山田支隊----中国側証言

南京地方法院検事への魯甦に依る証言

南京地方院検察処敵人罪行調査報告
 1 虐殺に関するもの
 2 集団屠殺の証拠

鈕先銘『還俗記』

唐光譜「私が経験した日本軍の南京大虐殺」


南京地方法院検事への魯甦に依る証言

  敵軍入城後、将に退却せんとする国軍及難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山附近の四、五箇村に閉込め、飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。一九三七年十二月十六日の夜間に到り、生残せる者は鉄線を以て二人を一つに縛り四列に列ばしめ、下関・草鞋峡に追ひやる。
  然る後、機銃を以て悉く之を掃射し、更に又、銃剣にて乱刺し、最後には石油をかけて之を焼けり。
  焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり。
  此の大虐殺中に在つて教導総隊馮班長及び保安警察隊の郭某は縛を解きて逃亡し、佯つて地上に仆れ屍を以て自分の身を覆ひ難を免るを得たり。
  但、馮班長は左肩に刺刀傷を、郭某は背中に火傷を負へど、上元門大茅洞に逃れ、私に由り便衣を求め、換衣して窃に江を渡り八卦州に到りて始めて危難より逃る。
  当時、私は警察署に勤務しあるも、敵市街戦に際し敵砲弾により腿を負傷し、上元門大茅洞に隠れ居り、其惨況を咫尺の目前に見し者なり。故に此の惨劇を証明し得る者なり。
  証人姓名 性別 年齢  原籍 職業 住 所
  魯甦   男  卅三才 湖南省 政 南京義興路五号


南京地方院検察処敵人罪行調査報告

1 虐殺に関するもの
南京陥落に瀕せる当時、雨花台地区に在りし我方軍民二、三万は、退去に当り敵軍の掃射を蒙り、哀声地に満ち屍山を築き流血脛を没する惨状を呈し、又、八卦洲に於ては争ひて揚子江に渡り逃れんとする我軍民は悉く掃射を受け、屍体は江面を蔽ひ流水も赤くなりたる程なり。
 陥落後、男女老幼五、六万人を幕府山附近数ケ村に監禁し、其飲食を絶ち、十六日、針金を以て二人宛縛し、四隊に別ちて草鞋峡に連行し 悉く機銃掃射を加へ、其上銃剣にて滅多刺に刺突し、更に石油を浴せて放火して之を焚き、残余の屍体は之を揚子江に投入せり。
又、陥落後、難民区内に在りし我軍民を駆って漢中門に連れ行き、網を以て縛したる後掃射を加へて殺害せり。
敵軍入城の日より起算し、集団屠殺二十余万人の外、凡そ我軍民にして未だ退去せざりし者は、敵人に遭へば必ず殺され、身を匿し居りて発見逮捕されし者は多くは刀剣の下に生命を失ひ、四肢と体とばらばらと成り血肉の区別も分らぬ如き状態と成り、此虐殺の惨状は実に有史以来未曾有の事なり。此外に、人民を強制徴発して軍役に使用し、自動車に搭載して何処にか運び去り、今日に至るまで八年、杳として消息を絶ちたるものあり。
之等は如何なる方式にて殺害せら<る>るや不明なり。

『日中戦争史資料8 南京事件1』 p.143

2 集団屠殺の証拠
 南京陥落当時集団屠殺を行ひたる部隊は、
 中島、畑中、山本、長谷川、箕浦、猪木、徳川、水野、大穂の九箇単位。
 被屠殺者たる我同胞 二七九、五八六名
 新河地域 二、八七三名(廟葬者盛世徴・昌開運証言)
 兵工廠及南門外花神廟一帯 七、〇〇〇余命(埋葬者?芳縁・張鴻儒証言)
 草鞋峡 五七、四一八名(被害者魯甦証言)
 漢中門 二、〇〇〇余名(被害者伍長徳・陳永清証言)
 霊谷寺 三、〇〇〇余命(漢奸高冠吾の無主孤魂碑及碑文により実証)
 其他、崇善堂及紅卍字会の手により埋葬せる屍体合計 一五五、三〇〇余名
以上何れも別冊表に記載せるが如し。
 埋葬地点及人数に関しては何れも極めて明瞭にして、且つ関係人の証言に依る。其情況を益々明白ならしむる為、特に関係機関をして各埋没地区の残存情況を撮影せしめたる写真二十余枚を添へて証拠となす。

『日中戦争史資料8 南京事件1』 p.143

  
鈕先銘『還俗記』

集団虐殺

 抗戦中、日本軍の醜悪さを代表する三枚の記録写真があった。一枚目は、纏足をした一人の農村の婦人が強姦された後、殺されたもので、陰部に木の枝をつっこんであるもの、二枚目は一般の市民の服を着た一人の男性が目かくしをされ、ひざまずかされ、日本軍が軍刀をふるってくるのを待っているもの、三枚目は占領区の人民を生き埋めにしているところである。聞くところによるとこの三枚の写真はスライドフィルムにしてアメリカの各地で上映されたが、それを見た女性で悲鳴をあげなかった者はなかったという。
 しかし、私の見聞きした日本軍の暴行はこの程度のものではない。戦争はもともと人を残酷にさせるものである。目を血走らせた兵士が精神に異状をきたして一種の虐待狂となり、強姦・掠奪と虐殺をおこなう。これは古今東西皆同じであり、歴史上にも前例のあることで珍しいことではない。しかし、この世でもっともむごたらしいことは、まだこれからだったのである。
 二人の鬼子〔侵略〕兵が「進上」「進上」と言って盲目の和尚の一○八銀元を取りあげていったが、守印和尚の一晩の心痛はいかばかりのものであったろうか。これは彼の一生の蓄積なのだ。少なくとも彼は戦時にはわずかな財産があった。彼と二空が鶏鳴寺から永清寺に移ったのは二〜三か月前だが、その頃は南京はまだ籠城していないだけでなく、上海・呉松一帯の戦場もまだ膠着状態のときであった。鶏鳴寺が通信施設として徴用されたため、彼らは永清寺に移り住んだわけだが、まだ平時といえる頃で、とくに警戒心はなかったのだ。南京籠城まで師や兄弟弟子たちにすら知らせていなかったのだから、籠城のときになってわざわざ隠すのも都合が悪いので、結局そのままにしてあり、このような破目になってしまったのだ。二空が私のために植木鉢の下に埋めておいてくれたお札のように運良くはいかなかったのだ。
 あの夜は一晩、守印和尚と二空の嘆く声だけが聞こえ、守志先生と施先生もしずみがちで、年老いた農民は人を羨望のまなざしで見るようなおももちであった。私はと言うと、私も一晩中眠れなかった。私はもちろん敵軍の慈悲などに期待してはいなかったが、しかし、わずかこの二四時間内に虐殺・強奪が数えきれないほどおこなわれるのを見て、心が熱くなるような、それでいて逆に冷めていくような感じだった。また小グループのなかで人によって私へのあつかい方が同じでないことも、すべて私に恐怖心をもたらすのであった。
 二日目は一日何の異状もなかった。敵軍は、何組かに分かれて市内を巡回していたが、それもまったく型通りにおこなわれていたし、その間隔もだんだん広くなりながら一群ずつ過ぎて行った。もっとも多いのは、ただ頭を突っ込んでまき小屋を見ることで、入って来てかきまわしたり査問したりすることはなかった。
 しかし夜に近い、夕陽の沈む頃、突然一群の鬼子兵がやって来た。武器は何も持たず、ただオノとのこぎりを持って来て、我々のいた六畝ほどの寺の庭で、たくさんのザクロの枝を切っていった。長さは五〜六尺、先にまたのついた枝を持っていった。
 「あんな物を何に使うのだろう?」二空がまっさきに首をかしげた。
 「たぶんまた新がいるんだろう。」施先生が想像して答えた。
 「それならなぜ、我々のまき小屋にはまだたくさん新になっているのがあるのにそれをもって行かないのだろう。」守志先生が納得のゆかない様子で言った。私も、「私は何かテントのようなものの支えにするのではないかと思うけど」と、それなりに憶測してみた。年老いた農民はまだ口を開かず、守印和尚はただ黙々と我々の話を聞いているだけであった。
 しかし、別にそのことがとくに我々を憂うつにさせるというほどのことでもなかった。 月は明るく、星影はまばら、かささぎが南の空に飛ぶ、これはたしか曹孟徳の詩だったと思う。南京が敵の手に陥ちたのは十二月十二日、だいたい農暦の十一月十五日前後にあたる、まさに月の明るい星影のまばらな夜だった。
 夜も更けた。我々は大勢の人馬が入り乱れて歩む音を聞いた。ちょうど道路に沿って東へ下ってゆく。おそらくまた上元門から出て来た部隊であろう。ちょうど山に沿って十二洞に向かい、あの道を歩いて行った。月夜を利用しての駐屯の交代ということもあるので我々はさほどの注意も払わなかった。それに、まだ永清寺の区域の中までは入って来ておらず、ただ横を通っただけだった。
 人声が過ぎ去ってからかなりの間静寂が続いた。我々はワラの敷き物の上でしだいに寝入った。
 ちょうど夜中の零時から明け方までの間だった。突然重機関銃の音がした。距離はここから約一キロくらいのところだろうか。
 「聞け」、私は二空を押した。
 二空は起き上がったが、銃弾が上に飛んで来る気配も、寺の付近にとんで来る様子もない。「たぶん夜間演習でしょう。空砲ですよ。」と今度は二空はわかったように言ってグウグウとまた眠りこけてしまった。
 この戦時に演習? 空砲?――私は疑いながらも、しかしそれが何であるかまでは想像できなかった。一晩が不安のうちに明けた。

 決して講和せず

 永清寺の下流一〜二キロの沿岸に“大湾子”と呼ぶ場所がある。ここは非常に浅い砂洲である。流れが白鷺洲で二つに分かれているので、長江の本流は八掛洲の北側を流れており、中洲の南側を通る流れは、流れが緩慢で、そこに浅い砂洲を形成しているのである。
 当然、あの機関銃の音がした日から一○日以上たってからであるが、我々はようやく、鬼子兵が大湾子で機関銃を用いて我らが同胞の俘虜兵二万以上を虐殺したことを知ったのだ。
 読者諸氏は前述の、私と老年の農民が薪を上元門まで運ばせられたことを覚えておられるだろうか。あれは俘虜の炊事用のためのものだった。あのとき、私は自分の身の安否を心配するだけで、敵軍が俘虜をいかに処理するのかなど思いも及ばなかった。そして、そんなことは彼ら自身が考えればよいことだった。すでに俘虜となって武器を捨てたからには、せいぜい虐待と強制労働が待っているくらいで、生命の保障は当然のことだと思っていた。
 誰がわずか二晩の後に大湾子に連行され、集団で始末されの犠牲者を出したが、その大部分は俘虜になってからのちにるなどと思っただろう!
 あの晩、何も持たない鬼子兵が永清寺付近でザクロの枝を切っていたのは、一かためずつ死体を積み上げるための道具にするためだったのだ。
 後日の不完全な統計によると、南京の役でわが軍は三○万虐殺されたものである。私がこの目で見た死体だけでもおよそ二万ほどあった。それが大湾子のあの死体の山である。
 後になって私は後方に戻ったが、たびたび情報係の同志とそれまでの敵情判断をした。みんなの結論は、日本側は、すでに我々の首都を落としたのだから我々が当然講和に応じるものと思い、我々の人力と兵力を削減させるため、人道と国際慣例に反した集団虐殺をおこなった、ということである。
 翌年一月中旬になってようやく日本の首相近衛文麿は国民政府と講和は結ばない、との声明を発表した。その間約一か月もの間、日本側は勝手に城下の盟を結べるものと思い込んでいたのだ。
 「敗けても勝っても、ともかく彼らと講和は結ばない。」これは蒋百里将軍〔蒋方震〕の抗戦中の座右銘であった――百里先生は当時陸軍大学校の校長であった。空間をもって時間にかえる、それが私たちの司令官の最高方針であった。
 ヒトラーがユダヤ人を集団虐殺したのは中日戦争の数年後のことであるが、あの虐殺は極めて科学的なもので、その死体処理は早くから周到に準備・計画されていたものであったため、事後に問題を残すことはなかった。しかし、鬼子の南京における大虐殺は、使ったのは重機関銃であったとはいえ、原始的とも言える殺人方法であったため、死体が山をなし、以後数か月にわたって処理する術もなく捨て置かれたものである。
 鬼子兵が大湾子を虐殺場に選んだのは、あるいは長江の流れを利用して死体を流し去ってしまうためだったのかもしれない。しかし、冬の、水の枯れている――まさに蘇東坡先生の言う、山高く月は小さく、水落ち、石出づる季節に、しかも大湾子の流れはあのようにおそいのに、どうやってあんなにたくさんの死体を流し去ることができようか?
 だから彼らは木の枝のまたを準備して何が何でも死体を長江に押し込もうとしたのかも知れない。日本人はこういうわざに長けている。読者諸君はまだいわゆる「白河流屍」事件を覚えておられるだろうか? あれは七・七開戦より二年前のことだった。華北の日本軍が北京・天津附近である軍事工事をおこなおうとしたが、日本から人を連れて来るわけにいかず、中国人を使ったが、軍事機密の洩れるのを恐れた。そこで何百人もの中国人を拉致して使役し、その後全部虐殺して口をふさいだ。「かわいそうな、無定河の河岸にただよう遺骨よ、まるで夢の中の人のようだ」。無定河は山西省の境に源を発しているが、桑乾泉からチャハル省をへて南に折れて河北省にいたると、“無定”という名をきらって永定河と名前が変わる。白河はその永定河の下流の合流である。
 白河に流れた死体は三百体ほどで、しかも春、水かさの増す時期だったため、死体はすぐに海に流れ込んだので処理は比較的簡単であった。しかし、大湾子の方は二万を越すもので、木の枝で長江に押し込んだにもかかわらず全部流してしまえるわけもなく、結局あのように多くの屍体が浅瀬と砂洲のかたわらに滞積される結果となったのである。
 南京大虐殺で殺されたのは不完全な統計によれば総数三十万ほどだという。しかしこれはまだ十分に正確とはいえない。しかし、永清寺の六畝の土地からだけでも四十数体の死体が見つかった。周囲一キロ平方の大湾子で二万以上が虐殺された。だから南京大虐殺で殺された人の総数が三〇万だというのは決して多過ぎるものではない!
 一九四五年八月六日、あの天地をゆるがせた原子爆弾が広島に落とされたとき、その死傷者は国のおこなった正式の統計で、死者七万八千余り、負傷者および行方不明五万一千ほどであった。合計しても一三〜一四万にすぎず、南京大虐殺の半分にも満たない。 日本軍の南京での残虐な行為は、広島・長崎の二つの原爆による被害者をたしてまだ余りあるものなのである。
 原爆は、あのとき米国が戦争を迅速に終わらせるため、やむをえず使ったものである。初めの計画では東京・大阪・名古屋などの大都市に落とすはずだったのが、人道上の考慮で、広島と九州の小倉になり、小倉の一発は視界がたいへん悪かったので急遽長崎に投下された。この二つの原爆が日本人に与えた死傷は総数三〇万には満たない。
 敗戦国は、原爆があのようにむごいものであったため、今でもなお米国の原子力潜水艦が寄港することを許さずにいる。それならば我々の南京大虐殺についてはどう言えばよいのだ?
 徳を以て怨に報いるというが、日本に対して寛大すぎるため、今にいたるまで彼らの不人情をのさばらせているのだ。

 死体の“臭票”

 死体の処理は一―二か月たってからようやく実施された。正確な日にちは覚えていないが、大虐殺のあったあの夜は月夜だったから、暦で換算すると旧暦十一月十五日前後で、たしか新年まで約一か月半を残す頃だった。そういえば、元旦の朝、守志和尚の言いつけを守って釈迦像に礼拝するため、起きてすぐに廟の門を開けに行ったが、そのとき、よく廟の中をうろついている野良犬が、突然私の脇をかすめてとび込んで来た。私はびっくりしたのと腹が立ったのとで、犬の頭をなぐった。すると犬は口にくわえていた物を落した。下に落ちた物を見ると、それは乾ききった人間の足で、まるで仏手柑の枝のようだった。あのことから考えてみると、死体が完全に処理されたのは少なくとも旧暦の新年以後だったといえる。
 ある日の昼頃、何人かの日本兵が一群の、腕に紅卍字会の記号をつけた中国人を連れて来た。彼らは廟の中まで来て、我々の中からも一人か二人派遣して共同で、集団虐殺された者の死体を処理するように要求した。この仕事は当然また私と二空が行かされることになった。
 やって来た人の中に一人の日本人の和尚がいた。彼は、和服のような袈裟を着て頭に白い頭巾をまいて白い足袋と草鞋をはいており、手には、中国人の僧侶が使う磬のような、また小さな柄のついたドラのような楽器を持っていた。
 永清寺から大湾子までは約一キロ余りの道のりである。その日本人和尚が先頭に立ち、楽器をたたき、念仏を唱えた。これはもちろん死者の魂の済度をするための読経であった。しかし、我々中国人和尚二人にはまったくかまわず、先に廟の門を入っても、菩薩を拝むわけでもなく、中国の釈迦牟尼すら彼にとっては拝む価値すらない、という様子だった。この従軍僧はすでに日本軍人の影響で一人の殺人鬼に仕立てられていた。ただ、残念なことに彼の手の中にあるのは仏教の楽器で、ライフル銃ではなかった。
 我々が、大湾子に到る半分のあたりまで来た頃、死体の腐った臭いが漂ってきた。一緒に来た人や日本兵は皆、マスクを用意していたが、私と二空はハンカチすら持っていなかった。
 季節はすでに厳寒に入っており、空気は乾燥していて雪も降らなかったので、寺の周りの死体はまるで大自然の冷蔵庫の中に放置してあったようで、腐乱していなかった。しかし、大湾子の死体は違った。一部は長江につかっており、砂洲の上のも、潮に浸蝕されて腐乱してしまったのだ。永清寺から長江の上流にあたる虐殺地点まで一キロ余り離れているので、冬の西北風が東南に向って吹いてもそこまで臭うことはなかったが、途中まで行くと臭いが鼻をついて耐えられなかった。
 大湾子に近づくと、臭いだけではなかった。目で見て驚いたことに、山のように死体が一つの小さな区域の中に集められていたのだ。あちらこちらを向いて重っている死体にはまだ不完全ではあるが軍服が残っているので、肉体の状況ははっきりは見えない。しかし、顔の様子から見ると、ほとんど鼻がなかった。というのは腐爛は唇や鼻から始まるからである。門歯が外に露出してなかば骸骨のようなありさまであった。
私は虐殺当時の情況を想像することはできない! いくらたくさんの機関銃を使ってもこんなせまい場所で一度に二万人も殺せるわけはない。きっと何度かに分けておこなわれたのだろう。なぜ少しも反抗の叫び声が聞こえてこなかったのだろう。おそらく機関銃の音にかき消されて廟の中にいた私の耳に届かなかったのだろう。
 あの日は、紅卍字会は第一回の視察をして、埋葬の方法を研究しただけであった。実際片付けを始めたのはそのあとで、一か月ほどかけて連続して少しずつおこなっていった。私はただ最初のその一回しか行かなかった。その後は用があるからと言って二空一人に行かせた。なぜかと言うと、私はニセ和尚で、中国人から見るとどうも簡単に見抜かれそうだったことと、あの悲惨な様子を二度と見るにしのびなかったからだ。
 しかし、死体の衣服の中から思わぬ財産が見つかることがよくあったので、その後避難先から帰って来た多くの一般市民は、自分たちから希望して手伝ったりしていた。その後、南京で、「臭票」と呼ばれる色のあせた、いやな臭いのする貨幣が流通した。これらはすべて中国・中央・交通・農民各銀行から発行された本物の貨幣で贋札ではない。これはみな死体の中からひっぱり出されたものである。もちろんそのおかねは大湾子の二万の死体の中から見つかったものだけではない。南京の役では二、三十万の犠牲者がいたのだから、そこから出て来た臭票の数も、考えただけでも相当なものである。

〔鈕先銘『還俗記』より〕
〔井上久士訳〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』 pp.238-244

 
唐光譜「私が経験した日本軍の南京大虐殺」

 私は唐光譜といい、原籍は江蘇省阜寧で、南京の北郊外にある六合県竹鎮に住んですでに四十数年になる。一九三七年、私はまだ一九歳で、日本軍の南京での大虐殺の惨劇を身近に経験し、今にいたるまでなおありありと眼に浮かぶ。
 当時私は国民党の教導総隊第三大隊本部の勤務兵であった。大隊の上海戦場への出動にしたがって、江湾に駐留、守備にあたった。十一月上旬南京に撤退を開始した。私たちが南京に戻ってから一月もしないうちに、日本軍はまた南京に進攻してきた。十二月十二日、日本軍が中華門に攻め入ると、南京の各部隊は包囲突破をするものは突破し、撤退するものは撤退し、市内の混乱ははなはだしかった。私と六人の兄弟は部隊との連絡を失い、そこで人々の流れにしたがって下関方面に逃げた。その中に唐鶴程という塩城の人がいた。私とはいたって親しく一緒に避難し、たとえ死んでも離れないことをともに約束した。私たちがユウ江門の外に来たとき、城門の入り口は人の流れでぎっしりと詰まっていた。おしあいへしあいしたときに足をひっかけられて倒れる人もあり、人々がその身体の上を踏みつけていくので、もはや立ち上がれなく なっていた。この情況を見て、私たち六人はゲートルで互いの腕を一緒に縛り、もし誰かが倒れたら両脇の人が引っ張り上げることを約束した。このようにして私たち六人は一緒におしあいへしあいしながらユウ江門を出た。
 下関の河辺には人がたくさんいて大通りも路地も立錐の余地もないほどで、眼前に大河を望んで人々はどこへ逃げればよいかわからなかった。私たちも人の流れにしたがってむみやたらと走った。このとき、大きな馬に乗った大役人が群衆の中をつき進み、マイクを使って、「兄弟たちよ、命が助かりたかったら、私についてこい!」と大声で叫んだ。ばらばらの兵士たちは役人の指揮を見ると、少し鎮まった。その役人は軽・重機関銃隊に道を開いて先導させ、歩兵が後につづき、上新河の方向へ逃走していった。大量の敗残兵が上新河橋に着いたが、橋は狭いのに人が多いので混雑で多くの人は通り抜けられなかった。私と唐鶴程は押されて橋を渡ることができず、他の四人も雑踏で私たちとばらばらになってどこに行ったかわからなくなった。私たちは仕方なく、橋を渡れなかった兵士について、長江に沿って龍潭・鎮江の方に向かって走った。
 私たちは背の高い葦を利用して身を隠し、河辺の葦の湿地の中をよろよろと前に向かって逃走した。私たちが橋の前まで来たとき、橋から遠くない城壁の上に日本人がすでに数挺の機関銃を設置し橋を封鎖していた。橋を渡ろうとした多くの人はみな橋のこちら側と向こう側で撃ち殺され、血があたり一面に流れた。私たちは敵の掃射が止んだわずかな間隙に乗じて勢いよく橋を渡り、燕子磯に向かって走った。燕子機の町に着くと、すでに人影は一つも見えなかった。私たちは厚い肉切り板を探しだし、二人であらん限りの力を出してやっと河辺まで運び、水中に引き入れそれに掴まって河の北まで渡ろうとした。私たちは一生懸命やって精根つきはてたが、依然南岸に漂っていた。仕方なくまた燕子機に戻った。
 空は暗くなり、殺人の銃声はだんだんと近づいた。私たち二人は懸命に山にかけ登り、穴の中にうずくまり一つも音をたてなかった。だが空がまだ明るくならぬうちに日本兵は山を捜索していて私たちを見つけた。町の中の空き地に私たちを護送し、背と背をあわせ腕と腕を縛りあげた。そこにはすでに私たちのように縛られている人がたくさん立っており、しかもさらに多くの人がつぎつぎと日本兵によって連れてこられ、縛りあげられた。その後、私たち二人はこの一群にしたがって、幕府山の国民党教導総隊の野営訓練臨時兵舎に連れていかれた。この臨時兵舎は全部で七、八列あり、すべて竹と泥でできたテントだった。中は捕らえられた人でぎっしり詰まっていた。私たちは中に閉じ込められ、ご飯さえ食べさせてもらえず、三日目になってようやく水を飲ませてくれた。敵は少しでも思うままにならないと発砲して人を殺した。五日目になった。私たちはお腹の皮が背中につくほどお腹が空いてみなただ息をするだけであった。明らかに、敵は私たちを生きたまま餓死させようとしており、多くの大胆な人は、餓死するよりも命を賭ける方がましだと考え、火が放たれるのを合図に各小屋から一斉に飛び出ようとひそかに取り決めた。その日の夜、誰かが竹の小屋を燃やした。火が出ると各小屋の人は皆一斉に外へ飛び出た。みんなが兵舎の竹の囲いを押し倒したとき、囲いの外に一本の広くて深い溝があるのを発見した。人々は慌てて溝に飛び降りて水の中を泳いだり歩いたりして逃走した。しかし、溝の向こうはなんと絶壁でありみな狼狽した。このとき敵の機関銃が群衆に向かって掃射してきた。溝の水は血で真っ赤に染まった。逃走した人はまた小屋の中に戻された。小屋は少なからず焼け崩れ、人と人は寄り添い近寄っておしあいするしかなく、人間がぎっしりと缶詰のように詰まり、息をするのもたいへんだった。
 六日目の朝、まだ明けないうちに敵は私たちを庭に出し、すべての人の肘同士を布で縛ってつなぎあげた。全部を縛りおわると、すでに午後二時過ぎであった。その後敵は銃剣でこの群衆を整列させ老虎山に向かって歩かせた。そのとき人々は腹が空いて気力もなくなっていた。敵は隊列の両側で、歩くのが遅い人を見るとその人を銃剣で刺した。十数里歩くともう暗くなった。敵は道を変えて私たちを上燕門の河の湿地から遠くない空き地に連れていった。六日六晩食物を与えられず、たくさんの道を歩いたので、一度脚を止めるともう動けなくなって地面に座り込んで立ち上がれなかった。一時間の間、その場には数えきれないほどの人が座っていた。
このようであっても生存本能から、敵が集団虐殺をしようとしていることに感づいた。私たちは互いに歯で仲間の結び目を咬み切って逃走しようとした。人々がまだ全部咬み切らないうちに、四方で探照灯が点き、真っ黒な夜が急に明るくなり人々の眼をくらませた。つづいて河の二艘の汽船の数挺の機関銃と三方の高地の機関銃が一斉に狂ったように掃射してきた。大虐殺が始まったのだ。
 銃声が響くと、私と唐鶴程は急いで地面に伏した。ただ多くの人が「打倒日本帝国主義!」「中華民国万歳!」というスローガンを大声で叫ぶのが聞こえただけだった。銃声・叫び声につづいて、多くの人が銃弾にあたって倒れ私たちに上からおおいかぶさってきて、私たちは下敷きになった。彼らの鮮血が私の衣装に染み込んできた。私は息を止め身じろぎさえしなかった。二十数分が経ち銃声が止むと、私は戦々兢々として唐鶴程を手探りして彼を引っ張り、低い声で「どうした?怪我はないか?」ときいた。彼は「大丈夫だ。君は?」と言った。話し声が終わらぬうちに機関銃の音がまた響き起こった。私は驚いて死人の山の中に隠れ身じろぎしなかった。二日目になって掃射は止まった。私は唐鶴程がちっとも動かないことに気づいて緊張した。私は力を入れて彼をゆさぶったが彼はそれでも動かなかった。彼の頭部に触れたとき彼の頭に弾があたっていることを発見した。鮮血が絶え間なく外に溢れ出てきた。私は驚き大急ぎで死人の山の中に引っ込めた……。
しばらくして銃声は聞こえなくなった。私は急いでここから離れなければ生き延びられないと思った。私はゆっくり、そっと死体の中から首をのばしてのぞき見た。前には死体がころがり私をさえぎっていた。私は前方に這っていけば敵に見つかるだろうと思い、脚を後方の死体に引っ掛けてゆっくりと少しずつ後に下がり、死体の山のところまで後退した。私は再び動こうとはしなかった。
 探照灯はとっくに消え、暗く静かな夜が大虐殺によるこの世でもっとも悲惨な現場を蔽った。河の水がザアザアと流れまるで悲痛な泣き声のようであった。どれほど経ったかは知らないが、私は敵が物を片付ける音、つづいて彼らが歩く音に気がついた。汽船もドンドンと走り去った。私はやっと大胆になってゆっくりと歩いたり這ったりしながら、下流に向かって十数里歩いた。私は一つの洞窟のあたりにたどりついた。ふと見ると、入り口にも敵によって殺害された同胞がごろごろところがっていた。私は多くを考えずに風を避けられる洞窟の中に這っていった。
 ぼんやりと空が明るくなるのを待ち、またぼんやりと正午まで待った。私は一艘の小舟が洞窟の方に揺られてくるのを見つけて飛び上がるほどびっくりした。岸についた船には老いたのも若いのもいたが、みな中国人であることがわかった。もともと彼らは南岸の人で、日本人から逃れてやっと対岸の八封洲に行ったのだが、敵のパトロール船がいないのに乗じて牛にやる草を載せて河を渡ってきたのであった。私はすぐに洞窟から飛び出してへさきに向かって走り、彼らに命を助けてくれるよう頼んだ。老人は私が満身血だらけなのを見てすこし狼狽したが、私を船室に隠して上から藁をかぶせ、私を八掛洲に連れていってくれた。
 その後、幾度か危険を経て私はようやく六合県竹鎮に着き定住した。

〔『南京保衛戦』より〕
〔帆刈浩之訳〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』 pp.250-253

 

参考資料

  • 『日中戦争史資料8 南京事件1』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社
    (昭和48年11月25日初版発行)

  • 『南京事件資料集2 中国関係資料編』南京事件調査研究会編訳、青木書店
    (第1版第1刷1992年10月15日発行)