部隊別資料
第16師団 司令部
 
【  目 次  】

 
第16師団




中島今朝吾日記
なかじま けさご=第16師団長・陸軍中将

十二月十三日 天気晴朗

(中略)
◎捕虜掃蕩
一、十二日夜仙鶴門堯化門付近の砲兵及騎兵を夜襲して甚大の損害を与へたる頃は敵も亦相当の戦意を有したるが如きも其後漸次戦意を失ひ投降するに至れり
一、十二日夜湯水鎮附近にも敗残兵の衝突ありたりとて軍司令部衛兵、警備中隊が戦闘したりとて師団輜重の通 行中、弾薬補給を要求せられたりと云ふ
一、宮殿下の御身辺を警護するの必要を感じたるを以て参謀長は一−二中隊を増派せんとして之を軍参謀長に打合せしめたるに既に
第九師団より歩兵一こ聯隊を出したりと云ふことを聞けり
己れの作戦地境内にあらず又第九の隊は第十六の隊より近きにあらず敗残兵に対する目的を以て歩兵一コ聯隊を派遣したる人の心の底は真に同情に値するものあり依りて我方は手を引きたり
一、此日城内の掃蕩は大体佐々木部隊を以て作戦地境内の城門を監守せしめ草場部隊の二大隊を以て南京旧市より下関に向かつて一方的圧迫を以て掃蕩せしむこととせり
一、然るに城内には殆んど敵兵を見ず唯第九師団の区域内に避難所なるものあり老幼婦女多きも此内に便衣になりたる敗兵多きことは想察するに難からず
一、中央大学、外交部及陸軍部の建築内には支那軍の病院様のものあり支那人は軍医も看病人も全部逃げたらしきも
 一部の外国人が居りて辛ふじて面倒を見あり
 出入禁止しある為物資に欠乏しあるが如く何れ兵は自然に死して往くならん
 此建築を利用せるは恐くは外人(数人あり)と支那中央部要人との談合の結果 なるべし
 依りて師団は  使用の目的あれば何れへなりと立退くことを要求せり
 又日本軍が手当てすることは自軍の傷者多き為手がまわり兼ぬるとして断りたり
一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて至る処に捕虜を見到底其始末に堪へざる程なり
一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたるも千五千一万の群衆となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失いゾロゾロついて来るから安全なるものの之が一旦騒擾せば始末に困るので
  部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ
 十三日夕はトラックの大活動を要したり乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず  斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり
一、後に至りて知る処に拠りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る
一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百二分割したる後適当のカ処に誘きて処理する予定なり

一、此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従つて師団は入城だ投宿だなど云う暇なくして東奔西走しつつあり
一、兵を掃蕩すると共に一方に危険なる地雷を発見し処理し又残棄兵器の収集も之を為さざるべからず兵器弾薬の如き相当額のものあるらし
 之が整理の為には爾後数日を要するならん

『南京戦史資料集1』偕行社 P219〜220




16師団司令部副官 宮本四郎の遺稿 証言による南京戦史(5)より

 城内進入体制が整った午後3時頃であったと思う。歩兵の下士官が後方からやってきて、敵一万がやってくるから、至急増援の兵を出してくれという。どうして後方に歩兵一ヶ中隊がいたか判らないが、恐らく佐々木支隊が下関に突進している時、遠くに分遣されて遅れたのであろう。
(中略)
その時、師団には手持ちの兵力はなかった。どうにも手当ての方法がない。仕方がないので衛生隊の武装兵を出す準備をしていると、再び後方から伝令が来て「敵は全部捕虜になった」という。
(中略)
参謀長に指示をうけようとしたが、参謀長は即座に「捕虜はつくらん」と言われたので、後方参謀に話した。暫くすると、紺色の服をきた捕虜が、四列縦隊でゾロゾロやってきた。司令部は少し高いところにあったので、その縦隊の長がわかった。二キロぐらい後方の森から続いている。森の背後のことは判らないが、続々と森からで出てくる。一万という報告は嘘でなかったと思った。これらはみんな報告に来た中隊が護送して、とにかく城内に向かった。戦意を失い、指揮系統をなくした軍隊は情けないものである。僅か百五十名ぐらいの一コ中隊に降伏したのである。この降って湧いたような捕虜は、どこから来たのであろうか。揚子江南岸に鎮江という市街(南京東方約六十キロ)があるが、街の近くの高地には恰好の陣地が構築されていた。第十三師団がこの敵を攻撃していたが、その時機にはわが師団は既に南京を包囲していた。鎮江の敵は退却して南京に入るつもりであったのが、南京は既に日本軍に包囲され、硝煙天を覆う情景を見て、帰るところがない浮き草となったのであろう。

洞富雄『南京大虐殺の 証明』朝日新聞社 P132〜133




小原立一日記
第16師団 経理部 予備主計少尉

十二月十四日

(中山門外にて)
最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人づつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す・・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ。外に二千名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にさげながら突き殺す兵がいた

秦郁彦『南京事件』中公新書 P121