支那派遣艦隊

第3艦隊(司令官 長谷川清 海軍中将)
第11戦隊(司令官 近藤英次郎 海軍少将)

「証言による「南京戦史」」『偕行』掲載資料 支那派遣艦隊
・橋本以行 砲艦保津 先任将校 海軍大尉
・関口鉱造 砲艦勢多 次席大尉
・住谷盤根 第三艦隊従軍画家 砲艦安宅乗組
・泰山弘道 中支派遣第3艦隊 司令部 海軍軍医大佐

参考資料

  【 関連資料 】
・中支那方面軍 組織図

 

「証言による「南京戦史」」『偕行』掲載資料 海軍
橋本以行 砲艦保津 先任将校 海軍大尉
証言 『流れる敵兵をかき分けて』海軍第11戦隊 12/13烏龍山砲台より遡った地点で小舟に乗った中国兵が江一面となり対岸へ逃れるのを目撃、南京下流の閉塞線を越えた地点より小舟の数は減り、桟橋用の箱舟・筏が現る、先頭を進む砲艦保津はこれらを攻撃、難民や日本兵の様な服装をした者が舟に混じっていた(偽装の可能性)、15:59下関中貨桟橋に到着、その後、砲撃を受けた為、桟橋を離れ上流で投錨、幕府山砲台からの砲撃の可能性、砲艦勢多は下関桟橋に横付けした時点ではまだ江岸には多数の中国兵おり銃撃戦となる、その後、日本軍の小型戦車1台が下関桟橋に到着、江岸一帯には中国兵が「黒山のように重なり合っている」のを目撃(生死不明)(第10回 p.29 4段)
関口鉱造 砲艦勢多 次席大尉
証言 12/13砲艦勢多は下関埠頭に接近し蝟集していた中国兵へ攻撃した、中国兵が居なくなってから埠頭に着岸、夕方に陸軍大佐より碇泊場司令部を設置すると告げられる、12/15城内偵察の際にフィッチと思われる人物と話をする、フィチは城内が混乱している状況を話す、車で?江門付近まで送ってもらう、?江門―下関埠頭道には中国兵の死体は見たがそれほど多くない、S13年10月に下関埠頭を再訪した際、減水期の河川敷で白骨を目撃(第10回 p.30 3段)
住谷盤根 第三艦隊従軍画家 砲艦安宅乗組
回想 雑誌『東郷』昭和58年12月号 南京が陥落した直後に下関埠頭→興中門にて入城、興中門に「累々たる伏屍」を目撃、興中門付近で陸軍兵士に引率される便衣の中国人を目撃、下関埠頭で陸軍による捕虜殺害を目撃(1000名足らずと推測)、何万という捕虜・二十万虐殺を否定(第10回 p.31 4段)
泰山弘道 中支派遣第3艦隊 司令部 海軍軍医大佐
従軍日誌 ※『南京戦史資料集2』掲載(第10回 p.32 2段)

 

参考資料

  • 「証言による「南京戦史」」(第1回〜第11回、最終回、番外)畝本正巳他
    (『偕行』1984年4月〜1985年3月、同5月、偕行社)