参謀本部
対支那軍戦闘法ノ研究 陸軍歩兵学校 1933年1月
捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セズ、特別ノ場合ノ外之レヲ現地又ハ他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ、特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ、仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ。
『南京大虐殺 岩波ブックレット43』 p.28
対支那軍戦闘の参考 昭和12年7月
第八、捕虜ノ取扱
其一、武装解除ニ関スル注意
一、支那軍ハ欺瞞的ニ投降ヲ装フコトアルヲ以テ不用意ニ之ヲ許スハ危険ナリ
二、捕虜ハ其場ニ武器ヲ放棄セシメタル後之ヲ監視容易ナル地(捕虜ノ種類及兵数ニ依リ地域並其数ヲ決定ス)ニ逐込ミ且要スレハ之ヲ数人毎ニ聯縛スルヲ可トス
此際特ニ注意スヘキハ特ニ峻厳ナル態度及威嚇的処置ニ依リ事大思想ニ富ム彼等ヲ完全ニ畏縮セシムルニ在リ
三、速ニ捕虜中ノ頭領又ハ投降ノ首謀者ヲ求メ之ヲ優遇的ニ懐柔スルカ又ハ威嚇シ以テ自ラ萬般ノ指図ヲ為サシムルヲ可トス
其二、捕虜ノ処置
一、捕虜ハ他国人ニ対スル如ク必スシモ之ヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セス特別ノ場合ノ外現地又ハ他地ニ移シ適宜処置或ハ釈放スルヲ可トスルコト多シ
二、状況特ニ捕虜ノ種類ニ依リテハ之ヲ懐柔シ敵方ニ送リテ敵側ノ撹乱、分裂等ヲ図ラシメ或ハ我カ軍ノ威力ヲ伝ヘシメ以テ敵ノ動揺ヲ策スルヲ有利トスルコトアリ
「第8 捕虜の取扱 其1 武装解除に関する注意」アジア歴史資料センター Ref.C11110831100
(簿冊:対支那軍戦闘の参考 昭和12年7月)
河辺虎四郎
大佐、参謀本部第1部第2課長(作戦課長)
手記(『市ケ谷台から市ケ谷台へ』)
こうした一般の情勢のほかに、軍中央部の一員である私どもにとり、はなはだ気になってきたことは、戦場軍隊の士気であった。
前年の夏動員された在郷の将兵は、”お正月までには帰って来るヨ”と妻子を慰撫して家を出た者も少なくなかった。一気呵成にここまで来たものの、前途果たして如何になるか、”相手にしない”といってみたとて、相手がこちらを相手として来る「戦争」というものの本質をどうしよう。華北にせよ華中にせよ、戦場兵員の非軍紀事件の報が頻りに中央部に伝わって来る。南京への進入に際して、松井大将が隷下に与えた訓示はある部分、ある層以下に浸透しなかったらしい。外国系の報道の中には、かなりの誇張や中傷の事実を認められたし、殊にああした戦場の常として、また特に当時の中国軍隊の特質などから、避け得なかった事情もあったようであるが、いずれにせよ、後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実が現われた。
南京攻略の直後、私が命を受けて起案した松井大将宛参謀総長の戒告を読んだ大将は、”まことにすまぬ”と泣かれたと聞いたが、もう事はなされた後であった。
『市ケ谷台から市ケ谷台へ』河辺虎四郎 時事通信社 1962年 pp.152-153
陸軍省
陸軍次官通牒 交戦法規の適用に関する件
※K-K註:カタカナは平仮名へ、旧字は新字へ適宜修正している
陸支密第198号 支那駐屯軍参謀長宛 昭和12年8月5日付
受領番号 陸軍省受領 陸支密受第四四七号 起元庁(課名) 軍事課
件名 交戦法規の適用に関する件
(K-K註:了承印は略す、欄外に記述あり「本件は海軍外務■一応了解せしめあり」)
次官より支那駐屯軍参謀長宛通牒案
(陸支密、飛行便)
(別紙の通)
陸支密第一九八号 昭和拾弐年八月五日
極秘
陸支密
次官より駐屯軍参謀長宛(飛行便)
今次事変に関し交戦法規等の問題に関しては別紙に準拠するものとす
右依命通牒す
別紙
左記
一、現下の情勢に於て帝国は対支全面戦争を為しあらさるを以て「陸戦の法規慣例に関する條約其の他交戦法規に関する諸條約」の具体的事項を悉く適用して行動することは適当ならす
二、但し左の件を実施するは現下の状況に於て当然の措置なるへし
1、自衛上必要の限度に於て敵性を有する支那側動産不動産を押収没収破壊し或は適宜処分(例へは危険性あるもの、長期の保存に堪へさるもの押収後之か保管に多大の経費、労力を要するもの等を換価又は棄却する等)し
「但し土地建物等の不動産及私有財産(市、区、町、村に属する財産を含む)は之を軍に於て没収することは適当ならす」
2、自衛の為又は地方良民等の福祉の為緊急已むを得さる場合に於て前項の物件等を利用すること
三、右述の外日支干戈の間に相見ゆるの急迫せる事態に直面し全面戦争への移行転移必すしも明確に判別し難き現状に於て自衛上前記條約の精神に準拠し実情に即し機を失せす所要の措置を採るに遺漏なきを期す
四、軍の本件に関する行動の準拠前述の如しと雖帝国か常に人類の平和を愛好し戦闘に伴ふ惨害を極力減殺せんことを顧念しあるものなるか故に此等の目的に副ふ如く前述「陸戦の法規慣例に関する條約其の他交戦法規に関する諸條約」中害敵手段の選用等に関し之か規定を努めて尊重すへく又帝国現下の国策は努めて日支全面戦に陥るを避けんとするに在るを以て日支全面戦を相手側に先んして決心せりと見らるる如き言動(例へは戦利品、俘虜等の名称の使用或は軍自ら交戦法規を其の儘適用せりと公称し其の他必要已むを得さるに非さるに諸外国の神経を刺戟するか如き行動)は努めて之を避け又現地に於ける外国人の生命、財産の保護、駐屯外国軍隊に対する応待等に関しては務めて適法的に処理し特に其の財産等の保護に当りては努めて外国人特に外国外交官憲等の申出を待て之を行ふ等要らさる疑惑を招かさるの用意を必要とし
五、地方の行政治安維持其の他官公署等の動産不動産の保護等に関しても軍政を布き或は軍自ら進んて之に関与するを避け前述の趣旨に鑑み努めて北支明朗化に害なき支那人士をして自主的に之に当らしめ軍は現地に於ける唯一の治安維持の真の有能力者として之に必要なる内面的援助を与へ其の実を挙くるを可とす又支那側の神社仏閣等の保護に就ては勉めて注意あり度
六、右諸件の実施に方りては機を失せす之か具体的報告を提出するものとす
追て右諸件堀内総領事にも伝へられ度、外務省諒解済
陸支密第1772号 丁集団参謀長宛 昭和12年11月4日付
受領番号 支密領第四四七号 起元庁(課名) 軍事課
件名 交戦法規の適用に関する件
(K-K註:了承印は略す)
次官より丁集団参謀長宛
通牒案(陸支密)
交戦法規の適用に関し別紙の通各軍に通牒せられあるに付之に準拠せられ度通牒す
陸支密第一七七二号 昭和十二年十一月四日
秘
交戦法規の適用に関する件
一、現下の情勢に於て日支両国は未た国際法上の戦争状態に入りあらさるを以て「陸戦の法規慣例に関する條約其の他交戦法規に関する諸條約」の具体的事項を悉く適用して行動することは適当ならす
二、但し左の件を実施するは現下の状況に於て当然の措置として差支なし
1、自衛上必要の限度に於て敵性を有する支那側動産不動産を押収没収破壊し或は適宜処分(例へは危険性あるもの、長期の保存に堪へさるもの、押収後之か保管に多大の経費、労力を要するもの等を換価又は棄却する等)すること
「但し土地建物等の不動産及私有財産(市、区、町、村に属する財産を含む)は之を軍に於て没収することは適当ならす」
2、自衛の為又は地方良民等の福祉の為緊急已むを得さる場合に於て前項の物件等を利用すること
三、右述の外日支干戈の間に相見ゆるの急迫せる事態に直面し全面戦争への移行転移必すしも明確に判別し難き現状に於て自衛上前記條約の精神に準拠し実情に即し機を失せす所要の措置を採るに遺漏なきを期す
四、軍の本件に関する行動の準拠前述の如しと雖帝国か常に人類の平和を愛好し戦闘に伴ふ惨害を極力減殺せんことを顧念しあるものなるか故に此等の目的に副ふ如く前述「陸戦の法規慣例に関する條約其の他交戦法規に関する諸條約」中害敵手段の選用等に関し之か規定を努めて尊重すへく又帝国現下の国策は努めて日支全面戦に陥るを避けんとするに在るを以て日支全面戦を相手側に先んして決心せりと見らるるか如き言動(例へは戦利品、俘虜等の名称の使用或は軍自ら交戦法規を其の儘適用せりと公称し其の他必要已むを得さるに非さるに諸外国の神経を刺戟するか如き言動)は努めて之を避け又現地に於ける外国人の生命、財産の保護、駐屯外国軍隊に対する応待等に関しては勉めて適法的に処理し以て第三国との紛糾を避くるのみならす皇軍に対して信頼を抱かしむる如くするものとす
五、地方の行政治安維持其の他官公署等の動産不動産の保護等に関しても軍政を布き或は軍自ら進んて之に関与するを避け前述の趣旨に鑑み軍は必要なる内面的援助を与へ其の実を挙くるを可とす又支那側の神社仏閣等の保護に就ては勉めて注意あり度
六、右諸件の実施に方りては機を失せす之か具体的報告を提出するものとす
陸支密第635号 関東軍参謀長宛 昭和12年9月3日付
受領番号 陸軍省受領 陸支密受第一五九九号 起元庁(課名)軍事課
件名 交戦法規の適用に関する件
(K-K註:了承印は略す)
次官より関東軍参謀長宛(飛行便)
今次事件に伴ふ交戦法規の適用の限度に関しては別冊に準拠することに定められたるに付通牒す追て別冊は既に支那駐屯軍に対して指示せられたるものなるに付申添ふ
陸支密第六三五号 昭和拾弐年九月参日
極秘
交戦法規の適用に関する件
一、現下の情勢に於て両国は未た国際法上の所謂日支戦争に入りあらさるを以て「陸戦の法規慣例に関する條約其の他交戦法規に関する諸條約」の具体的事項を悉く適用して行動することは適当ならす
二、但し左の件を実施するは現下の状況に於て当然の措置として差支なし
1、自衛上必要の限度に於て敵性を有する支那側動産不動産を押収没収破壊し或は適宜処分(例へは危険性あるもの、長期の保存に堪へさるもの、押収後之か保管に多大の経費、労力を要するもの等を換価又は棄却する等)すること
「但し土地建物等の不動産及私有財産(市、区、町、村に属する財産を含む)は之を軍に於て没収することは適当ならす」
2、自衛の為又は地方良民等の福祉の為緊急已むを得さる場合に於て前項の物件等を利用すること
三、右述の外日支干戈の間に相見ゆるの急迫せる事態に直面し日支戦争への移行転移必すしも明確に判別し難き現状に於て自衛上前記條約の精神に準拠し実情に即し機を失せす所要の措置を採るに遺漏なきを期す
四、軍の本件に関する行動の準拠前述の如しと雖帝国か常に人類の平和を愛好し戦闘に伴ふ惨害を極力減殺せんことを顧念しあるものなるか故に此等の目的に副ふ如く前述「陸戦の法規慣例に関する條約其の他交戦法規に関する諸條約」中害敵手段の選用等に関し之か規定を努めて尊重すへく又帝国現下の国策は努めて日支戦争に陥るを避けんとするに在るを以て此種戦争を相手側に先んして決心せりと見らるる如き言動(例へは戦利品、俘虜等の名称の使用或は軍自ら交戦法規を其の儘適用せりと公称し其の他必要已むを得さるに非さるに諸外国の神経を刺戟するか如き言動)は努めて之を避け又現地に於ける外国人の生命、財産の保護、駐屯外国軍隊に対する応待等に関しては勉めて適法的に処理し以て第三国との紛糾を避くるのみならす皇軍に対して信頼を抱かしむる如くするものとす
五、地方の行政治安維持其の他官公署等の動産不動産等の保護に関しても軍政を布き或は軍自ら進んて之に関与するを避け前述の趣旨に鑑み努めて北支明朗化に害なき支那人士をして自主的に之に当らしめ軍は現地に於ける唯一の治安維持の真の有能力者として之に必要なる内面的援助を与へ其の実を挙くるを可とす又支那側の神社仏閣等の保護に就ては勉めて注意あり度
六、右諸件の実施に方りては機を失せす之か具体的報告を提出するものとす
「交戦法規の適用に関する件」 アジア歴史資料センター Ref.C04120138000
(簿冊:支受大日記(密)其2 昭和13年自1月14日至1月26日)
陸支密電七五三 日本兵の南京米国大使館侵入に関する件
件名 日本兵ノ南京米国大使館侵入ニ関スル件
起元庁 軍務局
提出 昭和拾貮年十二月廿八日
次官ヨリ松井集団参謀長及同特務部長宛電報(陸支密)
岡本総領事発外務大臣宛電報二依レハ南京一米国人宣教師ハ領事館宛左記申越セル趣ナリ
一、二十三日夜武装日本兵少クモ四回南京米国大使館構内ニ来リ自動車三、自転車四、石油ランプ二、懐中電灯数個ヲ掠奪セル外士官ノ引率セル一隊ハ使用人ヲ身体検査シ現金約二百五十弗、時計、金指輪、身廻品ヲ窃取シ又或兵ハ鍵ノ掛レル「パツクストン」ノ事務室ヲコヂ開ケントシ銃剣ニテ扉ヲ突刺シ又他ノ二名ハ支那婦人二名ヲ強姦セントスルニ他ノ兵ノ制止ニ依り未遂ニ終レリ
二、二十四日午前九時日本兵又々構内ニ入り乗用車二、「トラック」一ヲ又巡警部屋ヨリ麦粉及米袋各一、懐中電灯、現金十一弗八十仙ヲ掠奪セリ
右二付日高参事官ノ談ニ依レハ強姦未遂以外ハ我警察ニテ確認セル由ナリ
本件事実トセハ折角解決セル「パネー」号事件ヲ逆転セシムル虞アルヲ以テ外務官憲トモ連絡ノ上至急適宜ノ処置ヲ採ラレ度
尚右真相至急回示アリ度
陸軍省送達 陸支密電七五三
昭和拾貮年十二月廿八日
「日本兵の南京米国大使館侵入に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04120275900、
支受大日記(密)其11 昭和13年自3月12日至3月18日(防衛省防衛研究所)
額田坦
中佐 陸軍省人事局補佐課高級課員
手記『陸軍省人事局長の回想』1977年
年末、年始の中支戦線視察
昭和十二年十二月末、阿南局長に随行して中支に赴き、三十日には上海戦線で伊東政喜百一師団長、工藤義雄百一歩兵旅団長等より忌憚のない苦戦談を伺い、三十一日には蘇州に向って南下する殺気に満ちた九師団の精鋭を鉄路上に迎え、同夜は、師団司令部に合宿して吉住良弼師団長(17)以下から南京攻略の有益なる実戦談を承った。
十三年元日夕、南京に到着し、翌朝より紫金山をはじめ南京城内外の戦場を弔うとともに、筆者は特に各師団毎に最も戦績の勝れた一部隊長を選んで歴訪した。なかでも三師団歩六八長鷹森孝大佐(20)、十六師団歩三三長野田謙吾大佐(24)より年齢問題をはじめ、すこぶる有益な人事に関する教訓を得たことは幸であった。
なお、特に忘れ得ないのは、南京の旧兵営内に拘禁されていた中国軍官学校生徒数百名の揃って泰然とした凛々しい姿であった。
S参謀は「何を聞いても頑として一言も答えぬ者が多い」と感嘆していた。さすがに蒋介石夫妻が軍官学校内に止宿して朝夕、生徒に接し訓育を全うした成果であると感心した。
松井方面軍司令官は、阿南局長に対し涙ながらに東洋平和と人類愛を説き、あまりに果敢なりし中島今朝吾十六師団長(15)の統帥を非難された由。ただし決して師団長が皆日露戦争当時に比して将帥の徳において劣ると申されたのではなかった。
この慈悲の松井大将と、南京には一兵をも入れなかった谷寿夫第六師団長(15)とが、共に南京における虐殺の責任者として処刑されたことは、全く言語道断である。ちなみに中島十六師団長は終戦前すでに死去されていた。
さらに南京から杭州に行き第十軍柳川平助司令官と牛島貞雄第十八師団長(共に12、召集)とに面会したが、お二人はすこぶる志気旺盛で、いつまででも戦地に停って聖戦に従事されんとする英気が快く感得された。
ただ牛島師団長が筆者に対し「阿南君のような立派な人物を人事局長として置くのは間違いではないか」と申されたのにはいささか落胆した。
牛島中将は、かつて歩一中隊長の頃、中隊附阿南中尉の人格をよく知悉されていたのである。
なお同中将は、一兵より身を起し陸大校長、十九師団長を歴任された知徳兼備の名将であった。昭和十二年五月十六日、筆者の出身部隊たる歩五四の会合が偕行社で催された際、かつて当連隊の大隊長たりし牛島中将は筆者に対し「阿南局長に対し、何とかも一度、連隊長に召集して貰いたい。決して現役者には未だ劣らぬからと、伝言してくれ」と、申されていた。
たしかにその気魄が充溢していたが、杭州湾上陸以来の健闘ぶりはこれを証明した。
pp.19-21
大将 松井石根(9) 愛知県出身 明治十一年生
大アジヤ主義の国士、ガンジーを連想させた人。
明治三十一年少尉任官、名古屋歩六附。
(略)
支那事変には、召集されて上海派遣軍司令官として出征し、後方面軍司令官となって前職をも兼ね、さんざん苦戦の末不本意ながら南京を攻略して入城した。
十三年元日、筆者は阿南人事局長に随行して南京で松井軍司令官に申告したが、局長の話によれば「中島今朝吾十六師団長(15)の戦闘指導は人道に反する」とて非難し、士道の頽廃を嘆かれた由である。
十三年三月、召集解除後は、再び渡支して懇ろに各戦場を弔い、各地の土を持ち帰って伊豆山の自邸内に、日支両軍戦没将兵の碑を建て、ひたすら其の冥福を祈っていた(戦後伊豆山観音、殉国七士の睥〔東京裁判戦犯七士〕もその近くに建立され有名になっている)。
しかるにA級戦犯として巣鴨に拘禁され空しく散華されたが(昭和二十三年十二月)、東京裁判の弁護にあたった筆者の知己大室亮一弁護士は、大将の諦観された高潔な人格に感動していた。氏はまた、「担任の米人弁護士も、裁判中における大将の悟り切った態度に深く感服していた」、と語っていた。
筆者は、処刑前一ヶ月散歩中の大将を、三階の窓から俯瞰したが正に聖者の風情があった。
pp.320-322
『陸軍省人事局長の回想』額田坦 芙蓉書房 1977年
稲田正純
1896年-1986年、鳥取県生まれ。陸士29期、陸大37期(優等者として恩賜の軍刀を受領)。参謀本部、フランス駐在、野戦重砲兵第2連隊大隊長、陸大教官など勤務した後、陸軍省軍務局軍事課員(中佐)となり、1938年1月に陥落直後の南京を視察した。
証言『実証史学への道』秦郁彦 2018年
…
〈ヒアリング〉昭和二十八年(一九五三)八月〜十一月(四回)
…
南京を見聞
◇梅津次官は大本営設置に反対。梅津は二・二六事件以後、「梅津の陸軍」と言われるほど権勢をふるったが、次官転出で人気を失った。
昭和十二年(一九三七)十二月二十九日発、阿南惟幾人事局長、私、額田坦、諌山春樹、荒尾興功が同行して一月二日南京へ出張。南京陥落後の態勢をどうするか。人事交代も必要との所感。
中島今朝吾第十六師団長は「捕虜を殺すぐらい何だ」とうそぶいた。榊原主計後方参謀の話だと、「上海戦場の後始末の労働力として捕虜を予定していたら、みんな死体にされてしまった。長参謀と『やったな』『やったよ』と問答したが、四万から四万五千の捕虜を皆殺しして、残ったのは三千ぐらい」とのこと。
◇朝香宮は、徐州、漢口を攻略したいと熱望。第三課の高山信彦参謀によると、「南京はひどい。下関の波止場で三千人ぐらいの死体が折り重なっていた」。
私が行ったときはかなり整理されていたが、毎晩十か所ぐらいが火事になる。寒いので家を一軒焼いて暖をとるとの悪評。武藤章が十二月末上海で慨嘆して、「松井(石根)司令官がどうにもならぬ。日本人の堕落だ」と言っていたよし。
悪いことをするのは、予後備の召集将校と兵士たちだという。
◇徐州会戦でも捕虜は皆殺しした。後送の準備もないことでやむえない。
『実証史学への道 一歴史家の回想』秦郁彦(聞き手 笹森春樹) 中央公論社 2018年 pp.262-264
教育総監部
畑俊六
略歴=1879年〜1962年。幼年学校、士官学校(第12期)を経て任官、日露戦争で負傷、陸軍大学(第22期)、参謀本部第4部長、第1部長、第14師団長、台湾軍司令官を経て、事件当時は陸軍大将、軍事参議官・教育総監を兼任。後に侍従武官長、陸軍大臣。最終階級は元帥。戦後はA級戦犯として訴追、東京裁判で終身刑。
日記(『南京事件』笠原十九司)
〔38年1月29日〕
支那派遣軍も作戦一段落とともに、軍紀風紀ようやく頽廃、掠奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ、また上海方面
にある松井大将も現役をもって代わらしめ、また軍司令官、師団長などの召集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。この意見を大臣に進言いたしおきたる・・・・。s
笠原十九司『南京事件』 p.212
その他部隊
三笠宮崇仁
昭和天皇裕仁の弟(大正天皇嘉仁の第四子)、事件当時は騎兵中尉、騎兵第15連隊所属
手記『古代オリエント史と私』
一九四三年一月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして一年間在勤しましたが、その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。ここではごくわずかしか例をあげられませんが、それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考え下さい。
ある青年将校――私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです――から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかがる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました。
「聖戦」のかげに、じつはこんなことがあったのでした。
16-17
私が上海地区の視察に行ったとき、ある師団長はつぎのように述懐されました。「われわれが戦っている敵方の中国軍と、日本軍に協力している味方の中国軍とを比較すると、相手方のほうが一般民衆にたいする軍紀が厳正です。われわれは正義の戦いをしているはずなのに、軍紀のゆるんでいる軍隊を助けて、軍紀のひきしまっているほうの軍隊を討伐することに、つくづくと矛盾を感じます」と。今にして思えば、ヴェトナムにおける米軍もまさに同様の矛盾を感じていたのではありますまいか。
19-20
『古代オリエント史と私』三笠宮崇仁 学生社 1984年
岡村寧次
中将 第2師団長(第2師団は関東軍隷下となり、満洲で警備任務)
手記『岡村寧次大将資料 上 戦場回想篇』
はしがき
「殊に復員完結以後私一人となってからは、公的記録は全く無いのであるから、専ら私の日記に基き、私個人を基準として叙述した次第である。」
p.1
三 戦場軍、風紀今昔の感と私の覚悟
私は、従来書物によって日清戦争、北清事変、日露戦争当時における我軍将兵の軍、風紀森厳で神兵であったことを知らされ、日露戦争の末期には自ら小隊長として樺太の戦線に加わり、大尉のときには青島戦に従軍し、関東軍参謀副長および第二師団長として満洲に出動したが、至るところ戦場における軍、風紀は昔時と大差なく良好であったことを憶えている。それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければならないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、それはわれらの目的は蒋介石の軍隊を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。
上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一 南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
「第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。
註 後には、荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。
一 上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。
一 最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕えられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。
七月十五日正午、私は南京においてこの日から第十一軍司令官として指揮を執ることとなり、同十七日から第一線部隊巡視の途に上り、十八日潜山に在る第六師団司令部を訪れた。着任日浅いが公正の士である同師団長稲葉中将は云う。わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する。団結心強いが排他心も強く、配営部隊等に対し配慮が薄いと云う。
以上の諸報告により、私はますます厳格に愛民の方針を実行しようと覚悟を決めたことであった。
290-291
『岡村寧次大将資料 上 戦場回想篇』稲葉正夫 原書房 1970年
手記『岡村寧次大将陣中感想録』(靖国偕行文庫所蔵)
一つは、一九三八年六月に第一一軍司令官として中国戦線に赴いた岡村寧次の記録である。一九五四年六月に厚生省引揚援護局が作成したこの記録、『岡村寧次大将陣中感想録』(靖国偕行文庫所蔵)には、三八年七月一三日のこととして、次のような記述がある。
中支戦場到着後先遣の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所に依れは従来派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くは之を殺すの悪弊あり、南京攻略時に於て約四、五万に上る大殺戮、市民に対する椋奪、強姦多数ありしことは事実なるか如し。
なお、この記録の表紙には、「一切転載並公表を禁ず」とのただし書きが付されている。
笠原十九司・吉田裕「総論 現代歴史学と南京事件」『現代歴史学と南京事件』p.12
河辺正三
事件当時は、少将、北支那方面軍参謀副長
『日本憲兵正史』1976年
(漢口攻略戦(1938年8月下旬〜10月下旬)の出来事として)
漢囗作戦に配属された憲兵は、漢囗隊要員の憲兵中佐五十嵐翠以下であった。作戦に先だち、軍参謀長河辺省三少将は憲兵長に対し次の指示を与えた。
一、南京攻略時における、風紀紊乱による暴行、掠奪等の醜態の絶無を期するため、厳重に取締るべきこと。
二、国際権益の侵害による、渉外事件の発生を厳に戒め、この点に留意すること。
ところが、これまでの経験からみても、憲兵の入城は南京の例に見るように、とかく前線部隊に遅れ勝ちであった。
『日本憲兵正史』全国憲友会連合会編纂委員会編 同本部刊 1976年pp.515-516
大谷敬二郎
憲兵少佐 赤坂憲兵分隊長
手記(『陸軍80年』)
南京「大虐殺」
(略)
かの南京における大虐殺は、今日におよんでも、日本の非道残虐が告発されているが、たしかに、そこでは、玉石混交、一般市民に対する殺害が行なわれたが、一城を占領したあとは、中国戦場では大なり小なり、こうした無睾の化民がそばづえをくって戦禍をうけたのも、一般的には、こうした事情によるものと思われる。
だが、それにしても、南京における事態は、”皇軍”の出師をいちじるしく傷つけたもので、わが対外戦史の一大汚点であろう。
南京大虐殺、それは戦後の東京裁判で暴露されすべての国民を驚かしたが、そこでは三十万ないし五十万の中国人が虐殺されたといわれた。だが、それは、戦犯裁判対策上のいちじるしい虚構と思われる。事実、昭和十二年十二月十日前後の時点において、南京の全人口三十万、ここの防衛軍五万ないし十万、合計三十五万ないし四十万と推定されるのに、五十万虐殺といえば、おつりがくるし、三十万虐殺といえばそのほとんどが殺されたことになる。あまりにも誇大なる告発であった。だが、事実、そこではいく多の不幸な事態があった。東京裁判に証人として出廷した南京大学教授ベーツ博士はこう証言している。
「城内だけでも一万二千におよぶ中国非戦闘員が虐殺され、ある中国兵の一群は城外で武装解除され、揚子江のほとりで射殺された。われわれはこの死体を埋葬したが、その数は三万人をこえていた。そのほか揚子江に投げこまれた死体は数えきれない。
南京大学の構内にいた三万人の避難民のうち数百人の婦人は暴行された。占領後一ヵ月間に二万人におよぶ、こうした事件が国際委員会に報告された」
ここで、とくに問題とされたのは、右にある中国兵捕虜の虐殺である。日本軍に捕えられた捕虜一万五千(実数は七、八千といわれている)が、日本軍の機関銃によってメッタ撃ちされ、ために揚子江はまっ赤に染められたというのである。
最近南京大虐殺といわれたこの日本軍の蛮行について、克明な実証をとげられた、評論家鈴木明氏の数々の労作、「南京、昭和十二年十二月」「まぼろしの南京大虐殺」などによって、それが伝えられるような残忍酷薄な意図的なものではなく、右の揚子江河畔の虐殺もまったく偶発的な要素が重なったものであり、その被害者も「大虐殺」といわれるにはあまりにもその数は少なかったが、後に政治的な意味できわめて拡大されたことが立証されている。だが、こうした事態の究明によってもここでの日本軍の暴虐が免罪されるものではない。南京入城式が松井軍司令官統裁の下に行なわれたのは、十二月十七日、その前後、市内の掃蕩、粛清間に行なわれた殺害、掠奪、婦女強姦の数々は、おびただしいものがあった。戦後、南京軍事法廷で当時の第六師団長谷寿夫中将は、このためにさばかれ、雨花台で銃殺され、その屍体は群衆にはずかしめられたが、占領後の南京警備司令官は第十六師団長中島今朝吾中将であったのだ。
中島は二・二六事件後憲兵司令官を勤めた人、さきに書いた宇垣組閣阻止に動いた張本人、そのあと第十六師団長となった。憲兵司令官当時、しばしば常軌を逸することがあり、部下たちを困らせていた。いささか異常性格と思わせる節がないでもなかった。この師団長が南京市の警備責任者であったのだ。昭和十三年一月はじめ、南京を訪問した陸軍省人事局長阿南少将が中島中将に会ったとき、「支那人なんかいくらでも殺してしまうんだ」とたいへんな気焔をあげていたとも伝えられていたが、この司令官のもとでは、殺人、掠奪、強姦も占領軍の特権のように横行したであろう。現に彼は、のち満州の第四軍司令官当時、蒋介石の私財を持ち出し師団偕行社に送っていたことがばれて予備役に編入されている。
当時、東京にはこの師団の非道さは、かなり伝えられていた。こんな話がある。松井兵団に配属された野戦憲兵長は、宮崎憲兵少佐であったが、あまりの軍隊の暴虐にいかり、現行犯を発見せば、将校といえども直ちに逮捕し、いささかも仮借するな、と厳命した。ために、強姦や掠奪の現行犯で、将校にして手錠をかけられ憲兵隊に連行されるといった状況がつづいた。だが、これに対しつよく抗議したのが中島中将であった。この問の事情がどうであったか、くわしく覚えないが、当の宮崎少佐は、まもなく内地憲兵隊に転任される羽目となった。これでは、戦場における軍の紀律はたもてない。高級指揮官が、掠奪など占領軍の当然の権利のように考えていたからだ。すでに、軍はその質をうしなっていた。
『陸軍80年』大谷敬二郎 図書出版社 1978年 pp.223-227
井之脇定二
証言(『ペンの陰謀』本多勝一編 1977年)
去る八月二十二日午後八時のNHK放送「映像の証言 ”戦ふ兵隊”」に出られた南京攻略戦参加の牧師井之脇定二氏は、南京の西門外には幅三十メートルばかりの戦車壕があって、これが死体で埋めつくされていて、その上を馬に輜重車をひかせて渡ったことを語っていた。
『ペンの陰謀 あるいはペテンの論理を分析する』本多勝一編 潮出版社 1977年 p.33
証言(『決定版・南京大虐殺』洞富雄 1982年)
西門外の大量虐殺については、日本人の証言が一つある。NHKで一九七七年八月二十二日午後八時に放送された「映像の証言 ”戦う兵隊”」に出られた方の一人に、牧師井之脇定二氏があった。氏は南京攻略戦に参加していたのだが、この時、南京の西門外に幅三十メートルばかりの戦車壕があり、これが死体で埋めつくされていて、その上を馬に輜重車をひかせて渡ったことを語っていた。
『決定版・南京大虐殺』洞富雄 徳間書店 1982年 p.49
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