第16師団 歩兵19旅団
△歩兵第20連隊
・衣川武一(第1大隊) 回想記
・牧原信夫上等兵(第3機関銃中隊) 陣中日記
・森王琢大尉(第3大隊) 投稿文

参考資料



衣川武一氏 回想記(田中正明『南京大虐殺の虚構』P195より)
第16師団 歩兵第19旅団 歩兵第20連隊 第1大隊所属
 われわれの取扱った捕虜約二、〇〇〇のうち、帰順を申し出る者は、若干の米麦と白旗を持たせて帰郷させた。年末ごろまでに半数が帰順し、半数は使役として働かせた。腕章をつけて食料の運搬や炊飯などさせた。中山門の内側の土嚢の中に米麦の麻袋があり、わが部隊は大助かりであった。が、水と燃料には苦労した。これらは捕虜の使役により補うことができた。

『南京大虐殺の証明』P138



牧原信夫日記
まきはら のぶお=歩兵第20連隊 第3機関銃中隊・上等兵

十二月十三日

 十三日の夜は明ける。今日で西山高地に於ける陣地を撤退し午前五時此の高地を出発、南京街道上に出る。途中敵の遺棄死体や手榴弾及び小銃弾が無数に捨てられて居る。午前一時十一中隊将校斥候が出発す。十二中隊の将校斥候は西山下の三叉路に於いて敵の地雷にひっかかり三名即死、六名負傷したと言う話も有った。
 道々には地雷の堀おこした穴が幾つものぞいて居る。又敵が敵の地雷にひっかかって無惨にも手足はとびて真黒になり四名死んで居た。大隊は一旦城門に進む手前四百位 の所にある貴族学校にて朝食をとり、八時過ぎ出発し城門手前百米位の土提に依り休憩する。話によると攻城砲の破片が三百米も後方までとんで来たと言う事だ。新聞記者も続々嬉しそうに自動車或は徒歩にて入城す。午前十一時昼食を貴族学校にて終り中山門に向かう。大隊は師団の予備隊となり一時兵力を西山山麓に集結(大きな建物が有ったが名は忘れる)、今晩は此地で一泊に決す。九中隊は柴金山の残敵掃討、十二中隊は当部落並に附近の警戒に当る[MG1ヶ分隊協力]。MG、大隊砲は大隊主力に離れてまづしい家に泊まる。此の家の中には馬が死んで居た。支那人苦力は熱心について来る。隊長訓示。連日に渡る悪戦苦闘諸子は御苦労であった。光輝ある軍旗に一層の光輝を添えた。終り。
 戦車隊も九時頃掃討に協力出動した。昼頃より大小行李も盛んに入城す。
十二月十四日
 午前七時起床す。午前八時半、一分隊は十二中隊に協力、馬群の掃討に行く。残敵が食うに食が無い為ふらふらと出て来たそうで直ちに自動車にて出発す。而し到着した時には小銃中隊にて三百十名位 の敵の武装解除をやり待って居たとの事、早速行って全部銃殺して帰って来た。昨夜は此地の小行李を夜襲し、小行李も六名戦死して居た。
 午後二時大隊は岔路口に残敵掃討に行く。何でも五、六百現れた為師団命令に依り二時半屯営地出発す。行程約七里ある鉄道線路に沿ひて揚子江の方に向かう。海軍部隊もトラックで看護兵が若干来て居た。その兵隊が言う、今度は陸軍はやすんで居て呉れ、海軍が英国をやってしまうから、と力んで居た。岔路口手前約一里半の所で九中隊は一ヶ分隊の兵力で約一千八百名からの支那軍を連れて帰るのに出会った。敵は食うに食なくふらふらして居たのも可愛想であった。亦鉄道線路の沿道にはあちこちに敵遺棄死体が転って居た。又鉄道線路すぐ岐れ目の所に百余りもの支那軍が友軍の騎兵の夜襲を受け全滅していた。
 此の地で約三十分休憩す。手榴弾、小銃弾、拳銃弾、風変りな鍋、書類、衣服、ちゃわん等が所せまきまでうっちゃられて居た。午後六時同村に到着、死骸の有る地から此所迄は全て地雷が多く埋められ危険千万だ。或る時は友軍の自動車がひっかかり、亦敵が敵の地雷にひっかかって、三名位 ちりぢりばらばらになり彼等の着物の一部が電線にひっかかって居るのもあわれだった。亦六名の敗残兵を捕えて銃殺す。直に部落の掃討をやったが、唯の一名も居なかった。食事を準備し約二時間休憩して帰途に就く。途中至る所に地雷が埋められ工兵隊が掘ったと言う。もしか一発でものこって居ては一大事だ。幸い無事だった。今一つ異風景は或る部落の車庫に敵が百五、六十名油をかけられて焼かれて死んで居た。而し今僕達はいくら死体を見ても少しも何とも思わなくなった。
 午後十一時五十分無事到着す。
 戦場心理なり 。
(略)
十二月十七日
 連隊は軍の南京入場の為に南京に帰還す。右縦隊は昨夜南京に帰還した。左縦隊は午前八時半謝塘を出発、部落通 過毎に火をつけて帰る。行軍序列は十二1/3,12小銃、MG、BiA、通 信、1/3十二の序列なり。
 十時半、三十分間の野菜徴発が許され、各中隊は徴発に出る。自分も勿論行く。歩兵学校にて昼食を取り、一時間半の後出発す。中山門のすぐ手前の所にて宮殿下が入れられる為一時通 行禁止となり、その後各中隊毎に南京市に帰る。宿舎に着くと同時家からの手紙を受取りて大変嬉しかった。今夜も二,三ヶ所火事があった。[便衣兵の放火によるもので、夜は外出禁止]

『南京戦史資料集1』P405-407



森王琢氏(陸士43期) 投稿文 証言による南京戦史(番外)
第16師団 歩兵第19旅団 歩兵第20連隊所属

 小生は12月17日(不確実)に城外掃蕩に於て約二千の捕虜を誘導して(敗残兵のみならず住民も居たかと思います)之を収容所(竹矢来で囲ってあった)に引渡しましたが”、師団長の方針に違反した”等と言われた事はありません。

『南京大虐殺の証明』P138



参考資料『南京大虐殺の証明』洞富雄、朝日新聞社
(1986年3月5日第1刷)

  • 『南京事件』秦郁彦、中央公論社
    (1986年2月25日初版、1998年9月20日19版発行)