第6師団

■第6師団
「証言による「南京戦史」」掲載資料 第6師団

・部隊記録
・谷壽夫 第6師団長 中将
・鵜飼敏貞 第6師団通信隊小隊長

▼▼歩兵第11旅団
▼歩兵第13連隊

・児玉房弘 歩兵第13連隊第2機関銃中隊 上等兵
▼歩兵第47連隊
「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第47連隊
・安部康彦 歩兵第47連隊速射砲中隊 中隊長
・守田省吾 歩兵第47連隊通信班 班長

▼▼歩兵第36旅団
▼歩兵第23連隊

・宇和田弥市 歩兵第23連隊第1中隊 上等兵
「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第23連隊
・坂元眤 歩兵第23連隊第2大隊 大隊長

▼歩兵第45連隊
・成友藤夫 歩兵第45連隊第2大隊 大隊長 少佐
・中国兵・劉四海の証言
・前田吉彦 歩兵第45連隊第7中隊 小隊長 少尉
「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第45連隊
・歩兵第四十五連隊史
・成友藤夫 歩兵第45連隊第2大隊 大隊長
・浜崎富蔵 歩兵第45連隊第11中隊 軍曹

■第6師団 その他
・児玉氏 第6師団所属 上等兵
・高橋義彦 独立山砲兵第2連隊 中尉
・分隊長の回想 野砲兵6連隊
・山本武 第9師団歩兵第36連隊第6中隊 分隊長

参考資料

 

【 関連資料 】
・第6師団 組織図


■第6師団

「証言による「南京戦史」」掲載資料 第6師団
部隊記録

概要:第6師団 南京城攻撃部処の要旨命令(第3回 p.11 3段)
谷壽夫 第6師団長 中将
概要:歩兵第47連隊第11中隊への賞詞(第3回 p.12 2段)
鵜飼敏貞 第6師団通信隊小隊長
概要:述懐 捕虜を第16師団へ引渡し、中華門付近の火災は少ない(第6回 p.8 4段)


▼▼歩兵第11旅団
▼歩兵第13連隊

児玉房弘 歩兵第13連隊第2機関銃中隊 上等兵

証言
  山上に重機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。そこに突然「撃て」の命令。・・・・

『南京事件』秦郁彦P151-152

▼歩兵第47連隊
「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第47連隊
安部康彦 歩兵第47連隊速射砲中隊 中隊長
概要:証言 城内掃蕩、第9中隊陣中日誌?(第5回 p.11 1段)
概要:述懐 虐殺の噂・話は聞かなかった(第6回 p.7 1段)
守田省吾 歩兵第47連隊通信班 班長
概要:「「南京虐殺説」に想う」(寄稿か) 中華門付近の城内にはほとんど敵兵を見ず、一般住民も少ない(第6回 p.7 1段)

▼▼歩兵第36旅団
▼歩兵第23連隊

宇和田弥市 歩兵第23連隊第1中隊 上等兵

日記(朝日新聞昭和59年8月5日掲載)
十二月十五日
今日逃げ場を失ったチャンコロ約二千名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別 、武器を何も捨ててしまって、大道に蜿々(えんえん)ヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも言へる様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。
『南京事件』秦郁彦P15

 『朝日新聞』1984年8月5日掲載
(12月15日)
今日、逃げ場を失ったチャンコロ約二千名ゾロゾロ白旗を揚げて降参せる一隊に会う。老若取り混ぜ服装万別 、武器も何も捨てて仕舞って、大道に蜿々ヒザマヅイた有様は、まさに天下の奇観とも云へ様。処置なきままそ夫れ夫れ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。
『南京大虐殺の証明』P301

「南京虐殺、現場の心情」 『朝日新聞』昭和59年8月5日掲載)
(12月15日の記述)
近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり
(12月21日の記述)
今日もまた罪のないニーヤ(中国人のことか?)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、・・・・まるで犬や猫を殺すくりのものだ。これでたたらなかったら因果関係とか何とか云うものはトントンで無有と云う事になる」



「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第23連隊
坂元眤 歩兵第23連隊第2大隊 大隊長

概要:体験記 12/12城壁占領、12/13城壁西南角を起点に北方へ掃討、12/14水西門東側市内に1/3まで宿営、12/15獅子山砲台を見学、12/16紫金山、中山陵・明孝陵を見学、12/18-19安徳門南側高地で占領記念標柱を設置、12/9-12連隊の戦果は遺棄死体2000体、捕虜24、捕虜は収容所へ送る(第6回 p.4 3段)



▼歩兵第45連隊

成友藤夫 歩兵第45連隊第2大隊 大隊長 少佐

回想記「追憶」より
(12月14日 下関の広場にて 丸腰の敗残兵)
幹部らしいのを探しだして集合を命ずると、おとなしく整列した。その数五、六千名。・・・・そこで『生命は助けてやるから郷里に帰れ』といった。・・・・折から連隊から江東門に下がって宿営すべき命令に接したので、第十六師団に後を申継いで後退した。

『南京事件』秦郁彦P154

中国兵・劉四海の証言
(歩45U 成友少佐回想記の出来事と関連か)
 日本軍が南京に迫ったとき、第八七師は南京城の南端に接する高地・雨花台に駐屯していた。劉二等兵は小銃一丁を武器として二,三日間戦闘したが、上官が戦死したり逃亡したりで部隊は統制力を失い、ついにばらばらになって退却をはじめた。 敗走する劉二等兵らは、南京城内を南北に縦断して一斉に長江(揚子江)に向かい、川岸の下関まで来た。対岸に渡ろうとしたが、船の類は全くない。太陽は中天より少し前、正午近い時刻だった。あわてふためく敗残兵らは、板きれにつかまったりドラム缶 につかまったりして長江を泳ぎだす者も多かった。
 日本軍はまず戦車が二,三台やってきて、川岸近くを一巡して去った。さらに一時間ほどしたとき、何十台もの戦車がやってきて、あたりを機関銃掃射した。つづいて中国人らしい通 訳が大声で叫んだ。-------「降伏せよ。降伏すれば殺さない」
 劉二等兵を含むたくさんの国民党軍将兵が、帽子を逆さにかぶって(ひさしを後ろにして)投降した。その数は一万人より少ないが、たぶん「数千人」の単位 であった。
 一か所に集められたところへ、日本軍のリーダー格らしい人物が馬に乗って現れた。ヒゲが両耳からあごの下三、四センチまで下がっていた。日本語で何か訓話したが、こまかなことはわからず、通 訳によれば要点は「お前らは百姓だ。釈放する。まっすぐ家に帰れ」と言っているらしかった。
 一同は白旗を作らされた。それぞれありあわせの白布を使った。劉二等兵は自分のハンカチを使い、三〇センチほどの木の枝にそれを結びつけた。川岸には住民の荷や衣類がたくさん散乱していたので、軍服を捨ててそれを着た。
 数千の捕虜達は、釈放されると白旗を掲げてそれぞれの故郷へバラバラに出発した。劉二等兵も安徽省へ行くグループの一つとして四,五十人一緒に出発し、三扠河をへて江東門まで来た。蕪湖の方へ行くつもりであった。途中はおびただしい死体が散乱し、それらは兵隊の他老人・子供のものも多かった。あるところには針金で鎖骨を貫いてつないだ七人の死体があった。そのうち二人は女性で、一人の鼻の穴には未使用の弾丸が二つ押し込まれていた。七人はいずれも銃剣による刺殺らしかった。
 江東門(江東郷)まで来たとき、模範囚監獄の前で日本兵たちとあった。下関の日本軍に言われたとおり、劉さんら四,五十人の釈放組は白旗を見せて「投降して釈放された兵隊です」と言った。
 だが、この日本兵たちは、有無をいわせず全員逮捕した。そのまま監獄の東側の野菜畑に連行された。一列に並ばされる。周りを五,六十人の日本兵が囲む。そのうち十数人が軍刀、後は銃剣だった。号令のようなものは覚えていない。いきなり、まわりから一斉に捕虜の列へ銃剣と軍刀が殺到してきた。劉さんらは立ったままの姿勢で、ひざまずいたりしてる者はいなかった。劉さんは、自分に向かって軍刀を両手で斬りおろす日本兵の恐ろしい形相を見たのが記憶の最後だった。
(略)
『南京への道』P220-222



前田吉彦 歩兵第45連隊第7中隊 小隊長 少尉

陣中日記
(歩45U成友少佐回想記の出来事と関連)
十二月十五日
(略)
 江東門の中央に「南京陸海空軍監獄」という厳しい建物がある。十三日の朝濃霧の中で突如混戦乱闘を惹起した処である。殊に第三歩兵砲小隊の岩間少尉はこの渦中に突入し壮烈な戦死を遂げたと聞いた。同氏は小侯十五期前田少尉より一年ばかり前の温厚沈着な人だった、追慕せざるを得ない。
 江東門から水西門(城門)に向かい約二粁石畳の上を踏んで行く途中この舗石の各所に凄惨な碧血の溜りが散見された。
 不思議に思いつつ歩いたのだが後日聞いたところに依ると十四日午後第三大隊の捕虜一〇〇名を護送して水西門に辿りついた内地から到着した第二回補充兵(副島准尉等が引率し、大体大正十一年から昭和四年前佐道の後備兵即ち三十七八歳から二十八九歳の兵)が偶々居合せ好都合と許り護送の任を彼等に委ねたのだと云う。やっぱりこの辺がまづかったのだね、何しろ内地から来たばかりでいきなりこの様な戦場の苛烈にさらされたため些かならず逆上気味の補充兵にこの様な任務をあてがった訳だ。
 原因はほんの僅かなことだったに違いない、道が狭いので両側を剣付銃砲で同行していた日本兵が押されて水溜りに落ちるか滑るかしたらしい。腹立ちまぎれ怒鳴るか叩くかした事に決まっている、恐れた捕虜がドッと片っ方に寄る。またもやそこに居た警戒兵を跳ねとばす。兵は凶器なりと云う訳だ、ビクビクしている上に何しろ剣付銃砲持っているんで「こん畜生っ」と叩くかこれ又突くかしたのだね。パニック(恐慌)が起って 捕虜は逃げ出す。「こりゃいかん」発砲する「捕虜は逃がすな」「逃ぐるのは殺せ」と云う事になったに違いない。僅かの誤解で大惨事を惹起したのだと云う。
第三大隊長小原少佐は激怒したがもはや後のまつり、折角投降した丸腰の捕虜の頭上に加えた暴行は何とも弁解出来ない、ことだった。
かかること即ち皇軍の面目を失墜する失態と云わざるを得ない。
 この惨状を隠蔽する為彼等補充兵は終夜使役されて今朝になって漸く埋葬を終ったる由。非常と云うか、かかる極限的状態においてともすれば人間の常識では考えられない様な非道が行われると云う実例である。
(略)

『南京戦史資料集1』P357-358


「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第45連隊
歩兵第四十五連隊史(第6回 p.7 3段)
成友藤夫 歩兵第45連隊第2大隊 大隊長

概要:手記『追憶』・証言 12/13三叉河南方での戦闘、クリークに敵の死体、12/14下関到着、中国兵5000-6000名を捕虜とするが後に解放、12/15-12/21城内警備(第6回 p.8 2段)
浜崎富蔵 歩兵第45連隊第11中隊 軍曹
概要:所見 同連隊が下関で捕獲した捕虜について、関係したのは第9中隊・第10中隊の可能性、白旗を掲げる中国兵約1コ小隊を殺害したと証言する者がいる、大虐殺ではない(第11回 p.9 1段)


■第6師団 その他

児玉氏 第6師団所属 上等兵

毎日新聞1984年8月15日掲載
 集団射殺は児玉さんらが南京郊外の駐屯地から南約六十キロの蕪湖へ向けて出発した同月(十二月----洞富雄氏注記)十六日頃行われた。児玉 さんらに、揚子江近くの小高い山に機関銃を据え付けるよう命令が下った。不審に思いながらも山上に重機関銃を据え付けると、麓の窪地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。そこに、突然、「撃て」の命令。機関銃が一斉に乱射された。
「まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきり分かりました」。機関銃は約五十メートルの感覚で「三十挺はあった」という。「なぜ捕虜を殺したのか。遺体をどう処理したのか。他のどの隊が虐殺に加わったのか。私たち兵隊は何も聞かされなかった」と、児玉 さんはうめいた。

『南京大虐殺の証明』P302


高橋義彦 独立山砲兵第2連隊 中尉

証言(「証言による「南京戦史」」第6回)
(12月13日午前6時半〜10時頃までの間のこと)
砲兵は全部零距離射撃の連続で……遂に白兵乱闘の状況となった。当初は軍官学校生徒が第1波で、さすがに勇敢で我々を手こずらせたが、第5波、6波ごろからはやや弱くなった。9時頃からの突撃部隊はヘッピリ腰の民兵で、その半数は督戦隊である彼等の味方から殺されていた。江岸の膝を没する泥濘地帯も、死体が枕木を敷き詰めたように埋められ、その上を跳び或いは這いずり回って白兵戦が続いた。

『南京事件』秦郁彦P153


分隊長の回想 野砲兵6連隊

『揚子江が哭いている』より
(歩45U成友少佐回想記の出来事と関連)
二百近い敗残兵が投降してきたのを、二十五人で引き連れて歩兵に渡すと”捕虜を連れて戦が出来るか”と一括され、数日後に皆殺しにしたと聞かされた。その前日にも三百人近い敗残兵や住民を機銃で射殺したという。老農夫をなぐり殺したシーンも見た。

『南京事件』秦郁彦P155


山本武 第9師団歩兵第36連隊第6中隊 分隊長

『一兵士の従軍記録』p.103(1985年、安田書店)
  この朝(十二月十九日----洞富雄氏注記)風聞するところによると、こんどの南京攻略戦で、抗州湾に上陸した第六師団(熊本)が、南京の下関に於いて、敵軍が対岸の浦口や蕪湖方面に退却せんと揚子江岸部に集まった数万の兵達を、機関銃掃射、砲撃、あるいは戦車、装甲車などによって大虐殺を行い、白旗を掲げ降伏した者を皆殺しにしたというので、軍司令官松井大将が「行軍にあるまじき行為」と叱り、ただちに死体を処理せよとの厳命を下し、毎日六師団が死体を焼却するやら、舟で揚子江上に運び捨てているなど、現場は実に惨憺たる状況である、と言う。物好きにも、わざわざ遠く下関まで見物に出かけた馬鹿者がいるらしい。

『南京大虐殺の証明』P140




参考資料

  • 「証言による「南京戦史」」(第1回〜第11回、最終回、番外)畝本正巳他
    (『偕行』1984年4月〜1985年3月、同5月、偕行社)
  • 『南京戦史資料集 1』南京戦史編集委員会
    (初版平成元年11月3日、増補改訂版平成5年12月8日)
  • 『南京事件』秦郁彦、中央公論社
    (1986年2月25日初版、1998年9月20日19版発行)
  • 『日中戦争史資料 8 南京事件1』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社
    (昭和48年11月25日初版発行)
  • 『南京大虐殺の証明』洞富雄、朝日新聞社
    (1986年3月5日第1刷)