岩崎昌治陣中書簡

解説
昭和12年10月12日 山口紙截所宛はがき
昭和12年10月22日 大野巳之助宛はがき
昭和12年10月22日 岩崎孝治宛はがき
昭和12年11月12日 岩崎房吉宛はがき
昭和12年11月12日 山口紙截所宛はがき二枚分
昭和12年11月25日 岩崎房吉宛はがき
昭和12年12月5日 岩崎房吉宛封書
昭和12年12月5日 岩崎房吉宛封書・金壇城にて
昭和12年12月17日 山口富美子宛封書
昭和12年12月17日 岩崎孝治宛封書
昭和12年12月17日 大野巳之助宛はがき
昭和12年12月17日 山口勝蔵宛はがき・南京にて
昭和12年12月17日 山口勝蔵宛封書・南京城にて
昭和12年12月27日 大野巳之助宛封書・南京城にて
昭和13年1月7日 山口富美子完封書
昭和13年1月7日 岩崎清宛封書

参考資料


解説

 岩崎 昌治(いわさき まさはる)。明治45年6月27日、神奈川県下の中郡相川村戸田に生れる。昭和8年、22歳で近衛工兵連隊に入営。同年12月上等兵に累進、伍長勤務。昭和9年11月、満期除隊、東京市本所区の『山口紙截所』に入社。昭和12年9月2日、充員召集。9月7日近衛工兵連隊小池部隊(独立工兵第1連隊、小池愛雄工兵中佐)林中隊(林勝三工兵大尉)に配属。9月28日、上海上陸。昭和13年6月9日、安徽省正陽関付近楊家脳南頴水河にて敵前渡河作業中、左胸部貫通銃創により戦死。昭和16年、靖国神社に合祀。




昭和12年10月12日付け 山口紙截所宛はがき

(9) 元気な毎日を過して居ります。日本国民として生れた我々はたしかに幸福と思はねばならない事を支那に来て更に其の感を深くしました。家を焼かれ、土地を追われた彼等土民のあわれさは如何戦争が―いや敗戦の民のかなしさ、戦に人情は不要とは言い乍ら他人事とは思へない。では之にて皆様御身大切に。二重封筒の中注意。
(岩崎昌治より山口紙截所宛はがき・十月二十二日消印)

P23-24



昭和12年10月22日 大野巳之助宛はがき

(10) 元気です。御安心下さい。支那は丁度大正十二年九月一日の東京市と思へば間違い無いでせう。彼等が日本をうらむのは無理ないでせう。戦況御知せ出来ない事が残念です。南支に来て一番困る事は水の悪い事、道の悪い事等です。日本人と生まれた事は幸福ですね。戦には人情は不用とは言ひ乍ら彼等の為にも涙の一度も出して見たくなります。では御身大切に。二重封筒の中注意。
(岩崎昌治より大野巳之助宛はがき・十月二十二日消印)

P24



昭和12年10月22日 岩崎孝治宛はがき

(11)前略、久しく御無沙汰致しました。毎日元気で過して居ります。敗戦の民の如何にあはれさは支那に来た者でなければわからないでせう。日本人と生まれた事と支那に居る兵隊様が如何に苦労して居るかを思へば家に居られる者はどんな事でも出来ると思ふ。皆一生懸命に働いて呉れ。忠治は何隊に入営するか、出来る事なら北の事変に参加させ度い。そして支那と言ふ『土地』に一つに興味を与へ如何に広く、如何に豊かゝを知らせ度い。支那に来て一番困るは水の悪い事、道の悪い事、雨の降って居る時には内地では見られぬ位だ。丁度田植時の田の中と思へば間違い無し。甘いものからいもの不便を感ぜず。皆様御身大切に。御近所皆様方によろしく。
(岩崎昌治より岩崎孝治宛はがき・十月二十二日消印)

P24-25



昭和12年11月12日 岩崎房吉宛はがき

(12) 雨の様に降る砲弾丸下で働く吾々には、支那兵のうち出す弾にはあたらないものですね。勇しいと言はうか悲壮と言ふか日本人で無ければ出来ない事を平気でやって退ける。死と言ふ事は此の戦場では感じて居ない。まだまだ私も丈夫です。支那兵如きがうち出す弾には当らないから安心して下さい。寒く成って来ましたね。内地の事を想ひ出す日も有りますが、そんな日は弾の来ない日の事です。新しい新聞を二・三部送って下さい。出来たら本所に問合せて、毛糸のシャツ上下を送ったかどうかを聞いて送って無い様でしたら上海直送で頼みます。
(岩崎昌治より岩崎房吉宛はがき・十一月十二日付)

P32



昭和12年11月12日 山口紙截所宛はがき二枚分

(13) 忙しいですか。だんだんと寒くなり内地では相当に寒い事でせう。当地方でも内地の十月初旬位の陽気です。然し夜は寒いですよ。今まで忙しくて書く事も出来ませんでしたが昨日(十一月八日)より少し暇に成りました故皆様に様子を御知らせ致す感じで書いて居ります故御判読下さい。一昨日も慰問袋を頂きました。神田の人の送って呉れたものです。うれしかった。生れて人に物をもらって、こんなに嬉しいと感じた事は有りませんでした。家でも慰問袋を出す時には「マッチ」を必ず入れて下さい。兵隊様達は今吸ふたばこに困り一本手に入ったたばこを「マッチ」の無い為吸ふ事も出来ず困る事さえ有るんです。南支の雨は十日位つづけて降るので道は悪くなり水は無くなり、病気は出るし、戦場は雨が降ると目も当てられません。然し元気な兵隊の姿を皆様に一目でも見せ度い。きっと見た人は泣き出すでせう。支那には飛行機等有るかと想ふ様です。奴等飛び出すとうたれるので日中は決して出ない。夜に成るとトンボの様に小さく飛ぶのです。面白いですよ。無事に帰れたら良い話の程に成るでせう。先日御願ひした毛糸の「シャツ」上下を急送して下さい。近衛よりも直送の方が早い様ですから今後も是非たのみます。内地からの便りが何よりうれしい。安ちゃんとは任務が違ふ為半月ばかり会はない。
(岩崎昌治より山口紙截所宛はがき二枚分・十一月十二日付)

P33



昭和12年11月25日 岩崎房吉宛はがき

(14) 二十五日にはがきは見ました。戸田の皆様の出征にて内地は相当なさわぎでせう。上海戦線も大したものです。上海大勝して以来無人の地を行く様です。奴等の逃げるのが早いのには進む日本軍もおどろきました。同じ日に茂原から手紙が来ました。いろんな物を注文しました。又、当地の様子もくはしく書きました。各所に書き度いのですが暇も無し朝早く夜おそく、明かりも無しするので便りがあったら見て下さい。忠治の方はどうなりました。もう五六通出したのですがつきませんでしたか。小包は上海直通書留でないとほとんどつきません。赤羽からの方はまだ一ヶも来ていません。では皆様によろしく。皆様の部隊に御知らせ下さい。ソシューにて。
(岩崎昌治より岩崎房吉宛はがき・十一月二十五日付・蘇州にて)

P34



昭和12年12月5日 岩崎房吉宛封書

(15) 御手紙本日(十二月二十五日)拝見しました。いろいろな事を書き送り度いとは思って居りましたが、上海戦線には工兵の仕事が多くて、殆ど休む事さえ出来ないのです。第一線の仕事は面白いと言へば言へるが大場鎮の攻撃には相当参ってしまひました。私の分隊は全部で十六名で其の中戦死二名負傷七名と言ふ様な苦戦で小生も九死に一生を得て今まで参りました様な次第です。今の所は揚子江の付近で支那兵の焼落した橋かけで一生懸命です。
 江湾、嘉定、大場鎮が落ちて以来支那兵は四分五裂で面白い程進みます。余り進みすぎて第一線では食ふものさえありません。食料品が間に合はぬのです。敗戦国民はあわれな者です。いずれ帰ってからゆっくり話しますが昔の西洋の「ドレイ」よりもみじめです。私達の仕事は地方の土方と同じですから奴等でも使ふ事が出来ますから 朝から食事も与えず一日使って夕方帰すのです。帰る時に少しでも不平の様な素振りが見へるとすぐに一発御見舞申して第一巻の終りとしてしまふのです。今日はとても忙しくて事務所まで手紙を取りに参った所分隊の各員には来て小生ばかりには来ないので悲観して居たら戸田と貴家よりの手紙で飛び出つ想ひで読みました。丁度、午後十一時です。明朝は六時より自動車で五里ばかり先の橋を架けて来るのです。今の所、心配はいりません。
 今想ひ出すと、ぞっとする様な事が有りました。大場鎮攻撃で、大クリーク渡河の時です。我々分隊は一ヶ所に集合して自分で持って居るものを全部集めほとんど、ふんどし一本といふ姿に成って 十米か十五米位進んだ時どう間違って来たか敵の砲弾が来て我々の装具の真中に落ちて一ヶ分隊の装具は全部消へてなくなってしまひました。今二秒も早かったら十五名ばかり一ヶ所で戦死する所でした。然し立派に敵前架橋をやってのけました。犠牲者に対しては御気の毒にたえませんが御国の為です。一夜は寒くて寒くて一ヶ分隊は抱き合って泣きました。支那兵の奴等が憎くて憎くてたまらない。当地の商人は酷い様です。酒は一ヶ月に二回位あります。たばこ一ヶ四銭のが八銭から十銭 マッチーヶ三銭から五銭。リンゴの小さいのが一ヶ十五銭 ようかん一本三十銭。酒四合入り一円から一円五十銭 ウイスキーニ合入り二円五十銭から三円 位です。まるで金を食う様です。然し皆良く買って食ったり飲んだりします。月に二回位ではたまりません。
 寒さは内地の寒い時位です。毎朝霜が降って居ます。成田のようかん十本、フンドシ若干〔布二尺位のもの。モモヒキ。]岩崎の印ニヶ〔悪もので可 砲弾でフキトバサレタ。〕靴下、手袋若干 ウイスキー上等二合〔行軍の時に若干づつ使用するもの也。] 小さい電気一本、予備電池二本位つけて。 戸田の家でも送ったとしてありましたから。毛糸のシャツは本所の方で送ったと思ひますが上京の折聞き合せて下さい。今の所支那人のシャツを着て居るのです。本所に行く折に よろしく申して下さい。では右の品
 上海派遣松井部隊気付 小池部隊林隊 岩崎昌治 で書留で御願します。出したはがきは来ても品物はとどかないのがあります故 必ず書留で。
 では皆様によろしく。
 御ぢ様 御ば様
 ソシューにて 昌治
(岩崎昌治により大野巳之前兆封書・十一月二十五目付こ鯨州にて)

P34-37



昭和12年12月5日 岩崎房吉宛封書・金壇城にて

(16)昨日から少し身体も楽に成って来ました。今まで少しも当地の様子等御知らせ出来ず定めし御心配の事と思ひます。軍の法により余り詳しい事は御知らせ出来ませんが今までの戦の様子 今後の様子又現在の様子等少し御知らせします。
 一、上陸地点 上海共同租界陸戦隊本部前より北四川路を通って「ウースン」に進み更に宝山城に入城し当城に於て約十日 付近の道路補修。宝山城には『コレラ』が流行しました。一時は全員どうなるかと思ひました。私達が宝山城に入った時は〔ウラニアリ〕敵は約二粁ばかり前に居りました。時々弾が来て最初は非常に驚きました。付近には支那人の死体により「金バイ」と言ふ「ハイ」がまるで何と言ってよいのかわからないほど居りました。内地に居てはあの様子はまるで思ひもよりません。彼等支那人は宝山城以外には居りません。最初彼等を見ても別になんとも思ひませんでしたが時がたつにつれてだんだんと憎くなって来て見れば銃の引き金を引き度くなります。道路の悪かったのは此の付近です。まるで田の中の様でした。私達の仕事の多ひのには参ってしまひました。
 二、第一線参加。宝山より約五六ケ所移動してよりです。丁度上海の付近江湾より約二里位の所より参加です。第二分隊全員十六名勇み立って参りました。所が行くより早く一人の負傷です。所の名は「大平橋」大場鎮の戦争です。約三日敵前に居り交通壕を堀り、敵の十字砲火を浴び乍ら機関銃座の破壊等盛にやりました。当付近には「クリーク」と言って十米―五十米位の川がまるで蜘蛛の巣の様にあります為に一倍工兵は苦労します。私達は九師団金沢の師団に入ってやりました。
 私達が一番苦しんだ所は二ケ所あります。今図示します。
 走馬塘クリークの所です。私達は二十七日未明歩兵一ケ分隊(十五名)機関銃一分隊(十二名)工兵一分隊(小生の分隊約五名)まだ十二名位居りましたが全部は行く事が出来ませんでした。全人員約三十名で高さ約五十米周囲約百五十米位のトーチカを取りに行ったのです。〔図示対照〕

或る戦いの軌跡p39

(『或る戦いの軌跡』P39)

 其の時は別に命が惜しいとか弾が怖いとか言ふ事は全然ありません。全員すごい位張り切って居りました。とても霧が深くて三尺も離れているとわからない位でした。私はそーっと畑を這って進み、クリークを渡り(泳いで)トーチカが近くなっても彼等は気 がつかない。約五米位まで行った時一時に飛び出して、かたっぱしから殴り殺しました。其の中工兵は火薬により的の機関銃座を破り午前五時三十分完全に取りました。負傷者歩兵約三名 死一名。工兵には有りません。取るには取ったが後方と連絡が無い。 とても苦しみました。御話出来ないほどでした。九死に一生を得てやうやく小隊に帰って来た時には何が何だかわからないほどくたびれて居りました。トーチカに行った工兵も現在無事で居るのは三名だけです。次は約二日間無人の境を行く様でした。次は有名な蘇州河の戦いです。

或る戦いの軌跡p40

(『或る戦いの軌跡』P40)

 小塩美代ちゃんの所にくわしく書いておりますから見て下さい。丁度其の日は雨が降っていやに成ってしまいました。
 最後に現在は蘇州り常州城に向ひ更に金壇城付近に居ります。有名な太湖の付近です。大きな湖です。今でも「海賊」が出ると言ふ話です。支那には『岩崎橋』が五つ六つ出来ました。自分の分隊で作った橋には自分で名をつけて来るのです。小田原橋位の橋でしたら一日に一つ位です。九トン以下通過出来る位のものです。橋作りはうまく成りました。役場から先日〔蘇州河の戦の日〕御手紙をいただきましたが返事を出してありません故よろしく御伝言下され度く。あと南京まで二十五里です。今年中には何とか成るでせう。もう大した事もないでせう。金壇城あたりでも時々音がする位のものです。
 寒く成って参ってしまひました。シャツ等は支那のものを着て居ります。ズボンがもう切れてしまって参りました。一着用も戦地ではたまりませんね。毛糸のズボンを送って下さい。次に物の高いのには驚き入りました。内地の約五・六倍でせう。甘いものなど第一線では一カ月に一回位食へるのです。明治節の「かし」はうまかったです。第一線を下ってから丁度二〇日位に成りますが、ここ二・三日少し身体が楽に成っただけです。十日に伍長に成りました。只今一ヶ分隊九名です。二名死 五名負傷です。和田君 西山君。皆様の部隊名が明らかでないととても会ふ事ができないでせう。
 ではこの位にしておきます。皆様からの御便りを待って居ります。忠治はどう成りました御知らせ下さい。 草々
 皆様へ
 書き度い事は山ほど有りますがこの位にしておきますから。これから少しづゝ様子を御知らせ致しませう。東京朝日新聞に私達の写真が載るかも知れません。私達の分隊が舟で行く途中を撮りました。念の為申し送っておきます。書いて居る紙も鉛筆も支那のものです。
(岩崎昌治より岩崎房吉宛封書・十二月五日・金壇城にて)

P37-42



昭和12年12月17日 山口富美子宛封書

(17)富美子よ、お前達は幸福に父母の温い手で暮らして居るが支那に居る女学生等は哀れなものですよ。支那の軍隊は、或一つの大きな町に行って片っぱしから金を取り、友人の命を取っていくのです。彼等は、軍人ではなく物取りです。どろぼうです。そして兵隊の員数が少くなると、若い男を片っぱしから捕へて兵隊にしてしまうのです。若い女の人はどうなって居るか、と言ふと日本の様に愛国婦人会とか国防婦人会とか言ふものは無い。どんどんと連れて行かれて女子軍とか何とか言ふものにして第一線[第一線とは、戦争する時一番敵に近く行って、彼我の間僅かに五十来位に成る事も有る」に出されて弾運びなどやって居るのです。そうして支那も全部の人か日本を目当てに進んで来るのです。支那兵の死体の中には若い女の死体も有ります。
 私達も南京目当てに上海より進軍して来ました。上海から南京までの間の敵が焼いて逃げた橋をこしらえて行くのです。[十一月二十六日]読売新聞の中に我等中隊林大尉の様子など出してある故です。よく見て下さい。そして我等がどんな風にどの位支那で働いて居るか見て下さい。丁度十二月十一日の夕方我中隊も南京城攻撃に向ひました。南京城と言っても周りが五里もあって其のまわりが全部幅六米高さ十米も有るのです。そして所々に機関銃を撃つ所があって我が忠勇なる勇士幾人この銃眼の前で倒れた事でせう。南京城表門には敵の死体の上に土をかぶせ上に土俵で埋めてあります。場内には 外国人も居ります。揚子江と言ふ大きな河には支那人の死体が五六千人有ります。私達が十四日の日に殺した者だけでも三百の上です。人を殺しているのか何をやって居るのかわからなくなってしまいます。今の所南京も静なものです。戦争と言ふものが終った様な気がします。時々敗残兵が出て鉄砲を撃って来ます。帰る事も近い事でせう。そうしたら皆様にくわしく支那の様子を御話しする事にして、これで終ります。
 月末で皆様御忙しい事でせう。十二月十一日より十四日まで私達は南京米を炊いて塩のおさいで一日に二回位しか食ひませんでした。たばこも一日に二本位づつ五人六人位で吸ひ合ったものです。どんな事をしても忘るゝ事の出来ないのは、平和の時の家庭です。戦争と言ふものは或一つの利害から起るものです。命を賭けた大芝居も今しばらくでせう。南京占領で東京も大した祭騒ぎをした様でしたね。第一線に立って居る我等つわものも全部の人が東京でやって居る「おまつりさわぎ」を喜んで居るでせうか。日本人は熟し易くさめ易しの性質 あまりにも騒ぎ過ぎて後どうなって行くか わかりますか。戦に出して居る家庭 兄を失ひ弟を殺し夫を子を失った人はどうして居らるゝ事でせう。
 富美子よ。お前達も大きく成ってこう言ふ事件に遣った場合どうするか。小さい時分 からこう言ふ時の要心をして一生懸命に学んで下さい。
 ではこの位にしていろいろ書きましたが御判読して下さい。御両親によろしく。
 十二月十七日 上海派遣軍司令部気付
 小池部隊林隊
 岩崎昌治
 山口富美子様
(岩崎昌治より山口富美子宛封書・十二月十七日付)

P71-73



昭和12年12月17日 岩崎孝治宛封書

(18)十二月二十四日の報知新聞を南京にて見ました。内地では旗行列などやって相当御祭さわぎをやって居る様ですね。皆様方が御祭さわぎをして居る時、やはり支那の南京でも御祭さわぎをして居たか?ぼろぼろの軍服で寒さの為に寝つかれぬ日が幾夜あった事でせう。南京米を炊いて?日本飯を食ひ度い然し食へない。余りに早い進軍の為に後続部隊が追いつけぬのです。ぼろぼろした飯に塩のおさいで食った事が十日から十三日まで三日間。食ひつけない支那の食事で相当参って居ります。十二月十二日南京城[一ロに南京城と言っても一寸内地の人には思ひ出せないでせう。城壁の高約三十五尺以上はあります。周囲約四里と言はれて居ます。]攻略の命を受けて約二?qばかり手前の工兵学校に前進しました。さすがは支那の名物男が校長をやって居ただけあって見事なものでした。十二日深夜工兵学校を完全に我等工兵の手に取った。其の時味方の負傷一名、彼等は兵器数十丁を残し敗走しました。敗残兵七十七名を取って其の場で銃殺しました。さすがに支那正規兵、見事な死方をした者もありました。立派に吾等の銃口の前に立って笑って死についた者さえありました。支那に此の位の男が全人口の十分の一でも有ったならば日本も相当苦戦した筈です。
 日清の役などの話を聞いても今度ほど支那が強い事が無かったらしい。相当強いです。吾等が向って行ってもなかなか逃げない。今度の南京城攻撃の時もやはり友軍の砲兵が後方からどんどんと大きなのを城壁に向けて撃ち出す時さすかに六米巾に十米もある高さの城も見る見る中に壊れて行く。二十分か三十分発砲をしないとすぐに土俵で直してしまうのです。十二月十三日未明南京城を廻って後方の揚子江の河べりの交通船を分捕り付近の自動車十五台タンク三台オート、バイ二台を占拠しました。其の時には揚子江には海軍が来てどんどんと撃ち出す。陸では城内に撃ち込む。ものすごい様でした。南京の下関駅(支那語でゲカンシャキョウ)を工兵隊が占領したのが十四日未明です。時に敗残兵約八百名位我等工兵の手で揚子江の川べりで銃殺しました。人を殺して居るのか、竹でも河に流す気か自分でもわからないほどでした。
 本日(十七日午後二時三十分)は午前中付近を巡察して午後は休養して居ります。支那兵を陸上で殺したのを一ヶ所にあつめて石油をかけて燃やして居ります。丁度相川小学校位の広場は支那人の死体で二重三重になって居ります。今日は南京の入城式です。自分は参加出来ない[中隊で将校一・兵十二名だけです]のです。其の為に昨夜城内に居った支那人を約二千名ばかり集めて本日の未明全部殺してしまったのです。揚子江の河べりだけでも約五千名位の死体がごろごろして居ります。海にいる魚で「イルカ」と言ふのが死体を食ひにどんどん上って来ます。
 のんびりとした気分です。下関駅の表窓により外を眺めて久しぶりに内地の人の事を思い出して居ります。時々ドーンドーンと音のするのはまだ殺し切れぬ敗残兵を殺して居る音です。死体を焼いて居る一種別な悪い臭ひが時々風の吹き廻してやって来ます。一本のたばこも二日前までは四人五人で吸ひ合ったものを、今日は自分一人で一本のたばこを吸ふ事が出来る。昨日一人六本づつ「バット」が渡った為です。敗戦国民は哀れなものです。幾度も手紙に書いたが一人も残しては居く事が出来ないのです。何故なら彼等が一名でも生きて居たらどうなります。日本軍も戦地では観兵式で見る様な兵隊様ではなくなります。相当に自分の部下を、戦友を殺し傷つけて居る為 気でも狂って居る様です。支那人さえ見れば、「やっつけろ」で、すぐに永の旅です。又、彼等一名でも生きて味方の陣地に帰ったら さもなくも宣伝上手な支那人です。どうなるか。皇軍の為 日本の為に彼等を血祭りに上げて居るのです。この気持は私一人ではない。分隊全員[全員十六名中二名死 五名負傷]いや中隊全員が此の気持です。内地に居らるゝ人も此の気持、苦しい気持良民と判って居ても殺さなくてはならない気持は良くわかってもらへるでせう。戦勝で御祭さわぎをして居る時、不幸にも不帰の客となられた人の家族の人の気持はどんなものでせう,戦の庭に出してある家の人々も南京攻撃の報と共に郵便局の電報配達の姿でも見た時の心持 今か今かときっと待って居るでせう。戦勝で御祭りさわぎをするのも良いでせうが、その人々も必ず自分の兄を弟を 夫を子を 出しておらるゝ人が有るでせう。
 心を静めてよく見て下さい。戦地では 手紙を出し度も出す事が出来ない。甘いものを食い度くも食えない。たばこも吸へない。すべて不自由な事を忍んで 皆様の為 日本の為に男一代晴の舞台です。出征軍人が全部内地のさわぎを見て喜んだものが有るでせうか。
 これまで書いて読み直して馬鹿馬鹿しくつまらぬ事を書いて居た事をお詫びします。とにかく南京占領でおめで度うです。通信も度々したいが出来ないのです。悪しからず。今度も各自一通しか書く事が出来ない為 皆様によろしく御伝下さい。
 常州で一度出してありますがどうなって居るか。忠治は入営しましたか。御知らせ下 さい。役場から慰問状をもらってあります。千葉からも来ました。
 皆様方にくれぐれもよろしく  南京城外下関車 ニテ
 岩崎家  岩崎昌治
 皆様方へ 末筆ながら昌治も下士官として元気で働いて居ります
 御安心下さい。
(岩崎昌治より岩崎孝治宛封書・十二月十七日付)

P73-77



昭和12年12月17日 大野巳之助宛はがき

(19)常州にて一度出して有りますがどうなって居りますか。待望の南京占領も立派にやってのけました。神仏のおかけで私も一線に参加しながら一度の負傷もせぬ有り難き事です。十一月二十六日頃の読売新聞に私達の中隊の事が出て居ります。一度見て下さい。どの位働いたかわかります。一生懸命に働きました。男一度の晴れ舞台と命をかけての芝居です。南京も思ったより早く落ち支那兵等の思ったよりも強いのにも驚きました。今の所南京に居ります。御正月もここではないかと思って居ります。では皆様方によろしく御伝へ下さい。早々。
(岩崎昌治より大野巳之助宛はがき・十二月十七日付・野戦郵便局)

P77



昭和12年12月17日 山口勝蔵宛はがき・南京にて

(20)南京にて皆様方の御祭さわぎを聞いて居ります。相当な苦心で、とにかくも完全に取りました。皆様の為に日本の為に、ますます元気でやって居ります。日本軍も今の所のんびりして居ります。皆様が戦勝祝をして居らるゝ時、南京では入城式。ぼろぼろの軍服で足をひきづって居るくせに、元気だ元気だと言って騒いで居ります。揚子江の河辺だけで約五千人位の人が死んで居ります。支那では「ねこ」が死人を食って居ります。其の位ですからすべては想像にまかせます。皆様も御元気で。
(岩崎昌治より山口勝蔵宛はがき・十二月十七日付・南京にて)

P78



昭和12年12月17日 山口勝蔵宛封書・南京城にて

(21)皆様御元気で何よりです。この手紙が皆様の手に入るのは御正月でせう。南京城内で今夜はしみじみ書ひて居ります。(十二月二十七日)まだ夜の十時ですから今時分は皆一生懸命で働いて居らるゝ事だろうと思って居ります。今年はどうでした。景気が良かったですか。支那は火事の当たり年です。それから死人の当たり年―。妙な当たり年でしたが南京付近は大したものです。一月一日も休んで一切れ位のもちも食ふ事が出来ると思ひます。三十日で作業(揚子江の桟橋作り)は終るから、それから付近へもち米を見つけに行って戦場風景らしいもちつきをやるつもりです。但しもち米が無ければそれで終りです。先日(二十七日)内地へ帰る人が有りましたので電話をかけてくれる様頼んで置きましたがかゝりましたか。東京青山の人だ相です。すみませんが毛糸のシャ ツ上下(コットン)送って頂き度ひのです。戸田の方に頼むつもりでしたが、丁度良い使ひ人が有ったものですから御願ひします。では呉れぐれも皆様御身を大切に。私も一生懸命に働いて居ります。では さようなら。
 山口様皆々様へ  南京城にて。岩崎昌治
(岩崎昌治より山口勝蔵宛封書・十二月十七日付・南京城にて)

P78-79



昭和12年12月27日 大野巳之助宛封書・南京城にて

(22)常州から出した手紙はついたでせうか。私も丈夫で働いて居ります。いろいろくはしい事はこの前に書きました故今度は南京城攻撃の様子を少し。私達が参加したのは十日からです。十一日未明ではものすごい砲撃で城門が見る見るうちに集中射撃を受けるのが手に取る様に見えました。私達小隊は約二粁ばかり手前の工兵学校を占領しました。敗残兵七十七名を銃殺した時は今までの仇を取った気がしました。十四日未明には完全に占領した。其の時には後から後から万歳を叫びました。皆泣きました。うれしくてうれしくてたまりませんでした。丁度子供の様にうれしがりました。今までの戦争より楽で、それで一番嬉しかった。戦が終った様な気がしました。十一日から十四日までは塩で南京米を食べました。揚子江の河岸にはざっと五六千人の死体の山と成って居ます。犬や猫が人の肉を食ふのです。ものすごく大きな犬は我々に向かって来ます。南京は全く治まり支那人も相当居ります。私達の作業は揚子江の桟橋作りです。
 お正月はゆっくり休んで又一働きする事でせう。ウイスキーを送って下さい。電気の小さいものと(電池をつけて)羊羹、靴下。手袋。まだ色々書きましたが前のは忘れました。楽しみに待って居ます。戸田と美代子から慰問袋が来ました。本所から毛糸のシャツ上下を送ってもらふつもりです。これから先を攻めるとなると寒くてやりきれません。上京の折にはうまく聞き合わせて、送って無い様でしたらおたのみします。
 では皆様方御身大切に。  さようなら。
 おぢ様
 おば様
 南京城にて。  昌治
(岩崎昌治より大野巳之助宛封書・十二月二十七日付・南京城にて)

P79-80



昭和13年1月7日 山口富美子完封書

(23)富美子、お手紙有り難う。一月五日に拝見しました。余りうまく書いて有るので分隊中で読んで見ました。丁度昔の様にランプ一つ、それも石油が少なくて、とても暗い大きな室屋に十人位がむしろをひいて寝ている所です。二度も三度も皆で読み直しては喜んで手をたたきました。
 綴り方百点、さすが女学生だけ有る。今までも数通出して有りますが着きませんか、お前に出して有るのです。戦地からは早くて一ケ月、少し延びるとニケ月性かかります。慰問袋は、戸田からと、富美子からと三個だけ受け取りました。当地は寒いですよ、まづ戦場跡の様子は映画で見るのと少しも変わらない。むしろ映画は余りひどい所は撮らないから、まづあれ以上と思って間違ひないでせう。
 上陸以来の談を少ししてみませう。キング新年号付録の美談武勇伝中の七十五頁の図を見ながら談しませう。戦友の所に来た本で一冊を皆で見合って居るのです。さあ、いいですか良く見て居て下さい。上陸したのは上海の丁度図中の上海と書いてある下に界の字が有るでせう。この辺に上陸したのです。それから宝山と言ふ所へ進んだのです。其の間が約八里有る所を重いハイノウと暑い日中歩いてとてもつらかった。まだ其の時には敵死体が道のはたに足だけを出して居るもの、頭が割れて居る者など数限り無く有りました。暑い時ですから、くさくてくさくてたまりませんでした。其の死体に支那名物の一つ金ハイが一杯たかって居るのです。そのハイが飯を食って居るとブンブン飛んで来るのです。
 初めて戦地に行った者などは、とても飯など食って居られなかった。宝山城には約二週間位居りました。当地に居て各所へ行って戦ったのです。宝山城には友軍のコレラの発生地で五百名位一日に死んだ月が有ったそうです。宝山より月浦鎮に通ずる賂は丁度雨上りでまるで田の中の様でした。話したって、ほんとうにする者は無いでせう。道路が丁度田舎の田植えをした時の田の中と同じ様でした。嘘では有りません。毎日毎日此の悪路と闘って居たのです。殷行鎮、羅店鎮と盛んに道直しに行きました。まだ其の時は弾は少なかったのです。当った者も死ぬほどの者は有りませんでした。羅店鎮からずーっと下った劉家行と言ふ所へ行った時はすごかったです。橋をかけて居ると盛んに後の方から撃ち出すので味方が間違って撃って居るものと思って、日の丸を盛んに振ったのです。
 所が味方では無くて敵だったのです。敗残兵が盛んにやって居たのです。今少しで皆殺しに成る所でした。それから皆で其の敗残兵を皆殺しにしてしまいました。
一五〇名位居りました。クリークの中へ落して頭からパンパンやって殺してしまひました。ゴ家から第九師団に配属に成ったのです。金沢の連隊で第三十六連隊、師団のフゴー八(D)九Dは九師団です。大場鎮攻撃は今までの中一番ものすごかった。南京攻撃よりもすごかった所です。小池部隊林隊は三十六連隊と共に走馬塘クリークのクの字の辺に向ったのです。大場鎮は三D(名古屋)で有りました。三Dがなかなか進めない。敵が強く進むことができないのです。だから、九Dが走馬塘クリークを渡って敵の背後をついたのです。
 敵も後をつかれまいと走馬塘クリークで抗戦したのです。そこに勇しい敵前渡河はだか勇士もここで生まれたのです。立派にやりました。死んだ気になってクリークを歩兵を立派に渡してやりました。泣きたい様な事が数限りなく有りました。其の時です。昌チャン伍長は部下分隊五名をつれて歩兵一ケ分隊(機関銃一ヲ含む)と敵の真最中に有る高さ五十米まわり二百米と言われるトーチカを取りに夜中に行ったのです。そのトーチカは味方がうまく渡河してもそこからうち出す弾の為に進めない。トーチカを取らなければどうにもならない。私を初め皆は死んだ気に成りました。もう其の時には家の事も父の事も兄弟の事も頭には有りませんでした。ただ早くトーチカを取り度い、と思って居るだけです。夜中だったので昌チャン達は畑の中を這って進みました。
 百米―五十米 まだ敵は気がつかない。気がつかれたらもうおしまい。三途の川を渡らねばならない。三十米まだ大丈夫。奴等余り日中盛んに撃った為くたびれて寝てでも居るのか、奴等にしてもまさか敵の日本兵が夜中に後から来るとは知らないらしい。畑の綿の木が、ミシミシといったら這うのをやめる。二十米、まだ大丈夫、十米気がつかない。然し時に、頭をかすめて通る敵か味方かわからない弾にヒヤリとします。トーチカの前まで行った時には思わずほっとしました。まだホッとするには早いがほっとせずには居られない。それから歩行気を揃えてトーチカの中に飛び込みました。いたいた敵がドッと飛び出して来ました。奴等も驚いたらしい。一発も撃たずに逃げた。歩兵が二人戦死しただけで立派にトーチカを取った。然し取ってもいつ逆襲するかわからぬ。歩兵は銃眼に機関銃をつけて撃ち出した。
 工兵は早く自分の隊や歩兵の入れる穴(ザンゴー)を掘らなければならない。敵前二十米一生懸命に掘ってようやく夜の明け方までには十人分の銃座ができた。味方に取ったことを知らせる為に歩兵が伝令に出た。然し十間も走らぬ中に死んでしまった。もう後から行く者がいない。十数人はこのまゝだと二日しか生きていけない。コチコチしたパンは各人四袋しかない。もう、どうにでもなれと思わぬ者は無い。でも、せっかく取ったものだ死んでも渡すものかと思っても、夕方までに連絡を取らないと大切な弾がなくなる。どうしょう。いらいらして居た時、本隊から伝令が来た。二人で来たが途中で一人はたほれたと泣いて居た。昌チャン達も泣いたよ。泣き笑いしながら、いろいろ聞いた。伝令は、「本日午後一時トーチカ前方の敵を貴官達と協力して本隊は攻撃する。弾のある限り撃ちのめせ。」と言った。
 承知、撃った撃った。うちのめした。逃げる敵を撃つのは実におもしろかった。夕方本隊から交代が来た。まだ敵弾はすごい位来る。逃げても五百米までは退かないのです。私達は交代の為に出た。出ると歩兵の一名は頭、一名は腹を撃たれた。出るに出られぬが早く帰らねばならない。まゝよ、飛び出した。幸い当らなかった。幸福だった。神様の思し召しだ。小隊長の前まで行った時、小隊全員は私達の無事で帰って来た事をむしろ不思議に思って居た。「良くやって呉れた。もう貴官等は亡きものと思って居た。良く帰って来て呉れた。」と大喜びでした。さあ、これからが大変、橋頭とある〔図中〕辺までは死ぬ苦しみ。図には有りませんが梅林部落という所では昌チャンの分隊は一度に七人やられてしまひました。一人は死にもう一人は後で死ぬ。もうさんざんでした。
 有名な蘇州河まで追ひつめて一段落と思って居た。もう戦争は終わった様な気がした。また言ひ残しましたが、走馬塘クリーク河後、工兵は前方に鉄道があるでせう。その鉄道破壊で前進したのです。河の向ふまで追ひつめて私達は一時後方に退りました。三日間休んですぐ鉄舟で渡河しなければならない。次に一寸図で示します。

或る戦いの軌跡P47

『或る戦いの軌跡』P47

 一寸見ただけではわからないでせうが、相当すごいとだけはわかるでせう。此の所で明治節の「カシ」を貰ったのです。あの位うまい「うちもの」を食った事がない。蘇州河渡河も無事ですみ、いよいよ逃げる敵を追って百も二百も橋を架けたのです。面白い話しはぬきにして、南京攻撃に一足跳びと行きませう。十日に句容は(と言ふ所より)南京から十里も手前から一夜の中に歩き通して明け方から南京攻撃に参加。この前出した手紙に書いてある故です。継ぎ合わせて見て下さい。まだまだ書きたりないが、もうこの位にしておきます。いずれ帰ったらゆっくり話します。これからいろいろと聞きます。送って下さった慰問袋は近衛に出したのですか。近衛に出したものは船が沈んで一つも来ません。この間伝言が行ったでせう。知人が支那から帰るので電話で話して呉れる様たのんであったのです。
  私への手紙は航空だと一週間きりかゝりません。今度は少し高いが航空便にて送って下さい。工場の人は皆元気ですか。たまには手紙をくれと、お前から言って呉れ。この手紙を読んでしまったら田舎の清様に送ってやって下さい。広木様でもすーちゃん芳ちゃん元気でせうか。ついでに、よろしくと。
  では皆様元気に  さようなら
  十三年 一月七日  南京にて
  山口富美子様  昌治
  手紙ドシドシ下サイ
  マチドウシクテナラナイ
(岩崎昌治より山口富美子宛封書・昭和十三年一月七日付)

P43-50



昭和13年1月7日 岩崎清宛封書

(24) 清よ。お手紙有り難う。戦地では内地からの便りが一番楽しみです。この手紙がお前の手に入るのは二月頃の事でせう。忠治の入営も無事ですむ様祈って居ます。山梨県甲府徳永部隊田中隊だ相だね。戦地から田中仲隊長に手紙を出しましたから、お前から忠ちゃんに言ってやって下さい。忠ちゃんにも出しました。小生も家の事は心配無し一生懸命に働いて居ります。東京の富美子へ詳しく書きましたからそれを見て下さい。相当な苦しみもまだまだ若い私には何でも有りません。富美子からの手紙に、林隊三名残りで全滅と言ふ新聞が出た相ですね。大笑ひしました。苦戦は重ねましたが、まだ三名きりにはなりません。この前に詳しく書きました故この辺でやめておきます。新聞を時々送って下さい。内地の様子を少しでも知り度いと思ひます。それから各国の動き、この事変の見通し、等知って居る限り知らせて下さい。
 忠ちゃんは入営したし、小生は戦地だし、家にはお前一人に成るが孝治とよく相談をして一生懸命に孝養たのむ。俺の事は一切心配無用。成る様にしかならない。然しどんな事があっても理性だけは失なはないから此の点安心して呉れ。小塩様へもよろしく。役場へも出そうと思って居るがなかなか書く事が出来ない。和田重さんにもよろしく。此の間小塩美代ちゃんから小学校として慰問文をもらった。私の方からもいろいろ書いて返事を出して居るがまだ着きませんか。家へも十本位出してあるのですが半分も着かないらしい。
 では此の位で又此の次に 家中の者によろしく。
 一月七日  兄より
 清様
(岩崎昌治より岩崎清宛封書・一月七日付)

 前略
 上陸以来の談を少しして見ませう。キング新年号付録の美談武勇伝の図中に入って話しませう。
 上陸したのは上海の丁度図中の上海と書いてあるその下祖界の字が有るでせう。この所に上陸したのです。また上陸した時は暑かったのです。それからすぐ黄溝溝江の入口に呉松という所へ向かって進んだのです。それから宝山と言ふ所へ進んだのです。其の間が八里位有る所を重いハイノウと暑い日中歩いてとてもつらかった。未だ其の時には敵の死体が道の端に足だけ出して居るもの頭が割られて居る者など数限り有りました。暑い時ですからくさくてくさくてたまりません。其の死体に支那名物の金蝿がいっぱいたかって居るのです。其の蝿が飯を食って居るとぶんぶん飛んで来るのです。初めて戦地に行った者などはとても飯など食って居られなかった。宝山に二週間位居りました。当地に居て各所へ行って戦ったのです。宝山は友軍のコレラの発生地で五百名位一日に死んだ日か有ったそうです。宝山より月浦鎮に通づる路は丁度雨上がりでまるで田の中の様でした。話したって本当にするものは無いでせう。道路が丁度田舎の田植時の様でした。嘘では有りません。毎日毎日この悪路と闘って居たのです。殷行鎮羅店鎮と盛んに道直しに行きました。まだ其の時は弾は少なかったのです。当って死んだものは有りませんでした。羅店鎮からずーと下った劉家行と言ふ所に行った時はすごかったのです。橋を架けていると後から弾をどんどんうち出す。味方が間違って撃っていると思って日の丸を盛んに振ったのです。ところが味方ではなく敵だったのです。敗残兵が行ったのです。今少しで皆殺しになる所でした。それから皆で其の敗残兵を皆殺しにしてしまいました。一五〇名位居りました。クリークの中へ落して頭からパンパンやって皆殺しにしてしまひました。
 ゴ家宅から第九師団に入ったのです。金沢の連隊で三十六連隊。大場鎮攻撃は今までの中で一番すごかったのです。南京攻撃よりもすごかった所です。林隊は三十六連隊で南口走馬塘クリークに向ったのです。大場鎮は三師団が向ったのです。所がなかなか進めない。敵が強くて進む事が出来ないのです。だから、九師団が走馬塘クリークヘ橋をかけて後からついたのです。敵は後をつかれまいと走馬塘クリークで戦ったのです。そこに勇ましい敵前渡河。はだか勇士もここで生まれたのです。立派にやりました。死んだ気に成ってクリークを歩兵を渡してやりました。その時です。昌チャン伍長は部下五名をつれて歩兵一ケ分隊と敵の最中に有る高さ五十米周囲二百米と言はれるトーチカを取りに行ったのです。其のトーチカは味方がうまく渡河してもそこから撃ち出す弾で進めない。トーチカを取らなければどうにも成らない。私をはじめ皆死んだ気に成りました。其の時は父の事も兄弟の事も頭に有りません。ただ早くトーチカを取りたいと思って居ただけです。夜中だったので昌チャン達は畑の中を這って進みました。百米、五十米敵はまだ気づかない。気が付かれたらもうおしまい。三途の川を渡らなければならない。三十米、大丈夫奴等余り日中盛んに撃ってくたびれて寝てでも居るか。奴等にしてもまさか日本兵が夜中に後から来るとは知らないらしい。畑の綿の木かミシミシといったらハッとして這うのをやめる。二十米、まだ大丈夫、十米、まだ気がつかない。然し、時に頭をかすめて通る敵か味方か弾にひやりとします。トーチカの前まで行った時は、思はずほっとしました。まだ気をゆるすには早いがほっとせずには居られませんでした。それから歩兵工兵気をそろへてトーチカの中へとび入りました。奴等もおどろいたらしい。一発も撃たずに逃げた。歩兵二名の戦死のみで立派にトーチカを取った。然し、取ってもいつ逆襲があるかわからない。歩兵は機関銃を撃ち出した。工兵は早く歩兵の入るザンゴーを掘らなければならない。敵前二十米、一生懸命掘った。明方までにやっと十人分位の銃座が出来た。味方に取った事を知らせる為に歩兵が伝令に出た。然し、十間も行くと死んでしまった。もう後から行く者が無い。十数人はこのまゝだと二日しか生きていけない。コチコチしたパンは各自四袋しか無い。もうどうにでも成れと思はぬ者は無い。せっかく取ったのだ死んでも渡すものかと、夕方までの連絡が無いと大切な弾が無くなるどうしよう。いらいらして居る時本隊から伝令が来た。二人で来たが途中で一人はたおれたと泣いていた。昌チャン達は泣いたよ。泣き笑ひしながらいろいろ聞いた。伝令は「本日午後一時より本隊は貴官達と協同して前方のトーチカを攻撃する。弾の有る限り打ちのめせ。」と言った。撃った撃った。うちのめした。逃げる敵を撃つのは実に面白かった。夕方本隊から交代が来た。まだ敵弾はすごくくる。逃げても五百米までは退かない。私達は交代の為に出た。出ると歩兵の一人がすぐにやられた。出るに出られない。早く帰らなければならない。まゝよととび出した。幸ひ当らなかった。幸福だった。神様の思召しだ。小隊長の前まで来た時全員はむしろ私達が無事で帰った事を不思議に思ったくらい。「良くやってくれた。自分は貴官等はもう亡きものと思っていた。良く帰って来てくれた。」と、大喜びでした。さあ、これからが大変梅林部落という所では昌チャンの分隊は七人も一度にやられた。二人戦死。もうさんざんでした。百名で蘇州河まで追いつめて一段落と思って居た。もう戦は終ったやうな気がした。走馬塘クリークの渡河後工兵は前方の鉄道破壊で前進したのです。河の向ふまで追ひつめて私達は一時後方へ退きました。三日休んでまたすぐ鉄舟で渡河しなければならない。相当すごかったのです。此の所で明治節の「うちもの」を食った時はうまかった。
 蘇州戦も無事ですみ、いよいよ逃げる敵を追って百も二百も橋をかけて面白いでした。南京攻撃に行きました。十日に句容は南京より約十里、一夜のうちに歩きとほして明方から南京攻撃に参加しました。この前の手紙で一度出して居るのです。
 後略
(岩崎昌治より岩崎清宛封書・一月七日付・南京にて)

P51-56




参考資料

  • 岩崎稔『或る戦いの軌跡』(近代文藝社、1995年)