
  軍司令部からは、何回か中央(参謀本部、陸軍省)に請訓された。最初の訓電は「よろしく計らえ」であつた。ばくぜんたるこんな命令では、処理のしようもない。重ねて求めた訓電も「考えて処理せよ」である。どう考えていいのか、迷つて、三度の請訓には「軍司令部の責任でやれ」と、命令してきた。軍司令部では、中央の煮えきらぬ態度と見た。朝香中将宮殿下を迎えての入城式を眼前にひかえて、軍司令部は焦つた。
「殺してしまえ」
  この結論は、雑作もなく出た。すでに城内では捕虜を殺しているし、一兵の姿も見ないまで、残敵を掃蕩しつくしている。それに、二万の捕虜を、食糧も欠乏している際、そうするしかないと、考えるにいたつた。
  しかし、両角大佐はさすがに、反対したという。わが手に捕えて、武装は解除しても、釈放して、帰郷させたい肚には、変りがなかつた。
  けれども主張は、通らない。部隊長といつても、一連隊長にすぎない。それに、どの部隊も、大陸戦線において、連戦連勝、有頂天に驕つていたのだから、気も立つていたろう。何でもかんでも、やることになつた。
  松井大将がこれを知つていたか、どうかは謎だといわれている。後になつて「しまつた」と叫んだくらいだから、恐らく、後の祭となつたものであろう。知つていたにしても、あの時の情勢、環境に押し切られてしまうことも明らかだ。しかし、東京裁判では、はつきり事実を認め、武人らしい責任を一身に負つている。

『日本週報』No398昭和32年2月25日号 1957年p.13-15



両角業作への取材経緯

『ふくしま 戦争と人間』(1982年)pp.127-128

 お断りしておきたいが、この回想メモは公開を予期して書かれたものではない。すでに故人となられた両角連隊長がその生前、記者にひそかに貸し与え、それを書写しておいたものである。このとき「南京虐殺に若松連隊が関係したとされているが、真実はこのなかに書いてある」と語られたことを思い起す。人情部隊長として兵隊に親しまれ、また戦闘にあたっては果断な活躍をされた両角連隊長。回想ノートを手渡しながら「誤り伝えられていることが多くて……」と、ふと顔をくもらせた。

『南京の氷雨』(1989年)p.65

  歩兵第六十五連隊長の両角業作大佐は、戦後は東京の杉並に住み、既に故人となっているが、昭和三十六年から三十七年にかけ、取材のため何回か訪問した私に、詳細に当時の事情を説明し、また分厚いノートを貸してくれた。「日記は簡単な記述なので、これを基礎にしながら戦後になって激戦の思い出を書きとめたものですよ。人に見せるつもりで書いたものではないが……」とのことだったが、戦術の反省なども含め、詳細に書きとめてある。日記の重要部分、回想ノートの重要部分を筆写することを快諾された。筆写したものは今も私は持っている。



阿部輝郎による鈴木明への取材協力
『南京の氷雨』1989年

(註=角田中尉の話に出ている「ルポライター鈴木明……」とあるのは、昭和四十七年、鈴木明氏が「南京大虐殺のまぼろし」を取材したときのこと。同書はこの年の大宅壮一ノンフィクション賞を受けている。私はこのとき山田旅団長の日記などについて教えた)

『南京の氷雨』p.87-88



阿部輝郎の取材状況

 私は、以前から多くの証言を集め、ノートに書きとめていた。かつて福島県の『郷土部隊戦記』(全三巻)や『ふくしま戦争と人間』(全八巻)など一連のものを執筆するための取材(昭和三十六年から三年間、昭和五十年から五年間にわたる)を通じ、関係者多数の話を聞いていたからだ。山田旅団長の日記、両角連隊長の回想ノートも、そうした中の一部である。

『南京の氷雨』p.92



福島県戦死者名簿(1937年11月〜1938年4月)

【 註記
本名簿は『支那事変郷土部隊写真史 両角外部隊戦況と銃後の実況』(福島民報社編刊 1938年)の中で「不滅の英霊 戦病死者氏名」として掲載された戦死者名簿のうち、戦死病死月日が1937年11月〜1938年4月のものを抽出したリストである。したがって、名簿のうち1937年8月〜10月分は省略している。
ここで示されたのは、あくまでも福島県下の戦死者名簿であり、すべてが山田支隊に関連するものではない。また逆に、山田支隊に所属していたとしても、福島県外の者は記載されていないと思われる。
色つきのセルは、幕府山事件の関連が疑われる部分で、青→関連性なし、黄→判断不能、赤→疑い濃厚、となっている。検証内容は「K-K註」の欄に記載した。

市町村
氏名
階級
戰死病死月日
戰死場所
K-K註
福島市 上野喜與司 歩兵少尉 1937年11月2日 上海
福島市 齋野善一 歩兵一等兵 1937年11月1日 上海
福島市 日下榮助 歩兵一等兵 1938年3月3日 (記述なし)
福島市 齋藤善七 輜重特務兵 1937年11月11日 上海
福島市 加藤文三 歩兵一等兵 1937年12月14日 上海 『官報 1939年12月02日』 「同日(昭和12年12月14日)中支那ニ於テ病死」、階級は歩兵上等兵と記載
福島市 佐藤勇 工兵二等電工長 1937年11月20日 上海
福島市 濱野文男 歩兵中尉 1938年1月16日 上海
福島市 小田良兒 輜重上等兵 1937年12月25日 江蘇省西石橋
福島市 管野勝雄 歩兵上等兵 1937年11月19日 江蘇省謝家橋鎭
福島市 高橋政一 工兵一等兵 1938年1月1日 病院死
 
若松市 折笠千代吉 砲兵一等兵 1937年11月13日 上海
若松市 渡邊政勝 砲兵一等兵 1937年11月16日 陽康野戰病院
若松市 宮崎政一 歩兵一等兵 1937年11月24日 上海
 
平市 長瀬徳男 歩兵一等兵 1937年11月2日 陸家屯
平市 菅本利雄 輜重特務一等兵 1937年12月1日 ○○○○第一野戰病院
 
信夫郡飯坂町 齋藤初太郎 歩兵軍曹 1938年1月26日 蘇家巷
信夫郡庭塚村 三浦伊三郎 工兵一等兵 1937年11月4日 上海
信夫郡庭塚村 加藤修輔 砲兵上等兵 1937年11月16日 上海
信夫郡野田村 吉野武三 工兵伍長 1937年12月25日 天津第四兵站病院
信夫郡野田村 石田清市 砲兵上等兵 1937年12月19日 上海野戰病院
信夫郡餘目村 菅野源兵衞 歩兵上等兵 1937年11月11日 ○○○第四野戰病院
信夫郡庭坂村 二丹吉藏 歩兵上等兵 1937年12月1日 ○○○第三野戰病院
信夫郡大森村 河戸三郎 歩兵伍長 1937年11月24日 江蘇張家基
信夫郡荒井土湯組合村 加藤重吉 歩兵伍長 1937年11月14日 江蘇省長徑鎭
 
伊達郡桑折町 八城幸四郎 歩兵一等兵 1937年11月5日 上海野戰病院
伊達郡長岡村 齋藤久市 工兵上等兵 1937年11月13日 北支正太線附近
伊達郡半田村 半澤太吉 輜重特務兵 1937年11月19日 廣島陸軍病院
伊達郡山舟生村 八巻岱市 工兵伍長 1937年12月9日 南京南門
伊達郡粟野村 渡邊國雄 歩兵伍長 1937年11月18日 江蘇省謝家橋鎭
伊達郡柱澤村 大戸義雄 輜重特務一等兵 1937年11月19日 上海野戰病院
伊達郡伏黒村 佐藤定士 歩兵一等兵 1937年11月2日 玉家宅
伊達郡伏黒村 菅野幸雄 航空兵伍長 1937年12月4日 北京西南方
伊達郡伏黒村 菊地與市 歩兵上等兵 1937年11月17日 江蘇省謝家橋鎭
伊達郡小國村 佐藤豐治 海軍三等兵曹 1937年11月30日 廣東省上川島
伊達郡小國村 齋藤孝平 砲兵上等兵 1937年11月5日 保定第三兵站病院
伊達郡靈山村 菅野太郎兵衞 歩兵軍曹 1937年12月23日 老陸宅 『郷土部隊戦記第1』pp.53-54では戦死日10月23日、歩65第6中隊所属と記載
伊達郡靈山村 大槻久市 歩兵上等兵 1937年12月14日 江蘇省幕府山砲台 『官報 1939年12月02日』では昭和12年12月14日 「中支那ニテ戦死」との記載
『郷土部隊戦記第1』p.105 12月14日幕府山山頂付近の監視所内での戦闘で戦死と記載
伊達郡月館町 高橋芳忠 砲兵上等兵 1937年11月17日 ○○○第四野戰病院
伊達郡石戸町 渡邊重光 歩兵上等兵 1937年12月14日 江蘇省幕府山 『官報 1939年12月02日』では昭和12年12月14日 「中支那ニテ戦死」と記載
『郷土部隊戦記第1』p.105 12月14日南京付近の戦闘の戦死者として記載
伊達郡石戸町 小手森喜三郎 歩兵上等兵 1937年11月29日 江蘇省南閘鎭
伊達郡川俣町 山口順一郎 工兵一等兵 1937年11月13日 北支正太鐵道沿線
伊達郡小手村 後藤利雄 歩兵上等兵 1937年11月8日 江蘇省北覧溝
伊達郡富田村 高野倉作 歩兵一等兵 1937年11月15日 江蘇省周家巷第四野戰病院
伊達郡富田村 齋藤輝喜 工兵一等兵 1938年2月2日 杭洲野戰病院
伊達郡福田村 宍戸光雄 歩兵一等兵 1937年11月8日 ○○宅野戰病院
 
安達郡鹽澤村 西東寅次 輜重特務兵 1937年11月15日 第三野戰病院
安達郡澁川村 丹治健造 歩兵一等兵 1937年11月17日 江蘇省謝家橋鎭
安達郡上川崎村 安齋駒平 工兵上等兵 1937年12月20日 南京方化城 『官報 1938年11月08日』では昭和12年12月20日「中支那ニテ戦死」と記載
安達郡下川崎村 菅野金次郎 歩兵上等兵 1937年11月18日 江蘇省謝家橋鎭
安達郡下川崎村 佐藤太郎 歩兵上等兵 1937年12月1日 横塘里
安達郡玉井村 渡邊武雄 歩兵上等兵 1937年11月2日 上海第四野戰病院
安達郡石井村 佐久間巳代吉 歩兵一等兵 1937年11月2日 ○○橋第四野戰病院
安達郡小濱町 佐藤正勝 歩兵伍長 1937年11月18日 江陰
安達郡小濱町 伊藤正二 歩兵上等兵 1937年11月14日 上海第一兵站病院
安達郡小濱町 渡邊力三 輜重一等兵 1937年12月1日 ○○○○○○第一野戰病院
安達郡太田村 柏木一 歩兵上等兵 1937年11月28日 江蘇省南閘鎭
安達郡木幡村 武藤義雄 砲兵上等兵 1937年11月20日 ○○○○○第二野戰病院
安達郡針道村 鴨原茂義 砲兵上等兵 1937年11月28日 ○○○○○第二野戰病院
安達郡山木屋村 紺野一 歩兵上等兵 1937年11月23日 長經鎭
 
安積郡三代村 木伏長司 歩兵上等兵 1937年11月7日 孟家屯
安積郡永盛村 柳沼次良 歩兵上等兵 1937年12月1日 江陰
 
岩瀬郡須賀川町 高倉清 歩兵上等兵 1937年11月25日 江陰
岩瀬郡須賀川町 佐藤定一 歩兵上等兵 1937年12月18日 南京上天門 『郷土部隊戦記第1』p.105 12月14日南京付近の戦闘の戦死者として記載
南京上天門→南京上元門の誤記か?
岩瀬郡須賀川町 佐藤源治 輜重特務兵 1937年11月12日 羅店鎭
岩瀬郡鏡石村 能瀬正治 衛生一等兵 1937年11月16日 上海周家巷
岩瀬郡濱田村 鈴木隆一 歩兵上等兵 1937年11月17日 謝家橋鎭
岩瀬郡濱田村 鈴木末壽 歩兵上等兵 1937年12月25日 秀蔡庵
岩瀬郡西袋村 根本誠一郎 歩兵上等兵 1938年1月27日 満洲國三江省通河縣
 
東白川郡近津・山岡村 我妻直 歩兵一等兵 1937年11月29日 南京江陰
東白川郡近津・山岡村 鈴木達雄 歩兵伍長 1937年12月1日 南京江陰城
東白川郡豐里村 鈴木壽 輜重特務兵 1938年1月17日 天津野戰病院
東白川郡豐里村 佐藤秀吉 歩兵一等兵 1937年11月23日 張冶N
東白川郡常豐村 小松龍馬 歩兵上等兵 1937年11月18日 謝家橋鎭
東白川郡鮫川村 藤田亘 歩兵上等兵 1937年11月6日 上海
東白川郡鮫川村 鈴木國太郎 歩兵一等兵 1937年11月18日 南京 『郷土部隊戦記第1』pp.91-92 長経鎮戦(江陰城前)にて戦死
東白川郡竹貫村 小平吉勝 歩兵一等兵 1937年11月6日 上海
東白川郡宮本村 鈴木八郎 歩兵一等兵 1937年11月18日 謝家橋鎭
 
西白河郡白河町 伊丹善次郎 輜重一等兵 1937年12月4日 ○○○○橋第四野戰病院
西白河郡白河町 吉田隊次 歩兵上等兵 1937年11月2日 ○○宅第一野戰病院
西白河郡中畑村 田中幸喜 輜重一等兵 1937年11月9日 上海
 
石川郡川東村 安田忠一 輜重一等兵 1937年12月24日 楡次野戰病院
石川郡大森田村 關根長壽 歩兵上等兵 1937年11月1日 老陸宅
石川郡大森田村 井上香苗 歩兵伍長 1937年11月10日 江蘇省常熟
石川郡須釜村 宗形鶴一 歩兵少尉 1937年12月14日 南京幕府山 遠藤重太郎日記(歩65第1大隊本部)「宗形君は十二月十七日夜十時戦死」
福島民友新聞・福島民報 両紙共1938/2/8発行 12月24日付の戦死報告が出ている
『郷土部隊戦記第1』p.97では 江陰城戦の戦死者として記載(日付不明 11/26-12/2)
石川郡蓬田村 遠藤叡 海軍一等航空兵曹 1937年11月26日 台北洲〔竹冠+土〕山
石川郡淺川町 兼子要喜 歩兵少尉 1937年11月17日 謝家橋鎭
石川郡山白石村 岡田喜右衛門 歩兵上等兵 1937年11月10日 ○○巷第四野戰病院
 
田村郡巌江村 阿久津次男 海軍三等航空兵曹 1937年11月11日 南京
田村郡中妻村 鈴木往由 工兵一等兵 1937年11月21日 野戰病院
田村郡守山町 遠藤菊雄 歩兵軍曹 1937年11月6日 周家宅
田村郡御館村 横田武廣 歩兵一等兵 1937年11月30日 南京江陰
田村郡中郷村 宗像善久 歩兵上等兵 1938年2月20日 東京第一陸軍病院
田村郡小野新町 先崎貞吉 山砲兵上等兵 1937年11月20日 江蘇省謝家橋鎭
田村郡船引町 助川傳吉 歩兵上等兵 1937年11月6日 上海
田村郡船引町 柳沼千代重 工兵上等兵 1937年12月13日 南京南門
田村郡瀬川村 佐々木一郎 輜重特務兵二等兵 1938年1月20日 山西省楡次陸軍野戰病院
 
南會津郡旭田村 室井勇吉 輜重一等兵 1937年12月14日 山西省楡次野戰病院
南會津郡旭田村 湯田國吉 歩兵上等兵 1937年11月6日 周家宅
南會津郡楢原村 渡部七郎 歩兵准尉 1937年12月1日 江陰
南會津郡荒海村 湯田源藏 輜重一等兵 1938年1月2日 山西省楡次野戰病院
南會津郡大宮村 五十嵐政喜 歩兵上等兵 1938年1月27日 満洲三江省通河縣
南會津郡富田村 渡部四郎 歩兵伍長 1937年11月23日 謝家橋鎭
 
北會津郡荒井村 山口進 歩兵伍長 1937年11月17日 謝家橋鎭
北會津郡川南村 荒井幸助 歩兵伍長 1937年11月4日 馬家宅
北會津郡川南村 山口泰三 歩兵伍長 1937年11月6日 上海
北會津郡川南村 高橋平作 歩兵軍曹 1937年11月17日 謝家橋鎭
北會津郡門田村 鈴木正助 輜重特務兵 1937年11月11日 上海
北會津郡東山村 玉川登 海軍一等整備兵曹 1937年11月26日 台北洲内寮山腹
北會津郡一箕村 高畑九十九 輜重特務兵 1937年11月12日 羅店鎭
 
耶麻郡喜多方町 大森正太郎 工兵一等兵 1937年11月6日 河北省磁縣下七垣村
耶麻郡喜多方町 伊藤誠 工兵上等兵 1937年12月27日 江蘇省寶山縣陳宅
耶麻縣加納村 長谷川貞雄 歩兵一等兵 1937年11月25日 江蘇省三家村
耶麻縣加納村 宇内常喜 歩兵伍長 1937年11月30日 江蘇省南閘鎭
耶麻郡堂島村 邊見三郎 歩兵上等兵 1937年11月6日 周家巷
耶麻郡姥堂村 飯田竹次郎 歩兵上等兵 1937年12月9日 ○○○第一野戰病院
耶麻郡長瀬村 半澤四郎 歩兵一等兵 1937年11月24日 江蘇省五家巷
耶麻郡吾妻村 土屋敬止 工兵上等兵 1937年12月11日 南京南門 『官報 1938年10月14日』では12月12日「中支那ニ於テ戦死」と記載
工兵第3連隊所属(※1)
耶麻郡吾妻村 一ノ瀬友雄 工兵上等兵 1938年1月24日 旅順陸軍病院
耶麻郡山都村外二ケ村 平山繁雄 歩兵一等兵 1937年12月24日 老陸宅 『官報 1939年11月22日』、『郷土部隊戦記第1』p.55共に10月24日戦死と記載
耶麻郡豐川村 湯上馨 歩兵上等兵 1937年11月15日 浙江省羅店鎭
耶麻郡相川村組合 高橋好男 歩兵伍長 1937年11月10日 江蘇省北梅宅
 
河沼郡坂下町 山口慶雄 輜重特務兵 1937年11月7日 ○○○兵站病院
河沼郡坂下町 田中忠義 海軍三等兵曹 1937年11月20日 江蘇省頭北橋
河沼郡堂島村 花泉富代 工兵一等兵 1937年11月21日 上海
河沼郡川西村 渡部太門 輜重特務一等兵 1937年11月16日 上海羅店鎭
河沼郡柳津村 鈴木清喜智 歩兵一等兵 1937年11月11日 病院船
河沼郡柳津村 白井直美 歩兵上等兵 1937年11月1日 上海第一野戰病院
河沼郡新郷・千咲村 佐藤佐京 歩兵一等兵 1937年11月21日 分揚家宅
河沼郡群岡村外二ケ村 江川等 歩兵伍長 1937年11月17日 上海
河沼郡群岡村外二ケ村 佐藤寅雄 砲兵上等兵 1937年11月22日 港口鎭野戰病院
河沼郡勝常村 高畑明 歩兵上等兵 1937年11月5日 陸家宅
 
大沼郡高田町 佐々木六郎 歩兵一等兵 1937年11月2日 上海派遣軍第四野戰病院
大沼郡尾岐村東尾岐村組合 川島芳喜 衛生伍長 1937年11月12日 上海野戰病院
大沼郡尾岐村東尾岐村組合 坂内清正 砲兵上等兵 1937年11月17日 上海野戰病院
大沼郡尾岐村東尾岐村組合 長嶺林三郎 歩兵一等兵 1937年11月29日 馬家宅
大沼郡藤川村 武田信夫 砲兵上等兵 1937年12月19日 滌縣※ 『官報 1939年04月05日』では1937年12月19日「中支那ニ於テ戦死」と記載
※〔サンズイ+除〕縣?
大沼郡玉路村 小林緑 騎兵上等兵 1937年11月25日 満洲國三河省陸軍病院
大沼郡玉路村 一ノ瀬賢三郎 航空一等兵曹 1938年1月27日 江西省南昌
大沼郡川口村本名村組合 坂内勇 歩兵一等兵 1937年11月6日 馬家宅
大沼郡昭和村 佐々木經雄 歩兵一等兵 1937年11月29日 南閘鎭
 
石城郡泉村 佐川信孝 歩兵一等兵 1937年11月30日 南閘鎭
石城郡泉村 上遠野繁一 歩兵伍長 1938年1月16日 ※ 江蘇省揚巷子 ※表記「〃(1937年) 一、一六」を修正
石城郡錦村 赤津宇衞門 歩兵伍長 1937年11月18日 老陸宅
石城郡勿來町 大和田熊太郎 歩兵一等兵 1937年12月9日 カコクソレ
石城郡勿來町 酒井健一郎 砲兵伍長 1937年12月9日 ○○○○第二野戰病院
石城郡渡邊村 荒川信義 歩兵上等兵 1937年11月14日 ○○○第四野戰病院
石城郡川部村 園部敬助 工兵上等兵 1938年1月4日 南京 『官報 1938年10月14日』では1938年1月5日「中支那ニ於テ戦傷死」と記載
石城郡豐間村 大峯清太郎 歩兵上等兵 1937年12月1日 江陰城
石城郡鹿島村 荒川清 歩兵上等兵 1937年11月23日 長經鎭
石城郡磐崎村 高木三平 歩兵上等兵 1937年12月1日 (なし)
石城郡磐崎村 越沼林平 歩兵上等兵 1937年11月3日 (なし)
石城郡湯本町 戸田堅太郎 海軍航空二等兵曹 1937年8月15日 南京
石城郡湯本町 橋谷田潔 歩兵一等兵 1937年11月6日 北覧溝
石城郡湯本町 荒川正海 歩兵一等兵 1937年12月10日 廣島陸軍病院
石城郡湯本町 鈴木鶴雄 歩兵一等兵 1937年11月12日 上海
石城郡湯本町 關根新之助 歩兵一等兵 1937年11月29日 江陰
石城郡内郷村 松崎光雄 海軍二等兵曹 1937年11月1日 旅順海軍病院
石城郡内郷村 田邊操 歩兵上等兵 1937年11月30日 南京 『郷土部隊戦記第1』p.97 江陰城戦の戦死者として記載(日付不明 11/26-12/2)
石城郡好間村 増子金一 歩兵一等兵 1937年11月6日 上海
石城郡好間村 松井銀次郎 工兵一等兵 1937年11月15日 上海
石城郡赤井村 鈴木渉 歩兵一等兵 1937年12月10日 常熟野戰病院
石城郡大浦村 坂本誠 歩兵軍曹 1937年11月16日 ○○○第四野戰病院
石城郡四ツ倉町 出羽公一 歩兵上等兵 1937年11月2日 ○○○野戰豫備病院
石城郡四ツ倉町 諸橋徳藏 鐵道兵上等兵 1937年12月16日 山海關第四兵站病院
石城郡澤渡村三坂村 草野正平 歩兵伍長 1938年1月27日 滿洲國三江省通河縣
石城郡澤渡村三坂村 三瓶理喜男 歩兵上等兵 1937年11月29日 南閘鎭
石城郡山田村 蛭田倉之助 歩兵上等兵 1937年11月17日 謝家橋鎭
 
雙葉郡廣野村 黒田敏雄 歩兵伍長 1937年11月7日 ○○○第一野戰病院
雙葉郡川内村 箭内良助 輜重特務兵 1938年1月7日 崔庄
雙葉郡津島村 龜谷榮松 工兵上等兵 1937年11月22日 河北省順徳野戰予備病院
雙葉郡津島村 末永惣吉 歩兵上等兵 1937年11月6日 周家宅
雙葉郡葛尾村 菅野平吉 海軍航空兵曹長 1937年11月11日 南京
雙葉郡葛尾村 新開寶慶 歩兵上等兵 1937年12月14日 上元門要塞 『郷土部隊戦記第1』p.106 12月14日南京付近の戦闘の戦死者として記載
雙葉郡大堀村 山田淺治 工兵一等兵 1937年11月24日 上海
 
相馬郡中村町 高橋定治郎 歩兵上等兵 1937年11月6日 上海
相馬郡石神村 遠藤武雄 歩兵上等兵 1937年11月8日 上海
相馬郡石神村 光野文藏 輜重特務兵 1937年12月2日 上海
相馬郡太田村 木幡貞藏 歩兵少尉 1937年11月6日 上海
相馬郡小高町 小林一意 歩兵上等兵 1937年12月1日 江陰城
相馬郡金房村 小島相次郎 歩兵上等兵 1937年12月8日 ヨウザン
相馬郡飯曾村石橋村 菅野菊松 輜重一等兵 1937年12月10日 楡次野戰病院
 

附記
以上記した戰病死者氏名は昭和十三年四月二十五日までに縣下各市町村から縣に報告済みと
なつたものであつ、同日までの全戰病死者ではない。順序も縣廳への報告到着順である。
以上

『支那事変郷土部隊写真史』福島民報社編刊 1938年 ※国会図書館デジタルライブラリ所収

51コマ
52コマ

53コマ

54コマ

『支那事変郷土部隊写真史』福島民報社編刊1938年51コマ 『支那事変郷土部隊写真史』福島民報社編刊1938年52コマ 『支那事変郷土部隊写真史』福島民報社編刊1938年53コマ 『支那事変郷土部隊写真史』福島民報社編刊1938年54コマ
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56コマ
57コマ
58コマ
『支那事変郷土部隊写真史』福島民報社編刊1938年55コマ 『支那事変郷土部隊写真史』福島民報社編刊1938年56コマ 『支那事変郷土部隊写真史』福島民報社編刊1938年57コマ 『支那事変郷土部隊写真史』福島民報社編刊1938年58コマ

59コマ

60コマ
『支那事変郷土部隊写真史』福島民報社編刊1938年59コマ 『支那事変郷土部隊写真史』福島民報社編刊1938年60コマ    

※1 以下は『支那事変忠勇列伝 陸軍之部 第26巻』(軍人援護会編 1943年)pp.553-555に拠る
土屋敬止(1914年〜1937、福島県耶麻郡吾妻村出身)
1934年12月 徴兵により「朝鮮工兵○○大隊」入営
1936年 除隊(上等兵、精勤章3回、善行証書・機工長適任証書)
1937年10月(※2) 応召、独立工兵第3連隊(山田茂工兵中佐)第3中隊(大林靖雄工兵大尉へ編入(※3)
同年11月上旬 杭州湾上陸、金山衛、安徳門、三里店
同年12月12日 南京城中華門攻撃における外濠架橋作業中に右大腿部に銃撃を受け戦死(同日15時10分)
※2 『十字鍬激動の青春 独工三戦友想い出集』(独工三誌編纂委員会編刊 1986年)pp.50-52によると、1937年10月12日付第十三号動員一号により動員開始、10月23日に動員終了
※3 『あしあと』(独立工兵第三聯隊戦友会編刊 1975年)

『支那事変郷土部隊写真史 両角外部隊戦況と銃後の実況』(NDLDC 51-60コマ)


参考資料
  • 『支那事変郷土部隊写真史 両角外部隊戦況と銃後の実況』福島民報社編刊 1938年(国会図書館デジタルコレクション所収)
  • 陸軍歩兵学校編『機関銃教練ノ参考(分隊戦闘)第二巻』陸軍歩兵学校将校集会所発行 1938年3月20日 (国会図書館デジタルコレクション所収)
  • 『日本週報』No398昭和32年2月25日号 1957年
  • 『ふくしま 戦争と人間』福島民友新聞社編刊 1982年10月
  • 『南京の氷雨』阿部輝郎 教育書籍 1989年12月20日