第16師団 諸部隊

■第16師団諸部隊

▼輜重兵第16連隊

小原孝太郎 輜重兵第16連隊 輜重特務兵

陣中日記
十二月十五日
  山の向ふの空高く、アドバルーンが二つ浮いてゐる。遠いから時々見失ふことがある。どうもあのあたりが南京らしい。その中、一通り山を越えて、少し平らかな所に村があった。そこに驚くべき光景にぶつかった。竹矢来で囲まれた広場の中に、無慮二、〇〇〇人の捕虜が我軍の警戒裡にうようよしてゐるのだ。これには驚いた。後で分ったのであるが、これは南京攻撃に於てこれだけの捕虜があったのだと。話によると、約七〇〇〇人の捕虜があったさうだ。彼等は白旗を掲げて降参したのを武装解除させたものである。中には勿論戦闘中捕虜になったのもあり、色々だ。彼等の中には支那服を軍服の上に着て、カムフラージュしてゐるのもあると。そこで一応しらべて、銃殺なり使役に使ふなり解放するなりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の屍体が山のやうになってゐるさうだ。南京は七分通り片が付いたらしい。
『日中戦争従軍日記』P134

十二月十七日
 捕虜が来た!!一昨日見たあの村にゐた捕虜だ。銃剣つけた一個小隊位の兵の間に挿まれて、くるはくるは、数知れずくる。駆けてゐって聞いてみたら、約四〇〇〇人の捕虜だといふ。みんな三三や三八や二〇聯隊が此の方面の戦闘で捕へたものであると----。これを護衛していゐるのもみなそれ等の聯隊の兵隊さんなのだ----。こんなもの連れていって何するのだろうか----、南京へ行くのだろうか----、みな銃殺だといふ者もあるし、南京で使役に使ふのだといふものもある----。要する〈に〉わからないが、捕虜は二〇、〇〇〇人あったのが、これだけに処分したのだといふ事である。
『日中戦争従軍日記』 P137

十二月二十四日
  さてこっち側の港には、今や軍用船から、内地から送られた荷物をチャンが何百人と列を作って桟橋から陸へ運んでゐる。此のチャン公は、先般湯水鎮のこっちの村で見た敵の捕虜をこうして使役に使ってゐるのだ。四〇〇〇人もあそこだけでゐたのだから、捕虜を使役に使ふたら使ひ切れない位ゐるだろう。
『日中戦争従軍日記』 P142

『日中戦争従軍日記』 (江口圭一・芝原拓自編 法律文化社 愛知大学国研叢書 1989年)

※本資料はKOIL氏からご提供を受けました。有り難うございます。

 

参考資料

  • 『日中戦争従軍日記 一輜重兵の戦場体験 (愛知大学国研叢書1)』小原孝太郎著、江口圭一・芝原拓自編、法律文化社
    (1989年)