山田支隊 山田栴二

歩兵第104旅団・山田支隊
山田栴二 第104旅団・旅団長 山田支隊・支隊長 少将
山田栴二日記[日記]
12月10日 11日 12日 13日 14日 15日 16日 17日 18日 19日 20日

『郷土部隊戦記 第1』記述 NEW

鈴木明による山田栴二へのインタビュー [証言]

山田栴二証言(『ふくしま戦争と人間1』) [証言] NEW

山田栴二述懐(『南京の氷雨』掲載) [証言] NEW

 

参考文献


山田栴二 歩兵第103旅団・旅団長 山田支隊・支隊長 陸軍少将18期

山田栴二日記
◇十二月十日

『南京戦史資料集2』
連日の行軍にて隊の疲労大なり、足傷患者も少なからず
師団命令を昼頃丁度来合はせたる伊藤高級副官に聞き、鎮江迄頑張りて泊す、初めて電灯を見る
鎮江は遣唐使節阿倍仲麻呂僧空海の渡来せし由緒の地、金山寺に何んとかの大寺もあり、さすが大都会にして仙台などは足許にも寄れず

『南京虐殺のまぼろし』
連日の行軍にて、疲労大なり。負傷患者も少なからず、鎮江に至りて初めて電燈を見たり、此地は阿倍仲麻呂、弘法大師の渡来せる由緒の地にて、仙台など足元にも及ばぬなり。


◇十二月十一日

『南京戦史資料集2』
沼田旅団来る故、宿営地を移動せよとて、午前一〇・〇〇過ぎより西方三里の高資鎮に移動す
山と江とに挟まれたる今までに見ざる僻村寒村、おまけに支那兵に荒され米なく、食に困りて悲鳴を挙ぐ

『南京虐殺のまぼろし』
沼田旅団が来るため、押し出されて宿営地を西方三里の方資鎮に移す。人気なき寒村で、支那兵に荒され糧秣もなく、悲鳴をあげる。


◇十二月十二日

『南京戦史資料集2』
総出にて物資徴発なり、然るに午後一・〇〇頃突然歩兵第65連隊と山砲兵第三大隊、騎兵第17大隊を連れて南京攻撃に参加せよとの命令、誠に有難きことながら突然にして行李は鎮江に派遣しあり、人は徴発に出であり、態勢甚だ面白からず
併し午後五・〇〇出発、夜行軍をなし三里半余の四蜀街に泊す、随分ひどき家にて南京虫騒ぎあり

『南京虐殺のまぼろし』
午後一時、六五連隊山砲一大隊を連れて南京戦に参加せよとの命を受く。誠に有難き事ながら、行李は鎮江に派遣、兵は徴発に出かけ、情勢面白からず、五時出発、四蜀街に泊る。南京虫ひどし。

『南京の氷雨』
午後一時、六十五連隊・山砲一大隊を連れて南京戦に参加せよ、との命を受く。誠に有難きことながら、行李は鎮江に派遣、兵は徴発に出かけ、情勢面白からず。五時出発、四蜀街に泊る。南京虫ひどし。


◇十二月十三日 晴

『南京戦史資料集2』
例に依り到る所に陣地ある地帯を過ぎ、晴暘鎮を経て前進、霞棲街に泊する心算なりし所焼かれて適当の家なく更に若干前進中、先遣せし田山大隊午後一時烏竜山砲台を(騎兵第17大隊は午後三・〇〇)占領せり、南京は各師団掃蕩中との報あり、直に距離を伸して邵家塘に泊す

『南京虐殺のまぼろし』
至るところ陣地ある地帯を過ぎ、宿泊地を探せど、すべて焼けて何とも仕様がなし。前進中、先遣した田山大隊が烏竜山砲台を占領せりとの報が入る。南京は既に各師団が城内掃討中とのことなり。距離をのばし、■家塘に宿泊。

『南京の氷雨』
到るところ陣地ある地帯を過ぎ、宿泊地を探せど、すべて焼けて仕様がなし。前進中、先遣した田山大隊が烏竜山砲台を占領せりとの報入る。南京は既に各師団が城内掃討中とのことなり。距離をのばし■家塘宿泊。


◇十二月十四日 晴

『南京戦史資料集2』
他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る
幕府山は先遣隊に依り午前八時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり
捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困つたものなり、上元門外の三軒屋に泊す

『南京虐殺のまぼろし』
他師団に幕府山砲台までとられては面目なし。午前四時半出発、幕府山に向う。砲台附近に至れば、投降兵莫大にて、始末に困る。附近の文化住宅、村落、皆敵の為に焼かれたり。

『南京の氷雨』
他師団に幕府山砲台までとられては面目なし。午前四時半出発、幕府山に向かう。砲台付近に至れば、投降兵莫大にして始末に困る。付近の文化住宅、村落、みな敵のため焼かれたり。


◇十二月十五日 晴

『南京戦史資料集2』
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり

各隊食糧なく困却す

『南京虐殺のまぼろし』
捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ「始末せよ」との命を受く。各隊食糧なく、困窮せり。捕虜将校のうち幕府山に食料ありときき運ぶ。捕虜に食わせることは大変なり。

『南京の氷雨』
捕虜の始末のことで本間少佐を師団に派遣。「始末せよ」の命令。各連隊糧秣なく困窮せり。捕虜に食はせること大変なり。


◇十二月十六日 晴

『南京戦史資料集2』
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別 とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり

『南京虐殺のまぼろし』
相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合せをなさしむ、捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。

『南京の氷雨』
相田中佐を軍司令部に派遣、捕虜の件にて打合せをなさしむ。捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。


◇十二月十七日 晴

『南京戦史資料集2』
晴の入城式なり
車にて南京市街、中山陵等を見物、軍官学校は日本の陸士より堂々たり、午後一・三〇より入城式祝賀会、三・〇〇過ぎ帰る
仙台教導学校の渡辺少佐師団副官となり着任の途旅団に来る

『南京虐殺のまぼろし』
入城式なり、中山陵、軍官学校を見学。軍官学校は陸士より堂々たり。五時帰る。

『南京の氷雨』
入場式なり。中山陵、軍官学校は、陸士よりも堂々たり。五時帰る。


◇十二月十八日 晴

『南京戦史資料集2』
捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す

『南京虐殺のまぼろし』
捕虜の件で精一杯。江岸に視察す。

『南京の氷雨』
捕虜の件で精一杯、江岸に視察す。


◇十二月十九日 晴

『南京戦史資料集2』
捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ
軍、師団より補給つき日本米を食す
(下痢す)

『南京虐殺のまぼろし』
捕虜の件で出発を延期、午前、総出で始末せしむ、軍から補給あり、日本米を食す。


◇十二月二十日

『南京戦史資料集2』
 第十三師団は何故田舎や脇役が好きなるにや、既に主力は鎮江より十六日揚州に渡河しあり、之に追及のため山田支隊も下関より渡河することとなる
午前九・〇〇の予定の所一〇・〇〇に開始、浦口に移り、国崎支隊長と会見、次いで江浦鎮に泊す、米屋なり

『南京虐殺のまぼろし』
下関より浦口に向う。途中死体累々たり、十時浦口に至り国東支隊長と会見。

『南京戦史資料集2』偕行社 P330〜333
鈴木明『南京虐殺のまぼろし』 P191〜195
阿倍輝郎『南京の氷雨』 P64〜65、78、94



『郷土部隊戦記 第1』記述

(K-K註:本資料は山田氏の証言として書かれたものではないものの、山田氏から提供された情報と思われるので掲載する。この文章の書かれている章「三、南京虐殺事件の真相」は、両角業作氏(第65連隊長)の情報を基礎に記述されているが(両角手記・日記と一致する)、一部、山田氏が残した証言や日記と一致する情報が記述されている。本章における事実関係として書かれている部分において、両角氏の残した資料に存在しない情報で、かつ、山田支隊内での高級将校が知りえる情報である部分は山田氏からの情報と考えるのが妥当であろう。下記の記述はそれに該当すると思われる。)

  翌十六日、山田旅団長は副官相田中佐を軍司令部に派遣して”捕虜を殺すことはできぬ。軍みずから収容すべきである”とかけ合わせたがやはりダメだった。将校だけは、軍司令部に連れてゆかれたが、そのごの消息は不明で、これは取り調べのうえ殺されたものとみるほかはない。その日、こんどは逆に軍司令部から憲兵将校(階級、氏名不詳)が旅団司令部に調査にやってくる始末だったが、山田旅団長はこの若い憲兵将校をじゅんじゅんとさとし、かえって「閣下のお考えはよく分かりました」
と帰っていったのだ。しかし最後にはついに
「捕虜は全員すみやかに処置すべし」
 という軍命令が出されたのである。通信兵が電話で鉛筆がきで受けた一片の紙きれにすぎないのだが……

『郷土部隊戦記 第1』p.112



鈴木明による山田栴二へのインタビュー

この日、軍司令部の方から「捕虜がどうなっているか?」と憲兵将校が見廻りに来た。山田少将(当時)は自分で案内して、捕虜の大群を見せた。「君、これが殺せるか」と山田少将はいった。憲兵将校はしばらく考えて「私も神に仕える身です。命令はお伝えできません。
(K-K註:「この日」とは12月15日を指す)

『「南京虐殺」のまぼろし』 p.194



山田栴二証言(『ふくしま戦争と人間1』)

  山田旅団長はすでに故人となったが、相田少佐の派遣は「殺すことはできないという意思の伝達だった」と記者に述懐していたことが思い出される。結局、考えあぐねたすえが「両角連隊長とハラを合せたうえ、夜間、ひそかに解放することに決断した」とも語っていた。

『ふくしま戦争と人間1』p.125



山田栴二証言(『南京の氷雨』)

  この間、実は上海派遣軍司令部から、思いがけない命令がきていた。
  捕虜を始末せよ。――殺せというのだ。
  命令を受け取って山田旅団長は沈思した。
「無責任なことを、殺せなどと命令してきやがって――。とんでもない命令だと思って、その場で『殺せない!』と答えてやったのですが……」
  当時を思い起こし、山田旅団長はこんなふうに述懐したことを思い出す。

『南京の氷雨』p.75

(K-K註:山田日記12/15、12/16を引用して)
「捕虜を殺せなんて、とんでもない」と第十三師団司令部に訴え、それでもらちがあかず、上海派遣軍司令部に直接その交渉役を派遣するなど、山田旅団長は大いに動いた。しかし軍命令の変更はない。「やっちまえ、強引にそう重ねて指示してくるんですよ」と苦渋の交渉の経過を山田旅団長は回想している。

『南京の氷雨』p.78

 

参考資料

  • 『郷土部隊戦記 第1』福島民友新聞社
    (1964年)
  • 『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明、文藝春秋
    (1973年3月)
  • 『ふくしま 戦争と人間1』福島民友新聞社編、福島民友新聞社
    (1982年10月)
  • 『南京の氷雨』阿部輝郎著、教育書籍
    (1989年12月20日)
  • 『南京戦史資料集2』南京戦史編集委員会
    (初版平成元年11月3日、増補改訂版平成5年12月8日)