山田支隊・歩兵第66連隊 第2大隊

歩兵第66連隊 第2大隊
角田栄一 中尉(第5中隊) 証言
 『ふくしま 戦争と人間』所収
 『南京の氷雨』所収 NEW
樋口藤吉 上等兵(第5中隊) 証言
柳沼和也 上等兵(第7中隊) 陣中日記 12月14〜18日
新妻富雄 上等兵(第7中隊) 陣中日記 12月13〜16日
大寺隆 上等兵(第7中隊) 陣中日記 12月16〜19日
遠藤高明 少尉(第8中隊) 陣中日記 12月12〜20日



角田栄一 証言
歩兵第65連隊 第5中隊・長 中尉

『ふくしま 戦争と人間』 p.113-114
「あの日のことは忘れられない。私たちは百二十人で幕府山へ向かったが、細い月が出ており、その月明のなかにものすごい大軍の黒い影が……。”戦闘になったら全滅だな”と感じた。どうせ死ぬのなら……と度胸を決め、私は道路にすわってたばこに火をつけた。近づいたら大あばれするだけだと思ったからです。クソ度胸というものでしょう。ところが、近づいてきた彼らに、機関銃を発射したとたん、みんなが手をあげて降参してしまったのです。武装はしていたものの、すでに戦意を失っていた彼らだったのです」
「武装解除して次々に捕らえる。一人で五人も六人も捕えてしまい、とても手に負えなくなった。こんなに捕虜を連れて歩いては幕府山砲台の攻略どころではない。次々にぶつかる中国兵に対し、私たちは彼らに武器を石だたみの道に強く投げさせ、また川に投げさせて進ほかなくなった。とまあ、こんな形で午前十時ごろ、ともかく幕府山の頂上にある砲台にたどり着いた。さすが砲台に残っていた中国兵は戦意があり、私たちは激しい撃ち合いのすえ、ついに砲台の監視所を占領し、友軍に占領を知らせるため日の丸の旗をたてたのです」

『ふくしま 戦争と人間』 p.130
(17日夜、江岸で捕虜集結中に暴動が起こり鎮圧のため銃の乱射となった際の出来事として)
私は最後尾についていたが、銃弾が私たち味方のほうにもくるため、身を伏せて危難から避けなければならないほど、非常な混乱ぶりだった

『南京の氷雨』 p.85-87
「きみの紹介だといって、ルポライターの鈴木明という人が俺を訪問してきたよ。俺は酒を飲んでいたところだったので、差し出されたテープレコーダーのマイクに向かって、いきなり本当のことを大声で話してやったよ」
「え、どんなことを?」
「なにね『虐殺をしたのはこの俺だぞ』といったんだ。彼は目をまるくして退散してしまったがね」
  南京虐殺の下手人だと自分から名乗ったのだ。
「別にウソをいったわけじゃないんだ。本当のことなんだ。ま、虐殺にはちがいないけれど、実は事情があったんだ」
  その事情とは----。
  火事があって、かなりの数の捕虜に逃げられた。だが、このとき両角連隊長のところには「処分命令」がきていた。しかし両角連隊長はあれこれ考え、一つのアイデアを思いついた。
「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうか----。私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ……。あすは南京人城式、早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ」
  逃がすなら昼でもかまわないのではないかと思われるが、時間的な背景もあって夜になったということになろうか。
「昼のうちに堂々と解放したら、せっかくのアイデアも無になるよ。江岸には友軍の目もあるし、殺せという命令を無視し、逆に解放するわけなのだからね」
  夜の道をずらりと並べて江岸へと連行していったが、案に相違して、捕虜の集団が騒然となってしまった。
  万一の場合を考え、二挺の重機関銃を備えており、これを発射して鎮圧する結果となった。しかし、いったん血が噴出すると、騒ぎは大きくなった。兵たちは捕虜の集団に小銃を乱射し、血しぶきと叫び声と、そして断末魔のうめき声が江岸に満ちた。修羅場といっていい状況がそこに現出した。正式に準備しは重機関銃二挺だが、ほかにも中国軍からの戦利品である機関銃も使ったような気がする、ともつけ加えていう。
「連行のとき、捕虜の手は後ろに回して縛った。途中でどんなことがあるかわからないというのでね。で、船着き場で到着順に縛っていたのをほどき始めたころ、いきなり逃げ
出したのがいる。四、五人だったが、これを兵が追いかけ、おどかしのため小銃を発砲したんだよ。これが不運にも、追いかけていた味方に命中してしまって……。これが騒動の発端さ。あとは猛り立つ捕虜の群れと、重機関銃の乱射と……。地獄図絵というしかないね、思い出したくないね、ああいう場での収拾はひどく難しく、なかなか射撃をとめられるもんじゃない。まして戦友がその場で死んだとなったら、結局は殺気だってしまってね」
  銃撃時間は「長い時間ではなかった」と角田中尉はいう。月が出ていて、江岸の船着き場には無残な死体が散乱する姿を照らし出していた。五隻ほどの小船が、乗せる主を失って波の中に浮かんでいた。
「捕虜たちは横倒しになっており、あたりは血みどろになっていて、鬼気迫るばかりの情景だったなぁ。みんな死んでしまったらしい。そう思いながら、このあとどう処置しようかと考えあぐねていると、俺は頭髪が逆立つのをおぼえた。目の前の死体の中から、生き残っていた兵士が、血まみれの姿で仁王立ちになって、こちらに突進してきたんだ。しかし十歩ほど歩いてこと切れてしまったがね。あの形相を、あの気迫を、私は今でも忘れることがありません」

『南京の氷雨』 p.110-111
  ところで前夜の海軍倉庫での事件を証言してくれた第五中隊長の角田栄一中尉は、この江岸の惨劇にも出かけている。
「前夜の失敗があって、私は両角連隊長に叱られました。『なぜ静かに解放できなかったか』というのです。しかし説明を聞いて、すぐ納得してくれました。人情家の連隊長でしたので、捕虜といえども多数の死者を出したことに反省の気分が強かったのです」
  ここで角田中尉は、ふと話題を変えて上海戦の思い出を語り出した。
「上海戦はどうにもならない苦戦でした。出ていく兵隊が、次から次へと死に、ついに自分の副官だった小畑哲次郎少佐も戦死してしまいます。壕の中に伏せていた連隊長は泣いていました。
『家には妻子もいるであろう多くの将兵を死なせてしまって……』と。すると不意に立ち上がり、単身で敵陣へ突撃しようとしたのです。私が飛び出して押し倒して無事でしたが……。あとで連隊長に『死ぬ気でしたね』と聞くと、連隊長は再び涙を見せながら、『多くの部下が死んで、指揮官は生きてはおれんよ。君が想像した通りだよ』と語っていまし た」
  両連隊長の人物を語る側面である。
「さて、河岸への連行にあたっては、私は役目を免除されました。が、収容所はからっぽになったし、ひまでしたので、連行の列の最後尾についていったのです。ところが、前方で乱射乱撃が始まり、どんどん銃弾が飛んでくる。私は道のわきにあるクリークのようなものに飛び込み、危難を避けました。味方の銃弾で死んではいられないし、恐ろしい思いをしました。また『突発だな』と私には感じられました。突発でなかったら、味方の方向に銃弾が飛んでくるなんて考えられませんよ。とにかく無茶な射撃でした。計画的に殺す気なら、あんなふうに銃弾は飛ぶわけないですからね」



樋口藤吉 証言
第65連隊 第5中隊 上等兵

「私たちは百二十人しかいない。それなのに中国兵がうようよするなかを前進する。それは非常に心細いことでした。彼らは武装している。抵抗する気配はみせていないが、なにかあればどう暴発するかわからない。最初は捕虜として何人かずつを捕え、それらを連れて前進していたが、どんどん捕虜がふえてくるため”解放しよう”と彼らを自由にしてやった。そして新しい中国兵にぶつかると”武器だけは投げさせろ”ということで武装解除をしながら進んだ。それにしても、あれだけの中国兵の大軍のなかを進むのは、ほんとに勇気のいる幕府山進撃でした」

『ふくしま 戦争と人間』p.114


柳沼和也 陣中日記
歩兵第65連隊第7中隊・編成 上等兵

十二月十四日
出発して直ぐに八中隊で敵に山から手榴弾を投げられて戦死一、負傷者を出す、南京も目の前になる、明け方になったら前衛の第三大隊が支那兵を捕慮(虜)にして置え(い)た、居るわ居るわ全部集めて一部落に収容したが其の数およそ一万七八千と数へる、第五中隊が幕府山攻撃をして完全に占領する、そのため両角部隊が南京攻略の戦史にのったのだ、軍旗中隊となり夕方支那軍の水雷学校に宿営を取る。

十二月十五日 晴
何する事もなくして暮らす。
其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徴発して来た、支那饅頭うまかった、十六師団が敗残兵を殺すのを見たが惨酷だったと聞く、英国の会社には電灯もついてりして日本軍の手がつけられない言ってた。
(略)

十二月十七日 晴
四交代の歩哨であるからゆっくりと休まれる、日中は単哨で夜間は複哨である。
工兵隊はトウチカを爆発させたり、南京の攻撃に一つの印象を残して居る。
夜は第二小隊が捕虜を殺すため行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。
一団七千余人揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た。

(略)

十二月十九日 晴
今日も別に大した仕事もなし、第三小隊は一昨日の支那兵を取り片附けるに行ったが自分は足が痛いので残る。
皆これを片附けるに面白いとの事であったと。

『南京大虐殺を記録した皇軍たち』P166〜167



新妻富雄 陣中日記
歩兵第65連隊第7中隊・第2次補充 上等兵

十二月十三日 晴天 清国
前の夜行軍□午后五時□□站出発部落泊る、本日□□□□□河江に対す我中隊□□□□□□山上にて警戒敵兵□□□□□□□□□□者を補りょ(捕虜)小隊長刀にて殺□□□て帳は其の兵の持品(物)なり。

十二月十四日 晴天 清国
本日は朝四時五十分整列、南京中間虎子台砲台攻撃□□□□前の部落より出発、夜明間も無敵兵白旗を飛(翻)る返し約一万五六千人□□□改(解)除、砲台は戦死者約四五名□傷者七八名にして占領第二大隊我が中隊は其の地より南京入城、軍旗護衛として約二粁程前進して虎子台海軍独立陸戦隊兵営揚子江沿岸午後七時頃到着し宿舎割になる。
第四次補充部隊四百三十名。

十二月十五日 晴天 海軍兵舎にて
明れば朝東から太陽はゆうゆうとただ一発の銃声もなくのんびりとした朝聞くからに敵の補りょ(捕虜)兵二万五六千名我が聯隊でのみ「シュウヨウ」(収容)したと云ふ事だ。
聞けば清モウ(櫓網)湾、馬鹿(家)宅の我が軍の苦しめられた事また戦友の戦死されたと事を思ひ浮べ今日共に戦友の霊をなぐさめる事が出来たと遠い上海の空を向いて異郷を向いて拝した。

十二月十六日 晴天 (記事全文抹消されている)

十二月廿九日 雲(曇)天
昨日降った雪は朝になって止め。
本日は聯隊の慰霊祭、午前十時より師団長参列し正午終る。
聯隊の戦死者六百七拾九名
不(負)傷者壱千四百名余
師団戦死者二千三四百名
井上分隊長帰る本日正午。

十二月卅一日 雲(曇)天
本日は残兵ガリ(狩)行軍三里半。
午前七時半出発。
午後四時帰隊第二大隊。

『南京大虐殺を記録した皇軍たち』P178



大寺隆 陣中日記
歩兵第65連隊第7中隊・第4次補充 上等兵

十二月十五日
朝食は昨夜残してあった汁で一食分の飯を半分食ふ。出発は八時三十分。
広漠たる広野も果てて今日は山道だ、途中で騎兵の十七大隊に会ふ、鎮江に帰へって警備に付くのだと云って居た。昼食を見ると米の中にヒエやらキウリの種、藁ごみ等が沢山入って居て、昼は食へない飯だと云って笑った。
午后の道は左側の山には延々と交通壕が掘ってあり、所々にはコンクリーのトーチカが造ってあった。飯が少ないので空腹を覚えカンパン二つつみ郡君と食った。今日の宿営地、龍潭鎮に着いたのが五時頃だった。
ここに着く少し前で敗残兵を一人殺す。ここは大変大きなセメント会社だ。今晩の徴発は米二斗、アヒル二匹、豚二匹と菜、チャン酒、味噌に醤油だ。それに小豆をみつけて来てシルコを造る、これが又うまかった、小豆飯にアヒル汁で舌鼓を打つ。今晩は皆寝台の上に寝る。

十二月十六日
(略) 今晩は郡君が泊りに来て二人で寝る、七時半だった。敗残兵が出て二人殺す、十六聯隊の一部が夕方敗残兵を掃蕩して来た。
今晩は衛兵は勿論厳確、下士哨まで出して警戒、MGの第二小隊の二分隊では夜半火を出し、日本刀を焼いた者、雑嚢、水とう、飯盒、鉄兜等を焼いた者があった。

十二月十七日
五時起床、今朝は鶏汁だ。郡君が来たので御馳走してやる。
七時四十分整列、上元門まで約六里、途中には敗残兵又は地雷があるから注意せよ、との中隊長の話あり、敗残兵が居り小銃隊の尖兵が射殺す。足の調子は非常に良かったが天気が良すぎて汗が出る、皆水トウの水を不足させクリークの水を呑み始めた。今日は支那には珍しく山又山、峠ばかりを歩いて居た。時々小銃弾が頭の上をかすめて行く、昼食前に殺されて居る将校らしき者が、二百円ばかり持って居り皆で分ける、俺も四十五円ばかり貰った。
午后三時頃、今日朝香宮及松井大将が来られて南京入場式が行はれたそうだが、飛行機が三機編隊で九組も帰へった。峠を上りあげると南京の城が見える、もう少しだと元気を出す。午后五時両角部隊の屯する揚子江沿岸に着き、糧秣をもらって宿舎に着く。夕方から風が吹き、小雪さへ加はり寒い夜になった。我々之ねぐらは六尺位 の棚に六人づつだ。きゅうくつではあったが割合に暖かだった。

十二月十八日
(略)
午前中に大隊本部に行き後藤大隊長の訓辞、帰へって中隊長矢本中尉殿の訓辞ありて各分隊に別 れる、午后は皆捕リョ兵方(片)付けに行ったが俺は指揮班の為行かず。昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ、七時だが未だ方(片)付け隊は帰へって来ない。
俺は飯前に、直ぐ傍にある南京の要塞を見に行き、その完備せるのに驚いて帰へる。然しあれ程完備して置いてほとんど使はずに逃げてしまったのだ、第八中隊と第五中隊が占領したものらしい。

十二月十九日 幕布(府)山要塞
午前七時半整列にて清掃作業に行く。揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に警(驚)く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし。今日の使役兵は師団全部、午后二時までかかり作業を終わる。昼食は三時だ、すぐに夕げの仕度にかかり五時半頃又夕食だ、今日捕リョ死骸方付けに行き、松川の菊池さんに会ふ。ここの要塞は馬尾山の要塞と云ふ、工兵隊らしい、砲台の爆破をやる、見事なものだ、バクフ山要塞。

『南京戦史資料集2』P348〜350



遠藤高明 陣中日記
歩兵第65連隊第8中隊・第3次補充 少尉

十二月十二日 晴
橋頭鎮滞在、大小行季(李)糧秣輸送の為鎮江に帰る、午前中自ら隊員数名と共に徴発に赴き米国人経営の園芸学校に入り貯蔵せる果 物瓶詰果汁を多数獲得、2(第二大隊)副官、××少尉、中隊事務室にも領け与ふ、午後甕(かめ)を据へ風呂を沸し入浴す、天気好く暖なり、午後三時新任務により南京攻撃を命ぜられたり、104iは鎮江帰還対岸渡江を命ぜられたり、本Rは明十三日未明進発の予定の処、夕刻六時突然出発を命ぜられ、夜行軍三里、月明りの下を午後九時三十分迄かかり倉頭鎮に大休止、装具も解かず藁を被り仮眠す。

十二月十三日 晴
午前八時三十分倉頭鎮発烏龍山砲台攻撃に向ふ、途中棲霞山麓に於て盛に銃声を聴く、敗残兵多数ありと、日向は春先の如き暖さなり 、午後五時分于村着、警備のため第×小隊同村南側の山に立哨す、時々飛弾あり山上寒気殊に厳し、正子(午後一二時)第×小隊と交代下山し焚火にあたり微睡す。
南京陥落の報に接す。

十二月十四日 晴
午前五時分于村発幕府山要塞(南京北部約一里)攻撃に向ふ、月既に落ち暗黒にて歩行困難、分于村西方二粁の地点に於て敵の埋設セル手榴弾の為第一分隊新開宝慶重傷を負ひ一時間にして死亡す、太平山附近に於て1(第1大隊)の捕へたる敗残兵数百名に逢ひモーゼル拳銃を獲得、尚支那将校の乗馬をとり馬上にて行軍正午幕府山麓着、敵は戦意なく敗残兵四百五十名及兵器多数鹵獲整理す、夕刻上元里に宿舎を定む、民家少く一室に小隊全員起居す、夕刻より更に四百余の捕虜を得。

十二月十五日 晴
午前七時起床、午前九時第×小隊命を受け幕府山東側江岸に敗残兵掃蕩に赴き三百六名捕虜とし尚一万近き敵兵ありとの情報を得たるも午後一時途中より引返す、午後九時より日直将校服務、夜半一時銃声にて目覚む、第八中隊より立哨中の歩哨敵兵を射撃中誤ちてR本部伝令を射ち負傷せしめたりとの報告を受け直に取調べ報告書を作製午前三時就眠す。

十二月十六日 晴
定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢い一般 情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す
一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し

十二月十七日 晴
幕府山頂警備の為午前七時兵九名を差し出す、南京入場式参加の為十三Dを代表Rより兵を堵列せしめらる、午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城、中央軍官学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く、途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見、端書きにて×子、関に便りを送る、帰舎午後五時三十分、宿舎より式場迄三里あり疲労す、夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、本日南京にて東日出張所を発見、竹節氏の消息をきくに北支の在りて皇軍慰問中なりと、風出て寒し。

十二月十八日
午前一時処刑不完全の為生存捕虜あり整理の為出動を命ぜられ刑場に赴く、寒風吹き募り同三時頃より吹雪となり骨まで凍え夜明けの待遠しさ言語に絶す、同八時三十分完了、風梢々治り天候恢復、幕府山警備兵帰舎、南京見学兵六名あり、午前中一時間仮眠す、久しく口にせざる林檎一個支給さる、正午第四次補充員九名編入さる、午後二時より同七時三十分まで処刑場死体壱万有余取片付けの為兵二十五名出動せしむ

十二月十九日 晴
前日に引続き死体取片付けの為午前八時より兵十五名差出す、Rは対岸渡江につき材料搭載掛を命ぜられ午后一時より中山碼頭碇泊司令部に連絡に赴く約一里半あり、徴発せし乗馬足を痛め使用に耐えず残置に決す、南京見学兵十二名ありて土産に羊羹、密(蜜)柑缶 等を持参せり、尚持参の赤玉葡萄酒一杯を飲む、増田リュ(ョ)ーマチにて入院す。

十二月二十日 曇りて寒し
渡船準備の為午前八時先発す、部隊上船開始午前十一時、一時間にて終了、材料運搬のトラック故障にて大部分は機材運搬不可能となり一部隊を対岸に渡し勤務兵を指揮し浦口津浦の鉄路官舎に宿営す、浦口の街大半焼失し住民全くなし。

『南京大虐殺を記録した皇軍たち』P219〜220


参考資料

  • 『ふくしま 戦争と人間』福島民友新聞社編、福島民友新聞社
    (1982年10月)
  • 『南京戦史資料集 2』南京戦史編集委員会
    (初版平成元年11月3日、増補改訂版平成5年12月8日)
  • 『南京の氷雨 虐殺の構造を追って』阿部輝郎、教育書籍
    (1989年12月20日初版第一刷発行)
  • 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』小野賢二ほか編、大月書店
    (1996年3月発行)