第 9 師 団
第9師団
第9師団作戦経過の概要 第5章 南京城攻撃戦闘
 

△歩兵第6旅団
△△歩兵第7連隊

・水谷荘・一等兵 第一中隊 日記「戦塵」
・井家又一・上等兵 第二中隊 日記
田中義信陣中日記 第3機関銃中隊
歩七作命甲第一〇七号 十二月十四日 午後一時四十分
歩七作命甲第一一一号 十二月十五日 午後八時三〇分


第9師団作戦経過の概要 第5章 南京城攻撃戦闘

一、南京城内外敵陣地の状況附図第十四の如く本陣地により最後の抵抗を行ひたるは師団当面 のみにして判明せるもの左の如し
51D、87D、88D教導総隊等二、戦闘経過
1、光華門占領
(十二月十日)両翼隊は追撃に引続き必死の勢を以て南京城攻略に努めたる結果 左翼隊のT/36iは此日午後五時他兵団に先ち光華門を占領し門頭高く一番乗の光輝ある日章旗を掲くるの栄誉を担へり

2、(十一日−十二日)両日に互り左翼隊主力は一意光華門附近の戦果拡張に努めたるも大なる戦果 を収むる至らす 更に砲撃に依り光華門東側に突撃路を開設し(十三日)十時を期し決死の突撃を再興せんと企図し之か準備中敵兵退却を開始せるを以て(十三日)午前六時光華門両側城壁上に有力なる部隊を進出せしめ得るに至れり
此間左翼隊の一部たる19i(2欠・第二大隊)は南京附近敵陣地右翼の鎖鑰たる雨下台附近の堅陣を力攻し其東半分を攻略せり

3、右翼隊方面に在りては(十二月十日)以来陸軍兵営西側稜線より工兵学校に亘る数戦陣地を力攻めし(十一日)概ね中山門東方五〇〇米の稜線より工兵学校西側「クリーク」の線に進出し一意城壁占領に努めたるも幅七〇米に及ふ水濠に拒まれ戦況意の如く進展せす
(十二月十二日)主力砲兵に依る突破孔構成に次き(十三日)払暁より決死の突撃を準備しつつある間夜半敵火減少し敵兵退却の微ありしを以て攻撃を再興し(十三日)午前六時中山門を占領せり
此間3(第三大隊)/35iは独断敵陣地の左翼拠点たる紫金山攻撃に努め(十二月十日)午前十一時三十分先つ△382・5高地の要点を奪取し軍全般 の攻撃を容易ならしめたり

4、南京占領
以上の如くして(十二月十三日)午前八時迄には完全に師団正面に於ける城壁上に日章旗翩飜 とし飜り茲に敵の首都南京城は完く我手に帰し世界青史に光輝ある一頁を飾るに至れり

5、本攻撃に当り(十二月十一日)以来15H10K15K24H等の重砲部隊の協力を得丈なす城壁に三個の突撃路を開設するを得たり

三、城内掃蕩
師団は爾後右翼隊主力を以て城内の掃蕩に当り七千余の敗残兵を殲滅せり

四、本戦闘に於ける彼我の損害左の如し(淳化鎮附近を含む)
   友軍 死者 将校以下 四六〇名
       傷者 将校以下 一、一五六名
   敵軍 死体 四、五〇〇他に城内掃蕩数 約七、〇〇〇
(略)

『南京戦史資料集1』P509-510



水谷荘一等兵 日記「戦塵」
第9師団 第6旅団 歩兵第7連隊 第1中隊

十二月十三日
(略)
 引き続いて市内の掃蕩に移る。市内と言っても大都市南京、ほんの一部分の取りついた附近の小範囲に過ぎない、夥しい若者を狩り出して来る。色々の角度から調べて、敵の軍人らしい者二十一名を残し、後は全部放免する。

十二月十四日
 朝、第一公園近くに、我軍の空襲で屋根をおとされている家屋が、宿舎に充てられた。
 昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩に当たり、若い男子の殆ど、大勢の人員が狩り出されて来る。靴づれのある者、面 タコのある者、きわめて姿勢の良い者、目付きの鋭い者、等よく検討して残した。昨日の二十一名と共に射殺する。
 敵の鹵獲小銃で鳥を射ったら見事一発で命中した。適の小銃モーゼルは性能が良いのだろうか。公園に出て鳥を射ってみたが、全然駄 目だった。先刻の命中は紛れだたかも知れない。
 夕方になってから、近くの少し程度の良い宿舎に移る。この宿舎に入ってから、多々見と二人で自転車で菓子や砂糖の徴発に行く。夜遅くなったものの、収穫多々で帰る。
 後方の湯水鎮於て、南京攻撃司令官朝香中将の宮殿下軍司令部が、適の包囲下に在り急遽出動を命ぜられ、発進したが、再度の命令で取り消された。

十二月十五日
  今日も又移動。昼食携行で日本領事館の方向、難民区に行く。経路は中山路だろうか、広い道はぎっしり路面 を覆いつくして、逃走の間際脱ぎ捨てられたものの如く、支那軍の軍装で埋め尽くされていた。弾薬等も多数放置され散乱してはいたが、兵器の類はその割合に少なく感じられた。
 行けども行けども、何処迄歩いても衣服は道路を埋め尽くし、これを踏みつけては歩き通 した。よくもこんなに大量の軍服を脱ぎ捨てたものだ。その膨大な数量にも驚いたが、この軍服を脱ぎ捨てた敵将兵が悉く市内に潜伏しているとしたら、城内に夥し残敵が、便衣をまとって好機を狙っているのかも知れない。この点は特に十分な警戒が必要であろう。
 今日も夕方になって漸く宿舎が決定、難民区の中に、各中隊分散して宿舎に入った。

十二月十六日
 午前、中隊長と二人だけで、宿舎北方の山寺へ行く。由緒ある古寺らしく、その規模の壮大さに先ず圧倒された。
 此処は敵の憲兵第2団が置かれた跡であることが、遺留された書類や物品で判明した。憲兵隊らしからぬ 、戦闘部隊用の兵器、弾薬等が夥しく集積されていて、水冷式重機関銃1挺を発見する。其の他被服類の梱包等数えきれない物資が、年輪を経た巨木の繁みの陰に積み上げられていた。
 午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通 遮断の上、各中隊分担の地域内を掃討する。
 目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引き立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族である母や妻らしい者が大勢泣いて方面 を頼みに来る。
 市民と認められる者は直ぐ帰して、三六名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだいう。多少の犠牲者は止む得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。
 酒井曹長が中隊に到着

十二月十七日
  昨夜十二時頃、非常呼集があって、第一機関銃中隊は揚子江江岸に一二〇〇名の銃殺に行っていたが、夜に入り、それまで死体を装っていた多数の相手に包囲され苦戦中とのこと。急遽出動したが、途中で大隊本部よりの命令で、概ね鎮圧した由、長以下一〇名が応援に行き、他は帰る。
(略)

『南京戦史資料集1』P395-397




井家又一日記
第9師団 第6旅団 第7連隊 第2中隊 上等兵

拾弐月拾参日(12月13日)
 午前四時行動を起こして城壁に迫る。星夜ながらおぼろに城を見る事が出来る。昨日あれだけの弾が来たのに何たる静かな事、遠く敗残兵でも打ったのか歩哨演習の様、ポンポンと銃声を聞くのみ、噫さては昨日の砲撃によって退却したのであろうか。我々は城壁占領の拠点を作り壕を掘り陣地を作る、空は晴れて左手の方の東天も明けたので銃声は全くなし。その儘いると敗残兵が五・六名居るので呼ぶと走り来る。全く己の敗戦を知ってか銃を捨て、丸腰のシナ人である。(略)

拾弐月拾四日(12月14日)
 南京占領の第一公園近くの儒教の寺院にて一夜を過ごす。昨夜二時過ぎに床に入った為とてもねむかった。然し軍隊の事朝七時起床だ、一寸体の具合の悪さを考える。あの上海戦から南京入城までの追撃戦の疲れか全く頭が痛い。午前八時半整列して昨夜の地点を今一度残敵掃除に行く。然し自分は行きたくなかった。昼の南京市街を見度又出る。昨夜の地点は国際避難地区を米国人が経営しているのである。中立地帯として日本に願いに出ているが日本人は此は認めないのである。南京の避難民はこの地区に外人の建物の大建築にあふれて居る。朝日新聞記者の報にて現場にかけつける。約六〇〇名の敗残兵が外人の建物にあふれているのである。南京落城の為逃場を失ったのである。此の処置を日本大使館に委任す。午後四時迄残敵掃蕩終わり帰る。市街にある自動車を徴発して日本兵が市内を乗り廻している。南京の町は日本軍の完全な者になってしまった。 (略)

拾弐月拾五日(12月15日)
 午前八時整列して宿営地を変更の為中山路を行く。日本領事館の横を通って外国人の居住地たる国際避難地区の一帯の残敵掃蕩である。先日の風邪で腹工合いが悪くて歩くのに困る。道路では早くも店を張っている、食料品がおもであり、散髪を大道でやっているのやら、立って喰っているの、家屋やら大道には人の鈴なりであり、四拾余名の敗残兵を突殺してしまう。
 外国家屋避難民家屋には日の丸の旗をこしらえて戸毎にかかげられている。道路とか広場とか掩蓋壕と立て札を立てられている土嚢を作り銃眼を作りて市街戦に備えていたかが分かる。敗残兵の脱ぎ捨て衣服が至る所に捨てられている。外人の家屋に九人の敗残兵が入っていて避難民九名居住宅と堂々と掲げてあるのも笑止の至りである。警察隊が黒服いかめしく警備している。日本軍布告文を辻々要所に巡警共がはり歩いているのを見る。(略)

拾弐月拾六日(12月16日)
 拾弐月も中を過ぎ去ってしまった。金沢招集を受けて満三ヶ月になってしまった。只無の世界の様である。午前拾時から残敵掃蕩に出かける。高射砲一門を捕獲す。午後又で出ける。若い奴を三百三十五名を捕らえて来る。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れ来るのである。全く此の中には家族も居るであろうに。全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる、体にすがる全く困った。
(略)
 揚子江付近に此の敗残兵三百三十五名を連れて他の兵が射殺に行った。
 この寒月拾四日皎々と光る中に永久の旅に出ずる者そ何かの縁なのであろう。皇軍宣布の犠牲となりて行くのだ。日本軍司令部で二度と腰の立て得ない様にする為に若人は皆殺すのである。 (略)

拾弐月弐拾壱日(12月21日)
 うらの竹藪には鳥が集まりて朝の戦争でもやっているのか盛んに集散をやって何事かわめきあっているのを見る。
 その向は丘陵地帯を見、枯れた数本の雑木林を見る、此の地附近は外人の居住地帯の事とて外国旗がひるがえるを見る、独・英・米・芬を見る。我らが此の避難地区は外人の家屋に見る中立地帯を勝手にこしらえていたのが、我々が此の付近の家屋に入りて住むにあたりて、外人の旗も生彩をはなつの消えるを見る。若人は此の付近に居るのを数千・数万の命を取ってしまったのも此の避難地区にいた奴だ。 (略)

拾弐月弐拾弐日 (12月22日)
(略)
 夕闇迫る午後五時大隊本部に集合して敗残兵を殺に行くのだと。見れば本部の庭に百六十一名の支那人が神明にひかえている。後に死が近くのも知らず我々の行動を眺めていた。百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林時付近の要地帯に掩蓋銃座が至る所に見る。日はすでに西山に没してすでに人の変動が分かるのみである。家屋も転々とあるのみ、池のふちにつれ来、一軒家にぶちこめた。家屋から五人連れをつれてきて突くのである。うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、全く最後を知るに及んでやはり落付を失っているを見る。戦にやぶれた兵の行先は日本軍人に殺されたのだ。針金で腕をしめる、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。中には勇敢な兵は歌を歌い歩調を取って歩く兵もいた。突くかれた兵が死んだまねた、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中には逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。いくら呼べど降りてこぬ 為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となって二・三人が飛んで出て来たのを突殺す。
 暗き中にエイエイと気合いをかけ突く、逃げ行く奴を突く、銃殺しパンパンと打、一時此の付近を地獄の様にしてしまった。終わりて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。後の家屋は炎々として炎えすでに屋根瓦が落ちる、火の子は飛散しているのである。
帰る道振返れば赤く焼けつつある。  向こうの竹藪の上に星の灯を見る、割合に呑気な状態でかえる。そして勇敢な革命歌を歌い歩調を取って死の道を歩む敗残兵の話の花を咲かす。

『南京戦史資料集1』P368〜373



田中義信陣中日記
歩兵7連隊 第3機関銃中隊

十二月十四日
―南京城内の市街戦
一、午前八時整列、城内掃蕩の為出発、敵最後の陣地攻撃す。
一、首都南京も遂に我軍の手に入り、あわれ八十八師軍は西門の彼方で最期を消したので有る。
一、今日の戦闘は実に面白かった。
一、支那軍の野戦病院も見学した。
一、午後九時、真黒暗の城内市街を約二里半位帰隊行軍。
一、支那軍の屍は山を築き、血河をなして、兵器は皆捨て、馬はすて、道路上は実に無残なる近影で有る。
一、五百余名の支那軍捕虜兵を第八十八師の営庭で銃殺及び刺殺。

十二月十五日
一、午前七時半出発。
一、支那第八十八師軍兵舎の附近で第三大隊は駐警す。其の後警備隊形に有る。
一、午后十時起床、支那軍捕虜兵、千七百名余名銃殺す。
一、陸戦隊警備地付近にて、見る間に屍は山となり、揚子江は血河流屍の流失で(二字不明)寒さはぞット身にしむ?
一、血生ぐさき江流の絵巻は寒風深夜の風に何処の彼方に消え行く。 十二月十六日
一、真黒暗の支軍の銃殺終りて、帰舎時に午前六時。
一、西門城の屍を乗越え、拂暁に到着。

一、午前中は休養。

※以下、この資料を紹介してくださった「ゆう」さんの付記を記しておきます。
---- 引用 ----
また、今後「信憑性」を問題にしてくる方が出てこないとも限りませんので、論文の関連記述も引用しておきます。
(日記本文の直後)
<田中氏の陣中日記は私が古書店で見付けて購入したもので、田中氏本人については調査していないが、本人の手記であることは疑えず。>
(注記。なぜかこちらでは名前が「田上信彦」となっています。「田中」と「田上」のどちらが「誤記」なのかは、本稿の文章だけでは判然としません)
<「田上義信陣中日記」は四分冊だが、後になるほど簡略になる。出発時の小隊長は村本少尉、第六分隊長は湊一郎、分隊員は平藤作・田上義信・中島喜久雄・山本久雄・前本勝守・上山浄・和田練一・上元勇吉・菅田力吉・青木孝松の各氏。南京在住頃は伊佐部隊棚橋部隊伊勢隊に属していた筈。一二月九日、一○日と戦死傷者続出で残る人は至って少なかった様子で、分隊員は次々に補充され、南京入城時の分隊員不詳。田上氏も一○月二五日に左眼を負傷したが分隊を離れなかった。「日記」は昭和一三年に入るとなぜか詳述され、五月一日で途切れている。私は田上氏には会っていないが、死亡されたものと推定している。もし右記の人々で生存者があるものなら教えて頂けると有難い。皆石川県人の筈で、生きておれば八五歳前後であろう。>
---- 終わり ----

『北陸史学』第49号(2000年2月13日) 高野源治論文より



第9師団 歩兵第6旅団 歩兵第7連隊
歩七作命甲第一〇七号
歩兵第七連隊命令

十二月十四日午後一時四十分
於 南京東部連隊本部
一、各隊は其担任掃蕩地区内に兵力を集結し掃蕩を続行すへし尚ほ掃蕩地区内には歩七(配属部隊を含む)外の部隊の勝手なる行動を絶対に禁止すへし
二、各隊の俘虜は其掃蕩地区内の一カ所に収容すへし之に対する食料は師団に請求すへし

『南京戦史資料集1』P514



第9師団 歩兵第6旅団 歩兵第7連隊
歩七作命甲第一一一号
歩兵第七連隊命令

十二月十五日午後八時三〇分
於 南京東部連隊本部
一、本十五日迄捕獲したる俘虜を調査せし所に依れは殆と下士官兵のみにて将校は認められさる状況なり
  将校は便衣に更へ難民地区に滞在しあるか加し
二、連隊は明十六日全力を難民地区に指向し徹底的に敗残兵を捕捉殲滅せんとす
   憲兵隊は連隊に協力する筈
三、各大隊は明十六日早朝より其担当する掃蕩地区内の掃蕩特に難民地区掃蕩を続行すへし
  第三大隊は部下各中隊より各一小隊を出し第一大隊長の区署を受けしむへし
四、戦車第一中隊及軽装甲車第七中隊は待機すへし
五、予は十六日午後以降最高法院西方約一粁赤壁路連隊本部に在り
連隊長 伊佐大佐
下達法 命令受領者に印刷交付す
『南京戦史資料集1』 P516

参考資料

  • 『南京戦史資料集 1』南京戦史編集委員会
    (初版平成元年11月3日、増補改訂版平成5年12月8日)
  • 「北陸史学」第49号(2000年2月13日)