山田支隊 その他

・機関銃の耐久性能(多数弾連続発射後の諸現象)

・秦賢助「捕虜の血にまみれた白虎部隊」(『日本週報』昭和32年2月25日号) NEW

・両角業作への取材経緯(『ふくしま戦争と人間』・『南京の氷雨』) NEW

・阿部輝郎による鈴木明への取材協力(『南京の氷雨』) NEW

・阿部輝郎の取材状況(『南京の氷雨) NEW

参考資料




機関銃の耐久性能(多数弾連続発射後の諸現象)

陸軍歩兵学校編『機関銃教練ノ参考(分隊戦闘)第二巻』陸軍歩兵学校将校集会所発行、昭和13年3月20日(国会図書館デジタルコレクション所収)pp.64-71

多数弾発射に伴ふ諸現象の他参考事項
一、多数弾連続発射後の諸現象(三年式の実験値)
(一)銃身(腔中)熱度の関係
発射弾三百発迄は概ね一発につき一度の割にて増加、三百発以上は二発につき一度の割にて上昇す

(二)熱度と公算躱避
銃身冷却時の公算躱避を一とすれば
六〇〇――二〇〇〇発連続発射後熱したるまゝなれば
同じく冷却しても手入せざるときは
三、四〇〇――三、八〇〇発連続発射後

(三)初速の減度は著しからず

(四)金質には大なる影響なきも銃の命数には大なる関係を及ぼす

(五)多数弾発射に伴ひ規整子■分昼■を伸縮するを要する

(六)油槽の油は一杯に充填せば深さ三糎なり
多数弾発射後其消費量を点検せるに銃によりて大なる差あるも十連発射に要せる油量は概して一粍乃至六粍の深さを消費せり
油の消費量も亦銃の固癖なる如し(主として油導子同発條等の機能を差にるが如し)而して油を多く要する銃は発射に際し銃の油煙(熱のため油燃焼する薄煙)多きを以て概ね判定し得

(七)故障は発射弾多きに従ひ増加の傾向あり故に機会を得ば直に手入を行ふこと肝要なり(手入れ部参照)

(八)照準線は上方に偏するを以て約三連毎に修正するを要す

二、銃の冷却の手段
戦闘の後各種の手段を尽して銃の冷却を図るを要す而して各種の手段を尽すとは精神上の意を多分に含むものにして具体的の方法としては戦場に於ける実際の状態より考ふれば多数あるべきものにあらず左に若干の例を挙ぐ

(一)自然冷却
槓桿を引き遊底を開き、腔中の通風を良好ならしむ

(二)水冷却
冷却法中最も実用的にして又効果多きものとす其の要領左の如し
(1)予め準備せる水(或は水嚢、水筒等の水)を直接銃身を注ぎて冷却す
(2)雑布等を濡らしてつけ屡〃交換す
(3)右の如く雑布をかけて其の上より絶えず水をかくるを可とす
(4)戦闘後等にて附近に水あるときは其位置にて手にて水をかくるを可とす
(5)水冷却につき疑問を生ずるは熱したる銃身に冷水を注ぎて金質に差支なきやの件なり本件は金質に及ぼす作用寧ろ自然冷却よりも有利なりと称せらる

(三)草葉雪等による冷却
雪或は冷たき草葉等を直接銃身にあて冷す

(四)風による冷却
1、通風よき所に出して(戦闘中は斯くの如きことは不可能ならんも射撃中止間ならば為し得る場合あらん)冷す
2、銃尾機関を開放し風の流通を良好ならしむ
3、帽子其他所在の物を以て煽き風を送りて冷す

三、熱の発生と冷却の実験(三年式機関銃の実験値)
以上各種の方法を講じて如何なる程度に冷却し得べきや又は幾何の発射後素手にて持つに幾何の時間を要すべきや等は当時の気温、気象等の殊に風により著しく差異あるを以て一概に之を説明し難きも左に二、三の実験を揚げ参考に資せんとす
(1)三連発射後耐熱銃身覆を用ひて約三、四分後銃身を握り得
(2)五連(一五〇発)発射せるに銃身を握り得ず
(3)約六〇連(一八〇〇発)発射せるに煙草に点火し得るに至れり之を水にて冷却せるに七分にて銃身を持ち得るに至れり自然冷却に任するときは少なも三十分を経ざれば持ち得ざるべし
(4)二〇〇〇発発射せるに外部の熱二九〇度に登り自然冷却を待ちしに銃身を持ち得る迄約一時間を要せり

(四)手入、注油、各部の点検要すれば部品の交換に就て
機関銃は前述の如く数百否数千発の射撃にも抗堪し得べしと雖も発射に伴ひ火薬燼焔の累積、塵埃の附着等に因り故障を生起するに至るへきを以て射撃の間断を利用し絶へず重要部の手入を実施し以て故障の発生を予防せざるべからず若し戦況分解手入を許さざるときは約二〇連の発射毎に薬室を開き遊底の頭部薬室に塗油するを可とす然るときは幾分か故障を予防し得べし何となれば右の二ケ所は燼■の最も附著し易き場所なるを以てなり
油の消費量につきては前述せるが如き状態なるを以て油槽の油を充実することにも著意しあるを要す
射撃中銃の各部に欠損緩解、螺子の戻回等を生じ故障となること少からす特に瓦斯誘導螺の状態には留意を要す
之が緊定不十分なりし為弛緩して瓦斯漏を生じ又甚だしきは戻回して瓦斯「ポンプ」内に脱落せるが如き例あり又撃莖尖頭折損し折れたる尖端が円筒頭部撃莖室内にて動揺し「マクレ」を生ぜる例あり発射約二〇連にして閂子欠損せることあり
抽筒子「ばね」弱きため抽筒子脱出し円頭と「ばね」との間に介在して故障を生ぜることあり又脱管の結果雷管が円筒頭部室に付着し突込を生ずることあり
舌形板の端末に反起を生じ或は下方に曲りたるため保弾板の前端引かかりて装填不能を生ずることあるを以て注意を要す
要するに射撃に際しては射撃の中止間と実施間とを問はず絶えず各部の機能爆等音に注意し又打殻薬莢を点検し要すれば銃の部品交換を行ひ以て故障の絶滅を期せざるべからず戦況中に於てもなし得れば地形を利用し分隊長以下協同して手入、点検を行ひ且戦ひ且手入するの要領を会得するに至りて初めて分隊は戦闘教練に慣熟したりと称し得べきなり

陸軍歩兵学校編『機関銃教練ノ参考(分隊戦闘)第二巻』



秦賢助「捕虜の血にまみれた白虎部隊

(前略)
  上海戦の次に直面したのは、江陰城のたたかいで、これも激戦であつた。さらに、鎮江の激戦を経て、追撃戦にうつり、南京攻略戦にうつつていつた。昭和十二年十二月十三日、南京郊外二キロの地点、揚子江の沿岸にある幕府山砲台を占領して、凱歌をあげ、この戦いで実に二万の捕虜を、白虎部隊は得た。未曾有ともいうべきこの大量捕虜の中には、老陸宅、馬家宅に拠つて、白虎部隊に悪戦苦闘をさせた約二千の残敵も混つていた。
  南京は脇坂部隊の一番乗りによつて陥落し、南京入城の日は、白虎部隊は、部隊の数倍にあたる捕虜を引きつれていたのだから、壮観であつたが、何しろあまりにも大量の捕虜を得て、始末に困るほど、途方にくれた。飯を食わせてやらねばならないが、第一食糧は欠乏している。手当もしてやらねばならぬ。厳重な監視も必要である。一部隊の仕事としては、これだけでも、大変なことであつた。
(中略)

 十七日の、歴史的な入城式を控えて、十三日の夜から三日間、南京市内と、城外揚子江畔において、眼も覆う、大虐殺事件は、展開されたのである。

(中略)

 さらに、大量虐殺の汚名をきて、全世界の非難を浴びたのは、捕虜を殺戮したことである。先にも述べたように、多くの部隊はたくさんの捕虜をつれて、処理に困つていたときであるから、「殺してしまえ」と、誰いうとない。デマのごとくに伝つて来たそのことに乗つて、これまた、いたるところの空地で、何百人もの捕虜を集めて、一人一人斬り殺すのも面倒とばかり、銃弾を浴びせ殺してしまつた。

両角大佐の苦悶

 虐殺事件は、十五日の午後から、夜にかけて、頂点に達した。
  この日、南京市街を太平門に向つて歩いてゆく捕虜の行列があつた。おびただしいその数は、二万を数えられた。
  もともと給与の悪条件に置かれた彼らの、武装を解除せられた姿は、まるで乞食にもひとしかつた。青ざめ、恐怖にふるえ、あるいは虚脱して、ボロを下げた彼らは、素足で寒さにおののく者もいた。まるで屠所に曳かれてゆく姿であつた。
  これぞ、白虎部隊が、南京入城に際して、お土産につれて来た大量捕虜であつた。
  果てしない行列の前途に待つている運命は、まさに、死であつた。
「花の白虎部隊」とまで、謳われたこの部隊の捕虜になつた彼らを、虐殺したのは、果たして、白虎部隊の過誤であつたろうか。人情部隊長とまでいわれた両角大佐の意図であつたろうか。それとも、師団長である荻洲部隊長荻洲立兵中将がえらんだ、処理方法であつたろうか。
  軍司令部からは、何回か中央(参謀本部、陸軍省)に請訓された。最初の訓電は「よろしく計らえ」であつた。ばくぜんたるこんな命令では、処理のしようもない。重ねて求めた訓電も「考えて処理せよ」である。どう考えていいのか、迷つて、三度の請訓には「軍司令部の責任でやれ」と、命令してきた。軍司令部では、中央の煮えきらぬ態度と見た。朝香中将宮殿下を迎えての入城式を眼前にひかえて、軍司令部は焦つた。
「殺してしまえ」
  この結論は、雑作もなく出た。すでに城内では捕虜を殺しているし、一兵の姿も見ないまで、残敵を掃蕩しつくしている。それに、二万の捕虜を、食糧も欠乏している際、そうするしかないと、考えるにいたつた。
  しかし、両角大佐はさすがに、反対したという。わが手に捕えて、武装は解除しても、釈放して、帰郷させたい肚には、変りがなかつた。
  けれども主張は、通らない。部隊長といつても、一連隊長にすぎない。それに、どの部隊も、大陸戦線において、連戦連勝、有頂天に驕つていたのだから、気も立つていたろう。何でもかんでも、やることになつた。
  松井大将がこれを知つていたか、どうかは謎だといわれている。後になつて「しまつた」と叫んだくらいだから、恐らく、後の祭となつたものであろう。知つていたにしても、あの時の情勢、環境に押し切られてしまうことも明らかだ。しかし、東京裁判では、はつきり事実を認め、武人らしい責任を一身に負つている。

『日本週報』No398昭和32年2月25日号 1957年p.13-15

両角業作への取材経緯
『ふくしま 戦争と人間』(1982年)より
 お断りしておきたいが、この回想メモは公開を予期して書かれたものではない。すでに故人となられた両角連隊長がその生前、記者にひそかに貸し与え、それを書写しておいたものである。このとき「南京虐殺に若松連隊が関係したとされているが、真実はこのなかに書いてある」と語られたことを思い起す。人情部隊長として兵隊に親しまれ、また戦闘にあたっては果断な活躍をされた両角連隊長。回想ノートを手渡しながら「誤り伝えられていることが多くて……」と、ふと顔をくもらせた。

『ふくしま 戦争と人間1』p.127-128

『南京の氷雨』(1989年)より
  歩兵第六十五連隊長の両角業作大佐は、戦後は東京の杉並に住み、既に故人となっているが、昭和三十六年から三十七年にかけ、取材のため何回か訪問した私に、詳細に当時の事情を説明し、また分厚いノートを貸してくれた。「日記は簡単な記述なので、これを基礎にしながら戦後になって激戦の思い出を書きとめたものですよ。人に見せるつもりで書いたものではないが……」とのことだったが、戦術の反省なども含め、詳細に書きとめてある。日記の重要部分、回想ノートの重要部分を筆写することを快諾された。筆写したものは今も私は持っている。

『南京の氷雨』p.65



阿部輝郎による鈴木明への取材協力
『南京の氷雨』1989年

(註=角田中尉の話に出ている「ルポライター鈴木明……」とあるのは、昭和四十七年、鈴木明氏が「南京大虐殺のまぼろし」を取材したときのこと。同書はこの年の大宅壮一ノンフィクション賞を受けている。私はこのとき山田旅団長の日記などについて教えた)

『南京の氷雨』p.87-88



阿部輝郎の取材状況

 私は、以前から多くの証言を集め、ノートに書きとめていた。かつて福島県の『郷土部隊戦記』(全三巻)や『ふくしま戦争と人間』(全八巻)など一連のものを執筆するための取材(昭和三十六年から三年間、昭和五十年から五年間にわたる)を通じ、関係者多数の話を聞いていたからだ。山田旅団長の日記、両角連隊長の回想ノートも、そうした中の一部である。

『南京の氷雨』p.92


参考資料
  • 陸軍歩兵学校編『機関銃教練ノ参考(分隊戦闘)第二巻』陸軍歩兵学校将校集会所発行
    (昭和13年3月20日)(国会図書館デジタルコレクション所収)
  • 『日本週報』No398昭和32年2月25日号
    (1957年
  • 『ふくしま 戦争と人間』福島民友新聞社編、福島民友新聞社
    (1982年10月)
  • 『南京の氷雨』阿部輝郎著、教育書籍
    (1989年12月20日)