山田支隊 上海派遣軍関係

上海派遣軍
飯沼守 少将(参謀長) 飯沼守日記
上村利通 大佐(副参謀長) 上村利通 日記
西原一策 大佐(参謀 第1課長) 作戦日誌



飯沼守 上海派遣軍 参謀長 少将

日記 <抜粋>
◇十二月十四日 快晴
 13Dの山田支隊は途中約千の敗残兵を掃蕩し四・三〇烏龍山砲台占領、高射砲及重砲十余門を鹵獲せり

◇十二月十五日 霧深し 快晴
山田支隊の俘虜東部上元門付近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へす16Dに接収せしむ。

◇十二月二十一日 大体晴
荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。

『南京戦史資料集1』pp.156-164



上村利道 上海派遣軍 参謀副長 歩兵大佐

日記
十二月二十一日 晴
(略)
N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり。

『南京戦史資料集2』P268-269


西原一策 上海派遣軍参謀 第1課長 歩兵大佐

作戦日誌 12.8.11-13.2.18 上海派遣軍幕僚 西原一策
靖国神社 靖国偕行文庫所蔵

十二月十三日 晴
午前三時紫金山西麓の敵はその北麓を経て東に向ひ退却し岔路口附近の歩砲兵に衝突し南に折れて下五旗附近に在りし騎十三の一中に衝突せしとか
逃走兵の掃蕩は■■大に注意を要す、
天谷支隊■■に■■す 13D主力は鎮江附近に於て渡河するを可とするとの芳村参謀の報告に依り軍命令し■す 但し幕府山砲台占領部隊は南京より渡河せしむ、■午■の敗残兵約四百軍司令部北方二粁猛塘に到着せりとの報あり■■に中隊を以て之を攻撃北方に撃退せしむ、軍司令官も十一時出発高橋門に到る途中敗残兵と衝突之を■■兵にて撃退す、午后四時半■の敗残兵再ひ司令部の北側に現出し■射砲は之を砲撃す 佐々木旅団か岔路口道を全く開放せしは城内の敵を逃走せしめたるものにして■■ならす
9D長は司令部の急を聞き人見聯隊を急派せしめたり

十二月十四日 晴
人見聯隊を以て湯水鎮東北方谷地の残敵約五百を掃蕩せしむ 13D山田支隊の捕たる俘虜約二万あるも食糧なく処■に困る

十二月十五日 晴
南京城内に外人横行す又支那要人は蘇連等の関係建物内に遁入しあるか如し、長中佐現地に到り手配す

十二月十六日 晴
依然城内の掃蕩をなす、

十二月十七日 晴 暖かし
南京城入城式を行ふ歴史的場面を呈す
■路約二千の俘虜の一団に遭ふ、十四、五の子供あり

十二月十八日 曇 寒し
慰霊祭を行はる、山田旅団は一万五千の俘虜を処分せしか(■■より■■にかけ)その中に我方将一、兵一を俘虜と共にMGにて殺されたりと、蓋し俘虜の一団か抵抗し逃亡を企てたるための混乱の犠牲となりしものなり、大■中佐申告に来る、夕を共食す

十二月十九日 晴
午后一時半よりか号弾の実射又■■あり「てなか」弾共に効果大なり、之を大場鎮附近の攻撃に使用せは効果大なりしならん

自十二月十九日
到十二月二十二日 晴
特記事項なし

十二月二十三日 雨
十時出発 軍司令部は南京首都飯店に■る

十二月二十四日 曇
十時より兵団長会議、三時より参謀長会議を行はる、師団長の懇談に■て16D中島中将は「チャコロ」に対しては予后備兵にて■山なりと申述へたるか■■不足なりと言はさるへからすその■自己の■■の■を以て■理の如く述へられたるは可笑し