第16師団 その他
そ の 他
・成友藤夫・少佐  第6師団 歩兵第45連隊 第2大隊・長 手記『追想』
・高城守一・??  第6師団 輜重兵第6連隊 小隊長  証言
・吉田庚 ・?? 第13師団 歩兵第58連隊 第1大隊 『軍馬の思い出---一輜重兵の手記』
・井出純二・軍曹 飛行第8大隊付き陸軍航空兵 投稿文「私が目撃した南京の惨劇」

 
・住谷盤根・従軍画家 第3艦隊「安宅」乗艦 回想記
・佐々木元勝 野戦郵便局長 陣中日記
・下村源治郎氏が一軍曹(敗戦時6年兵)から受け取った 手紙
・矢次一夫 『昭和動乱私史』上巻
・阿南惟幾 人事局長のメモ



成友藤夫氏 手記『追想』 証言による南京戦史(6)
第6師団 歩兵第36旅団 歩兵第45連隊 第2大隊 大隊長

14日、南京攻略最後の日である。
(中略)
途中、敵の抵抗をうけることもなく下関に到着すると、中国兵が広場一杯に溢れている。悉く丸腰である。幹部らしいものを探しだして集合を命ずると、おとなしく整列した。その数五千〜六千名、腰をおろさせて周囲を警戒すると、これからどんなことをされるかと思ったのであろう。おどおどした表情の者が多かった。
(中略)
かれこれしているうちに、城内から第十六師団が進出してきた。また、江上には数隻の駆逐艦が遡航してきた。威容堂々と碇泊し、その乗組員の一部が上陸してきた。折りから、”江東門に下がって宿営すべき”聯隊命令に接したので、第十六師団に申し継いで後退した。

『南京大虐殺の証明』P139-140



高城守一氏 証言
創価学会青年部反戦出版委員会編『揚子江が泣いている』
「戦争を知らない世代達へ」53 熊本編 1979年 第三文明社 P95
第6師団 輜重兵第6連隊 小隊長

(十二月十四日、佐々木支隊の戦闘の後を目撃して)
波打ち際には、打ち寄せる波に、まるで流木のように死体がゆらぎ、河岸には折り重なった死体が見わたす限り、累積していた。それらのほとんどが、南京からの難民のようであり、その数は、何千、何万というおびただしい数に思えた。
(中略)
私は、これほど悲惨な状況を見たことがない。大量に殺された跡をまのあたりにして、日本軍は大変なことをしたなと思った。

『南京大虐殺の証明』P135



吉田庚氏『軍馬の思い出----一輜重兵の手記』 1979年「軍馬の思い出」刊行会 P68-69
第13師団 歩兵第26旅団 歩兵第58連隊 第1大隊

(12月13日頃のこと)
本日、原隊へ連絡に行きし上等兵二名の一日も早く帰えらんことを希う。捕虜惨殺の実験談を聴く。連日実施されつつありと。
(中略)
二,三日中に原隊へ連絡に行きし上等兵の帰着を待って南京を出発することとす。準備も完了している気安さから噂に聞く下関埠頭の捕虜銃殺現場を検分する。街側堤防脚部に監視兵に取囲まれた多数の捕虜うごめき、二十名提上に整列させ、半数は揚子江に面 して半数は裏向きとして、前向き十名は桟橋に駆足行進、濁流に投身せしむるのである。強行溺死の処置であるが、生還せんとするものまたは逃げんとせし者は、数名の歩兵が膝撃の構えで射殺する。終ると、残る裏向き十名が前向けに替わり、終れば提脚部から二十名整列、これを繰返すのである。鮮血河流を紅とす。嗚呼惨たる哉、巳むを得ざる処置なる哉。江上に浮上する我が駆逐艦上より二,三発飛弾水面 につき刺す。流弾的をはずるれば友軍に危害を招く恐れあり。桟橋上と提上の歩兵が怒号して中止せよと叫ぶ。漸く止みたり。海軍の面 白半分の行動である。上流に向かって堤防を行く。川面側の提下には、到る処正規兵の死体と銃器、弾帯、鉄兜散乱し、逃げかねて濁流に流されしものも多数あらん。

『南京大虐殺の証明』P146

※下関の出来事なので、この実行部隊は第16師団の部隊と思われる



井手純二氏 投稿文「私が目撃した南京の惨劇」 増刊『歴史と人物』1984年12月号
飛行第8大隊付き陸軍航空兵 軍曹

 私は”血の桟橋”と名づけた。鉄橋の手前で、収容所から運ばれてきたらしい二十人ばかりの中国人捕虜がトラックから降ろされ、江岸へ連行されて行く。釈放するからと偽って連れてきたのか、みんな大きなフロシキ包みをかかえ、厚い綿入りの冬服を着ていた。軍服姿は見当らなかったが、二十,三十歳代の男が主で、坊主刈りが多いので、便衣兵かなあと眺めていた。江岸まで二〇〇メートルもあったろうか、道路のカーブを曲ると、江岸の斜面 から水際にかけて処刑された死体がゾロゾロと重なっている。追い立てられてよろよろと歩いてきた捕虜たちは気づいて動揺したようだが、ここまで来ると、もう逃げ道はない。
(中略)
さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用のダンベラを振りかざす者もいるが、捕虜はおとなしく坐りこんでいる。それを次々に斬って、死体を水面 にけり落としているのだが、ダンベラは粗末な新刀だから斬れ味は悪い。一撃で首をはねることができるのはかなりの名人で、二度、三度と斬りおろしてやっと首が落ちるのが大多数だが、念入りにやるのも面 倒くさいのか、一撃して半死半生のままの捕虜をけり落としていた。
(中略)
その後もう一度同じような処刑風景を見たが、別の日に江岸で数人の兵が指さしながら見物しているので、”何ですか”と聞いてみると、十数人の捕虜を乗せた舟を揚子江の中流まで漕ぎ出して捕虜を突き落し、舟の上から機銃で射ち殺しているところだった。その前後、江岸にたまった死体を工兵隊らしい連中が、舟の上からさサオとカギを使って流しているのを目撃して、カメラに収めた。

『南京大虐殺の証明』P145

※下関での出来事なので、この実行部隊は第16師団の部隊と思われる



住谷盤根氏 回想記 雑誌『東郷』1983年12月号 証言による南京戦史(11)より
第3艦隊「安宅」乗艦 従軍画家

 興中門近くに戻ってきた時、列をつくってゾロゾロと不規律に歩いて行く人の群を見た。これは中国民衆の着る服装ばかりで、日本の陸軍の兵士が点々とこの列を守りながら興中門の方へ歩く。私はこの列を追い越して興中門をくぐって下関碼頭に着き、安宅へ戻った。
(中略)
 私も、中尉に従って士官室を出て舷門を降りて、下関碼頭を左の方へ行って、江岸の鉄の垣根(手すりの低い柵)のところへ行った。道路の右側に捕虜が五人ずつ縛られて、ずっと遠くまで並んでいるようだが、夜の暗がりでよく見極められない。
 陸軍の兵士が、その五人を鉄の垣根のことろへ連れ出し、江に面して手すりに向こうむきに並ばせては、後ろから銃剣で突き刺すのである。その様子は、とてもまともには見ていられない。海軍中尉も、この様子を見て「とても後ろから斬りとばすことはできない」とやめてしまった。私が懐中電灯で照らすので「その電灯は離れないと返り血を浴びる」と陸軍兵に言われたので、これを潮時に中尉と二人で安宅に帰った。
 夕方暗いなかを陸軍兵に連れられてきた中国人捕虜の数は約千人足らずと見た。他にも捕虜があったのではないかとも考えたが、ともかく何万という捕虜は、南京に関する限り、あるはずがないことは確実である。

『南京大虐殺の証明P144

※下関での出来事なので、この実行部隊は第16師団の部隊と思われる




野戦郵便局長(佐々木元勝陣中日記) 証言による南京戦史(9)

 夕靄に烟る頃、中山門を入る前、また武装解除された支那兵の大群に遇ふ。乞食の大行列である。誰一人可憐なのは居ない。七千二百名とかで、一挙に殺す名案を考究中だと、引率の将校がトラックの端に立乗りした時に話した。船に乗せ片付けようと思ふのだが、船がない。暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか・・・・

『南京大虐殺の証明』P300

 麒麟門で敗残兵との一戦では、馬群の弾薬集積所で五名の兵が、武装解除した二百人を後ろ手に縛り、昼の一時頃から一人づつ銃剣で突刺した(ここは聞き書き----洞富雄氏注記)。
(中略)
夕方頃、自分で通つた時は二百名は既に埋められ、一本の墓標が立てられてあつた。
(中略)
これは吉川君が実見したのであるが、わが兵七名と最初暫く応射し、一人(女)が白旗を振り、意気地なくも弾薬集積所に護送されて来た。女俘虜は興奮もせず、泣きもせず、まつたく平然としてゐた。服装検査の時、髪が長いので”女ダ”といふことになり、裸にして立たせ、皆が写 真を撮った。中途で可愛想だというので、オーバーを着せてやつた。殺す時は、全部背後から刺し、二度突刺して殺した。俘虜の中に朝鮮人が一名、ワイワイと哀号を叫んだ。俘虜の中三人は水溜りに自から飛び込み、射殺された。

『南京大虐殺の証明』P301



下村源次郎氏が一軍曹(敗戦時六年兵)から受け取った手紙

 九二式7.7ミリMG(重機関銃----洞富雄氏注記)二挺で、四列の概算三、〇〇〇人ほどの丸腰の俘虜を揚子江の方に歩かせて射殺していたのは(今文通 中の方、T四年生まれ、S12頃軍曹)事実なのです。
 此の方が完全占領二時半頃(知人あての前便では「十二月十四日二三時三〇分、完全占領後、深夜二時頃」とある由----洞富雄氏注)、つまり暁方の?月光白昼の如く?明るい夜中(十七日が満月----洞富雄氏注記)に実施していて驚き、声もなく、少佐の同伴の人と少時この現場を見たそうで、その数二、〇〇〇から五、〇〇〇?の間と想うと申されております。
 大阪K馬第四(騎兵第四連隊----洞富雄氏注記)、この下士官で占領直後の城内をかなり歩き廻っておられます。確かに殺す目的でその兇行を尉官二名、、下士四名、兵三〇名で警戒しつつ行っていた偶発事故ではないと申しており、しかし一〇、〇〇〇人も殺している模様でなく、三〇万なんてとんでもない。長江に射弾をまぬ がれて泳ぎ出す者も多かったが、MGの据座を動かして追射なんてするひまもなかったのか、逃げた者はその儘であったと申されております。
 上よりの命令でやむなく行為している様子がアリアリ看取で来たそうで、どこの隊ですかと訊ねられる雰囲気でなかった、直接指揮の将校(下級)も厭々仕方なくの空気であった、とこの人の回想談です 。

『南京大虐殺の証明』P142-143

※揚子江畔での出来事なので、この実行部隊は第16師団の部隊と思われる



矢次一夫『昭和動乱私史』上巻(1971年、経済往来社)P343

 屍臭といえば、これの一番ひどかったのは、下関を通過したときであった。私が、ハンカチを出して鼻を押さえたのを見て、中原大佐が、この辺が一番戦さの激しかったところだと言い、いま通 っている道路の下には、何万と数知れぬ中国兵の屍体が埋められている、とも言い、この辺で戦死した中国人は、十数万と伝えられているほどだと言う。南京陥落の末期、雪崩を打って敗走する中国軍隊に対し、日本軍は、空からと、揚子江上の軍艦からと、陸上の三方から、砲爆撃と、機銃掃射とで大殲滅戦を敢行したので、文字通 り屍山血河だったらしい。しかしその後始末が大変で、十数万の屍体というものは、焼くにせよ、揚子江に捨て流しにするにせよ、さらに地下に埋めるにしても、並大抵の働きでは出来ない。だから、この地下には、おそらく七,八万以上の屍体が埋められいると考えられるが、いくら穴を掘っても掘り切れるものではないので、自動車が通 るとき、ふわ、ふわっとしていたのは、そのせいですよ、と言う。私は、かつて関東大震災のとき、本所被服廠跡に焼死した二万余の屍体を見た経験があるだけに、その四,五倍に及ぶ屍体の山というものに、いくらか見当がつくような気がするし、中原大佐の話だけで、凄惨の状況が想像し得られて、慄然としたものである。

『南京大虐殺の証明』P148



阿南惟幾人事局長のメモ (阿南資料・12月22日)

 中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり

秦郁彦『南京事件』P172



参考資料

  • 『南京大虐殺の証明』洞富雄、朝日新聞社
    (1986年3月5日第1刷)
  • 『南京事件』秦郁彦、中央公論社
    (1986年2月25日初版、1998年9月20日19版発行)