山田支隊 歩兵65連隊第1大隊

第1大隊
・田山芳雄 歩兵第65連隊第1大隊 大隊長 少佐 [証言]
・遠藤重太郎 歩兵第65連隊第1大隊 本部・大行李 輜重特務兵 [日記]
・荒海清衛 歩兵第65連隊第1大隊 本部 上等兵 [日記][回想記] NEW

・栗原利一 歩兵第65連隊第2中隊 伍長 [証言][スケッチ][その他](別ページ)

・伊藤喜八 歩兵第65連隊第1中隊 編成 上等兵 [日記]
中野政夫 歩兵第65連隊第1中隊 編成 上等兵 [日記]

・宮本省吾 歩兵第65連隊第4中隊 第3次補充 少尉 [日記]
・第4中隊 少尉 [証言]

・箭内享三郎 第65連隊第1機関銃中隊 准尉 [証言](ふくしま 戦争と人間、南京の氷雨)

参考資料




田山芳雄 歩兵第65連隊第1大隊 大隊長 少佐

[証言]
  第一大隊長の田山芳雄少佐は、四国の丸亀市出身の人。直接会って取材したときの私のメモには次のようにある。
「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻----いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。この当時、揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出ていましたが、広大な中洲には友軍は進出していません。あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから……」
  南京虐殺を研究している人の中には「対岸には日本軍が進出しており、その方面に解放するというのはおかしい」とする説もある。しかし実情は以上の通りだった。
「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです」

『南京の氷雨』 p.103




遠藤重太郎 歩兵第65連隊第1大隊 本部・大行李・編成 輜重特務兵(1938年1月に一等兵に進級)

[陣中日記]
十月三日
(略)
 江陰出発して五日目、鎮江に到着、鎮江は電気もついて居つた上海の様でした、其所へ一宿又進軍、烏龍山砲台に向った所はやくも我六十五の一中隊と仙台騎兵とで占領してしまったので又南京北方の砲台に向かったら南京敗残兵が白旗をかかげて来たので捕虜二万、宗形君は十二月十七日夜十時戦死。

十二月二十二日
 我六十五聯隊はもくてき地に到着したのは午後五時、敵は退きゃくして敵兵一人も居ない。
 南京北方一里の幕府山砲台一帯で捕虜にした敵兵のしまつは実に我々特務兵に取ってわすれる事の出来ない感を一寸記す。
 幕府山に着く日の朝五時出発、一里も行軍しない内、まだくらいのに敵兵は白旗を立てて我が軍に服して来た、見れば皆支那兵、服装は四分五裂これでも皇軍にていこうしたのかとびっくり驚いた、そこで一大隊は千八百名武器から馬から皆せんりょうした、二大隊も三大隊も皆
[このあと二頁分破られて欠]
 それから私と×××君と××君三人で英れいを拝し火葬後骨をおさめて我隊に帰った、誠に残念であった。そして十九日休んで又十二月二十日そこを出発したのであった。
(略)

十二月二十四日 曇り 前日と同
 新年の感想を福島民報新聞記者が内地の新聞に出してくれるとの事にて大行李全員が書いて出した。
 私も出した、信行等も見るだろう、今迄蔡寧宅出発して以来行軍に行軍を続け手紙書くひまもなければ野戦郵便局もなく書状は出せない、十二月十九日に南京北方一里の地点幕府山砲台のふもとに滞在して居る時捕虜を整理する時日日新聞記者に頼んで一通 私が書いたのを日日新聞記者に頼んで南京野戦郵便局に出し戴いたきりだ。
(略)

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.88-89




荒海清衛 歩兵第65連隊第1大隊 本部 上等兵

[日記]
◇十二月十四日
朝四時出発。三十分位にて捕虜千名、十時頃二千名位有り。計一万五千名位 。

◇十二月十五日
今日一日捕虜多く来たり、いそがしい。

◇十二月十六日
今日南京城に物資徴発に行く。捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。

◇十二月十七日
今日は南京入城なり(一部分)。俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。大隊で負傷、戦死有り。

『南京戦史資料集2』p.345

[回想記](白虎六光奉友会編『戦友の絆』1980年より)
  私の軍隊生活を通じて一番印象に残ることは南京での大虐殺だろう。郷土部隊戦記に記載されてることは、ほぼ真実を伝えて居る。私は田山部隊本部に勤務して居た関係上、少しは内情も知って居る。我々が南京近くに来るとそこここから敵がどんどん投降して来た。其の数は幾千だったろう。捕虜は幕府山砲台付近の兵舎らしい建物に収容した。十二月十六日捕虜の宿舎が焼けて大騒ぎした。十二月十七日に入城式があり、田山部隊からも一部が参加した。残りの部隊で捕虜を江岸までつれていかなければならない。そこで二人三脚の様に足をしばった。そして両側に護衛兵をつけた。途中脱走する者も出た。一人か二人だったと思う。護衛兵が発砲したが、当らなかった。運の強いやつだ。江岸までつれて行くのには九州生れの植松通訳が捕虜に向ってお前達は今から川の向うに渡してやるのでおとなしく行動する様にと、幾度も幾度も説明された。途中ザクロの林があったことを覚えて居る。随分長い道のりの様に思われた。何しろ大部隊なので、早くは歩けない。何しろ二人三脚をやって居るのだから、ついたのは夕方になって居たと思う。江岸の窪地に集結させた。機関銃はすえられ、何時でも発射出来る様準備されて居た。
  何かがあると直感したのだろう、捕虜の集団からざわめきが起った。事態は急転した。ニケ大隊の機関銃は一斉に火をふいた。けたたましい重機の音とざわめき惨状は見るに忍びない。事はすでに終ったが、まだまだ生き残った者が死体の下に居た。それを銃剣で刺した。中には棒切れで手向って来る者もあり、その凄惨な形相は今でも脳裡に浮んで来る。軍の命令には逆らうことは出来なかったのだ。両角部隊も仕方なく大隊に命令されたのだ、と後で田山隊長がしみじみと語られた(個人的に)。郷土部隊とて好んで比の仕事を引き受けたのではない。上部の命令にはそむく訳には行かなかったのた。

『週刊金曜日』1994年2月4日第12号 p.26-43




伊藤喜八 歩兵第65連隊第1中隊 編成 上等兵

[陣中日記]
拾二月拾七日
午前八時出発、湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひ黙祷して南京中山門通過、我部隊に復帰出来るだろふ、午前十時到着。
門内、励志社、陸軍々学校、警衛司令部などがあった。
午后一時から南京入城式。
夕方は大隊と一所(緒)の処で四中隊で一泊した。
その夜は敵のほりょ二万人ばかり揚子江にて銃殺した。

拾二月拾八日
 大隊本部に行った、そして午后銃殺場所見学した、実にひどいざん場でした。
 我軍に戦死十名、負傷者を出した。
 夕方中隊の自動車にて宇立(烏龍)山砲台警備の処に復帰致して安心した。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.105




中野政夫 歩兵第65連隊第1中隊 編成 上等兵

[陣中日記]
十二月十三日 晴
午前六時宿営出発。
余(途)中数十名の敗残兵を射殺し十時銃胞(砲)声の中に入りたるの感あり、銃胞(砲)声を近くに聞く事始めての我等は、胸の度きをおぼゆる。
いつか一ヶ中隊だけ独立となり、且、一小隊わ(は)将校斥候に出て居らず、此の附近、道には地雷を二十米をき位 にあり、山わ(は)ざんごうあり、鉄条網ありて厳(頑)強なる陣地の如し。
午后三時頃はからず烏龍山砲台なるを知り占領。
砲台は主として揚子江に面し陸にはとちかを築き陣地の補強工事中なり。

十二月十四日 晴
警備。
敗残兵掃蕩のため中隊長准尉一小隊の一分隊と我四分隊とで砲台に行く。
幾名とも知れず射殺す。

十二月十五日 晴
敗残兵数百降伏し来るとの報に一同出動、約二千米。
山中に小銃約百丁、チェック四、銃重機二其の他多数の弾薬を置き逃走。
右武器を前日占領の自動車にて中隊に運ぶ。

(略)

十二月十七日 晴
 警備。
 小隊員中××××、××××の両名歩哨服む中、敵敗残兵のため手榴弾をなげつけられ負傷す。
 毎日敗残兵の銃殺幾名とも知れず。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.116




宮本省吾 歩兵第65連隊第4中隊 第3次補充 少尉

[陣中日記]
〔十二月〕十三日
前夜午后七時俄に命令に接し烏龍山砲台攻撃のため出発、途中大休止をなし午前五時出発前進す、午前十時将校斥候となり烏龍山方面 の敵情を捜索に出発、途中敗残兵等に会ひ騎兵隊と共に射殺す。
敵弾の音の中を一時は潜り烏龍山の近く迄捜索するも敗残兵少々の外陣地に依る兵は見当らずに帰る。
本隊に帰るも本隊はすでに前進をなし非常に困難して本隊に追付く。
夕方烏龍山に攻撃を向かふも敵の陣中にあると□えず、敗残兵を多数捕獲し一部は銃殺す、夜十時野宿につく。

〔十二月〕十四日
午前五時出発、南京近くの敵の残兵を掃揚(蕩)すべく出発す、攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る、次々と一兵に血ぬ らずして武装を解除し何千に達す、夕方南京に捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る無慮万以上に達す、直ちに警備につく、中隊にて八ケ所の歩哨を立哨 せしめ警戒に任ず、捕虜中には空腹にて途中菜を食ふ者もあり、中には二、三日中食を採らぬ 者もあり喝(渇)を訴へる者あり全く可愛想なるも戦争の上なればある程度迄断乎たる処置をとらねばならぬ 、夜半又々衛生隊が二百余の捕虜を引卒(率)し来る、巡警二〇〇余もあり隊長もあり相当訓練的にて人員をしらべる等、面 白き事である、少佐とか参謀とか云ふ者もあり通訳より「日本軍は皆に対し危害を与へず唯逃ぐる事暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」との事を通 じ支那捕虜全員に対し言達せし為一般に平穏であった、唯水と食料の不足で、全く平公(閉口)した様である。

〔十二月〕十五日
一昨日来の疲れのため下士官以下に警戒をたのみ睡眠す、本日も出発の様子なく警戒に任ず。
中隊は衛兵を多数出し又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。
夕方より一部食事をやる、兵へも食糧配給出来ざる様にて捕慮(虜)兵の給食は勿論容易なるものでない。

〔十二月〕十六日
警戒の厳重は益々加はりそれでも(午)前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎(束)の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。

〔十二月〕十七日
本日は一部は南京入城式に参加、大部は捕慮(虜)兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、壮(荘)厳なる史的光景を見(目)のあたり見ることが出来た。
夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。
中隊死者一傷者二に達す。

〔十二月〕十八日 曇
昨日来の出来事にて暁方漸く 寝に付(就)く、起床する間もなく昼食をとる様である。
午后敵死体の片付けをなす、暗くなるも終わらず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。

〔十二月〕十九日
昨日に引き続き早朝より死体の処分に従事す、午后四時迄かかる。
夕方又捕虜の衣類の始末につき火災起る、少しで宿舎に延焼せんとしたが引留む事が出来た、明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かかる、牛肉の油上(揚)迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす、風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.133-134



 
第4中隊 少尉

[証言]
「(銃殺現場のトップは)65聯隊の第一大隊は田山大隊長」
「内地に帰ってから大隊長から あれだけはしゃべらないでくれと 箝口令がありました  田山大隊長ね」
「(捕虜を)解放しようなんて船もなしに 偉い人はぬくぬくと言うなと思いました」
「戦後記事になったでしょう 捕虜を釈放しろと言ったなんて とんでもない詭弁ですよ」

「NNNドキュメント'19 南京事件U」日本テレビ、2018年5月13日24:55放送




箭内享三郎 第65連隊第1機関銃中隊 准尉

[証言]
『ふくしま 戦争と人間』 p.125
「田山大隊長は私たちの第一機関銃中隊の中隊長宝田長十郎中尉と相談し、揚子江岸に船着き場をつくる話し合いをした。私たちが仕事を命ぜられ、江岸に出てヤナギの木を切り倒し、乗り場になる足場などを設けた。また集合できるぐらいの広さの面積を刈り払いした。切り倒した木、刈り払いをした枝などはそのままにしておいた。実をいうと、私たちはそのとき、あの木や枝が彼らの武器となり、私たちを攻撃してくる元凶となるなどとは、神ならぬ身の知る由もなかったのです。船を集めるため江岸を歩き回って探し歩き、十隻前後は集めてきたことを記憶しています

『ふくしま 戦争と人間』 p.130
江岸への集結のさなか、一瞬にして暴走が起こった。彼らはいっせいに立ちあがり、木の枝などを振り回しながら警備兵を襲撃し、これを倒して逃走を始めた。川に飛び込むもの、陸地を走るものなど、暗夜の突然の事態。機関銃が射撃を始めた。このとき私の近くにいた第一大隊長田山芳雄少佐が”撃ち方やめ”を叫んだ。だが混乱しているため命令はいき届かなかったのです。

『南京の氷雨』 p.98-100
  歩兵六十五連隊の連隊機関銃中隊に所属する箭内享三郎准尉は、捕虜を集合させる場所を河原で設定したという。福島市の人だが、既に故人となった。私とは懇意にしており、生前その状況について詳細に語ってくれている。私は回想談を速記メモしていたが、それを紹介しよう。
「目の前は揚子江の分流(爽江)が流れており、背景は幕府山に続く連山でした。河川敷はかなり広くてね、柳やらススキやらが生えていて、かなり荒れたところでしたよ。確か南京入城式のあった日でしたが、入城式に参加したのは連隊の一部の人たちが集成一個中隊をつくって出かけたはずです。私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノコギリやナタを持って、四キロか五キロほど歩いて河川敷に出かけたのです」
  ノコギリやナタとは、また異様なものである。
  いったい、なんのために?
「実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように……と、そんな命令を受けていたんですよ。解放の件は秘密だといわれていましたがね。ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです」
  解放のための準備だったという。
「実は逃がすための場所設定と考えていたので、かなり広い部分を刈り払ったのです。刈り払い、切り払いしたのですが、切り倒した柳の木や、雑木のさまざまを倒したまま放ったらかしにして置いたんです。河川敷ですから、切り倒したといっても、それほど大きなものはありませんでしたがね。ところが、後でこれが大変なことになるのです」
  明るいうちに場所の設定を終えた。上流や下流を捜し歩いて六隻か七隻の舟を集めたものの、 ほかには見当たらず、舟はこれだけだったという。
「兵舎のある上元門に戻って、まだ日のある時間でしたが、それから捕虜の連行が始まったのです」

『南京の氷雨』 p.101-102
  ここで再び箭内准尉の証言メモを続けてみよう。
「集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が……。 突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まったのです。彼ら捕虜たちは次々に縛を脱し----巻脚絆などで軽くしばっていただけですから、その気になれば縛を脱することは簡単だったのです」
 縛を脱した捕虜たちは、ここで一瞬にして恐ろしい集団に変身したという。昼のうちに切り倒し、ただ散乱させたままにしておいた木や枝が、彼らの手に握られたからだ。近くにいた兵士たちの何人かは殴り倒され、たたき殺された。持っていた銃は捕虜たちの手に渡って銃口がこちらに向けられた。
「たまりかねて一斉射撃を開始し、鎮圧に乗り出したのです。私の近くにいた第一大隊長の田山少佐が『撃ち方やめ!』を叫びましたが、射撃はやまない。気違いのようになって撃ちまくっている。目の前で戦友が殴り殺されたのですから、もう逆上してしまっていてね……。万一を考え、重機関銃八挺を持っていっていたので、ついには重機関銃まで撃ち出すことになったのです」


参考資料

  • 『ふくしま戦争と人間』福島民友新聞社編、福島民友新聞社
    (1982年10月)
  • 『南京戦史資料集2』南京戦史編集委員会
    (初版平成元年11月3日、増補改訂版平成5年12月8日)
  • 『南京の氷雨 虐殺の構造を追って』阿部輝郎、教育書籍
    (1989年12月20日初版第一刷発行)
  • 『週刊金曜日』1994年2月4日第12号
  • 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』小野賢二・藤原彰・本多勝一編、大月書店
    (1996年3月発行)
  • 「NNNドキュメント'19 南京事件U」日本テレビ、2018年5月13日24:55放送